――夢を見た。宝石よりも輝かしい黒色の髪を、爽やかな春風によってなびかせている少女の夢を。その均整な面持ちは……そう、桜を思わせる美しさと、儚さを危うい程のバランスの中で保っていた。こちらか、もしくはこちらよりも遠くを優しげに見渡しているその双眸は、宝石などと言う言葉では陳腐すぎる程で、そしてそれは見た者全てを魅了する程の妖しげな魅力を兼ね備えていた。そんな一人の美しい少女の夢を見た。いつの日か、叶わなくなってしまった私の儚く散った夢を。
目を覚ますと私は見ていた夢の幻想から引き剥がされ、ほんのり暖かい自分の体温を孕んだ布団の感触だけが占めるちっぽけな世界に戻っていた。
「……はぁ」
私は布団を半ば投げやりに剥くと、そのままひんやりとした床に足を付けて洗面所へ向かった。別に今日は仕事があるわけではないが、かねてからの……腐れ縁の奴に誘われた花見が今日はあるのだ。だから、わざわざ折角の休暇の日にこうして浴びたくもない冷水を顔にぶつけているのだ。
私は、正直に言って今日の腐れ縁の誘いは断るつもりであった。今日は
余分な思考を水に流した後、洗面所を出て私は何もない居間に入る。いや、一応モノはあるが、あるのは生活に辛うじて必要だったものと、大きな仏壇。私はほんの少しの溜め息を吐いていから、電気をつけるべく天井に垂れ下がる紐を一瞥してから電気をつける。
私はしばし目を瞑り、ここ一年の事を反芻してから、仏壇に飾られた写真を一目名残惜しく見た後にをその場から離れる事にした。
私は冷蔵庫のモノを適当に引っ張りだして胃にぶち込み、適当にそのあたりに散らかっていたすっかりくたびれたスーツを手に取って羽織り、一足の靴だけがある玄関へ向かった。
「……いってきます」
私の望む返事は、暗い廊下に吸い込まれるだけで私の耳に帰ってくることはなかった。
「もぉ先輩! 遅いですよ!」
「……もう私はお前の先輩じゃないぞ」
私は、例の後輩に指定された近場の公園にやってきていた。しかしこの公園は、公園と呼ぶには些か広く、どちらかと言えば大規模な広場をイメージさせた。そんな公園の待ち合わせにうってつけの高くそびえる時計台に、彼は居たのだった。
私の心情とは裏腹に、元気沢山といった様子の彼は名を藍那
「んも~仕事の時は遅刻しない癖に、プライベートはホントずぼらなんだから~」
「ふん、放っておけ。お前には関係ないだろう」
「へっ、冷たいんだから~。まぁもうなれましたけどね?」
「そりゃよかった。後輩が随分大人になって、寂しい限りだよ」
「ふん、そっちこそ当分は認知症にならなくて済みそうですね」
些か言葉のすぎるようにも思える会話だが、現役の頃はこの比ではなかったのものだ。私も彼も、まだ血の気が多かったからだろう。
「ま、そんな事より今日は花見ですよ、花見っ」
そう、今日彼が呼びだした用事とは花見であった。私が何故、と反論をする間もなく彼は私をあらかじめ確保してあったと思われる場所へと引っ張っていき、この大規模公園に万遍なく育っている桜の木の中でも一際大きく、美しい桜の下へと有無を言わさず連れてきた。
「へへん、どうですか? 一徹してこの場所ですよ、褒めてもいいんですよ?」
「……肝心なのは酒だ」
「それも抜かりなく! はい、先輩の好きな日本酒ですよ、それも一ビン丸々!」
「……明日は人類滅亡の日だったか」
「くひひ、僕も同じこと考えてました」
彼は私の軽口を文字通り慣れた様子で受け流していた。そしてそんなことより、と同じく用意していたと思われる御猪口
「じゃあ、乾杯ですね」
「……おう」
私と彼は薫り高い花の下で、様々な思いを混ぜ合わせて乾杯をした。その乾杯の反射光で、私の視界で何かが光った気がした。
「……だからあの野郎は~って聞いてますぅ? せぇんぱぁーいぃ……うぇっぷ」
「聞いてる聞いてる、吐くなら袋の中な」
「ありがとうございます先輩オロロロ」
私は、また一口と酒に手をつけながら彼の随分な様子を眺めていた。昔からそうだが、彼は私に付き合うと言って毎度のように先に潰れていた。それは何年たっても変わらないようで、私は少し懐かしい気分になった。
「……すぴー」
「眠った、か」
これも昔と変わらず、彼は私よりも先に酔いつぶれて寝てしまった。私は眠った彼を横にして来ていたくたびれたスーツを枕代わりにしてやり、少し斜めになる様に寝かせてやった。なんとも言えないが、彼の寝姿を見ながら酒を飲むのは憚られたので、私は少しずれて桜の木の下へ移動して木にもたれかかって、また一口と酒をあおった。
「……私も弱くなったものだ」
少しずつ歪む景色を冷静に捉えながら、また一口と酒を飲む。一人で酒を飲むようになったのはもう慣れたものだが……少し眠くなってきたな。
「……少し眠ろう」
私は眠りに落ちつく最中、そういえばここに誰も居なくないかという思考が脳をよぎったが、迫りくる睡魔には抗えずそのまま意識を手放した。
「……んっ」
……寝てしまっていたようだ。それに、少し暗くないだろうか。私が外に出たのは昼過ぎの筈だが。
「お兄さん、お兄さん」
「……ん?」
私の疑問が解決する前に、未だに開ききらない瞼の前にどうやら誰かがいるようだった。この声、高さからするに女性のものだろうか。私は抗う瞼を眠気から解放し、目の前に立っていると思われる人物に視線をやる。
「やぁやぁ、おはようかな? 時間的にはこんばんは、だけれど」
そこには、私の夢に現れた少女が立っていた。私は返事も出来ずただただ目の前の光景に目を擦りながら、唖然として口を開ける事しかできなかった。
私はあまりのショックに少し取り乱しながら、辺りを見渡した。……ここは、私のもたれる不思議と光る桜の木が一つと、辺りを覆い尽くす闇だけが支配していた。
「……そう言う事か」
「んー? どうしたのおじさん?」
「ガキにはわからんことだ」
「もーひどいなぁ」
私は、全てを理解して、自然体で目の前の少女に語り掛ける。
「なぁ、お前は……」
「駄目」
「なら、私も……」
「駄目」
「ならどうすれば!」
「……もう少し、頑張ってよ。昔みたいに」
私は、息を飲んで流れそうになるモノを堪えて言葉を紡ぐ。
「そうか、そうだな。お前みたいな甘ちゃんに言われるとは……」
「わかってくれた? じゃあ、私は時間がないから行くね?」
「もう、いくのか」
「うん、少しって約束なんだ」
目の前の宝石よりも輝かしい黒色の髪を、爽やかな春風によってなびかせている少女は、私に背を向けて、桜の木の下から離れていこうとする。
こちらではなく輝く桜を離れた暗黒を優しげに見渡しているその双眸は、宝石などと言う言葉では陳腐すぎる程で、そしてそれは見た者全てを魅了する程の妖しげな魅力を兼ね備えていた。
そんな一人の美しい少女を見た。いつの日か、叶わなくなってしまった私の儚く散った夢の残骸を。
「じゃあね、お父さん」
彼女の一言は、私を混沌の深淵に引き込むには十分だったが。
「桜花
無情にも、私の手は空を切って。そして次に視界に入ってきたのは。
「オロロロロ」
輝かしい、吐瀉物であった。
「ただいま」
私の望む返事は、暗い廊下に吸い込まれるだけで私の耳に帰ってくることはなかったが、それでもいいと私は形の崩れ始めた靴を脱ぎながらそう思った。
暗い廊下を進んで居間に入ると、私は手探りで電気のスイッチを探す。ブラブラと力なく手探りしていると、紐にぶつかった。私は溜息ではなく深呼吸をして、電気をつけた。
「……ただいま、桜花」
電気をつけ、仏壇に手を合わせた私はもう一度帰宅の報告をする。深呼吸をしてから私は仏壇に別れを告げて、スッと立ち上がる。
今日の事は……忘れよう。私が生きていくのは、優しい今日じゃなくて、ビターな明日だ。ベストではなくベターだ。忘却ではなく記憶だ。私には、理由ができた。目的ができた。やるべき事は、悔いなく生きる事。花は散ろうと幹は残るのだ。
私は、窓を開けて閉じられた世界に風を迎え入れた。その風に漂うのは、薫り高い花の香り。私の頬に一筋、輝きが伝う。
そうだ、今日は寝よう。明日からはやることが沢山ある。今日の用事は丁寧に準備をしていたものの、それも果たせなくなったが、明日からはそれ以上に果たさねばならぬことが沢山ある。
「……おやすみ」
だから私は、部屋に垂れ下がった紐を落として、部屋の電気を消した。
くひひ、全く持って涙を誘いますねぇ。おや、失礼しました私としたことが。
今回は、折角なので少し趣を変えてみました。さて、いくつ気になるところがありましたか?
彼は香り高い花のように儚く散るのか、それとも再び美しい花を咲かせられるのでしょうか…是非とも、聞いてみたいものですねぇ……おや、もうお帰りですか?
では、また次にお会いする時まで……えぇ、いつだって私は貴方の傍に。