紫の開いたスキマをくぐると、豪奢な日本庭園付きの家屋が存在する空間に出る。
外の世界でもなく、かといって幻想郷でもなく。それ以外のどこか――例えるなら、世界と世界の合間を間借りしている空間に、八雲紫の住居は存在した。
「ここに来るのも久々だな」
剣鬼は胸から流れる血もそのままに、ずかずかと上がっていく。
スキマを斬り開くことは出来るが、操ることは出来ない剣鬼がこの家に来る方法は、紫の手を介さない不安定なスキマを作ることで彼女を呼び出すというものだった。
スキマというのは八雲紫が操るもの以外にも自然に生まれるものがあり、普段の彼女はそれを閉じて回っている……らしい。
伝聞の形を取っているのは、剣鬼があまり興味を持たなかったのでうろ覚えというだけである。
「血で汚れるからせめて拭いてから上がりなさい!」
「へいへい、わかりましたよっと」
「返事ははい!」
お前は俺の母親か、と思いながらもしぶしぶ紫の言葉に従う剣鬼。世話になる身である自覚はあったので、下手に逆らって物事をこじれさせるのは望ましくなかった。
適当に着流しの袖で血を拭い、零れない程度に取り繕う。改めて屋敷の中に入り、部屋で紫が持ってきた傷薬を塗りこんでいく。
「ずいぶん手ひどくやられたわね。レミリアの妹さん? 彼女そんなに強かった?」
剣鬼が手慣れた様子で自らの傷の手当をしていくのを眺めながら、紫が口を開く。
「強かったぜ。挑み続けられる奴って言うのは大体強くなる。生まれついて強かったらしいが、フランドールは自分が挑戦できる何かを求めていた」
「挑戦、ねえ……」
「で、戦っている最中に相手の戦い方に合わせた方が面白いと唐突に思ってな。一撃受けてみたらヤバかった」
「あなたが何も考えていないバカだって言うのはよくわかったわ」
受け方を間違えていたら屍を晒していただろう。吸血鬼の耐久で無理やり突破しようとするフランドールの戦い方に、剣鬼が合わせようと言う方が無茶だった。
紫には到底、剣鬼の考え方が理解できそうになかった。一瞬の思いつきに乗って、戦いの流れを全て放り投げるなど非合理極まりない。しかもそれで有利になるならまだしも、不利になっただけなのだ。
「褒めるな褒めるな」
「褒めてないわよ。手当が終わったなら、これからどうするのか聞いてもいいかしら」
会話しながらも傷口の治療を手際良く行っていた剣鬼は、傷薬を紫に渡しながら思案に耽る。
「ふむ……妖忌のガキの面倒も見たいし、妹紅の不死も斬っておきたい。差し当たってはこの二つかね」
風の噂に聞いた鬼の存在にも多少の興味はあったが、それだけだった。
会えば斬るけど、会わなきゃどうでも良い。大江山時代の知己である可能性が高いと知っていながら、剣鬼はさほどの興味を持っていなかった。
「鬼はいいの?」
「地底に隠れたってのは耳にしている。人間を見限った連中など興味もない。緩やかに朽ちていけばいいさ」
一度こっぴどく騙されたからと言って何するものぞ。大体、鬼は人間にそれ以上のことをし続けてきたのだ。
非道なことをしていた連中が悪辣な手段で潰されることに、どうして怒る筋合いがあるだろうか。
「鬼って同族には情が厚いと聞くし、そういった姿を見るけど、あなたはやっぱり色々と違うわね」
「別に嫌っているわけじゃねえよ。だがな、騙されて皆殺しの憂き目にあった
「程度って……」
普通、同族を騙し打ちで大勢殺されれば、誰だって怒らないだろうか。
「程度だよ。俺らがどんだけ人間の村々を壊滅させたと思ってんだ。迷惑かけず平穏に暮らしていたんなら、理不尽に嘆くのもわかるがな。好き勝手に蹂躙してた奴が逆に蹂躙されたってだけだ」
他者を害するような生き方をしているのなら、害されて死ぬのを当然と受け入れるべきだ。否、むしろそうでなくては害された者達が報われない。
どこか因果応報論じみたものであるが、剣鬼が信じている価値観はそういったものであった。
「だから鬼に関しては比較的どうでも良い。会ったら斬るけど、自発的に探そうとは思わん」
「……まあ、剣鬼基準の騒動を持ち込まれるよりはマシと考えるべきでしょうね」
弾幕を使用する異変程度なら、博麗の巫女が出張れば大体どうにか出来る。
が、剣鬼が引き起こす騒動は控えめに言って地獄の可能性が高かった。
自身の剣のためであれば、誰であろうと手にかける男。逆に言えばそれ以外に手は出さないものの、それだけである。
「目下の関心としては妖忌の孫だ。あいつがどれほど腕を上げたのか見ておきたい」
「殺さない?」
「時と場合による」
剣に生きる者同士の立ち合いである。確実な命は保証できなかった。
「つっても、俺が最後に見た時はまだまだだった。余程の経験を積んだとしてもまだ届かんだろう」
「じゃあどうして見るのよ」
「あのガキにゃ悪いが、あいつが俺に届く前に俺は死ぬ。知らないところで仇が死んでいた、なんてオチは俺も好きではない」
「伝えに行くつもり? 自分の状態から何から何まで」
「おう」
「……あの子がどう動くかわからないわよ?」
紫が心配しているのは妖忌の孫――魂魄妖夢のことである。普段は真面目な庭師兼剣術指南役見習いだが、剣鬼が絡むと人が変わったようになる。
それもそのはず――
――師を殺した相手となれば。
「それでも言わない道はない。妖忌は俺に正面からぶつかってきた。ならば俺も、あの一族に対しては正面から向かう義務がある」
「…………」
紫の脳裏によぎるのは、妖忌を殺したと伝えた時の親友――冥界の主である西行寺幽々子の顔だ。
決して卑怯な手段で殺したわけではない。むしろ立ち合いを望んだのは妖忌の側で、剣鬼はそれに応えただけ。
しかし、それでも――あの時の幽々子の顔をもう一度見たいとは、紫には思えなかった。
「……あなたが妖夢にちょっかいを出すのは止めないわ。だけど……幽々子を悲しませたら本気で殺す。あなたの尊厳も誇りも剣も、何もかも踏みにじった上で」
「…………」
紫の殺意に喜びはしなかった。ただ、静かに瞑目し、頷くだけだった。
「……ま、そうなったらそうなったで抵抗ぐらいはさせてもらうさ。とにかく、妖忌の孫の様子を見に行くのが一つ」
「他には?」
「蓬莱人を知ってるか?」
「ああ、不死の。永遠亭にでも行くつもり?」
「どこだそれ?」
紫の単語に剣鬼は眉をひそめる。全く聞き覚えのない単語の上、蓬莱人というものでそちらを連想した紫の思考に一瞬だけ疑問符が浮かぶ。
「……いや、わかった。妹紅が散々輝夜輝夜うるさかった時期があった。あいつの家の近くの竹林の奥にあるっぽいな」
「知らなかったみたいね」
「幻想郷に住んでるわけじゃないからなあ」
剣鬼が自信を持って場所を知っていると言えるのは、博麗神社と人里、妹紅の住処と冥界ぐらいのものである。ここ最近の幻想郷事情にも疎いため、大雑把な地理程度しか知らなかった。
但し、幻想郷の興りそのものには関わっていたので、地底や妖怪の山といったものがどこにあるかは把握していた。
「まあそこはどうでも良い。俺が目をつけているのは妹紅の方だ」
「蓬莱の人の形だったかしら。詳しいところは知らないけど、彼女も蓬莱人だったわね」
「おう。お前と知り合うより昔に知り合った仲でな。――いつかあいつの不死を斬ると決めていた」
ゆらり、と剣鬼の目に炎が灯る。ギラギラとした飢えを持つ炎だ。
昔は斬れなかった。今でも斬れるかどうかはわからない。
だからこそ――挑み甲斐がある。
「また色々と恨みを買いそうなところを……。確か、人里の守護者と仲がいいんじゃなかったかしら」
「おう。――で、それがどうした?」
懸念事項ではあるが、それは剣鬼が斬りたいものを斬らない理由には成り得ない。
「邪魔すんならぶっ飛ばす。場合によっては殺す。向こうも意地があるだろうから邪魔はするだろうがな。俺にも俺の意地がある」
剣鬼は妹紅の不死を斬る際に、邪魔が入ることをどこか確信している様子でもあった。
「…………可能な限り殺しはしないで。向こうは殺しに来るでしょうから確約まではしなくていいけど、人里の要になっている彼女の死は、幻想郷全体に悪影響を及ぼしかねない。あと、私は手伝わないわよ」
「ま、気をつける程度はしておいてやるよ。俺としちゃ不死が斬れればそれでいい。それとお前の手伝いは期待しちゃいない」
むしろ今、移動の足になることを了承してもらっている時点で相当に譲歩されていると、剣鬼も理解していた。
「さて……あとの思い残しは……」
剣鬼はずらずらと記憶をたどり、斬りたいものがなかったか考えていく。
(西行妖……は出来れば満開の時にもう一度斬りたかったが、無理か。天狗連中も好きにすればいいし、地底に隠れた鬼に興味はない。……なぁんか、紫は隠してる気がするが……)
あくまで気がするだけである。さも知っている風に問い詰めることも出来るが、相手は境界の賢者。口先で勝つのは難しいと判断せざるを得ない。
(天界……は詰まらんから却下。解脱したわけでもないのに遊んで暮らして五欲もないとか、戦って面白そうな要素が一つもない。他にも色々出来たかもしれんが、俺が知らん)
「ふむ……こんなところか」
新たに幻想郷に来た住民もいるだろう。しかし、思い残しをなくすために動くのが、新たな思い残しを作ってしまうようでは本末転倒のため、気にしないことにした。
「あなたの付き合いって意外と狭いわね。いえ、そもそも付き合いを持つまで至れるのが少ないのかしら」
「俺が友人を増やすタイプに見えてんのか? 眼科行った方がいいぞ」
「あいにくとあなたより目はいいわよ」
剣鬼が名前を覚えて生きている存在は多くない。更にその中で剣鬼を蛇蝎の如く嫌い、顔を見ただけで攻撃を仕掛けてきそうな者たちを除いていけば、知り合いと呼べる存在は片手で数えるほどだ。
「まあいいわ。あなたを送る場所が少ないのなら、私も楽が出来るってことだし。但し、目に余るようなら私もあなたの邪魔に回るわよ」
「善処はする。幻想郷全体を敵に回すってのもそれはそれで面白そうだが……無粋だな」
明確に斬りたいものがあるわけでもない。無差別に殺しをしたところで、剣鬼の望む剣の頂が見えるはずもなし。
「わかっているならいいわ。私があなたに協力するのは本当に最期の頼みであって、なおかつあなたが破天荒だけど、決して幻想郷の大勢に影響するような異変は起こさないって信じているから。その辺は理解しておいて」
「ん、わかってるよ」
頷き、傷の具合を確認してから瓢箪の神便鬼毒酒を飲む。血が止まりきっていない時に飲むと、毒酒なので傷が開きかねないのだ。
話が一通り終わったところで、剣鬼と紫しかいない部屋に静寂が訪れる。
このように部屋で二人だけというのは珍しく、いつもは剣鬼が酒を飲んでいるところに紫が乱入したり、おもむろに剣鬼がスキマを斬り開いて紫が慌ててそれを消しに来たり、いずれにせよ室内で顔を合わせるのは稀だった。
「…………」
「…………することないんなら出てったらどうだ?」
「剣鬼から目を離したら何するかわかったもんじゃないでしょう。大方、家探しでもして酒か何か探すつもりね?」
「……チッ」
図星だった。剣鬼は諦めて立ち上がる。
「素振りしてくる。邪魔したら殺す」
「近づいただけで切傷が出来るような空間を素振りとは言いませんわ」
「やっかまし。俺が素振りって言えば素振りなんだよ」
襖を開けて部屋を出て行く――前に、首だけ部屋に戻して紫に声をかける。
「あ、そうだ。お前、俺のことを八雲紫の懐刀って吹聴するのやめろ」
「私は言ってないわよ?」
「どうせ否定もしてないだろ。次からは明確に否定しとけ。違うっつってんのに信じてもらえねえんだよ」
大方、あなたみたいなちっぽけな妖力しかない妖怪が、八雲紫の懐刀を名乗るのがおこがましいという誤解をされているのだろう。
紫の下僕でもなんでもない剣鬼としては不本意極まりない評価だ。
「別にいいじゃない。明確なデメリットがあるわけでもないし、私の方は否定しないだけで向こうがなんか勝手に深読みしてくれて笑いが止まらないし」
「お前……」
それなり以上に生きている妖怪に対して、剣鬼という名は一定の意味を持つ。
己の剣術を磨き続けること以外に興味を示さず、その剣術一つで並み居る大妖怪や、時には神ですら斬って捨てた逸話を持ち、彼に名前を覚えてもらって命を留め続けている妖怪は極めて少ない。
あまり大々的に活動していないのも一因だろう。そんな中で、紫だけは唯一剣鬼の動向をある程度知ることが出来た。
なのでそれとなく匂わせるだけで、相手は紫が剣鬼を操作できる存在だと思ってしまうのだ。
「……俺の名前にそんな効果があるのが未だに信じられんが、もういい。好きにしろ。どうせ一年もすりゃ使えなくなる」
「あら、あなたの動きを知っている存在って少ないのよ? あなたが死んでからも有効に使わせてもらうわ」
「……そうかい」
死後にまで名前が独り歩きすることに思うところがないわけでもないが、そんなことより今は素振りの方が重要だった。
剣鬼は今度こそ外に出て素振りをしようと考え――また頭だけを部屋に戻す。
「……なに? まだ何かあるの?」
さすがに紫もうんざりした表情だ。一度に尋ねず、何度も聞いてくれば誰だって疲れるだろう。
「夕飯は肉で頼む。血を作りたい」
「私が作るわけないでしょ! 適当にその辺の草でも食べてなさい!!」
返事は座布団だった。
庭に佇み、剣鬼は剣を抜いて意識を集中させる。
深く、深く、深く――剣の重さすら忘れるほどに意識を鋭く、一つの目的へと収束させていく。
――斬る。
極限まで先鋭化された意識に従い、剣を振るう。
必要なのは数ではない。たった一太刀、全てを斬り裂くものに至れればそれで良い。
剣の頂を求めた旅路の最果てに斬るものとして、剣鬼は不死を斬ることを選んだ。
元より最強を目指したわけではない。ただ、自分が納得行くまで剣術を磨きたかっただけなのだ。
時間はもう殆ど残されていない。フランドールとの戦闘で負った傷や、現時点での肉体の衰え。
それらを加味して考えると、恐らく外の世界に戻った時点で、剣鬼は動くことすら満足にできなくなるだろう。身動き一つ取れず、ただ消滅するのを待つだけの終わりが剣鬼のすぐそばまで迫っていた。
思考に埋没する意識とは裏腹に、振るう刃は風斬り音もなく閃く。剣鬼の足が玉砂利を弾く音以外、完全な静寂が剣によって作られていた。
速度自体はフランドールとの戦いで見せたものより遥かに劣るが、その代わり一太刀に乗せる集中と気迫は比ではない。
見るものが見れば跪いて教えを請う。それほどまでに美しく洗練された一太刀だった。
修練に修練を重ね、数多の戦いを経て、背負い続けた業が生み出したもの。
普段の態度や言動からは想像もつかないほど、太刀筋は愚直で誠実。一欠片の邪気も混ざらぬそれに、物言わぬ空間も軋みを上げていく。
「…………」
視界にはすでに何も映していない。ただ刃の声に従って剣を振るい続け、やがて剣圧に呑まれたのか空間にヒビが入り――
「そこまで」
「……っ」
横合いから飛んできた声に意識が呼び戻され、眼前に広がっていたヒビも消えて何もない空間に戻る。
振り返ると、紫が呆れと敬意を等分に混ぜた表情で剣鬼を見据えていた。
「全く、空間にスキマという切れ込みを入れずに壊そうなんて、私の家ごと破壊するつもりかしら」
「あ? そんなことになってたのか?」
剣を振るのに夢中で気づいていなかった。あのまま振るっていたらスキマとは別種の空間の裂け目が出来てしまい、面倒なことになっていただろう。
「なってたのよ。もう五時間は無心に剣を振ってたわ」
「ふむ……意外と短かったな」
意識を集中させている間にそれほどの時間が流れていたようだったが、剣鬼は特に驚いた様子もない。
山ごもりをして俗世との関わりを断っていた時など、気づいたら一月以上素振りをしていたこともあったほどだ。
「ご飯ができてるから、さっさと食べて水でも浴びて休みなさいな」
「……なんだ、妙に優しいじゃねえか」
メシまで作ってもらえるとは思っていなかった、というのが剣鬼の正直な感想である。
紫はそれに肩をすくめ、皮肉げに笑う。
「あなたの剣だけは高く評価しているのよ。一から十まで見たのは久しぶりだけど、相変わらず見事としか言いようがないわね」
鍛え鍛えて鍛え抜き、数多の時間と無数の屍を積み上げることで作り上げた、たった一つの刃には心に迫るような美しさがある。
それは紫が普段見ている弾幕とは別種の美しさを持っていた。
「見せ物にするのは好きじゃないが……ま、あんな場所で素振りしていて言えるセリフじゃないか。ここはお言葉に甘えさせてもらうか」
剣鬼は刀を収め、屋敷の中に戻っていく。
途中、紫とすれ違いざまに言葉を交わす。
「――あなたの求めた剣、見届けさせてもらうわよ」
「――ああ、俺の研鑽の終わりを見るがいいさ」
原作キャラの死亡(原作にグラフィックがあるキャラとは言ってない)
というわけで妖忌さんはすでに帰らぬ人になっています。次の話辺りで閑話を差し込んでその辺のお話もしようかと。
あとはお話ですが、剣鬼が言った通り妖夢と妹紅が話の中心になります。妹紅のお話が終わったら、多分このお話も終わります。
ゆかりんは剣鬼の剣術だけは非常に高く評価しています。他の評価は頭の回転以外ほぼすべて最底辺ぶっちぎってますが、剣鬼の剣術が見られれば彼にかけられる迷惑も度が過ぎない限り、まあいいかと思ってしまうくらいには高評価です。
ぶっちゃけダメンズウォーカー(ry