〝やらかした〟、ナイアが抱いた感情はそれだった。
白夜叉の精神はもうボロボロになりかけていたのだ。度重なるストレス、見せつけられる狂気。どれほどまでの力を持とうとも、どれほどまでの年月を生きようとも、それらは全てニャルラトホテプの前では無に等しい。
魔王の名を捨てて久しく、死という概念から余りにも長く離れすぎていた白夜叉という
あとはほんの少しの光を闇に染めればいい。遠くから見れば輝く光は、掴んでしまえば容易く壊れる幻想と化す。人は初めて、希望など常世には存在しないことを知る。
自分のせいで友人が狂う。自責の念に囚われてしまえば人はそう簡単には抜け出せない。白夜叉の心を完全に閉ざして初めて、ナイアは白夜叉に勝利したと嘲笑って言えるのだ。
逆に言えば、それが出来なければナイアは白夜叉との決闘すらも無かったこととして扱うかもしれない。
話を戻そう。ともかく、ナイアにとって黒ウサギが狂うという言葉は闇へと誘う悪魔の囁きのような言葉のつもりだった。これで白夜叉の心が折れてくれれば、その時点でナイアは宣言するつもりだったのだ。
〝東の階層支配者はこの程度だった〟と。
心を折り、信頼を砕き、その全てを無くさせてから歩く箱庭はさぞ美しく見えることだろう。はるかに見える太陽は虚しく輝き、その光は闇に陰ることだろう。
しかし現実はどうだ。白夜叉の目はまるで白き空に浮かぶ太陽のように輝き、その魂は陰るどころかさらに光を増した。
ようやく悟る。白夜叉に対して〝友人がひどい目にあう〟というのは絶対に言ってはならない禁句だったのだと。その言葉こそ、彼女の本気を超えた怒りを引き出すスイッチだったのだと。
ニャルラトホテプにしては珍しい、感情の読み間違い。それは箱庭に戻ってきた昂りからか、それともただ白夜叉を嘗めすぎていただけか。
答えなどナイア自身すらわからない。彼を動かす感情など、娯楽と愉悦、狂気に染まったありもしない忠誠心が軸になっているいくつもの人格が混ざった闇だ。そもそも、今考えていることさえ無限の貌の中の一つが思ったことにすぎない。貌を変えれば、その役に成りきるのがニャルラトホテプという邪神が取るべき行動なのだ。
実際、それが破られることは幾度もあったが。
(これは少し手こずりそうかな………)
過去の〝ある出来事〟が原因で
「さて、覚悟は出来ておろうな」
白夜叉が一歩踏み出す度に地は割れ、そこに炎が流れる。陽炎がユラユラと揺らめいて、それを切って白夜叉は更にナイアに近づく。
煙が晴れ、ナイアの姿が薄っすらと見え始めたところで白夜叉は足を止めた。
◇◆◇
怒り。
白夜叉の心はそれに支配されていた。しかし頭は自分でも驚くほどクールだ。
どこに、どうやって、どんな攻撃を入れれば相手が怪我をするのかわかる。
よって白夜叉は勝利は既に確定していると確信していた。
「残念だったな腐れ外道。私はあれで折れるほど弱くはないということだ」
故に生まれた余裕。慢心ではない、勝者の余裕。
先程のナイアへの打撃、手応えはあった。確実に胸を吹き飛ばせるだけの力を込めていたし、死ぬ………とまではいかなくても、せめて瀕死の状況まで追い込めると思っていた。
しかし、ここで気づいておくべきだったのかもしれない。
その〝手応え〟というのが、少し妙な感触だったのを。
「クハッ………」
煙の奥から小さく漏れる笑い声。生きているのはそれだけで一目瞭然だった。
次の瞬間、
「クッハハハハハハハハハハハハ!!」
冒涜するかのように、嘲笑うかのように響いたその声は、それだけで白夜叉を不快にさせた。
煙が晴れる。シルエットが映し出され、その姿が見えてくる。そこには―――――
――――胸に大きな風穴を開けながらも立っている、ナイアの姿があった。
「ッ?!」
白夜叉は絶句する。それもそうだ、だってその胸の穴からは、
気持ち悪い。それはそれは気持ち悪い。
地に垂れたその液体は地面の僅かな傾斜に沿ってゆっくりと流れ、割れた地面に吸い込まれていく。ナイアが動く度にその液体は更に垂れ、同じ動きを繰り返す。しばらくするとナイアの胸の穴の内側が盛り上がるようにウネウネと動き始め、埋めるようにその穴を塞ぐ。それと同時に服も修復され、何事も無かったかのような状態へと戻った。
白夜叉はその様子を見てゆっくりと口を開く。
「………貴様、本当に人間か?今のを見る限り、とてもそうは思えないのだが……」
「さあね?そういうのは自分で確かめろよ」
クカカカと嘲笑が木霊する。ナイアが一文字発する度に白夜叉の中に苛立ちが募る。〝いい加減バカにするのをやめろ〟と叫ぼうとした、その刹那。
突如白夜叉の眼前に〝異物〟が出現した。
「ッ?!」
間一髪身を反らして躱す。白夜叉は高速で通りすぎるそれが〝ナイアの足〟だということをすぐに理解する。
「あっれ~?今のは当たると思ったのにな~」
不意打ちの最中、呑気な声でそんな事を言うナイアに対して少しの戦慄を覚える白夜叉。しかし、ナイアはそんなことを知ってか知らずかにやりと顔を歪めた。
瞬間、ナイアは白夜叉を蹴ろうとした足を軽く後ろへ引く。それによって体を反らして不安定になっていた白夜叉の体は後ろへ傾く。
さらにナイアは倒れる白夜叉の頭を掴み――――――
ズガン!
――――思いきり地面に叩きつけた。白夜叉の後頭部に走る強い衝撃。苦悶に表情を歪めるが、その表情はナイアには手によってよく見えない。
白夜叉はその手を振りほどこうとしたが、何故かナイアが手を少しずらした。白夜叉の頭に疑問が生まれるが、それは開けた視界に映る光景によってすぐに打ち消された。そこには―――――
顔を愉悦を含んだ嘲笑に染めたナイアが、恐らく錬金術で生み出したであろう長い杭を持っている様子が映っていた。
何をされるか察した白夜叉が逃げようとするが、ナイアが頭を掴む力を強めたせいで逃げられない。次の瞬間、
「ッ!アアアアアアア!!」
腹に激痛が走る。ナイアが杭を突き刺したのだ。腹から滲む少しの温もりのある液体が服を伝う。しかし、
――――ナイアが、
ナイアは足を振り上げ、
「ウアッ―――アアアァアアァアアアアアアアァアアアアアアッッッッ!!!!!!!!」
ナイアは白夜叉を縫い付ける杭に足を乗せて、覗きこむように白夜叉に顔を近づける。
「なあ、どうだ、痛いか?」
痛いか、という答えが決まりきっている問いを発するナイア。当然、痛いに決まっている。いつも以上に赤い口を白夜叉が開こうとしたとき、ナイアが割り込むように言った。
「ああ痛いだろうな、当然だ。お前の答えなど聞く必要もない」
その言葉にギリッと音が鳴るほど歯を強く噛み締める白夜叉。出来ることなら〝なら聞くな〟と叫んでやりたい。
「でもさあ、よく考えてもみろよ。お前は生きてるだろう?だけどな、お前に殺されたやつらはどうだ?」
ふと白夜叉の脳裏に過る先程の〝怪物〟達の死に様。視界の端に見えた自分の手が自分の血で赤く染まっているのが、妙に醜く見えた。
「お前の手は血で染まりすぎた。殺しすぎた。壊しすぎた。最早その手に染み付いた死の怨嗟は何度洗い流しても消えることはないだろう」
どんな生き物にだって大切なものはある。それは家族かもしれないし、友人かもしれない。はたまた同じ生き物ではなく、ただの物かもしれないし、もしかしたら自分の信じる信念かもしれない。
生き物を殺すということは、それらが大切にしていたものまでも一緒に壊してしまうことに他ならない。
「お前が今階層支配者と呼ばれようとも、それは所詮お前が積み重ねてきた
「………
「ああ?」
「……黙れ………外道が………」
「…………」
グリィ
「ッ!アアア―――!」
見下した目で白夜叉を縫い付ける杭を足で捻る。白夜叉は苦しみの声を漏らす。
「黙れ?何を言ってるんだよ〝大量殺人鬼〟」
ナイアの言葉に眉を顰めつつも、血で塞がる喉をこじ開けて白夜叉は言う。
「…………貴様には……わからんだろうな……人が罪を償うために……どれほどの苦しみを課せられてきたのかを………」
「…………」
無言。白夜叉は続ける。
「……人は悩み……苦しみ………贖罪によって今を作ってきた………。どれほどの過ちを繰り返そうとも………切り抜けてきた…………。過去に傷が付いたら終わりなのか………?上塗りではいけないのか…………?」
「…………」
無言。ナイアは何の行動も起こさない。
「……貴様にはないのか……?人の罪を共に背負ったことが………?人の苦しみを感じたことが………?答えてみろ……貴様には……誰かを大切に
「ベラベラうっせえんだよ」
ズンッ!
「――――ガアアアァアアアアアアアアアアッッッッ!!!」
ほぼ白夜叉の体に埋まりかけている杭を更に押し込み、めり込ませる。血が更に吹き出、ナイアの服を汚す。
「黙って聞いてりゃ偉そうに………俺はお前に教えを乞うた覚えは無いぞ?」
「……それでも………!」
「……へえ」
白夜叉の上半身が少しずつ浮き上がる。杭が刺さっている部分から血が勢いよく吹き出てさらに地面に赤いアートを書き上げる。
「……それでも私は……人はやり直せると信じている…………!!!」
杭が地面から抜け始める。ナイアは本能的にか、少し飛び退いてしまった。次の瞬間。
光が――――辺りを包んだ。
ナイアは目を覆う。それは余りにも強すぎた光。混沌の中に生きてきた者には、身に余る恩恵。
人はそれを神と呼んだ。人はそれを見上げていた。
人はそれに憧れるだろう。人はそれを怖れるだろう。
それほどまでにそれは圧倒的だった。
「――――これで封印されてるとか、冗談きついぞ」
ニャルラトホテプらしくもない、初めて見せた動揺。
決意とは、これほどまでに力強いものなのか。
少しの戦慄を覚えながらも、軽く身構える。
瞬間、左腕に走る違和感。
いや、正確には
「―――んん?」
首を捻って後ろを見る。そこには宙に浮く〝自分の左腕〟と、それをやったであろう白夜叉が立っていた。
ナイアはそれを見て口を歪める。
「へえ……やるじゃん」
「褒めていただき光栄―――とは一切思えんな。不思議なものだ」
「いいや、全然不思議じゃないぜ?俺の言葉を真面目に受け止めないその姿勢には関心だ」
「中々妙な事を言いよるな」
「でしょ?結構気に入ってんだぜこの口調」
左腕をもぎ取られたにも関わらず変わらない軽口を叩くナイアを見て、白夜叉は余計にナイアが人間とは思えなくなってくる。
「貴様、本当に何者だ?」
「だから言ったじゃないか、そういうのは自分で確かめろって」
苛つく言い方だ。ケラケラと嘲笑いながらだと余計にそう思う。
「ふむ、ならばそうさせてもらおう」
白夜叉は低く身を屈め、
「かのッ!」
勢いよく飛び出した。今はもう〝怪物〟の壁は無い。減速することなくナイアまで到達した白夜叉は拳を引き絞り、放つ。ナイアはそれを体を三日月のように曲げることで躱した。
白夜叉は更に追い討ちをかけるべく拳を横へ振る。ナイアはジャンプして腕を踏みつけ、その勢いで一回転して踵落としで白夜叉の頭を狙う。しかし白夜叉はその足を掴んで岩に投げつけた。
岩に衝突したナイアはすぐに体勢を立て直しソニックウェーブを起こしながら突進してくる白夜叉を迎撃する。体を低く、地と水平になるまで屈め、真上を通りすぎる白夜叉を右手で殴る。真下からの衝撃をその身に受けた白夜叉は一瞬体が宙に浮くが、続いて放たれたナイアの蹴りによってすぐに横にはね飛ばされた。
何度か地面を跳ね引き摺られるが、何とか立ち上がる。そして再び突撃を開始した。あと数センチでナイアの首筋に手が届くという距離。しかし―――――――
―――――それはすぐに阻まれた。
突如動かなくなる体。どれだけ力を込めようともビクともしない。原因を探ろうと目を動かす。見れば自分の体は
「いやあ、こんなに簡単に捕まってくれるとはねえ」
ナイアが口を歪める。そしてどこかへ歩いていくと、ナイアは自分の左腕を持って戻ってきた。
ナイアはまるでその左腕を見せつけるようにヒラヒラと動かして言う。
「それ、何だかわかる?お前を縛ってるそれだよ」
白夜叉には検討も付かない。今まで見た中にこんな拘束具は無かった。
「まあ、わかるわけも無いか。正解は~」
右腕に持った左腕を白夜叉の前に持っていく。すると――――
「
ドロリと溶けた。それは地面に落ちた瞬間動き始め、白夜叉の方に向かう。足を伝い、胴を伝い、頬を撫でる。凄まじい嫌悪感が白夜叉を襲った。
「便利だよねえ俺の体液。こんな風にも使えるんだから」
白夜叉は思い出した。ナイアの腹から漏れるあの黒い液体が地面のヒビに吸い込まれていったのを。まさかあれがこのような役割をするとは夢にも思ってもいなかった。
恐らく誰も想像できまい。こんなのは、明らかに人知を越えているのだから。
体液を固体として使うなどとは、普通は誰も出来ないような芸当だ。液体を扱うギフトを持つ者は多くいるが、ここまで特異な者はいない。
「どれだけ力を入れても、そう簡単には千切れない。仏門に下って力が落ちてるお前なら尚更な」
確かにナイアの言う通り、全然千切れない。伸びるわけでも縮むわけでもなく、ただただ白夜叉をそこに固定しているだけなのに。
さらに、ナイアにもとある変化が起きた。
無くなった左腕の千切れた部分がモゾモゾと動き始める。黒い液体が滴り、肉がさらに奇怪なダンスを踊る。そして、
―――ズルリ
と、音がしそうなほど滑らかに、しかし悍ましく、断面から〝何か〟が飛び出した。
赤黒い、まるでタコの足のようにも見える〝それ〟は、白夜叉の方に向けられ、そっと頬を撫でる。黒い液体が白夜叉の頬に跡をつけた。
気持ち悪い。気色悪い。白夜叉の頭はそれで埋め尽くされた。
と、そんな白夜叉にナイアは不意に口を開く。
「……ところでさあ、お前気づいてる?俺がお前のこと、
白夜叉はこれまでの戦いを思い出す。確かに、ナイアとは途中で何回も話した。その度に怒りが湧き、心も折れかけた。しかし、ナイアが使った二人称は〝お前〟だけだったのだ。
「なぜ……貴様は私の名を呼ばないのだ?」
当然の疑問。ここまで言われれば疑問に思わないほうが難しい。
ナイアは答える。
「いやね、昔のお前を知ってるとどうしてもその名前は違和感があるんだよ
―――――ねえ、
「ッ!?」
なぜその名で呼ぶ。なぜ貴様がその名を口にする。
「ああ、
ベキリ
ゴキッ
ナイアの体から鳴る異音、肥大化していく体。
グチャッ
ニチャッ
変質していく手足、赤黒く染まる皮膚。
白夜叉はようやく悟った。自分が何を相手にしていたのかを。
「まさか…………貴様は………」
貌に覗く黒より真っ黒な虚無、そして見えるはずのない嘲笑。
「ああ、そういや、お前俺のこと散々小僧とか言ってくれたな」
冒涜的な声、狂気を孕んだ存在感。
「その言葉、そのまま返すよ。――――調子に乗るな、小娘が」
それは―――その名は―――
震える声で、不意に漏れた言葉。
「まさか…………」
まさか、と思いたかった。ありえないと思いたかった。しかし、目の前のこれは明らかに現実だった。
「貴様は…………ニャルラト……ホテ…………」
伸ばされる触手に呑み込まれ、白夜叉の意識はそこで絶えた。