姫と兎の聖譚曲   作:eldest

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「それじゃあベル君、くれぐれも気を付けて行って来るんだよ? くれぐれも、ね」

 

 くれぐれも、を執拗に強調して言うヘスティアに、アイリスは苦笑する。

 ヘスティアはベルを誘惑でもするものと思っているようだが、それは杞憂というものだ。流石に、戦場でふざける馬鹿は何処にもいない。

 

「はい! じゃあ、アリスさん行きましょうか」

「ええ。ではヘスティア様、行って参りますわね」

 

 二人連れ立って部屋を出て、階段を上っていく。その先にあるのは本棚の連なった薄暗い小部屋だ。この小部屋の最奥の本棚の裏に、短いながらも地下へと続く階段はある。

 どういう意図を持って教会の地下に隠し部屋など造ったのだろう。裏で密教でも信仰していたのだろうか。アイリスはそんな事を考えながらベルの背中に続いて行く。

 そして、祭壇の前まで来たところで、アイリスは急に立ち止まった。

 

「ちょっとお待ちになってくださいまし」

「どうしました!?」

 

 ベルは慌てて振り返ったが、アイリスに特に変わった様子はない。

 

「少々お時間をいただいても?」

「それは勿論いいですけど……」

 

 ベルは首を傾げた。一体、こんなところで何をするつもりなのだろう。そんな無言の問い掛けに、アイリスは微笑を浮かべる。

 

「お祈りですわ」

 

 短くそう言って、アイリスはひび割れた床の上に膝を付き、瞼を落として手を組んだ。朝の暖かな光に照らされたその姿は、まるで高名な画家が描いた絵画のようである。

 

「何をお願いしたんですか?」

「今日も一日無事に過ごせますように、と。実はオラリオに来てからは、毎朝ここで祈りを捧げるのが日課になっていて……ベルがこの廃教会を出入りしているのは以前から知っていましたわ」

 

 瞼を開けて立ち上がったアイリスは、そう言って悪戯っぽく笑った。

 

「そうだったんですか」

「居住空間が何処かにあるのだろうとは思ってましたけど、そこをファミリアのホームにしているとは予想外でしたわ。それに、もう一人出入りしていた可愛らしい女の子が、まさか神様だったなんて」

「ああ、僕も初めて神様に会ったときは迷子の女の子かと思いましたよ」

 

 アイリスとベルは顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。

 悪いと思いつつも一頻り笑った後、二人は迷宮(ダンジョン)に向かって歩き始めた。

 

     ×     ×     ×

 

 人類が持ち得る、最も優れた武器とは何だろうか。

 何者をも斬り伏せる剣だろうか。何人(なんぴと)も寄せ付けない盾だろうか。それとも、本人の腕力か。はたまた、魔法か。少なくともアイリスは、そのどれもが違うと考える。

 人類が持ち得る、最も優れた武器――それは知恵だ。

 人類の始祖たるアダムとイヴは、知恵の木の実を食べてしまったが為に楽園を追放されたのだという。

 他の動物よりも身体能力が劣った人類に唯一優れた点があるとすれば、知恵を持つ事以外に他ならない。より凶悪な魔物(モンスター)と相対するのならば、知恵を絞って然るべきだ。

 だがある日、神々が地上に降りてきた。神々は人々を己の眷属(ファミリア)にし、彼らに神の恩恵(ファルナ)を与えた。

 人類は、嘗てないほどの強大な力を得た。それ自体を否定するつもりはアイリスにもない。だが、別の視点に立って見れば、人類の足元には巨大な落とし穴が掘られた事にやがて気が付く。

 穴の中心には蟻地獄。力に溺れ、考える事を止めた者たちを待ち構えて貪り食う。

 

「ベル、前方から『ゴブリン』が五体やって来ますわ」

 

 アイリスのルベウスの瞳は、遠く離れた暗がりにいる標的を正確に捉えていた。光源の殆どない夜間戦闘を熟す度に、夜目が鍛えられていったお蔭だろう。

 アイリスとベルは予定通り迷宮に潜っていた。現在位置は一階層の中間付近。他の冒険者が通った後らしく、ここまで魔物と一切出くわさなかった。

 

「まだ僕らに気付いてないみたいですし、チャンスですよ!」

 

 そう言って、先手必勝とばかりに走り出そうとするベル。しかし、アイリスはベルの上着の襟首を掴んで引き寄せる事でそれを制した。

 

「ぐぇっ……! あ、アリスさん……?」

「いえ、ここは一旦下がりましょう」

 

 アイリスに促される形で二人は来た道を足早に戻り、曲がり角を曲がったところでアイリスは立ち止まった。

 

「どうするつもりですか?」

「このまま『ゴブリン』がこちらへ近付いて来るのを待ちますわ。ここは死角になっていますから、奇襲をかけるには打って付けでしてよ」

「でも相手は――」

「たとえ『ゴブリン』が相手でも、決して油断してはいけませんわ。幾ら加護を受けているとは言っても、所詮わたくしたちは人間――転んだだけで打ち所が悪ければ死んでしまう……そんな、とてもか弱い存在なのですから」

 

 冒険者の死因の五割は不注意という名の慢心だというのがアイリスの分析だった。なまじ【ステイタス】によって身体能力が強化されている為に、冒険者の多くが自分はそう簡単に死ぬわけがないと高を括ってしまう。ところが、人間というのは驚くほど簡単に死ぬ。それは、神の恩恵を得たところで変わりはしない。

 だからこそ、死なない為に万全を期す。敵がどれだけ弱くても策を弄する。獅子は兎を狩るにも全力を尽くすとは、つまりはそういう事なのだ。

 アイリスは後ろ手にウエストポーチの中から薬包(カートリッジ)を取り出し、相変わらず妙に艶めかしい吐息を漏らして噛み千切る。そして、手順通りに素早く弾薬と弾丸を詰めていった。

 出来る事なら迷宮に踏み込む前から装填しておきたいところだが、暴発を防ぐ為にも弾丸は発砲の直前に込めるのが望ましい。

 一方、ベルは通路へ顔を僅かに出して警戒を続けていた。

 

「アリスさん、『ゴブリン』がもうすぐそこまで……!」

「距離は?」

「え~っと……多分、一〇メートル弱だと思います」

「了解ですわ。わたくしも準備が整いましたし、そろそろ仕掛けましょう」

 

 アイリスの落ち着いた声にベルは頷き、短刀を握る手に力を込めた。

 アイリスが小石を通路に向かって投げる。小石は放物線を描き、『ゴブリン』たちの頭上を越えて彼らの背後に落下した。

 カラーンという音が周囲に反響する。背後に得物がいると誤認した『ゴブリン』たちは一斉に振り返った。その隙を逃す事なく、ベルは通路へ躍り出る。

 

「せあっ!」

『グボァ!?』

 

 気付いたときにはもう遅い。振り向きざまに胴を斬り裂かれ、崩れ落ちていく『ゴブリン』。残りの四体は、何が起こったのか解らないといった様子で恐慌状態に陥った。

 

「ふふっ。無様ですわね」

 

 冷たい笑みを顔に貼り付け、アイリスは無慈悲に引き金を引いた。

 

「ご愁傷様」

『パンッ』

 

 炸裂する火薬。撃ち出される弾丸。穿たれる頭部。飛び散る脳漿(のうしょう)。悲鳴を上げる間もなく、『ゴブリン』はドシャリと血の海に沈んだ。

 生まれて初めて聞く銃声と死体の有り様にベルはギョッとするが、構わず三体目に向けて短刀を振るう。混乱していた『ゴブリン』たちも流石に態勢を立て直していた。

 

「アリスさん!!」

 

 残りの二体がアイリスに一斉に飛び掛かる。コイツは危険だ、という本能に従った結果だった。

 『ゴブリン』の一体が荒削りの棍棒を振りかぶった。ネイチャーウェポンと呼ばれる迷宮が作り出した武器の一種だ。迷宮は、生きている。

 

「ふっ、甘いですわ」

 

 迫り来る棍棒。勢い良く振り上げられる右足。両者が激突し、『ゴブリン』の手の中で棍棒が砕け散った。

 

『グァ!?』

 

 緑色の顔が驚愕に染まる。一体、その細い足の何処にそんな力があるというのか。

 アイリスは昨夜ヘスティアの眷属になったばかりだ。故に、【ステイタス】は白紙も同然。つまり、身体能力は常人と同じ――いや、寧ろ劣っているとすら言っていい。

 ならば、どうやって棍棒を蹴り砕いたのか。そこには必ず、種が隠されている。

 

「止めですわ!」

 

 アイリスは、武器を失い放心している『ゴブリン』の横顔に回し蹴りを叩き込んだ。ミシリと嫌な音が鳴り、床の上をゴム鞠のように転がっていく。

 種を明かせば、アイリスのブーツの爪先には鉄板が仕込んである――という、只それだけの事だった。まあ、手品というものは、種さえ解れば総じて下らない。

 

『グラァッ!!』

 

 残る最後の一体となった『ゴブリン』が、それこそ最期の悪足掻きとばかりにアイリスに掴み掛ろうとした。アイリスは、それを冷めた目で見詰める。

 

「残念ながら、当店はお触り厳禁ですわ」

 

 次の瞬間、アイリスへと伸ばした掌にダガーが深々と突き刺さった。先ほど棍棒を砕く為に足を振り上げた際に、太腿に巻き付けたホルスターから抜いておいたダガーを投擲したのだ。

 だが、刺さったのは掌だ。動くには支障がないはずだった。それなのに、

 

『ギョボァァァァッ!!』

 

 口から泡を吹きながら、断末魔の悲鳴を上げてのた打ち回る『ゴブリン』。

 ダガーの切っ先には、激痛を伴って死に至る猛毒が塗ってあった。アイリスが手袋を履いているのは、万が一にも毒を自分の体内に入れない為だ。

 やがて『ゴブリン』は動かなくなった。どうやら絶命したらしい。

 迷宮に静寂が戻り、アイリスはベルの方を振り返った。

 

「さて、これで無事戦闘は終わったようですけど、わたくし『魔石』の取り外し方が解らなくて……。ご教授お願い出来まして?」

 

 だが、ベルの返事がない。アイリスは可愛らしく小首を傾げた。

 

「……? ベル? 顔色が優れないようですけど、具合が悪いなら今日はもう帰りましょうか?」

 

 実際、ベルは蒼白い顔をしていた。額にたっぷりと汗を掻き、頬は引き攣っている。

 

「いえ、大丈夫です。……大丈夫です」

 

 この日、少年は心の中で固く誓った。絶対に、この女性(ひと)を怒らせはしない、と。




単位がメドルではなくメートルなのは仕様です。

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