〝ノーネーム〟の本拠には巨大な地下階層が存在する。
今となっては見る影もないが、かつては栄華を誇った一大コミュニティの跡地。子供が数十を超えて百人単位で収まる広大な屋敷と、その人数を以ってして
そして当然、残されたそのスペースは横に限らず縦にも広がっている。
本拠地下三階。そこは莫大な量の書物が収められた書庫だ。見渡す限りの本棚と、床から天井を繋ぐほどの高さを持つそれにびっしりと隙間なく詰められた本の数々。その数は、初めてここを訪れた時に問題児筆頭逆廻十六夜が十万を超えた辺りから数えるのを諦めたほどである。
目算で見積もってもその十倍以上は軽々と超えるであろう宝の山の中心で、今、十六夜は目を覚ました。
「……ん……御チビ、起きてるか?」
「……くー……」
水没して壊れたヘッドホンの重みを確かめながら、彼は傍らで分厚い本に頭をもたれて眠っているジン=ラッセルに問いかけた。
返ってきた返事は幸せそうな寝息。そりゃそうか、と十六夜は当然のものを見たと言いたげに、閑散とした書庫に欠伸を響かせた。
ここ最近の十六夜にとっては見慣れた光景である。朝早くに本拠に用意された部屋を出て、書庫に向かい、月が高くなるまで本を読み漁る。もしくは、朝早くから街へ赴いて、開催されているギフトゲームで賞品を軒並み掻っ攫ってきてから本を読み漁る。それが、ペルセウスとの一件が片付いた後の一ヶ月間の十六夜の生活サイクルだった。
知識はいくらあっても足りない。以前の世界では、世界に神秘などないことに半ば絶望にも似た悲嘆を抱いていた彼だったが、箱庭に来てからはそうではない。
空が青い。天幕に覆われた見渡す限りの未知の群れが、波濤となって
元より勉強家の気があった十六夜には、そのサイクルを繰り返しても飽きるなんて無縁の言葉だった。超人並みの体力と集中力の成せる技だ。それに付き合っているジンの忍耐と向上精神は褒められて然るべきだろう。
しかしそれでも、彼とて一応人間の範疇に入っている生物だ。こんなことを一ヶ月も続ければ体力の限界も訪れるというもので、昨夜はついうっかり眠りこけてしまった。〝ノーネーム〟の子供達には難しい書物ばかりが揃っているので、早起き自慢の幼子ですらここに来ることはない。結果、すっかり彼ら二人は夢の中に
────昨日はどこまで読んだっけなぁ。
寝てる間に取り落としてしまったのであろう、足下に転がる一冊の本を取り上げて、十六夜はページを右から左へ流していく。
紙が捲れる小さな音が、何も聞こえないヘッドホン越しに十六夜の脳を叩く。それに呼び起こされるように、思い出したのは一ヶ月前────レティシアが帰還した日のことだった。
クルーシュチャ方程式から飛び出した黒い男。忌々しい邪神。その嘲りは、今でも耳に焼き付いている。
十六夜が日夜この書庫に入り浸っている理由は他にもある。未知を求めて。それは当然として、もう一つ────ニャルラトホテプについてを知るためだ。
クトゥルフ神話に語られる神性。変幻自在のトリックスター。ラヴクラフトの夢から生まれた災厄。そんなことは知っている。十六夜が求めたのはそれ以上のこと、即ち表の世界には伝わっていない
数千年前、白夜叉を陥れた全容は、他ならぬ白夜叉本人から聞いた。わずかな期間で二つの街を壊滅に追いやり、天軍の長たる帝釈天をも表舞台に引きずり出した挙句、最終的に白夜叉が仏門に下り弱体化する契機を作り出した。
当然、そんなことは表の世界の記録にはない。表の世界で語られるクトゥルフ神話とは、ラヴクラフトが原型を作り、その文通仲間が世界観を広げ、後世百年近くの短い期間の間に、謂わば二次創作的に設定が付け足されていったものだ。
オーガスト・ダーレス、クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・ブロック。もっと有名なところで言えば、モダン・ホラーのパイオニアとされるスティーヴン・キングですらそこに含まれる。
厳密に定まった設定というものを持たないクトゥルフ神話という作品群の中でも、一際異質なのがニャルラトホテプだ。何せ、この邪神は
最初にラヴクラフトが夢にその存在を見て、それを作品にした。それを知った文通仲間が、ニャルラトホテプを自分の作品に登場させた。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そしてまた他の作家が同じことをした。そして、そして、そして、そして、そして、そして、そして、そして、そして。
そうなると、一つの不都合が生まれる。
〝結局、この邪神はどういうものなんだ?〟
誰一人としてニャルラトホテプの詳細な設定を組み上げることはしなかった。各々が自分の好きなニャルラトホテプ像を作り上げ、それがいくつも積み重なり、矛盾の塊のようなナニカがそこにできてしまったのだ。
当然、これには誰もが困った。好き勝手なイメージで塗り固められた〝ニャルラトホテプ〟という名前だけが一人歩きして、きっとこの邪神ならこういうことができるだろうというご都合主義が押し付けられてきたのだ。
そんな時、誰かが言った。
〝なら、それを全部できるようにしよう〟
結果、ニャルラトホテプは〝無貌〟になった。この邪神に、忌々しい生物ども以外からの信仰があるとすれば、それは作家からのものに他ならない。展開に詰まった。設定に無理がある。関係性が矛盾している。そんな時、合法的に使えるご都合主義はないものか。出しても批判が少なく、「ああ、こういう物語だったのか」で片付く
物語を綴る者たちが、誰もが一度は願うこと。テーブルの上に走るインクを、ペンの先から滲み出す物語を、これからも続いていくのであろう
そんな願いの果てに生み出されたものがニャルラトホテプなのである。箱庭にも本があるのだから、それを書いた作者がいる。なら、どこかにいないだろうか、ニャルラトホテプについて書かれた本が。
自堕落な作家たちの願いの受け皿を、十六夜は探していた。
箱庭に存在する修羅神仏たちは、基本的にはその逸話や史実を辿ることで打倒することが可能だ。それは彼らがギフトゲームを自らに因んだものにすること以上に、それが明確な弱点として存在するからである。
ギリシャのアキレウスなら踵が不死性の抜け穴であるように。北欧のオーディンがフェンリルに飲み込まれたように。そういった、過去の資料に基づく弱点が、箱庭では顕著に現れる。
故に、十六夜はニャルラトホテプに関しての文献を探していたのだ。もしかしたら、表の世界に伝わっていないだけで、奴には何か付け入る隙があるのかもしれないと、そう考えて。
────これは読み終わっていたか。
拾った本は既に昨夜の段階で後書きまで到達していた。最後の一行を読み終えて、手にした栞を机に置く。
書庫に静寂が戻る。薄暗い天井を仰いで、薄く目を閉じる。
一度は去った眠気が再度十六夜を襲う。うつらうつらと夢と現実の境が曖昧になろうとしていた、その時。
「十六夜君! 何処にいるの!?」
同じコミュニティの仲間、兼問題児組の同胞である久遠飛鳥が、散乱した本を踏み台に十六夜へとシャイニングウィザードで強襲した。
あまりにも鮮やかな姿勢と鋭い衝撃。食らえば常人ならひとたまりもないことは確定的に明らかな一撃。その戦意にあてられ一瞬で目を覚ました十六夜が防御に持ち出したのは、隣で涎を垂らして眠りこけるジン=ラッセルその人だった。
響く鈍い打撃音。次いで、美しい三回転半の螺旋軌道を描いて吹き飛んでいく深緑の少年。本棚に激突し、無数の本の山に埋もれた。後から書庫の扉を通り抜けた、飛鳥を追ってきたのだろう狐耳の少女・リリが驚愕の悲鳴をあげる。
埃が舞う中、目を回しながら本の中から頭をさすってジンが起き上がった。否が応でも眠気は醒めて、気絶一歩手前の意識を揺れる頭で認識する。
────その時。
バサリ、と。他より遅れて、本棚の上から一冊の本がジンの上に落ちてきた。それは他の書物と同様辞書さながらの分厚さを持ちながら、しかし他とは違う異質感を放っていた。
「……なんだろ、これ」
視界の端で〝サウザンド・アイズ〟の蝋封がされた招待状を掲げる飛鳥も、面白そうだと笑う十六夜も目につかないほどに、ジンはその本から目が離せなくなっていた。何故かはわからない。しかし、彼はその重さや装丁の質感、そして何より
そっと手を伸ばし、表紙に指をかけ、いざその中身を読み進めようと本の世界へ自らを潜り込ませようとした────刹那、〝それ〟はいた。
「あー、面倒なんだよね、それ」
ジンの追突した本棚の正面、その上方。天井近くの本の上から、この世全てを見下すような声音が木霊する。
その声にいち早く反応したのは十六夜だった。声の主も視認しないまま、手近にあった椅子を掴み第三宇宙速度で投擲する。結果生まれる風圧と衝撃波が辺りに広がり、飛鳥たちは防御を余儀なくされた。
その中で、下手人たる十六夜だけはじっとその一点を見つめて警戒態勢を解かなかった。というのも、彼には一つ不可解なことがあったからだ。
椅子を投げつけた先ではもうもうと埃が舞っている。ある程度の質量を持った物質を超速度で投げつけられた故にそれは当然の結果であるが────しかし、それならば何故
煙が晴れる。答え合わせだと言わんばかりにゆっくりと明瞭になっていく視界の中で、十六夜たちはそれを見た。
彼らの瞳の向けられた先、ニャルラトホテプは嗤っていた。投げつけられたはずの椅子を手に持ち、余裕にも見えるような三日月を口に湛えて。
そこまではまだいい。十六夜とてこれで奴に傷をつけられるとは一切思っていなかった。問題はその後で、その行動こそ十六夜が真に驚愕したものだった。
ニャルラトホテプが腕を引きしぼり、後ろ手に構える。その腕が異形の肉塊へと変質し、木製の椅子を轢き潰していく。十六夜はニャルラトホテプの意図を察し、自らの後ろにいる飛鳥たちに向かって叫んだ。
「全員伏せろ────っ!」
そして放たれる木片の凶弾。十六夜は仲間を守るため、一人それに立ち向かう。
十六夜が驚いたのは、反撃されたことそのものだ。彼がニャルラトホテプと遭遇してからの一ヶ月間、敵対的な立場となったことは確定しつつも
五体を駆使して飛来する礫を叩き落とす。顔目掛けて飛んでくるものを右手で握り潰し、胴体目掛けて飛んでくるものを左足で踏み潰し、飛鳥と耀を狙ったものは先ほど潰した木片で撃墜した。
凡そ一秒にも満たない攻防。その
ニャルラトホテプは、どういうわけか〝ノーネーム〟の面々に対して直接的な危害を加えようとしない。そんな奴からの突然の攻撃────何か裏があると、十六夜は考えた。
実際、その思考は当たっていた。全ての凶弾を撃墜し終えた十六夜がニャルラトホテプの方に目を向ければ、そこにいるべきはずの影はなかった。
────どこだ。どこへ行った。
全感覚を研ぎ澄まし、居場所を探る。無論、十六夜とてこの程度であの邪神が見つかるとは思っていない。気配を感じ視認する程度で見つかるのなら、ニャルラトホテプは変幻自在のトリックスターなどと呼ばれたりしない。
上を見る。いない。横を見る。いない。下を見る。いない。当然、飛鳥や耀の様子も探る。彼女らは驚愕に顔を染めてこちらを見ているのみ。二人目が出現していたりしない辺り、ニャルラトホテプが変身している可能性はないだろう。
ジンは何が起きたのか理解できていないのだろう。本に埋もれたまま、困惑しがちに十六夜を眺めるばかりだ。正真正銘、ニャルラトホテプは彼の視界から消え去っている。
「アイツ、どこへ……」
「ここだよ」
瞬間、一つの本棚が崩壊した。
降り注ぐ書物の雨。その一つ一つが意思を持っているかのように十六夜を狙う。ここだよ、という言葉の意味。それがただの本の群れなら、たとえ万の数が殺到しようと十六夜が意に介することはない。そうではないからこそ、ニャルラトホテプは彼の上を行く。
落ちてきた本に変化があった。ページの一枚一枚が嘲るように
十六夜は理解した。先程のニャルラトホテプによる攻撃、その意味を。
即ち、アレは単なる
要するに、この本の雨の全てはニャルラトホテプの肉片なのだ。意思を持っているようだ、など当然のことであった。その通り、これは
振り払おうと身体を捻るも解けない。その間にも次々と本は十六夜を囲み、その重圧を彼に押し付けていく。
白夜叉に貰った〝ギフトカード〟によってさえも
「しばらく座ってなよ。なに、大丈夫だ、変なことはしないさ」
本の幾つかが集まり、不気味な肉となって結合する。そこから現れたのは、影を塗り固めたかのような姿の邪神。
「お前たちも大人しくしてるといい」
ゆらり、と影が捩れるように飛鳥と耀の方を向いた。そこにいた彼女らは、片や剣を構え、片や身体に頑強な獣の力を宿した状態だった。今にもニャルラトホテプに襲い掛かりそうな体勢で邪神の視線に縫い止められた少女たちは、向けられた混沌の瞳から抜け出し奴に一泡吹かせる方法を知らず、ただ中途半端に立ち尽くすしかできなかった。
「────いい子だ」
問題児三人を抑え、ニャルラトホテプはジンへと向き直った。滑るように、或いは這うように、本に埋もれる彼の前へと立つ。
「まさか、そんなものが〝
まあいい。どちらにせよ、それは渡してもらう」
影が蠢く。まるで産まれたばかりの幼子の頸に
ジンはただそれを見ているだけだった。抵抗も逃走もしない。できない。ただ、目の前の邪悪に呑まれている。まだ十一しか歳を重ねていない少年に、果たしてその時何ができたというのか。あらゆる意味で桁違いの相手による魔手を払いのけられる力は、今の彼には無かった。
そして、その手が本に触れようとした────次の瞬間。
「っ────」
閃光が走る。ニャルラトホテプの手が弾かれたように吹き飛び、遠く離れた本棚にぶつかりトカゲの尻尾のように脈打つ。
人間で言えば、例えるなら冬場に金属に触れた時に静電気が走ったようなもの。しかし、その威力は片腕を消し去るのに十分なものだった。
消えた腕をしばらく見つめ、やがて視線を本へと移す。それを抱えるジン自身事態をよく理解していないようで、これまでの中で一番ともいえる困惑を露わにしていた。
「えっ……なに、が……」
「驚いた。ああ、純粋に驚いた。そいつにそこまでの力は本来存在しないんだが……いや、普通に考えればわかることか。そういえば、ここは箱庭だった。旧神の印に旧支配者を退けるだけの力を宿せる神仏がいてもおかしくはないのだろう」
ぽつりぽつりと言葉の雨を溢す。全員が突然の出来事に唖然とする中、十六夜だけがニャルラトホテプの言葉を正確に理解していた。
ジンの持つ本に描かれているのは〝旧神の印〟と呼ばれる魔術的印章である。ニャルラトホテプが〝白女〟と呼んだ
ニャルラトホテプは後世の創作により〝外なる神〟に分類されたとはいえ、本来その呼称はヨグ=ソトース単体を表す名称であり、アザトースやニャルラトホテプを含む一派が旧支配者として数えられること自体は珍しくない。故に、旧神の印がニャルラトホテプの手に反応したことは不思議なことではないのだ。
問題は、先の発言の通り旧神の印には邪神クラスの存在を退けるだけの力はないということ。本来であるならば、ニャルラトホテプの手は旧神の印による妨害を容易く食い破り、ジンから本を奪い去っていただろう。
それができなかった。意味するところは即ち、ニャルラトホテプへの明確な対抗手段が一つ存在することが明らかになったということ。
「旧神さまさまだな。流石、オーガストが善と呼んだだけはある」
パチン。ニャルラトホテプが残った片腕の指を鳴らす。それだけで十六夜を縛っていた本は全て消失し、彼は自由な身となった。
「どういうつもりだ」
「どうも何も、もう必要ないからだよ。片腕吹き飛ばされてムキになるほど、こっちも切羽詰まってるわけじゃないんでね」
影が落ちる。ニャルラトホテプの身体は黒い液体の如き漆黒に溶けていく。待て、と十六夜が叫ぼうとした次の瞬間には、そこにもうニャルラトホテプの姿はなかった。
「では、また。最後にレティシアに挨拶でもしようと思ったけど、それは今度にしよう。
じゃあね。お祭り、楽しむといい」
その言葉だけを残して。
破壊の跡と残骸を積み上げて、ニャルラトホテプは暁に消えた。
◇◆◇
そして、舞台は北へ。
新たな龍の誕生を祝おう、狂信者諸君。
疾風怒濤の誕生祭を、思う存分楽しもうか。
次で火龍誕生祭行けそうですかね。