「はい、終了っと」
巨大な怪物と化したナイアは口も無いのに声を出す。誰に聞かれるでもない独り言だが、別に誰かに聞いてほしいわけでもない。
未だウネウネと動き続ける触手に覆われた白夜叉を触手の中から外へ出す。気絶してはいるがきちんと息はしているようだ。白夜叉が死ぬところなど想像もできないが………。
怪物のシルエットが縮む。それはみるみる小さくなり、やがて人間の大きさにまでなった。しかし、白夜叉を乗せた右腕だけはまだ怪物の時の触手のままだ。
ナイアが姿を変えると同時に光を放ちながら手元に現れる〝契約書類〟。
ナイアはそれを横目に流し見る。
『ギフトゲーム名:〝太陽は無謀を焼くか〟
勝者:ナイア
※この〝契約書類〟は今後白夜叉への隷属権として使用可能です』
(そういや決闘で勝ったんだよな)
弱体化しているとはいえ、元・魔王の現時点の全力を撃ち破ったのだ。隷属するのは当たり前と言えば当たり前なのだろう。
しかしナイアにしては珍しく、あまり乗り気には見えない。
白夜叉の心は最後まで折れなかった。勝負を決めたのはあくまで〝ニャルラトホテプの物理的な力〟であって〝ニャルラトホテプの精神的な力〟ではない。
徹底的に狂わせて、相手を破滅に導く。それが出来なかったのはニャルラトホテプにとっての、ある意味での最大の屈辱だった。
だから白夜叉の隷属はさせない。ゲームに勝ってなお、その
心が折れないならば、せめてプライドだけでも傷つけていきたい。それがニャルラトホテプが箱庭に戻ってきてからの最初の大仕事だった。
◇◆◇
「うーん………」
ナイアは顎に手を当てる。白夜叉を起こすか起こさないかで悩んでいるのだ。
理由は今いる白夜叉のゲーム盤から出るため。ナイアならば自力でも出られるのかもしれないが、出来れば労力を使わずに出たい。
しかし起こせば白夜叉に突っ掛かられるだろう。絶対に。間違いなく。むしろそうされない理由が無い。白夜叉はナイアの正体に気づいてしまったのだから。
面倒なのは避けたい。しかし労力は使いたくない。ならどうするか。
「……しょうがない、か」
悩んだ末にナイアは白夜叉を起こすことに決めた。地面に下ろし、右腕を戻して体を揺する。
「おーい、起きろー」
「んん……んむ……」
ゆっくりと目を開け、光を取り込む。うっすらとボヤけた視界が次第にクリアになっていき、先程何が起きたかを思い出していった。
思い出したが故に、驚愕から目を見開き、体をガバッと起こす。
「…そうか……私は………」
「ようやく気づいたか〝負け犬〟。現状把握が済んだらさっさと
「…呵呵、その喋り方、一々癪に触るな。」
白夜叉はいつものような笑い方をしているが、その声にいつものような力強さは無い。
「まあよい、どちらにしろ私は負けたのだ。文句など言わんさ。――――後で色々聞かせてもらうがな」
パンッ、と一回柏手を叩く。すると、みるみるうちに世界は目まぐるしく変化し、一瞬で白夜叉のゲーム盤から元の部屋に戻ってきていた。
「よお、随分と遅かったじゃねえか」
そんなナイア達に、胡座をかいて座っている十六夜が声をかけた。ナイアは笑みを浮かべて返す。
「意外だな、お前はきっと退屈に耐えきれずにどっかに行ってると思ってたんだが」
「そんなに子供じゃねえよ、俺は」
若干拗ねたような顔をする十六夜だが、すぐにいつもの薄ら笑いに戻す。
「で、お前はどうだったんだ?――――って、そういうことか」
白夜叉の方に目を向ける。その表情から察したのか、十六夜はそれ以上続けなかった。
白夜叉は座布団に座り、十六夜を見て少し微笑んで、続いて黒ウサギを見た。
「気遣いすまんな。それで黒ウサギよ、今日は何の用じゃ?」
「え?あ、はい!今日は白夜叉様にギフト鑑定をお願いしようと思ったのですが」
ゲッ、と一転して気まずそうな顔になる白夜叉。
「よ、よりにもよってギフト鑑定か。専門外どころか無関係もいいところなのだがの」
白夜叉はゲームの商品として依頼を無償で引き受けるつもりだったのだろう。困ったように白髪を掻きあげ、十六夜ら三人の顔を交互に見つめる。
「どれどれ………ふむふむ…………うむ、三人とも素養が高いのは分かる。しかしこれではなんとも言えんな。おんしらは自分のギフトの力をどの程度に把握している?」
「企業秘密」
「右に同じ」
「以下同文」
「うおおおおい?!いやまあ、仮にも対戦相手だったものにギフトを教えるのが怖いのは分かるが、それじゃ話が進まんだろうに」
「別に鑑定なんていらねえよ。人に値札貼られるのは趣味じゃない」
ハッキリと拒絶するような声音の十六夜と、同意するように頷く二人。
困ったように頭を掻く白夜叉は、突如妙案が浮かんだとばかりにニヤリと笑った。
「ふむ、なんにせよ〝主催者〟として、星霊のはしくれとして、試練をクリアしたおんしらには〝恩恵〟を与えねばならん。ちょいと贅沢な代物だが、コミュニティ復興の前祝いとしては丁度良かろう」
白夜叉がパンパンと柏手を打つ。すると三人の眼前に光り輝く三枚のカードが現れる。
コバルトブルーのカードに逆廻十六夜・ギフトネーム〝
ワインレッドのカードに久遠飛鳥・ギフトネーム〝威光〟
パールエメラルドのカードに春日部耀・ギフトネーム〝
それを見た黒ウサギは興奮気味に叫ぶ。
「ギフトカード!」
「お中元?」
「お歳暮?」
「お年玉?」
「ち、違います!というかなんで皆さんそんなに気が合っているのです?!このギフトカードは顕現しているギフトを収納できる超高価なカードですよ!耀さんの〝生命の目録〟だって収納可能で、それも好きな時に顕現できるのですよ!」
「つまり素敵アイテムってことでオッケーか?」
「だからなんで適当に聞き流すんですか!あーもうそうです、超素敵アイテムなんです!」
そこから先は白夜叉による解説と、十六夜のギフトカードを見た白夜叉が驚いただけで特に目立ったことは無かった。
ふと、十六夜がある疑問を投げ掛ける。
「そういえば、ナイアの報酬はどうなるんだ?ギフトカードは渡してないだろ?」
ピシリと白夜叉の表情が固まる。それに反して、ナイアはニヤニヤと嘲笑いながらポケットから一枚の紙を取り出し、渡した。十六夜はそれを受け取り、固まっている白夜叉と交互に見比べて言った。
「………隷属権か。なるほどな、〝決闘〟に負けるとこうなるのか」
黒ウサギ達も十六夜の後ろから覗き見たその内容に皆一様に目を丸くし、黒ウサギは少し気まずそうな顔をした。自分の連れてきた者のせいでややこしいことになったのに責任を感じたのだろう。
「ええと……ナイアさん、一体これは……?」
「見ての通り、俺はこの元・魔王様に無事勝利致しましたー」
十六夜の手から〝契約書類〟を抜き取り、白夜叉を指して嘲笑うナイア。しかし、黒ウサギにとっては全然笑えない。
コミュニティが壊滅しても〝ノーネーム〟がやっていけたのは白夜叉のおかげと言ってもいい。その恩人が今、箱庭に来たばかりの〝人間〟に隷属されかけている。そんなこと、献身を評価されて箱庭に招かれた〝月の兎〟には到底許容できない。
しかし、黒ウサギに何ができるわけでもない。白夜叉は強大な力を持つ〝星霊〟だ。普通に考えれば、これほどの存在を隷属できる機会を見逃す者などいないだろう。
だからこそ、黒ウサギにとって、次のナイアの言葉は天恵にも等しかった。
「でも俺は優しいからさー。
は?と声を上げたのは黒ウサギではなかった。それは間違いなく、今渦中にある白夜叉の口から発せられたもの。
「……貴様、正気か?」
「そう言う君はもっと喜んだ方がいい。俺のお情けで晴れて自由の身になれるんだぜ?」
そう言ってヒラヒラと白夜叉の前で〝契約書類〟をちらつかせる。ポカンとする顔を引き締め、白夜叉はナイアの続きの言葉を聞いた。
「それにさ、俺は
ナイアはこう言っているが、実際はそんなことありえない。〝契約〟による束縛がある以上、この箱庭にいる限りそれからは逃れられない。一度隷属した相手に反逆をするというのなら、主が認めた上でそれを解消しなければいけないのだ。拘束されている場合の脱出や逃亡はその限りではないが、原則反逆など出来るはずがない。
黒ウサギはそのことを知っていても、あえて口にしなかった。ナイアが白夜叉を解放するというのなら、それに越したことはないからだ。
ナイアは両手で〝契約書類〟を持ち、真っ二つに引き裂く。丸めて無造作に投げ捨てられたものはゴミ箱に入るわけでもなく床に落ち、光のように消えていった。
それはすなわち、ナイアが白夜叉の隷属権を破棄したことを意味していた。
黒ウサギは意図せず顔が綻んだ。よかった、よかったと心の中でしきりに呟いて歓喜する。しかし彼女は気づかない。それはつまり、白夜叉はナイアの情けを受けたことになるのだと。黒ウサギは無意識の内に、白夜叉をナイアより下に位置してしまったのだということに。
これがナイアの狙いだった。隷属権を破棄して、白夜叉のプライドを傷つける。白夜叉は頭がいい。かつて魔王として、そして今階層支配者として君臨している以上、かなりの数のゲームをしてきた。その結果として、思考は磨かれ、脳は研ぎ澄まされる。だからナイアの意図を理解するのに、難しいことは何もない。
だからこそ彼女は悔しかった。黒ウサギの中で、彼女のお気に入りの中で〝ナイア>白夜叉〟の方程式が成り立ってしまったことが、何よりも屈辱だった。
しかし、彼女は何も言えない。黒ウサギに〝ナイアより下に見ないでくれ〟などとどうして言えようか。白夜叉は負けた。現時点で、ナイアに手も足も出なかったという事実は覆りようがないのだから。
唇を噛み締めてナイアを睨むが、本人はそんなの気にしていないとばかりに振る舞う。それが更に癪に触った。
「貴様……随分と嘗めたマネをしてくれるな…………!」
「何を言う。俺はお前を解放した、感謝こそされど、怒られる謂れは無いはずだがねぇ?」
もう怒気を隠す気すら失せてしまう。部屋はカタカタと揺れ始め、飾ってある花瓶が落ちて破片を撒き散らす。キャッ、と短い悲鳴が聞こえるも、今の白夜叉に気にする余裕はない。
「ま、待ってください白夜叉様!何をそんなに怒っているのですか?!」
ハッと我に返る白夜叉。バツが悪そうに俯き、謝る。
「…す、すまんな黒ウサギ。少々取り乱した……」
「い、いえ……。それよりも白夜叉様、もしかして、ナイアさんと何かありましたか?」
「ッ!」
白夜叉は息を飲む。黒ウサギはナイアにも目を向けた。
「おかしいとは思ったんです。白夜叉様は私が最後に見た限りではナイアさんを〝おんし〟と呼んでいたはずです。なのに、部屋に戻ってきたら〝貴様〟と呼んでいる―――――単刀直入に聞きますが、あなたは白夜叉様に何をしましたか?」
天真爛漫な黒ウサギらしからぬ、問い詰める姿勢。ナイアはケラケラと嘲笑って返す。
「〝何をした〟って……やだなあ、
「〝ただの人間〟が白夜叉様に勝てるとお思いですか?」
「……へえ、意外と踏み込んでくるね。正直、そこまで人に干渉するような娘だと思ってなかったんだけど」
ケラケラという軽薄な笑いではなく、口を三日月のように歪めた冒涜的な笑みに寒気を催す。しかし、ここで物怖じしてはいけないと震える喉で声を絞り出す。
「白夜叉様が理由も無く突然怒るとも思えません。それに、〝決闘〟で決まった隷属であるなら、きっと白夜叉様は甘んじてそれを受け入れるはずです。なのに……」
思い出されるのは部屋に戻ってきたときの白夜叉の表情。〝決闘〟が終わって雌雄を決したにも関わらず、あそこまで苦い表情をするとは思えない。白夜叉という人物を知っていれば、なおのことそう思う。
「だからこそ、私は何かあったと思うんです。だから教えてください。私には、あなたを箱庭に招待した者として、それを知る義務があります」
いつになく真剣な表情の黒ウサギは必死にナイアに訴えかける。しかし―――――――ナイアはそれに嘲笑いで返した。
「―――ハッ、だってさ。どうするよ
黒ウサギは驚愕する。それもそのはず、〝白夜王〟とは、白夜叉の魔王時代を知る者しか使わない呼称だからだ。そこから導き出される結論はつまり――――
「……そうだな。ここで知らさなくとも、どの道知ることになるだろう」
重い声で答える。
白夜叉は言いにくいことを伝えるようにゆっくりと口を開く。
「のう黒ウサギよ。おんしは間違いなく、異世界から最強のカードを引いた。………ただ、その中の一枚は、自分でも制御できない最悪のジョーカーだったがな」
端から聞いていた十六夜には次に白夜叉の言う言葉が予測できた。それは、彼自身も考えていた〝ある仮説〟だったからだ。
あの黒い〝契約書類〟、燃える森、平石に書かれた貌の無い怪物、そして燃えながらもなお光など見出だせないほどの虚無を湛える貌の正真正銘の〝化け物〟。
道化師は………トリックスターはいつ現れるかわからない。それはもしかしたら、日常に静かに這いよってくるかもしれない。
そして、白夜叉は告げた。
「〝千の貌を持つ魔王〟ニャルラトホテプ。数千年前に箱庭に現れた、最悪の魔王だ」