姫と兎の聖譚曲   作:eldest

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(アイリス)ねぇ~……いい名前じゃないか」

 

 名前とは、その人物を定義するための重要な要素の一つだ。だからこそ、名に意味を持たせたりもするし、強い名前にはそれだけ力がある。言霊思想などと呼ばれる考え方だ。そういう意味では、少女の名は中々に強烈だった。

 虹は神にとって特別な存在だ。北欧の神々にとっては天上の神界に通ずる(ビフレスト)であり、極東の神々の始祖であるイザナギとイザナミが下界に渡るために使った道でもある。また、インドラが雷の矢を放つための弓でもあり、イリスという名の神そのものでもあった。

 対して、ミドルネームであるフランシスは子供たちにとって特別だ。フランシスとはつまりはフランシスコ――アッシジの偉大な聖人に由来するからである。

 そして――。

 

「現実逃避されるのは結構ですけど、わたくしをファミリアに迎えてくださるのか否か早く決めてくだしまし」

「簡単に言うなよ!!」

 

 そして、ラストネームはあの(、、)ハイランドときた。彼の国の事はヘスティアも多少は知っている。神秘の廃絶された科学の地であると。

 そもそも西の大陸は、魔物(モンスター)はおろか神ですら踏み入る事が許されない。それが何故なのかは神ですら解っていないらしい。可笑しな話ではあるが、少なくともヘスティアはそう聞いている。

 また、二つの大陸を隔てる魔の海域を横断出来るのは、ハイランド王国が所有する明らかにオーパーツである絡繰(からく)り仕掛けの船のみであり、船員以外の人の往来は許可されておらず、物資の輸出入だけが多少ある程度だと聞く。

 そんな神にとって神秘の国であるハイランドのお姫様が、何故オラリオの、しかも自分の目の前にいるのか。ある程度察しの付いているヘスティアは、だからこそ意識を手放してしまったのだ。

 

「君、家出して来たんだろ、そうなんだろ? だから偽名なんて使ってるんだ!」

「ええ、まあその通りなのですけど……あそこまで言えば子供でも解りますわよね?」

「……君、本当にボクのファミリアに入りたいのかい?」

 

 少女――アイリスの余りにもあんまりな言い様に、ヘスティアは疑惑の眼差しを向ける。しかし、アイリスはやはり何処吹く風で、

 

「それに、家出なんて可愛げのある行為ではありませんわ。国家の重要機密を所持して国外へ逃亡、しかも密入国。捕まれば確実に――」

 

 そう言って、首に手を二度当てるゼスチャーをした。その意味は当然『君、クビね』ではなく『君、首切りね』である。

 

嗚呼(ああ)、わたくしヘスティア様に見捨てられたらきっと殺されてしまいますわ。国へ帰ればギロチンが、ギルドに捕まれば絞首台が待っていますわ。どちらにせよ、碌な死に方ではありませんわね」

「自分の命を人質に交渉ってどんだけだよ!?」

 

 オラリオは独立都市なのだから密入国も何もないだろとか、そもそも王女を処刑する国が何処にあるんだとか、ヘスティアとしては他にも言いたい事は山ほどあったが、このままでは埒が明かないとも思い、話を先へ進める事にした。

 

「それで? 何でまた家出なんてしたんだ? この際全部吐き出しちゃえよ、ボクが聞いてやるからさ」

「……父に、わたくしの意にそぐわぬ結婚を強要されたからですわ」

「何だ、案外普通だなぁ」

 

 平凡な理由だな、とヘスティアは拍子抜けしたように言った。

 

「政略結婚なんて珍しくもないだろう? そりゃ君にとっては一大事だろうけど、王家の次女や三女を他国の貴族の嫁に出すってのはよくある話さ」

 

 そういう意味では面白みに欠ける。別に他人の不幸を酒の肴にするような趣味は持ち合わせてはいないが、あっと驚くような理由を期待していたのも否定できない、とヘスティアは嘯く。

 そして、ヘスティアの挑発にまんまと乗せられたアイリスは、くわっと目を見開くと、溜まりに溜まった鬱積を吐き出し始めた。

 

「はぁ!? 珍しくもない? そんな台詞はあの肖像画を見た後なら絶対に言えませんわ。あそこまで醜悪な男、そうそう居りはしませんわ。寧ろ頻繁に居てたまるものですか。まあ、そういう意味では非常に珍しいですわよ。しかもわたくしとは一回りも二回りも歳が離れている始末。……でも、わたくしだけが特別不幸と言うつもりはありませんのよ。それでも、それでもですわよ? あの男と結婚すれば、毎晩あの男の夜伽をしないといけないのかと思うと……! その度にアレと結合しないといけないのかと思うと……! 下手をすれば数年後には下の世話までしなければならなくなるかもと思うと……! 逃げ出したくなるのも当然と思いませんこと!?」

「やめろォ!!」

 

 ヘスティアは耳を塞いで叫んだ。ヘスティアは処女神である。その手の話に耐性がない上、思わずその光景を想像してしまったのだ。

 だが、アイリスは止まらない、止められない。塞き止められていた水が流れ出すかの如く、激流に身を任せて呪詛を吐き続ける。

 

「大体何ですの……? わたくしをまるで貢物のように相手の要求通り差し出そうとするなんて……。――解っていますわ。わたくしを差し出す事で戦争を回避出来るなら、それで誰も泣かずに済むのなら、そうする事が正しいんだって事ぐらい、わたくしだって解っていますわ。娘一人の人生と、国民全員の生命――天秤に乗せるまでもなく、どちらが重いかなんて解りきっていますもの。でも……それでも……っ! 断って欲しかった、護って欲しかった……捨てないで欲しかった! たとえそれで国が戦禍に包まれる事になったとしても、王ではなく父として、わたくしを手放さないで欲しかった……!!」

 

 いや、それは呪詛などではなく、小さな子供の我が儘のようなものだった。

 頭では解っている。自分が度し難い利己主義者(エゴイスト)である事を。

 だが、頭で理解していても、感情が、心が、それを受け入れる事を阻むのだ。優しかった父が、自分に犠牲になる事を強いたという事実を、アイリスは未だに受け入れられずにいるのだ。

 そして、自分が逃げ出したがために、王国は今頃戦禍に包まれているのかもしれない。自分の身勝手のために、多くの人間が死ぬ。それは、自分の手で殺すのと何が違うと言うのだろうか。

 それでも、もう後戻りは出来ない。どれ程泣き叫ぼうと、時間は巻き戻ってはくれないのだから。

 いつの間にか、アイリスの目尻は真っ赤になって、頬は涙で濡れていた。そして、自分が何か温かくて柔らかいものに包まれている事に、幾許かの時を要してようやく気が付いた。

 

「ヘスティア様……?」

 

 アイリスはヘスティアに横から抱き締められていた。

 

「溜まっていた感情(もの)は全部吐き出せたかい? まだ泣き足りないなら、今日は大いに泣くといいさ。特別にボクの胸を貸してやろう」

 

 幼い容姿とは不釣り合いな豊満な胸に半ば無理やり顔を埋められ、アイリスは頬を真っ赤に染める。

 少し力を入れれば簡単に振り(ほど)けるのだろうが、アイリスは何故かそうする事が出来なかった。

 どれ程の時間そうしていただろうか。涙が止まり、目尻の赤みも引いた頃、アイリスはぽつりと小さな声で呟いた。

 

「……何だか……お母さんみたい」

「失敬な。ボクは処女だぞ」

「……ふふふっ」

 

 まだその声は若干上擦ってはいるが、笑えるくらいには心に活力が戻って来たらしい。そう判断したヘスティアは、アイリスから離れて机に身体を預けた。

 これで一件落着――のような雰囲気だが、実は何も問題は解決していない。それをアイリスも解っているが故に、儚げな微笑を浮かべる。

 

「取り乱して申し訳ありませんでしたわ。……やはりこんな面倒な女、ヘスティア様だってお断りですわよね」

 

 遠回りしてしまったが、全ての道がローマに通ずるように、結局はそこに辿り着く。ファミリアに入れるのか否か。答えは二つに一つ、イエスかノーかだ。

 しかし、答えが出る前にアイリスは諦めてしまっている。自分の素性を明かしてしまった時点で、アイリスの負けは確定しているからだ。

 厄介事を自分から好き好んで引き受ける人間なんてそうはいない。誰だって自分の身が可愛い。人間は、利己的な生き物なのだ。

 だが、アイリスは一つ重要な事を忘れていた。

 

「誰がそんな事言ったんだい? ボクはそんな事、一言も言っちゃいないぜ?」

「――――え?」

 

 ヘスティアは人間ではない。嘗て、十二神に名を連ねられない事を嘆いたとある神を哀れに思い、自らのその座を譲った慈悲深き女神である。その結果、周りからはニートなどと揶揄される事になった訳だが、本人は至ってのんびりとしたものだった。

 

「ボクを誰だと思ってるんだ? 炉の女神ヘスティアだぜ? そりゃ最初は驚いたけど、お姫様一人匿まえるくらいの度量は持ち合わせているさ。それに、君が王女だってバレなきゃ何も問題ない訳だしね」

 

 頼むぜアイリス(、、、、)君、とヘスティアは冗談めかして笑った。

 アイリスの視界がぼやける。それでも、もう涙は流さなかった。

 

「……バレなければ問題ないとか、色々と台無しですわね」

「幻滅したかい? でも、下界に降りて痛感したよ。綺麗事ばかりじゃ世の中回らないってね」

「いいえ、同感ですわ」

「なら、君の意思は変わっていないね? 言っておくけど、今更他のファミリアに入りたいって言っても逃がさないからな?」

 

 アイリスは大きく頷く。いつの間にか打算ではなく、心から彼女の眷属(ファミリア)になりたいと思っている自分に気が付きながら。

 

「よし、じゃあ上着を脱いでくれ」

「嫌ですわ、こんなところで柔肌を晒すなんて。出来れば……そう、ベッドの上で」

「君がどんな想像をしているのか知らないけど『恩恵』を刻むだけだからな!?」

「ふふふっ、冗談ですわ」

 

 嗚呼……そして、こんなにも楽しい。

 会話が止まり、衣擦れの音だけが微かに聞こえ始める。薄暗い室内でそんな音を聞いていると、女のヘスティアでも変な気分になってくる。

 

(やっぱりベル君を連れてこないで正解だった――って)

 

「お待たせしましたわ」

「何で下も脱いでるんだ君は~!?」

 

 ヘスティアが思わず叫んだのも無理はない。アイリスは何故か下着姿になっていたからだ。

 上下ともにレースをふんだんに使ったシースルー。更にショーツの下にはガーターベルトとストッキングまで身に付けている。そして、そのどれものが、夜の(とばり)のように黒一色だった。

 これで妖しく微笑んでみせさえすれば、美の女神ならずとも世の男共は軒並み陥落だろう。それ程までに艶めかしい姿である。

 突然降って湧いた貞操の危機に、ヘスティアは目を瞑ってガタガタと震え始めた。しかし、暫く経っても何も起こらない。恐る恐る瞼を開けてみれば、そこには頬を引き攣らせたアイリスがいた。

 

「何をしているのかしら……? 寒いのでやるなら早くしてほしいのですけど」

「アッハイ」

 

 冷静になって考えてみれば、アイリスが着ていたのはワンピースだった。

 ワンピース――言わずもがな、上下一体の衣服である。上を脱げば下も付いてくるのは当然だった。

 

「はぁ~……。それじゃあ、留め金も外してこっちに背中を向けてくれ」

「ええ、解りましたわ」

 

 アイリスは言われた通り後ろ手にブラのホックを外し、腕でブラを押さえながらヘスティアに背中を向ける。

 そして、ヘスティアはアイリスの背中に手を置き、『神の恩恵(ファルナ)』を刻み始めた。

 

(君は、どんな物語を綴るのだろうね?)

 

 染み一つない白い背に、徐々に漆黒の文字が刻まれていく。

 

(いや、この子はとても綺麗な声だから、歌った方が華やかでいい。楽曲は勿論――聖誕曲(オラトリオ)だ)

 

 やがて刻印が終わり、ヘスティアは告げる。

 

「さあ、これで君は晴れてボクの眷属だ。ようこそ、ヘスティア・ファミリアへ。歓迎するよ、アイリス君!」

 

 こうして今ようやく、少女の物語は幕を開けたのだった。




アイリスがファミリアに加入し、『姫と兎の聖譚曲』本格的に開幕です。

ところでお解りの通り、このヘスティアは神話補正増し増しです。オリュンポス十二神の名は伊達じゃない。原作と少し違うヘスティア様を楽しんで頂ければ幸いです。

次回は早めに投稿出来るようにします。

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