第一話 「這いよる混沌が今行くぞ」
その神は無貌であった。
時には人間、時には王、時には怪物、時には人を惑わす神として、人々の前に姿を現した。
その顔には常に嘲るような嘲笑を浮かべ、遊ぶように世界を引っ掻きまわした。
行く先々で見つけた人間に手に余る技術を授け、狂気の果てに死んで行く姿を見ては楽しんだ。
ふらりと現れ、置き土産に混乱を残して消える。
人々はそんな神を畏怖を込めてこう呼んだ。
這いよる混沌――――ニャルラトホテプと。
◇◆◇
――――歪んだ様々な色を発し続ける宮殿、狂ったような音楽と無数の異形で彩られたそこに、『それ』は突然現れた。人間で言う足や腕にあたる部分には無数の触手が不規則に生え、その体は真っ黒、顔だと思われる部分はその体以上に黒い、深い黒色の虚無が覗く。一目で人ならざるモノだとわかるそれは、虚無にあるはずのない口をゆっくりと開き、宮殿の最奥にある玉座に座る巨大な異形へと言葉を放つ。
「ただいま戻りました、我が主」
その言葉に反応したのか、泡立ち、伸縮を繰り返していたその異形はその動作を一瞬止める。しかし、それもすぐに再開し、宮殿には更なる狂気の音楽が鳴り響く。
意味の無い伸縮を繰り返すこの異形こそが、クトゥルフ神話において、宇宙の創造と破壊をすると言われる盲目白痴の魔王、アザトース。無から産まれ、宇宙の誕生以前からこの世界に君臨し続ける唯一無二の存在。その思考は狂気に染まり、玉座で冒涜的で卑猥な言葉を紡ぎ続けている。
そして貌の無いこの異形が、アザトースの意思を代弁する強壮なる使者、這いよる混沌ニャルラトホテプ。貌のある姿を取る時は常に嘲笑を浮かべ、その対象は自らが仕える主、アザトースにすらも向いているという。そして今も、意味の無い伸縮をするアザトースに本来従者が取るべきではないバカにしたようなため息を吐く。ニャルラトホテプは玉座を背にし、次はどの時間に飛ぼうか思考する。ニャルラトホテプにとって、時間という概念は行動を阻害するようなものではない。好きな時に好きなように好きな時間に行く。そして人間の文明に干渉し、しっちゃかめっちゃかに引っ掻きまわす。そして、このニャルラトホテプの最も厄介なところが
と、ニャルラトホテプが次に行く時間を決めていると、
「………ん?」
自分や他の外なる神以外入ってこれないようなこの宮殿に、明らかに不自然な手紙があることに気づく。ニャルラトホテプはその手紙を触手を伸ばして拾うと、裏から表からマジマジと見る。そして何かに気づいたように虚無の中に見えない嘲笑を浮かべた。
「……ああ、なるほど。そういえば、人間に
一人納得したように言う。 ニャルラトホテプにはこの手紙の内容がわかっていた。脳裏に浮かぶのはいつかの美しき世界。自分が初めて見た未知の世界。願わくばもう一度、と思っていたが、まさかこんな形でチャンスが巡ってくるとは思ってもいなかった。
――――もうこの世界に飽きてきたところだ。ちょうどいい。
次の瞬間、ニャルラトホテプはその姿を人へと変える。願えばいくつでも作れる顔だ、それくらいわけもない。
ニャルラトホテプはアザトースの方へ向き直り、仰々しく一礼する。
「それでは、行って参ります、我が主よ。」
それだけ言って背を向ける。そして大げさに手を広げ、手紙を開いた。
『悩み多し異才を持つ少年少女に告げる。
その才能ギフトを試すことを望むのならば、
己の家族を、友人を、財産を、世界の全てを捨て、
我らの〝箱庭〟に来られたし』
ニャルラトホテプはその文面に目を通し、そしてとびっきりの嘲笑をその貌に貼り付けた。
「待ってろよ箱庭―――
その瞬間、世界から一人、邪神が消えた。
◇◆◇
次に目に飛び込んできたのは上空4000メートルの光景だった。体に当たる空気の勢いから落ちていることは容易に想像できた。横を見ればニャルラトホテプと同じように落下中の人間三人+猫一匹。遠くを見れば世界の果てのようなものが見え、大地を貫く軸のようなものも見て取れる。眼下には小さく湖があり、自分たちの落下地点がそこであることを示していた。物理的には50から60メートルくらいから水面に落下するとコンクリートに叩きつけられるのと同程度の衝撃がかかるらしい。その程度ならニャルラトホテプは無傷だろうが、横の三人+一匹はそうではないだろう。ここで会ったのも何かの縁、助けてやろうかとも考えたが、体が水膜のようなものを貫通する感覚があったので、その必要は無いと結論付けた。が、どうやら濡れるのは覚悟しなくてはいけないようだ。
ボチャン、と四つの大きな水音と小さな一つの水音が周囲に響く。数秒して湖から四人の男女が出てきた。その内一人は猫を抱えている。
ニャルラトホテプは着ている服の裾を絞る。普段は絶対会いたくないクトゥグアの炎を少し羨ましく思ってしまった自分がいたことに少し笑ってしまった。
ふと他の者の方を見れば、全身をニャルラトホテプと同じく濡らした二人が不満を口にしていた。
「し、信じられないわ!まさか問答無用で引き摺りこんだ挙げ句、空に放り出すなんて!」
「右に同じだクソッタレ。場合によっちゃその場でゲームオーバーだぜコレ。石の中に呼び出された方がまだ親切だ」
親切というより不親切だろう、とニャルラトホテプは心の中でツッコミを入れる。黒髪の少女も同じことを考えていたようで、
「………。いえ、石の中に呼び出されては動けないでしょう?」
「俺は問題ない」
「そう、身勝手ね」
フン、と互いに鼻を鳴らして顔を背ける二人の男女。扱いにくそうだ、とニャルラトホテプが考えていると、これまで会話に参加してこなかった茶髪の少女が口を開く。
「此処…………どこだろう?」
「さあな。まあ、世界の果てっぽいのが見えたし、どこぞの大亀の背中じゃねえか?」
茶髪の少女の呟きに金髪の不良のような少年が答える。無茶苦茶な推論だとニャルラトホテプは呆れたような貌をする。
服を大体絞った金髪の少年は髪を掻きあげ、ニャルラトホテプら三人に言った。
「まず間違いないだろうけど、一応確認しとくぞ。もしかしてお前達にも変な手紙が?」
「そうだけど、まずは〝オマエ〟って呼び方を訂正して。――――私は久遠飛鳥よ。以後は気をつけて。それで、そこの猫を抱きかかえてる貴女は?」
「…………春日部耀。以下同文」
「そう。よろしく春日部さん。じゃあ、野蛮で凶暴そうなそこの貴方は?」
飛鳥は金髪の少年に目を向ける。少年は肩を竦めて答えた。
「高圧的な自己紹介をありがとよ。見たまんま野蛮で凶暴な逆廻十六夜です。粗野で凶悪で快楽主義と三拍子そろった駄目人間なので、用法と用量を守った上で適切な態度で接してくれお嬢様」
十六夜のバカにしたような自己紹介にも飛鳥は動じず、
「そう。取扱説明書をくれたら考えてあげるわ、十六夜君」
「ハハ、マジかよ。今度作っとくから覚悟しとけ、お嬢様」
十六夜はケラケラと笑う。飛鳥はニャルラトホテプの方を見て、
「それで、バカにしてるみたいに笑ってるそこの貴方は?」
「初対面の〝人間〟に対する態度がそれかい?まあいい。名前は――――」
ニャルラトホテプは考える。さすがにニャルラトホテプと名乗るのは危険だ。箱庭でどの程度の知名度があるかわからないが、何人かは知ってるだろう。箱庭に来る前に世界を荒らしていたことまで伝わっていたら面倒なことになりかねない。でも捩りすぎて変な名前になるのは嫌だ。ならシンプルに、とここまで考えるのに0.1秒。人間の会話で不自然じゃない程度に間を開けて名を告げる。
「俺は〝ナイア〟。特に何も特殊なところはありませんっと」
この男、とんでもない大嘘つきである。しかしそれがニャルラトホテプという邪神の性なのだから仕方がない。
「そう、よろしくナイア君。しかしあの手紙が届いた以上特殊じゃないというのはおかしくないかしら?」
「そうかな?」
バカにしたような嘲笑を浮かべるナイア。
心からケラケラと笑う逆廻十六夜。
傲慢そうに顔を背ける久遠飛鳥。
我関せず無関心を装う春日部耀。
そんな彼らを物陰から覗く少女は思う。
(うわぁ…………なんか問題児ばっかりみたいですねえ…………)
召喚しておいてアレだが…………彼らが協力する姿は、客観的に想像できそうにない。その少女は陰鬱そうに重くため息を吐くのだった。――――こちらを見て
◇◆◇
十六夜は苛立たしげに言う。
「で、呼び出されたはいいけどなんで誰もいねえんだよ。その状況だと、招待状に書かれていた箱庭とかいうものの説明をする人間が現れるもんじゃねえのか?」
「それはゲームの中の話じゃねえの?ま、こんなファンタジーなところに呼び出されてんだからそんくらい期待してもいいのかもしれないけどよ」
ナイアは少女の潜む物陰をチラリと見る。その瞬間、少女に心の中からぐちゃぐちゃに掻き回されるような寒気が走る。
(もしかして……既に気づかれてる?!)
しかしそれも一瞬で、少女はナイアがこちらを見たのは何かの偶然だと思った。思いたかった。
飛鳥が口を開く。
「でもそうね。確かに、なんの説明もないままでは動きようがないもの」
「…………。この状況に対して落ち着きすぎているのもどうかと思うけど」
「お前だってずいぶんと落ち着いてるじゃねえか」
「ナイア程ではない。それに内心パニックだよ」
「嘘つけ」
ククッ、と喉で笑う。しかし物陰の少女は笑えなかった。
(もっとパニックになってくれないと出ていけないじゃないデスか!)
場が落ち着きすぎているせいで完全に出るタイミングを失った少女は完全に物陰から彼らを覗いている不審者と化していた。
(も、もう出ていかないとヤバいですよね。これ以上彼らを放置していたらどうしようもなくなります)
その少女が出ていこうとしていた、その時、十六夜が言った。
「――――仕方がない。そこに
その少女の肩が跳ねる。そして、残りの三人の視線も少女が隠れている物影へと集まった。
「なんだ、貴方も気づいていたの?」
「当然、かくれんぼじゃ負けなしだぜ?そっちの猫を抱いてるやつとナイアも気づいてたんだろ?」
「風上に立たれたら嫌でもわかる」
「気配を隠せてないな。全く――――あれで隠れられていると思ってるのかね」
少女に先程と同じ寒気が走る。しかし十六夜はそんなの知らないとばかりに話を続ける。
「…………へえ?面白いなお前ら」
話が終わって四人の視線は再び少女へと集中する。少女は腹をくくったのか物陰から出てきた。
「や、やだなあ御四人様。そんな狼みたいに怖い顔で見られると黒ウサギは死んじゃいますよ?ええ、ええ、古来より孤独と狼はウサギの天敵「ウサギって寂しいから死ぬんじゃなくて死ぬときに一匹になるから結果的に孤独ってイメージがついたらしいぜ?」最後まで言わせてくださいよ!」
横槍を入れるナイアに憤慨する黒ウサギ。しかしナイアは知らんぷりをする。
「コホン、仕切り直しデス。ええ、ええ、古来より孤独と狼はウサギの天敵でございます。そんな黒ウサギの脆弱な心臓に免じてここは一つ穏便に御話を聞いていただけたら嬉しいでございますヨ?」
「断る」
「却下」
「お断りします」
「テイク2しても説得力無いぞ」
「あっは、取りつくシマもないですね♪ってテイク2させたの誰ですか!!!」
再び出来上がる邪神と小動物のいがみ合い。黒ウサギは段々疲れてきていた。
(肝っ玉は及第点。この状況でNOと言える勝ち気は買いです。まあ、扱いにくいのは難点ですけども)
黒ウサギはおどけつつも、四人にどう接するか冷静に考えを張り巡らせている――――と、春日部耀が不思議そうに黒ウサギの隣に立ち、黒いウサ耳を根っこから鷲掴み、
「えい」
「フギャ!」
力いっぱい引っ張った。
「ちょ、ちょっとお待ちを!触るまで黙って受け入れますが、まさか初対面で遠慮無用に黒ウサギの素敵耳を引き抜きにかかるとは、どういう了見ですか?!」
「好奇心の為せる技」
「自由にも程があります!」
「へえ?このウサ耳って本物なのか?」
今度は十六夜が右から掴んで引っ張る。
「………。じゃあ私も」
「ちょ、ちょっと待――――!」
今度は飛鳥が左から。左右に力いっぱい引っ張られた黒ウサギは、視界に写ったナイアに助けを求める。
「そ、そこのお方!助け「ると思ってんの?」デスヨネー!!!」
黒ウサギは言葉にならない悲鳴を上げ、その絶叫は近隣に木霊した。