その日、剣鬼は静かに瞑想をしていた。
「…………」
中有の道よりも三途の川に近い、けれど川辺が見えるほどの距離ではない、そんなあやふやな場所で剣鬼は座り込み、徐々に集中を深めていた。
あまり中有の道に寄り過ぎていると、妖怪の山に住む連中がうるさい。三途の川に近づきすぎると、サボり癖がある割に根っこの職務意識は高いというチグハグな死神がうるさい。
なのでどちらからも目をつけられないギリギリの場所が望ましかった。
「…………」
ここでは人を待っていた。百年近くご無沙汰だった幻想郷に来たのも、それが理由である。
知り合ったのは遥か昔。あの頃から斬りたいという思いは変わらないが、ずっと袖にされ続けてきた。強引に挑もうとすると無抵抗になるからタチが悪い。
幸い、時間だけは豊富にある身なので、剣鬼は待つことにした。彼が思い残すことを全てなくし、一人の剣士として生きたいと願ったその時をひたすらに待っていた。
そして今日、その願いは結実を迎えることになる。
「待たせましたかな」
「……いや、待ったつもりはないさ」
月明かりが仄かに地面を照らす中、現れたのは老年の男性だ。
月光を浴びて銀に染まった髪を後ろでまとめ、二刀を携えた着流し姿で剣鬼の近くへ歩み寄る。
気安い様子で近づいてくる男性に、剣鬼も瞑想をやめて立ち上がる。
「……ああ、お前が俺を袖にした時間を思えば待ったってことになるか? っくくく、だけど、それも今この瞬間のためだと思えば、隠し味のようなものだ」
すぐ後に訪れるであろう至福の時を思い、剣鬼は上機嫌に喉を鳴らす。
散々待たされたからこそ、獣のようにがっつくのではなく、今は前座とも言える会話を楽しみたかった。
「しっかし、また急な果たし状じゃねえか。紫から届けられた時は心底仰天したものだ」
「……彼女には止められましたがな。幽々子様はどうするのか、と」
「ほう。振り払った理由に興味があるね。俺が誘いをかけても幽々子を理由に断ってきたじゃないか。なあ? 白玉楼の庭師兼剣術指南役――魂魄妖忌」
妖忌と呼ばれた男性は剣鬼とは逆に、言葉に詰まったように喉をうならせる。
「む……。あの頃は幽々子様も亡霊に転じて間がなく、それに儂の後釜に収まってくれる者もおらなんだ故」
「今はいいのか?」
「……幽々子様には八雲様がおられる。それに孫娘も未だ半人前ではあるが、そろそろ儂の手を借りずとも良い頃でしょう」
「ほぅ、後釜はお前の血筋か」
ニヤリと笑う。これはこの後にも楽しみが増え――
「――儂に勝てると思っているので?」
妖忌の言葉で意識を現実に引き戻された。剣鬼はバツが悪い顔をして、妖忌に頭を下げる。
「……悪い。お前が目の前にいるのに、後のことなんて考えるもんじゃないな」
今は妖忌との対話だけに集中すべきだというのに、別の女に気を取られてしまった。それを恥じて剣鬼は自身を戒める。
「とはいえ、それだけが理由ってわけでもないだろう。懸念事項があるから戦いたくないってのはわかる。――だけど、本心は違うな」
確信を持った口調で剣鬼は断言する。
妖忌はその言葉を受けて、確かに頷いてみせた。
「……幽々子様のお世話をしている時。孫娘に剣を教えている時。これらは確かに幸せな時間でした。あるいは、あのまま微睡みに身を委ねるように朽ちていく道もあったのでしょう。
――ですが、ふとした拍子に考えているのです。あなたの太刀捌きをどう対処するか。どのような初撃が来て、どう対応すべきか、想像している自分がいるのです」
ふぅ、と妖忌はため息をつく。
「最初は否定しました。儂には成すべきことがあると言い聞かせ、仕事に埋没するように打ち込み――それでも、あなたと立ち合いをしている自分が浮かんできてしまう。それを認めた時、儂は悟りました」
抜刀。二振りの刀が月光を反射し、白く煌めく。
「――どこまで行ってもこの身は剣士。己こそが最強だと信じてやまない大馬鹿者の一人でしかないのです」
刀を突きつける妖忌に対し、剣鬼は顔を伏せる。そうでもしなければ、笑いが止まらなくなりそうだった。
「だからこそ、儂は挑戦したい。儂の知る最も強き剣士に――儂の方が強いのだと証明したい!」
剣鬼と妖忌の間に広がる空間に、濃密な殺気が生まれる。空気が粘り気を帯び、両者の視線が相手の一挙手一投足の隙を探るように鋭くなる。
もはや半刻もせずに戦いが始まるだろう。そして始まったが最後、どちらかの命が尽きるその瞬間まで、両者は止まらずに殺し合う。
「っく、ははははははははは!! そうだなそうだなそれでこそだ妖忌! 剣士なら、テメェこそが最強だと思わなきゃ嘘だよな!! お前にとっちゃ俺は目の上のたんこぶだよな!!」
もう辛抱ならなかった。闘争への猛りが腹で渦を巻き、全身へ熱を伝えていく。
妖忌に応えるように剣鬼も抜刀する。
穏やかな空気などどこにもない。あるのは相手を殺し、己こそが最強だと名乗りを上げたい愚か者たちの放つ威圧と殺意のみ。
「さぁて、前座はこんぐらいにしようか。口ばっか回していても白けるしな」
「我々の語らいに必要なのは己が刃のみ。違いますか」
「違いない。――始めようか」
その言葉と同時、剣鬼と妖忌は身体の動きを止める。
否、微細な動きをすることによって立ち位置、重心の調整と、相手への牽制を始めたのだ。
ジリジリと、地を擦る微かな足の音で相手の挙動を予測する。達人の技と言っても過言ではないそれを、相対している両者は当たり前のように行う。
見るべき人が見れば、怖気すら走るほど精緻な駆け引き。常人が見ても、ただ二人が向かい合っているだけにしか見えないだろう。
互いの心に宿るのは、かつてない強敵と刃を交わすことの出来る歓喜と、隙が出来た瞬間を見逃さず相手の生命を刈り取るという、冷徹な殺意。
やがて、先陣を切ったのは剣鬼の方だった。
「っ!!」
平時のだらけた顔は微塵もない。狂気の笑みを浮かべることもなく、ただただ決然と妖忌への殺意を刃へ乗せて、裂帛の突きを放つ。
微かな捻りを加え、風を巻き込んで放たれた突きは、妖忌の心臓目掛けて一直線に伸びる。
基礎という基礎を完璧――否、完璧以上の領域まで鍛え上げられた絶技に、妖忌は目を見張る。
――これこそが!
剣を志す者全てに名を轟かせる男の業。かつて見た時より更に洗練されたその突きを、妖忌は多大な尊敬とともに、半身になることで距離を詰めつつ回避する。
――避けた!!
突きを放った剣鬼も妖忌への感嘆が胸に渦巻いていた。
必殺の太刀、というわけではない。型に得意不得意は多少なりとも存在するが、剣鬼の放つ刃は全てが必殺のそれである。攻撃など極論、当てて殺せればそれで良いのだ。
相手が妖忌でなければ――それこそ相手が境界の賢者八雲紫であったとしても、反応すら許さず屍に変える自信のある一突き。それを妖忌は己がこれまで行い続けてきた鍛錬によって避けた。
これを喜ばずして何を喜べと言うのか。こんな――これほどの修練を積み上げた者が、今この瞬間だけは、自分のみを見てくれているのだ!
歓喜に打ち震えそうになる剣鬼であったが、行動は正確無比だった。
突きを避けて距離を詰めてきた妖忌が振るう二刀を、僅かな足捌きだけで避ける。
しかし妖忌もその程度は予測済み。月光を反射し、白銀に輝く刃を目にも留まらぬ速度で追撃として振るう。無論、狙う箇所は全て急所。
刀の残光が白い蛇のようにうねり、美しい弧を描いて剣鬼の首に吸い込まれるように向かっていく。
「――っ!」
剣鬼は焦る様子も見せず、巧みな足捌きで自身の首を狙う剣閃に対処する。
白刃の嵐の中を舞うような動きで避けた剣鬼は、自らもまた斬撃を繰り出すことによって、妖忌の白刃と絡み合う。
妖忌の斬撃が二振りの狐を描く月であるならば、剣鬼の刃は鋭く敵を穿つ白光の牙――否、斬撃を放つ際の動きが速すぎて、手元が光ったと思った時にはすでに斬撃が喉元まで迫っているため、牙のようであるとしか表現できないのだ。
静かな戦いだった。彼らの戦いに響く音は地を蹴る音と、刃が風を斬る微かな音のみ。
両者ともに刀を使った戦いである以上、斬撃を刃で受け止めるのは相手より剣術で劣ると名乗りを上げるようなもの。
違った武器同士ならまだしも、同じ刀を使う相手で、しかもこれはルール無用の殺し合いなどでは断じてない。
これは――互いの命を懸けた、技比べなのだ。
放つ刃に己が技量の全霊を込め、それを避ける体捌きにこれまで積み上げた鍛錬を見せ、そして一瞬の攻防で繰り広げられる無数の駆け引きに、剣士として磨き上げた直感を用いる。
僅かな呼吸と微かな音以外何も聞こえない両者の戦いは、正しく技比べの様相を呈していた。
妖忌は無数の斬撃が飛び交う中、どこか穏やかな心持ちで自身の状況を判断する。
不思議と心は落ち着いていた。寝ても覚めても剣鬼との戦い方ばかりを考えていた時より、余程静かである。
想像の中であれほど昂ったのだから、実際に剣を交えたらどれほどかと思っていたのに、拍子抜けとすら言っても良かった。
しかし、このぐらいが丁度良いのかもしれない。戦に酔って剣鬼の斬撃を見誤るようなこともない。生まれて初めてではないかと思ってしまうほど、思考は冴え渡っていた。
同時に肉体面の調子も最高だ。技術はともかく、身体能力は若い頃に比べればどうしても劣ると思っていたがとんでもない。かつてこれほど肉体が動かしやすいと思ったことはないだろう。
身体に染み渡った鍛錬が、経験が、脳を介さない反射の領域で思考を加速させ、肉体が即座に反応してくれる。
剣士として理想的と言っていい状態だろう。精神、肉体、全てが完璧に一致していた。
(――形勢は不利。半ば予測出来ていたことではあるが)
だからこそ否が応でも理解させられる。自身が最高の状態にあるが故に、相手の立っている場所がどんな高みであるか、理解することが出来てしまう。
今でこそ対応できているが、彼の放つ刃は自分と同じ弧を描く軌道を取っているはずなのに、手元から一直線に首を狙っているようにしか見えない。
月光すら置き去りにする速度で振るわれているのだと、理解するのに時間は要らなかった。
今、妖忌の頬を擦るように通過した刃が雄弁に語っている。剣鬼の磨き上げた業は、全ての面において妖忌のそれを上回っている、と。
(――だからこそ!!)
挑み甲斐があるというもの。地位も、名誉も、主の信も、これまでの全てを打ち捨てて挑む相手なのだ。これが自身と
喉元に迫る刃を首の皮一枚犠牲にすることで避け、距離を詰める。
予測した剣閃と自身の動き。どちらかが少しでもズレれば噴水のように首から血を流して死んでいただろう。
しかし、今の妖忌は絶好調。自身の動きの制御もこれまでにない精度で行えている。何より――
――恋い焦がれた敵手だからこそ、この軌道の斬撃を放ってくると信じていたのだ。
「ハアァァッ!!!」
裂帛の気合と共に放つ双刃は一つが避けられてしまったものの、もう一つの刃が剣鬼の頬に赤い線を引く。
刃先に肉を斬る感触が伝わる。刃が届いたことに妖忌の心は一瞬だけ歓喜に粟立つ。
――届いた。自分の剣は、彼を殺し得るものであると証明できた。後はこれを首に這わせるだけである。
速度と技量、すでに完成したかに見えた剣術が心身合一の境地に至り、更に研ぎ澄まされていく中、両者の戦いは静かに激しさを増していくのであった。
心の中に沸き立つ歓喜と、冷静に相手に打ち勝とうと相手の行動を読み取る二つの心を、剣鬼は表に出すことなく両立させていた。
(いや、凄まじいとしか言いようがない。ここまで剣技を競える相手など、何時ぶりだろうか)
四方八方。そうとしか表現できない密度の斬撃が、自分の首を刈り取ろうと迫ってくる。
剣鬼は一つ一つ丁寧に見切り、紙一重で避けていく。
下手に距離をとって避けようとすれば、そこから崩れた体勢を狙われてしまい、詰将棋式に追い込まれるだけだ。
(攻めの頻度は向こうが上。……が、形勢はこちらが優位)
向こうの猛攻は敗北へ傾きつつある趨勢をどうにか戻そうとしているが故のもの。剣鬼の目はそれを的確に見抜いていた。
技量と経験。彼が自分にとって愛すべき敵手であることによる贔屓目を差し引いても、自分の方が上であると断言することが出来た。
が――
(戦いってのは、それだけじゃぁない)
技量で上の相手が勝つ。それは道理だ。しかし、道理だけで世の中が回っているわけでは決してない。
このままやれば剣鬼が勝つ可能性は高いだろう。けれど、妖忌にも確かに勝ち目が存在する。
(さぁ、て――)
先ほど、妖忌の剣が初めて剣鬼の皮膚に届いた。それはつまり、彼の剣が剣鬼の予測を上回ったということでもある。
今の自分は紛れも無い全力。これまでの研鑽の全てを出して殺しにかかっている。それは妖忌も同じだろう。
(伸び幅があった……いや、どちらかと言うとこれは意識面の変化だな)
妖忌の技の冴えを剣鬼はそう評価した。
戦いの中、相手が急速に腕を上げていく現象というのは、物語だけの話ではない。数こそ多くないが、剣鬼の戦闘経験には確かにそういった相手との戦いも存在する。
そういった者達に共通していることとして言えるのは、当人らは弛まぬ鍛錬を行い続けてきたということだ。
それまで積み上げてきた下地が、戦いの最中で結実するということは起こり得る。
「っと」
剣を持つ手を狙った斬撃を剣鬼は避けるが、その際に着流しの袖に切り込みが入る。
斬撃の速度そのものに目覚しい変化はない。ならば、攻撃が当たるようになった理由にも自ずと行き着く。
(俺の剣に合わせてきたか……)
お互い、そろそろ刃を交えて数分は経過する。互いの動きは留まることを知らず、放つ斬撃はとうに百を越えている。
ならば相手の好む型や相手の斬撃に目が慣れてくるのは当然のこと。
無論、悟らせない動きや緩急を着けた斬撃も織り交ぜているが、それでも刃を交わせば見えてくるものもある。
剣鬼が妖忌をこの上なく理解したように、妖忌も剣鬼を理解しつつあるのだ。
(終わりが近い、な……)
そして否が応でもわかってしまう。互いの戦い方がわかってきた以上、決着を着けるために勝負に出るのは自明の理である。剣士の手札が全て割れた上で続けられる勝負など、蛇足以外の何物でもない。
「ハァッ!!」
「……っ!」
気炎を上げて放たれた妖忌の斬撃が剣鬼の首元を皮一枚だけ持っていく。
今のは本当に危なかったと、剣鬼の肝が冷える。
肝が冷えると同時、確信する。妖忌が勝負に出ていることを。
次の斬撃で全てが決まる。剣士としての勘が導き出した答えに、剣鬼も全力で応えるべく刀を握る手に力がこもる。
奇しくも、両者が勝負を決めるために取った行動は同じだった。
腰をわずかに落とし、刀を構え直す。
片方の刀を前に、残った片方を脇より後ろに。前に出した刃で牽制し、後ろの刃が本命であることを隠そうともしない構え。
剣鬼もまた、だらりと下げた刀を脇の後ろに持っていく脇構えを取って、次に放つ刃が必殺であることを隠さない。
――勝負。
互いの目が全てを物語っていた。両者は同時に足を踏み出し――
――決着が着いた。
「……俺の勝ちだな、妖忌」
「……そのようで」
全てが終わり、剣鬼と妖忌は最期の対話を視線で交わしていた。
達人同士、ないし極限まで全てを振り絞った戦いの後、このように時間の流れが極端に緩やかになる現象が、両者の空間に流れていた。
「最期の一太刀、見事だった。アレをもっと早くに出せていれば、屍を晒していたのは俺だった」
「口惜しいことです。最高の一太刀を持ってしても、あなたには届かなかった」
「届いたさ」
そう話す剣鬼の胸は袈裟懸けに大きく斬られており、血が流れ出していた。
最後の交錯の瞬間、妖忌の太刀は確かに剣鬼を上回っていたのだ。
常人で見れば致命傷。しかし――半人半霊、ないし鬼であれば重傷であっても致命傷には成り得ない。
確かに妖忌は剣鬼を超えた。だが、それでも最後に勝利を掴んだのは剣鬼の方だった。
「……何かが」
「…………」
「何かが、足りなかった。あなたならば、わかるのでしょうか」
すでに決した勝負。だが、妖忌は何かを求めるような目で剣鬼を見据え続ける。これが最期になるとわかっていても、自分の足りないものが何であるのか知りたいと渇望しているのだ。
「……お前なら、俺になれた。全てを捨てて剣を求める、剣の鬼になれた」
しかし、妖忌は剣の鬼になることを由としなかった。敬愛する主のため、後を託すべき者のため、妖忌は剣士としての自分を抑え込んでいた。
悪いことだとは言わない。剣鬼のように自分の剣の高み以外、何もかもどうでも良い存在よりも余程上等だ。
だが、剣士としての比較になった場合は、剣鬼に軍配が上がってしまう。
「俺は剣鬼になった。お前はならなかった。それだけで……それが全てだ」
「……そう、ですか……」
妖忌はどこか納得したように息を吐く。
「……わかっておりました。あなたと儂では、剣士としての格が違うのだと。費やした密度が違うのだと」
「それでも、挑まずにはいられなかった。難儀な
彼には剣術以外に大切なものがあり、剣鬼には存在しなかった。それが剣術に費やす密度を変え、この場においての勝敗を決めるものとなった。
――否。
「ああ、いや、違うな。俺とお前の違いはそうじゃない」
自らの言葉を翻す。自身と妖忌。二人の間を決定的に隔てた要因は、剣術に費やした時間ではないはずだ。
「……では、何だと?」
「……剣術以外にも大事なものがあったから俺との戦いを拒み続けた。剣が半分、それらが半分だとしようか。
――お前を構成する半分を捨ててしまった時点で、俺に勝てる道理なんてなかったんだ」
魂魄妖忌が一人の剣士ではなく、白玉楼の庭師兼剣術指南役として剣鬼に挑んだのなら。敬愛する主と愛する孫娘の前で戦ったのなら――勝敗は逆になっていただろう。
「……ふ、くふふ……」
剣鬼の言葉を聞いて、妖忌は堪え切れないと言うような笑いを漏らす。
「……あなたと戦うより大事なものがあったというのに。剣と同じくらい、幽々子様と妖夢を愛していたというのに。彼女らを重荷と断じて切り捨ててしまった。――なんと滑稽な老いぼれか。切り捨てて初めて、重さは理解できるのか……」
覆水盆に返らず。そして逃した魚は大きかった。きっと、この場での勝利以上に。
しかし時が巻き戻ることはなく、ここで朽ち果てる妖忌を看取る存在も剣鬼以外にいない。
大事なものもわからず、それらを捨ててしまった愚か者の末路と妖忌は自嘲と共に受け止め、それでも最期ぐらい大事なもののために生きようと、死が訪れる時間を引き延ばそうとする。
「……最期の頼みを、聞いて頂けますかな」
「無論。大体予想はついているけどな」
「ええ、予想通りです。孫娘――妖夢の面倒を見ていただきたい」
「……剣士として、か?」
少々予想の外だった。剣士として戦ったからこそ、望むものを取りこぼして朽ちていくというのに、妖忌は孫娘にも自分と同じように生きて欲しいのだろうか。
「剣以外のことをあなたが出来る道理などありますまい」
「……っくく、その通りだ」
それはそうだ。仮に世話をしろと言われても、剣鬼に出来ることなど高が知れている。
「ならば、儂が孫娘に与えられるものは決まっております。――頂きを。儂が目指し、届かなかった頂きを、妖夢に見せてやって欲しい」
「……血縁だぞ? お前のことも包み隠さず話すことになる。年端も行かない娘が、祖父を殺した相手に対して抱く感情なんてわかりきっている」
「そちらは幽々子様に任せます。あの方ならばきっと正しい方向に導いてくれるでしょう」
いっそ清々しさすら覚える他力本願である。狂っているとしか思えない妖忌の頼み事に剣鬼も呆れた顔をしたが、すぐに愉しそうな笑みに変わる。
「……剣士として育てろっていうんなら、俺は好き勝手にやるぞ」
正気にて大望はならず。剣鬼や妖忌の立つ場所に至るには、彼らと同じだけの時間を費やすか、あるいは時間を凌駕する何かが必要になる。
剣鬼はそれを仇への憎しみという形にしようと考えていた。強い感情は人を容易く狂気へと走らせる。そして狂気は時に、思いもよらぬ結果を生み出すものだ。
「ええ、どうぞお願い致します。儂を超える剣士を是非育て上げてください」
「……わかったよ。それがお前から孫娘への贈り物なんだな」
物騒な贈り物もあったものである。剣鬼は妖忌の孫娘にほんの少しだけ同情の気持ちを覚えた。
尤も、この後その少女を復讐の鬼にする予定なのだから、剣鬼も人のことは言えない。
「――さて、言いたいことも終えました。然らば、敗者は潔く消えるとしましょう」
「ああ。だいぶ話し込んじまったしな。名残惜しいが、勝負は結末まで含めてだ」
妖忌の首に一筋の線が走る。濃縮され切った時間での対話は終わり、彼らの現実が戻ってきたのだ。
「それでは、おさらば!!」
「――じゃあな、魂魄妖忌。お前の命、確かに俺が背負った」
これで俺の剣は更なる高みに至るだろう。その言葉を最後まで言うことは出来なかった。
すでに交錯していた妖忌の肉体は崩れ落ち、首から噴水のように血を噴き出し地面を濡らす。
そしてあるべき場所にあるはずの顔はコロコロと地面を転がろうとしていたからである。
転がり始める前に剣鬼がそれに手を伸ばす。剣を交えた敵が土に汚れるのは忍びない。
自身もまた、妖忌に袈裟懸けに斬られた胸の傷から止めどない血を流しながら、妖忌の首を大事に抱えて座り込む。
「はぁっ」
さすがにここから動く気力は剣鬼にもなかった。血を吸い込んだ着流しの感触を気持ち悪く感じながらも、立ち上がることは出来ない。
「……まあ、いいだろう」
一晩、ここで明かしても死ぬことはないはず。こういう時は鬼の頑強さがありがたい。人間より幾分マシ程度でしかなくても、それが生死を分けることもあるのだ。
妖忌の遺体を埋める必要もある。剣鬼が認めた敵として、死肉を畜生共に漁らせるなんて屈辱を与えるつもりはない。
ああ、しかし。今くらいは戦いの後の心地よい疲労に身を任せても良いだろう。
それにどうせしばらくすれば紫辺りが様子を見に来るはずだ。妖忌は剣鬼に挑むことを事前に告げていたようなので、遠からずここを訪れるのは確実である。
だから紫が来るまで休もう。後のことはそれから考えれば良い。
そう考えた剣鬼は妖忌の首を抱きかかえたまま、深い深い眠りへと落ちていくのであった。
※剣鬼はこの後普通に目を覚まします。
というわけで妖忌との対決でした。前々から知り合ってはいましたが、勝負したのは比較的最近(数十年前)です。
この後、妖夢と幽々子には包み隠さず伝えたため、妖夢には当然ながら超恨まれてます。
幽々子の方は……まあ、次の話あたりで出るでしょう。多分、きっと、メイビー。
Q.剣鬼の攻撃ってゆかりんは避けられないの?
A.そもそも白兵戦の間合いでゆかりんが剣鬼に勝負を仕掛けるのが間違い。
接近戦の経験値で完全に負けている上、剣鬼の剣はスキマを斬れるのでゆかりんのアドバンテージがほぼ封殺されます。
Q.じゃあゆかりんは勝てない?
A.本気で殺す気なら八割以上勝てる。但し一、二割は逆転される可能性がある。
なのでリスクとリターンが全く釣り合っていない状態です。ぶっちゃけると殺す手間が惜しい。
出しそびれてしまった上に今後出ることもないであろうしょーもない裏設定。
誰にも呼ばれないし本人もうろ覚えだが、剣鬼には超適当に付けた苗字がある。