死ぬ
真っ赤な血を撒き散らして
死ぬ
柔らかい肉を切り裂いて
死ぬ
硬い骨を潰されて
死ぬ
形を保てない脳髄を露出して
死ぬ
死ぬ
死ぬ
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ
ただひたすら死んでいく。
鮮やかに
艶やかに
きらびやかに
ただ無力に死んでいく。
街が赤く濡れる。
道が肉で満たされる。
濃すぎる死の臭いが鼻をつく。
希望を摘まれた。
死ぬ。
絶望に呑まれた。
死ぬ。
生きることを諦めなかった。
死ぬ。
生きることを諦めた。
死ぬ。
逃げ場は無い。光も無い。弱者は全てを搾取され、命すらも保有することは許されない。
あらゆるモノを奪ってゆく肉塊は、街全体を埋め尽くしてなおマンホールから沸き続けている。
平和だった街はもはや見る影もなく、遥か高くに見える空の青だけが、以前と変わらない唯一の場所だった。
◇◆◇
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!見てみろよ白夜王、あの人間の間抜けな顔!絶望して全部諦めてやがる!」
全ての元凶であるニャルラトホテプは可笑しそうに嘲笑う。口は張り裂けそうなほど開かれ、目には明らかな嘲りが浮かんでいる。
「なあ気分はどうだ?面白いだろう、可笑しいだろう?あんなに愉快な表情をしているんだからな、〝
塔の屋根で肩を震わせながら街を見つめる白夜王に対し、まるで子供のように語る。しかし、そんな狂った感性が理解されることなど当然あるはずもない。
白夜王は怒りに染まった目をニャルラトホテプに向けて叫ぶ。
「貴様ッ――――一体何をしたッ!!??」
「何を?何って見た通りだろ?人がオモシロオカシク死んでいくだけだぜ?」
「そうではない!私が聞きたいのは
激昂、そして威圧。昂った白夜王からは大気を揺るがすほどの怒気が漏れ出ていて、その振動で塔の壁面に罅が走る。
「私も箱庭で暮らして長いが、あんな悍ましいモノは今の今まで見たことがない。―――――どれだけ観察しようとも、一体なんなのか検討も付かん」
チラリと横目で脈動する肉塊を見やり、すぐに視線をニャルラトホテプへと移す。その顔を見れば、苦悩する白夜王を嘲るようにニヤニヤと口を歪めるのが目に入った。なんともムカつくことである。
「そうだね、そりゃわからないだろうよ。
そう簡単にわかるわけない、と付け加えながらニャルラトホテプはケラケラ声を上げる。そして人差し指を下に向けながら白夜王に言った。
「で、どうする?正体がわからないからってここで観察を続けるか?ほら、そんなことをしている間に――――」
白夜王がニャルラトホテプの指に倣って下を見れば、そこには迫り来る肉塊から逃げる小さな子供の姿。その子供は先程、にこやかに親と笑っていた子供である。どうやらニャルラトホテプ的には白夜王があの子供を助けに行くのが見てみたいらしい。だからこその忠告、だからこその勧告だった。
白夜王もそんな思惑には気がついている。だが、当然無視することも出来ず、白夜王は塔から飛び降りた。ニャルラトホテプはそれを見て更に嘲笑を深める。
突如上から落ちてくる白夜王に気づいたのか、その肉塊は赤いその体から何本もの触手を伸ばして迎撃する。しかし、白夜王は空中での体重移動と姿勢制御によってその尽くを避けて見せた。そのまま吸い込まれるように子供に迫る肉塊のもとに近づき、拳を引き絞る。炎を出せばすぐそこの子供にも被害が及んでしまう。その危険を恐れたからこその判断だ。
肉塊まで手が届く距離まで近づいたとき、引き絞った拳を力を込めて突き出した。その余りの拳の速さに空気が啼き、風が起こる。そして、そんな強大な衝撃を受けた肉塊はまるで豆腐を崩すようにグチャリとその形を変えた。
―――――――はずだった。
「…………え?」
意図せず漏れてしまう間の抜けた声。しかし、そんなものも気にならない衝撃が白夜王を襲った。
なぜなら、
白夜王は確かに肉塊を殴った。全力とはいかなくても、子供に迫るあの部分を吹き飛ばすには十分な威力だったはずだ。
しかし、そんな思考は今の白夜王には出来ない。
血が吹き出る。肉が裂ける。臓器が見える。
そのグチャグチャになったただの肉の詰まった袋は、確かにさっきまで人間として存在していて、人間としての幸せをその全身で感じていたはずである。
それが今はどうだ。幸せは絶望に変わり、死んで使い物にならないその体は何処の何とも知れない肉塊に貪り食われている。
そして何より、その最後の表情が一番悲惨であった。
食われる瞬間の、白夜王に伸ばされた最後の希望に縋るその手を、白夜王は掴めなかった。赤い肉塊が伸ばされた手を折り、千切り、食らう。幼い子供には強すぎる痛みだったことだろう。
瞳は苦痛に染まり、顔は絶望に歪む。その瞬間、白夜王が感じたのは何か。
怒り?悲しみ?違う。白夜王の心を埋め尽くしたのは、ただ一点の曇りも無い後悔だけだ。
なぜあのとき子供を優先しなかったのか。なぜあのとき肉塊を殴ることを優先してしまったのだろうか。なぜあのとき…………ニャルラトホテプを放置してしまったのだろうか。
塔の屋根の上でニャルラトホテプと話しているとき、有無を言わさずあの場で殺しておけば――――
出来る出来ないの判断などつかない。ただ後悔の念だけが白夜王の心を支配していて、ニャルラトホテプに対する憎悪が新たに積もっていく。
矛先を見つけた憎悪は怒りに変わり、燃えた怒りは憎悪を強める。
やがて後悔は心の隅へと押しやられ、黒く燃える炎は憎悪の形を成す。
子供を助けられなかった自分の、理不尽な八つ当たりだとは分かっている。
だがそれでも、どうしてもニャルラトホテプは許せない。この惨状を見下して、ヘラヘラと笑うあいつだけは――――
「あ~あ、死んじゃった死んじゃった。あの子にはまだ未来だってあったろうに。全く誰のせいだろうね?」
悪びれる様子など一切感じさせない声が白夜王の耳を撫でる。嫌悪感が堪えきれぬほどに募り、噛み締めた奥歯から嫌な音がした。
「そうだよ。全部ぜーんぶ、
「黙れェェェェェェェェェェ!!!!!!」
プツリ、と何かが切れる音と共に、白夜王が力任せに腕を振るう。その瞬間、ニャルラトホテプのもとに衝撃が飛来した。
暴風。
一言で形容するならそれがもっとも相応しい言葉だろう。
そう見紛うほどに、その衝撃は強すぎた。
ニャルラトホテプ目掛けて放たれたそれは、地上から数十メートル離れた
ただ腕を振っただけではこんな結果は生まれ得ない。それこそが白夜王の異常さの証明であり、白夜王が人とはかけ離れた人外だという証拠だった。
パラパラと崩れ、塵を巻き上げる塔の屋根〝だったもの〟はもはや見る影もなく、赤以外の唯一の色だった空の青すらも、風にのって運ばれていく塵で黄土色に染まり始めていた。
即死。この光景を見れば誰もがそう思うだろう。
太陽の星霊による
人間の脆弱さなら、この街の惨状がありありと語っているのだから。
だがそれでも白夜王の顔が晴れることはない。
本能で察しているのだ。あの
そして、その予感は本物となる。
◇◆◇
舞い上がる塵が視界を遮る。普通であれば鼻や口から侵入した灰塵を体外へ排出するために咳の一つや二つするのだろうが、今この場にそのような音は無い。
白夜王がニャルラトホテプに向けて放った衝撃は、偶然かそれとも意図してのものか、塔の屋根だけを的確に吹き飛ばした。そのおかげで搭自体は形を保っていて、なんとか崩れずに済んでいる。
しかし当然屋根は跡形も無く消し飛んでいて、砕けた瓦礫が辺りに散らばるという様相を呈していた。
その瓦礫の中、モゾモゾと動く肉片がある。湿っぽい音を立てて這いずるそれは、他にも飛び散ったと思われる肉片とくっつき、その体積を増大させていく。
いくつも、いくつも、いくつも、いくつも。集まっては取り込まれていく肉片が人並みの大きさまでなったとき、その形に変化が起きた。
ベキベキと硬いものを無理矢理曲げるような音がなったかと思えば、細い触手のようなものが飛び出し、数本集まり人の腕のような形を作る。
そのまま足、首と人の部位が次々と生まれ、ただの肉の塊にしか見えなかったそれの表面にも肌のような光沢が見られるようになった。
「乱暴だな……」
新たな体を確かめるように指を開いたり閉じたりしているそれはゆっくりと口を開いた。続いて顔に厭らしい嘲笑を貼り付け、バカにするように言う。
「自分でもそう思わないか?――――白夜王」
言い切った直後に振るわれた拳。たった一度の跳躍でニャルラトホテプのもとまで跳んできたと示すようにクレーター状にその身を歪ませた肉塊がその視界に入った。しかし、やはり肉塊に傷が付いた様子は無い。
ニャルラトホテプはまるでわかっていたと言いたげに軽い動作で躱すと、揚々と声を上げた。
「おいおい危ないな。怪我したらどうする」
「戯けが。どうせ貴様はそんなこと微塵も思っておらんだろう」
「あ、バレた?」
クカカと笑いながら続けて襲い来る白夜王の蹴りを手首で受け止める。そしてそのまま手を返して掴み、へし折るために力を込めた。足首から走る鈍い痛みに危険を感じた白夜王は、急いで足を引き戻す。その勢いでニャルラトホテプの腕がもげて足を掴んだままとなってしまったが、ひとまず危機は脱せたと安堵した。
――――しかしそれは下策だった。
足を掴んでいた腕がドロリと溶ける。驚いたのも束の間、その溶けた腕だったものは瞬く間に白夜王の全身に広がり、拘束する。腕から足から、服の内部にまで侵入して一切の身動きを取れない状態にまで追い込んだ。
「ぬぅ………くっ………」
なんとかして振りほどこうと四肢に力を込めるが、拘束が緩む兆しはない。
そんな白夜王に、態と足音を大きく鳴らしてニャルラトホテプは近づいていく。
「なあ白夜王、今どんな気分だ?悔しいか?悲しいか?」
白夜王の前で足を止め、見下すような目を向けながら問う。屈辱からか、白夜王は口をきつく結んだままだ。
「俺はな、がっかりだ。まさかこんな簡単に捕まるなんて思わなかった。天下の白夜王様もこんなものか、とな」
顔を近づけ、その嘲笑を白夜王の眼前まで持っていく。白夜王は顔を背けて目を合わせないようにするが、ニャルラトホテプは無理矢理自分の方向へ向けてそれを許さない。
「自分の立場をわかっているのか?俺はこの場でお前を嬲ることだって出来るんだ。そうしない分、まだ優しい方だと思え」
顔を離してクツクツと喉で嘲笑う。三日月のように歪んだ口と目の奥に妖しい光が宿り、白夜王を見据えた。
「安心しろ。俺はお前に何もしないよ。自分の手を汚すのは好きじゃない。
――――――あくまで、俺はね」
さよなら、とだけ言い、ニャルラトホテプは白夜王の胸を軽く押した。ギフトを持たないただの人間でもできる、ほんの少しの力をかけるだけの行為。
だがそれだけでも、身動きの取れない白夜王の体を傾けるのには十分だった。
徐々に後ろに倒れていく体。重心がズレて体勢の立て直しが効かなくなる。
見開かれた目が捉えたのは、こちらを見下ろして嘲笑うニャルラトホテプの姿。
足が搭から完全に離れ、重力に従って自由落下を始める自身の体を制御することはもう出来ない。ニャルラトホテプの腕だったものが未だに白夜王を縛り続けているからだ。
落ちていく下には、
たった数十メートルを落ちる数秒の時間が数倍にも、数十倍にも引き延ばされたような錯覚に陥る。
そんな白夜王の耳に、ニャルラトホテプの声が滑らかに侵入してきた。
「そうだ、最後にネタばらししてやろうか。お前の攻撃があの肉塊に効かなかった理由」
こんな状況で何を言っているのだろうか。いや、ニャルラトホテプのことだからこんな状況だからこそ言っているのかもしれない。
「あの肉塊はね、
口元に手を当てて可笑しそうに事実を告げる。しかし、白夜王にとってのそれは当然初耳であり、耳を疑った。
それもそうである。姿を消した名だたる魔王が〝こんな肉塊〟に変貌したのだ。驚くなというほうが無理な話だ。
「で、噂を流した。『お前らのヒーローだった〝魔王狩り〟はこんなことを仕出かしました』って、人々に衝撃を与えようとな。しかし失敗だったよ。そんなこと言う前に全部死んじまいやがった」
心底残念そうに語るニャルラトホテプには、人の命や苦痛に寄り添う色など無く、あるのはただ、自分の計画の失敗に対する落胆だけだった。こんなのは異常と形容する他無い。
「おっと、話がずれたな。で、お前の攻撃が効かない理由ってのが、この素材にした魔王の中にある。正直、今回の計画で一番の懸念はお前だったんだわ。せっかく作った化け物も、太陽の炎で焼かれたら一瞬だからな。だから、
――――ネタばらしは終わった。それじゃ、今度こそさよならかな」
引き延ばされた時間が正常に動き出す。ゆっくりに見えた光景が一瞬で移り変わるほどのハイスピードまで引き上げられ、その変化に目が狂ってしまう。
しかし、そんなことを思っていたのもほんの少しの間のこと。すぐに背中にグチャリとした生温かい柔らかいものが当たり、グニャグニャと動き始める。
形を変え、姿を変えて白夜王を呑み込む肉塊は止まることなく深くへと餌を誘い、大きすぎる死の悦楽へと導いていくことだろう。
どれだけ抵抗しようとも、素材になった羿のせいで一切の傷は付けられない。詰まるところ、白夜王一人では抜け出すことなどできないのだ。
―――――そう、一人だけなら。
白夜王が全てを諦めかけたそのとき、辺り一帯に響き渡った雷鳴と、照らし出した光。それは街全体を覆う肉塊に直撃し、その体を焼いた。
そのショックからか、肉塊から吐き出される白夜王。美しい装飾を施された服は赤い液体に染まり、鮮やかだった髪は乱れてしまっている。しかしそれでも、その目には活力が戻っていた。
そして、白夜王が見たものは――――
◇◆◇
あちこちに落ちる雷は肉塊に穴を穿ち、焦がし、潰していく。
その様子に、ニャルラトホテプも驚愕を隠せないでいた。
そして、白夜王の傍に佇む雷を起こした張本人と思われる男の姿を見て、崩すことのなかった嘲笑を一瞬歪めた。
「そうか―――――」
その男とは――――――――
「―――――ここでお前か――――
護法十二天の長にして、最強の軍神。
帝釈天が、そこにいた。