石が弾けた。
石が砕けた。
石が破れた。
白亜の宮殿、最奥。そこで繰り広げられていたのは、まさしく魔王の闘いと評するに相応しいものだった。
アルゴールとニャルラトホテプ、その二柱の魔王が拳を合わせる度に空気が揺れ、衝撃が周囲を襲う。この状況下で石化したルイオスやペルセウスの兵士の石像に傷一つつかないのは、
「アッハハハハハハハハ!すごい、すごいよニャルラトホテプ!」
哄笑をあげ、アルゴールは愉しそうに目を光らせる。それと同時に右足を振り上げ、ニャルラトホテプの脳天へと叩き落とした。が、それを難なく受け止めたニャルラトホテプは逆に足首を掴み力任せに地面へと叩きつけた。そこを中心として小規模のクレーターが出来上がる。
「せぇい!」
しかしアルゴールも唯ではやられない。クレーターに指をかけ、ブレイクダンスを踊るように足を振り回す。人と近い姿をしていようと、その実態は神話に語られる怪物である。圧倒的な暴力に晒されたニャルラトホテプは重力に逆らい上へと打ち上げられ、地面を遥か下へと望んだ。
アルゴールはすぐさま立ち上がり、小さなクレーターをさらに大きなクレーターで上書きしながら跳躍した。
拳を引き絞り、ニャルラトホテプの腹めがけて突き出す。それは寸分違わず吸い込まれるように命中し、ニャルラトホテプに大きな風穴を空けた。黒い体液が飛び散り、アルゴールの白い肌を穢す。しかしすぐにニャルラトホテプが体液を操りアルゴールを刺そうとしたので、それだけは避けようと彼女は身を翻し、逆にニャルラトホテプの背中に強烈な殴打を叩き込んだ。
その速度は亜音速を超え、撃ち落とされたニャルラトホテプの体は白亜の宮殿の床に突き刺さった。ビキビキと、衝撃波と共に床に無数の皹が走る。しかし、ニャルラトホテプは苦悶の声の一つすらも発さずに体を起こそうとした。
そんなことはアルゴールが許さなかった。ただ撃ち落とす、それだけでは終わらない。
「ラァァァアアアアア!!!」
アルゴールが謳うように叫んだ。途端に宮殿の白かった壁は、床は、柱は、その全てを黒々とした闇色に染め、無数の蛇を産み出した。それらがのたうち、波打ち、脈打ち、暴れ狂う。〝悪魔化〟と呼ばれるアルゴールの星霊としての
が、たかが蛇に呑まれた程度で邪神が死ぬはずがなかった。
嫌悪感を刺激するように這いずる蛇が、下から現れた何かに締め上げられた。赤黒く脈動するそれは、蛇の尻尾から頭までに渡って巻き付き、最終的に蛇の全身を砕いて縊り殺す。それは一匹だけに留まらず、ニャルラトホテプの上を覆う蛇の全てに巻き付いていき、破砕の不協和音を作り出す。
「ああ、脆い脆い。これならまだイグの方が強かったな」
薄くなった蛇の覆いの中から、この地獄にはあまりにも不釣り合いな声がした。湿った舌なめずりが、蛇の体を噛み砕く。
グチャリ、グチャリ、噛み砕く。味わうように、嬲るように、辱しめるように、貶めるように。
「不味い。蛇の血なんて飲むモンじゃないな。やっぱり飲むなら若い女の血がいい」
ユラリ、と。蛇の死骸を散らしてニャルラトホテプは起き上がる。それを起点にしたかのように、黒く悪魔化を遂げた宮殿は蛇から白い元の姿へと戻り、月明かりを反射してニャルラトホテプを照らす。
「なあアルゴール、お前の血を飲ませてくれよ。それだけが、今は楽しみでしょうがない」
クツクツと、込み上げる笑いを堪えられないように――――ニャルラトホテプは嘲笑った。
「血を飲む?何なのお前、吸血鬼にでもなったつもり?」
アルゴールは得体の知れない気持ち悪い物を見るかのように言う。まあ元々ニャルラトホテプは得体の知れない物ではあるのだが、今の発言はアルゴールには本当に理解できなかった。
ニャルラトホテプはそれを聞いてまた嘲笑う。
「そうだな、一週間前まで吸血鬼の真似事をしていたから、そのせいかもしれない」
「吸血鬼の真似事?……ああ、同族殺しの魔王か」
「その通り。
「囚われのお姫様を助けたヒーローにでもなったつもり?」
「まさか」
ケラケラと、アルゴールの発言を一笑に伏す。
――――だってさ。
ニャルラトホテプの口が、音も立てずに三日月に曲がる。真っ赤な深紅が、その面妖な貌を二つに割くように広がった。
「ただ、ノーネームとレティシア=ドラクレアに絆ってものを作っておこうと思ってね」
「絆?お前って、誰かと誰かの橋渡しをするような性格だったっけ?」
「違う違う。そういうことじゃない」
グニャリと、ニャルラトホテプの貌に浮かぶ三日月は歪に嘲笑う。これから起きる運命にほくそ笑むように、穏やかに、残酷に。
「
「――――」
アルゴールは言葉を失う。この邪神は今、何と言った?
壊す。自らが育てたノーネームとレティシアの絆を、壊す。一体何のために。それでは本末転倒――――。いや、そうではない。むしろ逆だ。ニャルラトホテプは、
「……下種だね」
「今更」
呵々大笑。華やかに、艶やかに、朗らかに、明らかに。世界への皮肉を込めて、ニャルラトホテプの声はアルゴールの鼓膜を叩く。
アルゴールだって、誰かのことを下種だと揶揄できるほど出来た者だと自分を評価してはいない。彼女は自らを美しいと言って憚らないが、自分が魔王と呼ばれるだけのことをしてきたという自覚はある。誉められるようなことはしてないし、いつ滅ぼされてもおかしくない。だとしても、ニャルラトホテプの思想に迎合できるとはとても思えない。
壊す為に、育てる。崩す為に、作る。ひどく歪で、ひどく矛盾しているその行動原理は、しかしひどくニャルラトホテプに似合っている。それは確かに目の前に在るのに、まるで別世界の存在のように世界そのものに馴染んでいない。
「ニャルラトホテプ、一つ質問があるんだけど」
「何かな?」
「お前はさ、
至高にして底辺。災厄にして凡愚。多面性という言葉をこれまでかというほどに詰め込んだニャルラトホテプに、アルゴールは問う。その答えは、ただ一つ。
「――――混沌を」
◇◆◇
其はさぞ楽しそうな笑みだっただろう。アルゴールはニャルラトホテプの望みを聞いて、ただ獰猛に笑っていた。嘲笑うのではなく、ただ無垢な少女のように。
其はさぞ愉しそうな笑みだっただろう。ニャルラトホテプはアルゴールの笑みを見て、ただ冒涜するように笑っていた。無垢な少女のようではなく、ただ嘲笑うように。
対極。双極。二柱の神話の怪物はただひたすらに異なっていて、故に似通っている。少なくとも、害あるものとしてこの二柱は限りなく近い。
同族意識。あるいは、同族嫌悪。
アルゴールはニャルラトホテプに近いが故にニャルラトホテプが大嫌いだった。では、ニャルラトホテプは?アルゴールという同族のことをどう思っている?
簡単だ。
拳も、剣も、銃も、無法という法が支配するこの空間においては合法でしかない。だから、ニャルラトホテプが人を殺すようにその兵器を取り出したのはある意味必然とも言えただろう。
人類史において最悪の兵器。歴史上たった二度しか使われず、その畏怖を以てして戦争の抑止力として使われてきたそれを、――――人は原子爆弾と呼んだ。
◇◆◇
白亜の宮殿の上空に異様な物質が出現した。金属質の黒い光沢を湛え、月光を反射して鈍く輝く様はまさに鉄塊と表現して差し支えないだろう。その大きさはアルゴールを遥かに超えて、その質量を以て重力に従い落下する。
アルゴールはそれを見て、理解した。
――――アレは、まずい!
次の瞬間、それは空中で爆ぜた。比喩でも何でもなく、光と熱を撒き散らすようにして円形の衝撃を生み出した。空気を揺らし、破壊そのものともいえる熱波が、放射能がアルゴールに迫る。彼女の視界が白く染まる。しかし、
「――ラアアァァァァァァァアアアアアアア!!!」
アルゴールの小さな口から放たれる、耳を塞ぎたくなるほどの咆哮。それに呼応するかのようにして、白い光を塗り替えるように褐色の光が広がる。
爆ぜた熱も。爆ぜた破片も。爆ぜた放射能も。全てが全て
無論その程度ではアルゴールは殺せないだろうが、この宮殿は跡形も無くなる。隷属させられ自由を望んだ身と言えど、長年過ごした場所が消えるのは気分の良くないモノだった。感情的に行動しやすいところは、実に神話の怪物らしく神らしいと言える。
とはいえ、もし感情的ではなく合理的に話をするとすれば、例えば〝爆発したら最奥が崩れてルールに抵触する〟だとか〝石化したルイオスが跡形もなく消え去る〟などがあるが、今ここでそれは然程重要でもない。
アルゴールは巨大な石の球となった原子爆弾に拳を向け、振り抜く。それだけでそれは粉々になり、塵となって白亜の宮殿に降り注いだ。パチパチと、拍手と共に愉しそうなニャルラトホテプの顔が見える。
「ハハハ!これはすごいなアルゴール!まさか爆発したそれさえも石に出来るなんてな!」
誉められても、全く嬉しくない。基本的にお調子者のアルゴールであるが、調子に乗る気も失せてしまう。そんな灰色の虚栄が、ニャルラトホテプの言葉には含まれていた。
視界を埋める灰色の塵の向こう、ニャルラトホテプを見据えて、アルゴールは懐疑の視線を送る。
「……お前、頭おかしいの?あんなのここで出したら、それこそお前だって」
「妙なことを言うなアルゴール。蛇が自分の毒で死ぬか?
「あれを造った?それにしては妙に……」
「嗚呼、人間的な兵器だろう?つっても、厳密に言えば俺は技術提供しただけだ。戦争中の科学者共が、どうすれば手っ取り早く敵を殺せるか話してたもんでな。ちょっと作り方を教えたら、まあ馬鹿みたいに人が死んだよ」
きっとこの会話を聞けば飛鳥は卒倒するだろう。鈍色の世界に飽いた彼女に愛国心なんてものがあるかは不明だが、飛鳥のギフトを使って協力させられた財閥解体は元を正せば敗戦によって起きたといっても過言ではないため、完全に無関係とも言えない。
ニャルラトホテプの口調は軽い。枯れ葉を散らす子供のように、焼けて焦げて死んでいく人の様を回想し、すぐに興味を無くして頭から消す。
「……馬鹿みたいに、ねえ」
アルゴールはニャルラトホテプの言葉を反芻した。命の軽視、なんて高尚なことを言うつもりは毛頭無いが、しかしその物言いは気分の良いものではない。
アルゴールは怪物ではあるが下種ではない。むしろ簡単に命を停止出来るギフトがあるからこそ、彼女はどれほど命が儚く脆いかを知っている。故に、その重みを知っている。
アルゴールは高尚な説教を垂れるような聖人ではないし、崇高な理念を掲げる君子でもない。だが、低俗な欲望に身を任せる狂人では断じてない。
だからこそ、
「ニャルラトホテプ」
「なんだ、アルゴ――――」
瞬間、ニャルラトホテプの体が後ろへ弾き飛ばされた。白亜の壁に蜘蛛の巣状の亀裂を生み、砂煙を巻き上げる。それをやったのは、当然アルゴールだ。彼女が振り抜いた拳がニャルラトホテプを打ち、その体を埋没させた。
「アルちゃんはね、別にお前の言うことに文句は無いよ」
前髪を鬱陶しそうに振り、瓦礫の中で蠢くニャルラトホテプに近づくとその首を掴んで力一杯押さえつける。腐った肉を潰したような感覚が掌に広がり、ひどく粘つく液体がニャルラトホテプの首から染み出て、アルゴールの白魚のような指の間から滴った。白と黒が、悍ましいほどに鮮やかな対比を作り出す。
「でもね――――」
絞められる指がニャルラトホテプの首に食い込み、その形を歪めてへし折る。ニャルラトホテプの首が有り得ない方向に曲がった。
次の瞬間、細い首は真っ黒な液体をバラ撒きながら握り潰された。嘲笑う顔を貼り付けたニャルラトホテプの頭は己の胴体に別れを告げ、遥か下まで落下し石化したルイオスの近くまで転がる。
首の断面から噴き出すモノが黒い雨として降り注ぐ。全てを
アルゴールはその身を黒の中に浸しながらも、毅然に、堂々として叫んだ。
「
眼光が、首の無くなったニャルラトホテプを貫く。その下で、アルゴールの怒りすらバカらしいと言うように、堕ちたニャルラトホテプの貌は嘲笑を浮かべた。
ニャル様と並ぶと皆善人に見える説。