05
レアケース――いや、もはや前代未聞と言ってもいい上層での
だが、結果として少年に最期が訪れる事はなく、
『ブッシャァァァ!!』
生温い何かが降り注ぐ。それを返り血だと理解するのに数秒の時を要した。
少年は眼を見張る。身の丈を優に超える怪物を難なく屠ってみせたのは、たった一人のうら若き乙女。
その光景は余りにも血生臭くて、しかしとても美しかった。
少年は彼女に恋をした。同時に、強い憧れを抱いた。
いつの日か、彼女と同じ場所で、彼女と肩を並べて立ちたい。そう少年は強く思った。
――だからこそ、その屈辱は耐え難かった。
「それでそいつ、あのくっせー牛の血を全身に浴びて……真っ赤なトマトになっちまったんだよ! くくくっ、ひーっ、腹痛えぇ……!」
そう言って腹を抱えて笑うのは、【ロキ・ファミリア】所属の獣人の青年だ。どうやらかなり酒が入っているらしい。
「アイズ、あれ狙ったんだよな? そうだよな? 頼むからそう言ってくれ……!」
アイズ――アイズ・ヴァレンシュタイン。
アイズは感情の乏しい顔で、それでも眉根を顰めた。
「……そんな事、ないです」
抑揚のない小さな否定の声は、大きな笑い声によって掻き消された。獣人の青年は当然として、男とアイズ以外の残りの【ロキ・ファミリア】の面々は失笑を、別のテーブルで彼らの話に聞き耳を立てていた部外者は釣られて出る笑みを噛み殺しているようだった。
彼らは誰一人気付いてない。彼らの侮蔑の対象が、今この時、同じ空間に存在している事を。少年の心の中で、どれだけの嵐が吹き荒れているのかも。――いや、訂正しよう。
「つっめてぇ!? 誰だこの野郎!?」
突然の怒声に、店内は一気に静寂に包まれる。
声を上げたのは獣人の青年だ。頭の上から水でもかけられたのか、まるで雨の日の捨て犬のように毛先から雫が滴り落ちている。
勿論、やったのはベルではない。少年もまた、その光景を呆然と見詰めていた。
獣人の青年が立ち上がり、己の頭を水浸しにした人物の胸倉に掴みかかる。獣人の青年は第一級冒険者だ。一発殴られるだけでも致命的である。だが、
「あら? あらあらあら」
心底楽しげな、まるで御伽噺に出てくるお姫様のような、とても美しい声。余りにも場違い過ぎて、青年の手が反射的に止まる。
フードの付いたケープによってベルの位置からではその横顔を見る事は叶わないが、少年は不思議とその女に以前何処かで会った事があるような気がした。
そして、左手にワイングラスを持ちながら、女は歌うように続ける。
「もしやわたくし、このまま狼さんに食べられてしまうのかしら? だとすれば、わたくしが恋心を抱くのはこの狼さんに対して? それとも、わたくしを腹の中から助け出してくださる猟師様に対してなのかしら?」
「な、何言ってんだてめぇ……」
獣人の青年は困惑を隠せない。
狼はまだ解る。恐らく
「なんや、けったいな
だが、それも神であるロキは例外だ。好奇心を刺激されたのか、女に気さくに話しかける。
「それにしても、いきなり頭の上から水ぶっかけるって……思い切り良過ぎるわ。初めて見る顔やけど、一体誰の
「――ああ、でもわたくしが被っているのは、見ての通り赤ずきんではありませんし……」
「無視かい!」
ロキがショックで声を荒げる。ぞんざいな扱いを受けるのは慣れっこであるが、流石に初対面の相手に無視されるのは珍しい。だが、女は気にも留めず、
「何より、顔が好みではありませんわ。狼さんのお気持ちは嬉しいですけど……御免なさい」
「聞けや!」
「何だかよく解らないけど……振られたみたいだね、ベート」
「……団長」
小柄な少年が面白がるように言い、露出の多いグラマラスな少女がそれを窘める。
そして、ここまで挑発されて狼人の青年――ベートが黙っているような性格ではない事を知っている団員たちは、この後起こるであろう騒動を予想しつつ、いつでも対処が出来るように身構えた。悪いのは挑発した女の方ではあるが、行き付けの酒場で死人が出るのは望ましくない。だが、そんな予想を裏切るように、ベートは女からあっさり手を放すではないか。
団員たちが唖然とする中、女は何事もなかったように懐から懐中時計を取り出すと、大仰に肩を竦めてみせる。
「あら、もうこんな時間。急がないと、
そう言うと、女は
「お騒がせして申し訳ありませんでしたわね。――それでは皆様、ご機嫌よう」
女は両手でスカートの裾を摘まみ上げ、軽くお辞儀をする。その優艶な動作に誰もが目を奪われる中、ベルはようやく女の正体を悟った。
女が悠然と店から出て行く。その後ろ姿をベルは慌てて追いかけた。
「――君も追いかけなくていいのかい?」
そんな光景をちらりと横目で見つつ、小柄な少年がベートに問う。それに対し、青年は鼻を鳴らした。
「……どうせ只の水だ。ほっときゃそのうち乾くだろ。目くじら立てるほどの事じゃねえ」
「うわっ……なにベート、熱でもあるんじゃないの?」
常からは考えられないような青年の発言に、これまた露出の多いスレンダーな少女が割と本気で心配する。
また、彼らのやり取りを静観していたハイエルフの女性は、彼女にしては珍しい事にくすくすと声を出して笑い始めた。その小鳥の
「……ふぅ。どうやら、文字通り冷や水を浴びせられて酔いが醒めたようだな、ベート?」
「うるせえ……上手い事言ったつもりか? ババア」
× × ×
「待ってください! ……アリスさん!」
女の後を追って『豊穣の女主人』を飛び出したベルは、彼女の背中に向かって彼女の名前を呼び掛ける。すると女は立ち止まり、フードを下ろして少年の方へと振り返った。
「覚えていてくださったようで、わたくしとても嬉しいですわ。一週間振りくらいですわね、ベル」
「やっぱり……アリスさんだったんですね」
月明かりに照らされて輝く漆黒の髪に、少年のととてもよく似たルベウスの瞳。その女神にすら匹敵する美貌は、一度見れば忘れる事など出来はしないだろう。それはベルも同じだった。
「あれから少し心配でしたの。ベルがちゃんと冒険者になれたのか、と。でも、無用な心配だったようで安心しましたわ」
「……ありがとうございます。でも僕は、まだまだ全然駄目で……情けなくて……っ」
きっと彼女があのような行動に出なければ、いずれ自分はあの場から逃げ出していたはずだ、とベルは思う。だが、少女は首を振って否定する。
「初めから上手く出来る人間なんて、そうそう居りはしませんわ。例えばわたくしも、今でこそ一通りのダンスは踊れますけど、習い始めの頃は同じミスを繰り返して先生によく叱られたものですわ。それはきっと、狼さんだって同じですわよ」
だから大丈夫だ、と少女は言う。
「それでも悔しければ見返してやればいいのですわ。強くなって、彼をく~んと鳴かせて差し上げましょう?」
少女のお道化るような犬の鳴き真似に、ベルの頬が緩む。
「そうですよね……。それに、僕には強くなりたい理由があるんです」
だから頑張れると、ベルは決意を新たにするように頷いた。
それから少しの間沈黙が続いたが、どちらにとっても決して不快な時間ではなかった。
やがて、ベルが思い出したように尋ねる。
「ところで、アリスさんはどうしてオラリオに……?」
「貴方に会いに」
「えっ!?」
突然の艶っぽい声での告白に、少年の心臓が兎のように飛び跳ねる。だが、
「って答えたらどうします?」
「驚かさないでくださいよっ!」
少女の
「それだけ大声を出せれば本当に大丈夫そうですわね。――わたくしがオラリオへと来た理由はベルと同じですわ」
「……冒険者になる為に? じゃあ、もうファミリアにも?」
ベルがそう尋ねると、少女は困ったような笑みを浮かべる。
「いえ、実は色々と準備に手間取りまして……まだ何処のファミリアにも所属していませんの。ですから、ベルさえ宜しければ、ベルの主神様にお口添えいただけませんこと?」
「口添えって……えっ!?」
言葉の意味を理解したところで、ベルは仰天する。
「そ、それって……僕らのファミリアに、入りたいって事ですか……?」
「ええ、そうなりますわね」
「うち、零細ファミリアですよ……? いいんですか?」
「わたくしは見ての通りか弱いですから、引き取り手はきっと多くはありませんわ。それに、知り合いがいるファミリアの方が何かと安心出来ますでしょう?」
ご迷惑であれば別ですけど、と小首を傾げる少女にベルは一生懸命首を振って否定を示す。
「いえ、迷惑なんてそんな事ないですよ! 僕は勿論、きっと神様だって歓迎してくれるはずです!」
「そうでしょうか?」
「そうです! アリスさんさえ良ければ、今からでもホームに案内しますよ? 神様は昼間バイトで留守にしている事が多いので、寧ろ夜の方が都合いいはずですし!」
自分を含め二人目の眷属になってくれるかもしれない少女を何とか説得したい。その思いでベルは必死に捲し立てる。すると、少女は一旦迷うような素振りを見せてから、やがてこくりと頷いた。
「では、折角ですしお言葉に甘えましょうか。ホームの場所はどちらなのかしら?」
「ここら少し北に行くと第七区画なんですけど、そこにある廃教会が僕らのホームなんです。正確には地下室ですけど」
「まあ! わたくしが今住んでいるアパートメントがあるのもその辺りですわ。へぇ……あの廃墟が。気が付きませんでしたわ」
「凄い偶然ですね! もしかしたらもう神様とすれ違った事あるかもしれませんよ!」
じゃあ早速行きましょう、とベルが少女に背中を向ける。
「ええ……本当に、
だから、そう言った少女がどんな表情を浮かべたのか、少年は知る事が出来なかった。
活動報告の方には既に書きましたが、今回からは水曜日定期更新となります。