再臨せし神の子   作:銀紬

13 / 26
アスカ誕生日記念特別編 明日の日を夢見て

碇シンジ少年の朝は早い。

 

時には世界を守る戦士となり、

最新兵器にして汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンに搭乗し、

強大な未知なる敵と見えない明日を賭けた闘いを繰り広げ、幾多の死線を乗り越えている。

 

とはいえそれは、飽くまで「時には」の話でもある。

特に何も起きていないのであれば、ごく一般的な中学生としての日常を送ってもいる。

そういう訳でシンジは今日も今日とていつもと変わらない日常を送るべく、午前六時という部活をやっていない中学生にしては早めの起床を毎日行っているのである。

 

ところが、この日はどうもいつもとは少し違う日常が待っていたようだ。

 

いつも通りに朝食の仕込みを行おうと、キッチンに向かう。

昼食は先日既に作り終え、冷蔵庫の中から取り出されるその瞬間を今か今かと待ちわびていた。

 

この日の朝食はベーコンエッグにクロワッサン、そしてサラダといった、洋食仕立てのメニューである。

そうはいってもクロワッサンは既製品、サラダやベーコンエッグはサラッと作れてしまうので、手間は限りなくゼロに近い。

 

まずは湯を沸かすことにする。

ガスを付け、換気扇を回す。仄かに立ち込めた妙な甘みを含んだガスの匂いは、たちまち消え失せることになる。

湯が沸くまでの間に、せっせと箪笥の中から黒く、そして鈍い独特の芳香を放つコーヒーの豆を必要量取り出すと、手際よくそれを挽きにかかる。

この挽きという作業に関しては、既に体が覚えている。中細に挽き、コーヒーメーカーに詰め込む。

 

湯が沸くまでの間は、暫くの間は静かな時間のみがその場を支配することになる。

時たまこの時点で同居人の一人が目覚めるのだが、今朝はまだ眠たい時間帯らしい。

 

この日の豆は、カツーラ。

何分保存が効くので、エヴァンゲリオンの訓練で変則的な生活になりがちなパイロットにとっても特に安心して飲用できる品種、ということらしい。

身近な珈琲愛好家の一人である金髪の博士、赤木リツコがそう言っていたので、きっと間違いないのだろう。

 

などと思っていると、

 

『おはよう、シンジ君』

「おはよう、カヲル君」

『何だか間違った名前で呼ばれたような気がするけど、気のせいかな』

「??? 君が何を言っているのか分からないよカヲル君」

『ふむ、そうかい』

 

カヲルが目覚めたらしい。

それと同時に覚えのない質問をされたシンジは少し戸惑う。寝ぼけているのだろうか、と疑問を抱くのも無理ないことだろう。

 

現在、碇家において目覚めの一杯のコーヒーは最早日課の一つと化している。

アイスでもホットでも、勿論コーヒー以外でも基本的に美味しく頂けるものだが、

眠気覚ましや体温上昇の効果を鑑みると何となくホットコーヒーの方が適していると考え、いつもこうしてホットコーヒーにしているのである。

 

やがて、湯の沸騰する音が聞こえてくる。

心持ち外部にも熱を発したポットから、既に臨湯状態を迎えた珈琲豆に湯が熱を知らせる水蒸気を上げながらゆっくりと流れ落ちる。

そしてメーカーが湯で満たされれば満たされる程、香りはキッチンに対して全面的な自己主張を強めてゆくのだ。

そうしてついに必要量で満たされたメーカーからは、

世の幸福の凝縮体からのモノなのではないかと錯覚するような止まることのない深い芳香が漂っており、

それは碇家のキッチンをわが物にしようという静かな支配力をありありと見せつけていた。

 

この芳香に包まれた朝の数分間が、一日のうちでも特にたまらなく愛おしい数分間といっても過言ではあるまい。

 

そうして香りを享受していると、それにつられてもう一人の同居人も目を覚ましたようだ。

 

「……ふぁ」

「あ、おはよう綾波」

「……おはよう。今日も良い匂いね」

「ありがと。もうすぐご飯も出来るから、少し待っててね」

「ええ」

 

促されたレイはソファにゆったりと座ると、TVのリモコンに手を伸ばした。

まだ登校まで時間はあるので、観たい番組でもあるのかもしれない。

暫くカチャカチャとリモコンを弄っていたかと思うと、再びその指を止めた。それからというもの満足げにTV画面を見つめているので、きっと観たい番組を見つけたのだろう。

 

一方でシンジは、ベーコンエッグに手を掛けていた。

一見単純な料理ではあるが、シンジとしては焼き加減に拘りを持っている。

普段は、そして今日も、予めフライパンに火を通しておき、時間短縮を図っておいている。

 

ベーコンの縁に微妙な焦げ目が付いたその時が、拘りの瞬間。

ジューシーな香りが先ほどまでの目の覚めるような珈琲の匂いを掻き消し始めたその瞬間と寸分のズレなく、皿への盛り付けを行うのだ。

その様相は正に、香りの政権交代の瞬間を捉えていると言ってもよい。

あまり時間がある訳でもないので市販のものに手を加えた簡素なものではあるが、簡素なりに立ち込めている芳醇な香りは確かなものであり、

それはいよいよもってキッチンを珈琲の支配から解き放ち、

代わりに若干スパイシーさを伴った肉の匂いを以ってキッチンに対し新たなる侵略を開始していた。

 

その匂いから上手く行ったことを悟ったシンジは、卵をフライパンにぶちまける。

黄身と白身の平衡が崩れぬよう、先ほどのベーコンよりは慎重に取り扱う。

自らに埋まった体内時計と卵の焼き加減を瞬時に対応させ、己の感覚がカチッとハマったその瞬間に皿へと盛り付けるのだ。ベーコンと組み合わさることで「ベーコンエッグ」という料理としてはほぼ完成。

見栄えもグッと高まってきた。

 

そこで、箸で虹彩にあたる部分をつつくと、

忽ち中からマグマ溜まりのようにジュクジュクと完熟までは至らぬ黄身が細い湯気を上げながらあふれ出始める。

そこに一筋のソースをサッ、と掛ければ、碇シンジ流・ベーコンエッグの完成だ。

 

同様の手順で自分の分、レイの分と完成させ、後はサラダを盛り付けて完成。

この日のサラダはシーザーサラダである。

キャベツ、キュウリ、シーチキン、ニンジンの入ったボウルの中に、予め作成しておいたシーザーソースをベンゼン状に散りばめてゆく。

一見せずとも何の変哲もないサラダではあることは自明だが、見栄えと栄養分を整える確かなアクセントとして食卓に君臨していた。

 

「はい、出来たよ」

「……頂きます」

「召し上がれ」

 

テーブルに並んだ料理のうち、まずはベーコンに手を付ける。

料理人にとって食べ手の反応は気になるところである。

微妙な緊張感が走る。どうだ。美味いのか。それとも、不味いのか。

 

「……美味しい」

「そう? なら、良かった」

「碇君の料理はいつも美味しいから、もっと自信を持っていいと思うわ」

「そ、そうかな」

「ええ」

 

レイの反応に安心したシンジは、自分も食事を開始することにする。

 

『うん、なかなかイケてるよ』

「(ならよかった)」

「そう、よかったわね」

『まずこのベーコン。ジューシーさ、絶妙な焦げ加減、絶妙な塩加減』

「……そしてこの卵。絶妙な焼き加減、見栄えの良さ、ソース加減」

『そしてこのサラダ。シーザーソースの出来栄え、ベーコンの塩味と合う絶妙な野菜の選択、一見して区別のつかない市販物の中から特に歯ごたえの良いものを選び抜いたシンジ君の確かな観察眼』

「『洋食系朝食の三大献立の三大必須要素、トリプルスリーを抑えられている最高の朝食さ(よ)』」

「いや、全く意味は分からないけど……なんか照れるな」

 

思わず照れ笑いを浮かべてしまう。かなり上等な仕上がりになっていたらしい。

朝の時間は今日も平和にゆったりと過ぎてゆく。

 

しかしここで朝食を食べ終え、粗方の片付けも済ませたシンジが少しだけ面持ちを変えてレイに向かう。

 

「綾波」

「何?」

「今日は……悪いけど、僕は学校を休ませてもらうよ」

「……? 司令との墓参りは、もう済んだはずよ」

「そうじゃない、そうじゃないんだ……もっと大事な日だからね、今日は」

 

自分の方を向いていながら、何処か遠くを見つめているかのようなシンジにレイは少しだけ怪訝な表情を浮かべる。

だが、その表情もすぐに元に戻る。

事情は分からないが、どうしてもやらなければいけない何があるのだろう。そう思い、特に何か咎めたりするということもしないことにした。

 

「…………そう、分かったわ。皆には風邪だと言えばいいのね」

「ま、まぁ……何でもいいけど」

 

ここ最近、レイの中には何か妙なセンスが生まれてきているらしい。

 

『……只ならぬ用事のようだけど、僕はどうするべきだい?』

 

一方でカヲルも一応問うてはおく。

もしプライベートな事情だというのなら、無理にまで干渉しようというつもりはないからだ。

 

「……出来れば少し離れていて欲しいかな」

『分かったよ。それじゃあ僕も今日はエリサベスの世話に行ってくるとしよう』

「今日は、と言っているけど、貴方はいつも碇君が学校にいる間そうしているわ」

『失礼な。これでも世話をしながら何時もシンジ君に何もないかどうかをしっかりと見ているんだ。四六時中ビー ウィズ シンジ君でね』

「やっぱりホモね」

『そういう意味じゃない』

 

いつもと変わらない二人に、シンジはただ苦笑いを浮かべるのみであった。

同時に、どことなく察してくれた二人に感謝の念も抱いた。

 

----

 

「……着いた」

 

何時もながらに、セミの叫び声と真夏の太陽を背に浴びながら。

シンジは、市内病院にやってきていた。

かつて自分が何時も担ぎ込まれていた、ネルフ直属で運営されている病院である。

一般市民の入院も当然可能ではあるが、ネルフの支援が受けられるかどうかは別になっている。

 

そんな病院に来た理由は二つある。

 

一つは、トウジの妹・サクラの見舞である。

実はここ最近、一種のインフルエンザに罹ったのだという。

従来型のインフルエンザは高温多湿に弱い。

ところが彼女が掛かったのはセカンドインパクト以後に生じた発症例の少ない、高温多湿に耐えうる新型ということであり、大事を取って入院という措置を取られていた。

幸いにして感染力自体は大きくないらしく、第三者が見舞うことも可能なのだという。

 

当のトウジこそ気にせんでええ、とにこやかに言ってくれているのだが、それを真に受けて行かないということはシンジには出来なかった。

かつての自分の、罪滅ぼしになれば。

ここの世界では何一つ関係はないのかもしれないが、自分がそうしたいのだから、そうしているのである。

 

病院に入ると、外の無駄な暑さが嘘のようになくなり、清涼な風と消毒液風の独特な匂いが代わりに自分を包んだ。若干肌寒さを感じなくもないが、外の暑さと比較すればどこか天界に迷い込んだかの如き心地よさを禁じ得ない。

セミの声はまだ微かに聞こえるものの、外界と自動ドアで隔てられたことにより生じた、静けさという音にかき消されつつあった。

 

受付を終え、病室に向かう。

いつもは大抵先客としてトウジが居るのだが、平日ということもあり今日は静かだった。

それどころか、いつも休日ならばそれなりに人の騒めきで包まれているはずの病院は、まるで異世に迷い込んでしまったのではないかと勘違いしてしまう程には閑静なものであった。

 

少々違和感は覚えない訳でもないが、然程気になるものでもない。ネームプレート「鈴原」の病室に辿り着くと、

穏やかなトーンで二度戸を叩く。

そのトーンは独特な物であり、

 

「はーい」

 

その戸の先に居る彼女も、兄でないことを悟ってか多少他人行儀気味な声色になってもいた。

戸を開けるといよいよ微かなセミの声も聞こえなくなる。

外界とのつながりが限りなくゼロに近づきつつある半ば閉じた世界に、シンジは躊躇いなく進入した。

 

「こんにちは」

「こんにちは。……あぁ、碇さんじゃないですか。何時もわざわざ見舞いに来てくださって、ありがとうございます」

「ううん、気にしないで。はいこれ」

「わぁ、私の大好きな桜餅! わざわざ持ってきてくださったんですか!」

「何も持ってこないで来るのも気が引けたからさ。良ければ食べてよ」

「ふふ、ありがとうございます」

 

午後の半ばになると、かなり遅い時間まで兄ことトウジが居るので、寂しさを感じるということはない。

それでも、それまでは定期的にやってくる看護師しかここに来る人はいない。

幾ら病気という止むを得ぬ事象とはいえ、外と分けられたこの世界で平気で居られるには少し若すぎた。

このため、思わぬ来訪者に頬を緩めずにはいられなかった。

 

「体調はどう?」

「一時はどうなるかと思いましたけど、お蔭様で大分治ってはきましたよ」

「そっか、それなら良かった」

 

他愛のない、ごく自然な会話。つかの間の平和を享受出来ることには、喜びがない訳ではない。

けれど、まだすべてが終わったとはとても言い難い。待ち受ける残り十体弱の使徒に勝ち、人類の未来を切り開くまでは、平和などという二文字は訪れようもないのだから。

 

そしてもう一つ。今回病院に来たのは、サクラの見舞いがメインの目的ではなかった。

一通りの「それらしい」会話を交わしたのち、早々に別れを済ませた。

 

今回の目的は、サクラの病室より更に五階ほど下にある、とある病室。

三○三号室、精神科特A級隔離室。

特A級とこそ名付けられてはいるが、患者が居ない際は普段は開放され、普通の病室である体を装っている。

今が丁度、その時であった。

 

閑散としたその病室は、ドアが開いているせいもあり、

明度、音、匂いといった雰囲気を司る要素はそれまでに居た廊下と何ら変わりはないようであった。

微かに聞こえてくるセミの声、さんさんと降り注ぐ陽光は、現実とこの病室との繋ぎ目を確かに示していた。

この部屋の有り様は一つの現実として、他のいくつもの現実と並行して存在している。

 

けれど、それは第三者から見た時の話である。

 

もしもこの病室に、何らかの思い入れがあるヒトがこの病室を見たら、果たしてそのヒトは何を思うだろうか?

 

例えば昔、この病室にかつての、……仲間が、横たえられていたのだとしたら。

 

「……殆ど、変わらないな」

 

かつての機器類は並んでおらず、音も殆どない。

代わりに、持ち主の居ない、一切の汚れやシワが見えない白いベッドと、そのシーツだけがそこにある。

けれど、それは見てくれに過ぎない。

もしそのベッドの何たるかを語るとして、それは殆ど意味を成すことはない。

 

「違うのは、君が居ないことだけ……」

 

よくよく見れば、どこかに糸のほつれはあるし、柱も少し痛んでいるように見えなくもない。

これが、このベッドの本当の姿。一見綺麗な見てくれも、よく見れば必ずボロがあるものだ。

でもそれは誰のせいでもないし、それ自体が悪かというとそんなことは微塵もない。

 

「どうして、君だけはいないんだ? 僕がまだ、見つけていないだけなのか?」

 

世の中において、絶対、あるいは完璧等と呼ばれるものは、言葉としては存在していても、決して事象として存在しえないからである。

それは例え時を遡ったとして、決して例外ではない。

正に、それを噛みしめる瞬間が、今。

 

「もし、本当に居ないのだとすれば、きっとそれは、僕を恨んだからかもしれない」

 

目の前に居ない彼女が、完璧という言葉が事象として成立しえないことを証明していた。

数々の友や仲間、身近な大人たち、知り合い、その全てを何としてでもあの未来から救う。

それはまさしく完璧という言葉で形容しうる一つのものであるが、それが実現するかどうか。

 

「赦してくれ、だなんて、言う権利は、ないのかもしれない」

 

けれどそれが仮に、全員では出来ないとしても、

一人くらいなら、救えるのではないか? 

そうでなければ、一人くらい救えないのならば、全員などはまず無理だからだ。

 

「だけど……せめて、居てほしいよ。そうじゃなきゃ、寂しすぎるじゃないか……」

 

だから、希望を持ちたい。その一人を救いたい。

その一人を、何としてでも、あの未来から遠ざけてあげたい。

それは人として、決して間違った主張ではないと思う。そう、思いたい。

 

「そうだろ……?」

 

あの時、溶けあった瞬間に、思ったから。

他人は確かに怖い。けれども、それ以上に、他人と一緒に居たい。他人の居る世界が、いい。

ましてや、彼女なら。彼女と一緒に居たい。それが叶わぬのなら、せめて彼女の居る世界が、いい。

 

 

 

夏のあの日。

赤い世界に飛び込む、ほんの数日前の話だった。

 

助けを求め、体を揺さぶる。

知り得るもの皆が、怖かった。怖くないかもしれないのは、目の前に横たわる少女ただ一人。

 

少しでも、誰かが、隣に居てほしい。

そばに居てほしい。

そばに居て、今の自分を助けてほしい。

 

最愛の友を殺して、他人から逃げている。怖いから。その恐怖から、助けてほしい。

 

助けてほしい。

 

助けてほしい。

 

助けて。

 

助けてよ。

 

僕を助けてよ。

 

お願いだから、僕を助けてよ!

 

何時もみたいに、僕を馬鹿にしてよ!

 

ねえ!

 

 

ガシャン!

 

必死になっていると、繋げられていたコードはぶちりと引きちぎられる。

その瞬間、コードと絡み合っていた彼女の衣服もコードの張力に任せて引き剥がされた。

 

露わになる、自分たちとは違う、もう一つのヒトの血の混じった彼女のカラダ。

 

瞬時に、脳内に居るヒトと比較した総評会が始まる。

青さの抜けぬう黒髪のあの人、冷えた金髪のあの人、透き通った髪をしたあの人、雀斑の映えるあの人、悪友たちと読んだ雑誌に描かれたあられもない姿のあの人、道行くあの人、この人、その人……

誰もが皆、独特な輝きを持っていることは年特有の想像力を持ってすれば容易く心に描ける。

けれど、それ以上に目の前の彼女は、ヒトの姿で極めうる最大の美と、深淵の誘惑を抱いているかのようにしか思えなかった。

実際にはただ、動けないそれが、自分にとって劣情をぶつける対象として最大に都合がよかったからに過ぎなかったとしても。

 

彼女を見つめる。見つめると、いや、見つめたその瞬間から。

 

普段は指先で触ることすらままならない、長くきめ細やかな茶髪。

一粒の面皰や雀斑もなく、あらゆるパーツがこれでもかと整えられた顔面。

細く、けれどそのどこにも一つの歪みもなく、爪先まで隙の無い指先。

普段の気の強さなどは微塵も感じさせない、少女らしい華奢さもある腕。

考え得るあらゆる無駄を見せることもなく、艶やかに円弧を描いた腋。

全てにおいて美しいその肉体を裏切らない、確かな主張を見せる乳房。

一切の贅肉はなく、代わりに縦にすらりと伸びた筋を現した腹部。

その完全な肉体の中心に、完全な画竜点睛の一手として投じられた臍。

全く無駄のないその体を強く引き立てる、鮮やかな括れを伴った腰。

布越しにその守りが透過されることで存在が示唆される、自分とは違う秘部。

多少の柔らかさも残しつつ、婀娜やかな引き締まりを忘れていない太腿。

すらりと伸び隙を一切見せないまめやかさのある、眩さすら伴っている脚部。

 

彼女を包む白とは対称的な、ありとあらゆる色に塗れた膨大な情報がやってくる。

自分にとってあまりの濃艶さを伴っているように見えた彼女のカラダは、閉塞しつつある自分の感覚に対し暴力的なまでの美を叩き付けてくる。

外界とのつながりを示す扉はこの時完全に閉じられており、あらゆる状況が少年の肉欲を強く掻きたてるのに最高の条件を指示していた。

その瞬間から、時間は掛からない。

微小な時間すら、なかった。

他人の怖れのないこの空間で、少年は自分の全てを曝け出し、目の前の物言わぬ少女にその全てをぶつける。

 

にじみ出る汗。漏れ出る呻き声。

 

少年の脳内で思うがままに蹂躙されてゆく彼女。

記憶から想起される、少女の喜怒哀楽に塗れた表情。声。肉体。

 

嗚呼、目の前のなんと、美しきことか!

 

 

しかしこの時、他の誰でもない、彼女に対する微かな恐怖。それが最後の一手は留まらせていた。

寝息を立て微動だにしない彼女にすら示した恐怖は、果たして何を意味していたのか。それは分からない。

 

ただ一つ事実として起こったことは……、その代償として、彼女の奥底に本来示されなければならない筈のいわば超自然的なモノは、空虚に少年の手を覆ったことのみである。

 

 

最低だ―――俺って。

 

 

思い出されてくる、同年代の常人では聊か有り得ない程の淫慾に包まれた記憶。

とめどない罪悪感、後悔、懺悔、自分への憎悪、負の感情が一手に迫りきては、心を侵食し、やがて立ち去ったかと思うと、再び迫りくる。

 

それでも少年は彼女の名前を呼ぶ。

例え彼女がそれを望んでいなくても、本当の気持ちに嘘を吐くことは出来ないから。

 

その声自体は、この空間において完全に無意味で、

発された瞬間見る間もなくか細い無力な波となり、やがて消滅する。

そんなことは分かっている。

 

それでも呼ばずにはいられない、かつて狂おしく求めた彼女の名を。

 

「……アスカ」

 

惣流・アスカ・ラングレーの名を。

 

----

 

病院を後にし、最寄りのファストフード店でフライドチキンを貪る。

 

多少の胡椒によりそれなりに味は引き立っているが、何かが物足りないような気がしてならない。

それが空腹に由来したものなのか、居るべきもう一人の存在の欠如によるものなのかは、分からない。

ただ、そんな出所不明の寂寥感にも似た何かを感じつつあった。

 

この日にあの病院に行ったのは、彼女を知る自分にならば意味のある行為である。

彼女が世に生まれ落ちたその日を偲ぶ。

例えそれが自己満足であったのだとしても、自分がしなければ果たして、誰がするのだろうか?

 

今は近くに居ないだけで、確かに彼女は、自分の近くに、目の届く範囲に、いた。

 

こうしてこの日に、この病室に訪れることは、果たして少しでもその証明になるのだろうか。

 

答えは出ない。出ないままに、無心で目の前の肉を頬張った。

 

清涼感に包まれた店内を出ると、再び蒸し暑さが自らの体を卑しく貪ってくる。

蝉たちによる合唱祭もいよいよクライマックスを迎えており、より一層の暑苦しさを与えていた。

 

あてもなく、ふらりふらりと彷徨う。

予想より早く出てきてしまったのでわざわざ学校を休むまでもなかったかもしれないが、流石にもう昼間ということもあり今から行こうという気にはならない。

 

大通りを進むと、やがて交差点に突きあたる。

そこは奇遇にも、かつてアラエル戦の後に彼女が蹲っていた場所のほぼ目の前であった。

 

かつて彼女が、全てを否定したあの場所である。

立ち入り禁止のテープ柵が、彼女の否定を正しく露わにしていた。今は、何もない。

 

信号から発される誘導音は、人気の疎らな道路に蟲たちの歌唱以外の数少ない音源を提供していた。

皮肉にもあの時と同じ、青空。

 

その最中を歩いていると、一台の自動車のエンジン音が聞こえてくる。

 

それは少しずつ自分に近づいてきているようであった。

まさかと思い振り向いてみたが、どうもそれは杞憂であったらしい。

確かに近づいてきてはいたが、それは減速を伴ってのものであった。白いやや小型のオープンカーということもあり、相手の出で立ちも明らかなものであった。

青いYシャツにベージュのネクタイという、やや形式ばった服装ながらも飄々さを忘れていないその男は、

サングラス越しにでもシンジにとってはまさしくその人であると確信させるに充分であった。

やがて信号沿いに止められた車から、手をひらひらとさせていた。

 

「シンジ君じゃないか」

「加持さん。何しているんですか、こんなところで」

「それはこっちの台詞だよ。何してるんだ、こんなところで」

 

何時だかにも、こんな会話があった気がする。

ただ今とは明確に違うシチュエーションでもあったはずだ。

 

「……少し、風に当たりたくなりまして」

「それは、学校を休んでまで、か?」

「……まぁ、はい」

これが普通の間柄であれば、なんてことのない普通の会話だ。

ところが、普通の間柄ではない。

 

一方は世界を守るため活躍するエースパイロット、

一方は真実を追うため暗躍するトリプル・スパイ。

 

これ程までに不思議な間柄というのは、きっと世界でも類を見ないのではないだろうか。

 

しかも、普段の行動や言動からして、スパイはパイロットに少なくない疑念を抱いている。

加持としては、今のシンジの発言にも、猜疑の目を向けない理由はなかった。

 

 

が、それだけだ。

 

 

「…………ま、君ぐらいの歳なら、そういうことの一度や二度、あってもおかしくないだろうな。

丁度良かった。手持無沙汰だったもんだからね。風に当たりたいなら隣、どうだい」

「……」

「何も、取って食う訳じゃないさ。さ、乗った乗った」

「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 

聞きたいことこそ山ほどあるが、別に目の前に居る少年に私怨やその他何らかの因縁があるという訳でもない。加持がシンジに少なからぬ疑念を抱くのも、純粋に真実を追い求めるうちの一環に過ぎない。

何より、飽くまでもかつてシンジと同じように少年時代を生きた一人の大人として、迷える成長期の少年に手を差し伸べてやる。

この行為を客観的に見た時、何ら不自然さ、不合理さといった物は感じないといえよう。

 

「よし。交通量も少ないし、少し飛ばすぞ」

「いや、流石にまずいですよ?」

「風に当たりたいんだろ? 何、特務機関の車だから融通は効くさ」

「はぁ……僕は知りませんよ」

 

そうして、やや渋々といった様子で助手席に乗り込む。

それでもその様子に満足げに頷いた加持は、シンジが座り込んだところでアクセルを踏み下ろす。

 

それなりに高性能なのだろうか、十数秒ほどで法定速度を軽く突破していた。加速能力は高いらしい。

が、その運転にはミサトのような荒々しさがなく、飽くまでもきめ細やかさも兼ねたものであり命の危険を感じることはなかった。

 

暫し他愛もない世間話などをする。学校のこと、ネルフのこと、家のこと、自分たちのこと。

どれも本当に他愛ないという言葉が似合っており、核心に至るものは一つたりともなかった。

 

が、それも時間の問題である。小一時間ほど車を走らせたあたりで、いよいよ話題のベクトルは核心へと向き始めた。

 

「……で、だ。どうしてまた、あんなところに?」

「まぁ……色々と」

「色々、か……分かった、当てて見せよう」」

「……?」

「さては、恋人が出来たんだろう」

「……」

 

黙秘を貫く。

肯定とも否定ともつかぬその様子に加持は暫し考え込むと、少し探りを入れてみることにした。

 

「あれ、おかしいなぁ。これでも自信はあったんだけど」

「恋人、という訳ではありませんよ」

「まぁ、それもそうか。君にはマリにレイちゃんが居るんだからな。

両手に華で、更にもう一人となればそれはもう大変。女も三人集えば姦しいとは上手いことを言ったもんだ」

「は、はぁ……」

 

おどけて見せたが、シンジの様子は余り変わらない。

つかみどころのない少年だと改めて実感していると、その少年がおもむろに口を開いた。

 

「……まぁ、恋人ではないですが、女の子なのは、確かです」

「ほう? 

君ぐらいの歳で、恋人でもない女を気に掛ける、か……やるじゃないか」

「そ、そういう意味じゃなくて……えっと、まぁその……仲間、といえばいいんでしょうか」

「仲間、ねぇ。」

「はい。大事な仲間でした。僕と違って、とても明るくて、気が強くて、聡明で……まぁ確かに、恋人に出来たなら、とても幸せかと思いますが」

「なるほど。ネルフに似たようなタイプの女性は居るか?」

「……居ませんね。明確に誰にも一致しない人です」

「へぇ」

「でも、きっと他の誰にも負けない魅力がある人でした。それは間違いないです」

「そうかそうか。それで、その子がどうかしたのか?」

「えっと……今日は、彼女の誕生日だったんです」

「ほう。今日が誕生日、だった、ということは……」

「あ、別に死んでる訳ではない筈なんです。ただ、どこにいるのかが分からないだけで……」

「イマイチ、要領を得ないな」

「無理はないと思います。恐らく加持さんも、会ったことはないでしょうから。

ただ、だからこそ。

他の人が誰も知らないからこそ、唯一かもしれない彼女を知っている僕だけでも、誕生日を祝いたかったんです」

「なるほどな……居るかも分からない女の子の誕生日を祝う。

人によりけりだろうが、少なくとも俺はそういうのは嫌いじゃない」

「あ、ありがとうございます」

「しかし、そうなると……やはり、その子の行方は気になるんじゃないか? 何だったら俺も捜そうか」

「……その気持ちは感謝します。でも、やっぱりこれは僕がケジメを付けるべきことですから……」

「別に遠慮はいらないぞ?」

「遠慮とかじゃないんです」

 

少し迷ったが、思い切って話してみることにする。

 

「……僕はかつて、彼女に対して酷いことをしたんです。勿論彼女からも色々されたことはありますけど、そんな比じゃない……今思えば、だから彼女は僕の目の前に現れないのかもしれない」

「……」

「そうだとしたら、僕が彼女を見つけ出さないといけないんじゃないか……そう、思うんです。

永遠に彼女からは許されないとしても、誰にも頼らず、この手で見つけて、一言謝りたいんです」

「……そうか。そこまでの決心があるなら俺は止めない」

「そうですか、なら……」

 

シンジが再び話し始めたところで、

 

「ただ」

「ただ?」

 

加持が挟む。

 

「それならば、一つ言っておくよ。闇雲に突き進んでも、決していい結果は得られない……ということさ」

「……はあ」

「勿論、今の君はそう安易に四方八方に暴走する人間ではないのかもしれない。

が、それでも少なからずその歳に見合った失敗などは重ねるはずだからな。

己の力のみで道を切り開くのは男としては最高に格好いい行動だが、同時に明けない闇の中を彷徨うリスクもある」

 

自分の弁に、シンジが黙って聞いているのを確認して、ゆっくりと続けた。

 

「俺もかつて君のように、闇雲に突き進んだ時代があった。

丁度君と同じくらいの歳で、あれは丁度セカンドインパクトの混迷の中だった」

「そうだった……んですか?」

「あぁ、今丁度二十九だからな。

……荒れ果てた街の何もない中を、何かを求めて必死に突き進んだものさ。

求めたものが何だったのかは、正直今でもよく分からない。明日への希望だったのかもしれないし、あるいは昨日までの絶望すらどこかで望んでいたのかもしれない。

けれども、その先に何かが見つかることは決してなかった。齢十五のガキの力なんて、当時の混乱の前には全く以ってゼロに等しかったのさ。

幸いにして、それでも何とかこうして生きてくること自体は出来たが」

「……なるほど」

「今の君の境遇も、それに近いんじゃないか?

居るのか居ないのか分からない存在の女の子を偲んで、行動する。

その「居るのか居ないのか」の線引きこそ君にしか分からないことだろうが、

少なくとも第三者から見れば、その行動はかなり大きな力に立ち向かっているようにすら見える」

「はぁ……そういうものでしょうか?」

「ああ。きっと今の君は、当時の俺よりも凄い能力を持っているんだろう。

だから、もしかしたら何かを見つけられるのかもしれないな。

……ただそれでも、限界はある」

「限界……」

「そう。年相応に設定された限界。

あるいは、個人ではどうしても超えることが不可能な、限界領域。

こういうものがあるのは、君にも分かるだろう?

人は頭脳に特化した分生物でも特に脆弱な存在だから、尚更のことなのさ」

「そうかも、しれませんが」

「勿論、己の道を突き進むのは是非頑張ってほしいし、それは俺としても全力で応援する。

君になら、ある程度の領域に到達することも容易いことなんだろうな。

だが、いざという時は別の路もある。それだけは覚えておくべきことだ」

 

己の、限界……

 

その言葉を聞いたシンジが想起するのは、数ヶ月前のラミエル戦。

 

自分の力の、過信……

過信、であった。

 

変形するラミエルは、あの時のミサトの言葉をまさしく裏付けしていたではないか。

 

そして見る間に強くなってゆく使徒たち。

本当に、過信ではないのだろうか?

 

けれど、アスカのことについては、それとはまた違う話でもある。

恐らく命の危険までは伴わないことである。

 

でも、……困難なのは、確かだ。

 

それでも、自分の力で見つけるのが、最低限のケジメではないのか?

 

二律背反する己の中の、理性と感情。

 

暫くの間、車内の空間は沈黙が支配していた。

やはり肯定とも否定とも言えぬ雰囲気をシンジは醸し出していた。

簡単に答えの出る結論でもないことは、加持としても重々承知している。それは自分の願望でもあるのかもしれないが、同時に目の前に居る少年は少し考える時間も必要なのだろう。

 

そういうこととして、少し別の話題を切り出してみる。

 

「……そうだ。参考程度に聞いておきたいんだが、その女の子の名前、なんて言うんだい?」

「え?」

「何、別にナンパしようという訳じゃないよ。俺には本命が居るのでね」

「いや、ナンパしたらロリコンですよ加持さん。僕と同い年ですから」

「あのなぁ……ただ、ネルフのエースパイロットが他の二人の女パイロットそっちのけで気に掛ける程の人間とはどういう人物なのか? という単純な好奇心だよ。何、苗字が嫌なら下の名前だけでも構わない」

「まぁ、良いですけど……えっと、『アスカ』っていうんです」

「アスカ、か……そうかそうか」

「どうかしましたか?」

「いや、良い名前じゃないか。俺も、君の恋路が成就することを祈っているよ」

「だから恋人じゃないですって」

「ははは……お、この辺りは君の家の近くじゃないか。どうする?」

 

加持の言葉に促され周りを見てみると、確かに自宅の近所にやってきていることが分かった。

 

「ああ、じゃあ……この辺で失礼します」

「分かった。色々と頑張れよ」

「はい、ありがとうございました」

 

シンジを降ろすと、オープンカーは再びどこかへと走り去っていく。

 

加持は暫くオープンカーを走らせると、ある街の一角で停車させる。

 

取り出したのは小型パソコンで、おもむろにキータッチを開始する。

暫しの作業の末その指を止め、映し出された画面を興味深く眺めた。

画面をスクロールさせると、最後の下限のある表記に目を止めた。

 

そこに映し出された文章は英文にして数行と短いものであったが、加持の好奇心を跳ね上げるのに十二分な効果を買って出ていた。

同時に、それに酷く驚きもした様子であり、普段の微笑みをたたえたポーカーフェイスが多少歪むことになった。

 

「…………シンジ君。君は、……何故なんだ?」

 

余りある結果に漏れ出す呟きは、既に日の傾きつつある喧騒とした街に消えてゆく。

 

----

 

家に帰りつき時計を見ると、既に時間は十六時を過ぎていた。

先ほどまでの猛暑も少しずつ陰りが見え始めている。

 

日照時間は多少伸びてこそいるが、流石に十二月になっただけはある。

高々と登っていたお天道さまもこの時間帯からは徐々に白から橙赤色へと色染まり始めていた。

 

夕陽に包まれつつある自宅の一室。オレンジ色の眩い輝きがさんさんと降り注ぎ、幻想的な雰囲気を醸し出しつつある。

 

シンジは、おもむろにクローゼットを抉じ開ける。そして、ソレを取り出した。

そう多くの物を入れている訳ではないので、目当ての物を取り出すのにも苦労はなかった。

 

かつて、何の意味もなく、それでも何となく続けていた、チェロ。

持ちだしてからというもの触れる機会もなかったので、多少埃をかぶってはいた。

けれど、テーブルセットのイスに腰掛けると、感覚に任せて多少の調弦を行ったのち、弓を引いた。

音としての強さは弱かったが、かつての弦楽器特有の透明な音色は未だに健在であったようだ。

 

楽器としての機能を果たしていることが分かったので、改めて弓を握る。

 

チェロの旧約聖書ともいわれるその曲は、一般には非常に高度な技能を求められているとされている。

しかしながら、そのようなことはシンジには足枷にならない。

 

指板上では彼の操る五人のダンサーが、緩急に富んだ鮮やかな演舞を見せる。

同時に弦上では、弓という名の指揮者によりリズムを得た歌手がダンサーたちの踊りに触発され、

天性の歌声を絶え間なく響き渡らせることで、至高の音色でこの空間を包み込んだ。

 

その音色は徐々に沈みゆく太陽を背に、一つ、また一つと紡がれては消えてゆく。

 

消えゆく運命にある音色たちは、初めのうちは生まれ落ちた歓喜に満ち満ちていた。

けれどやがて定められた時がやってくると、その場にどことない哀愁を遺し、世界を後にする。

 

 

偶然とはいえ、初めて心から仲間だと思える女性に聴かせた、その音色。

 

あの時と同じ斜陽に包まれながら、一音一音に祈願を込める。

 

この瞬間、彼女が少しでも幸運でありますように。

そしてこれからも、彼女が少しでも安寧に包まれていますように。

そして、彼女に何時か、再び会いまみえる日を……

 

最後の音符に辿り着き、存分に響き渡らせる。

大きく伸びてゆく音色は、やがて空間に全て吸い込まれた。

 

 

パチパチパチパチ。

 

 

その時、後ろから奏者への敬意を示す拍手の音が聞こえてくる。

聴衆の居ない筈のこのコンサート会場であったが、確かに今、一人、いや二人の客人が居たのだった。

 

「……とても、上手かったわ」

「綾波……」

『凄いじゃないか。……音楽は、いいね』

「カヲル君……」

「もしかして、今日休んでいたのも、この為?」

「あ、それは……」

 

この場に関しては、一つ二枚舌を使うことにする。

 

「うん。そういうこと……だよ」

「そう……」

『何故休んだか、なんでのは、些細なことだ。これほどの才能あるリリンが近くにいただなんて感動の極みだよ』

「そ、そうかな?」

「それもそうね。

……そうだわ碇君。今度の文化祭、デュエットしましょう。貴方はチェロ、私は……」

 

暫し考え込むレイ。

口に出したはいいが、肝心の扱える楽器が実はない、というオチだろうか?

 

が、それは意外な形で破られることになった。レイは何かを閃いた顔をしたかと思うと、おもむろに口を開いた。

 

「ユーフォニアムを吹くわ」

「え、綾波ユーフォニアム吹けるの? 凄いじゃないか」

「ええ。体育館中に響かせてみせるわ」

 

得意げな顔をして、吹奏楽器を吹くジェスチャーをするレイ。

真偽はともかくジェスチャー自体の完成度は極めて高く、シンジにとって吹奏楽器は、名前は聞いたことがあるもののどれも扱ったことがないといった存在で、例え吹けることが嘘でも完璧に騙される程のものであった。

そうしてシンジが感心していると、カヲルが何時ものように茶々を入れ始める。

 

『やめておくんだレイ君。

仮にも女性である君があの楽器を吹いたら、一部の人たちが変な連想が出来るだの、卑猥だのと文句を言うに違いない。

ここはやっぱり僕がシンジ君のユーフォニアムを、じゃなかったシンジ君とユーフォニアムを』

「黙りなさいホモ・タブリス。実体のない貴方では無理よ」

『なんだいその現人類みたいなノリは』

 

二人としてはいたって真剣なのかもしれないが、シンジとしてはまーた始まった、といつも通りに苦笑を浮かべるしかなかった。

チェロを元に戻し、さて今日の夜ご飯はどうしようかと考えている間にも二人の論争は続く。

 

『それに実体がないと言っても、君は大事なことを忘れているよ。僕とシンジ君は、本当の意味で心身一体だということを』

「本当に心身一体なら尚更デュエットは無理よ。どうしてもというなら精々ネルフから私の素体を奪ってくることね。

最も奪った瞬間警報が鳴り響き、魂もろとも身体も破壊されるでしょうけど」

『くっ、その手があったかと思ったのに……だったらそうだ、鈴原君あたりの肉体を間借りすれば』

「迂闊だったわ……何も言わなければ勝手に自爆してくれそうだったのに」

『何か言ったかい、義星に生きるレイ君』

「何でもないわよ声だけ攘夷志士」

『ジョーイ? 幾ら最近お気に入りが発売されたとはいえ、ゲームのやりすぎじゃないかい?』

「大丈夫よ、捕まえにくいのは蟹だけ。リリスの力を以ってすれば貴方の捕獲位どうということはないわ」

 

やんややんや。

鳴りやまぬ論争に、どうにも夕飯の構想も固まらない。

放っておいてもよかったが、少し手を入れることにしてみる。

 

「……あの、二人とも……そろそろ抑えて、ね? 今晩のメニュー、考えないと」

『……シンジ君がそう言うなら、仕方ない』

「碇君が、そう言うのなら」

 

幸いにして、二人の論争は終わったかのように見えた、が……

 

『……ふふ、命拾いしたねレイ君。僕に実体さえあれば三日後にリリスの首から体中の血という血を吹き上げさせるというのに』

「……今私の願いが叶うならば翼が欲しいわ、さすれば貴方を悲しみのない自由な空へ翼はためかせて逝かせてあげるのに」

 

また少しずつ火花が散り始めた。

こうなったら、自分の手で鎮めるしかない。使いたくはなかったが、人間の根本的欲求に立ち返った方法を試みることにした。

 

「……二人とも、静かにしないと今晩のご飯をニンニクラーメンチャーシュー入りにするよ」

「ごめんなさい」

『ごめんなさい』

「謝るなら最初から静かにしようよ、ね?」

 

効果は抜群だった。

レイが肉嫌いなのは知っていたのでまずはレイから、と思っていたのだが、

どうやらカヲルも肉か、あるいはニンニクが嫌いらしい。

前に自分と一緒に食べたカレーは美味しい美味しいと言っていたので、ニンニクが苦手なのだろうか。

 

静かになったのをいいことに、ぼうっとメニューを考える。

冷蔵庫の中身、スーパーの特売一覧、栄養素、気分……様々な要素が複雑に絡み合う中で、レイが一声を掛けた。

 

「……碇君」

「ん?」

「私、今日食べたいものがあるの」

「そうなの?」

『ああ、実は僕もあってね』

「カヲル君まで。じゃあ、それを作ろうかな。何が食べたいの?」

 

特にリクエストがない日は何となく気分で料理を作ってしまうこともあるのだが、二人からリクエストがあるというのならば話は別だ。

やはり料理をするからには、食べたいものを食べてもらいたいし、そうすることで食べ手に最も大きな喜びを与えられるからだ。

何を頼まれるのか、と思慮していると、レイが再び口を開いた。

 

「今日は、ドイツ料理が食べたいわ」

「え?」

『そりゃ奇遇だな、僕もそう思っていたところなんだよ』

「二人とも、どうしたの」

 

二人の口から出てきたのは、奇遇にも全く同じものであった。

いつもそこまで仲が良いとは思えない二人の意見が全く合致するなどというシーンがシンジには想像が出来なかっただけに、大変意外なものであった。

 

けれど、この日の自分の行動理念に立ち昇ってみれば、ごくごく自然な欲求でもあった。

 

「私たちも、忘れていないわ。

……今日はあの人の、誕生日だもの」

『彼女を知る僕たちが祝わないで、誰が祝うんだい?』

 

微笑を浮かべる。

カヲルの場合は、恐らく前のような微笑を浮かべているのだろうという推測ではあるが、語調はとても柔らかなものであった。

 

シンジは暫く呆気にとられたような表情を隠せなかったが、やがて静かに微笑んだ。

 

----

 

第三新東京市に夜の帳が落ちたころ。

 

長い髪を靡かせ夜を往く。

既にクリスマス・ムードに包まれた街の中、歩みを進め。

 

二人と一人の魂は、湯気を上げる豪勢な料理を目の前にして。

 

唄う。

 

「ハッピィバースディ、トゥー、ユー」

「ハッピィバースディ、トゥー、ユー」

「ハッピバースディ、ディア」

 

 

「アスカ」




はい、皆さんこんばんは。

今回は久しぶりに「アレ」はありません。使徒がいませんからね!
毎回毎回やってるからもうルール忘れたんじゃないかと思われがちですが、
使徒が出てこない回はやらないんですよ、はい。ルール忘れてません。
休みのはずの日までやったら流石にブラックになっちゃいますからね。
ブラック大賞に選ばれて企業苛めならぬ作品苛めだとかなったらまぁ、

…………誰も死なないからまぁいいか。

え? カヲルはタブリスなんだからカヲルが居る時点で毎回やることになるのでは、と?
いやまぁ、使徒として覚醒した状態ではないので大目に見て下さい。


さて今回は一応アスカの誕生日を記念した回で、特別編という色合いが強めです。
原作では特に触れられていませんでしたからね。
こういう記念日に合わせて何か書いてみるのも「やりたいこと」の一つでして。
そういうことですから、書きました。
ただ特別篇という形ではあるんですが、もしかしたら微小レベルで本編と関わる、かもしれませんが。


え? 記念日と言えば、ミサトさんとトウジの誕生日が目前に迫っているって?

…………



あ、あんまり短期間で特別編入れすぎてもどうかと思うんですよね……(逃避)


まぁそういうわけでした。

次回はふつーにゼーレ魂の座をやるか、もしかしたらもう一回くらいお正月あたりで何か挟むやももしれません。
丁度おあつらえむきなネタもありますからね。

それではご一読ありがとうございました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。