色づき
「せ、ん、ぱぁい」
溶けるような、甘えた声でにじり寄ってくる一つ下の後輩――一色いろは。なにやら俺を探していたらしい彼女の動きがどうにも艶かしく感じられて、思わず後ずさる。
とある事情から、俺は事ある毎にこいつに呼び出され、こき使われているのだ。思わず後ずさったのは、そこらへんの事情からくる苦手意識も手伝ってのことだった。
ちなみに、こういう猫なで声のときは、十中八九、なにか面倒ごとを押しつけに来たときのそれだ。
瞬時のうちに、脳がここから逃げろ、と判断を迫ってくる。
「悪いな、一色。今日はほら、ちょっと家がアレだから」
ほぼ条件反射的にまくしたてた台詞と一色をその場に残し、逃走を図ろうとし、
「アレってなんですか。小町ちゃんから先輩の使用許可をもらってるので、逃げられませんよ、先輩」
実妹に身柄を売り飛ばされている新事実に膝を屈する。
ていうか、使用許可って……。
四つん這いで気を落とす俺に、一色は、眼前にしゃがみこんで俺と視線を合わせると、とびきりの笑顔で「お願い」をしてみせた。
「先輩、生徒会のお仕事、手伝ってくーださいっ」
計算された顔の角度に、計算された表情、計算された声に話し方。
計算されつくした己の見せ方。一色の対世間用の強化外装。
最初のうちは、はいはいあざといあざとい、なんておちょくっていた。
「あっ、先輩、待ってくださいよっ」
生徒会のヘルプに関しては、仕方がないので逃げることを諦め、手伝うことにする。
最近、俺はどうにも、一色の振る舞いが嫌いだった。
「おお、さすが先輩、やればできる子じゃないですかー」
そこはかとなく上から目線で媚を売ってくる一色。本当にいい根性してるよな、なんて思いつつ、はいはいあざといあざとい、とおざなりに返して、帰り支度を始める。
ここにいる
「あ、先輩、もう帰っちゃうんですか……?」
「ああ、用事、もうすんだだろ」
「むぅ……」
作業のために脱いでいた上着を羽織って、カバンを手に、いざ帰ろうと扉のほうへ向かおうとすると、不意に上着の裾をつままれた。
「なんだよ、一色、まだなんかあんのか?」
勘弁してくれ、なんて気だるげな雰囲気を出して、裾をつまんだままの彼女を見やる。
「先輩、最近、私のこと避けてますよね……?」
切実に満ちた問いかけだった。なにかを恐れ、忌避するかのように、一色はその問いを口にした。
しかし、図星である。
もともと、俺は一色のことを苦手としていた。性格の不一致だ。仲良くできる気はもとよりあまりなかった。
が、それに輪をかけるように、俺は最近になって彼女のことを避けるようになっていた。
彼女の振る舞いが、どうにも見ていられないのだ。
おもしろくもないのに笑ってみせ、興味もないことで怒ってみせ、共感すらできないことを悲しんでみせる。そんな振る舞いが、俺にはとても痛々しいものに思えたのだ。
いや、まぁ、それが世間で言う人付き合いに大切なものであることは理解している。
だが、俺はぼっちだ。そんなことは知ったことではない。
気持ち悪いものは、気持ち悪い。見ていてむかっ腹が立つものは、なにがあろうと絶対腹立たしいものなのだ。
「さあ、どうだろうな……」
結局、俺が返したのは、肯定とも否定ともつかない曖昧な答えだった。
「……先輩、今日、一緒に帰りましょう」
「……おう、早くカバンとってこい」
「はい……」
だが、それがなんだと言うのだ、とも思う。
なにせ、一色がただ一人好いているのは、校内一の人気者、葉山隼人だ。
そして、彼女にとって俺は、
いや、そうでなくてはならない。
そうでないと、彼女がなにかと理由をつけて会いに来くるのも、放課後にこうして生徒会の仕事を手伝わせるのも、なにかと俺の動向を気にかけるのも、すべてが
「先輩、お待たせしました。帰りましょう……」
尻すぼみにそう言う一色に一つ頷いて、二人で隣りだって歩き出す。
理性の化け物。いくぶんか前にそんなことを言われたのを思い出して、今の、揺らぎに揺らいでいる自分と比べ、その在り方の差になんだかおかしくなる。
家路に向けて、一色が一歩、先んじて踏み出した。
あれから、あまり一色の姿を見なくなった。
奉仕部に顔を出しにくることもなくなり、廊下ですれ違っても、以前のように目を輝かせて、先輩、と飛びついてくることもなく、ただ単に会釈をするだけ。
俺と彼女の関係は、あれから希薄になる一方だった。
――――さあ、どうだろうな。
きっと、あのときの俺の肯定とも否定ともつかないあの言葉を、一色は、肯定の意味にとったのだ。
たしかに、もともと避けていたのは事実だし、それがさらに悪化すれば、他人の機微に聡い彼女のことであるから、すぐにでも俺が彼女のことをやけに避けていることに気づいただろう。
しかし、それでも、一色は待ち構え、適当な理由をこじつけ、あくまでの俺の傍をふらふらとし続けた。
いつかの
「なんだよ、これ……」
胸中に去来する曖昧で、締め付けるような疼き。
ああ、最近、一色と話せていない……。
わりと、過去の自分の言葉を後悔することは多い。
「暑いというより、むしろ蒸し暑いよね」とか「え、それって、俺のこと……?」なんて、どこぞのH君の黒歴史だが、その最たる例だろう。
ああ、なにこの気持ち。なんか、死にたい……。
が、これは今までのそれとは少しどころでなく、気色が違う。
夜中に自室のベッドで悶えることもなく、枕に顔を埋めて叫ぶこともなく、ただただ、胸が疼く。
これは、知ってはいるが、知らないものだ。この俺には、縁遠い、とすら思っていたそれだ。
認めない。認められなかった。認めたくなかった。
「もう、遅ぇよ……」
気づいてはいた。ただ、認められなかった。この疼きに従ってしまうのが、どうにも悪いことのように思えて仕方がなかった。
しかし、そうも言ってられない。
生徒会長に元気がない。こんな噂が出回って、すでに幾日かが経過している。
俺は、一色のあの
けれど、それ以上に、彼女が隣で笑っていてくれることが、どうにも心地よかった。
今になって、ようやく、その気持ちを認めた俺の心の、いや、なんとやりにくいことか。
――――ああ、俺はどうも、あいつのことが好きらしい……。
「一色!」
放課後。
部活の仲間に断りを入れて、俺は自宅に向かうでもなく、あることのために少し回り道をしていた。
「あ、れ……先、輩……?」
心外だとばかりに、俺を見やる一色に、固唾を呑む。
あーあ、なんだこれ。緊張しまくってる。
まぁ、でも、そりゃそうか。なにせ、人生最大の大一番ってところだろうから。
「一色……」
呆然としている一色のすぐ傍にまで歩み寄って、その華奢な体を抱き締める。
「きゃっ、せ、先輩……!?」
柔らかくて。
暖かくて。
ああ、一色の匂いだ。
なんて、そんなことだけで、さっきまでの緊張が嘘みたいに心が温もりを取り戻した。
「悪かった」
抱きすくめている耳元で、あたかも独白のように、俺はすべてをぶちまけた。
「避けていて、悪かった。相手をしてやれなくて、悪かった。話してやれないで、悪かった」
「…………」
「でも、俺はずっと前から、こうしたいと思ってたんだ」
「…………」
「なぁ、一色、悪かった」
「先、輩……先輩……」
「――――なぁ、好きだ」
「――――私もですよ、先輩。私も、先輩が好きです」
それから、お互いの存在をたしかめるかのように、馬鹿みたいに抱き締めあった。
額と額をくっつけて、目と目を合わせて、俺と一色は、真正面から向き合った。
ちょっとイケメンっぽい八幡と言ったな。あれは嘘だ!
やべぇ、書くたびに短くなってってる。。