「緒方君。」
「はい?」
「彼を連れてきてくれないか?」
「彼、ですか?」
「彼だろう?」
「…ええ。確かに彼ですが。よくお分かりになりましたね。」
「頼んだよ。」
「はい。」
***
不意にヒカルは通い慣れたビルの上階にある碁会所を見上げた。
『ヒカル!今日はネット碁の約束ですよ!』
(分かってるって!)
『ヒカルとアキラが打っているのを眺めるのも面白いですけど、やはり自分で打つのは別格です!』
(打ってるのは俺だけどな。)
『もう!すぐそうやって揚げ足を取る!』
(はは!)
「おい。進藤。」
ヒカルと佐為が図書館へ足を進めていると不意に後ろから声がかかった。
(っげ!)
『この者は確か…』
「お、緒方先生…何か用?俺、ちょっと急いでるんだけど。」
「お前に会いたいといっている人がいる。」
「…誰?」
「来れば分かる。ついて来い。」
『誰でしょう?アキラでしょうか?』
(いや、塔矢ならこんな言い方はしないだろ。)
『そうですね。では、本当に誰でしょうか。』
(…嫌な予感しかしない。)
ヒカルは前回と同じ展開に重い溜息を吐き、諦めたように緒方についていった。
「塔矢名人。連れてきました。」
(やっぱり…)
『!!』
通い慣れた碁会所で指導をしていたのは、神の一手に一番近い者、塔矢行洋だった。
今日は息子の方はいないらしい。
「君がアキラに勝ち、緒方君と互角という子だね?」
「…はい。」
「君の実力が知りたい。座りたまえ。」
『ヒカルッ!!彼と打たせて下さい!本因坊秀策であった私に挑んできた数多の好敵手達!この者の気迫はまさしく彼等と同じ!』
佐為が叫んだ。
(ダメだ!)
『ヒカル!!』
(ダメだ!俺が進藤ヒカルとして!お前が藤原佐為として存在するために!それだけはやっちゃダメだ!)
『しかし!』
(佐為!お前はきっとこの人と打つためにここにいる!でも、それは今じゃない!)
『今でないならば、いつなのですか!!』
(お前が藤原佐為として打てる時だ!!)
『…!…必ず打てますか。』
(ああ!絶対に打たせてやる!!)
『…我儘を言いました。』
(いや、分かるよ。打ちたいよな。打たせてやりたいのに…俺もごめん。)
「どうした?」
いつまでもその場から動かないヒカルを行洋は訝し気に見た。
「塔矢名人に打ってもらうチャンスなんて滅多にないと思います。」
「………。」
「でも、俺が貴方と打つのは今じゃない。」
「どうしてか聞いてもいいかね。」
「貴方は俺の実力を見てsаiと対局するか決めようとしている。」
『!』
「そうだ。アキラに指導碁を打ち、緒方君を両断した者。そして、君の師匠。」
「名人は名も素性も隠している師匠が気に入らないんですよね。」
「ああ。だが、深くは聞くまい。アキラもかわされるばかりだと言っていた。」
「今の俺の実力では師匠の本当の強さは伝えられません。」
「だから私と打つのは今ではないと?」
「そうです。そう遠くない未来。俺がプロになって貴方と打った時。」
「君の中のsаiの強さが本物だった時はネット碁で良い。お相手願おう。」
「ありがとうございます。」
ヒカルは一礼して踵を返した。
「行かせて良かったんですか?」
「ああ。先の楽しみが出来た。」
緒方は己の師匠は頭の固い所が玉に瑕だと小さな溜め息を吐いた。
***
「はあああああっ!緊張したっ!」
もう寒い時期だというのに、極度の緊張から体に熱がこもったヒカルは近くの公園のベンチで冷たい缶ジュースを一気に飲み干した。
『…ヒカル、ありがとうございます。』
(おい。礼をいうならもっと明るい顔で言えよ。)
『もちろん、あの者といつか対局が出来るのは嬉しいです!ですが…』
(なんだよ。)
『ヒカルはヒカルがヒカルとして、私が私として打てる道を捜してくれました。』
(そんな大げさなもんじゃねーよ。)
ヒカルは照れからぶっきら棒に答えた。
『…虎次郎は私に名前を貸し、私としてずっと打ってくれました。それは正しいことだったのでしょうか。』
佐為は浮かない顔で空を見つめた。
(…俺は虎次郎に会ったことが無いから本当のことは分からないけどさ。)
『はい。』
(たぶん俺と虎次郎はお前の碁を見た時に思ったことというか感じたことが違うんだよ。)
『感じたこと、ですか?』
(そう。俺はお前が打つ碁を見て俺もこんな碁を打ちたいって思った。)
『虎次郎は何と思ったのでしょう。』
(ずっと見ていたいって思ったんだろ。きっと誰よりもお前の碁に魅せられたのが虎次郎だよ。)
『そうでしょうか…そうですね。そうだと良いです。』
【やはりお前の打つ碁は美しいな。】
かつて何度も自分の打った棋譜を並べては嬉しそうに微笑んだ虎次郎を思い出して佐為は小さく微笑んだ。
(よし!元気になったな!)
『ええ。ヒカル、本当にありがとう。』
「あ、ヒカル!」
「あかり。」
少し遅くなってしまったので図書館は諦めて帰ろうとした時。
公園の脇をペットの犬の散歩で通りかかったあかりがヒカルに気づいた。
「今、ヒカルの家に寄ったんだよ。どこ行ってたの?」
「碁を打ってた。」
『打ってはいないでしょう。』
(揚げ足取んな!)
ヒカルは既視感に襲われたが気づかないふりをしておく。
「碁?また?ヒカルって碁にハマってんの?」
「まーな。」
「誰と打ってたの?」
「それがよ、聞いてビビるな!あの塔矢名人だぜ!」
「トーヤ名人…誰それ?」
「俺が悪かった。」
その業界でどんなに有名でも興味が無ければ知るはずもない。
塔矢名人もあかりにかかれば形無しだな、とヒカルは小さく笑った。
「それより、これ!お姉ちゃんから貰ったの。お姉ちゃんの中学で創立祭があるんだって!行こ!」
そういってあかりが出したのは創立祭の出店であるたこ焼き屋の食券だった。
「おお!良いな!行こうぜ!」
「本当!?じゃあ、次の日曜日の2時に門の前ね!」
「了解。あ、まだ散歩の途中だろ?付き合ってやろうか?」
「いいよ。大丈夫。日曜日にね!」
大きく手を降ってあかりは駆けて行った。
『逢引ですね!逢引!』
(…何でお前が嬉しそうなんだよ。)
『ところで、ヒカル。』
(うん?)
『創立祭って何ですか。』
(寺子屋の祭りみたいなもんだよ。)
『ほーっ!そんな祭りが!』
(囲碁部も出し物してるから見に行こうな!)
『はい!』
***
「たこ焼き美味しかったね!」
「おう。」
「次、どこに行こうか?」
創立祭。
目的のたこ焼きを食べ終え、あかりはパンフレットへ目を落とした。
「俺、囲碁部を見に行きたいんだけど、良いか?」
「囲碁部?ヒカル、本当に碁にハマったんだね。」
「お前にはつまらないかもしれいから他の友達と周ってきても良いぞ?」
「ううん。私も行くよ!」
「そうか。じゃ、行こうぜ!」
「では、中級の問題です。三手目まで示して下さい。」
「まず黒がツケだろ…」
囲碁部では詰碁をやっていた。
問題を出しているのはいずれ伝説と呼ばれる部長の筒井だ。
「何か難しそうだね。」
「少しな。」
『あ、ヒカル!この書物!』
佐為は目ざとく【塔矢名人選・詰碁集】を見つけた。
(景品だから問題を答えられたら貰えるぞ。)
『貰いましょう!』
(はいはい。)
「ヒカルは分かるの?」
「あかり、ノド渇いてないか?」
「え?少し。」
「ねえ。次、いい?」
ヒカルは先程の問題を降参して席をたった客と入れ替わるように言った。
「どうぞ。」
「俺達、ちょっとノドが渇いてるんだ。ジュースが景品の問題やってよ!」
「…じゃあ、これかな。」
「ココとココ。」
「正解!速いね!」
「よく分からないけど、ヒカル、凄い!」
あかりや周りからも感嘆の声が聞こえた。
「へへ!あ、詰碁集も欲しいんだ!一番難しいので!」
「一番難しいって。こんなの解けたら塔矢アキラレベルだよ!」
「大丈夫!俺、塔矢より強いから!」
「えっ、君が!?」
「うん!」
「…どうぞ。第一手目がカギだ。」
筒井は半信半疑なようだったが一番難しい詰碁を並べてくれた。
「第一手目は…「おい!」
ヒカルは割り込んで来た声とともに降りてきた腕を掴んだ。
「っけ。」
そこに居たのはやはり加賀だった。
ヒカルに抑えられたことによって碁盤に煙草を押し付ける暴挙は諦めたらしい。
「加賀!」
筒井が怒鳴った。
「やめちまえ。囲碁なんて辛気くせーもん!石ころの陣地取りなんてくだらねー。将棋の方が千倍オモシロイぜ。なーにが塔矢アキラだ。あんなヤツ、俺にも負けたサイッテー野郎だ!」
「…加賀は以前、塔矢アキラのいた囲碁教室に通ってたんだ。アマの大会に出て来ない塔矢アキラを直接知っている数少ない人の一人だよ。」
今は将棋部だけど、と筒井はヒカルに教えた。
「そこのガキ。お前も塔矢アキラに勝ったらしいな。」
「うん。」
「…惨めだな。俺もお前も。それともお前は気づいてないのか?」
『どういうことでしょう?』
(大方、塔矢がわざと負けたんだろ。で、俺のことも同じだと思ってるんだ。)
『ヒカルじゃあるまいし、アキラがそんなことをするとは…』
(お前なあ…まあ、何かしらの事情はあったんだろ。知らないけど。)
「塔矢とお前の間に何があったか知らねーけど、いつまでも拗ねて八つ当たりしてんなよ!かっこわりー!!」
「ヒカル!」
見るからに不良の加賀を煽るヒカルにあかりは気が気でなかった。
「…小僧!棋力は!」
「九段!」
「っは!吹かすじゃねーか!!俺の実力、見せてやる!打て!!」
加賀は【王将】と書かれた扇を広げた。
『この者、勝負強いようですから面白い対局になりますよ!』
「望むところだ!!」
「凄い!!」
「あの、ヒカル、大丈夫ですか?」
あかりは二人の対局を見守る筒井にきいた。
「大丈夫なんてものじゃないよ!圧倒的だ!」
「え?」
パシンっと扇の閉じる音がした。
『ヒカルに劣らぬ面白い碁を打ちますが、残念です。』
「お前、本当に塔矢アキラに勝ったのか。」
「…うん。中押しで。」
「そうか。」
「加賀。あんたさ。何だかんだ言って囲碁も塔矢も嫌いじゃないだろ?」
「っけ。」
「え?」
疑問の声を上げたのは筒井だった。
「俺が塔矢に勝ったって聞いて勝たせて貰ったことに気づかない馬鹿なガキだと思ったんだろ。」
「俺が恥かいただけだがな。」
「俺、加賀のそういう所、カッコイイと思う。」
「言ってろ。…筒井、囲碁大会に出てくれって言ってたろ。」
「出てくれる気になったのかい!?あと一人誰か来てくれたら大会に登録できる!!」
「…このガキだ!このガキが大将で俺が副将、お前が三将!」
「彼は小学生だぞ!?」
「バレなきゃいーだろ。」
「あのさ!」
勝手に進む話にヒカルはやっと声を上げた。
「なんだよ。」
凄むように声を上げたのは加賀だ。
「大会のルールを破るのは良くないと思う。来年、絶対に囲碁部に入るから!」
それまで待ってって、とヒカルは筒井に訴えた。
「…うん。そうだね。待ってるよ!」
「………」
筒井は一瞬、残念そうな顔をしたが、先輩らしく微笑んでみせた。
加賀は不機嫌そうに黙ったままだ。
「…ヒカル、中学に行ったら囲碁部に入るの?」
創立祭の帰り道、あかりはヒカルに問う。
「ああ。」
「私も入ろうかなあ。」
「お前が?」
「うん。ヒカルが夢中になる囲碁、覚えたいし。」
「そっか。じゃあ、少しくらいなら教えてやるよ!」
『よかったですね!ヒカル!』
(だからどうしてお前が嬉しそうなんだよ…)
― 終 ―
~おまけ~
「筒井!」
「加賀?どうかした?」
「囲碁部の大会出るぞ!!」
「え、メンバーは?」
「コイツ!将棋部で俺の次に囲碁が強い!将棋はヘボだけどな!」
「俺、先輩に憧れて将棋部に入ったのに酷いっす…」
「はは…」
葉瀬中 囲碁部
第三回北区中学冬季囲碁大会 準優勝