やはり俺のソロキャンプはまちがっている。   作:Grooki

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ながらく、おまたせしました……恥ずかしながら、生きて帰ってまいりました……!!

詳細は活動報告にて。まずは、なんとかかんとか書き上げましたので、ご笑読を……!!


(11)平塚静の一番長い月曜日。 (対:その51、ついでに49)

 自宅のベッドルームの窓は道路に面している。

 

 その窓のすぐ外、筋向(すじむ)かいの家から、泣きじゃくる幼い男の子の声が聞こえてきた。

 

『やだ――っ! がっこういきたくない――っ!! ママといっしょにいる――っっ!!』

 

 今年度になってから聞こえ始めたので、おそらく小学校一年生だろう。

 

 ママ離れできていず、休み明けの朝にはこうして、玄関先でいつまでもぐずるのを、迎えに来ている近所の上級生が、彼の母親とともに必死でなだめ、登校を(うなが)す、というのが恒例(こうれい)行事だった。

 

 夏休み明けのときなんか、そりゃもうすごかった……。

 

 ふだんなら、同業者として彼の担任の苦労を察しながらも、つい微笑(ほほえ)んでしまうかわいい風景なのだが……。

 

 

 

 

「うるせぇぞガキ……私のほうが一〇〇〇倍は学校行きたくねぇんだよ……!!」

 

 私は台所の換気扇(かんきせん)の前に立ち、いまだにボサボサ髪のパジャマ姿でそうつぶやきながら、今日起きてから四本目のタバコに火を()けた。

 

 枇杷(びわ)ヶ浜でのキャンプ明けの月曜日、午前七時半のことである。

 

 

 

 

 うううぅ……! チョー学校行きたくねぇ……!!

 

 

////

 

 

 日曜日(きのう)は最悪だった。

 

 ようやく私の体調が回復し、運転できるようになった頃には、比企谷はとっくに撤収(てっしゅう)してキャンプ場を後にしていた。

 

 疲れもあったし、重たい雰囲気の中、下道(したみち)で長い時間かけて帰る気にはならなかったので、高速道路を利用した。

 

 時速九〇キロで淡々と後ろへ流れていくアスファルトの上の点線。南房総(みなみぼうそう)の海岸はどんどん遠ざかっていく。

 

 静かな帰路だった。

 

 キャンピングカーの後部座席から聞こえてくるのは、由比ヶ浜(ゆいがはま)がベソをかいている声と、雪ノ下(ゆきのした)が由比ヶ浜の肩を抱き、黙ってさすってやっている衣擦(きぬず)れの音だけだった。

 

「うっ……うっ……! ど、どうしよう、ゆきのん……!? ヒッキー怒っちゃった……! ゼッタイ嫌われちゃったよぅ……!!」

 

 いつもは明るい由比ヶ浜が、これまで見せたこともなかった弱々しい様子に、胸がズキズキ痛んだ。

 

「本当にごめんなさい由比ヶ浜さん……私が勝手な行動をとったせいだわ……」

 

 雪ノ下が、彼女には珍しく、消え入るような声で由比ヶ浜に()びた。

 

「う、ううん、ゆきのんのせいなんかじゃないよ……! あ、あたしが、あたしがそもそも無理を言わなきゃ、こんな事にはならなかったんだし……!!」

 

 由比ヶ浜は泣きながら首を横に振り、雪ノ下に謝り返していた。

 

「いや、悪いのは私だ……! 私がこんな(てい)たらくだったせいで……本当にすまない」

 

 私は前を見て運転しながら、二人に聞こえるように謝罪した。

 

「……」

 

「……」

 

 ……、

 

 

 ……あれ、反応なし?

 

 あ、あれ――……?

 

 

 

 

 ……え、マジで私のせい……?

 

 そういえば昨夜(ゆうべ)、夕食を食べてからの記憶があまり(てゆっか全然)ない。

 

 酒で記憶が飛ぶことはあまりない(てゆっかよくある)方なのだが……。

 

 私……な、なにか、やらかしちゃったの、かな……?

 

 いまさら二人に聞くのも(こわ)い……!

 

 

 

 

「……とにかく、明日、比企谷くんは部活に来るとは言ってたのだし、包み隠さずこちらの事情を話して、誠心誠意(せいしんせいい)、謝罪するしかないわね……」

 

「ヒッキー、あたしたちの話、ちゃんと聞いてくれるかなぁ……?」

 

「分からない……今回ばかりは、彼から罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられたとしても、甘んじて受けるしかないわ」

 

 二人は結局、私の言葉には無反応のまま、明日の作戦を練り始めていた。

 

 ね、ねぇ……?

 

 

 

 

 しかし、比企谷にどう釈明(しゃくめい)すればいいのか、かなり悩んでいるようで、後ろの席からは、深い溜息(ためいき)ばかりが聞こえてきた。

 

 妙案(みょうあん)など、何もない。私も沈黙(ちんもく)するしかなかった。

 

 

 

 

 ……あ!

 

 そういや月曜の四限、F組で授業じゃないか……!

 

 などと突然思い出し、二日酔いで吐きまくってボロボロの胃が、ふたたびギリギリと痛み出した。

 

 う――わ――……明日学校行きたくねぇ……!!

 

 

////

 

 

 ……とはいっても……、仕事だしなぁ……。

 

 いつまでもウダウダしてはいられないので、のろのろとメイクと着替えを済ませ、ダラダラと家を出た。

 

 家から学校までは、クルマで二〇分弱。朝礼には十分間に合う。

 

 朝の遅刻指導(ちこくしどう)の当番、今日は厚木教諭(あつぎきょうゆ)だったから助かった。

 

 

 

 

 ……いや待て……! 比企谷は遅刻魔だったっけ……。

 

 もし昇降口で厚木教諭に(つか)まって、キャンプのことを根堀(ねほ)葉掘(はほ)り聞かれたら……?

 

 じわりと冷や汗がにじんできた。

 

 ま……まぁ、あんな形だったとはいえ、いちおう比企谷には、こちらの最低限の事情は説明済みだ。厚木教諭に対しては、うまく合わせて乗り切るだろう。

 

 しかし、その後、私自身がどんな目に()うか、それを想像するのが怖かった。

 

 四限はF組で授業。そのすぐ後は昼休み。

 

 比企谷に(つか)まるかもしれない。そのとき、改めてボロカスに文句を言われるかも知れない。

 

 それが、怖かった。

 

 ……一七歳の少年にギャーギャー言われるのが、ではない。

 

 これまで少しずつだが確実に築けていた問題生徒(比企谷)との信頼関係が……

 

 

 

 

 いや違う。うそだ。

 

 比企谷が怒っているのを見るのが、私のせいで怒っているのを見るのが、怖かった。

 

 比企谷(かれ)から……嫌われるのが、怖かった。

 

 

 

 

 愛車(ヴァンテージ)のアクセルペダルが、今日はとても重く感じた。

 

 

////

 

 

 遅く出て焦ってる時に限って、ほぼ全ての信号に引っかかる。

 

 学校には朝礼ギリギリで(すべ)り込んだ。

 

 教頭から軽く注意を受けたものの、その後は大過(たいか)なく、三限目まで終えた。

 

 

 

 

 途中、厚木教諭が私の机へやって来た。

 

「平塚先生、土日はお疲れ様でした」

 

 声をかけられて、一瞬ギクリとする。

 

 しかしこちらの気持ちとは裏腹(うらはら)に、厚木教諭はどことなく機嫌がいいようだった。

 

「ええ……どうも」

 

「朝、比企谷に会いましたわ。気持ち()う、挨拶(あいさつ)してきましてな。なんつーか、ひと皮むけたようになっとって、ええ表情(かお)しとりましたよ」

 

 はっはっは、と、厚木教諭は言うだけ言って去っていった。

 

 

 

 

 ひ、比企谷が……気持ちよく、挨拶……!?

 

 心臓にひやりと冷たい(しび)れが走った。

 

 

 

 

 ありえない。

 

 せっかくのソロキャンプを……おそらく、人生で初めて夢中になった趣味で、コツコツと準備して、やっと実現したであろうソロキャンプを、あんなふうに台無しにされて。

 

 今日の比企谷が、いい表情など出来るはずがないのだ。

 

 かつての私なんか、キャンプ中に補導されて以来一〇年以上、警察を恨めしく思ってたというのに。……いやそれ今も、ってことじゃん……。

 

 

 

 

 どういうことなんだ……?

 

 

 

 

 なにか、嫌な予感がした。

 

 

 

 

 胸のざわざわが収まらないまま、二年F組の教室へ向かった。

 

 始業チャイムを聞きながら、ふたつ深呼吸。

 

 ……と、とりあえず、今は目の前の授業を片付けねば……!

 

 私はいつもどおり姿勢を正し、教室の扉を開けて、つかつかと教壇(きょうだん)へ向かった。

 

 起立、礼、着席。

 

 ざっと教室内を見渡す。生徒全員、黙ってこちらに注目している。

 

 由比ヶ浜と目が合った。彼女は少しあわてて、こちらへこっそり会釈(えしゃく)すると、チラリと一瞬、比企谷の方へ目をやり、そして、しゅんとしてうつむいた。

 

 ううっ……!

 

 私も……チラリと、つとめてさり気なくチラリと、比企谷の方を見……

 

 

 

 

 

 

 

 

 完っ全に腐り直していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはもう「腐り直した」としか表現できないような目の腐りっぷりだった。

 

 まぶたは完全に脱力して締まりなく、どんよりと(にご)った三白眼(さんぱくがん)には、懐かしささえ覚えた。

 

 その目が、私の方をじっと見ていて、視線を外そうとしなかった。

 

 

 

 

 うううう……、い……、いたたまれない……!

 

 

 

 

 結局、今日のF組での受業は、新しい題材の表面を()めるような展開に終始した。

 

 板書(ばんしょ)しようとした際に初めて、チョークケースを忘れてきていたことに気付いた。

 

 だめだ……! 今日はマジでダメダメだ私……(泣)

 

 などという感情を、生徒の前ではおくびにも出さず、備え付けのちびたチョークで乗り切った。

 

 これ安物だな……。普段、羽衣(はごろも)製(※)ばかり使っていたので、書くときの滑りに違和感を感じた。おかげで爪を何度か板でこすってしまった。また整えておかなきゃ……(泣)

 

 

 

 

 比企谷とは結局、授業中、目を合わせることが出来なかった。

 

 

////

 

 

「先生。ちょっとだけお時間、いいですか」 

 

 授業後、そそくさと教室を出たところで、背中に比企谷の声を聞いた。

 

「う……うむ」

 

 キタ――……!!

 

 覚悟していたとはいえ、実際に声をかけられると、心臓がドキン!と痛いほど()ね上がった。

 

 どんだけビビってるんだ私……。

 

「……できれば、指導室とか、人のいないところでお話を……」

 

 そう言う比企谷の声は小さく、ぼそぼそしているのに、不思議と耳に届く。

 

「……分かった。だが、少し待ってくれないか。昼に、ラーメンの出前を取ってしまった」

 

 つとめて平静を装いながら、視線が合わない程度に首だけ少し振り返って返答した。

 

 

 

 

 てゆっか、何でこんな日にラーメンなんか注文したんだ私……!?

 

 昼休みすぐにとっ捕まったら、麺類(めんるい)なんてすぐにのびて不味(まず)くなってしまうというのに……!!

 

 し、仕方なかったんだ……! バタバタしていたせいで朝食を抜いて空腹とはいえ、二日酔いで胃がもたれてて、ガッツリ丼物という感じでもなかったし、かといってコンビニのサラダやサンドイッチは、軽すぎて夜まで腹持ちしないし……!

 

 体の奥の脱水状態を解消する十分な水分と塩分(スープ)、即座にエネルギー化する炭水化物(麺)、適量の肉(チャーシュー)と野菜(ネギ)……。

 

 まさに今の私の体調から理想的な食事は、ラーメン以外になかったんだ……!

 

 

 

 

「了解す。じゃあ二〇分後に、ということで」

 

「ああ、……分かった」

 

 良かった。ラーメン頼んでたのはツッコまれなかった。

 

 比企谷の気配は、そのまま遠ざかっていった。購買(こうばい)にでも向かったのだろうか。

 

 二〇分の延命がきいて、少しホッとしてしまった自分が、情けなかった。

 

 そんな精神状態だったからか、スープも残さず飲み干したのに、ラーメンの味をいまいち感じることが出来なかった。

 

 ……意外と繊細(せんさい)に出来てるんだな、私って。

 

 

 

 

 時間がなかったので、食後の一服(タバコ)はお預けのまま、私は生徒指導室に向かった。

 

 指導室の前の廊下で、比企谷は壁にもたれてぼんやりしていたが、私を見つけるとすぐに直立し、真剣な顔つきになった(ただし目は腐っていた)。

 

 ううう……!

 

 緊張で指先が固く冷たくなっていて、カギが開けづらかった。

 

 指導室の中は、人気(ひとけ)が無かったためか、廊下より肌寒かった。

 

 それが緊張感を弥増(いやま)す。

 

 ふつう、指導室では中央の大きなテーブルを挟み、教師と生徒が相対(あいたい)する形になるのだが、今日の私は、そんな偉い立場じゃない。

 

 テーブルの片側で二人して向き合って座った。

 

 向き合ってすぐ、今日の比企谷は猫背でないことに気付いた。背筋がすっと伸びている。なぜか、緊張しているようだ。

 

 真剣に、話をしに来たのだと、その様子で十分に分かる。

 

 ようやく、(はら)を決めることができた。

 

 ……ここで誠実であらねば、教師としても大人としても、示しがつかない。

 

 

 

 

「比企谷……改めて、昨日は本当に……」

 

 申し訳なかった、とまず頭を下げようとした瞬間、

 

 

 

 

「先生、土日のキャンプの件、ありがとうございました。それと、ご迷惑おかけしました。ここまで大事(おおごと)になるとは思わなくて……。何も言ってなくてすみませんでした。けれどおかげさまで、本当にいい経験が出来ました。ありがとうございました」

 

 比企谷は私より早く、勢いよく頭を下げ、一気呵成(いっきかせい)に言った。

 

 

 

 

 ――気持ち()う、挨拶(あいさつ)してきましてな。なんつーか、ひと皮むけたようになっとって、――

 

 

 

 

 息が止まって、頭が真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほんの数秒後、気づくと、私は比企谷の襟元(えりもと)(つか)んで力任(ちからまか)せに引き上げ、彼を無理矢理立ち上がらせていた。

 

 比企谷は一瞬(おどろ)いて身体をこわばらせたが、その後、ゆっくりと体の力を抜き、ぐっと私を見つめ返してきた。

 

 

 

 

 それから私が彼に何と言ったのか、実はハッキリ覚えていない。

 

 無我夢中で、私をちゃんと怒れ、君は怒っていいんだ、というようなことを、わめいていたような気がする。

 

 

 

 

 いやだ、と思った。

 

 比企谷(かれ)の言葉を聞いて、瞬間的に、爆発したように、いやだ、と。

 

 

 

 

 彼のその、芝居がかった謝罪で、比企谷と私の間に、とても大きな壁が、とても深い溝が、できてしまったような気がして。

 

 彼に突き放されたような気がして。

 

 彼に掴みかかって、必死に叫んで、そして私は、彼に(すが)ろうとしたのかもしれない。

 

 本音で語ってくれと。本気で私を見てくれと。本当の君の心を見せてくれと。

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

「……いやだね」

 

 

 

 

 比企谷(かれ)は、たっぷりひと呼吸置いて、低い声で、ゆっくりとつぶやいた。

 光のない彼の瞳が、まっすぐ私を見つめてくる。

 

 

 

 

 腹の中に冷気が走った。

 

 彼を掴んだ手から、力が抜ける。

 

 目の前が涙で(にじ)む。

 

 悲しさと悔しさが胸の中にあふれ、溺れそうなくらい息苦しい。

 

 急に、初めて彼と話をした時のことを思い出した。

 

 彼を奉仕部へ連行したときのこと、初めてのファーストブリット、いっしょにラーメンを食べたこと、千葉村行きの車の中で二人で繰り広げた会話、文化祭後、独りで黙々と片付けをしていた彼の背中。

 

 

 

 

 このまま終わってしまうのか……!?

 

 

 

 

 そう思ったときだった。

 

 比企谷は少し震えている(のど)で息を吸うと、さらに言葉を()いだ。

 

「分かったんですよ。親父もあんたも、俺の怒りや恨みが自分に向くなら、それで済むなら、それでいいと考えてる。そうなるように、動いてる。……誰かさんにそっくりだ」

 

 

 

 

 ……!?

 

 何の話か、一瞬分からなかった。

 

 しかしすぐに、彼の父親とのメールでのやりとりを思い出した。

 

 アレを読んだのか? どうやって? 彼の父親が見せた?

 

 ……小町くんか?

 

 いずれにせよ、確信した。比企谷は、あのメールを読んだのだ。

 

 

 

 

 ……だめだ。もう完璧にアウトだ。

 

 自分の知らないところで、大人たちがコソコソと自分のソロキャンプのお膳立(ぜんだ)てをしていたなんて、本人にしてみれば屈辱以外のなにものでもない。

 

 しかも一七歳の思春期。自分自身の力を試そうと意気込んでいるときに。

 

 そんなことをする大人に、……心を開けるわけがない。

 

 

 

 

 ……私は、悟った。もはや私は、彼に何を言う資格もないのだt

 

「……俺に、俺のやり方は通用しない。だから、恨んでなんかやらない」

 

 

 

 

 ……ん?

 

 『俺のやり方』……?

 

 あらためて比企谷の顔を見た。相変わらずジトッと腐った目で、私を見つめていた。

 

 だが、最近分かってきたのだが、彼の腐った目にも、いろんなニュアンス(微妙な違い)がある。決して作画が安定しないのではない。ニュアンスだ。

 

 だるい時の目、スケベなことを考えてる時の目、悪企(わるたくら)みしている時の愉快そうな目……、

 

 そして、……痛々しいほど真っ直ぐな、決意の目。

 

 

 

 

――『人 〜よく見たら片方楽してる文化祭〜』とか――

 

 

 

 

 ……あの時の目だ。

 

 それに思い至った瞬間、私は彼の言葉を理解した。

 

 

 

 

「……ていうふうに思ったんですが、そうすると論理的に考えて、あとは感謝と申し訳無さしか残ってなかったわけで……。だから、別に殊勝(しゅしょう)とか、そんなんじゃないです」

 

 モソモソと付け加えるようなその言葉を聞いて、その後、じわじわと彼の(ほお)に赤みが差すのを見て、私は確信した。

 

 

 

 

 比企谷(かれ)は、許すと言っているのだ。

 

 私たちのことを、許す、と。

 

 

 

 

 しかしそれは、広い心で「いいよいいよ」と受け流す、というものではない。

 

 大人が怖いから悔しいけどじっと我慢する、ということでもない。

 

 私や親父さんの意図を、策を、理解して、なおかつ、それに乗るまいと、さらに上の手で仕返そうとしているのだ。

 

 怒ってるはずなのに、悲しくて悔しいはずなのに、その感情を乗り越えて。

 

 

 

 

 なんという……なんという子どもらしくない(ひね)くれた思考だ……!

 

 

 

 

 ……けれどそれは……。

 

 

 

 

「……い、一応言っときますが、割と本気で感謝してますよ! 俺の立場を救ってもらってたのは事実なんだし、キャンプだって、別に邪魔されたわけじゃないし……!」

 

 そう続けた比企谷は顔を真っ赤にして、視線を四方へ散らしていた。

 

「……はぁ……」

 

 私は深く溜息(ためいき)をついた。

 

 体の奥から、今まで無自覚だった緊張が解けていった。

 

 胸の底から息を吐いたせいか、(のど)が熱い。

 

 その熱はしだいに、鼻を、目を、そしてもう一度胸を、温め出した。

 

「君って奴は……本当に……」

 

 なんだろう。胸がどんどん熱くなっていく。

 

 鼓動が早まっていく。

 

 

 

 

 比企谷、それはな、君のその考え方はな。

 

 本当の、ほんとうの意味で「人を許す」ということなんじゃないのか……?

 

 

 

 

 私は、比企谷を力いっぱい抱きしめた。

 

 完全に衝動的(しょうどうてき)な行動だった。

 

 自分でもわけがわからなかった。

 

 この瞬間、彼がいとおしくてたまらなかった。

 

 こんなに人を「いとおしい」と感じたことはなかった。

 

 私の手が、指先が、髪が、胸が、頬が、耳が、比企谷に触れている。

 

 彼に触れている。彼の熱を感じている。彼の匂いを感じている。

 

 私の全神経が、心が、感情が、それを喜んでいた。

 

 

 

 

「な……え、お、……ちょっ……!!?」

 

 

 

 

 いきなりのことに全身をこわばらせた彼のうめき声が、私の耳をくすぐった。

 

 

 

 

 つとめてさりげなく、すいっと彼から体を離す。

 

 私の髪が、最後に名残(なごり)を惜しむかのように、彼の肩を()でて落ちた。

 

「……十年早い……!!」

 

 口から出たのは、全く意味不明な言葉。

 

 顔がものすごく熱い。

 

 逃げるようにして彼に背を向け、指導室の窓を開けて煙草(たばこ)に火を()けた。

 

 

 

 

 ……って。

 

 ……いや、何が十年早いんだよ!? マジで意味わかんねぇよ私!!

 

 なんだこれ……どうしてこうなった……!!!???

 

 

 

 

「……な、何……を……!!??」

 

 背中の向こうで比企谷がうめいている。

 

 冷や汗がどっと噴き出した。

 

 ほら、おい!? どうすんの、どうすんのこの状況!? なんて説明すんの!!?

 

 し、指導? 指導とか言ってみる!? 指導室だしね!?

 

 あっ、それだわ、それ!! 指導・自然!!

 

 

 

 

「光栄に思え……『抹殺のラストブリット』を発動した相手は君が初めてだ」

 

 ナ――――イス!! ナイス指導、私!!

 

 素晴らしい! 最強の指導は『抱擁(ほうよう)』であるとか私マジ聖職者!!

 

 設 定 追 加 確 定 !!

 

 んなわけあるか!!

 

 だが、比企谷はそれでなんとなく納得したらしく、はぁ、と溜息のようにつぶやいていた。

 

「……まもなく五限だ。もう行きたまえ」

 

 腕時計をちらっと見て、私は比企谷に退室を(うなが)した。

 

 実際は、昼休みはあと十分ほど残っていたが。

 

「は……はい……」

 

 比企谷は引きずるような足音と共に、指導室を出て行った。

 

 

 

 

 ぱたり、とドアが閉じられ、比企谷の気配が完全に消えたのと同時に、私はヘナヘナと窓枠にすがりついた。

 

 どぅうっっっっはぁああああぁぁぁ……!!

 

 なにしてんだ私……自校生徒相手に……マジで……!!

 

 

 

 

 だが、とんでもない羞恥心(しゅうちしん)の嵐が頭の中で吹き荒れながらも、後悔や自己嫌悪は全く感じなかった。

 

 胸の中には、じわじわと安堵感(あんどかん)が広がっていった。

 

 よかった……! 許してもらえてよかったよぉお……!!

 

 

 

 

 そして……。

 

 

 

 

 ……いや、ああ、分かった。

 

 

 

 

 何が十年早いのか。

 

 

////

 

 

 最後の授業を終えて、職員室に戻ったと同時に、どっと机に突っ伏した。

 

 つ、つかれた……! もうダメ……!!

 

 なんか、今日一日で疲労がハンパない。月曜だぞ……!?

 

 仕事は色々山積みだが、今日はもう、これから残業できる気分じゃない。

 

 家に帰って、頭から布団をかぶってジタバタしたい……!!

 

 

 

 

 ……でも、悪い気分じゃなかった。

 

 それに、たぶん今から、雪ノ下と由比ヶ浜は奉仕部で、比企谷と改めて話をするだろう。

 

 比企谷があの様子なら、うまく仲直りするはずだ。

 

 結果も気になるし、雪ノ下が鍵を返しに来るまでは、残っておこうかな。

 

 彼女から、いい報告が聞けることを祈りつつ、私はだらだらと職員室に居残って、書類を片付けたりお茶を飲んだりしていた。

 

 

 

 

 が。

 

 

 

 

 突然、ガララッとドアを開けて、雪ノ下と由比ヶ浜が職員室に入ってきた。

 

 つかつかと、まっすぐに私の方へ来る。ふたりともニコニコと、(ほが)らかな表情だ。

 

 おっ、首尾よくいったか。今日はもう終わりか?

 

 などと思ったのも一瞬だった。

 

 二人はニコニコしていたが、近づいてくるにつれ、その表情にものすごい違和感を覚えた。

 

 よく見ると、由比ヶ浜にガッチリと(そで)を掴まれた比企谷が、二人とは対照的に、真っ青な顔で連行されてきていた。

 

 あれっ……!?

 

 なんか、嫌な予感がした。

 

 

 

 

「ゆ、雪ノ下……?」

 

「先生、単刀直入に伺います。昼休み、比企谷くんと何があったんですか?」

 

 笑顔を向ける雪ノ下から、いきなりダイレクトな質問が飛んできた。

 

「ふぇっ!?」

 

 その微笑みに、全身の血が凍った。いきなり過ぎて頭が働かない。

 

「な……なんのことれしゅか……!?」

 

 噛んだ。しかも敬語。

 

「ありのままを答えてください。昼休み、比企谷くんと、何をしたんですか?」

 

 雪ノ下はなおも聞いてくる。てゆっか微妙に質問内容変わってない!?

 

 笑顔なのに、彼女の(まと)っている空気は全てを凍りつかせるほど冷たかった。

 

 やべえ、答えなきゃマジでありのままにされそうだ。これぞまさに(ゆき)のん(じょ)うぉおおおおお――――っっっっと!! なんでもない!! なんでもありません!! 雪じゃない氷!! 氷の女王ね!! 原作ママでね!! セーフでね!!!!

 

「先生、正直に答えてください。でないとあたし……」

 

 そして、雪ノ下にも劣らぬほどの迫力で迫ってきたのは由比ヶ浜。

 

 彼女も微笑んでいるのに、背後にどす黒い獄炎(ごくえん)のオーラが見えた。

 

 かげろうのように周りの景色がゆらいでいる。

 

 やばいやばいやばい! 焼かれる!! 消し炭も残らないほど焼きつくされる!!

 

 誰だ三浦程度のを『獄炎の女王』なんて言ってたのは……!?

 

 由比ヶ浜(こっち)の方がよっぽどだぞ……!!

 

 

 

 

「べ、べべべ、別に何も……な、なぁ比企谷……!? ふ、フツーに話し合って……」

 

 二人の視線から逃れるように、比企谷に目を向ける。私より顔が青い。

 

「……先生、もうダメです……!」

 

 

「「黙れ」」

 

 

 二人のドスの効いたひと声に、ひっ、と比企谷の息が引っ込んだ。

 

 私の息も引っ込んだ。

 

 

 

 

 ……そこからたっぷり、完全下校時刻までの間。

 

 私と比企谷は二人の前に正座させられ、絶対凍気と極大熱炎で極大消滅呪文(メドローア)とか発動するんじゃねって状況の中。

 

 

 

 

 がっっっっっっっっっっっっっつり尋問(じんもん)された。

 

 

 

 

 ここで比企谷が「いや……先生の方からいきなりな……!」と、私をキレ――イに売り渡した。

 

 てめぇこのやろう比企谷……!! 覚えてろ……!!

 

 結局、「比企谷が今回の件を許してくれて、感謝感動のあまりちょっとハグした」、という感じで話は落ち着いた。

 

 雪ノ下たちも「まったく……男子生徒に対して……! 比企谷くんだから問題にならないものの……」くらいで(ほこ)を収めてくれた。

 

 

 

 

 こうして、私の長い月曜日は、なんとかかんとか終わったのだった。

 

 




【いちおう解説】

平塚先生が授業中に言っていた「羽衣製」とは、黒板用チョークのロールスロイスとも言われ、日本だけでなく世界各地の教師、数学者(黒板に数式を書いて頭を整理する)、予備校講師などに愛用者が多い「羽衣文具」製のチョークのことです。

二〇一五年三月末、羽衣文具は国内でのチョーク需要の減少や、後継者がいないことなどが原因で、チョークの生産を終了、廃業しました。

このとき、けっこうな数の関係者が在庫を爆買いしたとのこと。

ただ、国内では引き続き、技術を継承した(株)馬印が、一部の主要チョークの生産を継続することとなり、また韓国の予備校講師が、製造機械をごっそり買い取り、韓国にて同品質のチョーク製造をおこなう事業を始める、と話題になっていました。

いま、どうなってんのかなぁ。

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