剣鬼の歩く幻想郷   作:右に倣え

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あえて名前を出さないテスト(特に意味は無い……かもしれない)


思わぬ拾い物を連れて

 走る、走る、走る。

 青年は山の中を走っていた。

 木の根に足をもつれさせ、人の手が入っていない凹凸の激しい勾配に何度も倒れ、それでも青年は必死に起き上がって走り続けていた。

 

「はっ、はっ、はっ……!!」

 

 足を止めたら死ぬ。生命の危機という、本能的な恐怖が青年に傷の痛みを覚えさせない。

 すでにズボンの膝は破れ、血が点々と地面に跡をつける程に流れているが、青年はそれに気付いた素振りすら見せなかった。

 

 青年の脳裏を占める感情は恐怖のみ。言語化することなど到底不可能な、それでも強引に言葉にするならば、死の恐怖、闇の恐怖、未知なるものへの恐怖、などといったものがグチャグチャに絡み合い、青年の思考を一色に染め上げる。

 どうしてこんなことに、という状況に対する疑問すら浮かばない。

 

 ――否、そんな余計なものは後で考えれば良い。

 

 青年は走り続ける。急速に進み始めた自らの命の砂時計を、少しでも遅らせるために。

 

「ぅあっ!!?」

 

 しかし、終わりは呆気なかった。

 木の根に足を取られ、再び転んだ時だ。無我夢中で起きようとすると、足首に無視できない激痛が走る。

 

「っ! なに……?」

 

 今の今まで痛みなんて感じていなかった青年だが、それは脳が痛みの情報を取り去っていたこと以外に、青年自身が己の足の状態を気にしようとしなかった、という理由も挙げられる。

 人間というのは視覚に頼る情報が思いの外大きな要素を占めており、痛みがあったとしても、そこに目を向けなければ軽傷であると判断してしまうことも多い。

 痛みというのは血が出る、肉がのぞく、などといった目に見えてわかる変化がなければ、意外と鈍感になってしまうのが人間なのである。

 

 だが――それは言い換えれば、ちゃんと認識してしまえば、人間というのはその痛みを無視できなくなるということにも繋がるのだ。

 

「ぁっ!? ひっ……!?」

 

 月明かりすら満足にないため色彩の変化はわからないが、自身の膝の肉が抉れて見えるほど擦り減っており、膝から下のズボンが何か水を吸ったように重たくなっていた。

 明かりがなかったことを青年は心のどこかで感謝する。もしも満足な明かりがあったなら、膝の肉が露出し、そこから流れ出る血がズボンを紅く染めている光景を嫌でも見なければならなかっただろう。

 

「ぃ、たい……!!」

 

 膝の下側、すねに近い部分を両手で抱えてうずくまる。一度認識してしまうと、青年の足の痛みは爆発するように燃え上がり、じくじくと青年の精神を苛む。

 もはや立ち上がることすら出来ない。ここまで走り続けてきた青年だが、終点はここのようだ。

 

 痛みに悶え続けることしばし、青年の耳に軽く連続する足音――まるで獣のような――が届いてくる。

 

「……っ!」

 

 その瞬間だけ青年は痛みを忘れ、息を呑む。そして同時に、今まで自分が逃げていた存在のことを思い出す。

 逃げなくては、という思考が脳を焦がすが、足はすでに使い物にならなくなっていた。

 つまるところ――詰みである。

 

 それが理解できてしまった瞬間、青年の思考は諦観に満たされる。走り続けてきた疲労と傷の痛みが、青年から抵抗する気力をも奪い去っていた。

 

「ああ――」

 

 平坦な声で小さく諦めの吐息を漏らす。思い出されるのはどうしてこんな状況になってしまったのか、という走馬灯にも似た回顧録。

 ごく近い時間、今日の行動を青年は振り返っていく。

 

 

 

 青年は大学生と呼ばれる身分であり、その中でサークルなどには所属せず、自分の趣味と学生の本分たる学問にまい進する、今どきの大学生らしからぬ内向的な生活を送っていた。

 大学に行く理由は講義の単位を落とさないことと、自分が興味を持ったことへの研究を深めるための図書館という二つだけ。

 と、学生生活こそそのような、ある種自分だけで完結したものであったが、それは決して青年自身が内向的なインドア派であることとは直結しない。

 

 趣味は登山だった。高い山に登り、頂上から景色を見下ろす瞬間のなんとも言えない爽快感と達成感。この快感を幼少の頃の遠足で覚え、やがてそれは生き甲斐と呼んでも過言ではないものになっていた。

 登山系のサークルに入ることも入学当初は考えたが、青年は自分一人でペースを決めて登るのが好きだったため、自分の中で却下した。その辺りはマイペースであったとも言える。

 

 だから今回も――何の変哲もない登山に始まり、心地良い疲労感と大きな達成感を抱えて帰路につく予定だったのに。

 

 

 

 回想はそこで終わる。

 帰路につき始めてすぐ、青年は見慣れない山道に出た。最初はどこかで道を間違えたのかと思い、引き返して道の分かる場所まで戻ろうとした。

 

 そして――異形の存在と出会った。

 

 口が縦に裂け、地面から平行に牙を生やす、犬に見えなくもない獣らしきもの。

 瞳もなく、鼻もあるかわからないそれに出くわした時、青年は踵を返して走り出した。

 

 登山に慣れていた――山は危険が多いというのを青年は実体験から学んでおり、山の中で自分だけが安全などということは在り得ないのだと、青年は理解していた。

 故に判断は早く、行動も早かった。そしてその判断が、青年が異形に追いつかれることなく、走り続けることを可能にした。

 

 しかし――それだけだった。

 

「ぁ、あ……」

 

 絶望、諦観、無念。異形の獣が再び視界に現れた時の、青年の心はこういったもので満たされていた。

 ああ、自分はこれに食われて死ぬのだろう、という至極当然の未来が明確に予想されるが、それに抗う気力などもはや残っていなかった。

 危険が自分に降りかかることを想定していなかったわけではない。山に入って亡くなった人の話は多く、下手を打たなくても簡単に人間は死んでしまうのだと理解していたつもりだった。

 だが、それは山の自然という、一個人には手も足も出ない大いなるものの手によって命を奪われることを考えていたのであり、このような得体の知れない異形に食われて死ぬ未来を予測していたわけではない。

 

「…………」

 

 もはや満足に呼吸出来る回数も残り何回か。青年は死を受け入れたわけではないが、それでも諦観に満たされた心のまま、大きく息を吐いて、吸う。

 深呼吸をして、脳に酸素が行き渡る。幾分落ち着きを取り戻し、青年は自身に飛びかかるタイミングを図っている異形に首を晒す。

 

「……来るなら、一息で終わらせてくれ」

 

 どうせ死ぬのなら、せめて苦しみが長引かない死に方が良い。そう考えての行動だった。

 その意図を読み取ったのか、異形が飛びかかろうとして――

 

 

「はいストーップ」

 

 

 横合いから飛び出てきた何者かによって、異形が蹴り飛ばされる。

 

「は……?」

 

 いきなり起こった事態に頭が追いつかない。青年は確かに、一秒先の死を受け入れるべく目を閉じていたというのに、脳に届いてきた情報は牙が肉に食い込む痛みではなく、気の抜けたような男性の声だったのだ。

 

「あーあーあーあー……。何でこんな辺鄙な場所、しかも夜に人の気配がすると思ったら……難儀なもんだ」

 

 青年の耳に届く声はやや低めだが張りのある――若い成人男性ぐらいのそれだった。

 と、その時だった。風が木々を揺らし、一瞬だけ地面に月明かりが届く。それが青年の目の前に立つ男性の姿をほんの僅か、しかしハッキリと映し出す。

 

 編み笠を頭にかぶり、それが影となって顔の造形までは把握できないが、和服――恐らく着流しのようなものを着て、長い棒状で反りのあるものを腰に差し、その隣に瓢箪のようなものをぶら下げていることがわかった。

 

(侍……?)

 

 腰に差してあるものが刀であるというのはわかったが、なぜこのような出で立ちの男性がこんな山奥にいるのか。青年の心は疑問に満ちる。

 が、それも一瞬。今は降って湧いた幸運により、諦めかけていた命がなんとかなるかもしれないという、生存欲求が口を突き動かす。

 

「た、助け……っ!!」

 

 口はこれまでの逃走劇で乾ききっており、喉を裂くような痛みに耐えてもまともに言葉になったのは、それだけだった。

 

「わかってるよ。人間は襲わないって決めてるからな」

「え……?」

 

 安心すれば良いのか、はたまたこの男性の言葉に含まれる疑念を追及すべきなのか。青年は逡巡するが、そのような暇は与えられなかった。

 

「グルル……」

 

 獣が新たな闖入者である男性を睨み、威嚇するような声を上げる。

 男性はその様子を見て、逃げる気はないと判断したのか、舌打ちをした。

 

「チッ、これだから木っ端妖怪は……。名前も理性もない、ただ人がそんな獣がいたら怖い、程度の軽い思念から生み出された、ただの獣か」

 

 男性は獣と向き合うと、威風堂々といった体で仁王立ちする。

 

「――失せろ。逃げるんなら追わねえ」

 

 重圧。空気が悲鳴を上げ、木々のざわめきが狂ったようにかき鳴らされる。止まり木で休んでいたであろう鳥が一斉に逃げ出し、羽が一枚地面に落ちる。

 怖い。青年は口から取り入れる空気がこれほど重く、粘つくように感じたことはなかった。

 

 生物ならば殆どの存在が恐怖し、逃げ惑うような威圧。その主が男性であることを、青年は消去法で導き出す。痛みすら忘れ、喉が微かに痙攣してようやく、自分が呼吸すら忘れていたことを思い出す。

 

「……ゲッ!? げほっ、げほっ!」

「ん、ああ、悪い悪い。お前の方にも余波が届いちまってたか。未熟未熟……」

 

 男性が己を戒めるような言葉とともに、青年を取り巻いていた空気の重さが嘘のように霧散する。

 重圧を引っ込めたのかと思ったが、未だ周囲の空間は軋みを上げて、狂乱状態に陥ったように木々の葉擦れがうるさく鳴り響いていた。

 つまり――この男性は自分だけを器用にその威圧の空間から取り除いたのだ。

 

 どうなっているのか。そもそもあの重圧は何なのか。疑問は尽きないが、それを口に出す体力は残っていない。

 激しい運動と先程までの威圧で呼吸できなかったせいか、心臓が狂ったように飛び跳ねているのだ。荒く浅い呼吸をする以外、何も出来ない。

 

「さて、通れば御の字だったが……どうにもダメか。本能も理性もない。ただただ与えられた役割に従うだけの絡繰仕掛け。その癖一丁前に人を襲うんだからタチが悪い」

 

 見下すような、あるいは憐れむような言葉。異形の存在はその言葉が己を侮辱していると理解したのか、唸り声と共に地面を蹴る。

 

「ガアァッ!!」

 

 速い。男性に飛びかかろうとする異形を横から眺める青年には、一瞬で黒い弾丸が男性の喉元に迫っているようにしか見えない。途中の加速も出足も全くわからなかった。

 

(獣ってこんなに速いのか!?)

 

 TV番組などで見ているものとはまるで違う。男性はそれに反応すら出来ずに――

 

「――欠伸が出る」

「っ!!」

 

 喉笛が食い千切られる光景を幻視した青年は目を閉じる。

 だが、聞こえたのは喉笛から血が噴き出る音ではなく、男性の焦りも何もない、先程から聞いている平坦な声だった。

 

 恐る恐る青年が目を開くと、異形は男性の後ろに着地していた。

 正面から飛びかかったのだから、着地する先は男性の後ろで間違っていないのだが、その牙に咥えられているべき、男性の首はなかった。

 

「避け……?」

「そんな必要ねえよ」

 

 青年が思わず呟いた言葉にも律儀に反応した男性は、まるで異形の存在を忘れたように、青年に近寄って手を差し伸べてくる。

 

「ほら、立てる……のは無理か。ふむ……怪我の感じからして、ある程度無視して走ったか。火事場の馬鹿力ってやつかねえ。人間の底力は凄まじい」

 

 手を差し伸べようとして、男性はどういう理屈か青年の怪我の状態に気付き、明かりも何もない状態で怪我の診断を始めていた。

 

「あ、あの! さっきのは……」

「ああ、安心しろ。――もう死んでる」

 

 え、と青年は男性がしゃがみ込んで色々としているのを横目に、異形の方へ目を向ける。

 

 そこには、綺麗に唐竹割りに両断されている異形の死体があった。

 

「えっ?」

 

 思わず呆けた声が出てしまう。それは異形の死骸から臓物も血も何も流れていないことではなく、先ほどは確かに立っていたはずの異形が、いつどのように今のような姿になったのか、一切理解が出来なかった。

 そんな青年の困惑など一切気にせず、男性は青年の傷に処置を施していた。

 

「こりゃ下手に歩かせると悪化するな……。適当に添え木で足首だけ固めて運ぶか。おい」

「え、あ、は、はい!」

「ハンカチか何か、足首の固定に使えそうな布はないか。ないなら悪いが人里まで処置は出来ねえ」

「ぽ、ポケットに入ってます」

 

 青年がおずおずと差し出したハンカチを受け取ると、男性は手早く足首を固めていく。

 

「痛っ!」

「我慢しろ。すぐだ」

 

 骨に響く痛みに青年が声を上げるが、男性の手は緩むことなく淡々と処置を施していき、物の一分もかからず処置は終了する。

 

「さて……その足じゃ歩けんだろうし、俺が背負って人里まで案内してやる」

 

 男性はその言葉を言うやいなや、青年の手を引っ張って身体を起こし、あっという間に背中に乗せて歩き出してしまう。

 

「あ、あの、悪いですよ!?」

「歩けねえだろうが。片足だけなら杖持たせるのも考えたがな。その怪我じゃ難しいだろ」

「…………」

 

 押し黙るしかなかった。男性の言うことは一々正しく、そして有無を言わせない勢いがあった。

 有無を言わせず、対応そのものはどこか事務的。自分を助けたのも正義感から助けたわけでない、というのは青年にも察することが出来た。

 だが、それでも言動や行動の端々に気遣いというか、敬意のようなものが見受けられるのは確かだった。

 

「え、っと……。人がいる場所を知ってるんですか?」

 

 青年は男性の背中からおずおずと声をかける。男性は特に気分を害した様子もなく、それに答えた。

 

「ああ。こっからならそんなに時間もかからん。どこから来たのかは知らんが、お前さんは結構頑張ってたよ」

「あ、有り難うございます……?」

「何だそりゃ。……っと、そうだ。お前さん、服装から見るに登山者だろ?」

 

 青年の戸惑うような感謝の言葉に笑いながら、男性はそんな言葉をかけてくる。

 

「あ、はい。そうですね」

「だったら荷物は諦めろ。さすがにそこまで戻るのは面倒だ」

「わかってます。山で遭難したら荷物は諦めるものですから」

「ん、なら良し。人里に着いたらお前さんの疑問もある程度答えてやるから」

 

 見抜かれていた。青年が男性の背中で身体を緊張から固くさせると、前を見ていた男性の口元から軽い笑いが漏れる。

 

「別に怒っちゃいねえさ。落ち着いたら自分の置かれている状況に疑問が出るってのは当然のことだ。疑問を否定して、探求を諦めちまったら人間の進歩はそこで止まっちまう」

「えっと……」

 

 男性の言葉はどこか青年に向けられていないように感じられる。まるで青年を通して、もっと大きなものに目を向けているような錯覚だ。

 

 男性の言葉に違和感を覚え、深く追求しようと青年が思った途端、急激な眠気が襲いかかる。

 朝の登山から先ほどまでの逃走劇。そして命の危険に陥り、同日に救われる。

 肉体、精神双方に多大な負担を受け続けてきた。そしてトドメに男性の背中という、人肌を感じることの出来る場所にあって、青年の意識は急速に閉ざされる。

 

「ぁ……」

「ん、寝たか」

 

 眠気に抗う発想が浮かぶ間もなく意識を落とし、重みが増した青年の身体を背負い直し、男性は歩を進めていく。

 

「あのババア、今回のが事故じゃなかったら叩っ斬るか」

 

 誰にでもなくそうつぶやき、それっきり男性は無言になって、黙々と人里の方角へ歩き続けていった。

 

 青年の目が覚め、民家にいることを知るまであと二時間ほど。




※青年は別に主人公じゃありません。主人公は男性の方です。
あと原作キャラは次の話からです。

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