東方紫陽花考   作:氷川蛍

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棋譜と賽子

「こらー!! 汚い足をいれるなよー!! 魚が逃げちゃうだろ!!」

 

 大きめの岩が両岸を埋める小川の中でも、腰の乗り心地がよさそうななだらかな曲線の石から裸足の足を突っ込んだ妖怪に橙は大声で怒鳴った。

見てくれ良さげな赤色の高下駄、背中に引っかけていた小楯と腰に結わえた刃振りの大きな太刀、顔こそ人なつっこそうな丸目だが、武器を持つ妖怪は普通じゃない。

それを理解したのは声を挙げてから、相手と目が合ってしまった後の事だった。

 

「足……足入れると……魚が逃げるだろ……」

 

 妖怪なのに武装している……怒鳴った威勢が喉に落ちていく。下がる目線の小さな橙に対して、足を濡らしていた椛は怪訝な目を向けると、抑揚のない声と抜けるため息で返事した。

 

「ここ、魚なんかいないぞ」

「えっ?」

 

 濡れる事を嫌って、上着のボロを脱ぎ腕まくりで、手だけ肌を晒していた橙は、驚きで水面の反射を目で追うと。

 

「いっ……いないの? ここ?」

 

 転がったまま自分を見ている妖に聞き直した。

白銀の髪、頭襟を落とさぬように頭を押さえた妖怪は、見てわかるような動作で匂いを確かめると、鼻筋に小皺を寄せて。

 

「お前、化け猫だよな? なんでそんな事も解らないんだ?」

「ネコって、ネコだけど……何が?」

 

 椛は、顔を起こし背中を逆弓に伸ばす、口から疲れの重い息を吐き出すと、小さな化け猫に小川の先、流れの元である大峰を指差した。

 

「この川の元は、大峰である妖怪の山の奥に繋がってる。山の奥から出る水は所によってお湯が出るんだ。だから冷たくないだろ、ここ。そんなところに住む魚なんかいないだろ」

 

 バカにした口調ではなく、落ち着いた説明。

椛は正直な話し喧嘩をしたくなかった。ここに来たのは哨戒で疲れた足をほぐすためであり、珍客が居たからといっても、自分よりも遙かに弱そうな化け猫ともめる気力がなかった。

疲れを見せるように顔や目に現しつつ、騒がしそうな相手に教えた。

 

「いても、ここから上にある溜まり場にいる温泉魚だけだぞ」

「温泉魚? 何それ、食えるの?」

「……食べられるのかな、自分は食べたことないな……」

 

 聞いた事もない魚に耳を立てた橙、食えるのか? という思わぬ切り返しに椛は少々呆れていた。

良くみれば、見窄らしいと通り越した汚い姿。跳ねっ返りの短い茶髪に耳の先までドロで汚した顔。

人間の大人が着る身丈の服に、枯れ葉を突っ込んで暖をとるという古典的かつ衛生感のない様相と……鼻の敏感な椛にはきつい臭。

風下でなかった事が救いと顔を背けながら。

 

「体洗いに来た訳じゃないんだな……魚食いたいのか?」

「なんで体? 体は別に問題ないよ……それより魚食べたいよ、腹、減ってるもん……」

「だったらもっと下流にいけよ、鯉と鮒とかは居るはずだ」

「下はいやだ……郷の近くは寒いし、人に会いたくない」

 

 橙は仲間達のために、食料調達をしようと考えてここまでやってきていた。

そしてここを選んだ理由は、他の小川と違って暖かい水であるというのと、郷から遠いというのにつきた。

もう何十回と押し込みはしているが、人郷に出入りするに抵抗がないわけでもない。

いつも胸の奥を綱で締め上げるような緊張感を味わい、夜は目が冴えて眠れない。

不安をいっぱいにしてドジを踏むよりは、恵まれた自然の中で魚を取った方が安心という、実にマヌケな判断だった。

 いざ川に着いてみれば、自分が水を恐ろしく嫌っていた事を思い出し、手だけを沈めて取ろうにも魚はすばしっこく、ぬめりの中を滑るように逃げる。

おまけに冬山から下る川の水は大抵冷たく、指先は真っ赤に染まるし、かじかんで大切な護身用具である爪を出すときに溝から血が出る始末。

泣きながら彷徨って、やっとこの暖かい水の川を見つけた次第だと、かいつまんだ説明を椛にした。

 

「つまり、腹減ってるわけだ」

 

 話しを半分ぐらいの気持ちで聞いた椛は、赤貧にあえぐネコの希望が飯だと理解するや太刀の隣に結んでいた入子菱の飾り布を口取りに縫った大きめの巾着を開いた。

哨戒に出る時に持つ非常食の干し肉を確認すると、袋のまま投げて渡した。

 

「袋は返せよ、取りあえずそれをやるから、だから静かにしていてくれ。自分は少しの休憩を静かにしたいだけだから」

「ホント!! ありがとう!!」

「ああ、袋は汚さないでくれよ。汚れていると五月蠅いのがいるから……」

 

 投げられた袋に詰まった肉に目を輝かせるネコ。

小腹を空かせながらも飯をほとんど食べない椛は目を閉じて温水を楽しんだ。

食べ物に対する執着は山で将棋をしている時に少々出る程度で、外に出ればもっと無くなる。

警戒を風のごとくの早さで知らせるのが勤めの白狼天狗が、腹に物を詰めて出足を鈍らせたと言われるが一番腹の立つことだから。

荷物になってしまうだけの肉が少しの役に立ったかと目を細めて、行儀悪く大口で肉に食いつくネコの胸に輝く宝石を見つけた。

角錐をつなぎ合わせた水面を映す青の石。

 

『探してこい、近く年にてこの郷に入りし妖を』

 

 無彩の森の中で青天の輝きを見せつける宝石に、自分達を哨戒に駆り立てた大天狗の声が蘇る。

見ない顔、山の付近では初めて見る妖怪。

椛は流転んだまま、橙に自己紹介をした。

だらしなくした体勢で、相手に警戒されないように。

 

「自分はこの先の頭岩山……小峰の先の大峰、郷の者が言う妖怪の山に居着く犬走椛という者だ。ネコは……名前は?最近この郷に来たのかい?」

「椛……ふーん、私は橙。郷には……ちょっと前……そうだな、五十年ぐらいは住んでる……かな」

 

 呆けた視線の椛に、橙は折り合いの良さそうな嘘をついた。

あまり多く見積もって言うと、場外れで嘘がばれてしまうという小さな思慮だったが、椛には簡単に見破られていた。

何せ何百年にも渡ってこの山周辺を哨戒している者。自分以外の白狼も多くいるのに知らない間に何かが住み着き五十年も気が付かないなどあり得ないと。

 

「……橙、この辺りは自分達にとって庭だ。五十年もお前を見過ごしたりはしない。隠したい事でもあるのか?」

「ない!! ただ、たくさんここにいるって言った方が仲間はずれにされないから言っただけ。本当は三十年!!」

 

 呆れる返答だったが、思わず椛は吹き出していた。

身につけた知恵、少しの駆け引き、幼い化け猫が自分を睨んで、それでも貰った肉を離せないでいる様に、軽く手を振った。

 

「わかったよ。橙、すまないね。自分の仕事は山へ迫る者・物への警戒なんだ。だから……。別に近隣の峯に住む者を危険と思ってるわけじゃないよ。職務の一環として聞いただけだ」

 

 そこまで言って、尖った自分の警戒心をなだめた。

相手の小ささにいきり立つことを苦と感じてしまったのか、横に体を転がす悪戯な態度で注意をした。

 

「でもなー、そんなに住んでるなら友達の一人ぐらい名前を言えるようにしておくといいぞ。自分の事は言ってもいいよ、その方が近場で他の妖怪にも示しがつく。ただ喧嘩で名前をだすなよ。山の掟で私闘は禁じられているから」

 

 近隣の峯や小川の話、河童や川面にすむ妖達に多少顔の利くと話す椛の配慮を、橙は勘違いをしていた。

友達がいないと信じて貰えないという、何とも子供らしい誤解に大きな声で言い返した。

 

「いるよ!! 友達。……その、えーっと、長く住んでるからパッとでてこないや、えーっと、そうだ藍だ。藍っていう妖怪と友達だぞ!!」

「藍? 藍って……、八雲藍の事? 」

「そうだよ、八雲藍だよ。友達なんだ」

 

 嘘の付き方も試行錯誤で、相手の顔を見ないように背中で答えた橙に、椛の警戒は一度解いた所から積を揚げるように戻っていた。

友達という者として、あがって良い名前ではない八雲の狐。

だが、橙程度の妖怪をどうこうしようと名乗ったわけでもないだろうという事にもすぐに気が付いた。

八雲の狐は郷を外界と隔てる結界の補修で忙しく活動している。

当然外から来た妖達にも関心はあるだろうし、その中で橙にも接触した事があるだろう。

瞼に手を当てながら考えを纏めていく椛は、それでも職務に忠実に少しの事情を聞き出そうと質問した。

 

「八雲の狐と話しをしたのか?」

「話してるさ、ご飯も一緒にたべたし。……狐? 尻尾なんかなかったよ」

「普段はそうだよ、特に人郷に行くときには隠してるんだ」

 

 すかさずでるボロ。

長年暮らしているのなら八雲の狐などと関わりたいと思う妖怪はそうそういない。

結界の主にして賢妖八雲紫が使役する妖狐の名前は、妖怪の山に住む者で知らない者はいない、いや言えば幻想郷で知らない妖怪がいる方が珍しいのに……

椛は顎に手を当てて、橙の顔を覗いた。

出してしまったボロに気が付き、気まずく膨らました頬を見ると、苦笑いをした。

普通に考えても橙を危険視する理由が思い当たらない。

こんなに幼い妖怪は、むしろ珍しい。

八雲の狐もそれを気にして話しかけたのだろうと、心の中で決着の手を打った。

 

「自分も知っているが、八雲藍は九尾の狐なんだよ。だから郷人の前で尻尾を見せると怖がられるすらね、普段は隠しているのさ」

「九尾の狐……そう……」

 

 どうやら九尾の狐という存在自体を良く知っていないという顔。

オドオドと自分の郷における存在理由を有利にしようと、何か探す目が右往左往しているのを見ていよいよ可笑しいと吹き出した椛は、おそらくその狐がどんな存在かを知らないだろう橙に少しの説明をしてやる事にした。

 

「あの狐は妖術使いだ。解りやすいのを一つ教えておいてやるよ。あいつ目を閉じていただろ? 」

「うん、閉じてた」

 

 声色が硬くならず、会話を続ける相手に橙はやっと顔を上げて答えた。

これ以上を質問されたらきっとボロボロの会話になっていたという心配から解放された様子で話しを聞こうと近づいた。

椛も一度心で打った決着を覆すつもりはなく、近づく橙に身振りを入れて話しを続けた。自分の目を指差しながら。

 

「狐の瞼の裏には文殊が書かれているらしいんだよ。目を開くと幻術とか、幻惑とかが自然に使えるようになっているらしい。使う術式によって目の縁の色が変わるらしい……自分は実際に見た事はないんだが、それを受けて操られた妖怪は何人もいるんだ。橙も話しをしても目を見ないように気をつけた方がいい」

「幻術……開けたら操られちゃうの? ……でも、普通だったら……」

「悪さをしなきゃ怖くない、普通に話したんだろう」

「うん、普通だった……うん」

「橙には開かずに話しをしたんだ。だからそれは、まあ友達だからなんだろ」

 

 教えた事で悩む化け猫。

椛は妖怪にしては珍しいぐらいの世間知らずの橙に、楽しい土産話が出来たと気持ちを弾ませると、代わりの土産として山の事を少しだけ教えた。

郷から続く石清水の小川には厄神がいるから近づかない事とか、大峰から外れた窪地には河童達がいるが人見知りな連中だから気をつけろとか。

自分が居する大峰に入る手前、仕事の時は神蛇の滝の裏に詰めている事を、普段なら山に入る者を嫌い排除に手間暇かけている身の上だったが、何故かこの幼すぎる妖には言っておいてもいいかと思う不思議な気持ちになっていた。

橙と少しの会話を楽しんだ後、椛は哨戒を終わり心身共に楽になったと笑顔を見せて帰路についた。

大切な事を一つ、すっかり抜け落としたままで報告の間に座っていた。

 

 

 

 

 

「さがれ!! それにあらず!!」

 

 空洞の居所に響く声は甲高く鋭角に響き渡って報告に訪れた白狼天狗の心を刺し通していた。

御簾の向こう側に座る金子ではなく、前に立ち柏扇で隠し切れない怒りの目を見せる妹子。

前髪を切りそろえた黒髪が今にも蛇に変わりそうな睨みで構え、膝を着いて哨戒報告をする白狼に顎で退出を促していた。

 

「さわぐでない妹子、白狼の者よ、良うしてくれた」

 

 響き渡る声の刃に地べたに突くほど顔を伏せて締まった白狼天狗に、御簾奥から向かって照らす影となった金子が小さく手を振る。

 

「我が妹は騒がしい者よ、許せ。そして下がって良いぞ」

 

 刃物のような耳に痛い妹子の声に比べると、金子の声は柔らかい真綿のような響きだった。

振られる手を合図に膝を着いていた白狼天狗は、風の脱兎でその場から姿を消していた。

消えた相手の姿に睨みを利かせていた妹子は、御簾の中、紫水晶祠と睨めっこを続けている金子に苛立ちを隠せない声で尋ねた。

 

「あやつらは、石を見ているのに報告にはあげぬ。これも射命丸のせいであろうて」

「さにあらず、石は見えておるが……頭に残らぬのよ」

「残らぬ……? いかな事よ」

「近こう」

 

 影の手が近くに来いと呼ぶと、御簾の目を長く尖った爪で少し裂いて目を見せる。

奥には紫水晶祠を中心に水を張った八枚の皿。

皿といっても銅鏡を底に敷き、金輪を上につけた異様な作りの物を並べた中心に金子は座っている。

緩い三日月目で洞の中を見回してから御簾を開けると、さらに奥に来いと指で呼ぶ。

妹子は言葉の少ない相方の元に急いで潜り込むと。

 

「いかな事と?」

 

小声にして早口で、正絹の尼頭巾の下で笑う口に謎の真実について急かした。

 

「やさしい事よ、たわいもない。あの青石は生きているからよ」

「生きている? 石がかえ?」

 

 水盤に手を翳し、カラス達の目が映した白狼達の索敵姿を見せると、金子は口を手で覆って小さな声で笑う。

笑ってもう一枚の皿の水面に波紋を起こして不可思議な図を見せた。

捜索をする白狼の前に写る化け猫、遠近の差はあるがもう一枚の水面には上空からカラスの目が捕らえた同じ化け猫が写っている。

 

「おもしろかろう」

「何がかや?」

 

 苛立ちから気を納められない妹子は、見せられた図の違いがわからなかった。

金子は妹子の気短な性格を嫌っていたが、話しが進まないのも面倒と伸ばした黒い爪で化け猫の胸を指した。

 

「……なんと、白狼の目で見た図には石が写っておらぬとは、こはいかに?」

「これはな、考える者の目を石が眩ましておるのよ。奴らは化け猫の話しになると思い出を話すように言いよるであろう。そは石が響きを持って目を塞いでおる証拠よな」

「しかしカラスには見えておる」

「言うたであろう、考えなく目で見たものを知らせるカラスは、見たままを送る。白狼達は下っ端とはいえ物言う者達。故に語る言葉で目が曇る……いや曇らされておるのよ」

 

 見比べる画の中、白狼の目に映った化け猫の胸には青石は無かった。

カラスの目が映したそれには、空色の光を煌々と焚いている姿があるのに忽然と消えている図は異様にも見える。

 

「金子、石は生きているとは? いかな事よ?」

 

 反射する光の中でそれを見つめたまま妹子は聞いた。

方術の仕方にしろ、方陣のあり方にしろ、妹子はいつも煩雑で金子の見せる物を確実に理解した事はなかったが、知らないままでいる事を嫌って質問は多くする。

扇と顔を摺り合わせるように。

それは金子にとっても好ましいのか、それとも自分の知る知識を聞かせる事が嬉しいのか必ず返事をする。相方の横顔を見ながら頬を緩ませて。

 

「あの石はな、仙丹の力によって編み上げられたもの。作った者の息が封入されておるのよ。それにあの形……方陣四角の上部と下部。方術陣のそれと同じであろう」

「そう言わるれば、まさにそうよ。方陣四角にして二つ」

「そう、総陣八卦の形を持っているのは……内側に力を込めた一つの理由にもなろう、何故にと言われるとまだわからぬが、だからこそ手に入れたいものよな」

 

 紫の光を水盤に浮かべた蓮の方陣の上で手を重ね、中空に同じ一陣の中身を引き揚げた。

掬い出される方陣は水の柱となり積層化した玉子のような形で浮かび上がる。

しかし外殻のなく輪切りを浮かべた物として現れている。

石の密度より柔軟な階層の円を、風車を跳ねるように指で弾いて探っていく。

 

「あかよろし、やはり石はあのネコ持っている。数を徒とした労は報われたの」

 

 軽やかに積層型の方陣を流す指先、反射する紫の輝きに目の奥に潜む赤い瞳孔がきつく絞られていく。

金子が頭を使って策を作る時は決まってこの顔を見せる。

鼻筋といい眉といい、美しい造詣の面立ちを照らす光の前で笑みは零れて。

 

「明日よりは南麓に徒を走らせ、射命丸殿の目をそらさねばならぬ……その間に我は石を取りに出かけようぞ」

「金子、石を取るのは我に任せよ。穴の方こそ、お前様がやってくれるといい」

「……面倒をいつも避けるのお。良い良い、それは明日決めよう」

 

 目を泳がせ面倒ごとから逃げようとする妹子を、扇で隠した顔から唇だけが語る。

金子の機嫌を見極められないままで妹子は言い訳をした。

 

「洞の陣を作るのは大変ぞ、陰陽師の札を使えるは金子よ、お前様の方が手慣れておろう。夜を短くするのならばその方が早う終わる」

 

 三枚の立陣、妖怪の山を中心に置くため紫水晶祠の上に図として立てる。

会話の一括りを終えた金子の目は、先ほど見せた三日月の嬉し目とは違い黒目の外枠を無くした光のない目は尼頭巾の下から現れて妹子を見ると。

 

「妹子よ、そなたに申しつけた手際ぞ……夜を長ごうしておるのはそれだけぞ」

「わこうておる……故にそう頼んでおる」

「我が陣を作っても、そなたの寝目(いめ)の波が無ければ誰も従わぬぞ。石が揃えば後はこなたの仕度のみになろう。早う我らがために陣を敷き、棋譜を揃えよ」

「わこうておる……」

 

 妖怪の山を燃した裸盤の図、中程を指してそこからさらに奥深くの陣を妖の目は濡れた唇に舌を這わせて笑った。

 

「早う、早う……早う、お会いしとうございますぞ、賢妖八雲紫殿。我と戯れの時を……ぞんぶんに指し合いを」

 

 右手の柏扇の根についた賽子二つ、左手には蝶をあしらった有職文様のゆがけ、その手に陰陽札を泳がせる。

 

「舞い踊り、仕合ましょうや」

 

 

 

 

 

 

椛は滝下がりの門弟の前で項垂れながらの帰還を果たしていた。

少し前に、大天狗金子の元を訪れ哨戒で見つけた妖についての報告をしてきたのだが……

 

「やっぱり怒鳴られたか、自分もそうだったよ」

「みんなそうなんだ……」

 

 肩を落とし、反省とは違う重荷に項垂れた椛を、同じ白狼天狗が慰めた。

皆同じ服に、飾り縄で小楯を担ぐ。白銀の髪までお揃いであるがため遠目には同じ生き物が群生しているようにも見える。

ここは神蛇の滝の中側、とはいえ外からも見える位置に張りだし小屋が石で造られており、風よけに置いたすだれをくぐった奥がたまり場となっている。

 先に報告を終えた仲間達は、茣蓙を広げた上で将棋を打ち合わせているが帰った椛の顔を見て、一同苦笑いをして迎えていた。

 

「……それにあらずって……じゃなんなんだ? あの鴉天狗め、奥に大天狗がいなきゃ噛み付いてるところだよ」

「わかるわー、ホント疲れるよね。あのキンキン声とか」

 

 声が刺さって耳を痛めたと髪をさする椛の仕草に、一同の白狼達も同じ仕草をして笑う。

入れ替わりで太刀を穿き、腰に巾着を結ぶ仲間に手を振る。

とにかく忙しい白狼天狗達、疲れと休息、交互にくる時の中で唯一の楽しみは将棋ぐらいだが、こんなに忙しいのも久しぶりだった。

椛も多分に漏れず大好きで、自分の指していた盤を惚けた眼で探す。

 

「どこまで指したっけ……三日も離れると次の一手どころか先の先まで都合良く思い浮かべちゃうよね」

「それもわかるー、こう自分の理想どおりの棋譜ってヤツだねぇ」

 

 頭襟の横からさらに小さな房を二つ、白髪に団子を結った小柄な友の言葉に頷く椛だったが、すぐに緩んだ思考は締め直されていた。

風の音が変わる、滝を下る水の鈍い響きの中に差し込む一陣の音。

すだれと振る水の向こうに浮かぶ影に、椛の目は尖った。

いつもなら丸く人なつっこい若干の垂れ目が曲をなくす程の嫌悪で、滝の向こうに浮かんだ人物に聞いた。

 

「なんのようで? 射命丸文さん……」

「哨戒ご苦労、何か見つけたか?」

 

 椛のまだ下ろして居なかった太刀に手をかけそうな体を、一回り小さい白狼天狗が止める。

空に浮く影は、風を腰掛けのように巻いた姿で椛達を見ていた。

紅葉を半身に写した白の上着と、揃いのスカートは椛のそれより遙かに短く白い足を長く見せている。

黒で結んだリボンと、開きの大きい頭襟。短い黒髪と冷たく尖った目。

容姿を整える美形で華やかな姿から飛ばされる冷たい視線に椛はウンザリと首を振った。

 慰労を口にする声に、本心のない顔と無色で意味を知らさない目を見れば白狼の苛立ちは大きくなるばかり。

口を結び返事を返さぬ群れを押さえて、滝音に割れぬ大声で椛は怒鳴った。

 

「哨戒の報告は大天狗様にしてある、あんたにまでする必要が?」

「あるに決まっているわ、私は談議に出かけた大天狗様達に繋ぎをつける役目をもっているのよ。何でも知っておく義務があるの」

「だったら、あの洞穴にいる大天狗金子様に直接聞けばいいですよ。自分達は疲れているんだ、このうえあんたの……」

「減らず口はけっこう、見つけた妖怪は何か持っていなかったか? そう聞いている」

 

 軽い断絶音は滝壺の詰め所に集まった白狼天狗の全てに伝わっていた。

椛は歯軋りに尖った牙を剥いて、太刀を抜くギリギリの所にまで達していたが……

怒りに滾った頭の中には、正反対の清浄過ぎる鈴の音が響いていた。

頭の中にあったハズの景色が、音の弾みで消される波、針を小さく額に刺したような刺激で思い出す。

 

「何か……? 何か持っていたような……」

 

報告をした妖怪、化け猫の橙。それが持っていた……霞んだ情景の中で橙が胸に抱えていた物を思い出した。

青い何か?

報告に行ったときには頭の中になかった何かを、一度は目が映していた事に気が付き瞼のうえを指でふれる。

 

「何? 何か持っていた?」

「何かあったのね……もういいわ」

 

 言葉を無くして自分の脳裏を探る椛の前かに射命丸は風になって一瞬で消えた。

光った目の残像だけが椛の視界に残り、手を伸ばし話しを聞く隙もない、本当に最速の風となって消えていた。

 

「ああ、もうなんなんだよ……あーなんで? なんで思い出せないんだよ。何かを……確かに持っていた?」

 

 消えた相手が何かを知っているのは確かで、それを言わずに消えてしまった事で椛は苦悩で横座りに崩れていた。

これから夜は長い。疲労で体のあちこちに錘を懸けられた状態である上に、心にまで重しを付けられた気分だった。

 

「あー、射命丸さんよぉ、何かっていうのを教えろよ!! どいつもこいつも……何なんだよ!! 何探してて、それは何なの!!」

 

 転がったまま頭を掻きむしる。

不明の捜し物を知る事の出来ない自分達、だけど何かを見ているかもしれないという脳裏を刻む残像。

目の前に置いた自分の将棋盤を椛は恨めしく見つめた

 

「もっとわかりやすくして欲しいよ。疲れたー」

 

 それは全ての白狼天狗の要望だった。

転がる椛を見ながら、みんなして項垂れていた。

いったい自分達が何を探せと言われ、なんでこんな苦労をしているのだろうと。

白狼天狗達は心身共に疲れをぬぐえぬ日々に突入していた。

 

 

 

 

「あれは……得子の声だった……」

 

 昨日の今日で橙と合うために、郷外れの大石に寄っていた藍は、自分の頭の中に響いた声が、かつての妹のものだったと思い出していた。

片手に油揚を入れた袋と、少しの肉を買い込んだ手を揺らし沈んでいく夕日に顔を向けて。

 

「なぜに今更……」

 

 藍は過去の事を多く憶えていなかった。

正確には、一度封じられ多大に自分の身を切られ持ち去られた部位が多すぎた事と、粉砕により方術への構築の記憶が失われており、同じぐらいに自分の生きてきた時間を忘れていた。

手ぶらにしている右手を、何度か開き閉じを繰り返して今を生きている事を思い出す。

自分は一度、死に目の手前まで行って……そこから主紫によって今の形に作られた。

 だからなのか、記憶はいつも曖昧だった。

遠い過去を紫が酒の肴にしようと行った時も、それは自分のための修練だと感じていた。

失った過去に自分に必要だった何かがある事を、思い出させるためのものだと捉えていた。

 

 何度も繰り返し、口に出して話す事で大抵の過去は思い出したが、これ程鮮明に妹の声を思い出したのはあの日が初めてだった。

あの青い石に触れようと、触れるために橙に言霊を送ろうとした瞬間。

若く張りのある声は、自分を諭すように哀しい目で見つめていた。

 

『貴女も母になれるのです』

 

 そう言って、柏扇の向こうで涙を隠した妹……平安貴族の纏う豪奢で繊細な線を幾重にも重ね持った唐衣、五衣、赤袴と自分を囲った篝火。

転がる賽子の乾いた音。

あの時の妹の名前は。

 

「藤原得子……」

 

 顎に手をあて、首を傾げる

 

「何故……お前は泣いて……泣いて私を殺した」

 

沈んだ顔の中で、伏せた糸目に苦痛が皺を描く。

苦しんだのは……青石の音が波状に寄せて過去を洗い出そうとしている事に藍は気が付くと、思い出される過去に執着をしている場合ではないと首を振った。

帽子に揺れる房にかかる飛び虫を払うように、この先自分が成さねばならぬ事に気持ちを切り替えた。

 

「あの石は危険だ。次……いや明日にでもこちらから探し出して奪い取ろう。このまま郷に置いておくわけにはいかない」

 

 約束の時間に現れない化け猫。

日の沈んだ紫の緞帳の果てに続く妖怪の山への道。この大峰につらなる小峰に橙は住んでいる。

藍は閉ざしていた瞳を、瞼の仙にそって指をなぞった。

 

「すぐにすむ、何もか忘れさせれば良い事……」

 

 忙しく飛ぶカラス達の山を背に屋敷に戻っていった。

 




長くなってしまいました。
もっと短くしたかったのに、ままならぬものです。

藍様は長く生きてるし、今は別としても過去に自分が名乗った名前には執着がなさそうですよね。
その線から、過去最後に名乗った名前で相手を憶えているというふうに考えました。

妹=藤原得子(ふじわらのなりこ)

もっと早く書きたいなー。

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