「つっ……」
「ん? まだ傷が痛むのか」
「え、えぇ……いくら治りが早くてもこれじゃあ急速治療は嫌になりますね」
「だから自然治療にしとけって言ったのに。急速治療はここ最近の技術だろ? 『N様』推奨の自然治療にしとくのが無難だってのに」
「その、できたら仕事に早く復帰したかったので……少し無理を言ってやってもらったんですよ」
「ほー、流石我が部のエースだな。無理しないように頑張れよ? あと、気を付けてな」
「……? はい」
上司の言葉に少しだけ引っ掛かりを感じながら、私は現在勤め先である管理局のデスクワークを行っていた。あの事件……公にはされていない、あの路地裏での出来事からはやひと月が経とうとしていた。結果としてあの事件は世間に知られることなく、私の指二本で幕を下ろしていた。さすが維持局、と言ったところだろうか……正直に言って気味が悪いくらいだ。私の知らないところで、何か大きなものが蠢いているようなそんな不安である。
そして私はあの一件のあとで、予想よりも凄惨にえげつない程に、ひしゃげていた指二本を治療しなければならなかった。維持局の……つまり『N様』の管轄の病院に出向くのは、どうにも私は受け入れることが出来ず仕方なく街に点在している管理局や維持局の管轄である大病院ではなく、いわゆる町医者にいくことにしたのだ。まぁ、町医者と言っても大きな声では言えない場所ではあったが。そしてそんな町医者では保険もロクに降りず不幸そのものではあるが、非公認治療が黙認されていたり、今回のような短期間で怪我もしくは治療困難な重症ですら非公認治療と相まって、早期治療が可能である急速治療をうけることができるのでそれは幸いと言ったところか。
それに対する昔から存在する自然治療だが、危険性などはほぼゼロであるのがメリットであり『N様』公認……いってしまえば政府公認であるがために巷では主だったものであるが、急速治療の登場により最近で自然治療は少しずつだが、数は少ないものの急速治療にその座を奪われているらしい。
私としてはどうしても維持局、そしてその上に属する政府、言ってしまえば『N様』に対する不信感のようなものがあの一件以来頭から離れず、結果として会社のボーナスを軽く使い潰す急速治療を選んだのだが……。
「私は、どうしてしまったのだろう」
上司も私の様子を確認して立ち去った今、古き良きキーボードを叩く音と上司たちの意思疎通の声しかしない部署内に、私の独白は吸い込まれていった。『N様』は絶対で……幸福の象徴であったのに……私はまるで幸福を感じられず、思考ソースの全ては、その不信感に割り当てられていた。
「これは……」
私は、先ほどの上司が言った言葉の意味がはっきりとわかってしまった。
「どちらさま……って、この前の管理局の方じゃないですか。どうです? ウチの治療は?」
「えぇ、おかげさまでこの通り」
「ふむふむ、それはよかった!」
私は管理局の方から定時前ではあったものの、上司に無理を言って早上がりをさせてもらい、この以前急速治療をうけた町医者に足を運んでいた。ここに来るまでは管理局に出向く際に使用する自前の新車できていたのだが、どうにもナビが裏路地の方には対応しておらず、しょうがなく手動で運転する羽目になったのだが。
病院……というにはいささか小さいここは、入口付近に誰も立っていない小さな受付に、入口から向かって正面にいくつかの長椅子と長いテーブルが埃をかぶって置かれていた。そしてその先に安っぽいカーテンで仕切られた先に、手術台といくつかの怪しげな薬品類と非常口だけがある、本当に最低限のものがあるところである。
私と奥から出てきた白衣姿の初老をむかえているであろう、ここの院長である彼と、私は少し埃を被った長椅子に向かいあう形で座りあっていた。
「どうですか、急速治療。巷で言われてるほど悪いものじゃないでしょう? 『N様』公認の自然治療にも……いや、それこそ『N様』公認をいただける程の素晴らしいものだと、そうは思いませんか?」
「……その通りです、この技術は確かに素晴らしいものだ」
「でしょう! あぁ、私の面会日が待ち遠しい限りです。その時は私の発案した急速治療が『N様』にどれだけの幸福をもたらすのかをお伝えして……あぁ、なんて幸福なことか!」
私は、ぐっと感情と言葉が溢れだすのを必死にせき止めながら、ゆっくりと冷静に言葉を紡ぎ出す。
「……あなたの技術は素晴らしいものだ、それがあればきっと富も名声も……『N様』からの賛辞もいただけるもののはずだ」
「そうでしょう、そうでしょう! 町医者仲間やそのツテで独自研究によって私たちだけで成し遂げ、更には正規医療として政府公認までいただいたのだ! なのに何故、私たちの技術は認められても私たちの成果としては認められないのだ! おかしいではないか、巷の奴は旧世代の自然治療なんざに頼りよって……私たちの病院のほうがより迅速にかつ安価で……おっと、保険が効かないからまだ安価ではないか……」
なぜ……彼らは悪くないはずなのに……ただこの都市の幸福を願っていたはずなのに。
「その、言いづらいのですが」
「すみません取り乱しましたね……で、なんでしょうか」
「悪いことは言わない、今すぐにでも急速治療の技術を……捨ててください」
「……はい? すみません、年を取ったからかいまいち聞き取れなくて……」
「……だから、急速治療の技術を捨ててください」
私の言葉は、まだ夕方であるはずのなのに不自然なほどに暗い病院内に残酷にも響き渡る。私とて急速治療を受けた身として、こんなことを言いたくはない……だが。
「……それは、管理局としての意向なのでしょうか」
「いや……どちらかと言えば、維持局の……」
維持局、その言葉でひと月前のあの事件を思い出す。底知れぬ暗闇を球体にしたかのような瞳、残酷なほどに正義感を宿す言葉。絶対的な正義と、幸福を維持するあの存在を。だからこそ私は、彼に急速治療をやめさせなければならない。ただただ愚直に『N様』のためを思って研究を続けてきた彼に、その愚直な性格故に己を偽れない彼に、あの底知れぬ恐怖を味合わせないためにも。
「は、はは……冗談がすぎますよ管理局の方。なぜですか、理由が見当たらないではないですか。だいたい、私は――」
「これは維持局の……『N様』の意向なので」
そう、私が管理局の仕事中に見たのは、維持局の次の仕事内容であったのだ。管理局は維持局の行った仕事や調査の内容を把握し、それを元に都市計画を立てたりするのが一つの仕事であるが、私が引っかかったのはB地区郊外の立ち入り調査を終えた維持局の次の仕事内容であった。それは……「自然治療に害を与える、危険な急速治療の早期対処」というものであったのだ。
「な、なぜ……急速治療は、私たちの研究成果は……政府に認められて、あとは『N様』の認可をいただくだけであったのに……」
「それは……私にもわからなくて」
正直なところ、私にもよくわからないのだ。ただ『N様』の代弁をしている政府の、更にその政府のお抱えである維持局が急速治療を今になって認めなくなった、それだけである。ただそれだけではあるが、本当にそれだけの理由で彼の、彼らの研究は無慈悲にも終わらされようとしているのだ。良かった、私の判断は間違っていなかった。彼は意地でも自分の意思を曲げようとしないだろう。ここで私が止めねば、ひと月前の事件のようなことになりかねない。
「い、いやだ。私は絶対に急速治療の研究はやめないぞ! 私は『N様』に認めてもらうことを目標に今までやってきたのだ! 私を……私たちを『N様』が見捨てるわけがない!」
「だから……駄目なんですよ。もう維持局は動き始めています、覚悟を決めていただかなくては――」
私が彼の興奮をなだめようと、言葉を発した瞬間、
「彼の言う通りだ、覚悟を決めたまえよ」
「ひひひ、その通り、その通りってやつだ」
私を含め、二人しかいなかったはずの病院内に、突如として二人分の声が響き渡った。私も彼も、冷や水を浴びせられたかのように緊張と驚きを隠せぬまま、その声の方へと振り返る。
「うん? 貴方はこの病院のものではない様ですね。どなたですか? 無関係なものなら、今すぐ立ち退いてください。ここは維持局の立ち入り対象です」
落ち着いた物腰でこちらに問いかけてきたのは、スーツに季節にそぐわないロングコートを身に着けた細身かつ長身の男であった。パッと見ではどちらかと言えばデスクワークに向いていそうな、少し頼りなさげな見た目をしている、髪を短くキッチリとまとめてさえない眼鏡をつけた男である。……だが、私の抱いた第一印象を根こそぎ吹き飛ばしものが一つ……冴えない眼鏡のその向こうの、最近に一度だけ全く同じモノを見た覚えのある、その瞳であった。目的のためなら、『N様』のためならなんであろうといとわない、その狂信にも似た冷徹な深淵を思わせるようなどこまでも吸い込まれそうな暗黒の瞳。
だがその危険極まりない存在感よりも、私が気になったのは立ち入り調査だ。今日管理局で確認したのは明日になっていたはずなのに、なぜ彼らはここに来たというのだ。
「いや、私は管理局のものだ。それより、いいのか? 立ち入り調査は明日の筈だぞ。いくら維持局とはいえ、これは越権行為じゃないのか?」
「あぁ? なに言ってやがる、お前らみたいなクソ温室育ちが俺たちの行動に口出しすんのか? これだから世間知らずな管理局のハエどもは嫌いなんだよ」
「おい、口を慎め銀。私たちの崇高なる仕事に私情を挟むなと何度言わせる」
「……ちっ、そうだったな。悪かった」
銀、と呼ばれた男は如何にも、と言った様相の男であった。もう一人の方と同じくスーツ姿ではあるものの、非常識なほどに自己主張をする筋肉が、スーツをこれでもかと張りつめさせている。衣服では隠せないその暴虐性を孕んだ体からは、見る者全てに恐怖を覚えさせるだろう。無造作に伸びきっている髪も、まるで手入れがなされていない無精ひげも、まるで獰猛な野獣のような狩人を思わせる瞳も、全てが畏怖の対象であった。
その二人が放つ、私の知る日常からかけ離れた気配は、私を委縮させるには十分すぎた。それはまるでひと月前に覚えてしまった、産まれて初めて抱く心底嫌悪感を抱く畏怖の念と同じであった。だがそれを気取られれば相手の思うつぼであろうと思い、私は表向きだけでも強気の姿勢を保たせる。
「……私の質問に答えてください、立ち入り調査は明日の筈ですが」
「ふむ、答えと言われましてもねぇ。仕事ですから、遅いも早いもないんですよ。ただ一刻でも早く、『N様』が不快に思われるものを排除するのが、私たちの正義ですから」
「答えになっていない、いくら維持局とはいえ――」
「ごちゃごちゃうるせぇな。金、さっさと済ませて帰るぞ」
私の言葉を遮るように銀と呼ばれる彼は、もう一人の長身細身の金と呼んだ彼に苛立ちを含んだ提案をしはじめる。はっきり言って、私たちはまずい状態であるに違いない。維持局の立ち入りというのは、きっとひと月前の事件と同じモノであろう。つまり彼らは人間一人分の『掃除』をしにきているのだ。
「ま、まて。彼は急速治療の研究は取り下げると、既に約束したんだ。今、私がここに来ているのはそのためだ!」
「なっ!?」
「……ほう」
私の思い付きで発した言葉は、金と呼ばれた者と、私の側にいる医者の彼に言葉を漏らさせた。こちらにいる彼は何かいいたげではあったようだが、私の切迫した声を聞いたからか黙ってうなずいてくれていた。金、と呼ばれた者も、何やら考えるように顎に手を置いて逡巡を始めている。
「おぉい金、まさかそんな口からでまかせ信じるわけねぇよな? いいからさっさとよぉ」
「まぁ待て、彼の言葉の真偽はともかくとして、もし彼が急速治療を手放すというのなら私たちの仕事がはかどるというものだ」
「……ははぁ、なるほどな」
私はその二人の不気味な会話に、思わず生唾を飲み込んでいた。もし、これで彼を助けることができたのならいいのだが。二人の雰囲気はどうみてもそのような物ではなく、ただただ不気味かつ、不信感だけが募っていく。
「その言葉信じよう、管理局の者よ。では彼の身柄は維持局で一時的に預からせてもらおうか? 私たちには、彼が技術を手放すという『決定的な証拠』が欲しいのだ」
「ま、そういうわけだ。そこのお前! さっさとこっちにこい!」
「……従ってください、でないとどうなるか私にもわかりません」
「……はい」
彼をみすみす維持局の二人に手渡すのは歯がゆいが、ここで逆らえば十中八九奴らに殺されるのは間違いないだろう。ならば逆らわず、波風を立てず、穏便にすませるしかない。私は頼りなさげな医者の背を見守りながら、突然の事態にも対応できるように体に力を入れる。
「で、だ。君は本当に急速治療の技術を手放すのかね?」
「……はい。ですが、一つだけ言わせてください。私のしてきたことは決して、一度たりとも『N様』のことを思わずしてしたことはありません。すべてが、『N様』のためにしてきたことです」
「ほう……その言葉に嘘は一切無いと胸を張って言えるか?」
「もちろんです、私の全ては『N様』のためにあります」
「くっ、くくく……大した信心だな。彼の人も大層お喜びになるだろうなぁ」
なんだ……なぜ銀とやらは笑っている? それに何故さっきから腰の辺りを何度も何度も気にかけているんだ。何か、嫌な予感がする……。
「ふふふ、君のその素晴らしい忠誠心に免じて、本来君には伝えられなかったであろう彼の人からのお言葉を聞かせてやろう」
「まぁ、土産話に持ってけや……冥途の、だがな」
「お、おい! 何を――」
私がほぼ直感に近い嫌な予感から彼らの間に立つべく席から立ち上がった瞬間、銀とやらが何かをいいかけながら腰の辺りからひと月前に一度だけ見た、幸福を維持するための絶対的な恐怖の象徴を抜き放っていた。
「え……?」
「君の急速治療は、邪魔なんだ、とな。彼の人は、君を処分対象にしたんだよ」
金とやらの口から放たれた衝撃的な言葉は、この場には似つかわしくない軽快な音に掻き消された。いや、そうだと願いたかった。きっと彼には絶対に聞いて欲しくない言葉だから……『N様』のために生きた彼が、その人に必要とされていないどころか、邪魔者扱いされていた事実など。
そんな私の願いを悪魔がそのまま現実にしたかのように、目の前で医者の彼が糸の切れた哀れな操り人形のように力なく床に横たわった。
「……ったく、金は無駄なおしゃべりが多いんだよ。俺も大概だが、お前はもっとたちが悪いぞ」
「何を言っている。私はただ
「それをわざわざ死ぬ間際の人間に、それも皮肉たっぷりにやるのが最悪なんだよ。しかもお前、楽しんでるだろ」
「……全く、銀なんど言わせる。崇高なる仕事に私情を挟むな、とな」
「ったく、その言葉は自分の今の顔を見てから言ってくれ」
唖然として立ち呆ける私の目の前には、やれやれと溜息をつく銀と……無残にも物言わぬ魂の抜け落ちた抜け殻になった病院の彼が。そして、自覚なく歪んだ笑みを浮かべる、金が立ちふさがっていた。
「さて、管理局の君。君はもしや私たちの仕事をみるのは初めてだったかな?」
「おいおい、コイツ話なんざ聞いてねぇぞ」
「まぁいい、続けるぞ。一つ聞こう、君の仕事は管理局であるならわかるはずだが、君は一体仕事で何をしているのかな?」
私の心臓が、ドクンと大きく脈打った。私の、仕事。それは、維持局の立ち入り調査や
目の前で起きているような事の最終チェック。
「更に言うなら、君たちは幸福の管理……つまり管理局で働いていて、そのことに誇りを持っている筈だ」
「その実態は、知っていたのかね?」
目の前に転がる死骸。それが、私たちの仕事の本質……?
「君らが誇りを持ってしていたことは、こんな幸福からかけ離れたことだってしっていたのかなぁ?」
違う、違う違う。私はいつだってこの街の、幸福都市のために、友人や同僚のためにこの街の幸福を脅かす
「……ぁ」
「ようやくわかったかね。君のしてきたことは幸福の管理でも、市政ゴッコでもなんでもない」
「ただの、人殺しの片棒担ぎなんだよ?」
「ぁ、あぁ……」
『なぁ、お前はなんで管理局に入ったんだ?』
『別に……ただ、この街の……幸福都市のみんなが誰も不幸にならないで幸福でいてほしいって思っただけさ』
『へぇ……叶うといいな、その夢』
私の信じてきたものが、信じてきた幸福が、信じてきた『N様』という幸福の象徴が。どこか遠くに行ってしまったみたいで、ただ少しだけ頭がついていかない。
「おぉい……だからそれが悪い癖だってんだ。死ぬ前のやつにくらい、良い夢見せてやれよ」
「何を言っている。彼はこれまで十分見てきたはずだろう? ありもしない、幸福という名の仮初に作られてきた悪夢に、な」
「お前やっぱり悪趣味だわ。まぁそういうことだ、死んでくれ、な?」
目の前に、死骸を積み上げるための凶器がつきつけられている。だがそのことを理解はしていても、体は石のように動かない。この感覚は、やっとの思いで作り上げた砂の城を、圧倒的な不条理で崩される子供が味わう虚無感に似ていた。
「答えてくれ……なら、私はいったい今まで何を――」
「ふん、わかりきったことを。すべては『N様』のために、この都市の絶対理念だろう」
「ちっ、さっさと処理したいが再充電がまだだな。このポンコツめ、早かったり遅かったりいい加減にしやがれ」
私は『N様』のために生きていた、これまでも、これからも。そのはずだったのに、なぜこんなことに? 私のしてきたことは、ただ薄汚れた仕事だったと? じゃあ、この幸福都市っていったい何なのだ。『N様』って、なんなのだ。私の積み上げてきた数十年が、音を立てて崩れていく。
「……ざけるな」
「ふん、もういいだろう。さっさと処理して帰るぞ、銀」
金は、身に纏っているコートを翻し、私に背を向けた。
「ったく、めんどくせぇ。じゃあな、良い夢見ろよ?」
銀は、私に向けた死の象徴に指をかけ、そのまま引き金を引き絞った。不思議と、恐怖はなかった。
部屋にまたしても軽快な音が響き渡った。その後、まるで銅像でも倒したかのような先程よりも一際大きい何かが倒れる音が、聞こえていた。
「さて、次の現場が待っているぞ。早く帰らねば――」
瞬間、金の腰あたりに鈍痛が襲った。金の細身の体ではその衝撃は抑えきれず、進行方向である入口の扉に叩きつけられた。
「な、なんだ……銀! いったいどういうつも、り……」
金の目の前には時間相応ではない、いつのまにか夜刻を向かえた病院の暗闇に隠された、二つの眼光だけが確認できた。金には、まるで自分の鏡がそこに立っているかのような錯覚を覚え、状況の把握がまともにできなかった。
「き、貴様。銀を、銀をどうした!」
「……ふざけるな」
「質問に答え――」
またしても、軽快な音。短時間で三回目である。
二人、手にかけた。二人、救えなかった。
「四人」
半分は、己で地獄で清算しよう。もう半分は、清算させねばならない。この都市の幸福の象徴である、『N』に。偽りの幸福を押し付けてきた、『N』に。
死臭が充満する病院が嫌になり、外に出ると雨が降り始めていた。まだ小雨でもないが、今にも泣きだしそうな程、暗い暗い、どこまでも深淵を思わせる悲し気な空模様だ。
「……寒いよ」
心にぽっかりと穴が開いたみたいで、吹き抜けていく寒々とした風がとても心苦しい。なぜなんだ、私も死んでしまった医者の彼も、この街のために『N様』のために生きていたのに。なぜ裏切るのだ、この世界は、『N様』は……。
「おやおや、大丈夫ですか? 雨が降っているのに傘もささず」
私はよほどほうけていたのか、見ず知らずの薄汚れた格好の老人がこちらにきて、傘を私の上にかざしてくるまで既に雨が降ってきていたことにすら気が付かなかった。
「あなたは……?」
「私も同じです、この世界に……彼の人に裏切られたものですよ」
彼はそういうと薄汚れた服に隠されていた体を、忌々し気に服を破り捨てて見せてきた。そこには、おおよそ人間が普通に過ごしていたらつくはずのない量の痛々しい生傷と、血は出ていないものの、あるべきものがない空洞が私の目の前に晒された。
「もし貴方に覚悟が……この世界でまだ生きていく覚悟があるのなら、私と来なさい」
「貴方に、この都市の真実を知る覚悟があるのなら」
そういって彼は、私の目の前に不自然な機械音のなる右手を差し出してきた。
「私は……」
私は、ひと月前の事件の真相も、今日なぜこんなことになってしまったのかも、この都市のこともまるでわからない。そして、『N様』のことも。
私は、この幸福都市に住む皆に幸福でいてほしいと願っていたのに……自分とて例外なく。なのに『N様』は……彼の人は裏切った、私の心と彼の人を信じる人を。
「絶対に赦すものか、『N様』を……彼の人を」
私は左手に握られた、この都市の幸福を守るための凶器を今一度握り締め、誓う。この世界のことを、必ず彼の人から聞きだすと。そして清算させる、きっとこれまでも行われてきた幸福とは真逆のことを。
「ふむ、これで貴方も私の……私たちの仲間ですね」
彼から差し出されていた右手を、私は覚悟をこめて右手で握り返す。すると彼は路地裏の深い、どこまでも深い深淵を思わせる暗闇を背景に両手を開かせ、その暗闇に沈みながら高らかに声を上げた。
「ようこそ、
私は彼に続いて、その暗闇へ身を投げた。少しの心残りを、光の中に置き去りにして。
おっとすみません、またしてもお話の続きですが中断させていただきます。また事件がおきまして……えぇ、次はもっと遅くなるかも、いえ早くなるやもしれません。あぁ、現場のミスを被るのも上の仕事ですから、また次までに新しいモノを用意させていただきます。
えぇ、いつだって私は貴方の傍に。