「一体、ベル様はどうしてあのような事を……」
路地裏を歩きながら、リリルカは思考に没頭する。
ベルの言動自体は明快極まりない。終始あの女エルフから自分を庇っていた。だが、その意図が解らない。自分を助けて、一体彼に何の得があるというのか。
彼の目的は何だ。彼の狙いは何だ。自分を――陥れようとしているのか。
(騙されない。騙されない。騙されない。騙されない。騙されない――)
優しい人間には裏がある。ふとした拍子に豹変する。それはまるでオセロのように、白から黒へ、いとも容易くひっくり返る。
この世に無償の愛なんてない。必ず対価は要求される。それは家族ですら例外ではない。それを自分は、痛いほど知っているはずだ。
「リリは、リリは……」
なのに、どうして迷う事があるのか。
幾ら考えてみても、答えは一向に出る気配はなく。
「……何にせよ、ベル様とはこれでお別れです」
心の隙間を縫うように、自分自身に言い聞かせるように。リリルカは、決然とそう口にした。
恐らくは、今生の別れ。寧ろ、そうでなくては困る。二度と顔を合わせる訳にはいかない。
あのナイフは惜しいが、もう自分の前で彼が警戒を解く事はないだろう。もしかしたら、報復という事もあるかもしれない。そんな危険を冒してまで、あのナイフに執着する理由なんてない。
「――ここまで来れば充分ですか」
いつの間にか、随分と遠くまで歩いて来ていた。
リリルカは周囲を警戒してから、フードを下ろして耳に触れ、解呪の詠唱を口にする。
「【響く一二時のお告げ】」
すると、灰でも塗されたかのように、灰色の光膜がリリルカの頭を覆っていく。
数瞬後、先ほどまでは確かにあった獣の耳が消失していた。同じく、腰の尻尾も、何の痕跡も残さずに。
再びリリルカは歩き出そうとする。しかし、足音が続く事はなかった。リリルカの歩みを止めさせたのは、場違いな美しい笑い声だった。
「ふふふっ、ふふふふふっ」
「……っ!?」
リリルカは息を呑む。この場には、自分以外は誰もいないはずだった。だとすれば、この声は一体何処から聞こえてくるのか。その疑問に対する答えは、呆気ないほど直ぐに出た。
――空の上から、少女が落ちてきた。
そう文字に書き起こせばまるで絵本の中の出来事のようだが、その光景に物語のような神秘性はまるでなく、少女が無造作に民家の屋根から地面に降り立っただけであった。
しかし、少女の容姿がリリルカの認識を屈折させる。リリルカには、少女が村娘に身をやつしたお姫様のように思えた。
(いや、お姫様にしては流石にお転婆が過ぎるでしょう……)
ああ、屈折したのなら、それはきっと虚像だろう。翻ったスカートから見えた黒い布地が殆ど紐だったのも、きっと幻影に違いない。
「嗚呼、嗚呼、羨ましいですわ……! 一二時の鐘の音で解ける魔法……! 女の子にとっては永遠の夢ですわ!」
そして、これはきっと幻聴だろう。こんな綺麗な声で、こんな阿呆な事を言っていると思いたくない。
「何ですか、と言うか誰ですか貴方は? すみませんけど、リリに知り合いのお医者様はいないので紹介出来ませんが」
「差し詰め、魔法名は
「人の話聞いてましたか!? リリは結構失礼な事言ったはずですけど! 第一、カボチャの馬車を出すのはシンデレラではなく魔女でしょう!」
リリルカが錯乱気味にそう叫ぶと、少女は可愛らしく小首を傾げた。
「あら、それは何故?」
「な、何故って……」
「だって、灰被り自身が魔女でしょうに」
そう言って、少女は薄く笑う。リリルカの背をゾクリと悪寒が襲った。
幸か不幸か、そのお蔭でリリルカは我に返る事が出来た。何を馬鹿正直に相手をしている。早くここから逃げなければ。この少女は危険だ。
「逃がすと思いまして? 可愛い泥棒猫さん」
「――っ!?」
リリルカは声にならない悲鳴を上げた。少女が投擲したナイフが頬を掠めたのだ。――否、僅かに切り付けられていた。傷口から溢れ出た血が雫となって、ぽたりぽたりと地面に零れ落ちていく。
「本当に猫なら良かったのですけどね。生憎、わたくし犬には特に愛着ありませんの」
だから、何の躊躇もなく殺せると。少なくとも、リリルカは少女の言葉をそのように受け取った。
「……リリ、貴方に何か恨まれるような事しましたか? どれだけ思い出してみても、貴方の顔、リリの記憶の中にはないんですけど」
自分とは似ても似つかない、絵本の中から出てきたかのような綺麗な相貌。ああ、怨めし過ぎて会ったら最後、二度と忘れる事はないだろう。だから、間違いなくこの少女とは初対面のはずだ。
「ええ、確かにわたくし自身が被害を被ったわけではありませんわ。けれど、間接的には貴方から被害を受けてますのよねぇ。それも、結構手酷く。これでもわたくし、心底傷付いていますのよ? 女の子の心は硝子細工だというのにね。だから、これは半分八つ当たり」
「そ、そんな――」
(――ふざけた理由で殺されて堪るか!!)
奥歯が軋む。恐怖よりも怒りが上回る。
頭の中から、和解という選択肢は既に消えている。いや、この少女の様子では、そんな選択肢は端から存在していなかった。
ならば、残された選択肢は二つだけ。逃走か、或いは闘争か。
リリルカは、迷いながらも後者を選んだ。逃げたところで、待っているのは破滅だけである。ならば、一か八かに賭けるしかない。
懐から、一振りのナイフを取り出す。赤熱した鉄を思わせる、紅の刀身。その切っ先を少女へと向ける。
――ごめんなさい。
口の中で謝罪の言葉を呑み込んで、リリルカはナイフを閃かせた。
ナイフの切っ先から放たれるは、紅蓮の火球。その現象は、紛れもなく『魔法』だった。しかし、通常の魔法と異なり、リリルカは呪文を一切詠唱していない。つまりは予備動作なし、相手に防ぐ機会すら与えない。
少女の上半身を焼き尽くし、脂肪の燃えた悪臭が鼻を突く――それは、避けようのない未来だったはずだ。それなのに、
「え――」
少女は無傷だった。突き出した左掌から発生した光の膜が、少女の身を火球から護っていた。
終ぞ少女にダメージを与える事なく火球は燃え尽き、それを見届けてから少女は光の膜を消滅させた。その口元は、不敵な笑みで彩られている。
「まあ、早口言葉の要領ですわよね」
事もなげに少女は言うが、それにしたって早過ぎる。それこそ、未来予知でもしたかのようなタイミングの良さだった。
「……随分と、舌に脂が乗ってるご様子で」
「あら、手癖だけではなくお口も悪いのね」
苦し紛れの憎まれ口も平然と返される。寧ろ、少女はそれを楽しんでさえいるようにリリルカには感じられた。
じっとりと、脂汗が滲み出る。蛇に睨まれた蛙のように、身体に力が入らない。それが死への恐怖からなのか、それとも安堵からなのか、それすらもリリルカには解らなかった。
だが、そこでふと、今更ながらにリリルカは小さな異変に気が付く。
(そういえば……)
動かすのも億劫な右腕を持ち上げて、切り付けられた頬を撫ぜる。傷口に無造作に触れて、ゆっくりと掌を目の前に持ってくる。
傷口がまだ塞がっていないのだろう。指にはべっとりと血が付着していた。
「……な、んで」
どうして、傷口に触れたのに、全く痛みを感じない。
「……な、にを……リリに……にゃに、を」
呂律が回らない。瞼が重い。もはや立ってはいられずに、よろよろと地面に倒れ伏す。
「本当は林檎を用意したかったのですけど、何分急だったものでご容赦くださいましね」
「……こ、にょ――」
――魔女め。
搾り出そうとした悪態はしかし声になる事なく、リリルカは深い眠りに落ちていった。
灰被りからの白雪姫。奥様は魔女ならぬ、お姫様は魔女ってところですかね。
因みにグリム童話の灰被りは中々にエグい内容です。現地では普通に子供に読ませているのだろうか?
という事で、次回は監禁された幼女(15)と尋問官のお姫様(18)な内容になる予定。それでは、また次回!