「今明かりを点けますわね」
恥じらうようにそう言って、少女は壁に掛けられた魔石灯に灯りをともす。
ぼんやりと明るくなっていく室内。露わになった部屋の全貌に、ヘスティアは目を剥いた。
「これの何処が
確かに部屋が散らかっているとは事前に聞いていたが、ここまで酷いとはヘスティアも予想していなかった。
「ボクだってここまで散らかさないぞ! そもそも何だいこの部屋は!? 人が住むような環境じゃないぞこれは!」
部屋の中央に置かれた大きな木製の机。その上に乱雑と置かれた大小様々なフラスコと試験管。その中では、正体不明の液体がコルク栓によって封じ込められている。他にもすり鉢やら鼠の死骸やら変な草やら色々と散乱していた。
しかし、一番目を引くのはそれらではなく、床一面にまるでカーペットのように敷き詰められた羊皮紙の山だ。よく見れば、一枚一枚に数字や記号が全面に渡って書き殴られている。それにどういう意味があるのか、ヘスティアにはサッパリ解らなかった。
だが、こんなものを見せ付けられて、神であるヘスティアはツッコまずにはいられない。
「何処の悪の秘密結社だ!? ボクをこんな所へ連れ込んでどうするつもりだ!? ボクを生贄に捧げても悪魔召喚は出来ないぞ!?」
「
少女は頬に手を当て恍惚とした表情を浮かべる。それを見て、ヘスティアは恐怖で顔を青ざめさせた。
(嫌だぁ! まだ天界には帰りたくない! ベル君助けてくれ~!!)
「――まあ冗談は兎も角、そこの椅子にでもお掛けになってくださいまし。羊皮紙ですから多少踏み付けても問題ありませんわ」
「……君、テンションの上がり下がりが激しいってよく言われるだろ?」
「ヘスティア様、珈琲で宜しいかしら?」
「聞けよ!」
しかしやはりと言うべきか、少女はヘスティアの返答を待たず、サッサと二人分の豆をコーヒーミルの中へと入れてレバーを回し始めた。ガリガリガリ、という粉砕音とともに、室内に珈琲の香りが広がっていく。
「……中々いい香りじゃないか」
「ヘスティア様もそう思いまして? わたくしの周りは紅茶派ばかりでしたので、理解のある方に出会えるのはとても嬉しいですわ」
そうして豆を挽き終ると、少女はガラス製の器具を戸棚から取り出し机の上に置いた。ヘスティアはそれを興味深そうに見詰める。
「これは……?」
「サイフォン――珈琲を抽出する為の道具ですわ。フラスコと試験管の大量発注の条件としてガラス職人の方に特別に作っていただきましたの」
苦労しましたわ、と少女は苦笑するが、苦労したのはその職人の方だろう、とヘスティアは思う。そもそも珈琲自体オラリオで見るのは珍しい。一部の南方出身の神が好んで飲む程度の品に過ぎないからだ。
少女が作業するのを眺めながらヘスティアは考える。
(悪い子……ではないはずだ。邪悪な気配も感じない。それに、さっきの様子から見ても、これから先ベル君とも上手い事やれるだろう。……まあ、仲良くなられ過ぎるのは困るけど。――問題は、この子の発言の真偽がボクにも解らない事だ)
ヘスティアは神である。たとえ
だが、何故かこの少女に限っては、発言の真偽が解らない。そういう意味では全くの対等。少女との対話は、神同士でのそれに近い。
「って、何に注ごうとしてるんだ君は!?」
「見ての通りビーカーですわ。サイフォンで淹れビーカーで飲む。これこそ正しい作法ですわ」
「そんな特殊な作法聞いた事ないよ!」
「……? ああ、ちゃんと洗ってありますから大丈夫ですわよ。死にはしませんわ」
「何に使った後なんだよこれ!?」
ヘスティアの息が上がる。対等どころか完全に押され気味である。しかも、少女が妙に愉しそうなのが余計に腹立たしい。
結局少女はビーカーではなくマグに注いでヘスティアに手渡し、シュガーポットと自分の分のマグを机に置いてからヘスティアと対面するように座った。
「では、まず何からお話しすれば宜しいのでしょうね? やはり趣味とか特技とか資格についてでしょうか?」
「それはそれで興味あるけど、ボクが聞きたいのはそういう事じゃないよ。――君、本当に
核心を突く。謀略とは無縁に生きてきたヘスティアは、その手の言葉遊びは得意ではないのだ。だから取れる手段は正々堂々正面突破のみ。
「……? わたくしは確かに可憐ですけど、見ての通りエルフではありませんわよ?」
しかし、少女は髪を掻き上げ右耳を露出させてから、からかうようにくすりと笑うだけだ。その飄々とした態度からは内心を読み取る事は出来ない。知っていて隠しているのか、そもそも何も知らないのかさえも。
だが、これまでの会話から解った事もある。
「うん、君の性格は大体解ったよ」
とんでもない自信家か、或いは、そうであろうと努力しているのか。
もし少女が前者であるなら、ヘスティアは自分の眷属にするつもりはない。選り好み出来るような立場ではないのは重々承知しているが、いずれ団員が増えた時、この手の鼻持ちならない輩はファミリア内に不和を招きかねない。そんな因子は事前に排除するべきだ。だが、後者であるなら話は別である。
慣れない土地への不安。知らない人間への不信。それらの感情から来る、自己防衛の本能。――つまりは、只の強がり……。もしそうであるなら、女神の慈悲の対象だ。そういう人間にこそ、
だから、ヘスティアは賭けに出る。今だけは
「何か隠しているなら、正直に答えてくれ、アリス君。今から聞く事は他言しないと、神であるボク自身に誓うよ。君が望むなら、ベル君にだって話さないさ」
ヘスティアは出来得る限り誠実にそう言った。実際、本心からの言葉である。
ベルに隠し事をするのは心が痛むが、もう既に別件で実行済みだ。隠し事が一つから二つに増えても大して変わらない。
ヘスティアの言葉を受けて少女は暫くの間逡巡していたが、ヘスティアが辛抱強く待っているとやがて根負けしたように肩を竦めた。
「……はぁ~。やれやれですわ。ええ、ええ、わたくしの負けですわ。こうなっては仕方がありませんわね、ヘスティア様を信じましょう。元よりいずれは話さなければならないと思っていましたし」
「いずれは、ね……」
「ええ。話す必要があれば話したでしょうし、話さずにすむのなら、永久に話すつもりはありませんでしたわ」
「そこは認めるなよ」
少女が目を逸らし、ヘスティアは苦笑する。
「まず、アリスというのは偽名ですわ。わたくしの国では最もポピュラーな名前であり、わたくしにとっては最も思い入れのある名前……。わたくしはこれからも『アリス』を名乗り続けるつもりですわ。でも、ヘスティア様にだけはわたくしの本当の名を明かしておきましょう」
そう言って、少女はヘスティアの眼を真っ直ぐと見詰める。
「改めまして自己紹介を。わたくしの名はアイリス・フランシス・ハイランド。神聖ハイランド王国第三王女にして、第五位王位継承者ですわ――って、あら? ……ヘスティア様?」
「――――――」
ヘスティアは気絶していた。
何故こんなにも気苦労の種ばかり自分のところに降って湧いて来るのだろう。視界が暗転する前にヘスティアはそんな事を思った。
もしその問いに答えがあるとすれば、それはもう――『神の悪戯』に他ならないだろう。