やはり雪ノ下雪乃にはかなわない   作:黒猫withかずさ派

5 / 6
愛の悲しみ編 2

「まあな。・・・でもな。昴に詳しい事情を話さなかった理由があるんだよ」

 

 雪乃は言葉には出さないが、「そうかしら? ほんとうにまともな事情があるのなら言ってみなさい」と、目力一杯に俺に語りかけてくる。

 

「今朝は由比ヶ浜がいたからな。だから話せなかったんだ」

 

「そう・・・」

 

 雪乃の肩から力は抜け落ち、いまは優しい面持ちさえ浮かべていた。俺も雪乃が今何を思っているかを想像出来る分、俺の方も強張った体の力が消えていった。

 

「そう、そうね。由比ヶ浜さんには話さないほうがいいわね」

 

「だろ?」

 

「変に揶揄ってしまってごめんなさい」

 

 しおらしく謝る雪乃に俺はデレそうになり、その感情を押しとどめながらテーブルの下にある雪乃の手をそっと握りしめた。

 

「俺の普段の行いが悪いせいだから気にするな」

 

 雪乃が小さく笑みをこぼし、俺のそれにつられそうになる。

 しかし、この甘ったるい雰囲気はそう長くは続かなかった。そりゃそうさ。なにせ一メートルも離れていない目の前に観客がいれば、素人演者でもある俺達は照れずに演じることなんてできやしない。それに、俺達には人に見せつける偏った嗜好なんてもってやいない。

 

「えっと・・・、話を戻してもいいかな?」

 

 昴が申し訳なさそうに声をかけてくる。その声を聞いた雪乃は肩を震わせ顔を真っ赤に染め上げる。動揺しきったその顔に、昴も夕さんも優しい瞳を向ける。ただ、雪乃にとっては逆効果っていうか、全く慰めにもならず、ただただ体を縮こませていた。唯一冷静だった部分があったとしたら、それはテーブルの下で俺と手と繋がれた手のみだろうか。

 

「あぁ、すまんな。由比ヶ浜のことだったな」

 

「うん。どうして由比ヶ浜さんの前では話せなかったの? この前の小テストも悪い点数にはならないと思っていたけど」

 

「そうだろうな。由比ヶ浜の答案用紙を橘教授に見せてもらったけど、よくできていたよ。文章の構成がおかしい部分もあったけど、内容は悪くはない。評価はAマイナスだったしな」

 

 俺の説明に昴は眉をひそめる。その反応は当然か。なにせ今朝の話では、由比ヶ浜の答案は見せてもらってないどころか話にさえ上がっていないと話したのだから。

 

「どういうこと?」

 

「そうだな。昴には話しても大丈夫だし、話すとするか。でも、由比ヶ浜には話すなよ」

 

「それは構わないけど」

 

「夕さんもお願いしますね」」

 

「ええ、大丈夫ですよ」

 

 俺は雪乃に一つ視線をおくると、今朝の出来事を語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 静寂、この一言に尽きる廊下に足音が三つこだまする。朝日が射しこむ廊下は既に暑苦しく、全開まで開けられた窓から時折入ってくる風が待ち遠しいほどで蒸し暑かった。

 先ほどまで登校してくる学生たちのうるさいほどの話声が風にのって聞こえてくるのが、今では微笑ましき光景とさえ思えてくるのは、俺達が今いる場所が教授たちが巣くうエリアだからだろう。

 たった一階階層が違うだけなのに、どうしてここまで緊張してしまうんだろうか。

 別に初めて教授の研究室に行くっていうわけではない。橘教授の研究室には行った事はないが、ほかの教授に用があってこの階にも何度も脚を運んでいるし、その時は全くといって緊張はしていない。

 むしろ用がある張本人たる由比ヶ浜の方が緊張していたほどだ。

 となると、今回用がある張本人たる存在が俺だからこそ背中から嫌な汗が流れ出て、シャツが背中にへばりつくという嫌な経験をしているのだろう。

 由比ヶ浜。あんときは背中押して、とっとと部屋に入れってせっついて悪かった。

 今なら俺はお前と同じ気持ちを共有できる自信がある。げんに教授の部屋の前に来ているのにドアにノックできないでいる。

 

「どうしたの八幡? 入らないのかしら? 橘教授の部屋はここであっているはずよ」

 

 雪乃はドアに張り付けてあるネームプレートを再確認し、わざわざ俺に部屋に入るように促してくる。

 わかっている。雪乃は悪くはない。

 雪乃はあの時の俺と同じであって、俺が由比ヶ浜に仕出かした無神経な行動を、翻訳すると余計なおせっかいをしてしまっているだけにすぎない。

 いや、雪乃の事を悪く言うつもりもこれっぽちもないが……。

 雪乃になんて言葉を返したものか思い悩みながら雪乃の不審がる瞳に四苦八苦していると、俺の手はまだノックしていないはずなのに二度硬質のドアを叩く音が鳴る。

 俺と雪乃は自然と音が発生したほうへ首を回す。

 すると、陽乃さんが部屋の中からの返事を聞く前にドアノブを回して室内へ入ろうとしていた。

 

「ちょっと待ってください陽乃さ…………」

 

「じん~、いる? あ、鍵あいてるからいるよね?」

 

 友達の部屋に来たって感じで陽乃さんが部屋の中に向けて声をかける。

 俺の制止など気にもせずに中へと足を進めていってしまう。雪乃は陽乃さんの行動を咎めはしなかった。もしかしたらあの姉だから、というどうしよもない諦めを交えた結論で納得しているのだろうか。

 となれば、俺だけ廊下で突っ立っているわけにもいかず、重い足を引きずって俺も室内へ入っていった。

 

「どうぞ~」

 

 いまさらだが部屋の中にいた人物から間延びした入室の許可が聞こえてくる。

 そして目の前には、あろうことか芸者がいた。

 いや、まじで。

 正確に言うのならば、Tシャツにプリントされた芸者だけど、この部屋に似つかわしくないレベルでは同等だろう。

 人間理解の範ちゅうを超えてしまうと、どうしようもない事を考えて現実逃避をしてしまう。

 俺がこの部屋に入って最初に考えて事は、この芸者Tシャツってどこで買ったんだろうかってことだ。浅草とか行けば海外からの観光客相手に売ってそうなきもしたが、いかんせまったく興味がないシャツであるわけで、どこで売っているのか知っているわけもない。

 そうなると興味はすぐに他にうつり、部屋の中そのものに意識を向けることとなる。

 部屋の作りはいたって平凡で、椅子の数より机の数が多いのは、いくつかの机を組み合わせて利用しているようだ。

 ほかの研究室と同じように本棚には本やファイルがぎっしり並べられ、机の上にも参考資料などが山となって積み上げられている。ただ、本棚もそうだが、その山のようにある資料であっても、綺麗に並べそろえられているところから、この部屋の主は几帳面なのだろうと推測出来る。

 たしかに普段の講義ときの服装もその片鱗が伺えた。

 夏であっても濃紺のスーツをびしっと着こなし、髪型は七三で綺麗にとかし、しかも黒ぶち眼鏡さえもかけていた。

 よく海外の日本人サラリーマンのイメージを思い浮かばせれば出てくるような典型的な日本人サラリーマン姿に、最初の講義の時はめんどくさそうな教授だと警戒したものだ。

 実際授業ラストに毎回小テストなんてぶちまける面倒な教授であったから、俺の目に狂いはなかったともいえる。まあ、他の連中も似たような感想を持っていたはずだがら、俺の目が特別だというわけではなかったようだ。

 さて、そんなくそまじめな教授が使っている部屋であるはずなのに、何故芸者のプリントされたTシャツなんか着ているおっさんなんかがいるのだろうか? 

 どうやら雪乃も同意見らしく、俺の方に不安そうな視線を送ってきている。でも、俺も訳がわからないわけで、首を振って返事をするしかなかった。

 とりあえず現状を確認しないと話はすすめられない。

 このおっさんが教授の秘書かなんかかもしれないし、もしかしらた掃除のおっさんかもしれない。まあ、秘書は堅物そうにみえる教授がこんなおっさんを雇うとは思えないので、とりあえずその選択肢は消去してもよさそうだ。

 目の前にいるおっさんの特徴といえば、芸者Tシャツが際立って目立ってはいるが、ほかに着ているものが独特なTシャツと混じり合ってアンバランスな真面目さをにじませている。

 下から見ていくと黒の皮靴に濃紺のスラックス。Tシャツはおいておいて、髪型はぼさぼさ。メガネはかけてはいないが軽薄そうな瞳が印象的で、売れない役者かなんかを彷彿させた。背は185くらいはありそうで、その甘いルックスからして意外ともてるんじゃないかって思えたりもした。

 …………もてそうな気もしたが、なんだがヒモが似合いそうな気がしてしまう。そう思うとヒモが天職って気がしてしまい自然と笑みがこぼれ出そうになる。

 俺もちょっと前までは主夫志望だったわけで、ヒモではないが、当時の俺がこの人物を見たら通じつものを感じ取っていたのかもしれない。

 そう、先輩って……。だから俺は引きつりそうな口を隠そうと筋肉を強張らせる。すると俺は自分がいる場所を再認識してしまい、現実に引き戻された。

 陽乃さんは勝手に部屋に入って行ったというのに、俺がきょどっているのを見てニヤついているだけで、先ほどの挨拶以降は沈黙を保っている。

 雪乃はというと、状況が判断できずに様子見といったところだ。で、芸者のおっさんは俺をこのを見てはいるが、俺の方が用件を言うのを待っている様子であった。

 だもんだから、事情が全く分からない俺が必然的に会話を主導しなければならなわけで、ちぐはぐな言葉を紡ぐのがやっとであった。

 

「あの……、橘教授は不在でしょうか?」

 

「ん?」

 

 おっさんは面白そうに俺を見ると口の口角を引きあげ返事をする。

 別に俺の質問がおかしいってわけでもないだろう。橘教授が「不在ならば」適切な質問であるし、教授の部屋にいる人物に教授の居所を聞くのが当然の流れである。

 訳がわからず陽乃さんを見ると、やはりニヤついたままで要領を得ない。

 ただ一方で、おっさんの方も陽乃さんの方に謎の視線を送り、このおっさんの方には陽乃さんはけっして関わりたくもないような意地が悪い笑みを送り返していた。

 

「あの、橘教授はいつごろ戻るでしょうか?」

 

「ああ、ごめん。その辺の椅子に適当に座って構わないよ」

 

 外見通りの陽気でちょっとだけ低い声が返ってきた。俺は座るべきか判断に迷ってしまう。座ってろってことはすぐにでも教授は帰ってくるのだろう。

 だけど、どうもこのおっさんは胡散臭い。見た目で判断するなとはよく言ったものだが、このおっさんに関しては見た目で判断せざるを得ない。

 得体のしれない人を引き付ける存在感が俺を警戒させた。

 なんて俺がまたもや思案に暮れていると、陽乃さんは当然座ると思っていたが、雪乃も椅子に座り、俺の為に雪乃の隣に一席用意してくれていた。

 

「どうしたの八幡? 座らないのかしら?」

 

 雪乃は小首を傾げながら俺を見上げて聞いてきた。もはや何も疑問がないといった表情が俺をさらに困惑させる。

 

「いや、その……」

 

「まだわかっていないのかしら? 姉さんに担がれたのよ」

 

「は?」

 

「だから、あなたの目の前にいる人物こそが橘教授なのよ。ですよね? 橘仁教授」

 

「えっ? この人が橘仁……教授?」

 

 俺は橘教授だと言われている人物を凝視してしまう。

 目は悪くはない方だと思うが、何度見直しても俺が講義の時に見ているあの橘教授だとは思えない。

 橘教授といったら濃紺スーツに黒ぶち眼鏡。それに七三にきっちりとわけられたいかにもっていう日本人サラリーマンだぞ。それがこの軽薄そうな芸者のおっさん? はぁ?

 俺は急いで陽乃さんを見るが、先ほど以上にニヤついていて、もはや笑いが止まらないといった感じでさえある。

 これは触らないほうがいいと即断した俺は、当の本人たる橘教授に視線を向かわせた。すると教授はすまなそうな顔をして頬を指でかいている。ただそれでも笑い成分が四十パーセントくらいは含まれてはいたが。

 

「僕が橘仁教授であってるよ」

 

「初めまして雪ノ下雪乃です。姉とは面識があるようですね」

 

「まあね。初めまして雪乃君。悪いけど名前で呼ばせてもらうよ。雪ノ下が二人もいたらややこしいからね」

 

「はい、かまいません」

 

「うん、ありがと。陽乃君には色々とお世話になっているんだよ」

 

「そうですか。ご迷惑をかけていなければいいのですが。それで今日比企谷が来る事も知っていたのですか?」

 

「いや、弥生昴君に頼んではいたけど、こんなに早く来てくれるとは思ってはいなかったよ。ようこそ比企谷君。君と話がしてみたかったんだけど、驚かせてしまってすまないね」

 

 軽薄そうな外見に似つかわしくなく、本当にすまなそうにこうべを下げてくる。

 俺の方もそれにつられて頭を下げてしまったのは、この人が悪い事をしたわけではないと本能が判断したからだろう。

 だって、俺をひっかきまわそうとした人物なら、さっきから俺たちの挨拶をよそに盛大に笑い転げていたのだから。

 

「いえ、こちらこそ失礼な態度を取ってしまい済みませんでした」

 

「陽乃君の様子からして何かしら仕掛けてきた事はわかってはいたんだけど、僕が途中で横槍を入れると後で僕の方に甚大な被害がでてしまうんでね。すまないけどちょっとばかし静観させてもらったよ」

 

「そんなことは……」

 

 その理由を言われては、俺の方も自動的に納得せざるを得ない。

 いまだに笑いを収めうようとはしない陽乃さんに睨まれる事だけはけっしてしたくはないものだ。

 

「でも、雪乃君はすぐに気がついたみたいだけどね」

 

「えぇ、姉がこの部屋に入るときに「じん」と言っていましたので」

 

「ああ、なるほどね」

 

「それにドアのプレートにも「橘仁」と記載されていましたから、それが決め手でした」

 

「さすが陽乃君の妹さんってところかな」

 

 雪乃は姉と比べられてやや複雑そうに眉をひそめる。

 ただそれも一瞬の事で、すぐに朗らかな笑みを向けているところからすると、以前ほどは陽乃さんを意識してはいないようではある。

 

「僕の方こそ講義の時と同じ格好をしていれば陽乃君の策略にはまらないで済んだと思うと、ほんと悪い事をしたね。せめてジャケットくらいは着ておくべきだったかな」

 

 橘教授は後ろにかかっている濃紺のスーツの上着を、後ろを振り返らないで手のひらだけを裏返してジャケットを指し示した。そこにはポールハンガーにかけられているジャケットと真っ白なYシャツがつるされていた。

 しかし、仮にジャケットとYシャツを着ていたとしても今と同じ状況になっていたのではないかと思ってしまう。

 黒ぶち眼鏡までかけたフル装備であっても疑わしいところだ。この軽薄そうな役者崩れのおっさんが、どうしてあの橘教授と重なるっていうんだ。

 

「ああ、なるほど」

 

 どこがなるほどか俺自身でもわからない。

 雪乃なんて俺同様に俺の返事をまったく信頼していない目をしている。それでも俺の気持ちと同じらしく、苦笑いを我慢している為に口元がゆがんでいた。

 

「そういう反応になるわよねぇ。だって仁の今の姿はアンバランスすぎるもの。スラックスにそのTシャツって、男子高校生かって思っちゃうわよね。まあ、Tシャツのセンスが破壊的な所と幾分顔が老け過ぎているのが難点って感じかな」

 

 ようやく笑いから解放された陽乃さんが笑いを引きずりながらも俺達の間に入る。

 教授の事を知ってるんだったら会う前に教えてくれればいいのに。

 こうなるのがわかっているからこそ黙っていたんだろうけど、緊張して損したというよりは、もっと緊張してもいいから騙すのだけはよしてくださいと土下座したいくらいだ。

 

「そうかな? 僕はそれほど違和感ないんだけど」

 

「それは着ている本人だからよ。見ている方からすれば違和感半端ないわ」

 

「でも、この格好って陽乃君がコーディネートしてくれたものだよ」

 

 これは驚きだ。陽乃さんが芸者のTシャツを? 

 面白半分で俺に着させる事もありそうな気がするのは考えない事にして、でも、案外橘教授なら似合ってるか? もしかしたら違和感半端ない服装だけど、見慣れればOKか、な?

 俺と雪乃は頭を揺らしながら目線を幾度も変え橘教授をチェックする。

 でも、やっぱなしだよな。どう考えたって違和感しか残らない。

 

「ちがう、ちがう。私がコーディネートしたのは、スーツ、皮靴、メガネ、それに髪型だけよ。そのTシャツは初めから仁の趣味じゃない」

 

 さすがに我が姉の奇抜なファッションセンスに落胆していた雪乃は、陽乃さんの訂正にほっと胸をなでおろしていた。

 たしかに小町が芸者のTシャツを着て家ん中だけでなく街中を歩きまわっていたら……、まあ小町は何着てもかわいいから許す。

 さっそく身贔屓して自己完結した俺は、目の前にいる奇抜なファッションセンスの持ち主のおっさんに意識を戻すことにした。

 

「たしかにそれは元々僕の趣味だね」

 

「あの、ちょっといいですか?」

 

「なんでしょうか?」

 

「普段講義の時着ている格好は、陽乃さんプロデュースなのですか?」

 

「ええ、そうですよ。おかしいですか?」

 

「おかしくはないのですが、今と講義とではそのギャップが激しかったので」

 

 雪乃は講義を受けた事がないので、真面目サラリーマンスタイルの橘教授を想像できず、きょとんとしている。

 たしかに今いる姿のインパクトがでかすぎるので、講義の時の真逆の恰好は想像できまい。

 

「でしょうね。僕もそう思いますよ。でも講義ですからね。僕も割り切っているんですよ。普段からあんな肩がこるような服は着られませんよ。スタンフォードにいた頃はけっこう好きな服装でよかったのに、日本は厳しいね」

 

 いや、日本だろうとスタンフォードだろうと芸者のTシャツを着て仕事なんて出来ないだろうに。

 懐疑的な目が四つと、理解不明な笑みを浮かべている目の二つの計六つの目が橘教授に向けられるが、当の本人はのほほんとその目の意味するとことを全く気にしないでいた。

 たしかにそのくらいの精神力がなければ罰ゲームよりもひどい服装なんて出来やしないだろう。

 

「日本だけではなくスタンフォードでもその場にあった服装をする礼儀は同じだと思いますよ」

 

 珍しくないか? あの雪乃が年上でしかも面識が少ない相手に突っ込みを入れるなんて。

そ れだけ言うのが我慢できなかったという事か。俺も相手が教授じゃなくて陽乃さんあたりだったらど突き倒すいきおいで突っ込みを入れまくってたと断言できるが。

 

「そうかもしれないね。でも、むこうでも注意はされていたんだけど、日本みたいには呼び出しまではなかったからなぁ……」

 

「むこうでも散々お世話になった恩師に毎日のように服装について指摘されていたって言ってたじゃない」

 

「それは僕の芸術的なTシャツに感銘を受けて感想を言っていただけだと思うよ」

 

 いや、それはどう考えても嫌味ですって。

 気が付いてないのはあなただけですよって突っ込みたい。

 この気持ち、君に届け。

 

「でも春画がプリントされたのを着て行った時は、さすがに着替えさせられたっていっていたわよね」

 

「あれは僕もやりすぎたかなって思ってたんだよ。でもスティーブンがさ……。あぁ、スティーブンというのは、僕のTシャツを作ってくれるスタンフォードからの友達でね。そいつが是非ともって言うんだよ。でもいくら芸術だといっても春画だし、さすがに公共の場で着るのはモラルに反するだろ? だから恩師のサーストン教授にだけにこっそり見せたんだけど、その場で没収されてね。でも、今まで通り芸者のシャツだけは着る事を許してはくれたけどね」

 

「それも条件付きで許してくれただけじゃない。しかも、私が聞いた印象では、泣く泣く許してくれたって言う感じだったわよ」

 

「そうかな? そこまできつい感じではなかったと思ったんだけどなぁ。でも、もう二度と裸の女性が印刷されたものは着てくるなって何度も何度も念押しされたな。さすがに裸は刺激が強すぎたんだね」

 

 この人天然なのかって疑いたくなるほどに疑惑がきつくなり、自然と俺がこの目の前にいる理解不能な教授を見る目つきもきつくなるわけで。

 

「大丈夫だって。スティーブンもさすがにやりすぎたって教授に怒られてね。でも、今まで着ていた普通の芸者のTシャツは今まで通り着ていいって、ちゃんと許可してくれたんだから。だからお礼に10枚ほど教授にもプレゼントしたんだけど、それ以降は教授も僕の服装の事を誉める事がなくなっちゃったんだよね。やっぱ教授も毎日のように僕のシャツを誉めてくれていたから、このシャツが欲しかったんだろうな。そんなに欲しいんなら誉めるだけじゃなくて直接欲しいっていえばいいのに」

 

 いやいやいやいや……。それは絶対諦められただけですって。

 サーストン教授。会った事はないけど、ご愁傷様です。

 こちらには雪ノ下陽乃という爆弾姉ちゃんがいますが、そちらにも橘仁という問題児がいたんですね。その苦労わかります。もし会う事がありましたら、その苦労を分かち合いましょう。

 …………ん?

 目の前にいるのって、その爆弾姉ちゃんと問題児じゃねえか。

 やっぱ訂正。

 サーストン教授。俺の方が大変そうです。もし会う事がありましたら、俺をねぎらって下さい。

 いや、今すぐ助けて下さい!

 

「そういうわけでサーストン教授も仁の服装を直すのを諦めちゃって、それ以降はモラルに反しなければ仁が何着ていこうが何も言われなくなったわけ。だもんだから、日本に戻って来てからが大変だったんだから」

 

 陽乃さんはさも見てきたかのように手振りを交えて解説を始めようとする。

 だったら、帰国して千葉の大学で教授になったのは最近って事なのだろうか。

 でも、陽乃さんは工学部だし、経済学部系の講義に出るとは思えない。

 と、俺が疑問に思っている事に雪乃もぶち当たったのか、雪乃も陽乃さんにその疑問を目で投げかけていた。

 

「ん? もちろん私は仁の講義はとってないわよ。陣の面白い噂を聞いて、もぐって講義に出ただけよ」

 

 大学の講義でもぐるって、よっぽどのことがないとやらない行為じゃないか。

 たしかに目の前にいるみたいな変なおっさんがいたら見てみたいけどさ。

 俺は自然とその講義の風景と目の前の教授を見て二つを重ねようとしてしまう。

 すると俺の視線に気がついた橘教授がにやっと俺に笑いかけてくるので、反射的に頭を下げていそいそと陽乃さんの方に視線を戻した。

 

「まあ、比企谷君みたいに冷やかしついでに窓から覗く程度の人がほとんどだったかな」

 

 ちょっと陽乃さん。どこまで俺の心の中を監視しているんですか。もう気が抜けないじゃないですか。なにかしかけられるんじゃないかって。

 俺がびくついてるのを面白そうに陽乃さんは視線をスライドして確認するが、今はこれといって指摘してはこない。どうやら今は話の方が優先らしい。

 

「でね、奇抜なファッションだけなら別に興味をもたななかったわよ」

 

「たしかに陽乃さんだったら仮装して講義してるって聞いても興味を示さないでしょうね」

 

「だね。仮装が見たかったら比企谷君に着せちゃえばいいんだし」

 

 ウィンクして可愛くきめても着ませんからねっ!

俺は断固拒否を示すべく無言で睨みをきかせる。しかし、五秒も経たないうちに陽乃さんの視線から逃げ出してしまったことは、まあ当然の結果なのだろう。

 

「では、姉さんは何に興味を持って橘教授の講義に出たのかしら?」

 

「経済学部にも友達がいてね。彼って東京の大学に行かないで千葉にきたくらいで、けっこう優秀な人だったのよ。今もアメリカの大学院行っているほどだし、かなり優秀だと思うわ」

 

 陽乃さんが誉めるって、よっぽど頭がきれる人物ってことか。

 

「で、その彼が最初の授業で聞いた経済に関する仁の独演をまったく理解できなかったのよ」

 

「一応最初の授業だし、これから勉強していく世界について話してみただけだよ。まあ僕がこれから教える内容自体ではないからわからなくてもよかったんだけど、それでも僕が大学入学した当時の僕が理解できる程度にはくだいた内容から初めて、最後は僕が今研究しているところまでを駆け足で話したんだけど、かいつまんで話したのが悪かったのかな?」

 

「それは仁レベルが理解できるであって、一般の大学生が理解できるレベルじゃないわよ。彼もそこそこ優秀だったのに、その彼でさえ理解できないって、どんな事を話したのよっていうわけで、私は仁の講義に興味を持ったの」

 

「でも、中には自慢話をしているだけで、内容がさっぱりの独演ってあるじゃないですか。しかも熱をあげていって、意味がない言葉を繰り返したり」

 

「その可能性も考えたんだけど、彼の話しによると、最初の方は仁が言っている通りかみ砕いた内容だったから理解できたんだって。しかも、そうとう面白い内容だったそうよ。でもね、仁ったら、彼もまた話をするのに熱をあげていってね、ただでさえ大学院レベルの内容なのに、それを早口の英語で話す、話す。限られた時間しかなくて、早口になるのはわかるけど、聞いているのは普通の大学生って事を理解してほしいわね。途中まではくらい付いて聞いていた生徒が、一人また一人で諦めていったそうよ」

 

「それで実際講義に出てみたらどうだったんです?」

 

「たぶん比企谷君が一番知ってるんじゃないかな」

 

 俺は、はてな?と首を傾げてしまう。

 そもそも今まで橘教授は、ガイダンスを含めて生徒が理解できない内容を講義したことなどはない。

 これは橘教授に直接言うことなんてできない事ではあるが、はっきりいって橘教授の講義はつまらないほど丁寧で理解しやすい。この講義を聞いてわからないっていう奴がいたんなら、そもそもうちの大学レベルではないと諦めて退学したほうがいいとさえ思うほどでもある。

 しかも、講義の最後に確認のための小テストまでやる至れり尽くせりの懇切丁寧な講義だ。

 

「比企谷君が今想像しているのと同じ講義だったわ」

 

 だから俺の心を覗かないでくださいって。もう俺の事が好きすぎるでしょ。

 

「私が出た時も比企谷君が受けているつまらない講義と同じで、すっごくがっかりしたのを今でも鮮明に覚えているわ。ちなみに服装はあの芸者Tシャツだったけどね」

「あの後でしたね。陽乃君に服装指導を受けたのは」

 

「その前に学部長からの呼び出しだったじゃない」

 

「そうでしたね」

 

 なんだか年上相手にタメ口で話しているというのに、それがいかにも自然すぎて、俺は橘教授に親近感を覚えるのと同時に、この部屋に入るまでの緊張を捨て去ることができていた。

 別に陽乃さんが意図してやっているはずもないと思えるが、一応心の中で感謝だけはしておこう。

 ……意図的だな、絶対。半分だけ感謝してますよ、陽乃さん。でももう半分は、俺をからかう為だったでしょ。

 

「学部長に呼ばれたのは服装についてですよね?」

 

 雪乃の方は最初から緊張などしていなかったので、とくに変化もなく平然と質問をしているが、それでも橘教授とも距離感は縮めているようではあった。

 

「そうだよ。スーツを着てこいとまでは言われなかったけど、教授として威厳がある服装をしろって1時間近くも叱られたのを今でも覚えているよ。たしか陽乃君が僕の研究室に来ているときだったよね?」

 

「ええ、そうよ。学部長ったら、話は少しで終わるから廊下で待っててくれって言ったくせに二時間もお説教してたのを覚えているわ」

 

 あれ? 1時間じゃないんですか? いくらなんでも一時間も違うっておかしいでしょ。

 陽乃さんが意図的に間違えるのならばわかるけど、それはないだろうし。

 また、「俺が知っていた」橘教授が時間を間違えるとも思えない。

 だったら、この認識の違いはどこからくるんだ?

 

「二時間だっけ? 僕はわりと早くすんだっていう印象が残っていたんだけど」

 

「そもそも一時間でも長いと思うのだけれど」

 

 雪乃は隣にいる俺にだけ聞こえる声でぽそっと呟く。きっと目の前の二人に伝えても意味がないとわかっているのだろう。

 

「今は落ち着いているからいいけど、また面倒な事を起こしてスタンフォードに戻るなんてことにならないようにしてよね」

 

「わかってるさ」

 

「どうかしらね? でも、ようやくこの大学に腰を据えたと思っていたら、夏季休暇はずっとスタンフォードに戻るらしいじゃない」

 

「戻るといっても他の所にも用事があって、全米を転々とする予定だけどね」

 

「もっと酷いじゃない」

 

「ここにくるまでにお世話になっていたところで情報交換というかね。情報だけはどこにいても手に入るけど、その場の空気だけは手に入れられないのが難点だね」

 

「ちょんと戻ってきなさいよ。あなたの講義を楽しみにしている生徒がここにもいることを忘れないで頂戴ね」

 

「わかってるさ。そのために千葉に戻ってきたのだから」

 

 戻ってきた? ということは、この大学の出身者なのだろうか? 

 それならば俺も留学をしなければならないし、意見を聞きたいところだな。

 

「あの、ちょっといいですか?」

 

「あ、なんだい? 比企谷君」

 

「あのですね、橘教授はこの大学の出身者なのでしょうか?」

 

「一応この大学出身者ってことになるのかな? どうかな?」

 

「出身じゃなくて在籍ってところね」

 

「へ?」

 

「だから、仁ったら大学1年の夏休みに明けに大学やめちゃったのよ。だから在籍の方があってるでしょ」

 

「たしかに……。でも、なぜやめたんですか?」

 

「父の交友関係のおかげで、スタンフォードにいるサーストン教授とは面識があってね。それで色々と大学に入る以前からやり取りをしていたんだ。それでこの大学の経済学部に入って初めての夏季長期休暇を利用して向こうに行ってみたんだよ」

 

「それでそのまま向こうに?」

 

「そう簡単にはいかないよ。一端戻って来て大学受験のやり直しさ。留学なんて考えてなかったらすぐに留学できる準備なんてできていないしね。だけど、両親は賛成してくれたから、留学することが決まればそこからはあっという間だったかな」

 

「それでそのままずっとスタンフォードで研究を?」

 

「いや。スタンフォードの大学はとっとと卒業して、大学院までいったけど、そのあとハーバードにも行ったよ。でも結局はスタンフォードに戻って来て研究職についたけどね。まあ、研究ばかりじゃなくて実践の方にも興味があって、色々と出て回ってたけど」

 

「なら、なんで千葉に戻ってきたんです? 経済を研究するならアメリカが本場だと思いますけど」

 

「そうだね。でも、研究するだけなら日本でもできるから、僕はもういいかなって思ったんだ」

 

「よく言うわよ。早く夏季休暇が来ないかなって、スタンフォードに行くの楽しみにしていたじゃない」

「こらっ。僕がせったくかっこつけていたのにさ」

 

 というわりには、まったく陽乃さんの横槍を気にしていないじゃないですか。

 それよか陽乃さんのつっこみを楽しんでさえいませんか?

 まあ、そのくらいの広い心がないと陽乃さんと仲良くなんてできないってことかもしれないけど。

 

「ま、いいじゃない? 仁はそのままで十分よ」

 

「そうかい? 美人さんにそう言われるんならいいか。・・・えっと、スタンフォードに行くのは戻りたいからじゃないからね。やはり最新のものは向こうで仕入れてきたいからさ」

 

「はいはい」

 

「え~っと、日本に戻ってきた理由だったよね」

 

「はい」

 

「それはね、僕は運よく人との縁に恵まれていたんだなって強く思ったんだ。サーストン教授との縁がなければ、僕はきっとアメリカには行かなかった」

 

「でも、いずれはアメリカに行っていた可能性はあったのではないですか?」

 

「可能性の話をしたら、僕の場合はそのまま千葉の大学を卒業してサラリーマンをやっていた自信があるよ。だって、ほかに特にやりたい事があったわけじゃないし、卒業したら仕事をしなきゃいけないわけだしね。だから、疑問を抱く事もなくサラリーマンになってたはずさ」

 

「そうですか……」

 

 たしかに俺も雪乃と出会わなければ主夫は夢だとしても現実はサラリーマンになっていたのだろう。

 それが今や海外お留学必至。

 しかも帰国後は雪乃の親父さんの下で働かないといけないときたもんだ。橘教授の言葉ではないが、人との縁ってもんは数奇なもんだな。

 

「まっ、それも可能性にすぎないからね。僕はひとりで生きているわけじゃないくて、人とのつながりの中で生きているのだから、いつも何らかの影響を人から受けている。こうして今君たちと話しているのも、もしかしたら僕の今後の人生に重大な影響を与えているのかもしれない。これって面白い事だとは思うんだよね。・・・そ、そ。だから僕は千葉に戻ってきたんだ。僕が得ることができた縁をちょっとだけでもいいから日本にいる大学生にもおすそ分けしたいんだ」

 

「おすそわけですか」

 

「そうだよ。僕はアメリカで好きな研究を目いっぱいしてこれた。学問の最前線で、経済の最前線で、そこでしか味わえない緊張感を感じ取ることができた。だからね、僕はそういう経験を日本の学生にも味わってもらいたいんだよ。ちょっとでもいいから新たな可能性を提示したい。僕なんかとの縁なんて大したものではないけど、それでも道端に転がっている石ころ程度にはなれるはずさ。まっすぐサラリーマンになる道もきっと間違ってはいない。でも、その道に転がっている石ころにつまずいて違う道に進むのも魅力的だとは思わないかい?」

 

「人によりますけど魅力的だと思う人もきっといると思いますよ」

 

 そこにいる陽乃さんみたいな人とか。

 陽乃さんは自分の道を切り開いていった橘教授に憧れに近い感情を抱いたのかもしれない。自分にはない開拓心を手に入れたいとさえ思ったのかもしれない。

 誰もが憧れる雪ノ下陽乃を捨てる事を望んでいたのかもしれない。

 

「だといいんだけどね」

 

「でも、極端すぎるわよね。経済に興味を持ってほしいなら、もっと生徒が面白いと思う講義をすればいいのに」

 

「面白い? 一応初めての講義の時したんだけど、誰も理解してくれなかったんだよね」

 

「当然よ。大学生が大学院レベルの内容を簡単に理解できるっていうのよ。しかも途中から早口の英語になったらしいじゃない。せめて日本語だったらついてきてくれる人もいたかもしれないけど」

 

 それもどうかとは思いますよ、陽乃さん。

 せめて英語だったから、わからなかった理由ができたとも考えてしまうのは俺だけでしょうかね。

 

「仕方ないじゃないですか。大学で学ぶ事は基礎であって、本当に面白いのはその先なのですから。それに英語だって帰国したてでね。話に熱が入ってしまうとつい英語が出てしまって」

 

「だとしても、その面白い学問を学ぶ前にあんなつまらない講義されちゃったら、みんな面白いと思う前にいなくなっちゃうわよ?」

 

「それは困りましたね」

 

 いや、ぜんっぜん困ったようには見えませんけど。

 

「あの……、陽乃さんが講義に潜ったときは今と同じような講義だったんですよね?」

 

「ええ、そうよ。すっごく基本に忠実で、すっごくつまらない講義だったわ」

 

「それはひどい評価だな。でも、初めからそうするつもりだったんだけどね」

 

「私としては仁にはぶっとんだ講義をやっててほしかったんだけど」

 

「大学生相手にはしませんよ。あれはガイダンスだから羽目を外してしまったというのでしょうかね。もしそういったものをお望みでしたら院に進学してくれればいいだけです。そうですね……。院に上がらなくても、こうして僕の所に来てくだされば、時間の限りお相手しますよ」

 

「たしかにそうね」

 

「姉がいつもお邪魔しているのでしょうか?」

 

「ええ、そうですね。わりと頻繁にきていますね。だから、陽乃君の担当教授からはいいようには思われていないんですよね。面と向かっては言われないですけどね」

 

「いいのよ、あんなの」

 

 いや、まずいでしょ。

 しかも、あんなの扱いとは、陽乃さんの担当教授様を同情します。

 きっと俺と同じように酷い目にあっているんでしょうね。

 ……あっ、でも付きまとわれないよりはましじゃないかよ。俺なんかほっといて欲しいと思っているときでさえまとわりつかれるのに。

 どうもサーストン教授といい、陽乃さんの担当教授といい、一度は共感をもっても、どうしてもすぐに破綻してしまう。

 どうしてだよ。同じような境遇なはずなのに不公平過ぎやしないか?

 

「たしかに陽乃君のいうように面白い講義はしたいですよ。でも面白いってなんでしょうね?」

 

「その講義に興味をもつとか、雑談が面白いとか?」

 

「雑談でしたら友達とすればいいじゃないですか。講義とは関係ない僕の体験談を話しても時間の無駄ですし、仮に講義と関係がある体験談だとしても、それは聞いていても理解できないですよ。内容が専門的すぎて」

 

「たしかに……」

 

「それに、僕と高度なディスカッションをしたいのでしたら、最低限の知識がなければ整理しませんよ。別に馬鹿にしているわけではないのですよ。ただ、基礎もできていないのに、なにを話すというのです?」

 

「まあ、正論ですね」

 

「比企谷君が言う通り、ほんと正論すぎるわ。正論しすぎるから生徒に人気がないわけなのよね。ある意味仁の思惑とは真逆に進んじゃってて笑えないわよね」

 

 真逆?

 というと、人気が出ると思ってるのかよ。

 たしかに授業はわかりやすいし、理解もしっかりできる。

 しかも毎回確認テストまでやってくれるお節介さ。講義の質からすれば及第点だが、面白さからすれば誰が点数つけたって不合格だろ。

 

「手厳しいですね」

 

「当然じゃない。つまらないものはつまらないのよ」

 

「では、どうして姉さんは橘教授に興味を持ち続けたのかしら? 実際見に行って面白くはなかったと判断したのではないのかしら」

 

「面白くはなかったわよ。奇抜な服装も興味なかったしね。でも、真面目で馬鹿丁寧な講義だったのよ。この講義で理解できないなら、とっとと大学やめたらいいと思えるほどにね。……うん、進級試験は仁の講義の試験結果で判断してもいいっていうくらいかしらね」

 

 ごめん、陽乃さん。それだと由比ヶ浜が……。

 いや、ね。大丈夫だとは思うのよ。

 でも、万が一ってことがあると怖いじゃないですか。

 

「だからかな。あんな脳に知識が流れ込むような講義をする人がどんな人かって興味を持ったのよ。もちろんあのガイダンスを聞いてまったく理解できなかったというのもひっかかっていたけどね」

 

「そのおかげとういうのかな。僕は日本にきてもこうして刺激的な毎日を送らざるをえなくなったわけさ」

 

「それは誉めて頂いているのかしら?」

 

「もちろん」

 

「そういうことにしておいてあげるわ」

 

「どういたしまして。さて比企谷君。これで僕と陽乃君との関係はわかったかな?」

 

「ええ……、はい、だいたいは」

 

「それじゃあ今度は君の事を聞かせてくれないかな?」

 

「俺ですか?」

 

「そう、君」

 

 橘教授は冷めてしまっているだろうコーヒーカップを取る為に少し前に出ただけなのに、その存在感も大きさに俺は身を引いてしまう。

 プレッシャー?

 いや、どこか陽乃さんと通ずるところがあるんだろう。だからこそあの陽乃さんと楽しい会話ができるんだろうよ。

 

「俺の事を話せといわれましても、何を話せばいいのでしょうか?」

 

「そうだね。なにがいいかな?」

 

 橘教授は助けを求めるように陽乃さんに視線を向ける。

 当然ながら橘教授が俺に用があって呼んだわけで、陽乃さんにわかるわけもなく、曖昧な笑顔を浮かべるにとどまっている。

 

「あっ、そうだ。弥生准教授と話した事があるそうだね」

 

「ええ、一度だけですけど」

 

「僕も弥生君とはわりと仲良くしてもらってる方で。ほら、僕って人見知りで、なかなか友達できないんだよね。僕はフレンドリーに接しているつもりなのに」

 

 それ、きっと勘違いですからっ。フレンドリーすぎて、相手が困ってるんですよ。しかも服装がすごすぎて、相手の人も関わりたくないって思っているはずですし。

 まあ、こうしてじっくり話してみると陽乃さんじゃないけど、この人に好感をもつのもよくわかるけどな。

 

「仁のフレンドリーさについては今度にしましょうか。比企谷君も困ってるしね」

 

 陽乃さんが助けてくれた。

 これは奇跡なの?

 俺明日死ぬの?

 だったら俺はまだ死ねないから酷い事をしてもいいのよ?

 

「ほら、今は時間ないし、比企谷君をいじるんなら、もっと時間にゆとりがあるときじゃないと面白くないじゃない」

 

 やっぱ助けてくれたわけじゃないのね。

 八幡わかってたよ。だって陽乃さんだもの。

 

「じゃあ、それは今度にするかな」

 

 ちょっと、橘教授も納得しないでくださいって、やっぱ陽乃さんと同類じゃないですか。

 俺の顔が警戒感がにじみ出す。しかしそのスパイスさえも目の前の二人には旨味成分だったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

「それで、結局なぜ由比ヶ浜さんには話さなかったのかしら?」

 

 雪乃の問いももっともだ。昴も夕さんも同様の意見のようで俺の言葉を待っていた。たしかに橘教授の印象の話題ばかりを話していて、まだ肝心な事は話してはいない。 

 

「ああ、それな。別に話しても俺の方がうまく調教……、もとい家庭教師の方をしっかりやれば問題ないんだが、まあ端的にいえば気を緩めて欲しくなかったんだよ」

 

「というと?」

 

「今回の小テストも由比ヶ浜の出来は悪くはなかった。それに他の教科も調子がいいしな」

 

「それはいいことじゃない? でも、調子が良かったとしても由比ヶ浜さんがさぼりだすとは思えないのだけれど」

 

「俺もそうは思うんだけどよ。なんだか橘教授に指摘された事がちょっとな……」

 

「というと?」

 

「俺と昴の点数はどちらもほぼ満点だったが、論述の構成というか話の流れってものが違う。たしかに似たような答案にはなるが、いくら書く要点が同じでも論述であれば全く同じ答案が出来上がる事はない。」

 

「それはそうね。同じ人間が書いたとしても、全く同じ論述はできないもの」

 

「それがだな、俺と由比ヶ浜の答案は似てたんだよ。雪乃は評価の方ばかり気にしていたけど、俺はむしろ答案の中身の方が気になってた。まあ、由比ヶ浜の答案はあいつらしくいくつかポイントが抜け落ちていて減点をくらってはいたけどな。それでも雰囲気っていうか話のもっていきようが似てたんだよ。だから、その……なんていうか雪乃の言葉を借りると、学力には違いがあっても同じ人間が書いたって感じかもな」

 

「まさか?」

 

 昴も夕さんもわけがわからないっていう顔をしている。それもそのはずだ。俺の言葉なのに俺自身がその言葉に自信を持てないでいる。困り果てている俺に、目の前の二人は辛抱強く俺の言葉を待っていた。

 

「そうね、八幡の言葉をそのまま捉えると……、つまりは単純な事じゃない」

 

「雪乃?」

 

「だから答えは単純な解だってことよ」

 

「どういうことだよ?」

 

「つまり、八幡は由比ヶ浜さんの成長を喜んではいるのだけれど、でも心のどこかで自分が抜かれる事はないってうぬぼれているのではないのかしら?」

 

「そんなことは……」

 

「ないとは言い切れないのではないかしら? たしかに由比ヶ浜さんは覚えるのが苦手で、なかなか勉強の効率が上がらないわ。でもそれは八幡も似たような経験をしてきたのではなくて? そして今由比ヶ浜さんは伸びている。以前の八幡のように、ね」

 

「……どうだろうな。雪乃の言う通りかもしれないけど、俺は由比ヶ浜が俺の成績を超えても一カ月はへこむけど、俺の将来に影響はない。だから気にしないと思うぞ」

 

「気にはするのね」

 

「気にするんだ」

 

 目の前の二人、ユニゾンしないっ。そりゃあ俺だって由比ヶ浜に抜かれたらへこむにきまってるだろ。でも、俺はいっつも化け物みたいな彼女らと付き合ってるんで、そういうのには耐性ができてるんですよ。

 

「そう……。でも、今の八幡はたとえ由比ヶ浜さんが全力で追いかけてきても、それ以上の速さで突き進んでいくのでしょ?」

 

 どこか挑戦的な瞳に俺はたじろいでしまう。けれど、その瞳の奥には俺を信じている雪乃がいつもいる。だから俺はその雪乃に対して深く頷いた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一応上記パートまで読み飛ばしても問題ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は珍しく?陽乃さんの方が忙しくもあったようで、恒例となってしまった雪ノ下邸での夕食も食事が終われば早々に自宅マンションへと引き上げていた。俺も忘れてしまう事があるのだが、陽乃さんはこれでも大学院生である。

 俺が高校生のときだって、本当に大学行ってるの?って疑問に思うくらいに俺達の前に現れては面倒事を笑顔で放り込んできたわけで、ある時期などいつも正門で見張っているのではないかと疑心暗鬼になったことさえあった。

 とりあえず今日は大学院の課題で忙しいと言われたので、ようやく陽乃さんも大学院生を真面目にやっていると確認する事が出来たと、余計なお世話すぎる感想を俺は抱いていた。

 

「ねえ八幡。珍しいわね。自分からキッチンに立とうだなんて」

 

 ネコの足跡がトレードマークの白地のエプロンを身にまとい、一見するまでもなく見目麗しい姿とは裏腹に、雪乃は笑顔で毒を振りまいてくる。しかも心外すぎるレッテルを貼り付けてくるとは恐れ入る。

 ただ、雪乃がそういいたいのもわからなくもない。今日の弁当だって、面倒だと不平を早朝からぶちまけながら弁当を作っていたわけで、雪乃が訝しげな視線でキッチンに立つ俺を見つめていても不思議ではなかった。

 

「そうか? けっこう雪乃のヘルプで台所に立っていたから、俺としてはそんな感覚はないんだけどな」

 

「たしかにそうかもしれないわね。でも、私がキッチンを占領してしまっているから八幡が自分から料理をしたいとは言えなくなってしまった可能性も否定できないのよね。そう考えると、いつも八幡に手伝ってもらうだけというのも考えものね」

 

 すかさずジャブを入れてくるあたりはさすがっす。

 

「そういうなって。俺はヘルプだとしても雪乃と一緒に料理作るの楽しんでるぞ」

 

 雪乃が攻撃してくるのがわかっていた俺は、さらに言葉を返す。ただし、俺の言葉の矢は途中で失速してしまう。なぜらな雪乃には俺が持ちえない極寒の瞳があるわけで、俺のへなちょこじ編劇など一睨みで撃墜させてしまう。

 でぇも、ただでは負けない俺としては、雪乃でさえ持っていない武器があるわけで。

 

「それに、俺が雪乃の手料理を食べたいんだから、ちょっとくらいの我儘は聞き入れてくれてもいいだろ? それとも俺に食べさせる手料理なんてないとか?」

 

 さっそうと撤退戦を開始させる。即座の撤退ばかりは常勝雪乃も持っていないカードだろう。逆を言えば、常に俺に勝ち続けているとも言うが……。

 まあ、それ以上は聞かないで下さると大変嬉しいです、はい。

 いつもの俺達の雰囲気になってきた感もあるわけだが、いつものように雪乃が頬を染めてくれるのを確認でき、俺も気持ちが弾んでしまう。ともかく雪乃も俺が浮かれているのを見て喜んでいるんだから、お互い様なんだろう。

 

「しょうがないわね。八幡が私の料理を食べたいのだったら、作らないわけにはいかないわ」

 

「ああ、たのむよ」

 

「ええ……。でも、プリンだけは八幡に勝てないのよね」

 

 俺はまだ何をなにを今から作るかなんて教えてないのに、どうしてわかるんだよ。といいつつも、テーブルの上にある材料が牛乳、タマゴ、砂糖、バニラエッセンスときて、今までの俺のレシピからすれば、当然の推理か。

 当然雪乃の推理は正しいわけだが、ここは意地悪して茶碗蒸しでも……、って、どうして俺のお馬鹿な反抗がわかってしまわれるのですか?

 雪乃の眼光が一瞬だけ暗くひかり、俺の邪な野望を打ち消すと、いつもの温かい視線へと戻っていった。

 

「小学生のころから作ってたからな。まず、年季が違うし、なによりも執念が違う」

 

 とりあえず俺は、雪乃の言葉に対して素直に返事をしたはずなのに、どうして首を傾げて訝しげに見つめてくるんでしょうか?

 

「年季が違うのは認めるのだけれど、執念が違うとは意味がわからないわ」

 

「雪乃はお嬢様だからな」

 

「その言いよう、鼻に付く言い方で好きではないわ」

 

「厭味でいったんじゃない。事実を言っただけだ」

 

「よりいっそう不快感が増しただけなのだけれど、もしかしてわざとやっているのかしら?」

 

 素直になれっていつも小町に言われているのに、それを実行しただけなのにどうしてこうも禍々しいオーラが噴き出てくるんだろうか? 小町の言う事が間違っているはずもなにのに、八幡わけわからないんだけど……。

 俺がひるんだすきに雪乃は俺が逃げないように自分の腕を俺の腕に絡めてくる。ふわりとくすぐる甘ったるい雪乃の香りと温もりを打ちすように下から見上げてくる眼光は俺を極寒の地へと誘った。

 時として事実をありのままに言うのはよくないとわかっているが、雪乃が求める答えを説明するには、その不快感を含まなければ事実を伝えられない事もあるのも事実である。物事なんて小さな事実の積み重ねだ。その小さな事実を一つ引っこ抜いてしまうと、言いたかった物事のニュアンスが違ってしまう。

 だから俺は悪くない……、と心の中だけで反論することにする。けっして雪乃が怖いわけではない、はずです、たぶん。

 ……ごめんなんさい、だからなんで雪乃は俺が考えていることがわかるんだよ。

 俺の腕に爪跡がくっきり残るくらいつねりあげると、雪乃は極上の笑みを浮かべてきた。

 

「じゃあ、気にするな」

 

 けれど、顔から下の攻防などないかの如く俺達の会話は続く。これが熟年カップルの生態というのならば、今のうちに俺達の方向性を修正すべきだと固く誓った。

 

「まあいいわ。それで、執念が違うとはどういう意味かしら?」

 

「雪乃は学校から帰って来て、おやつが用意されていなくて困った事がないだろ?」

 

「たしかに困った事はないわね。でも、あまりお菓子は食べない方だったと思うわよ。紅茶は自分で淹れて飲んでいたけれど、おやつとして毎日のようにお菓子は食べていなかったはずだわ」

 

「そうなのか?」

 

「ええ……」

 

 雪乃は俺の顔のさらに向こう側を見つめると、何か悟ったかのように優しく微笑む。柔らかい笑みなのに、どうして憐みを感じてしまうのだろうか。俺はかわいそうな子でもないし、いったいなんなんだよ?

 

「なんか含みがある言い方だな」

 

「そうね。八幡が自分から言った事でもあるわけなのだから、私が遠慮することなんて初めからなかったわね」

 

「すまん。なんか、そう改まって言われてしまうと、ちょっとどころじゃないくらい怖いんだけど?」

 

「そう? 事実をこれから言うだけよ」

 

 もしかして、さっきの仕返しか? 雪乃が根に持つタイプだとは知っていたが、こうも早く仕掛けてくるとは、根に持つタイプだけでなく負けず嫌いってことも関係しているのだろう。

 ただ、なんでプリンを作ろうとしただけで、こんなに精神を削られたのかがわからない。だから、すでに精神をすり減らしきった俺は思考を捨てる。

 事実もそうだが、考えない方がいいことも世の中にはあるのだろう。

 

「で、どんな事実なんだよ」

 

「これは八幡から聞いた話なのだけれど……」

 

「もう前置きはいいから、先進めてくれていいから」

 

「わかったわ」

 

「中学までの八幡は、放課後に学校に残って部活に励む事はなかったし、友達と遊びにいく事もなかったじゃない。そうなると自宅に早く帰ってくるわけなのだから、帰宅後に使える時間は人よりもたくさんあったと言えるわ。だとすれば、時間をもてあましている八幡はすることがないからおやつを食べるという習慣を作ってしまったのもうなづけるとおもったのよ」

 

「さらっとひどいことを言っているようにみえるが、おおむね事実だから反論できんな。でも、別におやつを食べる習慣があったわけではないぞ」

 

「そうかしら?」

 

「ちょっと小腹がすいたからお菓子を食べる習慣はあったけど、だからといっておやつを食べる習慣があったわけではない」

 

 雪乃は数回ゆっくりと瞬きをすると、さらにゆっくりと首を振る。その仕草を見ている俺としては、なんだかイラッと来るのは気のせいだろうか。とりあえず一応俺の可愛い彼女の仕草なんだし、と自分の心を否定しておく。

 

「それをおやつを食べる習慣と言うのではないかしら? なら、八幡にとっておやつとは、どういった定義なのかしらね」

 

「一応雪乃の言い分もわかる」

 

「そう? ちゃんとわかってくれるのだったらうれしいわね」

 

 心が全くこもっていない笑顔を頂戴した俺は、極力落ちついた声を装って反論を始めた。

 

「雪乃が言いたいのは、おやつとは間食の事だって言いたいんだろ?」

 

「ええ、そうよ。朝昼晩の三食の食事以外は、基本的には間食と定義されているわね」

 

「だな。俺もその見解にはおおむね同意見だよ」

 

「だとしたら、八幡が先ほど言っていた小腹がすいたらお菓子を食べる習慣は、おやつを食べる習慣と同義と言えないかしら」

 

「まあ、な。雪乃のその見解も間違っているわけではない。でも、俺がさっきおやつの定義にをおおむね同意見だっていっただろ? つまり、賛同できない部分が一部分だけあるってことだ」

 

 雪乃は俺の説明を聞くや否や、今度は演技でもなく無表情のまま数回瞬きをしながら俺を見つめると、ゆっくりと首を振ってから大きく肩を落とし盛大なため息をついた。

 さっきのが演技なら、俺も笑って見ていられる。しかしこれが本心からやられると、心の奥底まで杭で打ち抜かれた痛みが走る。普段から雪乃の精神攻撃を受けて耐性があるとは思っていたが、こうもナチュラルにやられてしまうと、まじでへこんでしまった。

 

「とりあえず八幡の言い分も聞こうかしら」

 

「お、おう。聞いてくれてうれしいよ」

 

 涙を拭いたふりをした俺は、雪乃の気が変わらないうちに説明を始める。指先が湿っている感じがしたのは、気がつかなかった事にして。

 

「えっとな、昔はどこかのカステラ屋のCMのせいでおやつは3時に食べるものとか、そういった時間的概念で否定しているわけではない」

 

「たしかにそういった考えも日本には根付いているそうね」

 

「だろ? 今はCMがやっているか自体知らんけど、なんだかそういうイメージもあったりはする。だけど、そういうことで異議を述べているんじゃない」

 

「だったら、どういった観点から言っているのかしら」

 

「それは俺の小学生のころからの日課から説明しなければいけない」

 

「友達が一人もいなくて、一人で遊んでいたという黒歴史ね」

 

 雪乃はさらりと親が聞いたら泣いちゃうかもしれない事実をつまらなそうにつぶやく。いや、親父なんかは大爆笑しそうだが、このさいどうでもいい情報だ。

 

「別に黒歴史だって思っていねぇよ。それだったら雪乃だって友達いなかったわけだから黒歴史になっちまうだろ」

 

「……そ、そうね。友達がいないだけで黒歴史になるわけではないわね。好きで一人でいることを否定すべきではないわ」

 

「だろ?」

 

「私の間違いは認めるわ」

 

「あんがとよ。で、だな。放課後に小学校に残っていてもやる事はないし、俺はそのまま帰宅するんだけど、家に着いたらまずは宿題を済ませていたんだよ」

 

「宿題を?」

 

「そうだよ」

 

 本気で意外な行動だって思っていやがるな。たしかに俺の行動を見ていれば、成績が良くても、優等生だとは思わないだろう。

 

「ふぅん」

 

「わかっていないな。ぼっちは宿題を忘れることが許されない。もし忘れる事なんかあったら、だれにも頼れないからな。しかも、その宿題が次の授業で使うとなれば最悪だ。誰も助けてはくれないし、最悪その授業はなにもわからず、ぽつんと一人取り残されることになる」

 

「たしかに誰も助けてくれなければ、そうなるわね。でも、先生は何か救済処置をしてくれるのではないかしら?」

 

「馬鹿だな。それこそ地獄なんだよ」

 

「どういう意味かしら? 私の事を馬鹿扱いするくらいの理由は、しっかりとあるのでしょうね?」

 

 雪乃よ……、言葉のあやだとか言い訳はしないけどさ、一つ一つの語句に突っ込みをいれないで、話の流れぐらいだと思ってスルーしてくれないのか? なんて顔を青ざめていると、雪乃はくすりと笑みをこぼす。そうやって俺をからかうようになったのは、高校時代の毒舌と比べれば優しくなったと思いたい。

 

「先生が俺の席の隣の女子に頼むだろ」

 

「ええ、そうなるわね」

 

「そうすると、当然その女子は嫌な顔をする。しかも、そのあとの休み時間には、その女子はお友達に泣きついたりもする。そうすると、お優しいお友達は俺に詰め寄って来て、謝罪しろって言ってくるんだよ」

 

「それは大変ね」

 

 雪乃は当時の俺の姿を想像でもしたのか、なんともいえない微妙な顔を俺に向けた。

 

「大変なんてものじゃねえんだよ。小学生低学年にとっても、けっこう痛いトラウマになっちまう。だから、俺はその謝罪騒動以後絶対に宿題とか提出物など、学校に持ってくる物全てに関して、忘れ物をしないように心がけた。いや、忘れ物はしないって制約をたてた」

 

「いい心がけなのだけれど、原因が寂しいわね」

 

「んなもんいくらでもあるから、いちいち寂しがってはいないけどな」

 

 たしかにいちいち傷ついていたら、ぼっちなんてできやしない。ぼっちは一人だから傷つかないだろうと思われるかもしれないが、実はそうではない。人と接しなければ、特定の人からは傷つけられたりはしないかもしれない。

 しかし、人間っていうものは恐ろしいっていうか、小さい子供ほど罪悪感がないせいで、集団になってしまうとその場の雰囲気で不特定多数としてぼっちを攻撃の対象にしたりしてしまう。ぼっちからすれば、なにもやっていないのに理不尽な攻撃だとしかいえない。

 よく子供は純粋だとか馬鹿なロマンチストが言ったりもするが、それは経験が浅すぎる子供が罪悪感もなしに行動しているにすぎない。罪悪感もないから歯止めもきかないし、大人よりも残酷だと断言できる。

 

「そうかもしれないわね」

 

「だから宿題は家に帰ったら最初にやるようにしてたんだよ」

 

「でも、悪くはない習慣になったからよかったじゃない」

 

「まあ、悪い習慣ではなかったと思う。宿題なんてとっとと終わらせてアニメ見たかったからな。テレビを見て楽しんだ後に、どうして面倒な宿題なんてやらなきゃならん」

 

「それは宿題なのだからやるしかないのではないかしら」

 

 雪乃の弁と瞳がはさも当然のことだと訴えかけてくる。

 

「たしかにやらないといけない。でも、せっかくテレビを見て楽しい気分になったのに、その満足感をぶち壊すべきではない」

 

 俺が拳に力を込めて胸のあたりまで突き上げると、雪乃は乾いたため息を漏らす。

 

「いや、そんな残念な人間をみるような目で俺を見るなって」

 

「違うわよ。残念な人間をみるような目ではなくて、残念な人間を見ている目よ」

 

「そ、そうか。親切な訂正あんがとう」

 

 どうしてかな。俺は罵倒されているはずなんだけど、どうして俺の方が謝らないといけない気持ちになってしまうのだろうか。とりあえずこれ以上深入りするとより深い傷を負ってしまいそうなので話を進めることにした。

 

「それでだな。せっかく楽しい気持ちを喪失させない為に宿題などやるべき事をやってからアニメタイムにしていたんだが、そうなるとちょっとばかし小腹がすいてくるんだよ」

 

「たしかにそうね」

 

 ようやく雪乃に同意を貰えた俺は、笑みを洩らさずにはいられない。だが、ここはぐっと我慢だ。笑みを漏らして、気持ち悪い笑みだからやめてほしいだなんて水をさしてもらいたくはない。

 

「で、ちょっと小腹がすくからお菓子を食べたくなるだろ?」

 

「ええ、そうね」

 

「そうすると、夕食の前という事もあって、少し量をおさえてお菓子を食べることになるだろ?」

 

「ええ、まあそうね」

 

 こうも雪乃が俺に同意をつづけてくれるとなると、俺の方も饒舌になってしまう。そうなると俺の滑舌はよくなってブレーキが効かなくり、やはり当然とも言うべき結論に導かれてしまった。

 最初らこのことを言うつもりであったのだから、最初からわかっていた結末ではあったが。

 

「でも、お腹が減っているときに少しだけ食べたりすると、かえって食欲がわいてしまう」

 

「そうね。胃の活動が活発になって少量だけでは満足できなくなるかもしれないわね。ダイエットで三食食べ、けれど食べる量を減らすという方法があるらしいのだけれど、胃の活動の事を考慮すれば、食事の量を減らすのではなく、食事の回数を減らすべきなのかもしれないわね。ただ、食べる回数を減らす方法も、食べる量を減らす方法も、どちらの方法であってもダイエットの成功には繋がらないでしょうけど」

 

「どうして失敗だって思うんだよ? ダイエットしたことあるのか?」

 

「あるわけないじゃない」

 

 と、どこを見ているのと言いたげな視線を俺に叩きつけ、しまいには両手を腰に当てて、そのウエストの細さを主張してきた。たしかに雪乃の体の線は細いし、ダイエットの必要なんてないだろう。まあ一部自然とダイエットしてしまって貧弱な胸……いや、ごほん。なんでもないです。

 最近では体力のなさを克服しようと、俺を巻き込んで海岸沿いでジョギングしたりしている。俺からするとあの海辺の道路ってジョギングする人が多くて、私頑張ってます感が漂ってくるんだよなぁ……。それさえなければ最高の場所なのに、とりあえず俺の考え過ぎと言う事にして保留扱いにしておくことにした。

 

「雪乃はこれ以上痩せる必要ないし、定期的な運動も始めたから問題ないか」

 

「そうね。そもそもダイエットしたいのならば、運動すべきなのよ。楽をしたいからって食事制限だけに頼るなんて意味がないわ。いつか元の食事に戻ってしまうのだから、リバウンドが起こるのも当然よ」

 

「詳しいな」

 

 雪乃は俺の指摘に見事に動揺を見せる。

 俺はふと疑問に思ってしまった事を呟いたにすぎない。当然すぎる疑問のはずだ。雪乃自身がダイエットとは無縁だと宣言しているのだ。ならば、雪乃がダイエットに詳しいのは、おかしいとも言える。ただ、知識として知っているとなればその限りではないが。

 

「あ、あの、そうね。由比ヶ浜さんがそういったダイエット関連の本を読んでいたのよ。別に由比ヶ浜さんにダイエットが必要と言うわけではなくて、……予防策というか、今の体を維持する為に読んでいた、というのかしらね」

 

 どうも今作ったばかりの言い訳を言ってるようにしか聞こえないが、俺はあえてつっこみをいれるなど愚策を選択しない。

 

「いい心がけなんじゃないか」

 

「そうね。あのスタイルでダイエットだなんて、もったいないわ」

 

 雪乃は顔を俯かせて体の一部を凝視し、体を小さく震わせてから顔をあげ、そして俺を睨みつけながらそう呟いた。

 まあ、どこを見ていたなんて考えるまでもない。おそらく由比ヶ浜と比べて痩せすぎているお胸なんだろうけど、これこそ突っ込みを入れたら間違いなく生命の危機だ。

 

「由比ヶ浜はそういった女性誌で話題になりそうなのが好きそうだし、いいんじゃね? きっと仲間内でも話題にもなってるんだろうよ」

 

「そうかもしれないわね。それで、さっきの間食をしてしまうと食欲がわいてしまうとは、どういうことになるのかしら?」

 

 どうやらダイエットの話はこれで打ち切りか。おそらく由比ヶ浜のダイエットは秘密なんだろうな。そういや誕生日の時にもそんなこと言ってたような言ってなかったような……。雪乃みたいな例外はいるけど、基本女なんて一年中ダイエットしてるし、隠そうがそんなもんかなってしか思わんけどな。

 ただ、由比ヶ浜の前ではダイエット関連の話はNGということは頭にインプットしておこう。

 

「それはだな、少量だけでもおやつを食べるだろ? そうすると食欲がわいてしまって、そのまま夕食になっちまうんだよ。時間もちょうど夕食の時間だしな」

 

「たしかに間食だけでは物足りず、そのまま夕食になってしまうかもしれないわね」

 

「だろ? そうなると、少量のお菓子を食べた時点から夕食に含まれるんじゃないか?」

 

「はぁ?」

 

 雪乃は本当に意味がわからないという顔を見せる。こういう反応は俺も慣れたもので、慣れてしまう事自体が問題かもしれんが、すぐさま補足説明に入った。

 

「だからさ、少量のお菓子を食べてそのまま夕食になったとしたら、それは食事と食事の間にあたる間食にはならないで、つまりその間食はおやつにはならないんじゃないかってことだ」

 

「なるほど、八幡が言いたい事はわかったわ。お菓子を最初に食べたとしても、そのまま夕食に突入してしまえば、お菓子も夕食の一部に組み込まれると言いたいわけね」

 

「そういうことだな」

 

「それはわかったのだけれど、八幡が言っていたプリンを作る執念とはどういった意味なのかしら? 私にはまったく想像もできないから、できることなら私が理解できるように説明してくださると助かるわ」

 

 雪乃はわかったと頷いたわりには頭をかかえこんでしまう。

 どうせいつものへ理屈だと思っているのだろうさ。しかも雪乃は今の流れを断ち切るべく、話の流れを一番最初の話題へと強制接続してきた。俺からすれば、最初に話していた内容さえ覚えてはいない。そんな内容なのに話を元に戻そうとするとは、よっぽど今の話題が雪乃にとってストレスだったのだろう。

 ただし、本当に機嫌が悪くなればストレートに文句を言ってくるので、今回はセーフなのだろうが。

 

「ああ、プリンへの執念か。おやつをたくさん食べたいっていう意味だな」

 

「それだけでは全く理解できないのだけれど。それに、おやつが用意できないほど比企谷家の経済状況は悪くはないはずよ」

 

「たしかにおやつは毎日用意されていたさ。でも、たくさん食べたいって思うのが子供だろ? しかも親が用意しておくのは、お徳用の大きい袋入りのがスタンダードだ。あれって、一つ一つのお菓子のサイズが普通に売ってるやつよりも小さく作られている場合があるんだよな。それを親が買ってきた時、子供ながら泣いたっけな」

 

「そんな子供は泣かしておけばいいのよ。子供の為におやつを用意してくれるだけで十分じゃない。それに、仮に一つ一つの作りが小さいとしても、小さいのならば二個食べればいいと思うわ」

 

 さすがはお嬢様。こういうところで差をかんじてしまうとはわな。いまさら格差を嘆くなんてことはしないし、ひがむことなんてありはしないからいいけどよ。でも雪乃の主張って、かの某おとぎの国のおフランスの悲劇の王妃を思いだすんだけど……大丈夫か?

 

「親なんてお菓子の大きさを気にして用意なんてしてないんだよ。だから一個は一個だ」

 

「だったら我慢すればいいじゃない」

 

「それこそ横暴だろ? 相手は子供だぞ?」

 

「それはそうね……」

 

 雪乃は指先を見つめながら何か思案する。ただ、それも数秒で解け、新たな提案を示してきた。

 

「お小遣いがあるのではないかしら。普段は用意されたおやつで我慢することで忍耐力をつけるべきよ。でも、たまには自分へのご褒美として、お小遣いを使ってお菓子を買うのもいい社会勉強になるはずよ。それに、親御さんもそういうことに使う為にお小遣いをあげているのではないかしら」

 

 雪乃はさも自分の主張が正しいでしょ、と小さな胸を精一杯突き上げてくる。

 

「子供の小遣いじゃ大したものは買えないだろうな。雪乃が言うように、たまに買う分なら可能かもしれないけど、そんな我慢なんてできやしない。一度買って美味しいものを食べてしまえば毎日買って食べたくなるのが子供っていう奴だ」

 

「それは八幡だけではないかしら? それこそ我慢して忍耐力をつけるべきよ。そうやって我慢する心を鍛えていくのが教育というものでしょ。でも、たしかに一般的な小学生のお小遣いでは物足りないのかもしれないわね。お菓子を一度か二度買ってしまえば、一カ月のお小遣いを使いきってしまうわね。それに、おやつを買うよりも本も買いたいだろうし」

 

 雪乃はわずかに同情的な顔色を見せる。

 おそらくそれは本を買うことについてのみ共感したのだろうけどよ。ただ、ここで雪乃に言っておきたい事がある。実際言う事はないけど……、子供は本よりもゲームを選んでしまう。最近ではスマホでも遊べるが、それでもやはりゲーム機もそれはそれで欲しいはずだ。

 

「お小遣いで何を買うかはこの際置いておいて、子供のお小遣いなんて額が少ないから毎日は無理だろって言いたいんだよ」

 

 雪乃は本を買う事についてスルーされた事で眉をひそめるが、そこんところは雪乃の忍耐力で我慢したようだ。さすが教育熱心なご両親だねとは言わないでおいた。言ったらまじで殺されそうだから絶対に言えないとさえ言えないのが怖い。

 

「たしかに小学生のお小遣いでは毎日は無理ね。でも、親が用意するおやつなのだから、子供が満足する量を用意しているのではないかしら」

 

「雪乃が言うように、それなりの量は用意されたてたさ。……そうだけど、食べたいだろ、たくさん。子供だし。いつか腹いっぱい食べてみたいって、一度くらいは夢を見るだろ?」

 

「そう言われてしまえば身も蓋もないわね」

 

「だろ? で、だ。俺は家にある材料でおやつを作ろうと考えたんだよ」

 

「はぁ……、そういう発想はあなたらしいわね」

 

「牛乳、タマゴ、砂糖があれば基本プリンは作れる。バニラエッセンスもあれば欲しいところだな。あとは生クリームとかあれば最高だけど、ないものは求めない。プリン1個作るのに、牛乳135cc、卵1個、砂糖おおさじ2、バニラエッセンス少々で作れる。これらを混ぜ合わせてマグカップに入れて蒸せばいいだけだから、小学生でも簡単に作れるレベルだ」

 

 雪乃は俺のレシピに頷きながら自分のレシピと照らし合わせているらしい。たしかに俺のレシピはシンプルすぎるが、シンプルなほど失敗は少ないんだよ、とちょっとばかし対抗意識燃やしてしまう。

 

「そういえば、八幡が作るプリンにはカラメルソースが入っていなかったわよね?」

 

「嫌いだからな。だから入れない。自分で作るんだから嫌いな物は入れないに決まっているだろ?」

 

「でも、この前姉さんが持ってきたプリンは食べていたじゃない? あれにはしっかりとカラメルソースがかかっていたわよ」

 

「もったいないだろ? ある分は食べる。それでも上の方から食べていって、カラメルソースが溢れ出ないようして食べるけどな」

 

 雪乃も俺がプリンを食べるシーンを思い出し、納得したらしい。

上の方はカラメルソースが溢れてこないから楽しく食べられるんだけど、下の方に行くとカラメルソースが漏れ出ないようにと、いわばジェンガみたいな精密作業の神経戦になっちまう。こっちは美味しく楽しくプリンを食べているだけなのに、だ。

 

「でも、カラメルソースも食べていたわよね?」

 

「最後の最後でもったいないから食べるんだよ」

 

「カラメルソースが嫌いっていう変なこだわりがあるようだけれど、でも、あれば食べるのね」

 

「だから、もったいないだろ。母ちゃんにもものを粗末にしてはいけませんって育てられたからな。だからあれば食べる。でも、カラメルソースが嫌いってわけでもない。プリンにはいらないって言ってるだけだ」

 

「そういえば、小町さんが食べていたプリンにはカラメルソースがはいっていたわよね? あれも八幡の手作りだったはずよね」

 

 よく覚えているな。しかも、プリンの底にちょこっとだけ入っているカラメルソースの有無さえ覚えているって、どこまで記憶力と観察力がすぐれてんだよ?

 この記憶力、まじでほしいっす。

 

「あぁ、小町はカラメルソース好きだからな。自分用に入れないが小町用には入れているぞ」

 

「はぁ……」

 

「なんだよ? ……当然だろ、小町が食べるんだから。お兄ちゃんとしては小町が食べたいものを作りたいんだよ」

 

「根っからのシスコンだったことを失念していたわ」

 

「料理ってものは食べてもらう人の好みに合わせて作るもんだろ? だから俺に食わせるんならカラメルソースなしが基本だ。でも小町はカラメルソースが好きなんだから、それに合わせるのが料理をする上の心構えってもんじゃねえの? いくら料理の腕があっても、食べてもらう人がその料理が苦手だったら、いくら世界で活躍する有名シェフが作る料理であっても美味しいとは思わんだろ?」

 

 俺の予期せむ真面目すぎる反論に、雪乃は目を白黒とさせてしまう。俺の方も自分がまともすぎる内容を偉そうにのたまってしまったことに若干恥ずかしさを覚えていた。

 

「ごめんなさい」

 

 雪乃は小さくそう呟く。小さな体より小さくしぼんで見えてしまう。しゅんっとしたその姿に愛おしさを感じてしまうのは、俺に変な性癖があるわけではない、はずだよ?

 俺は手が汚れているので、肘をうまく使って雪乃を抱き寄せる。うまくは抱き寄せられはしない。でも、出来ない部分は雪乃が自分から補ってくれた。

 

「俺の方こそ偉そうなこと言ってごめん。雪乃が毎日作ってくれる料理も、俺の好みに合わせてくれてありがとな」

 

「いきなりね。でも、感謝されるのもいいものだわ。また小町さんにお料理を教わらないといけないわね」

 

「小町も料理教えるの楽しみししているってよ。それに小町の方も、雪乃から教わるのも期待しているらしいぞ」

 

「そう? でも私の料理は本に書かれているレシピ通りにつくっているだけよ。それでもいいのかしら?」

 

「いいんじゃねえの? 一緒に作る事自体を楽しいでいるみたいだしさ」

 

「それでいいのなら、私も楽しみだわ」

 

 俺からすれば事前予想の通り小町と雪乃はうまくいっている。雪乃の方は初めこそ身構えてはいたが、最近ではその堅さも抜けてしまっていて、本当の姉妹って感じさえ漂わせていた。

 ま、俺はそんな仲がよろしい姉妹のお料理を眺めてニヤニヤしているだけなんだけどな。あまりニヤつきすぎていると、ヘルプ役として怒涛のごとくこき使われるんだが。……いや、いいんだよ。俺も一緒に料理ができて、と公式見解を述べておこう。

 

「そういや実家にはラ・グルーゼみたいなお高い鍋がなかったから土鍋を使って作っていたけど、ラ・グルーゼは保温性が高いからすごいな。最初は湯銭するにもどのくらい湯銭すればいいか手探り状態だったからな。今ではようやく慣れてきたが、最初は今までのデータが使えなくて失敗しまくって、実家から土鍋かっぱらってこようかと思ったほどだ」

 

「あれで失敗なの? たしかに多少はすが入ってしまってはいたけれど、十分美味しかったわ」

 

「すが入った時点で失敗だが、そうじゃないんだ。俺が求めるプリンの堅さじゃなければ失敗作なんだよ」

 

「意外とこだわりがあるのね」

 

「そうでもないぞ。うまいものが食べたいだけだ」

 

 雪乃も料理への情熱があるものとばかり思ってお誉めのお言葉を述べた用であったが、その情熱の方向性が食欲だとわかると、次に用意してあっただろうお誉めの言葉を廃棄処分し、残念そうに俺を見つめるだけだった。

 

「そう……。八幡らしいと言えば、そうなのかしらね。でも、美味しいものが食べたいから頑張って料理をするというのも、料理をする行動原理には叶ってはいるのかもしれないわね。私も美味しいものが作りたいわけだから、ある意味では八幡と同じ意見とも言えるわね。だけれど、何故かしら? 八幡の言葉を聞いていると、どうしても私の考えとはだいぶ乖離しているのよね。そう考えると不思議なものね。同じ言葉を述べていても、それを言う人間によっては言葉の意味合いが大きく変わってしまうのだから」

 

 あれ? お誉めの言葉が呆れに格下げされてない? しかも、俺が余計な言葉を喋るほどに格下げされまくりそうなのは、俺の思いすごしだろうか。だから俺は雪乃の瞳が解凍できなくなる前に話題を修正することにした。

 

「でも、ラ・グルーゼは使い慣れれば土鍋以上に便利だよな。熱が入りやすいしよ」

 

「たしかにそれはあるわね」

 

「しかもオレンジだぞ、オレンジ。土鍋とは色が違う。華やかさが全く違う」

 

「土鍋も鍋料理をするときには風情があるわけだから、色で区別する意味がわからないわ」

 

「そうか? あのオレンジの鍋といったら、俺みたいな庶民からすれば憧れの鍋なんだよ。店に行って展示されているのを見る事はあっても買うことなんて絶対にない。そういう高嶺の鍋なんだよ。だから最初は試行錯誤して蒸す時間を調整しなければならなかったが、やっぱ目の前にあって使ってもいいとなれば使わないと損だからな」

 

 あら? なんだか雪乃さんの体から冷気が発生しているような気がするのは気のせいでしょうか? もしや、話題の修正に失敗したか? 

ただ、その冷気も長くは続かなかった。

 

「まあいいわ。私も使ってみたい料理器具がないわけではないのだから、一概に八幡の動機が悪いわけではないわね。……でも、どうして八幡が言うとマイナスの意味合いがクローズアップされてしまうのかしらね」

 

 と、意地が悪い笑みを俺に叩きつけてくる。そんなの既にわかっているはずなのに問いかけてくる。どうせ俺の日頃の言動に原因があるんだから、はっきりといえばいいのに。でも、言わないのは改善する必要がないという意味ともとれるわけで。

 

「そんなの俺の言葉を聞いた方に悪意があるに決まっているだろ。言葉なんて受け取り手の意識次第だからな」

 

「それもそうね」

 

 別に俺の方に雪乃に一矢報いたい思いがあったわけではないが、雪乃の方は何か思うところがあったのだろう。小さく一つ頷くと、言葉を深く吟味しだす。しかし、しばらくたってから雪乃から出た話題は、全く違うものであった。

 

「それにしても土鍋でプリンって、変な組み合わせね」

 

「作れればいいんだよ。それに土鍋だって保温性が優れている」

 

 どうやら先ほどの話題はもう終わりらしい。終わりなら終わりでいいし、そもそも雪乃から仕掛けてきた話題だ。俺の方で長々と延命させたいわけでもない。

 だけど、こうして毎日かわしている言葉でさえも、俺の意図とは違った意味で雪乃が受け取っている場合も少なからずあるはずなわけで、これが自分の意思を隠すのが上手な人間の言葉であれば、なおさら真意を読みとることが難しくなってしまう。

 ただ今はこんな小難しい事を考えるべきではない。難しい顔なんて雪乃に見せたら、せっかく話題を変えようとしてきた雪乃に申し訳がたたないってものだ。きっと雪乃は、俺がこの先にある答えにたどり着く事を避けようとしたのだから。だったら俺は雪乃の口車に乗るしかなかった。

 

「たしかにそうね」

 

「そもそも鍋が変わろうと作り方は同じだしな。鍋でお湯を沸騰させて、火を切る。そして、その中にプリンの材料を入れたマグカップをラップで封をしてから入れ、鍋の蓋をして待つだけなんだから、小学生でも作れる」

 

「その簡単なレシピのおかげで八幡少年がプリンを作るようになったのね」

 

「まあな。とはいうものの、この方法は時間がかかるけどな。本当はお湯を沸騰させないように火をかけ続けたほうが短時間で仕上がるからいいんだけど、失敗しやすいんだよな。ちょっと目を離すとすぐすが入っちまう」

 

「その辺は経験よね」

 

「たしかに俺もその辺は経験を積んで出来るようにはなったさ」

 

「でも、今は火をつけ続けない方法よね?」

 

「ああ、その方法を採用している。そっちの方が成功率が格段にいいからな。俺は最初に鍋に入れてから10分保温させてから、再び加熱する方法を採用している」

 

「それは調べたり、教えてもらったのかしら?」

 

「いんや、自己流だよ。どうしたら好みのプリンになるか考えてだな」

 

「プリンへの執念がすさまじいわね」

 

 俺が普段は見せないプリンへの執念を熱く語るほど、雪乃は引き気味な態度を取るようになる。けっして表情には出さないようにしているが、俺も雪乃とずっと一緒にいるわけで、雪乃の小さな感情の変化を読み取ることができるようにはなってきていた。

 

「そうやって小学生のころから作っていたのだからうまくはなるのね」

 

「そうだな。小町がとろとろのプリンが食べたいっていったら、その堅さになるように牛乳をちょっと増やしたり、蒸し時間を減らしたりして研究したもんだな」

 

「いいお兄さんをしていたのね」

 

「でもな、ある日突然プリン禁止令が下ったんだよな」

 

「どうしてかしら?」

 

「いくら家にある材料でも、週に何度も作っていたらすぐに材料がなくなるだろ。俺と小町は当然食べるとして、親も仕事で疲れて帰ってくると甘いものが欲しくなって自然と食べちまう。そこに子供が作ったプリンがあるんだから、食べたくなるのが親ってものだ。親父の場合は最初のころは小町が作っていた思ってたいそうで、喜んで食ってたらしいけどな。あとで俺が作ったと知って落胆していたわりには食べる量は減らんかったがな」

 

「美味しかったのでしょうね」

 

「どうだかな。小町が作っていないとわかったせいで大事に食べる必要がなくなったともいえるけどな」

 

「……そうかもしれないけれど、あまり考えない方が身のためね」

 

 実際には考える必要もなく答えが出ているのはどうしてだろうな。かなしくなるから言わんが。

 

「で、だ。家族四人がパクパク食ってたら、そりゃあすぐにプリンがなくなり、さらにプリンを作れば材料も底をつく」

 

「それでプリン禁止令?」

 

「まあ、な。でも、小町が断固反対を貫いてな。親父が最初に折れて、母親もなくなく折れたって感じだ。かあちゃんも自分でもプリン食べてたから強くは言えなかったものあるとは思うけどな」

 

「小町さんに弱い家族なのね」

 

「それは認める。でも、それが何が悪い」

 

「開き直られると言葉を失うわね。……そうね八幡。私が好きなプリンも作ってくれるかしら?」

 

「あいよ」

 

「チョコレートのプリンが美味しかったわ。また食べたいわ」

 

「ん……」

 

「私も八幡が作るチョコレートプリンが食べたくて、自分でも作ってみたのだけれど、なかなかうまくいかないものね」

 

「あぁ、あれはココアの混ぜ方にコツがあんだよ。綺麗に混ぜすぎると失敗してしまうんだ」

 

「でも不思議ね。好きなことなら面倒な事さえも率先として行動するのね。普段の八幡からは想像できないわね」

 

「好きなものだったら集中できるだろ。それがたまたまプリンだっただけだ」

 

「それをもっと外に向けるものだったら、もっと違う人生があったのだと思うと、少しせつないわね」

 

「そうか? そんなことをしたら雪乃と付き合えなくなっちまうから必要ねえよ」

 

 はっと息を飲む音が聞こえる。今度ばかりは表情を隠す事も出来ずに顔を朱に染め上げた雪乃がそこにはいた。声にはならない文句を口で形作り、このままでは臨界点を突破して俺まで羞恥に悶える結果になりそうだった。だから俺は雪乃限定の読唇術でその意味を読みとり、素直に批判を受け入れることで雪乃の行き場のない発露を開放した。

 

「まあ、俺は何をやったとしても俺だったと思うぞ。だから、雪乃と付き合わない選択肢はない」

 

 まあ、待てって。さっきよりも赤みと熱を帯びたその頬に、俺は焦りを覚えながら言葉を続けた。

 

「人生にもしもなんてないだろ? でもあったとしたらどうなるんだろうな?」

 

「そうね……。でも、今の自分に満足しているから考える必要はないわ」

 

「そっか……、俺もそうだな。……ちょっと待てよ。いや、うん、そもそも過去での選択肢を変えるって事は、未来の事を知ってるっていう未来予知ができる事が前提だよな。まあ、過去をやり直すと考えれば未来予知という言葉は不適切だけどよ。どちらにせよ選択肢を変更してなかった事にしてしまう未来を知っている事自体がおかしくないか? だって、その未来そのものを否定してなかったことにするんだぞ」

 

「相変わらず捻くれているわね。たしかに理論的に考えれば八幡の考えも否定できないわ。でも、そもそもそんなことを考える事自体がナンセンスよ。だって無意味な仮定な話なのよ。そこに現実的な思考をもってくること自体が馬鹿げているわ」

 

「それもそうか。だったら、未来を知ることができないとすれば、結局はどの選択肢を選ぶ俺であっても俺なわけで、そうなると選ぶ選択肢は同じになるってことだな」

 

「単純な八幡なら、どの未来の八幡であっても選ぶ選択肢は同じね」

 

「あまり誉められている気はしないけど、……どの未来でも雪乃とこうやって馬鹿な会話をしてるんだろうな」

 

「そ……、そ、そ、そそそそ…………こほんっ。その、そうね」

 

 えっとそのなんだ……動揺してパニクっている雪乃もかわいいっていったら可愛いんだけどよ。どうして冷静さを取り戻す為に俺の腕をつねりあげるんでしょうか? 

 雪乃は俺が顔をしかめるのを確認すると、ひとつ笑顔を俺に向けてから会話に復帰した。

 

「たしかに同じ人間ならば選ぶ選択肢は一つに収束してしまうわね。でも今話している仮定の話は別の可能性の未来を考えているのだから、「たまたま」違う選択肢を選んだ場合の未来を考えてみるのも面白いのではないかしら?」

 

「そうか? ……そうだな。「たまたま」違う選択肢を選んだとしたら、それはもう俺じゃない。違う比企谷八幡だ。だから俺が考えても意味がないだろ」

 

「え?」

 

「だからさ、今の俺は今までの経験の積み重ねによって構成されているんだから、その前提が壊れたら俺ではなくなる。つまりは違う選択肢を選んだ時点で俺の自我は存在しなくなるんだよ」

 

「そうね……、たとえばテストでミスをしてしまって、それを直してみたいとは思わないのかしら?」

 

「それは変えたいに決まってるだろ。今すぐにタイムリープして回答を書きなおすに決まってる」

 

 あれ? どうしてため息をついているのでしょうか?

 

「私がばかだったわ。少しでもあなたの事を見なおした私が愚かだったようね」

 

「どういう意味だよ?」

 

「雑魚っぽくて素敵よ。ある意味小物を演じさせれば八幡以上の小物はいないわ」

 

「誰だって小さなミスを挽回したくなるだろ?」

 

「その小さな間違えさえも経験であって、自分を構成する一部ではないのかしら?」

 

「たしかにそうだけどよ。でもさ、人生の分岐点ってやつ? あれなら絶対変更しない。変更なんてできやしないからな」

 

「ちょっと強引な論理ね。でも、好きよ。たとえもその他大勢の名前さえない登場人物である八幡であっても、そこから八幡を探し出してあげるわ」

 

「ん、期待しとくわ」

 

「そこは自分が私を見つけ出すっていうところではないのかしら?」

 

「いいだろ別に。だって俺は小物だからな」

 

「仕方ないわね……」

 

 重ねあわされた手の感触が、その温もりが俺の自我となって重なってゆく。

 雪乃が言っていた小さな経験の積み重ねさえも今の自我を形成するっている考えは、実は俺も賛成だったりする。なにせその小さなミスがなければ、こうして雪乃と一緒にいれらなかったかもしれないと考えてしまう小心者でもあるからな。

 まっ、雪乃はこのことさえ気が付いているようだけど。

 

 

 

 

 

 

 

7月13日 金曜日

 

 

 

 昼食といえばとりあえず栄養補給ができればよく、人様にご迷惑をおかけしないでひっそりとするのが習慣だったのに、この大所帯、なんなんだよ。といっても俺、雪乃、陽乃さん、由比ヶ浜、そしてここに弥生姉弟が加わった6人だけなのだが、どうも周りの視線が気になってしまうんだよな。

 もともと雪乃と陽乃さんが一緒だと目立ちはしたが、先日のストーカー騒動の後始末が響いたのか、どうも以前よりも好奇の視線が増えたような気がしてしまう。

 まあいいか。どうせ俺のことなんて気にする変わりもんなんていないし、精々他の連中の事を見てやってくれ。

 と、俺が勝手に人身御供を献上しているあいだに食事の準備は整ったようだった。

 

「すっご。やっぱ美味しいぃ。前のもすごかったけど、今回もすごすぎだよね」

 

「そう? ガハマちゃんに誉められるのも悪い気はしないけど、今日から新しい仲間も加わるわけだし、最初くらいは盛大にやっておこうかなってね」

 

「すみません。しかも私はお弁当も作れないありさまなのに」

 

「いいっていいって。私が好きで作ってるんだから」

 

「そうですか? ありがとうございます」

 

「だとすれば、やっぱ俺もここは弁当当番は辞退して、作りたいっていう人に名誉ある弁当当番を献上したいなっ……」

 

「駄目に決まってるじゃない」

 

「それは駄目に決まってるじゃん」

 

「却下よ」

 

 なんでこういうときに限って息があうんだよ。

 雪乃と陽乃さんはなんだかんだいって波長があいそうだけど、ここに由比ヶ浜まで加わるとなると、裏でなんか嬉しくもない会合でもしているんじゃないかって疑っちゃうよ?

 

「でも、ほんとうにお上手ですね。私もせめて料理くらいはできるようにならないと結婚なんて出来そうもなくて、困っているんですよね。といいましても、お料理を披露する殿方がいない事自体が大問題なのですけどね。……あら、こんなに美味しいお弁当食べたの初めてだわ」

 

 夕さんはここにはいない某平塚先生と同じような嘆きを吐露しているわりには平然と箸をすすめる。

 どちらも立候補したいって思う男連中がたくさんいそうなのに、どうして相手が見つからないんだ?

 やっぱ性格か? 性格が問題なのか? 

 見た目だけなら全く問題がなさそうなのに、それでも相手が寄ってこないって、よっぽどだよな。

 だとすれと、結婚相手に求める理想が間違っていて、分厚いフィルターを通してしか男を見てないから、結果として最初から対象外として扱っているとかしてるんじゃないかとさえ思えてくるぞ。

 そう考えると納得できるか? 理想が高すぎると婚期を逃すって言うしな。

 ん? 待てよ……。

 

「どうしたの八幡?」

 

「結婚って聞くと平塚先生思い出していたんだけどさ」

 

 あら? 弥生姉弟は別として、他の奴らはどうしてそんなにも残念そうっていうかかわいそうな平塚先生を見る目をしてるんだよっ。

 たしかに平塚先生は結婚できないけど、結婚できないけど、それでも楽しくやってるじゃないか!

 一人でだけど……。

 

「平塚先生がどうしたのかしら?」

 

「いや、直接平塚先生の事ってわけじゃなくてだな。結婚で思いだしたんだが、高校時代俺が専業主夫になりたいって言ったらみんなして俺の進路を否定していたよな」

 

「当然じゃない」

 

「まあ俺も今気がついたんだが、やはり当時の俺は考えが甘すぎたんだな」

 

「いまさら気がついたの?」

 

 平塚先生の時よりもかわいそう度がアップしていません?

 憐みに満ちた視線に心が折れそうになるが、そこはぐっとこらえて俺は話を続けた。

 

「そうかもな」

 

「今さらだけれど、気がついてよかったわ」

 

 だから、かわいそうな子を見る目をするなって。

 

「ああ、気がついてよかったよ。専業主夫になる方法が間違ってたんだな」

 

「え?」

 

 おいっ。今度はあまり事情を知らない弥生姉弟までひきまくってるんじゃないか? まあいいさ。俺の最高の方法を聞けば納得するだろうしな。

 

「一応聞いてあげるのだけれど、どういった方法を思い付いたのかしら?」

 

「簡単な事だ。主夫になるには相手が必要だよな」

 

「ええそうね」

 

「となると、パートナー探しは重要になる」

 

「たしかにそうね。でも結婚するのであれば、どのような結婚になろうともパートナー探しは重要だとは思うわ」

 

「まあな。でも、主夫になる為には、結婚相手の対象とすべき相手のタイプが間違っていたんだよ。今までは漠然とそこそこの大学行って、家事スキルを磨けば結婚できると思っていたんだが、これは甘すぎた」

 

「おそらく新しく思い付いた方法も甘すぎるとは思うのだけれど……。いえ、いいわ。一応最期まで聞いておきましょうか」

 

 なんか字が違くないですか? なんか「最後」が「最期」って意味合いに聞こえて、死刑宣告に聞こえてくるのは気のせいでしょうか?

 

「お、おう……。俺が間違った方向に進んでしまった大きな原因は、俺の周りに女性陣のせいだと思われる」

 

「えぇ~、あたしがヒッキーになにか影響与えたってこと? でも、そうおもってくれるんなら嬉しいかも」

 

「安心しろ由比ヶ浜。お前は俺の結婚観になんら影響を与えていない。だから悪影響を与えたかもって悩む必要はないぞ」

 

「それはそれでやな感じ」

 

 え? なんでふくれっつらなんだよ。俺はさりげなぁく由比ヶ浜のフォローをしてあげたっていうのに。

 

「由比ヶ浜さん。一応最期まで八幡の言い分を聞いてみましょう。それから刑罰を……、いえ考えを改めさせても遅くはないわ」

 

「そうだね」

 

 って、おいっ。笑顔で同意してるんじゃないって。しかも雪乃のやつ、なんかぶっそうな発言までしてるしよ。

 

「え~、そのだな、話続けた方がいいのか?」

 

「ええ、お願いするわ」

 

「そうか。じゃあ進めるぞ。俺に間違った方向に影響を与えてしまった人物とは、それはやっぱ平塚先生だな。本来ならば主夫を目指すのなら年上の女性と結婚すべきなんだよ」

 

「それはどういうことかしら? 別に同い年でも、年下であっても主夫になることは理論上では可能なはずよ」

 

「たしかに雪乃の言う通り理論上は可能だ。だがそれだと可能性が低くなってしまう」

 

「誰を選んだにせよ、可能性は低いままだとは思うのだけれど……」

 

 聞こえてますよぉ、雪乃さん、ぼそっとぎりぎり聞こえる声で言っているみたいだけど、はっきりと聞こえてますからねぇ。

 だが、雪乃によるストレステストを毎日受けている俺からすれば、まだ問題ない。だから俺は聞こえないふりをして話を続けることにした。

 

「考えてみてくれ。年上の女性なら俺よりも先に就職しているから収入も安定していて、生活の不安が小さい。だから、その安定した生活に俺が主夫として加わったとしても、俺が家庭から妻を支えれば、より安定した生活を送れるはずだ」

 

「色々と疑問に思う点が散見しているのだけれど、問いただしても無意味だろうから話を進めてもいいわ」

 

「おうよ」

 

 でも、こめかみに手をあてて首を振るのは、ちょっとばかし心に突き刺さるのでやめていただけないでしょうかね。

 でもでも、八幡はめげないからねっ。

 

「でもな、この最高の道筋も平塚先生のせいで考えないようにしてしまっていたんだよ。俺の周りにいる身近な年上女性っていったら平塚先生くらいだからな。今では俺がもっと早く生まれていれば惚れていたと思うけどな。でも最初の印象が悪すぎた。俺に警戒心を刷り込んでしまったんだよ」

 

「そ、それは認めざるをえないかもしれないわね。悔しいのだけれど。それはそうと、今は平塚先生に惚れてはいないのでしょうね?」

 

 冷房の温度設定がマイナスに反転し、凍える冷気が俺に噴きつける。雪の女王ここに健在か。

 雪乃がいれば夏でも冷房要らずと喜べないのは、命の危険があるからだろうな。エコには最高だろうけど、命には代えられないだろうし。

 

「惚れてないから、まじで惚れてないからな」

 

「そう……」

 

「はいは~い。私も年上だよ?」

 

「いや、その……。陽乃さんは年上云々という以前に陽乃さんですから」

 

「あれ~、そのいいようなんだと傷ついちゃうかもしれないわね。うん、傷ついちゃったな。傷ついたのを今晩癒してくれないといけないから帰さないでいいよね」

 

「姉さん。ここで姉さんが介入すると、ただでさえ面倒な八幡のご演説がより複雑になってしまうから、ここはご遠慮して頂けると助かるわ」

 

「ふぅ~ん。まっいっか。じゃあ比企谷君。あとで楽しみにしているからね」

 

「あぁ~……はい。覚えていましたら」

 

「ん、覚えていてね」

 

 はい、今すぐデリート致します!

 

「城廻先輩も年上だよね?」

 

「まあな。でも城廻先輩は養ってもらうっていうよりは、守ってあげるって感じだから結婚相手としては違うな。同じような理由で下級生も対象外だ。先に俺の方が就職するわけで、下級生に養ってもらうなんてできないだろうからな。むしろ就職している俺の元に嫁入りして家庭に入ってしまいそうでもある。俺ならそうする。だから下級生は対象にすべきではない」

 

「ふぅ~ん。でも同級生だって同時期に就職するんだから養ってもらおうと思えば養ってもらえるんじゃないかな?」

 

「それは無理だ」

 

「どうしてかしら?」

 

「同級生はな、一緒の学年ともあって一緒に就職活動をしてしまいそうだ。殺伐とした就職活動中に、婚約者たる俺が主夫になるなんて言えるわけもない。だから、空気を読んで俺も就職してしまいそうだ。だから同級生は対象外になるんだよ」

 

「まあそうかもね。あたしもみんなが就職活動しているの見ていたら、自分も頑張ろうと思うし。……でも、ヒッキーの場合は周りの事なんか気にしないで我が道を進みそう」

 

「んなわけないだろ。気にしまくりだ。ここで婚約者を逃したら、大学卒業後にどうやって結婚相手を探すっていうんだよ。それこそ完全に就職しないと出会いがなくなっちまうだろ」

 

「そう言われればそうかもしれないけど……」

 

「あら? そう考えてしまうのは間違っているわ。だって八幡は同級生である私と付き合う運命なのだから、他の同級生について考える必要なんてないのよ」

 

 あれ、口が開かない……。

 冷え切った冷気が俺を凍結し、凍りついた血液は鉄よりも硬い管となって俺の身を拘束していく。

 

「だったら私と結婚する? 養ってあげるわよ。」

 

「え? まじっすか?」

 

 訂正。

 太陽の光はどうやら雪の冷気よりもお強いようで、俺の拘束を解除してくれました。

 

「うん、まじまじ。しかも料理も作ってあげるからね。実家で親と同居でもいいんなら、掃除もハウスキーパーがやってくれるし、家事はしなくてもいいわよ。親だってほとんど家にいないんだから、朝ちょこっと顔を見せればいいくらいだしさ」

 

 なにこの最上級物件。今すぐ役所いって婚姻届貰いにいっちゃう? 地獄への片道切符のような気もするけど、この際考えないようにすべきだな。

 

「姉さんはなにをいっているのかしら? 就職しないために大学院に進学したり、海外留学までしようとしていたじゃない」

 

「愛する人ができたら、人は変わるものよ」

 

「あら? それならば姉さんはまったく変わっていないのだから、どうぞご勝手に海外に留学してください」

 

 陽の嵐と雪の吹雪が荒れ狂う中、俺達はそっと一歩身を引く。周りを見渡すと、あんなにたくさんいた野次馬根性丸出しのギャラリーが一人もいなくなっていた。

 つまりはこの広い教室には俺達6人しか残っていないわけで。

 とりあえずお弁当会初日からとんでもない醜態をさらしてしまった俺としては、ちょっとばかし弥生姉弟に申し訳ない気もわいてしまう。だから俺は視線を横にスライドして二人の様子を伺った。

 ……なにあれ? どうしてこんなにも凶暴な環境の中でふたりしてほのぼの空気満載で食事していられるんだよ。あぁあれか? 昴は夕さんと二人っきりの空間ではないと食事ができないっていってたけどよ、面倒だから俺達の事を頭から遮断したってわけか?

 まあ夕さんは、あのほのぼのパワーで雪乃と陽乃さんの凶器を受け流しそうだけどさ。

 

「どちらにしてもさ。ヒッキーに主夫は無理なんじゃない?」

 

「どうしてだよ?」

 

「なんとなくだけど、仮になれたとしても大変そうだなって。嫁姑関係ってわけでもないけど、ゆきのんちの女性陣強すぎるなって」

 

「奇遇だな。俺も主夫も大変なんだって今改めて実感していたところだよ」

 

「ははは……」

 

 由比ヶ浜の乾いた笑いが嵐によってかき消される。俺は陽乃さんが用意したポットからお茶を注ぐと、由比ヶ浜に手渡す。それを無言に受け取った由比ヶ浜は、なんともいえない微妙な笑顔を俺に見せるので、俺もとりあえず笑顔らしい笑みを送り返しておく。

 

「まっ、結婚生活なんて他人同士がするんだから慣れだな」

 

「だね。でも、この姉妹喧嘩に慣れてしまうのもどうかと思うけどね」

 

「あぁ、同感だ」

 

 二人のじゃれあい(核戦争)を見つめながら、しみじみお茶を飲んでいる俺と由比ヶ浜だったとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 強い日差しから逃げるように木陰で文庫本を広げて待ち人を待つ。ま、講義が終わったから雪乃と陽乃さんが来るのを待ってるだけなんだが。

 やはり俺の目の前を通り過ぎていく生徒たちの話題といえば、迫りつつある期末試験の話題でにぎわっていた。俺も人事ではなく、今も小説なんか読まないでテキストを見なおしたほうがいいのだろうけど、さすがに今日の講義が全て終わった直度に自分に鞭を打つなんて気合が入った勉強などできやしない。

 俺に出来ることといえば、英気を養うという現実逃避の小説世界への没頭くらいがせいぜいだ。それに、これからやってくる二つの台風が容赦なく俺からエネルギーを削っていくのだから、今くらいは自分を甘えかせても罰など当たらないはずだ。

 

「お待たせ」

 

「あ、はい。じゃあ行きますか。それともどこ通って行くところでもありますか? スーパーで食材買うのでしたら買ってから帰ったほうがいいですし」

 

「それもいいかもしれないわね」

 

「雪乃は?」

 

 いつも通りの俺に陽乃さんが話しかけてくるものだから、当然のように雪乃も一緒にいるのかと思いこんでいたが、その雪乃は陽乃さんの陰に隠れて身を潜めているわけではなかった。

 陽乃さんと雪乃が一緒に来るのが習慣になったのは、主にストーカー騒動時に雪乃が陽乃さんがいる校舎に近いからという理由である。その本来の目的がなくなった今は、別に雪乃と陽乃さんが一緒に来なくてもおかしくはない。

 しかし、いまだに一緒に来るのは俺の期待通りに姉妹間の仲が向上したわけでもなく、ただたんに雪乃が陽乃さんを見はっているという、これ以上の理由を聞きたくもないという理由からであった。

 

「雪乃ちゃん? 雪乃ちゃんにしては珍しく携帯落としちゃったんだって」

 

「じゃあ誰か拾っていないか、とりあえず鳴らしてみましょうか? 運よく拾ってくれている人がいたら出てくれるはずですし」

 

「ううん。落としたといってもなくしたんじゃなくて、地面に落としちゃったのよ。で、画面割っちゃったわけ。だから機種変更してから帰るから、先に帰っててだって」

 

 ん……っと。ごめん、信用できねぇって。

 外見上は嘘をついているようには思えないが、どうもうさんくさく思えてしまう。こういう場合、雪乃だったら公衆電話か陽乃さんの携帯を使って俺に連絡するはずのなに、それがないとなるとどうしても陽乃さんの言葉はそのまま飲み込めない。

 いや、ね。信じたいんだよ。信じたいんだけどさ……。

 

「あぁ~、私の言ってる事を信じてないって顔してるぅ。やっぱ嘘ばっかり付いてきた私のことなんて信用してくれないんだ。そうなんだ。そうなんだよね。傷ついたなぁ。傷ついちゃったよ。だから、いやらしく介抱してね」

 

 最後の言葉の後にはハートマークが付きそうな笑顔だったが、今は最初の言葉以外は聞かなかった事にしとこう。そう、言ってない。陽乃さんは俺を疑っただけ、だ。

 

「信じていないわけではないですよ。ただ、雪乃らしくないかなって思ってただけで」

 

「それは間接的に私の事を疑ってるって事じゃない」

 

「そうはいってないじゃないですか」

 

「だったら私を裸にひんむいて、どこにも嘘がないって調べればいいじゃない」

 

「あの、どこに裸にする必然性があるのかが……、わからないのですが」

 

「あら? やっぱりスパイの拷問っていったらこうじゃない?」

 

「知りませんからっ。どこの官能小説ですか」

 

「官能小説? 比企谷君ってそういうのを読んでいたのね」

 

 うっ。本当に読んでいないよ。読んでいないったら。風のうわさで聞いただけで、そういうジャンルというかお決まりパターンがあるって聞いただけですって。

 

「読んでません」

 

「でも、信じてくれるんなら裸になっても構わないわよ」

 

「そんなことをしなくてもいいですから。いや、むしろしないでください。お願いします。土下座がお望みでしたらしますから、どうか勘弁してください」

 

 どうして俺が謝らんといけないのかわからなくなったが、本能が俺を突き動かしてしまう。ほらやっぱ、危険が危ないしッ。

 

「でも、比企谷君は信じてくれていないみたいだよね? ……そだっ」

 

「なんです?」

 

 陽乃さんのわざとらしい今思いついた風の切り出しに、全身の毛が総立ちになり、危険信号が全身を駆け巡る。そもそもこの人が思い付きで切りだすとは思えない。予め思い付いていたいくつものある選択肢の中から選ぶ事があっても、どんな想定外の事態がふりかかろうが想定内で収めてしまうのが雪ノ下陽乃だ。

 

「比企谷君が私の事を信じられないというのなら、比企谷君が直接雪乃ちゃんに電話してみればいいじゃない。私が嘘をついているんなら、比企谷君の電話が雪乃ちゃんに繋がるはずでしょ?」

 

「疑ってすんませんでした」

 

 俺は直立不動の体制から勢いよく頭を90度下げる。

 たしかに陽乃さんを疑ってしまった。でも、実際雪乃で電話すれば嘘かどうかなんてすぐにばれるわけで、そんなどうしようもない嘘を陽乃さんがつくわけなかったんだ。

 俺が実際電話して雪乃がでることになれば、それはそれで俺をおちょくっていたという実被害が俺限定という極めて小規模の被害で済む。それならいつもの陽乃さんのちょっかいでくくれるわけだし、そう思うと俺の緊張は一気に流れ落ちていった。

 

「いいのよいいのっ。普段の行いが悪いってわかっているから。でも、ちょっとだけ傷ついちゃったかな」

 

「本当に申し訳ありませんでした」

 

 いまだに頭をあげられない俺に、陽乃さんはそっと俺の頭に手をのせて柔らかく撫で始めた。

 

「陽乃、さん?」

 

 びっくりした俺は思わず頭をあげようとする。けれど、その勢いは陽乃さんの両手の力によって減速され、そのまま柔らかい感触に包まれていく。

 つまりは、おそらく陽乃さんの胸に抱きしめられているわけで、少しばかり頭をあげたその位置は、ちょうど陽乃さんの胸で抱きかかえるのには適度な高さまで上がっていた。

 

「そのままっ」

 

「はっはいっ」

 

「よろしい。じゃあちょっとだけこのままでいさせてね」

 

「いや、よろしくないでしょ? ここってけっこう人通り多いですよ」

 

「大丈夫だって。比企谷君の顔は見えないでしょ」

 

「たしかにそうかもしれませんが、陽乃さんの顔はばっちり見えているじゃないですか」

 

「別に私はやましい事をしているわけではないし、見られても構わないわよ」

 

「俺が構いますって」

 

「でも、比企谷君は見られてはいないじゃない?」

 

「そういう問題ではなくてですね、陽乃さんがってところに問題があるんです」

 

「どうしてかしら?」

 

「どうしてって? そりゃあ陽乃さんがちょっかいを出す相手が限定されているからですよ。今大学で陽乃さんが手を出す相手って、大学内では大変嬉しい事に一人しかいませんからね」

 

「あら? 嬉しいって思ってくれているの? 私は迷惑だとばかり思っていたのだけれど」

 

「陽乃さん自身が迷惑だとわかっていらっしゃるのでしたら、最初から自重していただけれると嬉しいのですが」

 

 あぁ~この体制、けっこう疲れるな。って、不平を陳情しても却下されるだろうし、どうしたものか。頭の部分だけは天国なのに、下半身の、主に太ももへの負担半端ねえな。

 

「でも、ちょっかいかけている相手の比企谷八幡君が嫌がってはいても私を受け入れてくれるんですもの。ここはお姉ちゃんとしては全力でぶつからないわけにはいかないじゃない」

 

「いやぁ……、少しは手加減して頂けると助かります。それに、今も俺の足腰も限界っていうか、けっこうきつい、です」

 

「あっ、やっぱ」

 

「わかっているのでしたら離していただけると助かるのですが」

 

「でも、離したら逃げるでしょ?」

 

「逃げませんからお願いですから離してください」

 

 あっやばっ。このままだとまじで陽乃さんにしがみつく感じで倒れるぞ。まさか陽乃さん。それを目的で?

 と思っていたら、頭から極上のふくらみが離れていく。真夏のくそ暑い中にくっつかれるだけでも不快だというのに、陽乃さんの胸のふくらみだけはどういうわけか俺に不快さを全く与えずにいたせいで、自由になったというのに真夏の日差しのせいでかえって俺の不快指数は上昇してしまう。

 

「じゃあ、さっき私を傷つけたお詫びをちゃんといてもらおうかしらね」

 

「わかりましたよ。俺に出来る事でしたらなんでもやりますよ」

 

「そう?」

 

「ええ、でも何でもといてっても無理なら拒否しますから」

 

「わかってるわよ。用心深いわね」

 

「そんな性分ですのですみません」

 

「別にいいわ。でも、お詫びしてくれてるお礼としてまた抱きしめてあげるね」

 

「えっ?」

 

 陽乃さんはそう告げると俺を置いて校門の外へ向かって歩き出す。とりあえず公開羞恥プレイをされて注目されまくっているのはこの際無視だ。どうせいくら気にしたってどうにかなるわけでもないのだし、気にするだけ無駄なエネルギーを消費するだけだ。

 それに、今さっき大量のエネルギーを絞り取られたわけで、もはやエネルギーなど残っていないのが現状ってわけだ。

 だから俺は無言でそのカツカツとテンポよく歩いていくその後ろ姿を追う事にした。

 それに俺もこれ以上この場にはとどまりたくはないしな。なにせ陽乃さんは気にしてはいないようだけど、やっぱり外野からの好奇の視線は痛かった。

 

 

 

「で、早速だけど、さっきのお詫びしてもらおうかしら」

 

 そう俺に陽乃さんが死刑宣告を告げたのは、真夏の炎天下の駐車場に止まっている車のエアコンがまだ効きだす前の事であった。

 車内にはびこる熱と陽乃さんからのプレッシャーによって俺のシャツは肌にへばりつき、不快さを増していく。ただ、狭い車内逃げる場所など最初から用意されているわけもなく、普段は雪乃が座っている助手席に陣取っている陽乃さんは、俺の手を掴んで物理的にも逃げられないようにさえしていた。

 

「あの、陽乃さん?」

 

「ん、なにかな?」

 

「どうして手を拘束されているんでしょうか?」

 

「拘束? 手を握っているだけじゃない」

 

「だったらどうして振りほどけないほどに力強く握っているのでしょうか?」

 

「それは~、比企谷君が逃げようとするから?」

 

「ほら、拘束しているじゃないですかっ」

 

 俺の言葉を聞いて俺の手に食い込む指の力が増す。

 逃げようとしてもいないのにどうして力を増すんですか? これって反抗した罰ってやつですか? 

 不気味なほどに上機嫌な笑顔になっていくその表情に俺は逃げられないとわかっていてもシートのその奥へと逃げようとしてしまう。ま、皮張りのシートに簡単に跳ね返されて終わりなんだけどさ。

 

「そう思うんなら比企谷君に後ろめたい気持ちがあるからじゃないかな?」

 

「そんなのありませんよ」

 

「そぉお? だったらそれでもいいけど、きっちりとさっきのお詫びをしてもらおうかな」

 

「できる範囲内ですからね」

 

「大丈夫だって。この私の携帯で写真を撮るだけだから」

 

「それなら問題……」

 

 本当に問題ないのか? 写真っていってもどんな写真か決まっていないと、後々やばい事になるんじゃないのか?

 

「えっと、どんな写真を撮るんですか? 撮る内容によっては拒否させていただきます」

 

「そんなに身構えなくてもいいのに。比企谷君と一緒に写っている2ショットの写真が欲しいだけなのに。それさえも警戒するなんて、お姉ちゃんすっごくショックかも」

 

 だからぁ、そこでわざとらしく、よ、よ、よって泣き崩れる真似をしないでくださいよ。しかも演技だとわかっているのに、なにアカデミー賞級のその演技。さすが生まれてから演技してきたキャリアは違うってことかよ。

 

「すみませんでした。ごめんなさい。だから、これ以上俺にプレッシャーかけないでくださいよっ」

 

「別にそんなつもりじゃないんだけどなぁ……。でも、まっいっか。はい、写真撮るから肩を寄せて寄せて」

 

「わかりましたから、そんなにせかさないでくださいって」

 

「うん、じゃあレンズの方をよく見ててね」

 

「はい、わかりましたって」

 

 俺はシャッター音が鳴るのを今か今かと待ち続ける。そんなには待つ時間があるわけでもないのにシャッター音が鳴らない。そもそも陽乃さんの顔をが近すぎる。レンズから目を離すなって言われているので視線を動かす事は出来ないが、ちょっと左にずらせば至近距離に陽乃さんの顔があるはずだ。

 と、石像のごとく身を固くして待ち続けていると、頬に小さな柔らかい感触が押し付けられる。

 これって、つまりあれだよな。陽乃さんが頬にキスしたってことだよな。

 俺はいまだに解けない命令を忠実に守ってしまい視線さえ動かせないでいた。今すぐに陽乃さんのことを見て確かめたいのにそれができない。そこでせめてのも抵抗としてレンズの側にある車のバックミラーでいま起きっている状態を確かめようとする。

 俺の目がバックミラーを捉えようとする瞬間、先ほどまで俺が待ち望んでいたシャッター音が車内に鳴り響く。今になっては絶対に鳴ってほしくはないシャッター音が俺の鼓膜を突き破る。

 ということは、このシャッター音は陽乃さんが俺の頬にキスした瞬間をとらえたというわけで。……ごめん、これ以上考えるのをやめたくなってきた。

 

「さて、目当ての写真も撮れたわけだし、さっきの事は許してあげるね。あっ、大丈夫だよ。雪乃ちゃんに見せつけたりなんてしないし、誰にもみせる気はないから。ただ……思い出が欲しかっただけだから、犬にかまれたとでも思ってくれればいいから」

 

「そんなふうに思えるわけ……」

 

 金縛りが解けた俺は陽乃さんの目を捉えて大声で文句を言ってやろうとした。けれど、俺のその勇ましさは、その決意は、蛮勇行為を行ったはずの小さく震える少女によって打ち砕かれる。

 それは、本当に思い出が欲しかったと思えてしまう。いくら俺であっても陽乃さんの好意に気がつかないなんてありえはしない。だからこそ陽乃さんは俺との関係に区切りをつけにきたとおもえてしまった。

 そうなると俺には、なにもできない。陽乃さんが無防備すぎる状態になってしまったのは、俺が少なからず関わっているのだから。

 

「今回だけですよ」

 

「うん、ありがと」

 

 その幼い笑顔を見てしまっては、全ての言葉が引き下がってしまう。もはや俺にはなにもできない。なにもしない。

 ってことあるかいっ。もちろん演技でない部分もあるってわかっているが、それでもこの写真をこのままにしておくのはまずい。絶対まずいって本能が警鐘を鳴らしている。

 

「あの、確認ってわけではないんですけど、見せてもらえませんか? ほら、俺って馬鹿っぽい顔をしていると思うんですけど、あまりにひどいとちょっとへこむっていうか」

 

「いやよ」

 

「えっと、陽乃さん?」

 

「い~やっ」

 

「ちょっとだけですから」

 

「だって、絶対画像を消そうとするでしょ」

 

「するわけないですって。さっき今回だけはいいって言ったじゃないですか」

 

 陽乃さんはさらに警戒を強め、携帯をその胸で抱きしめる。

 そんな甘い危険地帯に隠されたら手を出せないってわかっててやってますよね? 今俺が手を出したら、写真騒動どころではない一大事が起きますよね?

 たしかに画像を消去する為に携帯を借りたいだけなので、陽乃さんの警戒は正しいんですけどね。

 

「その顔は絶対消してやるって顔をしているじゃない。私がわからないとでも思ってるの? それに今のあなたの顔を見れば誰だってそう思うわよ」

 

「うっ」

 

「ほらみなさい。言いかえせないじゃない」

 

「そりゃそうですよ。キスなんてしている写真撮られたら消そうとするにきまってるじゃないですか。そもそも撮る写真によっては拒否するって言いましたよね」

 

「別に私は拒否してもいいなんて一言も言ってないわよ。拒否しますと君が一方的に宣言しただけじゃない」

 

「そ、そうかもしれないですけど、こちらとしては条件付きでの撮影を許可しただけじゃないですか」

 

「でも結局は、私が条件を飲むかどうかの確認をする前に比企谷君が撮影の許可をくれたじゃない」

 

「……」

 

「でしょ?」

 

 くそっ。初めから勝負にならないってわかってたじゃないか。……もういいや。どうせどのような行動を取ろうと結末は変わらなかった気もするし。だったら済んだ事を気にするよりも、これからの事を考える方が省エネができるな。

 

「わかりましたよ。でもその写真、雪乃に見せて下さいね」

 

「え?」

 

「だから雪乃に見せるんですよ」

 

「本当にいいの?」

 

「いいに決まってるじゃないですか。下手に隠して話がややこしくなる前に、きれいさっぱり事実を打ち明けたほうが身のためですよ。もちろん血の制裁を受けるでしょうけど、まあ許容範囲内ですよ。むしろ後で事実が発覚したほうが雪乃が悲しむじゃないですか」

 

「でも、そんなことしたら喧嘩にならない?」

 

「そりゃあなりますよ。どうして罠だって気が付けなかったんだって鋭くえぐってくるでしょうね。でも、雪乃も俺も嘘をつく方がよっぽど辛い。だから正直に話すんです」

 

 おそらく俺の選択肢は陽乃さんの選択肢にはなかったのだろう。いや、ないことはないか。あることはあっても可能性が低い選択肢だったのだろうな。

 だからこそあの陽乃さんが驚いているわけで。

 

「わかった。わかりました。私の負けです」

 

「そうですか。わかってくれましたか」

 

「ええ、私の完敗よ。悔しい事にね」

 

「じゃあその写真、消してくれますよね?」

 

 陽乃さんは俺の顔と胸元で抑えている携帯を見比べると、にっこりと最上級の笑顔を浮かべ、はっきりとした口調で告げてきた。

 

「いやよ」

 

 はい? 

 この流れからすると、負けを認めた陽乃さんが快く写真を消すんじゃないんですか?

 

「あの、もう一度聞いてもいいですか?」

 

「ええ、どうぞ」

 

「その画像……」

 

「その画像って?」

 

「だから、陽乃さんが俺にキスしてきた写真ですよ」

 

「ええ、わかってるわよ」

 

「わかっているなら聞き返さないでくださいよ」

 

「ん? ごめんね。だって比企谷君があまりにも面白い顔をしているから」

 

 誰のせいです。誰のっ。

 

「あいにくこの顔はデフォルトでこうなっているものですんで」

 

「そっか、そうだったわね。それでなにかな?」

 

 わかってるくせに聞き返してくるなよ。……はぁ、絶対この後の展開って、俺が想像する通りになるんだろうなぁ……。もちろん考えたくもない事態という意味で。

 

「さきほど不意打ちで撮ったキスしているところの写真を消してくださいと言ったんです」

 

「うん、わかってるよ」

 

「だから、わかってるなら聞き返さないでくださいよ」

 

 あれ? なんかループしてね?

 

「はぁ……、だからそのキスの写真消してくださいって」

 

「うん、だから、いやよ」

 

「へ?」

 

 体力を削り取られすぎたのか? なんか陽乃さんが拒否したような気がしたんだが、きっと聞き間違いだよな。

 

「だから、この写真。絶対に消さないって言ってるのよ」

 

 世の中って小説のように都合よく話が進まないんだな。わかってたよ。わかってたさ。でもさ、ちょっとばかしくらい期待してもいいじゃないか。

 ほんのわずかに残ったエネルギーを使って考えた事は、ほんとどうしようもなく能天気で世の中なめきっている考えであった。

 

「じゃあどうしたらそのスキャンダル写真を消してくれるんですか? 俺をゆすろうとしてるんですか? 俺を揺すっても小銭しか出てきませんよ」

 

「いやだなぁ比企谷君は。私がゆすりなんて非効率な事、するわけないじゃない」

 

 いやいやいやいやいやいや……。もし非効率じゃなかったらやってたってことですよね? しかも、そのいいようだと効率的でもっとあくどい方法があるってニュアンスじゃないですか。

 俺をどうするつもりなんですか? 社会的抹殺ですか? もうほぼゾンビ状態の腐った状態なのに、どうするおつもりなんですかっ。

 

「取引をしましょう、取引を。陽乃さんが満足する条件を出してください。そうしたら、それが可能か検討しますから。むろん俺ができる最高のものを提供しますから、それで満足してください」

 

「それって、私的には最低ランクでも、比企谷君が最高だと思っているものなら取引成立って事になるじゃない? それはいただけないなぁ」

 

「違いますって。俺は陽乃さんみたいにあくどくないです。……あっ」

 

「減点1」

 

「すみません」

 

「減点分上乗せしておくわね」

 

「どうぞ……」

 

 もう逃げ出したい。ぜったい会話が続く限り借金を重ねていくって確証が持てる。しかもそれを陽乃さんが理解しているっていうのが難題だ。

 こうなると絶対陽乃さんは俺を離してくれないし……。

 

「どうしようかしら。そうねぇ……」

 

 左手を顎に充てわざとらしく考えるそぶりをしているってわかっているのに、陽光のスポットライトを浴びる名女優の演技に目が引き寄せられる。

 ちなみに右手は相変わらず俺の手を握って離してくれてはいないが、もはやキャパオーバーの俺は些細な出来事については思考を放棄した。

 

「確認しておきますけど、できない事は出来ないって拒絶しますよ。だから、今、ここで、この拒否条項を飲んでくれるかの返事をしてくれないければ話を進めません」

 

「あら? 比企谷君って案外用心深いのねぇ。というか、執念深い?」

 

「誰のせいです、誰のっ。俺もここまで用心深く話さないといけないって思うだけで口を開くのが辛くなっていますよ」

 

「でも、世の中契約社会なのだから、今のうちに契約条項に目を光らせる訓練をしておくのもいいと思うわよ」

 

「まだ社会人にもなっていないのに世知辛い現実を経験したくないんですけど」

 

「あら? それとも詐欺まがいの契約書にサインしちゃって、雪乃ちゃんに苦労させてもいいんだ?」

 

「それとこれとは別の話ですよ」

 

「そうかしら?」

 

「ええ、そうなんですよ」

 

「ま、いっかな」

 

「そうして頂けると助かります。でも、確かに陽乃さんが言う通り相手の言葉や書類に自分が警戒する以上に警戒する必要はあるとは思いますよ」

 

「で、しょう?」

 

「でも、普段の何気ない会話にまで契約を結ぶ時の警戒心を引っ張り出したくはないですよ。日常会話ですよ、日常会話。もっとフランクに、もっと心を許して楽しむものじゃないんですか」

 

 俺の自分らしくもない発言に陽乃さんの目が細まる。俺の値踏みするようなその瞳に、俺の体は車のシートに沈んでいく。

 

「なんですか?」

 

「んん? べ~つにっ。……でも私と雪乃ちゃんが会話するときって、雪乃ちゃん。すっごく警戒して、試験の時でも発揮できないような集中力で私の言葉を一つも聞き逃さないようにしてるわよ」

 

「だれのせいだと思ってるんですかっ。自分が雪乃にしてきた事を思い出してみてください」

 

「過剰にまでのシスコン行動?」

 

「自分でもわかってるんなら少しは自重してください」

 

「だけどぉ雪乃ちゃんかわいいじゃない。シスコンの姉としては妹をかまってあげなくちゃって使命感がぐつぐつと沸騰してね」

 

 その表現からするとわざとやってるってわかっているのだけど、なんだかなぁ……。

 

「もういいですよ。俺が言ったところでなおるわけではありませんし。じゃあ、どうしたらそのキス写真消してもらえるんですか?」

 

「ありゃ? まだ覚えてたの?」

 

「当然です」

 

「じゃぁあねぇ……。こういう」

 

「ちょっと待ってください」

 

「なにかな?」

 

 わざとらしく俺の顔を覗きこんでくるその視線に、俺がこの後言う言葉をわかっているんならわざわざそんな演出しないでくださいって愚痴をこぼしたくなる。

 でも、こんなまわりくどいことをするのが雪ノ下陽乃であり、俺と雪乃が慕う姉なのだから仕方がないかって、今では諦めて頬笑みさえも浮かんできそうではある。かっこ、予定、と注意書きが必要だけれど。

 

「拒否権についてですよ」

 

「あら? ちゃんと成長しているのね」

 

「鍛えられていますから」

 

「うん、いいわよ。比企谷君が無理だと思ったら拒否してもいいわ」

 

「ありがとうございます」

 

「じゃあさっそく条件をいうわね」

 

 と、そこで言葉を切り、再度俺の瞳を覗きこんでくる。

 その笑顔のプレッシャーに俺は存在しているかさえ疑わしい問題点を再検討せざるを得なくなる。陽乃さんへの警戒は、警戒してもなおもたりない警戒心が必要だ。ルールの穴を突いてくるのが陽乃さんであり、ルールにのっていないことなら堂々とやり遂げてしまうのも陽乃さんだ。 だから、陽乃さんが考えるそぶりを続けるほどに、なにか落とし穴があるんじゃないかって疑心暗鬼に陥ってしまう。

 まあ、相手が陽乃さんなわけで、俺がいくら警戒しても現状をひっくり返してしまうパワフルな人だ。最上級の警戒態勢であっても意味などはないだろう。

 でも、思考を放棄することと、現状を把握する事は別であり……。

 

「比企谷君?」

 

「はい?」

 

 俺のどのくらい考え込んでいたのだろうか?

 陽乃さんは極上の笑みを浮かべ、なにやら満足したっていう顔をしていた。その笑みさえも疑惑の始まりではあるが、もう俺にはさらなるリソースを割り振る余裕などなく……。

 

「目の前に相手がいるんだから、よそ見をしちゃ駄目よ」

 

「すみません」

 

「よろしい。素直に謝る事が出来るのはいいことよ。……で、さっきの要求だけど、私とデートしてくれたらいいわ」

 

「俺と二人でデートですか?」

 

「ええ、そうよ」

 

「……デートですか」

 

「だめ、かな? ほら、雪乃ちゃんは携帯ショップで時間かかるし、その間だけなら問題ないでしょ?」

 

「別にデートくらいならいつでもいいですよ」

 

「ほんとに?」

 

 この幼い笑顔を見てしまっては、陽乃さんの演技がアカデミー級であろうと、普通の人にとっては極上の笑みであっても、俺には陽乃さんが普段見せる笑みが作りものであるとわかってしまう。

 そして、無防備に擦り寄ってくるはにかみに、俺は今度こそ手を伸ばそうとしてしまう。

 だから俺は、意識を保つためにちょっとだけぶっきらぼうに言葉で濁すことしかできなかった。

 

「前にもいいましたけど、こんな回りくどい事をしなくても、普通に言ってくれれば付き合いますよ」

 

「でもそれって雪乃ちゃんも一緒でしょう?」

 

 だからやめてくださいよっ。反則ですって、そのちょっと拗ねたようで甘えてくる表情はっ。 もうね、もともと女に耐性がないんだから、俺の苦労もわかってください。

 

「いつも二人きりってわけにはいきませんけど、たまになら雪乃も許してくれるそうですよ」

 

「えっ、ほんとうに?」

 

「雪乃も、陽乃さんならそういう要求をしてくるだろうって言ってましたしね。だから、想定内の要求なので何も問題はありません」

 

 俺の提示に陽乃さんの表情は一瞬沈む。しかし、俺の懸念も俺が気に病む間もなく消え去り、新たに魅せる陽乃さんのその表情にたじろぐしかなかった。

 

「まあ、あれですよ。しっかりと雪乃に報告すればいいそうです。もちろん事後報告は基本駄目だとは言っていましたけど、事後報告をしっかりするのであれば事後報告であってもギリギリセーフだそうです」

 

「事後報告も?」

 

「ええ、まあ。陽乃さんですし、俺が押し切られてしまうだろうと……。俺の駄目っぷりを数時間正座で説教されておきましたから、事後報告だろうが問題ないですよ」

 

 事後報告後に、さらに数時間のお説教があるんだが……。

 

「そっか。そうなの。……うん、雪乃ちゃんらしいわね」

 

「だから、今日のデートも最初から言ってくれればよかったんですよ」

 

「ごめんね比企谷君。私ったらまわりくどいことして比企谷君をふりまわしちゃって」

 

「ほんとですよ。もうちょっと俺の事をいたわって、ねぎらいつくして下さい」

 

「うん、今度からそうするね」

 

「あっ、はい。……お願いします。……じゃあ、今回まわりくどい事をして俺を振りまわしてきたペナルティーとかあってもいいですか?」

 

 言った直後に後悔するんなら言うなよって自分を殴りたい。ちょっと陽乃さんがしおらしい態度をとったからって調子にのっても、数秒後には崖から突き落とされるのをわかってるのに。

 ほんと、なんでいっちゃうんだかなぁ……。

 

「ん? いいよべつに」

 

「ほんとですか?」

 

「ほんとに本当よ」

 

 いや、助かった。まじで機嫌がよすぎるんじゃねえか。

 そうなると有頂天の俺は陽乃さんのペースに乗せられてしまうわけで。

 

「そうですね。二人っきりでデートするわけですし、二人の立場の明確な一線を引く為に陽乃さんのことを「姉さん」とでも呼びましょうか。いや……」

 

「うん、いいよそれで」

 

「……冗談で。…………えっ、まじですか?」

 

「うんいいよ。ねえちゃんでも、陽乃姉さんでも、お姉様でも構わないわ」

 

「最後のはちょっとあれですから、陽乃姉さんでお願いします」

 

「うんっ」

 

 やばい。これがデレってやつですか。普段が普段だけにギャップが激しすぎないか? よくギャップ萌えとかいっちゃってるけど、ここまで違うと別人格が乗り移ってるんじゃないかって疑ってしまうぞ。

 

「はぁ……」

 

「ほんと、こんなことならあんなことしなければよかった」

 

「えっ? なんです? すみません。ぼおっとしていて聞き取れませんでした」

 

「ううん。別になんでもないわ」

 

「なんでもないって言われますと、ますます気になってしまうのですが」

 

 特に陽乃さんの場合は。

 

「もぉしょうがないなぁ。ただ、この後どこに行こうかって聞いただけよ」

 

「陽乃さんは行きたいところないんですか? 俺は陽乃さんが行きたいところにお供しますよ。俺は特に行きたい場所も、気のきいたデートスポットもしりませんし」

 

「ん? んん~」

 

「な、なんですか? その含み笑い。俺なにかヤバイ発言しちゃいましたか? 一応補足説明しておきますけど、俺が行ける場所にも限度がありますからね。もちろん拒否権もあります」

 

「もぅ、そんなに身構えちゃったらせっかくのデートなのに雰囲気ぶち壊しじゃない」

 

 誰のせいですかっ、誰の。言葉に出さなくても露骨に顔に出ているだろうから言わないですけどねっ。

 

「まあいいわ。別に比企谷君が身構えるような事ではないわ。ただね……」

 

 だから、そこで言葉と止めないでくださいって。この数秒の間に冷や汗が流れまくるほどかんぐっちゃうじゃないですか。

 

「面白いわね、比企谷君って。見ていて飽きないわ」

 

「俺はちっとも面白くないんですけど」

 

「あら? デートって、彼女を楽しませるものじゃないの? その為に血反吐を吐いて彼女に尽くしているのだと思っていたわ」

 

「あいにく男女平等がもっとうなので、彼女だけではなくて自分も楽しみたいんですよ。むしろ男女平等を訴えるんなら、女性だけの権利も放棄してほしいものです」

 

「そう? 私は男女平等なんて不可能だから気にしてないわよ。だって、差別って性別だけじゃないでしょ? それに、差別がない世界なんて不気味で不健全よ」

 

「俺もそこまで求めてはいないですよ。ただ、自分の権利だけを棚に上げて、人の権利だけはぎ取っていこうとしている奴らが気にいらないだけです」

 

「なるほどねぇ……。権利なんて利権なんだし、よっぽどの変わり者じゃなければ自分の権利なんて手放さないわよ。まっ、いっか。こういう卑屈な会話を比企谷君と楽しむのも悪くはないんだけど、せっかくだからデートに行きましょうか」

 

「そうですね。じゃあ陽乃さん。どこ行きます?」

 

「ダウト」

 

「はい?」

 

「だから、その呼び方じゃダメでしょ」

 

「え?」

 

 なんだっけ? 呼び方?

 

「陽乃さんじゃなくて、今日は「陽乃姉さん」なんでしょ?」

 

「あっ……。それってまじで有効なんですか?」

 

「ええ、もちろん」

 

 悪魔の頬笑みだ。これが天使とか言う奴がいたら、ぶん殴って目を覚ましてやりたい。いや、そいつを生贄にして逃げるべきか。そうだ。馬鹿な盲信者は生贄にすべきだな。

 もう、これが悪魔じゃなくてなんだっていうんだ。俺が言いだしたことだけれど、それを逆手にとるなんて、なんてたちが悪いんだ。わかってはいた。だけど、俺が羞恥に沈むのを見越してカウンターだなんて……。

 これから始まるデートという名の苦行が始まるっていうのに、始まる前から暗雲が立ち込めまくりで、雷落ちまくってるだろ。

 

「ん? ちゃんといってほしぃなぁ」

 

「ね、ぇさん」

 

「あれ? 何か言ったかな?」

 

「……さんっ!」

 

「さん? 数字?」

 

「陽乃、姉さん」

 

「なにかな弟君」

 

「陽乃姉さん、この後どこに行くんでしょうか?」

 

 くそっ! 自分で仕掛けた罠なのに、なんで俺が罠にかかってるんだよ。しかも、俺が仕掛けた罠の効果以上にダメージくらってるし。

 

「うん、そうねぇ。この前映画館で見た映画覚えている?」

 

「ストーカー騒動のとき観た映画ですよね?」

 

「うん、それそれ。弟君は私の警護で全部は見られなかったのでしょ?」

 

「ええ、はい」

 

「でも、面白かったからいつか見たいって言ってたわよね?」

 

「そうですね。最初は適当に客席を見張りながら警護でもして時間を潰していようと思っていたんですけど、予想以上に映画にはまってしまいましたよ。Dクラスの連中も面白いって言ってましたし。なんかあいつら今度みんなで見に行く予定らしいですよ。…………って、由比ヶ浜が言ってました」

 

「あら? 比企谷君は誘われなかったの?」

 

「俺が行ってもあいつらが気を使うだけですよ。だったらあいつらだけで行くべきです」

 

「それもそうね。じゃあ、比企谷君は私と一緒に見ようか」

 

「いいんですか? 陽乃さんは何度も見……」

 

「んっ、んん~」

 

 くそっ。まだ覚えていやがるのか。この後悔しか残っていない条件って、今日いっぱい有効で、とことん俺をいじり倒すんだろうな。

 

「はい、もう一度言いなおして」

 

「陽乃姉さんは、何度も見てるんじゃないですか?」

 

「私は好きな映画だし、それに、弟君と一緒に……比企谷君? 弟? ん?」

 

「どうしてんですか? べつに弟君でも比企谷でも陽乃さん、陽乃姉さんが呼びたいように呼んでください」

 

「いいの?」

 

 下から覗きこむその姿に、どっちが年下だよって身構える暇もなくたじろいでしまう。これが演技なのか素なのかはわからないけど、俺の鼓動を激しくするには絶妙な威力を秘めていた。

 

「ええ、陽乃姉さんのお好きなようにどうぞ」

 

「じゃあ、ねえ……」

 

 あっ、なにか企んでる。理由はわからないけど、絶対ここで止めないと後悔するはずだ。

 しかし、俺の願いは虚しく、一度自由にしてしまった野生の獣などは拘束できるはずもなく、当然俺に襲い掛かってきた。

 

「八幡」

 

「あっ」

 

「八幡」

 

「…………」

 

「やっぱりお姉さんが弟を呼ぶときって、名前を呼び捨てよね。八幡も小町ちゃんを呼ぶときは呼び捨てでしょ?」

 

「そうですね」

 

「ねっ」

 

「ええ、まあ…………」

 

 イエスっていっていいのか? 言ったあと、どんな仕打ちがくるんだ? 考えれば考えるほど深みにはまっていくぞ。

 

「八幡がいいなぁ。ねえ、八幡いいでしょ? 八幡、八幡」

 

 だから実力行使はよしてくださいって。今まで手を握っていた誘惑については対応できますよ。でも、そこからさらに、その手を、大きくて、柔らかくて、味わった事もないような魅惑の楽園……、ごほん。えっと、俺を駄目にしてしまう大きな胸で包み込もうとするのはよしてくださいっ。

 俺の108ある防御壁が一瞬で蒸発しちゃいますからっ。むしろ喜んで防御壁を撤去しちゃいますまらね。

 

「わかりました。わかりましたから、……手を離してください」

 

「わかったわ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「あの……?」

 

「なにかしら?」

 

「手を離してくれるんでしたよね?」

 

「あぁそうだったわね」

 

「だったら手を離してください」

 

「ん~っと、やっぱただじゃやだなぁ」

 

「さっき解放してくれるって言ったじゃないですか」

 

「でもでもぉ、なんだか愛おしくなっちゃってね。無条件に手放すのはねぇ。ほら、権利って一度手にすると手放したくなくなるっていうじゃない?」

 

 くそっ。どこから陽乃さんの策略にはまったんだ? ……考えるだけ無駄か。たとえ目の前にいなくても陽乃さんの手のひらの上った感じがしてしまうのは、俺が怖がっているだけじゃないんだろうなぁ。

 

「わかりました。それ相応の対価を支払いますから解放してください」

 

「うんっ、そうこないとね。じゃぁあ……」

 

「もったいつけないでとっとと死刑宣告してください」

 

「死刑宣告だと思ってるんだぁ……。お姉ちゃんショックで死んじゃうかも。だから寂しくてこの手も離せなくなるようなぁ」

 

「すみませんでしたぁっ。陽乃さんに……陽乃姉さんにショックを与えてしまった分も上乗せして請求していいですから、早く解放してくださると助かります」

 

「もうせっかちね」

 

 だれのせいですか! もう言葉にして言わないけど。言ったら絶対即後悔すること間違いなしだ。……もしかしたら俺の憮然とした表情まで人質にされそうな気もするけど、こればっかりは見逃してください。

 …………まじでお願いします。

 

「まっ、いいわ。対価は貸しにしておくわ。そのほうが八幡も嫌がるでしょ?」

 

 嫌がるってわかってるんならやめてくれませんかね? 

 きっと俺の顔は非常に嫌そうな顔をしてるのだろう。

 だって、陽乃さんの、陽乃姉さんの顔が生き生きしてるんだもんな。もはやその笑顔を見たら、鏡を見なくても俺の表情を推測できてしまうのは嫌な経験だ。

 そして、そのあと20分ほど陽乃「姉さん」による過剰な姉弟のスキンシップをうけたのち、ようやく俺は解放された。

 

 

 

 

 

 目の前の大きな画面には前回観た映画が映し出されている。

 そう、今はストーカーを警戒する必要も、ましてや作戦の失敗を恐れる必要さえない。つまりは、なんの心配ごともなく目の前の映画に集中できる条件は整っていた、…………はずだった。

 なのに、どうしてなのだろうか? どうして俺はこの映画をゆっくりと鑑賞できないのだろうか? もしかしたら呪われているのかもしれないとさえ疑ってしまう。

 ま、呪われているのは映画じゃなくて俺自身ってところが認めたくない事実だが。

 

「どう? これだったら誰にも邪魔されずに「映画デート」を楽しめるでしょ?」

 

「いや、ちっとも映画の内容が頭に入らないんですけど」

 

「だからぁ、映画のデートイベントとしては楽しめているでしょって意味よ」

 

「楽しんでいるのは陽乃姉さんだけですよ」

 

「そうかしら? むしろ映画に集中できていない八幡は、しっかりと映画デートを楽しんでいる証拠じゃないかしら?」

 

 俺は陽乃さんの正確すぎる指摘に顔を赤くしながら苦い顔をうかべるしかなかった。

 その弱りきった俺の姿さえもかっこうの獲物となり、陽乃さんを喜ばせてしまうのだから、俺は一時も気を休める事は出来ないでいる。

 

「あの……」

 

「なにかな?」

 

「近くないですかね?」

 

「近いって? もうちょっと後ろの方で見る方が八幡の好みだった?」

 

 …………絶対俺が言っている「近い」っていう意味わかってんだろっ! 

 しかも、本気でわかりませんっていう幼い顔を演じきっているものだから、下手な事も言えないし。

 その、……これは雪乃にも言えない事なのだが、最近の陽乃さんの言動が演技ではないと思えてしまう事がちらほらと見受けられる。しかも、うぬぼれ度合い80%くらいあるとは思えるが、俺と二人っきりの時はとくにそう思えてしまう。

 だから俺は陽乃さんに演技をするなとは注意できない。

 だからこそ俺は陽乃さんを拒絶できなくなる。

 だって、今目の前にいる幼すぎるその好意に、俺は素直に受け入れたいって思えているのだから。

 その一方で、今拒絶してしまったら二度とみることができないという恐怖も半分くらいはある。

 俺はこの誰にも言えない喜びをどうすべきか判断を決めかねていた。

 

「雪ノ下家のリビングにあるテレビはでかすぎませんか。こんな家電量販店の展示用にしかならないようなでかすぎるテレビを設置している家は初めて見ましたよ」

 

「あら? 八幡って友達の家でテレビを見られるくらい仲がいい人っていたっけ?」

 

「すみません。想像でした」

 

「うん、でも量販店のでかすぎる大型テレビって一番売りたいサイズのテレビをでかく見せる為に展示しているって言われてもいるし、あながち八幡が言っている事も間違いではないでしょうね」

 

「ネットとかでよく流れている噂ですね」

 

「ま、嘘も多いだろうけど、テレビの噂は本当なのでしょうね。で、やっぱりもうちょっと後ろの方で見る? ソファーを動かせばいいだけだし」

 

「いや、このままでいいですよ。なんとなく画面が近いかなって思っただけですから」

 

「そう? だったら映画を楽しみましょう」

 

「あ、はい……」

 

 俺の返事をにこやかに受け取ると、陽乃さんは再度俺の腕を引き寄せ、肩に頭をちょこんとのせてくる。

 雪乃とは違う甘い香りのトリートメントの黒髪が頬をくすぐり俺を迷わす。こそばゆくて、くすぐったくて、甘ったるい衝撃に、俺は無条件降伏をするしかなかった。

 ……というか、反撃らしい反撃を一切せずに受け入れていた。

 黒革のソファーと来客が来る事を前提にして取りそろえられている威厳に満ちたすこぶる居心地が悪いリビングは、俺達二人の周りのわずかな空間だけは来客を無視した空間へと書き変わる。

 背もたれまでが狭い座る事を重視したソファーさえも俺の腕を枕にする事で、陽乃さんにとっては最高のソファーへと変貌する。俺の方も柔らかなぬくもりの肢体に身を寄せることで、来客用ソファーの性能を格段にあげていた。

 

「陽乃姉さん?」

 

「ん?」

 

 俺の呼びかけに形の良い顎をあげ、瞳を俺に向けてくる。

 俺はその瞳と薄い布地がこすれ合うくすぐったさを我慢して言葉を続けた。

 

「あの……、俺の肩に乗っているのはなんでしょうか?」

 

「私の頭だけど?」

 

「それはわかっていますけど」

 

 本能は降伏しても、ほんのわずかに残った理性は意味のない抵抗をしてしまう。そして、その抵抗さえも陽乃さんの喜びに繋がっていると本能がわかっているものだから、俺は言葉を引き止められないでいた。

 

「じゃあ、なにかな?」

 

「…………いえ、なにも問題ないです」

 

「そう?」

 

「はい」

 

 と、再度俺の陥落を確認し喜んだ陽乃さんは、戦利品だと言わんばかりに俺の腕を抱きしめる力を強めてくる。

 こんな予定調和を何度繰り返したのだろうか? ちっとも映画なんて観ていなかったと断言できる。この調子だとまたこの映画を観る羽目になりそうだけれど。

 

「陽乃姉さん」

 

「今度は何かな?」

 

「この際適度なスキンシップは目をつむりましょう。だけどですね」

 

「なにも問題ないって言ったじゃない」

 

「脚を絡ませてくるのだけは勘弁してください。ただでさえ映画の内容が頭に入ってきていないのに、これはさすがに刺激が強すぎます」

 

「もう映画に集中できていないのだから、この際全て諦めちゃいなさいよ」

 

「いや、映画はもう諦めましたけど、せめてもの抵抗といいますか、節度ある対応を求めているといいますか」

 

「わかったわよ。脚は勘弁してあげるわ」

 

「ありがとうございます」

 

 って、おいっ。

 

「なにか不満でも?」

 

「何もありません」

 

 俺は映画が終わるまで、膝の上に陽乃さんをのせたまま、嬉しい拷問を受け入れていた。

 脚を絡めることのかわりが膝の上に座るですか。コメントは、なしということでお願いします……。

 

 

 

 

 

 映画の後は当然の流れとして陽乃さんによる食事がふるまわれる。

 キッチンに立つ陽乃さんの姿は、普段の雪ノ下陽乃の雰囲気はない。どこにでもいる女の子が料理をし、鼻歌なんて歌っちゃったりしているのを目撃なんてしたときには、これが素の陽乃さんなのではいかと思ってしまった。

 別に特別な事はしていない。いたって普通で、平凡そのものだ。その平均的すぎる姿は、いつもの突き抜けた姿とは重ならなく、それがかえって陽乃さんである事を俺に印象付ける。

 

「雪乃は携帯の交換終わったんでしょうかね? 平日でも夕方だといつも混んでいるし。でも、さすがに終わってるか? それとも修理することになるのか?」

 

「どうかしら? 気になるんだったらメールでもしたら? メールしておけば、機種交換終わり次第折り返しメールくれるでしょうし。ほんと雪乃ちゃんに過保護というか、心配症ね」

 

「ほっといて下さい。過保護っていう意味でしたら陽乃さんのほうが過保護じゃないですか。むしろかまいすぎて弱体してしまっていますけどね」

 

「あら? 八幡も弱っているのかしら? だったら精力がつく料理をふんだんに用意しようかしらね。いえ、この際夜眠れなくなるくらいの料理を作ってあげなくちゃいけないわ。これは料理人への挑戦ね。挑戦を受けたのならば受けなくてはならないのが雪ノ下陽乃だし」

 

「すんません。この通り元気です。元気すぎますから普通のメニューにしてください」

 

 別にいいんだけど、いいんだけど。でも、雪乃があとで何を食べたか聞いたときに、絶対陽乃さんと喧嘩になるだろ。さすがに実家まで乗りこむ事はしないだろうけど、電話で……、いや、それよりも明日の朝がやばいか。

 朝から人が多い公道で俺を挟んでの目立ちすぎる姉妹喧嘩なんて御免こうむりたいものだ。

 

「まあ、もうほとんど作り終えてるから今さらメニュー変更なんてしたくないんだけどね」

 

「あの?」

 

「なにかな?」

 

「それって普通のメニューという意味でですよね。精力アップメニューではないですよね?」

 

「どうかしら? 実際目で確かめてみたらどう?」

 

「……いや、すべてお任せします」

 

「そう? だったら私がテーブルに料理運び終える前に雪乃ちゃんにメールしちゃいなさい」

 

「はい、そうさせていただきます」

 

 俺はソファーに座り直すと、陽乃さんに背を向けてメールを打ち始める。別に隠すような内容でもないし、見られたって恥ずかしくもない事務的な内容である。

 ……まあ、以前俺が雪乃に送信した「あとで読み返したら即座に消去したくなるメール」を、雪乃が俺に隠れて読みかえしているのを知った時の衝撃。

 雪乃が読みかえす分には雪乃のデータだし、俺は土下座して消去してと頼む程度ですむ。

 しかし、その恥ずかしすぎる愛の囁きとまで言えてしまう文章を作ってしまった事実だけは消去できない。その黒歴史ならぬ桃色歴史? 人はどうして成長しても消したくなる歴史を刻むんでしまうのだろうか?

 

「八幡。そろそろ食べられるけど、メールの方はまだ時間かかる?」

 

「もうメールは送信したので大丈夫ですよ。…………って、雪乃からもう返事来ましたよ。えっと……陽乃さ、陽乃姉さんと食事すませて下さいだそうです。雪乃はなんか由比ヶ浜と一緒に食事してから帰るとか。一緒に携帯ショップに付き合ってもらったお礼をするそうですよ」

 

「そう? 雪乃ちゃんもガハマちゃんと楽しんでいるわけだし、八幡は私とふたりっっきりで楽しみましょうよ」

 

「ええ、二人で「食事を」楽しみましょうね。陽乃姉さんとの食事楽しみだなぁ」

 

「わざとらしい演技はさておき……、さっ、さ。八幡御待望の二人っきりの食事よ。しっかりと食事を楽しみましょうね。もちろんデザートも用意してあるわよ」

 

「デザートも手造りだったりするんですか?」

 

「どうかしら? ある意味手造りだとは思うけど、だいたい素材のままだと思うわよ」

 

「フルーツとかですか? もしくは素材を生かすとなるとタルトとか?」

 

「ううん、ぜんっぜんあっていないわよ」

 

「すっごく嬉しそうに否定しないでくださいよ」

 

「だって、ねぇ……。せっかく用意したんだし、八幡は食べてくれるわよね?」

 

「それは俺の方から食べさせて下さいってお願いするほうですよ」

 

「そう? だったらしっかり食べてね。私をっ」

 

 えっとぉ……。まず、語尾にハートマーク付いていますよね……。

 で、恥ずかしそうにきゃぴって両手のこぶしを胸に当てているのは、絶対に演技ですよね……。

 あとは……、突っ込んでいいんですか? もちろん性的な意味ではない方で。

 あ……、足元見ると、可愛らしく片足上げてたんですね。気がつかないようなところまでしっかりと演技するところは感心しますよ。ええ、そこだけは感心します。

 

「ねえ、八幡?」

 

「なんでしょうか、陽乃お姉様?」

 

「そう冷静に対処されちゃうと、私、すっごく恥ずかしんだけど」

 

「その割には平然そうにしていますよね。せめて顔を赤くするところまで演技してくださると、こっちも大根役者であっても一緒に演技しないといけないって使命感が沸きますけど」

 

「ん~……、ほら私って顔が赤くならないたちだから。だから、ほら。内心では恥ずかしがっているのよ」

 

「とってつけたような解説をされても」

 

「そう……」

 

 陽乃さんは俺の耳にぎりぎり届くような囁きを残すと、俺に背を向けて体育座りをする。

 小さな背中からは哀愁を漂わせ、俺の演技指導以上の技能を俺に見せつける。

 きっとこれも演技なのだろう。空気を吸うように演技をしてきた陽乃さんだからこそできる演技だった。

 まあ、演技だとわかっていても、うかつに手を出せないのが真にこわいところだが。

 

「…………」

 

「え?」

 

「…………」

 

「すみません。声がちいさくて、しかもくぐもって聞こえないです」

 

 俺の再度の要求は満たされない。

 陽乃さんはこの結果をわかって台詞を言っているのだろうから、ここは俺がかがみこんで耳を寄せろって事だろう。

 だから俺は、芝居の台本通りに陽乃さんの顔の近くに耳を寄せた。

 

「お願いしますから、もう一度だけ言って下さい」

 

「傷ついた」

 

「傷ついた?」

 

「そうよ。八幡にキズものにされてしまったの」

 

「やめてください。人が聞いたら絶対に勘違いするような発言はよしてください」

 

 きっと俺がうろたえた姿を見たかったのだろう。げんに俺が台本通りにうろたえている姿を見て、陽乃さんは破顔している。

 

「でもぉ、八幡って意地わるよね」

 

「そんな事はないと思いますよ」

 

 むしろ俺の方が虐められているって。……言わないけど。

 

「だって、駐車場の車の中でも私の事をキズものにしたたわよね?」

 

「それは……」

 

「あのときもいつか償いをするって約束してくれたのに、それさえも忘れて今も私をキズものにしたわ」

 

「だから、きずものっていうワードを使うのだけはよしてくれませんか」

 

「間違った使い方ではないはずよ」

 

「言葉の意味としては間違っていないかもしれないですけど、大多数の人間が最初に想像する意味は陽乃さんがつかっている用法とは違いますよね?」

 

「あら? それこそ八幡が気にする事ではないわ。だって八幡は他人の目を気にせずに、自分の道を歩いているって高校時代から言っていたじゃない」

 

「それこそ勘違いしていますよ。俺だって人の目は気にしています」

 

「気にしていても割り切っていたじゃない」

 

「だぁ……」

 

 絶対に勝てない。だったら挑まなければいいのに、どうして俺って挑んじゃうんだろ?

 ひらひらと舞って、俺をからかっては逃げていく。きっと一生手でつかむことなどできやしないのだろう。一瞬だけ触れて、ほんの少しの間だけ気持ちがわかった気がして、でも、きっと最後まで理解できない相手。

 だからといって陽乃さんは理解されない事を望んではいない。俺も望んでいない。

 だったら負け戦を続けるしかないだろ。……精神を削られまくるけど。

 

「もうギブアップ?」

 

「いや、保留にしておいてください」

 

「いいわよ。で、話を続ける? なんの話をしてたんだっけ?」

 

「料理が冷める前に食事にしようって話ですよ」

 

「そうね。せっかく作ったんだし、早く食べましょうか」

 

「ですね」

 

 デザートの話なんかしてやるもんか。

 

「で、食後のデザートはどうする? お勧めは雪ノ下陽乃だけど」

 

 ですよねぇ……。都合よく忘れてくれるなんて思っていませんよ。

 食欲を掻き立てる食事の臭いが鼻をくすぐる。きっと数秒後には胃も騒ぎ出し、みっともない音を鳴らしまくるはずだ。そのみっともなさまで要求され、俺の心はいつも見透かされてしまう。

 いつだって数歩以上も先を優雅に歩き、俺はその後ろ姿に惚れてしまう。

 届かないからこそ美しい。後姿だからこそ身勝手な理想を押し付けられる。

 彼女に追いつき、その横顔を見た瞬間に、俺は現実を知るのだろう。きっと現実を見ない方が幸せなはずだ。

 俺も、そして彼女さえも幸せなのかもしれない。

 しかし俺は望む。

 彼女の隣に立つ事を望む。そして願わくば、彼女の半歩前を行き、彼女の手を引きたいとさえ望んでしまう。

 きっと彼女も…………。

 

「雪ノ下陽乃の手料理でしたら、いつだって、なんだって喜んで食べますよ」

 

「なんでも? ほんとうに無条件に食べるの?」

 

「ええ、たとえデザートに雪ノ下陽乃自身が出てきたとしても、俺は喜んで食べますよ。むろん俺流の食べ方で、ですが」

 

「言ってくれるわね」

 

「食事って、目で楽しむ部分もありますよね? だったら実際には手をつけずに、目だけで楽しむってことも許されるはずですよね? あとは臭いだけを楽しむとか?」

 

 俺のあくどい提案にまじ引きの陽乃さんは、相変わらずの笑顔で俺の提案を吟味する。

 

「もしかして八幡って、雪乃ちゃんにアブノーマルなことをさせてる? 臭いだけとか、見るだけとか……」

 

「してませんからっ!」

 

 どんびきするとは予想外だった。陽乃さんに手を触れないで場を収める方法もあるって主張するつもりが、斜め上方向にすっとんでないか? しかも俺に苦痛を共わせて。

 

「まあ私はこう見えても生娘なわけだし、そりゃあ経験豊富な八幡が普通だと思っているようなことなんて判別できないわね。……あっ、このくらいならふつうのスキンシップだと言ってせまったりしないでしょうね? もちろんウェルカムだけど」

 

「うれしそうに誘わないでくださいよ。……それと、もちろん経験がない人でも判別できるくらいノーマルな事しかしてませんから」

 

「あら? 純情で無知な気娘に、夜のお話なんて……」

 

 よよよって恥ずかしがらないでくださいよ。演技だとわかっていても気恥ずかしい。

 俺も何言っちゃってるのってわかっているから余計たちが悪い。

 ただ、俺をからかっているだけなんだろうけど、本当に生娘のように陽乃さんが照れている部分も見受けられ、それがかえって俺の心をくすぐってきてしまう。

 

「すんません。俺が全面的に悪かったことでいいですから、食事を食べさせて下さい。こんなにも美味しそうな香りと彩りを魅せる陽乃さんの手料理をいつまでもおあずけなんてきついです」

 

「うんっ、そうね。せっかく八幡の為だけに作ったのだし、一番美味しい状態で食べてもらいたいわ」

 

「というわけで、いただきます」

 

「どうぞ召し上がれ」

 

 予想通り料理に関しては真面目に取り組む陽乃さんなわけで、うまい具合に話を退ける事に成功する。

 まあ、退けるというか、食事の前の一種のコミュニケーションなのかもしれないが。

 食卓に並べられていた料理は時間と共に順調に減り続けていた。主に俺が食べていたわけで、陽乃さんが俺に「あ~ん」と食べさせようとたじろかすことが少々あったが、それも予定調和として消化されていく。

 9割方の皿が空になる頃には陽乃さんは箸をおき、先日の(偽)デートのおりに購入した干支切子のペアワイングラスでワインを楽しんでいた。

 陽乃さんの細い指で支えられている朱色のグラスは、きめ細かにカットされた溝に光が紛れ込み、中のワインの彩りに深みを増していく。庶民代表の俺にそのグラス本来の価値など評価は出来ない。しかし、芸術作品にまで上り詰めたグラスは、そのグラスの持ち主の容姿と相まって、一つの絵へと昇華していた。

 一方、俺の方の藍色のグラスは当然だが炭酸水が満たされ、なんだか朱色のグラスにヤキモチなんて妬いているんじゃないかって、同じ干支切子としてのプライドを心配してしまうのは考え過ぎだろうか。

 それに炭酸水なのは車あるし、飲酒運転なんてして人生駄目にしたくはないから、その辺は勘弁してくれ干支切子くん。

 まあ、ワイン飲んでも泊まっていけばいいじゃない、という脅迫はやんわりとお断りしましたよ。きっとワイン飲んでも雪乃が迎えに来るだろうけど。

 

「ねぇ八幡」

 

「はい?」

 

 グラスを傾け俺に微笑むその艶やかな唇にどきりとして俺の声は裏返る。

 色っぽく頬笑みかける妖艶な唇は、昼間のあどけなさなど微塵にも感じられない。これが一瞬でも幼いと思えた人物と同一人物なのだろうか。女は化ける。それを教科書通り実践して見せている。

 しかも、普段からアルコールの助けがなくとも色気を隠しきれないでいる。その陽乃さんがリミッターをきったらどうなることやら。ほんのりと朱に染まる頬を見て、自然と唾を飲み込んでしまった。

 

「おねがいがあるの。……ううん、切望かしら? ……辛いの」

 

「…………」

 

 アルコールの混じった吐息に俺は返事を失う。それでも肺の空気を絞り出そうと試みようとするが、俺の努力は陽乃さんの次の言葉によって霧散した。

 

「辛いの。比企谷君に陽乃姉さんって呼ばれるのは辛い、かな。いくら私が八幡ってささやいても、越えられない壁が目の前に築かれていって、陽乃姉さんと呼ばれるたびに八幡が遠くにいってしまうきがする。ううん、平行、かな。永遠に交る事がない距離を、私だけがあがこうとしている。それが、辛い。比企谷君に姉さんって呼ばれるたびに痛いの。これだったら陽乃さんのままでよかったかな……。ねえ、……あなたはどう思う?」

 

 人は先入観を抱かずにはいられない。この呼称ごっこも、いつもの陽乃さんのお遊びの一つだと、勝手に自己完結させていた。

 人の痛みには鈍感で、傷つけているとさえ気がつかないでいる。俺にとってはそれが当たり前すぎて、陽乃さんがそれを黙って受け入れていてくれているから俺は気がつかないままでいてしまう。

 それはどこにでもある日常で、誰にも経験したことがある苦い経験で。

 でも、間違えてはいけない場面では、たとえば今の場面では、きっと鈍感であってはいけなかったのだろう。

 だから俺は…………。

 だから俺は無防備な本心を彼女に差し出す。

 謝罪とか誠意なんていう相手を思いでやってのことではない。ただ俺がそうしたいだけだ。これこそ自己満足の欺瞞だと言われるかもしれないが、他の選択肢は選択肢としてさえあげなかった。

 きっと落ち着いて考えれば無難な方法だって見つかるはずだ。そう、葉山隼人だったら陽乃さんを傷つけずに、そしてうまく場を収めてしまうだろう。

 でも、俺はそれをよしとはしない。自分に嘘をつきたくないなんて無駄なかっこうをつけたいわけでもない。

 ただたんに、陽乃さんに俺の気持ちを聞いてもらいたかった。それだけだった。

 俺は陽乃さんの願いをかなえる事は出来ない。それを叶えてしまったら、雪乃を悲しませてしまう。

 それに陽乃さんも願いはするが、叶ってほしいとは思ってはいないはずだ。だって、重度のシスコンの陽乃さんが雪乃を泣かすなんて事はしない。

 涙が必要なら、自分だけが流して終わりにしてしまうだろう。

 そんな思いやりがある人だから、そんな不器用な人だから、俺は自分を作った言葉を見せたりはしたくはなかった。

 

「だったらこう呼んでもいいですか?」

 

 俺の問いかけに、陽乃さんは手もとのグラスに固定させたままの視線を動かさない。強張った体が縮こまり、小さく目てしまう体をさらに小さく見せてしまった。

 沈黙のみを伝えてくるその体に、俺は聞いているか不安になって顔を覗きこむ。

 すると、目元からこぼれ出た涙だけが陽乃さんの感情を吐露していた。

 

「陽乃っ…………、」

 

 うわっ。かんじった。つーか、かんだっていうか、また「陽乃姉さん」っていいそうになっちまった。なんでシリアスモードで「陽乃さん」って声にだせないかな?

 これが俺の限界っていわれても納得はする。でも、今回だけは勘弁してくれよって叫びたい。

 つーか、この陽乃姉さん騒動も俺が言いだした事ではあるけど、面白がってのってきたのは陽乃さんなんだよなぁ……。とはいうものの、陽乃さん自身さえその名のうちにひそむ毒には気が付けなかったわけで。

 と、愚痴っててもしゃーないから、早いうちに言いなおしておくか。

 

「すんません。ちょっとかんでしまって、リテイクでいい……、え?」

 

 うん。

 「え?」が正しい。これ以外の表現はないって断言できる。幾万の言葉を費やしても、俺の心情は表せないと断言できる。

 だって、俺の目の前には、ぽけ~っと瞳をうるませて俺を見つめる陽乃さんがいるんですもの。

 しかも、頬を朱に染め上げ、手にするワインの表面は小さく波打っちゃってるじゃないですか。

 こ・れ・み・た・こ・と・が・あ・る・よ。は・ち・ま・ん。

 雪乃が照れまくって、デレまくって、うっとりしているときの表情にそっくりだ。さすが姉妹。知りたくもなかったけど、母君様が親父さんにデレるときも同じである。誰も知りたくもない誰得?情報でした。うん、この情報知ったのが母君様に知れたら、もれなく社会生活から抹殺されるっていう特典付きだよ、きっと。俺の命が助かっているのも、身内になる可能性があるからだけであり、そうでなければきっと死んでいたと思うし。もしくは自決していた。

 ほんと、知りたくはなかったけど。知った時の衝撃は、今でも厳重封印したままでである。

 つまりこれは、あれ、だよな? あれだ、あれ。鈍感主人公の必殺技の一つ。ナチュラルにフラグをたててしまうという、電光石火の口説き文句(主人公にはその気はない)。

 

「すいま……」

 

「それでいい。ううん、それじゃないと駄目。もう決定。いまさらすみませんっていったら泣く。リテイクなんてしたら泣き叫ぶ。もちろん適当にごまかそうなんてしだしたら、お母さんにいいつけるから。あることないこと、あることを誇大表現して、ないことをあることにして嘘をつくから」

 

 いや、いまはっきりと嘘って言いましたよね。嘘はいけないでしょ。つーか、俺の方が泣いちゃうかもしれませんよ。

 手遅れだと断言できるけど、一応命をかけて間違いを訂正すべきだよな。死ぬけど……。

 

「あの、ちょっと一部訂正すべき部分があ……」

 

「なにかしら?」

 

 俺の瞳には、これもまた見た事がある見たくはない表情が収まっていた。

 雪乃のパターンでいうならば、これ以上の譲歩は認めないという笑顔の拒否。

 雪乃は凍てつくプレッシャーで俺を動けなくしたが、陽乃さんのはちりちりと肌を焼く熱波が俺をなぶり殺そうと残酷な準備を始めていた。

 どちらが楽かなんて考えたくはない。一瞬で死ぬか、じっくり死ぬかなんて考えたくもない。

 だから俺は、こういうしかないじゃないか。がちがちに本心を包み隠した言葉をさ。

 

「訂正する部分があるわけ、ないじゃないですか~。陽乃って呼んでいいですか? 雪乃も呼び捨てで呼んでいますし、陽乃さんも」

 

「ん?」

 

 ぴくりと跳ね上がる整った眉に、俺は即座に訂正をいれる。

 

「雪乃も呼び捨てで呼んでますし、陽乃も同じ家族じゃないですか。だったら心の垣根を取り払って呼び捨ての方がいいかなぁって……、どうでしょうか?」

 

「うん、それがいい。うん、決定」

 

「あ、でも、二人っきりの時限定でいいでしょうか?」

 

 だからぁ……、眉を吊り上げないでくださいって。すっごい美人さんが本気で怒ってると、その迫力は眉以上に跳ね上がっちゃうんですよ。

 

「はぁ……、ま、いいでしょう。これ以上を望んでもえられはしないのだし。でも、二人っきりの時はお願いね」

 

「善処いたします」

 

 嵐は陽乃さんを中心に吹き荒れ、俺を直撃して収束に至る。

 きっちりと俺の心をかき乱し、そして俺の目の前にはすっきりした陽が現れた。当然の結末なのだろうけど、予報なんてできやしない。

 わかっていても予報以上のものを突き付けてくる彼女に、俺は靴を放り飛ばす程度の予報なら当たりはしないだろうけどやってみてもいいかなと、ふと笑みをこぼした。

 

 

 

 

 

 食事も終わり、本日二度目の映画上映会に挑んでいた。今回も精神のリソースの大部分は陽乃さんの攻撃を防ぐのに使われている。

 それでも俺達をつつむ世界は緩やかな時間を紡いでいく。エアコンの音は外界からの隔絶をほのめかし、庭から聞こえてくる虫の鳴き声が夏だという事を伝えてくる。テレビ画面の中は極寒の南極なわけで、その温度差がなんともいえなく心地よい。

 ちょうど画面の中の登場人物が仲間のいたずらで裸同然の恰好のまま外に追い出されていた。

 映画の世界を現実と結び付けるのは興が冷めるが、どうしてもマイナスの世界で裸って、死にはしないけど凍傷とかならないのかって気になってしまう。きっと雪乃なら、目の前の場面に意識を向け、その物語自体を楽しみなさいって憐れんだ目を向けるんだろうけど。

 

「ねえ八幡」

 

「はい?」

 

「体が冷えてしまうわね」

 

「どうなんでしょうね? 映画の中の事ですし、リアルであっても人間すぐには凍ったりはしないんじゃないですかね? よくわかりませんけど」

 

「ん? 映画?」

 

「今の場面じゃなかったですか? もう少し前とか?」

 

「ううん。エアコンが効き過ぎかなって」

 

「ああ、料理作っている時少し温度設定を下げていたんじゃなかったですか?」

 

「そうね。そのままだったわ」

 

「俺温度設定戻してきますよ」

 

 俺は絡みつく腕をやんわりほどきながら席を立とうとした。しかし俺を拘束するその腕は、ほどける事はなかった。

 

「ううん。このままでいい」

 

「でも、寒いんですよね? ……上にかけるものとかとってきましょうか? …………えっと、なんで睨みつけるんでしょうか?」

 

「わからない?」

 

 俺の腕をつつむ腕にきゅっと力が込められる。それと同時にふにゅっと形を変えていく胸に沈んでいく俺の腕が、陽乃さんから受け渡される熱以上に体温が駆けあがっていく。

 でも、挑発的な言葉とは裏腹に、陽乃さんの瞳には自信なんて宿ってはいなく、俺の次の行動を弱々しく待っていた。

 

「えっと……、このままでもいいでしょうか?」

 

「ええ、しっかりと私を暖めてね」

 

「善処いたします」

 

「なにが善処致しますかしら?」

 

 振り返らなくともわかっている。ソファーの後ろに誰かいるかなんて気がつかなかった。

 いや、もしかしたら陽乃さんは気が付いていたんじゃないかって邪推してしまう。だって雪ノ下陽乃だし。その辺のふてぶてしさは健全だろうし。

 でもなぁ……、振り返りたくないなぁ~。

 

「あら雪乃ちゃんどうしたの?」

 

「姉さん、私の携帯盗んだでしょ?」

 

「あら心外ね」

 

「だったら私の携帯はどこにあるのかしら?」

 

 ん? 雪乃の携帯って壊れてんじゃ? で、今は由比ヶ浜と食事しているんじゃ?

 でも、盗んだって言ってるし、となると……、考えるのやめてもいいでしょうか?

 

「私の鞄の中に入っているわよ」

 

「それを盗んだと世の中では言うのよ」

 

「気が付いたら入っていただけだし、盗んではいないわ」

 

「でも……、携帯を探しても見つからなくて」

 

「だから私が先に八幡との待ち合わせ場所に行ったわけよね。もちろん雪乃ちゃんが私に先に行って欲しいとお願いしてきたわけだし」

 

「そうだけれど……、でも、携帯がなくて」

 

「そうね。私も私の鞄に雪乃ちゃんの携帯が入ってると思いだしたのは、家に帰って来てからよ」

 

「えっ? 本当かしら?」

 

 雪乃の訝しむ視線に陽乃さんは身をよじる事さえしない。お互い一切引く事をしない姿勢に、真横で観戦している俺に、もろ余波をかぶせているけど。

 

「本当よ。思い出して御覧なさい。お昼携帯を使った後、雪乃ちゃん荷物が多いからって携帯を一時的に私に渡したでしょ? その時鞄に入れたのをそのままにしていたみたいなのよね」

 

「あっ」

 

「思いだしたようね」

 

 今回は陽乃さんの勝ちってことか? 雪乃も身に覚えがあるようだし、最初からわざとやったわけでもないし、強くは言えないか。

 …………ん?

 

「陽乃、ちょっと待ってくださいよ」

 

「なにかしら八幡?」

 

「大学の待ち合わせのところで、雪乃の携帯が壊れて機種交換してくるっていいましたよね?」

 

「ええ言ったわね」

 

「でも実際は、雪乃は携帯を探していただけですよね?」

 

「まあ、そうね」

 

「だったらなんで嘘をついたんです?」

 

「だって、…………だって」

 

「あっ……」

 

 いまだに俺の腕を離さない陽乃さんの腕に本日最大級の力が込められる。

 この際雪乃の冷たい視線は後回しだ。

 なにせ俺の隣には震える視線で俺の判決を待っている陽乃さんがいたのだから。

 いつも自信たっぷりに引き締められていたその唇は、幾度となく言葉を紡ぐのに失敗し、弱々しい吐息だけが漏れ出すことしかできないでいる。俺を掴む腕も、最初こそは力強く所有権を見せていたが、今は俺に寄りかかるようにしがみついているだけであった。

 

「大丈夫ですよ。俺は陽乃を嫌いなんてなりません。ちょっと悪ふざけが過ぎましたけど、きちんと雪乃に謝罪すれば、俺はあとは気にしません。むしろ俺は陽乃さんに振り回されはしましたけど楽しめましたし。だから、雪乃にだけ許しをもらって下さい」

 

「ごめんね雪乃ちゃん。少しの間だけでも八幡を独占したかったの。ごめんなさい」

 

「姉さん……。ええ、今回だけよ」

 

「ありがと、雪乃ちゃん」

 

 目を細め幼い笑顔を俺に見せる陽乃さんに、俺の手はその頭と頬を優しく撫でてしまう。さらっさらの黒髪をすり抜け、みずみずしい頬に手が吸いつくと、陽乃さんはくすぐったそうに頬と肩とで俺の手を挟みこむ。

 成熟した女性本来の美しさに、あどけない笑顔がアンバランスに混ざり合い、俺の心は平静さを保てなくなりかけていた。

 

「……ねえ八幡?」

 

「はい……」

 

 やっぱ雪乃さまは甘ったるい雰囲気をお許しにはなりませんよねぇ。

 

「聞き間違いだと思うのだけれど、八幡も姉さんも名前を呼び捨てで呼びあっていたわよね? もちろん幻聴だとは思うけれど」

 

「あっ」

 

「雪乃ちゃん。聞き間違えではないわよ。私がお願いしたのよ」

 

「どういう事かしら?」

 

「私がね、デートしてってお願いしたら、八幡がお互いの立場を明確にしましょうってことになって、私は八幡の事を弟として呼ぶことになったのよ。それで八幡は私の事を陽乃姉さんって呼ぶことにしたの。でも、だめね。最初のうちは八幡をからかってあげようと思っていたんだけど、陽乃姉さんって呼ばれるたびにせつなくなっちゃってね。……でさ、泣いちゃった」

 

「姉さん。わかったわ……、呼び捨てでもいいわ」

 

「ほんと? 八幡って呼んでもいいの?」

 

「ええ、八幡と呼んでもかまわない。それに、どちらにしても結婚したら同じ名字になるんですもの。将来どちらの苗字を名のることになるかはお母さんの意向が挟む事になるでしょうけど、それでも私も八幡も同じ名字だし、姉さんも八幡の事を八幡って呼んでも問題ないはずよ」

 

 あれぇ……、そういう展開? てっきり普通に許したんだと思ったんだけど。いや、これも雪乃なりの照れ隠しってとこか。

 よく見ると、雪乃の頬が薄っすらと赤く染まってるし。

 

「ありがと雪乃ちゃん」

 

「ええ、感謝しているのだったら抱きつかないで下さるかしら?」

 

「でもでもぉ、うれしくって」

 

「そうね。姉さんの気持ちもわかるわ」

 

「でしょう?」

 

「でも、私の彼氏に抱きつくのはよしてくれないかしら」

 

 ですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 雪ノ下邸からの帰宅中、車内でずっと陽乃さんとの間の出来事を全て聞きだされたっていうのに、雪乃はそれでも満足できず、自宅マンションでもねちっこく取り調べを行っていた。

 まあ、俺は車を運転していたわけで、話に夢中になって事故ってしまったりしたら取り返しがつかないわけで、その分手加減されていたともとれるが。

 

「ほんとうに隠し事はないのかしら?」

 

「だから不意打ちで撮られた頬にキスされた写真まで見せただろ? これ以上のスキャンダルはないんだから、だったらこれ以下の出来事を隠す意味がない」

 

「いいえ、それは間違っているわ」

 

「どうして?」

 

「なぜなら、その写真以上のスキャンダルがあるかもしれないじゃない? もしそのような事態があったのならば、八幡の論法では写真以上のスキャンダルは話せないという結論になるわ」

 

「たしかに……」

 

 雪乃の考え方は正しい。正しすぎる。でもさ、そんなスキャンダルないんだし、ここはどうどうとしていればいいのか? 

 ………………え?

 それは当然だった。

 雪乃の頬に一筋の透明な筋が描かれると、雪乃は俺との距離を一瞬でゼロにまで縮めてしまった。

 俺の両腕を抑え揺さぶる姿に、俺は他人事のように見ているしかなかった。あっけにとられたというのならば、その通りなのだろう。

 なにせ、雪乃が取り乱している。

 なにせ、雪乃が剥き出しの感情を俺にぶつけてきている。

 なにせ、こんな雪乃を俺は見た事がない。

 人間予想以上の出来事を目の当たりにすると何もできないというが、その事態が今俺に降りかかっているというのならば、きっとこれこそが俺の想定外の出来事だったのだろう。

 けれど、一気に噴出した雪乃の感情は、その役目を果たす前に霧散していく。俺の腕を掴んでいた小さな手は、俺の腕をさするように下へと落ちていく。雪乃の体も、体を支える力が抜け落ちて、俺の体がぽすんと軽すぎる雪乃を受け止めた。

 

「……雪乃?」

 

「……の?」

 

「ごめん。聞き取れなかったから、もう一回言ってくれると助かる」

 

 俺は小さな悲鳴さえも聞き逃すまいと、雪乃の口元に耳を近づかせようとした。しかし、それは雪乃の体を一度引き離すことを意味し、雪乃は俺の行為を拒絶と受け取ってしまう。

 

「私、捨てられてしまうのね……」

 

「雪乃?」

 

「私……、姉さんが選ばれたのよね? 私、私……、私」

 

「雪乃」

 

 黒く大きな瞳からは涙が覆い尽くし、その雫が瞳を黒く輝かす。瞬きをするたびに大きな雫が頬を撫で、とどまらぬ感情が俺に押し寄せてきた。

 場違いにも、美しいと思ってしまった。目の前で俺を求める雪乃を見て、残酷にも嬉しいという感情さえも抱いてしまう。最低な男だ。むしろ人間失格とさえ罵られるほどだ。

 こんな歪な純愛は、俺と雪乃が望んでいるものではない。もちろん俺も雪乃も正しい愛情が何かはわからない。それでも間違っている事さえわかっていれば、それを直す事は出来る。

 そうすればいつかきっと俺たちなりの正解にたどり着くのだろうと、楽観的すぎる純愛を描いていた。

 

「俺は雪乃しか選ばない。それに雪乃をもう選んじまったから、変更はきかないんだけど。まあ、雪乃がどうしても嫌だって言うんなら、俺は雪乃の事が一番大事だし、俺は雪乃の選択を受け入れる。でも、俺は、雪乃が俺を拒絶するまでは、雪乃だけみてるから……、って、ちょっとラブコメすぎて痛いな」

 

「……どうして最後に余計な一言を言ってしまうのかしら? それさえなければきまっていたのに。あぁ、冴えないわね。ほんと冴えない。どうしてこんな男を選んでしまったのかしら?」

 

 鼻を小さくすすり、涙を隠そうと強く目元をこすろうとするものだから、俺は雪乃の手をやんわりとどけ、俺の指を使って涙をすくっていく。

 

「かっこよく決まらないのは俺だからしょうがない。かっこよすぎる行為をしても、それをやってのけてしまうと、かえってきまらないだろ。むしろ笑いの神様が降臨しちまうよ」

 

「それはそうね」

 

「わかってくれたか?」

 

「……わからないわ」

 

「えっと、……どうしてでしょうか?」

 

 わかってくれたんですよね? そういう雰囲気でしたよね?

 

「だったらなんでわざとらしい雰囲気を出すのよ。あの写真でさえ感情を抑えるのがぎりぎりだったのに、それ以上の事があるのかもしれないって雰囲気を、なんで出すのよ! なんでわざとらしく黙っていたのよ。あんな沈黙作りだされたら、不安になるじゃない。…………ないのよね? なにもないのよね? ないっていいなさいっ!」

 

 あぁ~……。俺の思考回路が一時的に停止していた時の事か。

 由比ヶ浜の判決ではないけど、俺でも俺が悪いって判決文書いちゃうよな。

 うん、俺が悪い。俺が悪いから謝るべきだ。

 でも、謝りたいんだけど、こうも激しく肩を揺らされたら、一言もしゃべれないんだけど……。どうしたらいいんでしょうか、裁判長?

 ただ、同じ間違いだけはすべきではない。沈黙は美徳という場面もあるが、今は違う。相手の感情を遮ってでも俺の感情をぶつけるべきだ。

 

「雪乃っ!」

 

 俺は雪乃の腕を強引に振りほどき、その華奢な肩を掴み拘束する。はっと息を飲む喉の音を確認すると、俺はすかさず俺の声を優しく流し込んだ。

 

「雪乃」

 

「……はい」

 

「誤解するような事をしてごめん。陽乃さんとのことももっと注意すべきだった。でも、陽乃さんを一人にしたくないっていう気持ちは譲れない。これは雪乃もわかってくれているんだよな?」

 

「ええ、色々すれ違いもあったけれど、私も姉さんを一人にはできないわ」

 

「陽乃さんの性格は俺レベルに捻くれているし、一筋縄ではいかない。でも、見捨てないんだろ?」

 

「見捨てられなくなったというのが正しい気もするのだけれど」

 

「だな。……まあ、もうちょっと扱いがしやすいといいんだけどな」

 

「そうね」

 

 固く閉じられていた蕾がほころびて、笑顔を咲かしていく。ひっそりと、白く気高いその花が、再びひらかれていく事に、俺は安堵を覚えていった。

 

「今日はたくさん面倒をかけてすまなかったな。これからはもうちょっと要領よくやるつもりです」

 

「できるのかしら?」

 

「どうだろうな?」

 

「八幡」

 

「そう睨むなって」

 

「ちっとも反省していないように見えてしまうのよね? その腐った目が悪いのかしら?」

 

「かもしれないけど、努力はする。一緒にやってくれるんだろ?」

 

「そうね。八幡一人だとあぶなかっしくて、見ていられないわ」

 

「宜しくお願いします」

 

 一人でできないのなら、二人ですればいい。

 二人で無理なら三人で。きっと陽乃さんも手を貸してくれる。……ま、当事者だしな。

 ようは、俺だけで解決できる内容ではないってことを理解している事が一番大事なのだろう。

それさえ忘れなければ、俺が道を間違えても雪乃が手を引いてくれるはずだ。

 

「そういえば由比ヶ浜も陽乃さんの企てに巻き込まれて災難だったな。明日会ったらフォロー入れておかないとな」

 

「それは必要ないわ」

 

「雪乃が既にフォロー済みなのか? それならわざわざ俺が話を蒸し返す必要もなくて助かるんだが」

 

 由比ヶ浜大好き雪乃さんであるわけだから、携帯を探すのを手伝ってもらって時点で礼をしているか。

 時々雪乃の由比ヶ浜への厚遇に、俺が妬いているのは内緒だけど……、絶対言わないがな。絶対にだ。

 

「いいえ、違うわ」

 

「だったら俺がする必要があるんじゃないか? それとも雪乃が直接したいとか?」

 

「いいえ。そもそも由比ヶ浜さんは手伝っていないもの」

 

「というと?」

 

「昨日の講義の後、由比ヶ浜さんと会っていないのよ。講義が終わって携帯がないのに気がついたのだけれど、そのとき姉さんがいたから先に八幡の元に行ってもらったのよ。姉さんに携帯をなくした事を伝えてもらおうと思ったのに、まさか八幡を連れ去るとは思いもしなかったわ」

 

「俺も連れ去られるとは思わなかったわ」

 

 俺って案外騙されやすいんでしょうかね?

 普通の一般人相手なら最初から警戒しまくりで対応するが、陽乃さん相手だとその警戒も効果ないんだよな。

 うん、今回は相手が悪い。だから俺は悪くない。俺が連れ去られた社会が悪いんだ。

 というわけで、俺の中では一件落着かな、とどうでもいいことを考えていると、当の雪乃さんは思いのほか真剣であった。

 

「私も油断していたわ。まさか実家に連れ去るとは思いもしなかったわ。しかも手がかりさえないんだもの。私が探さなそうな場所を選んだというのならそれまでだけれど」

 

「そうか? 俺は陽乃さんだから実家に連れていく可能性は高いと思っていたんだが」

 

「あなたは姉さんと一緒にいる時間が増えているでしょうから、その分八幡も姉さんの行動パターンがわかるようになってしまったようね。ええ、仲がよろしいことで……」

 

「俺を追いこむなよ」

 

 まじでやめてください。

 俺を睨みつけて、委縮させて、脅迫したとしても、なにも出てきませんよ? そもそも、俺はすでに比企谷家からは見捨てられていますって。

 親父なんて最初の一報で小町に害が及ばないようにと俺を切り捨てるはずだ。

 まあ、小町はいい。小町に危険にあわすわけにはいかないから、小町は俺の気持ちをくんで、俺を見捨ててくれている「だけ」のはず……。

 うん、そうに違いない。そうでなくてはならない。……ね、お願いしますよ、小町さん。

 

「まあいいわ。八幡に八つ当たりしても意味はないのだから。でも、その分傷ついた私を癒してくれるのでしょうね?」

 

「それがご要望でしたら、この八幡全身全霊を持って努めさせていただきます」

 

「期待しているわ」

 

 雪乃はふっと肩の力を抜き、はにかんだ笑みを俺に見せる。

 こうして見ると、やはり陽乃さんと雪乃は姉妹なんだなと実感してしまう。母上様も似ていらっしゃると思うが、俺には見せてくれないだろう。

 見る機会があったら、それはそれで一大事だが……。

 同時に俺も雪乃に気取らない笑顔を見せているのだろうか、と疑問に思う。俺が笑顔を見せるなんて自分で考えてみると気持ち悪いだけだが、心を許した相手の笑顔は格別には違いない。げんに捻くれ日本代表クラスの俺でさえ癒されてしまう。

 その笑顔を、心を許した証拠を、俺は雪乃に示せているのだろうか?

 

「できることしかやれないけどな」

 

「それで十分よ。だったらさっそく食事を用意してくれないかしら?」

 

「てっきり由比ヶ浜と食べてきたと思っていたから、帰りに何も買おうとは思わなかったんだよな。ただ、こんな時間だし、何か出来あいの物を買ってきた方がよかったな」

 

「八幡が気が付いていたとしても、何も買わなかったと思うわよ。自宅で作る分には食材のストックは間に合っているもの。それに、八幡に作ってもらう予定だったのだから、出来あいの物は買わないわ」

 

「さようですか」

 

 その言い方だと、俺に落ち度がなくても作らせる気だったのかよ。

 ……まあ作りたくないわけでもないから別にいいが。

 

「ええそうよ。でも、本当に実家とは盲点だったわ。私をまいたのだから、もっと見つからないような場所に行くと思ったのがっそもそもの間違いだったようね」

 

「そうか? 陽乃さんらしい選択だと思ったぞ。俺の場合は騙されたのを知った後の推理だから、初めから答えを知っているっていうアドバンテージがあるからかもしれんが」

 

「どうして実家だと思ったのかしら?」

 

「いやな、最後まで悪役になりきれないところが陽乃さんらしい選択だったなって思ったんだよ。実家なんて絶対いつかは見つかる場所だろ?」

 

「たしかに、そうとも言えるわね」

 

「だろ? だから、陽乃さんは雪乃を裏切りたくはないと思っているんじゃないかって思えるんだよ。そもそも悪役になりきれているんなら、待ち合わせ場所で俺を騙す時点から完璧を実践しているはずさ」

 

「でも、姉さんのバッグに私の携帯が入っているのに気がついたのは実家に戻ってからだと言っていたわよ」

 

「それでもだ。携帯の行方がわからないこととつじつまがあうように俺を連れ出していただろうな。陽乃さんが本気だったら、雪乃が携帯ショップに行くだなんて嘘をつかないで連れ出していたはずだ。……違うか?」

 

「…………そうね。姉さんなら嘘だとわかっても、その嘘が事実と繋がるような嘘を使っているはずね」

 

「だろ?」

 

「でもっ、私と八幡を騙した事には違いがないわ」

 

「まあな」

 

 苦笑いを浮かべるしかない。

 そして雪乃もわかっているはずなのだ。しかし、雪乃自身が興奮しているというか、陽乃さんらしくない行動に理解が追い付いていないのだろう。

 

「でもな、実家を選ぶにしても、陽乃さんだったら雪乃が実家にこないように手を打っていたんじゃないか? それを今回はしていない。つまりは、雪乃に来てほしかったんじゃないかって思えてしまう」

 

「それは、……いえ、そうかもしれないわね」

 

 まあ、そういう事情もあるんだろうけど、俺と二人でゆっくりしたいっていうのが一番の理由だと思える。

 手料理をふるまいたいというのもあるし、誰にも邪魔されずにゆっくりと映画鑑賞をしたいというのもある。

 陽乃さんは外交的な性格だと思われがちだが、家を大切にしたいという内向的な性格もあるんじゃないかと最近思うようになってきている。

 別に内向的な性格を隠しているとかではなく、落ち着ける場所。雪ノ下陽乃を演じなくてもいい場所を大切にしているとでもいうのだろうか。

 そう考えると、やはり陽乃さんのホームグランドは、実家のキッチンがそうであり、一番大切にしている場所なんじゃないかって勝手に結論付けてしまう。

 

「さてと、食事の前に最後にとっておいた最重要案件に移りましょうか。おそらくこの案件が一番時間がかかるでしょうから一番最後にとっておいたわ」

 

 なんか好きな食べ物は最後に取っておく的な言い方は好きではないなぁ、八幡としては。

 すっげぇ凄味がかかった笑顔を見ては逃げる事も出来ないし……。

 そして今回に限っては、好きな物は最初に食べる方がいいと提案したい。好きな物ならいざ知らず、一番の面倒事が最後だなんて体力的にも精神的にもきつすぎる。

 ほら、ゆとり世代だし、面倒事は避けるべきだ(文部科学省推奨)。

 あっでも、最近は脱ゆとりとか言っているし、関係ないのか? なんだかんだいって、勉強できる奴はほっといても勉強するから、ゆとりなんて勉強できない奴の成績が下がるだけで、俺とは関係ないからどうでもいいけどな。

 ある意味ゆとり教育ってすごいともいえるか。文部科学省様は小さい時から自己責任の意識を植え付ける為にゆとり教育なんていうスパルタ教育を施しているともいえるし。

 まあ、本人が自己責任を認識できる年齢になる頃には、自分の学力のなさを後悔しても取り返しがつかないのが欠点だが。

 さて、そんな未来の子供たちの学力を杞憂している暇もなく、俺の目の前に迫っている最重要案件(雪乃談)が俺を押しつぶそうとしていた。

 

「姉さんの事を呼び捨てで呼んでいたわよね? あれはどういう意味かしら?」

 

「その件につきましては、すでにご報告済みかと思いますが……。あの、弁護士を呼んでもいいでしょうか」

 

「あら? 実家で聞いた内容のみで私が納得すると思っていたのかしら? それに弁護士は私が勤めてあげるわ」

 

 いいえ。まったく思っていませんでした。

 車の中でもぜんっぜん話題にもしなかったから、話題にする事すら避けていると思っていたが、自宅にてじっくり雪乃が納得するまで話すつもりでしたか……。

 ええ、予想通りです。……この予想だけははずれてほしかったけど。

 あと、刑事訴訟で検察官と弁護士を兼任するのは違法ではないのでしょうか? 

 あっ、裁判官も兼任しておりましたね。

 ……って、これってすでに詰んでね? どっかの独裁国家並みにさ。

 

「まず、俺が陽乃さんを陽乃姉さんと呼んでいたのは知っているよな?」

 

「そのいきさつは聞いたわ。八幡にしてはいい心構えだとは思ったわ」

 

「ありがたき幸せ」

 

 あれ? 恭しくかしこまったのに、どうして冷え切った視線を浴びせるのでしょうか?

 

「でも、詰めが甘いわよね。結局は呼び捨てで呼ぶことになっているじゃない」

 

「それはその、言いなおそうとしたらかんじまって。ほんとうは陽乃さんって言おうとしたんだよ。でも、言いなおせる雰囲気じゃあなかったというか、できなかったというか」

 

「それもあるでしょうけど、……八幡が姉さんと距離をとったらどうなるかだなんて、やるまえからわかることじゃない。姉さんがどう思うかだなんて……」

 

「どういう意味だよ?」

 

「はぁ……、八幡には永遠にわからないことよ」

 

「本心では陽乃姉さんって呼ばれるのは嫌だったという事か?」

 

「それも違うわね。最初は面白がっていたのでしょう?」

 

「まあ、そうだな。そうだった、と思う」

 

「おそらく姉さん自身も本当に面白がっていたはずよ。でも、姉さん自身も気がつかない落とし穴というか気がつかないようにしていた本心があったとでもいうのかしらね?」

 

「陽乃が気がつかない事だったら、俺が気がつくことなんてないだろ」

 

「そうね。…………でも、すっかり姉さんの事を呼び捨てで呼ぶ事に慣れたようだけれど」

 

「陽乃って言ってたか?」

 

「ええ、しっかりと」

 

「意識していないというか、どうなんだろうな」

 

「はぁ……。陽乃と呼ぶときよりも陽乃さんという方が多いから、まだ大丈夫でしょうね。でも、姉さんはそれを許さないでしょうし……。はぁ……、困ったものね」

 

「それは……すんません」

 

「まあいいわ。どうせ私と八幡が結婚したら比企谷君と呼ぶ事はできなくなるでしょうし、それと込みで考えれば、姉さんの事を呼び捨てで呼ぶのも大差ないわ。……気にはなるけれど」

 

 ですよねぇ……。ぽつりと最後にこぼした呟きが本音ですよね。

 とても小さく、とってつけたような台詞だけど、これが一番言いたい事で、雪乃が一番叫びたい事なのだろう。

 でも、それを雪乃は許さない。プライドというよりは、雪乃は陽乃さんが好きだから。好きな相手を傷つけたくはないからこそ雪乃は強くいられるとでもいえるのだろうか。

 

「……えっと、あの……、あのさ」

 

「なにかしら?」

 

 会話の話題に困った時の自動会話生成機ってできないかな? 人工頭脳とかあるし、いまや携帯と会話できるんだから、この機能できたら俺絶対機種変するぞ。

 

「雪乃は、陽乃さんのことをどう見てるんだ? いや、さ。最近だろ? こうやって陽乃さんとしょっちゅう話をするようになったのは。だから、陽乃さんの印象が変わっとか、昔の印象とは違うように見えるようになったとか、雪乃の感想を見いてみたいな、と思ってさ」

 

「どうかしらね? 私からすれば姉さんは姉さんなのだから、今も昔も変わらないわ。でも、話をしてみなければわからない事もあるでしょうし、今みたいに話をするようになってわかった事もたくさんあるわ。ただ、話している事が真実とは限らないけれど」

 

「それは陽乃さんじゃなくても同じ事だろ? 人間本音だけで生きているわけじゃないし、いつだって建前で発言している事がほとんだろうよ」

 

「それもそうね。どこかの誰かさんみたいに大事な時には言い訳しないで、どうでもいい時ばかり言い訳ばかり言う人もいるらしいけれど」

 

「だれだろうな? でも、大事なところでは言い訳しないって男らしいんじゃないか?」

 

「どうかしらね? その馬鹿な男は、大事な事ほどまわりが勝手に判断するから、言い訳なんて意味がないと言っていたと思うわよ」

 

 よく覚えていらっしゃる事で。

 俺でさえ覚えていない事がほとんどなのに、こいつったら俺の言葉を全部覚えているんじゃないかって疑っちゃうぞ。

 

「でも姉さんは、私が生まれる前から雪ノ下家の長女であり後継者であったのよ。だから、姉さんの心情にどう変化があろうと姉さんは姉さんなのよ。いつも何を考えているかわからない奔放な性格を演じていようと、お母さんが求める雪ノ下陽乃を演じていようと、根本的には姉さんそのものだと思うわ。それが演技であっても、姉さんが演じようとするのなら、それは姉さんそのものなのよ」

 

 雪乃のいい分もある意味正しい。人間だれしも理想の自分を演じようとする。

 もちろんたいていの人間は途中で挫折するし、理想の自分など演じきる事は出来ない。

 しかし、ありまる才能があり、小さい時から演技をする事を強要されてきた陽乃さんならば、可能だと思えてしまう。

 普通の人間なら挫折してしまう理想の自分を、陽乃さんならば自分を押し殺して演じきってしまうだろう。

 そしていつしか自分がわからなくなり、演じている自分が素の自分となり、素の自分が消え去ってしまった。

 だから、俺をときおりどきりとさせる陽乃さんは、もしかしたら、陽乃さんが消し去ってしまった「本来のあるべき」素の陽乃さんの痕跡なのかもしれないと思えてしまう。

 

「そう捉える事も正しいんだろうな。たしかに母親の理想に近い娘を演じてきたし、それを本人も納得っていうか、諦めていたとも言えるけど、なんつぅか……、自分の中の一部にしていたとは思う。でも、それが陽乃さんのすべてではないだろ。あんなはちゃめちゃな性格の陽乃さんを、あの母親の理想だとは思えない。どう考えたって母親の理想からは程遠い」

 

「妹の私が言うのもなんだけど、姉さんはしっかりと成績としての記録は残してはいるけれど、でも、実際の姉さんの言動はその成績をとった人間とは思えないくらい人格が破綻しているわね。点数だけなら優等生だから、姉さんを知らない人からすれば人格者なのかもしれないわ。ところが人格面、学生生活の面で言うならば問題児よね。問題にはならない範囲ではあるけれど。それでもカリスマ性とでもいうのかしら。同級生や後輩には好かれているから不思議よね」

 

「その問題に上がらないところまでが陽乃さんのせめてもの抵抗だったのかもな。もし問題になってしまったら、あの母親に知られてしまうからな」

 

「お母さんは知っていたと思うわ」

 

「はい?」

 

「お母さんが知らないわけないじゃない。教育関係者にも母とのパイプはあるのよ? しかも、あの目立つ姉さんの事だから、きっと母のところにも姉さんの学生生活の様子は伝わってきているはずよ」

 

「いまさら驚く事はもうないとは思っていたが、スパイもそこらじゅうにいるんだな。俺達も見はられている、とか? なんちゃってなぁ……、ははは」

 

 乾いた笑いしか出てこねぇ。だって雪乃は神妙な顔をしているだけで、俺の言葉を否定してこなのだから。

 つ~ことは、スパイいるんですか? まじっすか? ほんとに?

 こんなしがない大学生を調査したって、埃しか出てきませんよ。誇りは持っていないけど。

 長いものには自分から巻かれにいくが持論なんでね。

 

「否定しないんだな」

 

「あの母の事だから、大学の成績もすべて筒抜けだと思うわよ。そうね、昨日姉さんに騙されて連れ回された事もしっているかもしれないわね」

 

「それは冗談抜きで怖いから」

 

「冗談よ。さすがに自宅に監視カメラは設置していないわ」

 

「その発想が出てくる事態怖すぎるだろ」

 

「そのうち慣れるわ」

 

「……慣れたくねぇって」

 

「さて、冗談はおいておいて、姉さんは母が許容できる範囲内の雪ノ下家長女の雪ノ下陽乃といったところかしら。完ぺきではないけど理想からは外れてはいない。むしろ完璧を回避することで息抜きとして機能していたとも考えられるわね」

 

 本当に冗談ですよね? ね? ……あの女帝に慣れるってあり得ませんよ?

 

「そんなろころかもしれないな。あの母親の理想を完璧に演じきれるとしたら、それこそ心を空っぽにしないとできやしねえよ」

 

「そうかもしれないわね」

 

「なあ、だったら雪ノ下家の陽乃ではなくて、ただの陽乃さんは見たことあるか?」

 

「ただの? 素の姉さんってことかしら?」

 

「ああ、そんなところだと思う。母親に求められる雪ノ下陽乃でも、友人たちに求められる雪ノ下陽乃でもない。陽乃さんの心の奥底に隠しているであろう誰の理想でもない陽乃ってところだな」

 

「そう…………その定義であれば、見た事はないわ」

 

「そうか。ならいい」

 

「八幡はなにか思うところがあったのかしら?」

 

「べつにそういうわけではないんだけどよ。なんというか、素の陽乃さんだけではなくて、素の比企谷八幡。素の雪ノ下雪乃ってなんなんだろうなって思ってさ」

 

「だったら、素の私ってどういう風なのかしら? 八幡から見た印象で構わないわ」

 

 期待に満ちた瞳が俺に向けられ、肩にかかった黒髪を払う姿さえもわざとらしい仕草に思えてしまう。俺を挑発するようで実は緊張しているのが今となってはよくわかる。

 高校時代の俺ならば、馬鹿にしている態度として受け取っていたはずだ。

 しかし、雪ノ下雪乃は強くはない。

 俺も、そして由比ヶ浜も雪乃は強いとずっと思っていた。

 いつだって前を見て、いつだって一人でやり遂げて、その為に必要な能力を有している俺の憧れでもあった。

 けれどそれは俺の理想であり、いわば雪乃に俺の理想を押し付けていたにすぎないと、ある時俺は気がついた。

 別に俺の印象の中の雪乃なのだから、どんな印象を持っても俺の自由だ。

 だけどそれは同時に、雪乃に俺の理想を押し付けてしまい、馬鹿な俺は雪乃に理想を演じる事を求めてしまう。

 もちろん雪乃には関係ないところの出来事なのだから、俺の理想通りには進まない。だから俺は理想からはずれた雪乃を見て勝手に幻滅する。

 つまりなんていうか、俺は陽乃さんが本当に理想の雪ノ下陽乃を演じられていたのかと疑問に思えてしまっている。

 いつだって期待にこたえてきたとはいうが、本当に陽乃さんは自分が出した結果に満足してきたのだろうか。一応周りの連中は陽乃さんが叩きだした結果に満足して誉めたたえてきたようである。

 しかしそれがイコール陽乃さんの中の理想と一致するとは限らない。

 となると、もし陽乃さんが理想の雪ノ下陽乃を演じられていないとしたら、もし自分に幻滅してたとしたら、それは俺の陽乃さんへの認識が大きく間違っている事を意味してしまう。

 それも、考えたくもない結末も伴って。

 

「あらためて問われるとわからないものだな。逆に雪乃自身ではどう捉えているんだよ?」

 

「自分で自分の素の姿なんてわかるわけないじゃない。八幡が見ている私が雪ノ下雪乃であり、それと同時に由比ヶ浜さんが見ている雪ノ下雪乃も雪ノ下雪乃であるのではないかしら。同じ人物であっても人によっては印象が違うでしょうから、素の自分なんて考えても答えは出てはこないわ」

 

「なるほどな」

 

「……なら、比企谷八幡から見た雪ノ下陽乃はどうみえるのかしら?」

 

 勢いで問いかけてはみたが、答えを知りたくはないと拒絶する瞳に、俺は心を読まれている気がした。

 雪乃は本当に俺の瞳を通して陽乃さんを見たいのだろうか? 見てどうしたのだろうか?

 俺でも陽乃さんをどう見ているかなんてわからないというのに。

 でも、俺でさえ曖昧で答えが見つからない答えを、雪乃は探り当ててしまっているような気さえしてしまう。

 そんな人外れた才能に、陽乃さんと雪乃は姉妹なんだと、今さらながら認識してしまう。

 

「…………すまん、わからない」

 

 絞り出した声は、言葉になっているか怪しかった。

 

 

 

 

 

 

 

7月14日 陽乃

 

 

 車をマンション近くの駐車場に入れ、てててっと足取り軽く横断歩道を渡っていく。

 まだ朝早く車の数も少なく、また、元々ここの道路の交通量は極めて少ない為にこの駐車場利用者は横断歩道を使わず道路を横切るのは普通ではある。

 かくいうわたしも普段は横断歩道を使わないのに、今朝は遠回りまでして律儀に横断歩道を使ってしまった。

 どうして横断歩道を渡ったのか。しかもウキウキ気分で。

 その理由は、なんてこともない。

 ただたんに浮かれていただけ。それだけなのよね。

 タワーマンションを見上げると、朝日が無数のガラス窓をきらめかせている。目を細めて雪乃ちゃんの部屋を探そうとしてはみるが、あいにく海側の部屋だからここからは見えるはずもない。

 またもやはやる気持ちが溢れ出ている事に気が付き、我ながら苦笑いが漏れてしまう。

 でも、悪くはないかな。むしろすがすがしいほどに心は晴れ晴れしてるし。

 きっと今日も暑くなってだるいだろうけど、夏の朝は嫌いではないのよね。

 手慣れた手順でマンションの中に入って行き、目的の階まで上がっていく。エレベーターですれ違った住民に対しては、頬笑みを交えて軽く会釈する事も忘れてはいない。

 いくら浮かれていようが、体に染みついた社交性だけは条件反射的に行動に移してしまった。

 さて、一つ問題があるのよね。

 家の鍵はある。実家に保管してある鍵を持ちだしているから問題はない。

 まあ、最近では実家に保管していないで、わたしのバッグに常駐してはいるけれど。

 とりあえず玄関のドアを開けてみればわかるか。ドアガードがしてあるといくら鍵を持っていても入れないのよね。

 これがチェーンだったら自宅から工具持ってきたけど、さすがにドアガードを切る工具はないし。

 …………今度買おうかな? でも、壊すたびに修理費請求されるだろうから考えものね。

 なんて杞憂もあっさりと解決した。

 おそらく八幡が新聞を取りに行って戻ってきた際、鍵だけかけたようね。これが雪乃ちゃんだったら、律儀にドアガードまでしっかりかけるはずだし。

 ドアが開いたってことは、中に入ってきなさいってことよね? だったら入らないと悪いか? うん、じゃあ入っちゃうね。

 と、勝手に自己完結したわたしは音をたてないように室内にリビングのドアを開けた。

 中を覗くとソファーには誰も座ってはいない。ただ、パンと紅茶の香りが漂ってくるところからすると朝食の準備中なのだろう。

 わたしがさっそく物音を立てずにキッチンの方に進むと、八幡が料理をしていた。

 当然ながらこちらを向いていた八幡はわたしのことに気がつく。しかし、朝だからなのか感情の起伏を見せない八幡は、事務的に事実確認をするようかのように問いかけてきた。

 

「どうしてここにいるんですか? まだ朝ですよ」

 

「んん? それは目が覚めたからかな」

 

「朝になれば目が覚めるものですって。俺としたら幸福な夢ならずっと起きずに見ていたいものですが」

 

「夢なんて中途半端じゃない。どうせなら自分がしたいように行動したいから、夢なんて見たくはないわね」

 

「陽乃さんらしいですね」

 

「……姉さんっ。どういうことなのかしら?」

 

 朝の軽いやり取りをしていると、当然ながら雪乃ちゃんがふくれっ面でわたしにつっかかってくる。これも予定通りなんだけど、もう少し愛そうがいい顔をしたほうがいいと思うぞ。

 ……媚を売る雪乃ちゃんって、それはそれでとてつもなく恐ろしいから、前言撤回ってことで。

 

「どういうことといわれても。とりあえず、八幡が料理している姿に見惚れている我が妹を眺めているだけよ?」

 

 媚びは売らないけど、惚気てはいるのよね……。ある意味お母さんそっくりで、遺伝ってあるのかもしれないって本気で悩みそうね。

 なにせ、わたしもその遺伝子があるかもしれなし。

 

「…………別に見惚れてなんていないわ。ただ……、そうね…………八幡がしっかりと朝食を作っているかを監視していただけなのよ。ええ、そういうことだから、姉さんの指摘は間違っているわ」

 

「なら八幡を監視していたら、その姿に見惚れてしまって、監視していた事さえ忘れてしまったといったところかしら?」

 

「なっ……。はぁ……もういいわ。朝から姉さんのテンションについていこうとすると、午前中で息切れしてしまうわ」

 

「陽乃さん、朝食食べますか? 食べるんでしたら一緒にどうです?」

 

 あら? おやさしいこと。ほんと八幡って雪乃ちゃんを甘やかすのよね。いっつも雪乃ちゃんが引き下がれなくなる前に介入してくるんだもの。

 こっちもあからさま過ぎてやる気がなくなっちゃうってば。

 でもねぇ……、ただじゃひかないんだな。

 

「食べよっかな。でもその前に八幡。忘れていないかなぁ~。ん、ん?」

 

「えっと……、なんのことでしょうか? なにか陽乃さんと約束でもしていましたっけ?」

 

 ほらぁ~、目をそらさないでよ。いっつも嘘をつくときは目をそらすんだから。

 その子供っぽすぎる反応は、それはそれで母性をくすぐられちゃうときもあるけど、今は追い詰めたくなっちゃうのよね。

 だって、それって雪乃ちゃんの為でしょ?

 

「むぅ~。わたしの事を呼ぶときは陽乃さんではなくて陽乃でしょ? 忘れたふりしても無駄よ?」

 

「忘れたふりはしてないですよ。昨夜も雪乃に指摘されたのですが、陽乃さんと言う時と陽乃って言うときがあるみたいなんですよ。だから意識してないので俺がわざと言っているわけではないんです。つまり……えっとなんだ、もう少し自然に呼べるようになるまで待ってくださいって事ですよ。わざとらしく呼ぶよりは自然に呼べるようになったほうがいいですよね?」

 

「なんだか色々と理屈っぽく言い訳されている気もするけど、まっいいわ。どうせ強制していやいや呼んでもらうよりも自然に呼ばれる方が嬉しいもの」

 

「はぁ……、姉さんも八幡には甘いのね。こういう手法は八幡の常套手段なのに」

 

「あら? それを雪乃ちゃんが言っちゃうの?」

 

「どういう意味かしら?」

 

 雪乃ちゃんがわたしに気がつくまで浮かべていたデレっデレの表情はすでに消失し、今はいつもの戦闘準備万全の顔へと変貌していた。

 この静かに燃える表情こそが雪乃ちゃんのいつもの姿であり、わたしも八幡も慣れ親しんできた姿なのだけれど、どうも最近の雪乃ちゃんを見ているとお母さんを見ているようで気が引けてしまうところがある。

 これはいわば母への服従であり、逃げ出す事が出来ない習性なんだろうけど。

 

「特に今さら言うべき事でもないけど、ほら? 雪乃ちゃんこそわたしよりも八幡に従順じゃない。悪い意味でも、いい意味でもね」

 

 雪乃ちゃんの思い当たる節が多分にあるせいで言いかえしてはこれない。

 それもあるだろうが、八幡が料理している姿に惚気ながら見つめている姿をわたしに見られているのを悔しがっているのかもしれないかな。

 

「もう朝から戦争するのはやめてくださいって。陽乃さんも朝食を食べるんでしたら手伝って下さいよ」

 

「この人に食べさせる必要なんてないわ。そもそも実家で食べてから来るべきよ。常識として」

 

「食べてこなかったんだからいいだろ? それに陽乃さんに、……陽乃に常識を求める方が疲れるだけだ」

 

「それもそうね。だから姉さん。八幡の奴隷となって朝食の準備を手伝いって下さらない?」

 

「うん、それは構わないわよ。雪乃ちゃんのお許しが出たわけだから、これで障害もなく八幡の奴隷になれるわね」

 

「もういいわ。朝起きてすぐは脳は働かないものね。確実に姉さんに問題があるはずなのに。これ以上考える事を放棄したほうがいいって体が拒否反応してくるんですもの」

 

「じゃあ、ぱっぱと準備しちゃうから、雪乃ちゃんも着替えてきなさい」

 

「ええ、そうさせていただくわ」

 

 たしかに雪乃ちゃんのいい分もわからなくもない。

 でも、わたしが雪乃ちゃんに意地悪したくなる気持ちもわかってほしいものね。

 だって、朝早くから見たくもない光景を見てしまったのだから。

 見たら確実に嫉妬してしまうものを見せつけられてしまったから。

 そんな微笑ましすぎる朝の光景に遭遇したのはわたしのせいだって言いかえされそうだけど、今日という日は私にとって特別だった。

 だから、いくらなんでも来るのが早すぎるほどの朝の時間だと文句を言われようと、わたしは車を運転して雪乃ちゃんたちが住むマンションまでやってきたのだ。

 

 

 

 あれからゆっくりと朝食を取り、雪乃ちゃんが淹れてくれた紅茶でまったりとした時間を共有した。

 わたしというイレギュラーがいようと、雪乃ちゃん達はいつもの朝を過ごしていたんだと思う。

 わたしを仲間に入れてくれた事には感謝した。それと同時に疎外感も感じずにはいられなかった。

 これが比企谷君と雪乃ちゃんの朝の光景であり、イレギュラーが混在しようと当然のごとく繰り返される。

 嫉妬という言葉でくくるのならば、間違った分類ではないと思う。でも、なんというかちょっとだけ違うというか。

 そもそもわたしは雪乃ちゃんと比企谷君の仲を裂きたいわけでも略奪したいわけでもないのだ。

 ただ仲間に入れて欲しいだけ。できれば、ほんの少しでもいいから雪乃ちゃんに向けるような眼差しをわたしにも向けて欲しいっていう下心もあるけど、それはまあ、いいよね、それぐらい。

 それに、今日はわたしの誕生日会だし……、今日くらい我儘になってもいいよね?

 

「どこにいくんですか?」

 

「どこだろ?」

 

「はぁ……、まあいいですけど」

 

 八幡の問いにわたしは答えを提示できない。

 わたしはあてもなく車を運転していた。海岸沿いに出て、船橋方面へと進んでいた。

 このまま進めば初めて八幡と雪乃ちゃんがデート?したショッピングモールへと行きつくこともできる。また、もっと脚を伸ばせば雪乃ちゃんが大好きなディスティーランドへとたどり着くだろう。

 ただ、どちらもわたしの目的地ではない。本当に目的地などなかったのだから。

 

「誕生日会かぁ……。こうやって八幡がわたしを監視という名目で隔離するのが定番になってきちゃったわね」

 

「誰のせいですか、誰の。わざわざ準備しているのを邪魔しようとする方が悪いんじゃないですかね?」

 

「わたしはぁ~、ほらっ、手伝ってあげようとしただけよ」

 

「…………そうですかね」

 

 何を思い出してしまったのか、八幡は苦そうなものを口に含んだ顔をすると、その顔を私に見せまいと顔を背け、面白くもない工場地帯を眺める。

 ふふっ、なにを思い出しちゃったのかなぁ? そういう顔をすると、かえってちょっかい出したくなるのよね。だからこそわたしに顔を見せないようにしたんだろうけど、無駄な努力よね。

 おそらく八幡は既に諦めているんだろうけど。

 

「例えば?」

 

「唐突になんですか?」

 

「例えば、…………わたしが手伝って問題になったような事って何かなって、ね」

 

「…………はぁ。思い出したくもないですが、俺達が高3の時、雪乃がせっかく準備したクッキーを由比ヶ浜に焼かせましたよね?」

 

「……あぁ、あったね。そういうことが」

 

「あったねじゃないですよ。雪乃は怒るし、由比ヶ浜は泣きながら雪乃に謝るしで、大変だったじゃないですか。その光景をみて反省してくださるのならまだいいんですけど、そこからさらに雪乃を挑発していたじゃないですか。……まわりまわって最後には俺のところに面倒事が集約してくるんですからやめてくださいよ。繊細な精神の俺がびっくりするじゃないですか」

 

「最後に無駄なフォロー入れるのもやめた方がいいわよ。しかもフォローにさえなっていなんだから困ったものね。あなた一人が悪者になってもどうしようもないし、あなたの性格を知っている相手に使うと、かえってあなたのことを不憫に思うだけよ」

 

 ほんと、他人のことなんてどうでもいいって顔をする割には、最後は自分が泥をかぶろうとするんだもの。

 これはガハマちゃんや雪乃ちゃんじゃないけど、目の前で見ていると辛くなるわね。

 今は大した内容じゃないから皮肉で言いかえせるけど、これが八幡を深く傷つける問題になると、見てらんないわ。本人は傷ついたりしないって虚勢を張っちゃうのもさらに問題なのよね。

 

「……すみません。どうもぬけきれないんですよ」

 

「それと同じようにわたしも雪ノ下陽乃がぬけきらないのよ」

 

「そうですね」

 

「でしょ? ………………でも、あの時のクッキー。どうして失敗したのかしら?」

 

「陽乃がなんか時間設定をいじったんじゃないんですか?」

 

「しないわよそんなこと。だって雪乃ちゃんが準備してくれたものをわざわざ炭にするだなんて、もったいないじゃない? わたしだって楽しみしていて、早く食べたいなって思ってガハマちゃんにお願いしただけなのに。でもあれよね。どうして雪乃ちゃんの指示通りの設定で黒焦げになったのかしら?」

 

 あれ? 難しい顔しちゃってどうしちゃったのかな?

 

「……比企谷君?」

 

「…………言って下さいよ。言わないとわからないですよ」

 

「なにを?」

 

「なにをじゃないですよっ」

 

「ごめんなさい」

 

 わたしは、八幡が何に対して怒っているかわからなかった。

 横目で見る彼の顔はもはや窓の外など見てはおらず、わたしの横顔を泣きそうな瞳で睨んでいた。

 その物悲しそうな表情がわたしの口から謝罪の言葉が自然とこぼさせる。

 頭では理解が追い付いていってなかった。でも、心が八幡に許しを求めてしまったいた。

 

「怒鳴ってすみません」

 

「いいのよ」

 

「いえ、よくないです。だから謝罪させてください」

 

「……わかったわ」

 

「ありがとうございます」

 

「それで、なにに怒っていたのかな?」

 

「俺は陽乃さんがわざとクッキーを焦がしたんだと思っていました。でも陽乃さんはなにもしていないじゃないですか。それなのに弁解さえしないで」

 

「そのことね。なにもしていないは間違いよ」

 

「え?」

 

「だって、わたしがガハマちゃんをけしかけてクッキーを焼かせなければ焦げなかったわ。雪乃ちゃんの準備を待ってからやっていれば、なにも問題は起こらなかったはずよ。だから、間接的にせよ、わたしがクッキーを台無しにしたことには違いないわ」

 

「…………それで潔いとでも言ってもらえると思ってるんですか?」

 

「別にそう思ってほしいわけでもないわ。私の言動を見てどう解釈するかは人それぞれだし、わたしが強制するものでもないわ」

 

「それでも事実を伝えるべきだったのではないですかね」

 

 なにを怒っているのかしら? …………しかも時折悲しそうな顔もみせるし。

 

「それこそ人が勝手に判断する事よ。真実だろうと事実だろうと実際にあったできごとであろうとなんであっても、それは人が勝手に解釈して、勝手に善悪を判断する事よ。だってあなたもそう思っていたんじゃないのかな? よく出てくる例え話があるじゃない。人を殺せば人殺しだけど、戦争で人を殺せば英雄ってやつ? 同じ出来事なのに、ちょっと条件が違うだけで解釈が違ってくる。しかも、せっかく戦争で英雄になっても、民衆の価値観が変われば犯罪者に様変わりよ。英雄も楽じゃないわね。せっかく精神をすり減らしながら人殺しをしてあげているのに、ちょっと世論が変われば犯罪者よ。やってられないわよね?」

 

「それでも俺達が解釈する為の情報を提示してほしかったんですよ」

 

「あの状況下で雪乃ちゃんがわたしのいい分を受け入れてくれたかしら?」

 

「…………それは」

 

 ほらぁ、目をそらさないの。あたなもわかっているんでしょ?

 それから八幡は何も言ってはこなかった。

 船橋をすぎ、このまま進めばディスティーランドまで行ってしまう。別に今の状態のままであろうと八幡と二人っきりで遊んでくるのも悪くはない。でも、夕方には雪乃ちゃんが準備してくれているパーティーに戻らないといけないのよね。

 せっかく雪乃ちゃんたちが準備してくれているんだもの、お姉ちゃんとしては時間厳守で行かないとね。

 

「あの…………陽乃さん?」

 

 八幡がわたしに声をかけてきたのは、ディスティニーランドのそばまできてからであった。

 

「ん?」

 

「雪乃がどう思おうが、言ってほしかったです」

 

「そう…………」

 

 わたしは息を洩らすように呟く。

 そして、おそらく次に出てくるだろう言葉に私の体は硬くなる。手にはじっとりとした汗噴き出し、嫌な熱はわたしの体を冷たく冷やしていく。

 

「俺は知りたかったです。俺がどう判断して、どう行動に出るかなんてわかりません。過去のことを今考えても結果はかわりませんから。……でも、それでも知りたかったです」

 

「なんでかな?」

 

「そうですね。俺も雪乃や由比ヶ浜に陽乃さんと同じような事をしてきたからですかね。俺がしてきたきたことに対して言い訳したって意味がないと思っていましたから」

 

「言い訳したって意味はないわ。その通りじゃない」

 

「今でもそう思っていますよ」

 

「なら言い訳なんて意味がないわ」

 

「意味はありますよ」

 

「どういう風にかな?」

 

「俺が知りたいからですよ」

 

「身勝手な人ね」

 

「ええ、身勝手なんですよ」

 

 わたしは八幡の答えに笑みを浮かべると、車線変更をして行き先を変更していく。

 このまままっすぐ進めばディスティニーランドの駐車場に入っていってしまうが、わたしはディスティニーランドの駐車場に入って手前で進路を変更し、右手にディスティニーランドを見ながら千葉方面へと戻って行く。

 べつに最初から遊んでいこうだなんて思ってはいない。

 ただ、ここを近くから眺めるだけで雪乃ちゃんを思い出せるかなって考えていただけ。

 なんて、感傷的な気持ちでもないか。実際あと数時間で雪乃ちゃんに会うわけだし、それに1時間ほど前までは一緒だったし。

 でも、どうしても雪乃ちゃんを身近に感じていたかった。

 なんでかな…………?

 

「誕生日会ね」

 

「そうですね。なんか二人とも気合い入っていましたよ」

 

「八幡は気合い入ってないの?」

 

「こうして陽乃を連れ出す大役を果たしているじゃないですか。これ以上俺を働かせるつもりなんですか? やめてくださいよ」

 

「それもそうね。大変名誉な役割を務めているんだし、これだけに集中すべきね」

 

「そうですね」

 

「こうやって八幡がわたしが準備をするのを邪魔しないようにって遠ざける役目をやるのが定番になってきちゃったわね。いつからだっけ?」

 

「高3の時からですよ。クッキー事件があったあと、雪乃が一人で準備するからって、……あぁ、由比ヶ浜も一応サポート要員として残ってたな。それでこれ以上陽乃さんが動かないようにって俺が外に連れ出したのが最初ですよ。で、去年は最初っから連れ出す役目を勤め、そして今年に至る」

 

「そうだったわね。懐かしいわ。でも、毎年誕生日当日には祝えていないんだから、べつにパーティーなんて大学の試験が終わってからでもいいのに」

 

「今年はごたごたがあってそうでしたけど……」

 

「……それもそうね。去年の誕生日、懐かしいわね」

 

「そうですか? 俺はあっちこっち連れ回されていたって記憶ばかり浮かんできますよ」

 

「そう? だったら、……明日の朝まで連れ回してもいいかしら?」

 

「…………パーティーは夕方からですよ。さすがに行かないとまずいです」

 

「それもそうね」

 

「でも、いくらなんでも今朝は早すぎません? もうちょっとゆっくりとしてから、せめて昼食を食べて、おやつも食べて、夕方になってパーティーが始まってから来てくだされば俺も楽できたんですがね」

 

 ふふふ……、いつもの八幡らしくなってきたな。でも、ちょっと表情が硬いかな? 

 その気持ち、わからなくもないけど、物足りないな。

 だからわたしはいつものように彼に意地悪をしてしまう。これがわたしと彼の関係であって、適切な距離なのだろう。

 

「それは無理」

 

「ですよねぇ~」

 

「だって今朝の朝食当番は八幡だって聞いてたんですもの。だったら食べなくちゃダメでしょ」

 

「ダメでしょって言われても」

 

「だから……、きちゃった」

 

「……まあ、いいですよ。でも今度からは事前に連絡くださいよ」

 

「うん」

 

 わざとらしく憮然とした表情を向ける八幡にとびきりの笑顔をお見舞いしてやるっ。

 そしたら予想通り八幡は苦笑いと共に不器用な笑顔を見せてくれた。

 この捻くれた笑顔に雪乃ちゃんはやられちゃったのかな? うん、わたしが虜になってしまったんだから、似たような状態なんだろうけど、これは血筋かな?

 どうでもいいか。

 もしわたしが車を止めていれば見る事ができたかもしれなかった。

 バックミラーには、無邪気に笑う雪ノ下陽乃が存在していた。

 これが誰にもみせた事がない雪ノ下陽乃であり、自分を演技していない雪ノ下陽乃だとしたら、これが素の雪ノ下陽乃だったのかもしれなかった。

 とても無邪気で幼く、小学校に上がる前に放棄してしまった雪ノ下陽乃が、今再び表舞台に出ようとしていた。

 それが正しいかなんてわからない。

 むしろ大人の世界に小さな子供を放り出そうだなんて凶器のさたともいえる。

 でも、この人にだけは私を知ってもらいたいと、心のどこかで切望していた。

 

 

 

 今日も気温はこれからますます上がっていくというのに、駅から出てくるディスティニーランドへいくお客さん達のテンションは下がる事はない。

 灼熱の太陽が頭上に昇っていようと、これからももっと気温が上がっていこうと、一時間以上もアトラクションの列に並ばなくてはならなくとも、彼ら彼女らにとっては些細な出来事の一つのようだ。

 むしろ駅から出てディスティニーランドが視認したことで、電車の中で抑えていたテンションを解放し、マックスだったテンションの上限がさらに跳ね上がったんじゃないかって思えてしまう。冷房がよく効いた車内で冷静に観察している私にも、彼らからにじみ出る笑顔を理解することができた。

 一方で、わたしの隣にいる冷めすぎている男は、そんなはしゃぎまくっているみんなを見て、真冬の視線を送ってはいたけど、それはそれで嫌いではないのよね。

 

「暑いのに元気ですね。俺だったらこのまま車の中で本を読んでいますよ。電車できたとしたら、冷房が効いている電車から出た瞬間にもう一度電車に乗り直すって断言できますね」

 

「それだと家に帰れないんじゃないかな?」

 

「ですね。だったら、帰りの電車に乗りますって事でお願いします」

 

「さすがの八幡も暑さにやられて、いつものきれがないわね」

 

「暑さにやられてっていうのはあってはいますが、今は冷房がほどよく効いた車ですけどね」

 

「そうね。まあ、冷房が程良く効いた車で読書にふけるのもいいけど、さすがに車内だと窮屈じゃない?」

 

「まじめに受け答えないでくださいよ。こっちが恥ずかしくなるじゃないですか? いや、わざとですよね?」

 

「うん、わざとに決まってるじゃない」

 

 これからディスティニーランドに行く人々の笑顔にも負けないほどの激しい笑みを送ると、露骨に嫌そうな笑顔を返してくる。

 ある意味枯れてるって評価をしてもいいんだけど、わたしも付き合いで炎天下の中遊びに行くのはご遠慮したいから、八幡の気持ちもわからなくはないのよね。

 自分で作ってしまった雪乃陽乃というイメージだけれど、他人の評価を気にしすぎるのも面倒なのよね。いくら破天荒で予測がつかないっていわれようと、人付き合いをないがしろにはできないのが難点ではある。

 これが八幡と遊びに行くのなら、今すぐにもUターンして真夏のディスティニーランドだろうとおもいっきり楽しめる自信はあるけどね。

 

「じゃあ、今度からはやめていただけると助かります」

 

「それじゃあつまらないじゃない。そ・れ・に、八幡も楽しんでるでしょ?」

 

「陽乃さんだけですよ、楽しんでいるのは」

 

「ん、ん~……。陽乃、さん?」

 

「陽乃だけですよ。楽しんでいるのは」

 

「うん、よろしい」

 

 雪乃ちゃんの前では遠慮しちゃうけど、私の前だけだったら遠慮しないわよ。

 そもそもふたりっきりでいられる事自体が少ないんだもの。

 貴重な時間は有効活用していかないとね。

 

「人って、外は暑いってわかっているのに、なんで頑張って遊びに行くんでしょうね、苦行が好きなんですか?」

 

「いくらなんでも、今からディスティーランドに行く人たちは苦行だとは思っていないと思うわよ。そうね、夏だからじゃないかしら?」

 

「夏じゃなくても人は遊びに行ってるじゃないですか。むしろ秋なんて気候も落ち着いているから、外で活動するにはもってこいの季節じゃないですかね。だとすれば、夏よりは秋の方が遊びに行くには適していますよ」

 

「じゃあ、夏休みだから、かな?」

 

「休みって、名がついているんですから、遊びに行って無駄な体力を消費するよりも、家で体力を回復させる為に休むべきです」

 

「べつにこのままわたしの家まで戻って、ゆっくりと休んでもいいわよ?」

 

「ほんとですか?」

 

「ええ、今日は両親がお客さんを家に招いているから、わたしも家に戻ったら挨拶くらいしないといけないと思うけど、……挨拶さえしておけば、あとはゆっくりとわたしの部屋で休憩できるわよ?」

 

「それってくつろげない気もするんですが」

 

「大丈夫よ。お父さんもお母さんも接客で忙しいから」

 

「そういう意味ではないんですけどね」

 

 あら、わかった? わざとはぐらかしたのだけれど、やっぱり八幡には通じないのよね。

 だったら……。

 

「でも、八幡も家に来たのだから、八幡もお客さんに挨拶しないとね」

 

「えっ? 俺がですか?」

 

「ええ、もちろん」

 

「部外者の俺が出ていっても、ご迷惑なだけかと思うのですが」

 

「大丈夫よ。わたしのフィアンセって事にしておけば身内になるわ」

 

「……えっと」

 

 あら? 固まっちゃったのね。それもそうか。……そうだよね。

 

「やっぱり知らない相手に会うと疲れるので、ご実家に訪問するのはまたということでお願いします」

 

「まあいいわ」

 

「ありがとうございます。……この季節ですから、花火大会とかの打ち合わせとかですかね?」

 

「どうかしら? とくに聞いてはいないけど、雪乃ちゃんが言ってたのかしら?」

 

「いや、さっき花火大会のポスターがあったので、なんとなくです」

 

「そっか。雪乃ちゃんちのそばでやる花火大会ももうすぐだったわね」

 

「そうですね」

 

「今年はどうするのかしら?」

 

「雪乃は、由比ヶ浜と見に行くらしいですよ。もうチケットも買ったみたいですし、浴衣も今度見に行くとか言ってましたね」

 

「八幡は花火見に行かないの?」

 

「俺は…………、俺は人混みが苦手なのと、暑いのが苦手なので、今年も遠慮させてもらおうかなと、思ってます」

 

「……そう。そっか。じゃあ、今年も静かに見る予定なんだ」

 

「ええ、まあ、部屋から花火見えますからね。部屋から見えるのにわざわざ外に出て、しかもチケットを買って見に行きたいなんて思いませんよ」

 

「そうね。今年も静かに見られるといいわね」

 

「…………そうですね」

 

 これ以上わたしたちの会話は続く事はなかった。

 もともと八幡から話しかけてくることなんてまれだし、わたしも無駄に話を引き延ばしたいタイプでもない。

 ただ黙って二人でいるのも嫌いではないし、むしろその沈黙さえも微笑ましく思えてしまう。

 だけど、今わたしたちの間にある沈黙は、これ以上の言葉を紡げないでいるだけだって、私も比企谷君も理解していた。

 

 

 

 

 

 

 

八幡

 

 

 ようやく監視という名の拷問から解放された俺は、陽乃さんに腕をひかれるまま自宅マンションへと向かっていった。

 太陽はまだまだ輝き足りないとほざき、西日が容赦なく俺達を焦がそうとする。もう十分すぎるほど頑張ったから、とっとと海に沈んで欲しいほどなのに、俺の儚い願いは叶う事はないのだろう。

 もうね、サマータイムや朝型勤務が話題に上るようになってきたのだから、太陽さんも働きすぎないで夕方になったら早く仕事を切り上げるべきだよな。むしろ推奨。

 日本人以上に仕事大好きな太陽さんって、俺には理解できんな。

 とまあ、どうしようもない事を考え現実逃避をしようと、暑っ苦しいのに陽乃さんの胸に抱きかかえられた俺の腕は、文句を言わずになされるままその恩恵を受け取っていた。

 

「ただいま雪乃ちゃん」

 

「おかえりなさい。ちょうどいいタイミングで帰ってきたわね。八幡も御苦労さま」

 

「お、おう……」

 

 俺の返事も、相変わらず俺にへばりついている陽乃さんを見ると、雪乃は眉を吊り上げ、抗議の視線を俺に送ってくる。

 俺に抗議しても無駄なんだけどな。こういうのは俺の管轄じゃないそ。そもそも決定権は俺にはないってわかっているだろうに。俺は上の命令に従って動いているだけの下っぱなんだし。

 だから抗議は陽乃さんにしてくださると助かります。

 

「まあいいわ。姉さんに振り回されて疲れているでしょうし」

 

「そう思っているんなら、もっといたわってほしいんですけどね」

 

 ご奉仕しろとか、疲れた体をほぐす為にマッサージしろとか言わんが、せめてのそのきっつい視線だけはよしてください。

 …………ほんと、お願いしますよ。

 

「あら? 八幡も楽しんでいたじゃない」

 

「どういうことかしら?」

 

「ちょっと待て。仮に楽しんだとして、なにが問題があるんだよ。俺は陽乃さんが楽しむことで雪乃達の準備を邪魔させない為に派遣されたんだろ? だったら、仮に俺が楽しんで、陽乃さんも楽しめたとしたらなにも問題はないはずだ」

 

「それもそうね」

 

 うしっ。チョロインにクラスチェンジしたんじゃないかってほど、うまく話題をそらせることに成功したな。

 そういやチョロインってなんだ? こうやって話題をうまくそらす事が出来る相手の事だよな?

 となると、由比ヶ浜なんてチョロイン筆頭とか?

 

「…………それで姉さん。八幡はなにを楽しんだのかしら?」

 

 …………ですよねぇ。ぬか喜びでした。

 

「楽しんだっていうか、一緒に買い物に行っただけよ」

 

「そうだぞ雪乃。船橋のショッピングモールで大人しく時間をつぶすべく、ぶらぶらと買い物をしていただけだ」

 

「そしてこの紙袋に入っているのが今日の戦利品よ。あとで雪乃ちゃんにも見せてあげるわね」

 

「お洋服でも買ったのかしら?」

 

「まあ、服といったら服よね。あと八幡のも私が選んであげたんだから、八幡のも見せてあげなさいよ」

 

「いや、俺は、いいですよ。むしろ俺のなんか見せたら目が腐りますから」

 

「あら? 八幡ったら、いつになく自虐的なのね。そう言われてしまうと、かえってみたくなってしまうわ」

 

 どうしてこういうときばっかり俺の事を腐ってるとか、目が腐るとか、腐臭がするとか毒舌を吐かないんだよ。

 あれか? 毒舌っていうよりは、俺が嫌がる事をしたいってやつか?

 それって好きな子をいじめたくなるやつだよな?

 …………となると、しょうがないか。

 雪乃は俺の事好きなはずだし。…………って、のろけてどうするよ!

 

「でも、雪乃ちゃんは見慣れているんじゃないかな?」

 

「一緒に暮らしているわけだし、八幡が好きな服装はたいてい見ているはずよね。となると、八幡が普段着ないようなジャンルの服装にでもしたのかしら?」

 

「そういうわけでもないわ。見慣れているっていうのは、……そうね、案外引き締まった体をしているっていう意味よ。たしかに室内にばかりいて、暇ができても読書ばかりで外出しないから肌が白いというのは貧弱そうに見えてしまうけれど」

 

「それって……」

 

「ええ、そうよ。水着を買ってきたの。だって、夏だもの」

 

「そうかもしれないけれど」

 

「それに、去年の水着は着られないのよ」

 

「別に姉さんが去年着た水着なんて覚えている人はいないわ。だから去年と同じ水着でもいいのではないかしら?」

 

 たしかに女って毎年水着買いたがるよな。

 雪乃は水着そのものっていうか、マンションの目の前にある海にさえ行こうとしないけど。

 

「わたしも去年の水着でもよかったのよ」

 

「だったらなおさらわざわざ買いに行かなくもよかったのではないかしら? それとも衝動買いとでも言い訳をするのかしらね」

 

「ううん。もともと水着は買わなくてはいけなかったのよ」

 

「太ったのね?」

 

「ある意味太ったとも言えるかな?」

 

「姉さんもいつまでも若くはないのだから、定期的に運動をしないといけないわ。とくに年とともに胸の贅肉が垂れ下がってきて、見ている方としてはかわいそうに思う事があるわ」

 

 雪乃さん。それはない人が言う負け犬の遠吠え……っていう負けフラグなのではないでしょうか?

 しかも、垂れる心配がない胸を突き出しても虚しい……、睨まないでください。ごめんなさい。もう言いませんから。

 

「そうねえ、今のところは垂れてきてはいないから問題はないわ。でもねぇ、また胸のサイズが大きくなったのよね。水着だけはなく、ブラも買い直さなくてはならないのは面倒ね。これはこれで新しいのを選ぶ喜びを得られると思えば問題ないかな」

 

 ピキッと空気が裂ける音がした。

 絶対に幻聴だってわかっているのに、その発信源たる雪乃を見ると、幻聴ではないと錯覚してしまう。

 今の鬼のような形相を見れば、いつも俺に向けてくる威嚇なんて可愛いものだと今なら判断できる。

 まあ、可愛いと言ってもライオンがじゃれついてきたら、誰だって怖がると思うが。

 

「そ……、そ、そ。……はぁ」

 

 深呼吸しないと立ち直れないレベルなのかよっ。

 見た目以上にショックを受けてやがるな。たしかにいまだに胸が成長していると聞かされたら、とうの昔に胸の成長が止まってしまった、いや、成長したかさえ疑わしい雪乃からすれば再起不能レベルの一撃だったのだろう。

 だとすれば、深呼吸程度で復活するとは、さすが雪ノ下家の血筋だなと尊敬してしまう。

 

「はぁ……。姉さん。それは太ったというべきではないかしら? いくらなんでも姉さんの年齢で胸が成長するとは思えないわ」

 

「たしかに年齢的側面からすれば成長は止まったと考えるべきね」

 

「なら、太ったと判断すべきではないかしら。姉さん。太ったと認めるのは酷ではあるけれど、人はいつまでも体型を維持できるものではないわ」

 

 おそらく雪乃もわかっていたのだろう。

 雪乃の声は震えていた。つまり、雪乃は虚勢を張っていたともいう。

 ここで俺が横から発言なんてしたら、セクハラやら胸大好き人間やらとののしられそうだから言わないが、胸の成長は年齢以外にも起因している。

 俺が勉強している隣で、俺のことなんていないかのごとく友人と話していた由比ヶ浜情報だから、真実かどうかはわからんが。

 

「雪乃ちゃん」

 

「なにかしら?」

 

「胸はね、女性ホルモンの増加によっても大きくなる事があるのよ。げんに出産した女性の胸は赤ちゃんに母乳を飲ませる為に大きくなるじゃない。わたしは妊娠も出産もしたわけでもないから、そこまで顕著に大きくなってはいないけれど」

 

「……っく」

 

 あっ、やっぱり。雪乃も気が付いていたんだな。

 

「というわけで、新しいブラも必要だったから、それも買ってきたわ。雪乃ちゃん、見る?」

 

「結構よ。……あっ、もしかして」

 

「大丈夫よ。さすがに八幡に下着を試着したところは見てもらってもないわ」

 

「当然よ。場を考えなさい」

 

「でもね、どれにするかは選んでもらったのよね」

 

 あっ。……うっ。すんません。逆らえなかったいいいますか、なんといいますか。

 俺はこれで何度目になったかわからない土下座の為に膝を折ったのだった。

 一応土下座して床にこすりつけている俺の頭を雪乃が脚で踏みつけた事だけは記載しておこう。

 

「でもねぇ、水着もブラも今日買おうとは思ってはいなかったのよ。たまたま行ったお店に気にいったのがあって、しかも雪乃ちゃんが戻って来てもいいって指定する時間はまださきだったし、最初は見るだけでもと思っていたのよ」

 

「俺からすれば、男の俺を水着売り場なんていう男厳禁の場所に連れ込まないでほしかったですよ」

 

「あら? 彼氏連れで来ている子たちいたじゃない」

 

「いたとしても少数派であり、どこであっても少数派の肩身は狭いんですよ。しかも下着売り場にはカップル連れなんていなかったですよね?」

 

「でも、八幡に試着室に入ってもらうのは諦めてあげたじゃない。それで八幡も納得してくれたはずだと思うんだけどなぁ。あっそれと、下着売り場であってもカップルで見に来ている人達いるわよ。だ・か・ら、また行こうね」

 

 うわぁ……。いきなり爆弾発言投下しないでくださいよ。

 っていうか、下着売り場に潜入した事をげろったのは俺か。ついっていうか、陽乃さんの話術に流されちまったというか。つまり、やばい状態です。

 対抗心丸出しの妹君が睨みつけていらっしゃいますよ。これは、あれだ。

 たぶん雪乃の羞恥心が許可は出さないだろうけど、水着だったら試着室まで入ってきなさいって一度は言いだしかねないぞ。

 下着は対抗心でさえ一緒に行くなんて言わないだろうが。

 

「姉さん…………」

 

 暗く、人を押しつぶす声が押し寄せ、俺達を威嚇する。けれど、やはりそこは陽乃さんなわけで、雪乃の一撃を笑顔で握りつぶした。

 

「でもねえ、試着した水着はしっかりと八幡に見てもらったわよ。で、これが八幡が選んでくれた水着で~す」

 

 効果音まで聞こえてきそうな勢いで雪乃に見せつける水着は、俺が選んだわりには陽乃さんによく似合っているものだと我ながら感心してしまう。

 藍色と水色のグラデーションで染まっているそのビキニは、一目見てこの水着を着た陽乃さんを見てみたいと思えたしまった。だから、これ以上の水着はないわけで、他の水着も見て欲しいと言われても困ってしまった。

 ただ、いくら困っても、その水着が最高だと誉めたたえようと、陽乃さんによるファッションショーは時間短縮されることはなかったが。

 むしろしてもいないアンコールが繰り返されてしまったのはどうしてでしょうか。

 まあ、陽乃さんという素材がよすぎるって事もあり、どの水着を着ても似合ってしまう。

 それでも今回選んだ水着は、俺が最初にイメージした陽乃さんの水着姿そのものであった。

 

「はぁ……、水着は今度ゆっくりみさせてもらうわ。でも、そろそろ由比ヶ浜さんもスーパーから戻ってくる頃でしょうから、姉さんもみっともない真似はしないでくれないかしら」

 

「つれないなぁ雪乃ちゃんは」

 

「私は姉さんよりも常識的なだけだよ」

 

「わたしにだって常識くらいはあるわよ」

 

「だったら露出癖を疑われる言動は控えて欲しいものね。八幡もいつまでも土下座していないで、パーティーの準備を手伝いなさい。むしろ自分のやった過ちを償う為に働きなさい」

 

 でしたら、俺の後頭部におありになるおみ足をどかしてはもらえませんでしょうか?

 

「過ちって。それはひどいんじゃないかな?」

 

「そうかしら?」

 

「最近雪乃ちゃんも八幡の事を比企谷君ではなくて八幡って呼ぶようになって、雪乃ちゃんの言葉遣いも柔らかくなったかなぁって思ってはいたんだけれど、どうも名前で呼ぶようになっても、それは形だけのようね」

 

「どういう意味かしら?」

 

 俺を挟んで戦争を始めないで下さいませんか? せめて正座の解除を……。

 くそっ。さっきお許しが出た時に、とっとと立ちあがればよかったな。

 

「お母さんを見てみなさい」

 

「お母さんを?」

 

「お母さんはお父さんの事を呼ぶ時、仕事用、親しい人用、家用、そして、二人っきり用と、全て使い分けているわ」

 

 あの女帝なら完璧に使い分けていそうだけど、二人っきり用っていうのは聞きたくないかも。

 

「別に呼び方をその場その場で使い分けている人はお母さんに限らずたくさんいると思うわ」

 

「使い分けている人はたくさんいるでしょうけど、お母さんほどその落差ともいうのかしら? 呼び方によって感情の込め方が違う人はいないと思うわ」

 

 うわぁ……、これ以上は聞きたくねえな。だいたい予想はできるけど、聞いてしまったら生きては帰れないっていうか。

 

「そうね。雪乃ちゃんは、お母さんがお父さんと二人っきりの時の呼び方って知ってる?」

 

「名前で呼び合っているのではないかしら? 私たちの前ではいつも名前だし」

 

「お父さんはお母さんの事を名前で呼んでいるみたいだけど、お母さんは違うわ」

 

 陽乃さんがわざとらしくそこで言葉を止めるものだから、俺も雪乃も場の雰囲気にのまれて無意識に唾を飲む。

 それだけあの女帝がどう変化するかを知るのが怖かった。

 そして、もしあの女帝がデレるのであったら、この人こそが地上最強のツンデレであると、俺は命をかける事が出来た。

 

「お母さんはね。お父さんの事をあだ名で呼ぶのよ」

 

「あだ名?」

 

「そうあだ名。お母さんは…………」

 

 この後の事は俺は覚えてはいない。

 由比ヶ浜がスーパーから戻って来たら、俺も雪乃も放心状態であったらしい。

 それでも雪乃は俺よりも早く立ち直り、精神を保つためにパーティーの準備を進めていたとか。

 一方俺はというと、パーティーが始まる直前に平塚先生が来るまで意識がとんでいたみたいだ。

 幸いなのかわからないが、女帝が親父さんをどう呼んでいるかっていう記憶は、俺の中では封印され、思いだす事が出来なくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

7月17日 日曜日

 

 

 

 日曜日。誰の元にも平等に贈られるはずの休日の朝。

 寝苦しい夏であっても惰眠に精を出し、朝はとことん寝倒すのが正しい休日の過ごし方だと信じている。

 目覚まし時計をセットなんてするやつは馬鹿だと言ってやりたい。

 目ざまし時計とは、いわば社畜養成ギブスである。小さな時からこつこつと毎日時間に管理され、そしてみごと就職した時には会社に管理されるというわけだ。

 子供の時から気がつかないように管理されていたら大人になったらなおさら管理されることへの苦痛など気がつかないだろう。むしろ大人こそ管理される喜びを享受していると大声で叫びたいっ。

 そんな休日大好きSTOP目ざまし時計人間の俺が、どうしてデパートの開店時間に合わせて千葉までやって来ているのだろうか?

 本来の俺ならば、休日の午前10時などまだまだ早朝だと判断すべき時間だ。

 …………まあ、雪乃と同棲しだしてからは日曜だろうと平日と同じ時間に起こされるんだが、今はそれも些細な事実だ。決して尻に敷かれているわけではない事だけは明記しておく。

 

「俺ってなんで朝っぱらからこんなところにいるんだろうな」

 

 俺の愚痴を瞬時に察知した雪乃は、手に取っていた茶碗を棚に戻してから振り返る。

 

「なにを言っているのかしら?」

 

「ん? 現状把握、だな? たぶんそんなところだと思うぞ」

 

「だとしたら、八幡の現状把握は根本から間違っているといえるわね。だから優しい私が訂正してあげるわ。今は午前10時30分になるところだから、すでに朝早くとはいえない時間帯よ」

 

 一応陽乃さんも機敏に察知して振り返ったが、雪乃とは違ってにやにやと笑みを送ってくるだけだ。

 ……いや、ね。文句があるのでしたら雪乃みたいにストレートに言って下さいよ。そうやって無言でプレッシャーを与えくるほうが、よっぽど精神にずどんときますから。

 俺は無意味だとわかっていても一つ咳払いをすると、陽乃さんのプレッシャーから目をそらしながら、これもまた無駄な言い訳を最後の抵抗としてぶちまける。

 

「だったらなんでデパートの、しかも食器売り場になんてやってきたんだよ。……あれか? 陽乃さんから聞いたんだな?」

 

「なにをかしら? というよりも、なにか隠し事があることのほうが問題よね?」

 

 あれ? 墓穴掘ったの? いやまて。俺落ち着け。大丈夫、大丈夫。何も悪いことなんてしてないよ、八幡。

 

「隠し事ってなんのことだよ? 俺が言いたかった事は、こんなデパートの、しかも庶民が買うことなんてない高級食器売り場になんのようがあるんだよってことだ。見ているだけでも間違ってぶつかって壊してしまうんじゃないかとびくびくして落ち着かないぞ」

 

 まあ、近くに店員がいるが、俺が庶民である事には違いがない。むしろ庶民代表としていってやりたい。

 白米を食べる茶碗なんて100円ショップで買ったものでいいほどなのに、どうして一万以上もする茶碗を買わないといけないのだ。陽乃さんがさっき見ていた茶碗なんて、ペアで三万超えてるぞ。

 ここは百歩譲って100円ショップの茶碗はなしとしよう。ただ、それでもその辺の店で1000円とか2000円くらいの茶碗で十分すぎるだろうよ。

 なにが楽しくて食事の時間に精神的圧迫を受けねばならないのだ。

 一万円も超える茶碗を普段から使うなんて、どういう神経してるんだよ。

 

「あら? 案外小心者だったのね。いつもふてぶてしく生きているものだから、てっきり……」

 

 憐みとも嘲笑ともとれるその頬笑みに、俺はあやうく一歩身を引きそうになる。

 しかしここはデパートの高級食器売り場なわけで、俺の背中に鎮座するお高級食器さまに私目の体が触れる事を恐れて身を硬直させるだけにとどめた。

 しかし、窮地に陥っている俺を放っておいてくれない陽乃さんは追撃とばかりにとどめを刺しにきた。

 

「自分は庶民だといっている八幡には悪いのだけど、八幡が今使っている茶碗をはじめお箸や食器。それにキッチン道具にいたっても、それなりの値段がするものがそろえられているわよ? それに、このことは以前八幡とここに来た時にも教えたじゃない」

 

「たしかそんなことも言っていたような気も……」

 

 うん、たしかに陽乃さんが言ってたな。でも、あまりにも衝撃発言過ぎて、日常生活に支障をきたすと判断して記憶を封印したんだっけな。

 普段から弁償も出来そうにない食器に囲まれて生活なんて、まともな精神構造じゃできやしないぞ。

 

「それに、雪乃ちゃんがもし八幡がそれらの食器を使う事で壊してしまうかもと心配するのであれば、最初から使わせていないはずよ」

 

「姉さんの言う通りよ。そもそも形あるものは壊れる運命だもの。それの値段が高くても、壊れるときは壊れてしまうわ。だから、値段の事なんて気にしないで、器の美しさとそれに盛られている料理に意識を向けて欲しいわ」

 

「それにね。せっかく八幡の為に料理を作ったというのに、愛情を込めた料理よりも、ただ値段が高いだけの器に興味を示すなんてひどいと思わないかな?」

 

「たしかに二人の言う通りだ。俺が気にしすぎていたのかもしれない」

 

「ええ、そのようね。…………ほら八幡。このお茶碗なんてどうかしら?」

 

「お、おう…………」

 

 口では気にしないと言ってはみたが、やはりお金を支払う前の商品ともなれば緊張を捨て去ることなんてできやしないでいた。

 こんな事を言ってしまえば雪ノ下家に寄生するヒモだと罵られそうだが、たとえ与えられたものであっても自分のものであれば諦めもつく。しかし。店で売られている商品ともなれば当然の事だが自分のものではなく弁償せねばならない運命だ。

 つまり、他人のものは勝手には壊せないわけで……。まあ、自分の物であっても壊したくはないが……、つ~か、なんだか金額が飛びすぎて頭が回らん。

 やはり他人様には迷惑かけられんだろ。

 だから俺は雪乃の呼びかけに応じて、おそるおそる手の震えをなかった事にしながら茶碗を受け取った。

 

「どうかしら?」

 

「どう?と聞かれても……。まあ、絵柄はよくわからんがシンプルでいいんじゃないか? そうだな……、手になじむっていうか持ちやすいな、これ」

 

「そのようね。手になじむように作ってあるそうよ」

 

「もしかして、この茶碗ってどっかの有名な焼き物だとか? 俺そういうのはわからないから宝の持ち腐れだぞ?」

 

 おいおい、この茶碗。やっぱお高いだけあるんだな。

 

「どうかしら? ただ、そこのパネルに書かれている説明文を読んだだけなのだけれど」

 

 小首を傾げて俺を見つめるその姿に、思わず体のバランスを崩しそうになる。

 しかし、ここが高級食器売り場であることを瞬時に想いだした俺は、すかさずバランスの回復に努めた。

 

「あぁ~……そう。まあ、そうだよな。うん、そんなところだろうと思っていたよ」

 

「どう八幡?」

 

 俺のボケなど気にもせず、陽乃さんはいたってマイペースで茶碗の感想を聞いてくる。

 やはり料理とくれば俺へのちょっかいも減ってしまうのだろう。

 だって料理は陽乃さんにとって神聖なものだし。

 

「えっと、どれもこれも悪くはないといいますか、いいもの過ぎてどれでもいいというか。それに雪ノ下家で使う俺達専用の食器でしたら、今使っている来客用の食器でもいいですよ? ただ来客用の食器をいつまでも使うわけにもいかないか。だとしたら、それこそスーパーで売ってる食器で十分ですよ。俺のなんて」

 

「そうもいかないわ。お母さんがいるときにお母さんの機嫌を損ねるような食器をテーブルに置くことなんてできないわ。それこそ母への嫌がらせでしたいというのならば止めないけど……」

 

「そんな無謀な事できないってわかってて言ってますよね?」

 

「あら、そう?」

 

「すっごく意地が悪そうでいて、なおかつ最高に機嫌な良さそうな笑顔を前にしてしまうと、どんな鈍感男でもわざとだと気がついてしまいますよ」

 

「そうかしら? でも、美人の笑顔を見られてうれしいくせに」

 

 だからぁ、ここは危険地帯なんですから、普段みたいに俺を腕でつついてこないでくださいよ。あなたの魅力があふれまくっている体が俺に触れるたびに過剰反応してしまうんですから。

 

「そうですね。美人の笑顔はみたいですけど、俺の心が朗らかにしてくれる笑顔でしたら毎日でも見たかったですよ」

 

「…………そうね。ごめんね。お姉ちゃんちょっと舞い上がっちゃってて」

 

「いやその、俺の方も言いすぎてすみませんでした」

 

 陽乃さんのしおらしい態度に俺の方が悪者になり下がってしまう。

 俺の予想ではもう少し陽乃さんがちょっかいかけてくると思っていたのに、ましてや笑顔を曇らせるとは思いもしなかった。

 しゅんっと肩を落とす姿はまさしく親に叱られた子供のようだった。

 

「とりあえず茶碗、みそ汁用の椀、それに箸ですかね。箸もいつまでも来客用のとか割り箸とか使ってられないでしょうし」

 

「そうね。あとは湯のみ茶碗が必要かしら? 紅茶やコーヒーのものは家にたくさんあるけれど、湯のみ茶碗くらいもそろえておきたいわね」

 

「じゃあ、その辺を中心に見ておきますね」

 

 ここで今あげたものを全部買ったらいくらになるかなんてことは考えないでおこう。

 もうこの姿そのものが昔あこがれていた主夫の姿の一端かもしれないが、自分で稼いだお金で買えない事に不安を覚えていた。

 雪乃も陽乃さんも正確に言えば雪ノ下家の金を使っているにすぎない。おそらく親父さんから渡されているクレジットカードや現金を使うのだろうけど、そこは家族だし、親父さんは親でもある。

 けれど俺は他人であり、いくら将来を考えた交際をしていようと、あくまで他人にすぎないのだ。

 この状況からすると、寄生はいやだけど養われたいなんて無謀どころか俺にはあっていないとさえ思えてしまう。

 ぼっちは自分の責任でやっていたとするのならば、やはり大人になって生活していくとしても自分の稼ぎでやり抜かなければと考えてしまう。

 高校生だった俺ならば、主夫も仕事の一つであり、社会的にも認められた職業だと反論してくるだろう。だけど、主夫の一端を経験してしまった俺としては、養われるという他人依存にどうしても心が落ち着かないでいた。

 

「どうかしら。心に残ったものくらいはでてきたかな?」

 

 俺が目の前の食器以外の事に思い悩んでいるのを真剣に茶碗を見ていると錯覚してくれた陽乃さんは、進捗具合を聞いてきた。

 まあ、陽乃さんのことだから、俺が他の事を考えていた事さえ気が付いていたかもしれない。

 そして、俺が深みにはまらないように……、いや、もう考えるのはよそう。陽乃さんもさっきまでの陰りをぬぐい去ろうとしてくれているのだし。

 

「そうですね。もう少し見比べてみます」

 

「わかったわ。雪乃ちゃんは?」

 

「私は……」

 

「別に夫婦茶碗にこだわらなくてもいいのに」

 

「こだわってなどいないわ」

 

 雪乃は静かな売り場には似合わない大声をあげてしまい、数少ない客も、客の数と同じくらいの店員も一斉に俺達に注目してしまう。

 俺は気にはしないが、雪乃は自分の失態にみるみると顔を赤らめ首をすくめる。

 陽乃さんは雪乃の失態には気にもかけていない態度を取り、いつも通りの妹大好きお姉ちゃん対応をしてくるのかなと思い見やると、下唇を軽く噛み締めきつい目つきで雪乃を見つめる陽乃さんがそこにはいた。

 しかし、俺の視線に気がついたのか、陽乃さんは今さっきまでの表情などなかったかのようにいつもの陽乃スマイルを作りだしていた。

 ぞっとするほど自然な笑みに俺は恐怖を覚える。

 こんな気持ちはいつ以来だろうか。

 背筋が凍るほどの違和感が俺に寄りかかり、陽乃さんに距離を取られてしまったと気がついてしまう。

 ただ、そんな違和感も、俺の警戒を機敏に察知した陽乃さんは、物悲しそうとも、笑顔を作るのを失敗したともとれる微妙な頬笑みを俺に向けながら近寄ってこようとしてはくれた。

 

「まっ、雪乃が夫婦茶碗を中心に選んでくれるんなら、それはそれでいいんじゃないか?」

 

「そうなの?」

 

「まあなんだ、俺は茶碗の良しあしなんてわからないし、そもそも100円ショップの茶碗を出されたって高級茶碗どころか普通のスーパーに売っている茶碗とさえ区別がつかないほどだ」

 

「そこは区別してほしいところであり、胸を張って言うべきところではない気もするのだけれど」

 

「いちいち突っ込みを入れるなって」

 

「それでなにを言いたいのかしら?」

 

「つまりだな。俺が選んでもメリットが何もないって事なんだよ。茶碗を選ぼうにも、値段くらいしか判断基準がない。そうなると安くて、……あとはそうだな丈夫そうなのを選ぶことになると思うぞ」

 

「残念にも、そうなってしまいそうね」

 

「だったら、最初から雪乃が俺のも一緒に選んでくれた方がいいんじゃないかって事だ。あとついでにみそ汁用の茶わんと箸も一緒に選んでくれると助かる。……あと湯のみも頼む」

 

「はぁ……。最初からそうなりそうな予感はしていたのよね。わかったわ。私が選ぶわ。でも、一応最後に八幡も確認してほしいわ」

 

「そのくらいは任せてくれ」

 

「まったく、もぅ……」

 

 柔らかな頬笑みを交えたため息をつく雪乃を見て、俺の方もほっと胸を下ろす。

 俺が言ったことは嘘ではないが、別に茶碗を選べないわけでもない。

 だけど俺が選ぶよりは雪乃が選んだほうがいいって判断しただけだ。

 そこには陽乃さんが言ったように、雪乃が夫婦茶碗にこだわる意図も起因してはいる。きっと俺との繋がりを求めているのだろう。それだけ最近の陽乃さんの行動は突出していて、雪乃も安心できていない気もしてしまう。

 ならば俺が雪乃を安心させ、なおかつ陽乃さんへのフォローもしっかりすればいいだけなのだが、それも簡単にはいかない。

 俺も雪乃も陽乃さんが好きであり、大切な家族という認識だけは譲れなく、一概に陽乃さんを拒絶すればいいだけではないからだ。

 だが俺は、今すぐには解決できない問題を棚上げにして、今にも鼻歌まで歌い出しそうな雪乃が差し出す茶碗に、適当な感想を返していく。

 どれも適当すぎて時々雪乃も顔をしかめはするが、その辺の俺事情は雪乃も想定済みだ。

 それでも俺も雪乃も笑みを浮かべながら選定作業を続けたのだから、俺達二人にとっては、この買い物は成功だったのだろう。

 

 

 

 

「満足がいく品物があってよかったわ」

 

 ようやく目的の品を買った俺達は、階を移動して紅茶専門カフェで疲れを癒していた。

 ただ、疲れているのは俺一人で、体力がないはずの雪乃は疲れなど見せずに優雅にティーカップを口に運べているのはどうしてだろうか。

 やっぱあれか? 楽しんでやる事の体力は別枠ってやつか? 

 

「そりゃあ店に入ってから午前中全てをあそこですごしたんだから、選んでくれないと困る。さすがに疲れたっての。それに、あそこもそれなりの大きさのフロアだとは思うが、2時間も見続けるほどの商品はないと思うんだが」

 

「それは八幡がなにも考えないで見ているからよ。しっかりとした目的をもって見ていれば、2時間でもたりないほどよ」

 

「すみません。2時間で終わらせてください。午後からもう一度ってやつだけは勘弁してください」

 

「もう全て買ったのだから買う必要などないわ。でも八幡がまだ見たいというのならば、付き合ってあげるわ」

 

「いや、けっこうだ。もういい」

 

「そこまで拒絶しなくてもいいと思うのだけれど」

 

「もう見なくても、なんとなくでいいんならどんなものがあったか言えるほどだぞ。だから、今さらもう一度行く必要なんてない」

 

「だったら、隣のデパートに行こうかしら? そこならば違う食器が売っていると思うわよ?」

 

「せ、せめて食器以外でお願いします」

 

「もう……、だから必要な物は全て買ったと言っているのに、しょうがない人ね」

 

 しょうがないと申してはいますが、わたくしめは最初からもう見たくないと言っただけではないですか。

 それなのにほじくり返すように俺の事をいびってきたのは雪乃であり、雪乃のせいで俺が気が休まらないだけだぞ。

 でも、まあいいか。

 雪乃も待望の夫婦茶碗が買えたみたいだし、今もなんだかんだいって機嫌がいいしな。

 ただ、気がかりがあるとすれば、思い過ごしであってほしいが、陽乃さんが雪乃の選定作業に飽きて他の売り場に行くあたりから、陽乃さんに元気がないような気がすることだ。

 たしかに俺も疲れてしまったし、陽乃さんも疲れて飽きてしまったとも考える事はできる。

 しかしなんていうか、陽乃さんが買ってきた爪切りが包丁メーカーの品物で、切れ味がすごいとか楽しそうに俺に説明する姿が、以前ここに一緒に来て包丁を見た時の陽乃さんとは異なっているように見えてしまった事だけは間違いではなかったはずだ。

 俺が陽乃さんの微妙な変化を気にしたのはこの時だけであり、午後からの強行軍の中では俺はただただ圧倒的なパワーのうねりに身を任せていた。

 一応どうにか隣のデパートに行く事は免除された。

 そのかわりなのだろうか。それとも最初からの予定だったのだろうか。おそらく後者だとは思うが、俺は雪乃と陽乃さんの秋服を見る為に夕方まで連れ回される事になる。

 いくら新作の秋服が出始めたばかりだからといって、どういう神経で秋服を見たいと思うのか俺にはわからない。外は夏だし、8月になればさらに暑くなる事だろう。

 それなのにどうして暑っ苦しい秋服を見たいと思うのだろうか。駐車場から店内に行くまでの数分間でさえ夏の暑さにやられたというのに、俺からすれば冷房が効いた店内に入ろうと、新作の秋服を見ようと、気持ちだけを秋にすることなんて不可能だ。

 それに、いくら新作だろうと、買ったところで今の時期着る事が出来ない服を買うなんて理解できない。たしかに数ヵ月後には着るだろうが、その頃にはまた違う服が欲しくなるだろう。ましてやその時今買った服が着たいと思う保証なんてないのだから。

 ……なんて心の中で愚痴ばっかり言っていたら、どういうわけか女性水着売り場に連れてこられてしまった。

 この女の楽園での気まずさは最悪だった。それをわかっていて連れてこられたのだろうが、いくら他にも彼氏連れのカップルがいようと、俺の心を軽くする効果は著しく弱い。

 しかも、どうしてこういうときばっかり姉妹の仲が良くなるんだよ、と叫びたい。普段はチームワークなんて最悪なのに。

 ただ……それよりも、人の心を読むのはやめていただけませんか?

 俺が失礼な事を考えたことに対する嫌がらせだろうけど、もう少し穏便にお願いします。

 

 

 

 

 

「今日はさすがに疲れたな。なのになんで雪乃達は元気なんだよ」

 

「八幡はほとんど立っていただけじゃない」

 

「動かないでいるのもエネルギーを消費するんだよ」

 

 陽乃さんが運転する車の助手席に雪乃が座り、後部座席には荷物番として俺が座る。……まあ、朝も同じ座席ではあったが、トランクに荷物を突っ込んで壊れるよりはいいだろう。

 俺達は夕方までデパートに居座り、ショッピングとしては大変楽しめたとおもう。主に女性陣が、だが。

 一応俺も店を見て回っている時の二人の姿を見て、普段見せないような表情が見られて楽しめてはいる。高校時代の俺ならば気になっていた天敵たる店員も、ちょっかいばかり掛けてくる陽乃さんや雪乃の助力もあって敵意を見せることなどまったくなかった。

 その分気苦労も増えてはいるが、不審人物認定されなくなったことはいいことだろう。店側からしても、不審人物がいたら他の客が入りにくいしな。

 

「それもそうね。でも、ベンチで座っているときもあったのではないかしら? 店を移動しようと店舗を出たら、八幡がいないときがあったわよね。最初はいるくせに、途中から消えてしまうのよね」

 

「今日は長期戦だったからな。だから省エネを心がけたまでだ。エコの精神は大事だぞ」

 

「どこがエコの精神かはわかないけれど、文句を言わずに付き合ってくれたことには感謝しているわ」

 

「そうか? けっこう文句言っていたと思うがな」

 

「それは朝店に着いた直後でしょ? それくらいはいつものことよ。でも、私と姉さんが見始めてからは言っていないじゃない」

 

「どうだったかな……」

 

「そうだったのよ」

 

「……そうね。比企谷君は案外人の心をしっかりと捉えているし、心遣いもしっかりしているわね」

 

「陽乃さんまで持ちあげすぎですよ」

 

「そうかしら? だって比企谷君は私たちが楽しんでいるのに水をさすような行為はしなかったじゃない。本当にショッピングに来るのが嫌ならば、最初の目的のお茶碗を買った後あたりから家に帰りたいと訴えていたはずよ」

 

「それは違いますよ。諦めて午後も付き合う事にしただけです」

 

「本当に?」

 

 バックミラーから覗かれる瞳が鈍く迫る。いつもの陽乃さんの追求であるはずなのに、どうも棘が鋭い気がしてしまう。

 だからというわけでもないが、俺はしどろもどろに返事を返すのがやっとであった。

 

「本当ですって」

 

「まあいいわ。でも、ご機嫌取りをしようとしているわけではないとは思うけど、相手の気持ちに対して臆病になりすぎるのはよくはないと思うわよ」

 

「俺には由比ヶ浜みたいに場の空気を読む力なんてないですよ。文句を言わないでついていったのは、俺が雪乃に飼いならされただけじゃないですかね」

 

「……そうかもしれないわね」

 

 「そうかもしれない。」

 本当にそう思ってくれているのだろうか。俺でさえ適当に答えたと思っているのに、あの陽乃さんが納得しているとは思えなかった。

 でも、これ以上追及する気はないようだ。西日が当たる陽乃さんの表情は赤く染まり、どんな表情をしているかはわからなかった。

それと同時に、表情が読みとれなくてほっとしている自分がいることに、俺はショックを覚えていた。

 

「姉さん。道が間違っているのではないかしら?」

 

「あっているわよ。雪乃ちゃんって方向音痴なのよね。大学では完ぺきだとみんなに称賛されてはいるけど、案外致命的な弱点もあるのよね。そこが可愛いっていう人も若干一名知ってはいるけど」

 

「失礼ね」

 

「でも、方向音痴なのは事実よね」

 

「それは…………」

 

 俺が勝手に沈んでいると、前の座席ではいつものように姉妹のコミュニケーションが通常運転で行われている。

 先ほどまで陽乃さんが見せていたとげとげしさは抜け落ちて、丸みを帯びた表情で雪乃と会話を楽しんでいるようだ。

 ただ、毎度ながら、俺を巻きこむのはよしてくれませんかね。

 

「完璧すぎないで意外な弱点がある方が殿方には好評のようよ。ね、比企谷君」

 

「俺に振らないでくださいって」

 

「ありゃりゃ……。でも、嫌いではないのでしょ? むしろ好きで、大好きって感じかしら? うん、愛してるって叫んでもいいよ。許可してあげます」

 

「ノーコメントで。それと、そんな許可はいりません」

 

「雪乃ちゃん。比企谷君は愛してるって耳元で囁きたいって」

 

 ノーコメントだと言ったじゃないですかっ。

 

「ノーコメントってことは、言いにくいコメントだって白状しているだけじゃない。つまり今回のケースだと、雪乃、愛してる、でしょ?」

 

 人の心を読まないでくださいよ。しかも、心の中の言葉とさえ会話するのはいかがなものかと。

 

「ノーコメントで」

 

「やっぱり可愛いってさ」

 

「……もうっ」

 

「このこのっ。雪乃ちゃん、照れちゃって」

 

「姉さん。前を見て運転してくれないかしら。事故を起こしたら大変よ」

 

「はぁ~い」

 

 陽乃さんが雪乃をいじっている間も車は問題なく進む。しかし窓の外を見ると雪乃の指摘通り雪ノ下邸に行く方向とは明らかに違っていた。

 さすがに方向音痴の雪乃といえども間違えようもない…………と思う。たぶんだけど。

 

「陽乃さん」

 

「なにかな?」

 

「やっぱり方向違いません?」

 

「あってるわよ」

 

「でも、実家とは逆方向ですよね?」

 

「ああ、そういうことか」

 

「というと?」

 

「だから、雪乃ちゃんにも言った通り道は間違ってはいないわ。だって雪乃ちゃんのマンションに向かっているんだもの」

 

「そうなんですか? てっきりこのあと実家で一緒に食事をするのだとばかり思っていました」

 

「それは悪い事をしたわね。でも今実家では仕事の関係者を呼んでいるのよ。だから悪いけど実家は使えないの」

 

「じゃあ、うちで一緒に食事をしてから帰るんですよね? 遅くまででしたらお義母さんが色々言ってくるでしょうからあまり遅くまではいられないでしょうけど」

 

「それもごめんさない」

 

「姉さん?」

 

 雪乃がつい呼びかけてしまったのも理解できる。俺もなにか違和感を感じたのだから。

 

「ん? ごめん雪乃ちゃん。今日はお母さんに呼ばれているのよ。最近わたしも家の方のお仕事をおろそかにしていたものだから、出ないわけにはいかないのよ。……ほら、ストーカー騒動もあってあまり外には出ないようにしていたから」

 

「それならば仕方がないわね。でも姉さん。私も今度からはなるべく出席するわ。姉さんの代りができるとは思ってはいないけれど、少しは姉さんの負担を減らしたいわ。だから、その事をお母さんにも言っておいて。ほんとうは私が直接出向いて言うべきなのだろうけれど」

 

「大丈夫よ。でも、ありがとうね」

 

「姉さんが言ってくれないのならば、あまり気乗りはしないけれど、私が直接言うわよ?」

 

「わかったわ。帰ったら言っておくわ。でも、最終的には雪乃ちゃんが直接言わないければいけないのよ?」

 

「わかってるわ」

 

 陽乃さんの顔をいたって平常で、いつも俺達に見せる表情は崩れてはいない。これが演技だとは疑いたくはないが、どうしても普通すぎて俺も雪乃もこれ以上の追及は出来ないでいた。

 ただ、雪乃を雪ノ下家の仕事に今は関わらせたくないという姉の気遣いならばありえはする。

 歯切れが悪いのも、今夜の実家での事を黙っていた事も、雪乃を遠ざけた事さえも、正しすぎて受け入れざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

7月16日月曜日

 

 

 

 いつもの朝と同じように俺を挟んで雪乃と陽乃さんの核戦争は行われている。せめて俺を間に挟まずに姉妹喧嘩とも言えてしまうだろう言い争いをやってほしいところだが、これが朝の微笑ましい日課だと思えば悪くはない日課だと思えてしまっていた。

 雪乃も陽乃さんも本気で相手を叩きのめそうとしているわけでもないし、俺が口を挟むべきでもない。ただ、何も知らない第三者が聞いたら鳥肌がたつ内容ではあるけれど……。

 

「昨日の帰りは道が混んでいるようでしたけど、帰りが遅くなって何かいわれませんでしたか?」

 

「あら? 比企谷君は優しいのね。雪乃ちゃんとは大違い」

 

「そうでもないですよ。昨日家に着いてから雪乃が心配していたんですよ」

 

「八幡っ」

 

 たしか内緒だったけな。……すまん。あとで1時間のお説教うけるから勘弁してくれ。

 俺を一睨みした雪乃はこれ以上の被害を出さない為か、すぐさま白旗をあげ、素直に認めた。

 

「まあいいわ。私達を送ったせいで姉さんが遅れたのならば申し訳ないと思っただけよ。さすがの姉さんもお母さんの小言を聞きたくはないでしょうし」

 

「大丈夫よ。雪乃ちゃん達を送って行った時は帰りの道は混んでいるように見えたけど、ちょうどタイミングが良かったせいか、それほど渋滞には捕まらなかったわ。だからお母さんにも何も言われなかったわ」

 

「ならいいわ」

 

 朝から過激なコミュニケーションをとる奇妙な姉妹だとは俺でも思う。けれど、その姉妹の絆は世間の兄弟姉妹以上に強固なのだろう。

 上辺だけの絆ならば必要以上に関わろうとはしない。学校であろうと、職場であろうと、ましてやそれが家族であっても、必要な時だけ関わり合いを持って、あとは無関心を貫くのが人間関係を円滑に送る処世術だ。

 だから、雪乃と陽乃さんの関係は一見過激であろうと、仲がいい証拠なのだと俺は思っていた。

 

 

 

 昼休み。今日もいつものように弁当会が行われる。ただ、いつもと違うところがあるとしたら、それは陽乃さんがいないことだろうか。

 陽乃さんは大学院生であるし、院の方を優先しないといけない事もある。

 雪乃によると、なにか教授に頼まれた事があり、これから忙しくなるそうだ。

 優秀な陽乃さんの事だ。教授にも頼りにされているのだろう。俺は面倒事を押し付けられるのは嫌だが、教授の目にとまっておけばなにかしらのコネができるかもしれないか、と思うくらいであった。

 そして放課後。陽乃さんの相当忙しいらしく、帰りはハイヤーで帰る事になった。

 

 

 

 

 

 

 

7月18日水曜日

 

 

 

 月曜日の帰りは陽乃さんはハイヤーで帰ったが、翌朝はいつもの通りに俺達が迎えに行った。まあ、英語のDクラスの補習は今でもやっているわけで、その手伝いをしてくれる陽乃さんを迎えに行くのは当然とも言える。

 ただ、院のほうが忙しいのならば無理に手伝わなくてもいいと言った時、なにか寂しそうな表情を見せたのは見間違いだったのだろうか。

 その表情も一瞬であり、すぐさま笑顔に塗り替えられていく陽乃さんの表情に、その時の俺は全く心にとどめておく事すらできないでいた。

 しかし、今朝のメールを見れば、俺であっても気がついてしまう。

 陽乃さんに避けられていると。

 いくら院の方の勉強や手伝いで忙しいといっても、俺達の送り迎えを遠慮する理由にはならない。

 俺と雪乃は別に時間に縛られてはいない。大学の講義には出なくてはいけないが、それ以外は自由だ。大学で自習していようと、自宅で自習していようと、勉強する場所さえ確保できればどこであってもできるのだ。

 だから、朝の出発時間が早くなろうと、帰りの時間が遅くなろうと、俺達は陽乃さんの予定に全てあわせられてしまう。そういう事情があるから、本来陽乃さんは俺達に言うべき言葉は、先に行っていいではなく、送迎の時間を変更してほしいであるべきだ。

 俺はいつ、選択を間違えてしまったのだろうか?

 どの時点から陽乃さんは俺から顔を背けてしまっていたのだろうか?

 俺はなにをやらかしてしまったのだろうか?

 わからない。俺も雪乃も特筆すべき行動なんてしてこなかったはずだ。

 いつものように陽乃さんと一緒にいて、いつものように陽乃さんにちゃかされて、いつものように陽乃さんと笑って、いつものように食事をして。

 いつものように、いつものように…………三人一緒にいた。

 そう、なにも変わらない日常だと思っていた。

 だからこそ俺は気が付けない。

 だからこそ雪乃は安心できていた。

 だからこそ俺達は鈍感過ぎてしまった。

 俺と雪乃が笑いあい、じゃれ合っている姿を、誰よりもそばで見ていたのは陽乃さんであり、誰よりも傷ついていたのは陽乃さんだったのだから。

 だから俺は、陽乃さんに無神経でいる事ができてしまった。

 

「今日も姉さんお昼こなかったわね」

 

「院の方が忙しいんだろ?」

 

「今日も先に帰っていいそうよ。姉さんはハイヤーで帰るみたいね」

 

「しょうがないんじゃないか?」

 

 放課後。三人ではなく二人で歩くキャンパスは、どこか殺風景で、遠くの方から聞こえてくる笑い声が耳触りに感じてしまう。

 いつもなら俺達の方が雑音を撒き散らす方であるのに身勝手な感想ではあるのだが、人とは身勝手すぎる生き物のようだ。

 

「本当にそう思っているのかしら?」

 

 俺の顔を下から覗きこむ瞳に、俺は脚を止めてしまう。雪乃もすぐさま脚を止め、俺の方に振り替えると、さらに俺に詰めより俺を逃がさない。

 

「わぁったよ。……思ってない。嘘だと思ってる。いや、嘘ではないか。たぶん何かしら用事を見つけてきてはいるんだろうよ。嘘をつくにしても、その嘘を本当にする人だからな」

 

「ええ、八幡の言う通りだったわ」

 

「調べてきたのかよ?」

 

「人聞きが悪いわね。ちょっと見学に行っただけよ」

 

 陽乃さんのテリトリーに見学なんて行ったことなんてあったかよ……、とは言わない。今は冗談や軽口さえ言えない状態であった。

 それほど陽乃さんを追い詰めてしまった事に、俺達は気がつくのがおくれてしまっているから。

 

「それでどうだったんだ?」

 

「一応橘教授の手伝いをしているそうよ」

 

「担当教授ではないよな? そもそも学部が違うし」

 

「そうだけれど、姉さんの研究テーマと重なる所があるのよ。それに、姉さんは橘教授と仲がいいみたいだから色々と指導を受けてもいるみたいよ」

 

「その辺の事情はよくわからないが、事実としてはそうなんだろうな」

 

「そうね……」

 

 俺の反応に雪乃は冷たい。俺も俺自身の反応に冷たさを感じているので、雪乃が俺にきつく当たってくる理由がよくわかる。

 だけど俺は雪乃の彼氏であって陽乃さんの彼氏ではない。いくら雪乃の姉であっても、無神経に踏み込んでいいのだろうか?

 …………いまさらか。いままでの陽乃さんとの関係が彼氏と彼女の姉の関係だけとは到底思えない。陽乃さんの好意を突き離さないように延命処置をしてきたつけが今になって訪れたとも言える。

 

「……なんだよ?」

 

「なんでもないとはいわないわ」

 

「だったらはっきり言ったらどうだ」

 

「私の口から言って欲しいのかしら?」

 

「わかったよ。橘教授のところに行ってみるか」

 

「ええ、その方がいいようね」

 

「だけど、一つだけ言っておきたい」

 

「…………ええ」

 

 俺を見つめる雪乃の瞳には、俺がこれから言う言葉が見えているのだろう。ただ、いつだって俺の先を見つめるその瞳は、今日はちょっとだけ寂しげで心細げだ。

 だから、これから俺が言う言葉をわかってはいるけど、どちらかというよりはその言葉を望んでいる。雪乃の瞳から俺はそう感じ取れてしまった。

 

「俺は…………俺は雪乃の彼氏だからな。それだけだ」

 

「ええ、わかっているわ」

 

 雪乃はそこで言葉を切り、下唇を噛みながら一歩俺に詰め寄ると、残りの言葉を全て吐き出した。

 

「でも、なぜ今さらそれを言ったのかしら?」

 

「……そうだな。道に迷わない為だろうな」

 

「そう。……だったら、手をつないでおけば大丈夫よ」

 

「そうかもしれない」

 

「ええ、そうよ」

 

「でも、……雪乃は方向音痴だから、俺が道に迷ったら終わりじゃね?」

 

「そうね。でも、八幡とだったら迷ってみても面白いかもしれないわ」

 

「かもしれないな」

 

 俺は雪乃の手を取ると、橘教授の研究室へと歩き出す。今まで来た道を真っ直ぐ戻り、迷いなく歩み始めた。

 迷わない人間などいない。道を間違わない人間もいない。道を間違えた事さえ気がつかない場合だって多々あるのだ。

 だったら俺が道を間違える事は当然の結果の一つとも言える。

 だけど俺には間違えを教えてくれる彼女がいる。今までも間違えまくったし、小町だけでなく、雪乃や由比ヶ浜達を散々傷つけたりもした。

 だから俺は、間違えを正すことでもっと深く傷つく結果になろうと、間違いを正さなければならなかった。それが俺のエゴだといしても。

 

 

 

 

 

 

 

7月19日木曜日

 

 

 

 今朝も陽乃さんはハイヤーで大学へと通学した。それについてはもはや何も言う事はない。そして昼食もこれないことが既に雪乃にメールがきていた。

 陽乃さんが嘘を言っているわけではない事は、昨日橘教授から確認は取れている。

 だけど、事実を言ってくれているわけでもないことは明らかである。だから俺はここに来た。

 以前ここに来た時は、雪乃と陽乃さんも一緒だった。その時も今と同じように俺はドアをなかなかノックできずに立ちすくんでいた。

 でも、あの時は陽乃さんがこのドアを開けてくれた。今は一人で来ているので、いつまでたっても陽乃さんが明けてくれるという奇跡は望めないだろう。

 昼食時間が終わって、中から出てくるとき以外は。

 

「失礼します」

 

 大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐くと、俺は軽くドアにノックをし、中からの返事も待たずにドアを開ける。元々この部屋の主の了解をとっているわけで、ノックさえする必要はなかったが、癖というか身についた習慣は省けないようだ。

 

「八幡?」

 

 この部屋の主たる橘教授の机に堂々と座り、自作の弁当を食べていたのは、俺が探していた雪ノ下陽乃。その人だった。

 俺を見た陽乃さんは驚き共に、全てを納得した顔を見せる。

 まあ、俺が昼休みのこの時間にこの部屋にやってきたのだから、陽乃さんにはその裏事情なんてものは全てわかってしまうだろう。

 陽乃さんが一瞬でも驚きを見せてくれたことから、橘教授は今日俺がここにやってくる事は内緒にしてくれたようだ。

 もし俺が橘教授の立場で一緒に陽乃さんといたとしたら、陽乃さんに秘密を隠し通せるかは怪しい。そう考えると、やはり橘教授は陽乃さんとうまくやっていけるしたたかさも持ち合わせているようだ。

 

「俺がここに来た理由はわかっていますよね?」

 

「わたしがここにいる理由もわかっているのでしょう?」

 

 俺の奇襲作戦も、一瞬陽乃さんを驚かせただけで終わってしまう。

 すでに陽乃さんは戦闘態勢を立て直し、ふてぶてしく俺を迎え撃ってくる。

 

「院のほうが忙しいようですね」

 

「わかっているじゃない」

 

「じゃあ、俺がきた理由もわかっていますよね?」

 

「わからないわ。だって私は比企谷君ではないもの」

 

「それでも俺がきた理由に心当たりくらいはあるのでしょう?」

 

「予想くらいなら、あるかもしれないわね」

 

「まあいいです。こんな無意味なやりとりをしにきたんじゃないんですよ」

 

「あら、心外だわ。わたしは結構比企谷君とのこういったやり取りが好きなんだけどな」

 

「俺も嫌いではないですよ」

 

「そう……。だったらもう少し付き合ってくれると嬉しいのだけれど」

 

 やはり陽乃さんの表情は崩れない。俺の言葉を軽くあしらい、ひょうひょうとする姿はいたって完全で、完璧すぎる。

 この完璧すぎる姿を見ては、俺の予想は確信へと変わってしまう。わずかながらの希望も、全てプラスからマイナスへと記号がひっくり返っていく。

 高校時代に初めて陽乃さんを見たときよりも暗い笑顔は、俺は突き離そうと必死だった。俺が近づこうとするたびに、表情を繕いながら逃げていく。

 けれど長年の鍛錬のおかげとも言うのか、それとも雪ノ下家長女の呪いとも言うのか。

 こういった切羽詰まった状況でさえも鉄の表情をかぶってしまうところに、俺は身勝手な悲しみを抱いてしまう。

 

「アメリカに行くって、本当ですか?」

 

 俺は陽乃さんから視線をそらさずに陽乃さんからの返答を静かに待つ。どのくらい待ったのだろうか。室内はエアコンが適切に働いているはずなのに、俺の体からはじわじわと生ぬるい汗が染み出てきていた。

 一方俺を見つめる陽乃さんと言えば、その見つめる瞳は揺らぎを見せず、時折瞬きをする程度だ。そして顔色一つ変えず、適切な温度に冷えた室内を満喫しているようでもあった。

 沈黙は嫌いではない。むしろ好きだといいたところだ。

 由比ヶ浜からすると、俺と雪乃は部屋にいるかさえ疑いたくなるほど静かだとか。ときおり聞こえてくる本のページをめくる音が唯一人がいる事をわかるらしい。

 しかし、今俺達の間を遮っている沈黙は重苦しい。時計の秒針を刻む音すら俺を不安に陥れようとする。

 別に睨みあっているわけでもないので視線をそらしてもいいわけだ。しかし、一瞬でも目を離したら、この人がどこかに行ってしまうのではないかと、俺にさらなるプレッシャーをかけてきてしまい、現在に至る。

 

「仁から聞いたの?」

 

 ふいに放たれた陽乃さんの言葉はいたって普通で、いつもの陽乃さんの声ではあった。そのいつもすぎる声に、俺はやや緊張がとけた。

 

「橘教授に会いに行ったときに教えてもらいました」

 

「そっかぁ……。まあ比企谷君と雪乃ちゃんがくることは予想していたけどね。それで雪乃ちゃんは?」

 

「今回は俺一人です」

 

「そう……。ここに比企谷君がやってきたってことは、仁から色々と話を聞いたって事なんでしょうね」

 

「否定はしませんよ」

 

 といっても、橘教授からたいしたことを聞き出せたわけでもない。そもそも陽乃さんは橘教授から俺達に流れるだろう情報を想定して橘教授と話をしているはずだ。

 それに、あの橘教授ならば、陽乃さんが秘密にしてほしいと願い出れば、きっと俺達には教えてくれないはずだ。

 陽乃さんも橘教授もその辺のお互いのスタンスはわかっているはずだから、ある意味俺たち以上に信頼を築けた関係とも言えた。

 

「わたしは別になにも隠してはないわよ」

 

「でも、俺達に言ってはないですよね?」

 

「言ったわよ」

 

「いつ、ですか?」

 

 あまりにもひょうひょうとしすぎて、俺の口調は強まってしまう。

 これでは陽乃さんのペースになってしまうってわかっているのに、俺は自分の感情を制御できなくなってしまっている。いつもの陽乃さんで、いつもの陽乃さんとの会話で、いつもの負け確定の結末だとわかっているのに、俺は陽乃さんとの関係を壊せないでいた。

 

「たしか……、ストーカー騒動の時にはっきりといったと思うわよ。雪乃ちゃんに怒られた時だと思うわ。比企谷君も覚えているのではないかしら?」

 

「……それは、覚えています。雪乃が雪乃らしくもないふるまいをしたのでよく覚えています」

 

「でしょう? あのときはっきりと言ったのわ。比企谷君も覚えているじゃない」

 

「たしかにあのとき留学することを教えてもらいましたけど、ストーカー騒動が終わった後、お義母さんに好きにしていいって許しが出たじゃないですか。だから留学しなくてもよくなったし、お見合いもしなくてよくなったじゃないですか。そもそもアメリカに行くのだって結婚するのを延期する為のものでしたよね?」

 

「そうよ。留学しようと思い立ったのは結婚したくなかったから。……でも、いくら逃げたって結婚することには変わりがなかったのだから、無駄な抵抗ともいえるわね」

 

「違いますよ」

 

「違うって?」

 

「全然違いますよ。だって陽乃さんが留学しようとしなければ、無駄な抵抗だと思われようと時間稼ぎをしなかったら、お義母さんにお見合いの話を進められてしまっていて、すでに結婚していたかもしれないじゃないですか」

 

「そう考える事もできるかもしれないわね」

 

 やはり陽乃さんの心は揺さぶれない。もしかしたら揺さぶれているかもしれないが、俺にはそれがわかりようがなかった。

 なにせ陽乃さんの笑顔は決してぶれなかったから。

 

「違いますよっ!」

 

「あら? いつも憎たらしいほど冷静で、可愛いほど後ろ向きの比企谷君が感情的になっているわよ」

 

「ちゃかさないでくださいよ。いつもいつもいつも、陽乃さんの前ではいっぱいいっぱいでしたよ」

 

「まあそうかもね。いつ騙されるかわかったものではないし、雪乃ちゃんにも色々とプレッシャーかけてもいたらか、側にいる比企谷君にも苦労をかけていたかもしれないわね」

 

「そうじゃないんですよ。そうじゃない」

 

「どう違うのかしら?」

 

 あくまで挑戦的な笑顔を俺に向ける陽乃さんに、俺は感情をぶちまけるしかできなくなってきていた。

 なにが理性の化け物だ。自分の感情なんて制御できたことなんてない。

 そもそも感情なんてもものが理解できない。他人の感情はもちろん、自分の感情さえよくわからないのに、どうやって自分の感情を制御すればいいって言うんだ。

 

「俺は……、俺は、俺は陽乃さんと一緒にいると楽しかったです。色々とちょっかい掛けてくるのも一つのコミュニケーションだと思っていますよ。中には対処しきれないような事をしかけてくるものだから困ってしまう事もありましたよ。でも、嫌じゃなかった。嫌だと思ったことなんてなくて、むしろ嬉しかったんです。自分でもわかっているし、周りの奴らなんて俺以上にわかっている事でしょうけど、俺は面倒な奴だですよ。そんな面倒な奴に、面倒すぎる陽乃さんが面倒を見てくれて、俺はとても嬉しかった。普通の奴だったら俺から離れていくか、そもそも近寄ってさえきませんからね」

 

「……比企谷君」

 

 俺の言葉は止まらない。もしかしたら泣いていたのかもしれない。

 泣くよりも恥ずかしい大演説をかましているのだから、涙くらいは大したことはないんだが、一番の問題は、俺でさえ俺が何を言っているのかをわからないことだ。

 まあ、陽乃さんだったら俺の事を俺以上に理解してくれるのだろうけど。

 …………陽乃さんを説得しにきているのに、最後は陽乃さんまかせって、俺ってここぞってときに弱すぎるだろ。

 

「つまりは、つまりは……、なにを言いたいのかって言うと……」

 

「もう……、落ち着きなさい。わたしは逃げないわ。八幡の言いたい事をちゃんと聞いてあげる。だから、頭をからっぽにして、言いたい事を言えばいいわ。そこから八幡が何をいいたいか拾ってあげる。だから、存分にわたしを口説いて」

 

「え……、まあ、その」

 

 陽乃さんの背後から降り注ぐ真夏の日差しは、神々しいほど陽乃さんを輝かせる。夏の雲は太陽の日差しを盛り立て、エアコンがなければたちまちに俺を蒸し焼くだろう。

 しかし、太陽よりも強く輝く陽乃さんにとっては、太陽の光など春の柔らかな温もりへと変換してしまう。

 目の前で柔らかく微笑むその笑みに、俺の中で渦巻いていた焦りは消えていこうとしてた。

 

「はぁ……」

 

「落ち着いた?」

 

「もう大丈夫です」

 

「そう? それで、比企谷君はわたしに何を言いたいのかしら?」

 

「もういいです」

 

「あら? わたしふられちゃったのかしら?」

 

「ちょっと待ってくださいよ。俺は別に口説いてなんていません」

 

「そうかしら?」

 

「そうなんです」

 

 綺麗に口角をあげたその笑顔は、俺は何をしにここに来たかさえ忘れさせようとしてしまう。

 そうでもないか。きっと俺が言いたい事は、言葉にできていない部分も含めて陽乃さんに届いてしまっている気がしてしまう。

 そんな身勝手な妄想が現実に起こしてしまう人が陽乃さんなのだし。

 ただ、それでもこれだけは言葉にしておきたかった。

 

「俺は陽乃さんと一緒にいたいです。都合がいい事を言っている事はわかっています。陽乃さんの気持ちも……、自惚れているだけかもしれませんけど、陽乃さんが俺にかまってくれる事に感謝もしています」

 

「そう……」

 

「まあ、俺が勝手に思っている事なんですけど」

 

「間違ってはいないと思うわよ」

 

「そうですか」

 

「ええそうよ。もちろん比企谷君の雪乃ちゃんへの気持ちと、その事に対する比企谷君の方針というべき基本的スタンスもわかっているわ」

 

「……陽乃さん」

 

「別に雪乃ちゃんから比企谷君を奪い取ろうだなんて思っていないわ。……そうね。ちょっとは思った事もあるかしらね。だってわたしも女だから。でも、わたしは女である事と同時に雪乃ちゃんのお姉ちゃんなのよね。しかも重度のシスコンの」

 

「陽乃さんも自分が重度のシスコンだって認めるんですね」

 

「そうね。わたしのシスコン具合は、比企谷君の小町ちゃんへの愛情くらい重いわよ」

 

「それは雪乃も大変ですね」

 

「そうよ」

 

「こればっかりは妹に我慢してもらうしかないでしょうね」

 

「まっ、そんなわけで、わたしはお姉ちゃんだから雪乃ちゃんと仲良くしたいの。もちろん比企谷君とも仲良くしたいわよ。義理の弟として」

 

「義理の弟として、俺も陽乃さんに懐いていいんでしょうかね?」

 

「あら? 義理の弟ってところは否定しないのね。昔だったらすぐさま否定してきたのに」

 

「若かったですから」

 

「つい最近のことよ?」

 

「若かったんですよ」

 

「その理論からすると、比企谷君よりも年上のわたしは、おばさんってことになるのよね? わたしってもうおばさんかしら?」

 

 手鏡なんて持ってやしないのに、鏡をみるそぶりはそこらへんの女優以上の演技力を見せつける。

 たしかに雪乃と陽乃さんの母親も化け物じみた若さを発揮しているのだから、その遺伝子を持つ陽乃さんも若々すぎるほど美しい。

 でも、今俺が言っている若いって意味が違うだろ。

 …………その辺もわかっていながらも俺をからかっているのだろうけど。

 

「すみません。陽乃さんは若いです。若いだけじゃなくて綺麗すぎるほど綺麗ですから、これ以上俺の心を抉る言葉を連発しないで下さると助かります」

 

「あら? どうして比企谷君は謝っているのかしら? わたしはまだ何も言っていないわよ。これから言うかもしれないけど」

 

「自分でもこれから言うかもしれないって言ってますよね。だから俺は先回りして謝ったんですよ。だって陽乃さん。俺を容赦なくえぐってきますよね?」

 

「よくわかってるじゃない」

 

「なんだかんだいって、陽乃さんの側にいる時間が長くなってきましたからね」

 

「……そばにいる時間が長くなってきたか。そうね。長くなりすぎたのかもしれないわね」

 

「長くなりすぎたことなんてないです。これからも俺と雪乃の側にいてください」

 

 ようやく崩れたその笑顔も、苦笑いを浮かべはしているが美しい。悲しみも、戸惑いも、その全ての感情を覆い隠すその笑顔は、俺の揺さぶりをなおも跳ね返続ける。

 

「酷な事を要求するのね」

 

「すみません」

 

「一応もう一度確認するけど、わたしの気持ち、わかっているのよね?」

 

 今まで一度も言葉にはしていないが、俺も陽乃さんも、そして雪乃もわかっている事実。言葉にしてしまうとなんだか取り返しのつかない事になりそうで、だれも口にはできないできていた。

 言葉を口にして発すると事実となってしまう。

 どこかでそんな伝承まがいのことを読んだ気がする。まあ、俺が主に読んでいるのがラノベなのだから、どっかのうすっぺらい登場人物がその場のノリで重々しく言っただけなのだろうが。

 それでもこの言葉が、今の俺達の間では真実に近い現象としてたたずんでいる。

 一度声として世に出てしまえば、もう後戻りができないその現実に、俺達は恐れていた。

 

「はい」

 

「それでもわたしにあなたたちの側にいろと? 楽しそうに頬笑みあっているあなたたちの隣で、悲しみも嫉妬も、あらゆる負の感情をすべて正の感情にすり替えてわたしも頬笑みに参加しろって言うのかしら?」

 

「……それは」

 

「いくら親の期待通りに動いてきたわたしであったも無理よ。感情をコントロールすることなんてできやしないわ。そうね、理性の化け物だったあなただったらできたのかしらね? たとえば、雪乃ちゃんにお母さんが押し付けてきた婚約者でもいたとして、それでも比企谷君は雪乃ちゃんのそばにいなければならない。雪乃ちゃんの屈折した感情を受け止められるのが比企谷君しかいなくて、結婚したくもない相手と結婚してしまう雪乃ちゃんの心を平穏を保つ為だけに比企谷君が必要だとする。それでもあなたは雪乃ちゃんの側にいられる? もちろん比企谷君は結婚なんてできないわよ。だってそんなの雪乃ちゃんが許すわけないもの。口では比企谷君も結婚していいって言うかもしれないけど、比企谷君が結婚なんかしたら、雪乃ちゃん壊れちゃうわよ? だから、雪乃ちゃんの為だけに、あなたは自分の幸せを全て雪乃ちゃんに捧げられる? 雪乃ちゃんに触れることさえ許されずに、ね」

 

「ようは、今の陽乃さんの立場って事ですよね」

 

 陽乃さんは応えない。首を縦に振る事さえせずに俺を見つめ続ける。

 

「おそらく、高校時代の俺だったら、できたかもしれません」

 

「本当にできたのかしら?」

 

「どうでしょうね? 仮定の話ですから確証はないですけど、当時の俺ならできたと思いますよ」

 

「その根拠は?」

 

「そうですね。自分に期待していなかったから、とでもいうんでしょうね」

 

「期待?」

 

「期待です。俺は他人のことなんてどうでもよかった。自分をどう見ているのかさえどうでもよかった。もちろん気にはしますよ。何か危害が降りかかってきたら逃げないといけませんからね」

 

「それって、他人の目を気にしているって事じゃない」

 

「違いますよ。諦めていたんですよ。俺がどうこうできる事ではない事には諦めていたんです。人の心なんて動かすことなんてできないですからね。だから俺は他人に期待しない」

 

「それがどうして雪乃ちゃんのそばにいられる根拠になるのかしら?」

 

「俺がやるのが一番いいからですよ。俺が雪乃のそばにいることで雪乃の精神が安定するのなら、雪乃が他の男と結婚してもいいって割り切ってしまうだけです」

 

「いつもの自己犠牲ってやつかしら?」

 

「あれは自己犠牲なんかじゃないってわかってて言ってますよね」

 

「どうかしら?」

 

「自己犠牲じゃなくて効率の問題です。一番効率的で効果がある方法を選んだだけです。それに、俺は言いましたよね。他人にどう思われようとかまわないって。自分に期待していないって」

 

「言ったわね」

 

「つまり、俺の願望なんて叶わないって割り切ってしまうんですよ。そうすれば自分に期待する事はなくなる。理想ばかり追いかけたり、へたな期待なんかするよりは、目の前の現実を受け入れて、その中で生きる方が楽だと思っただけです」

 

「それは今でもできるのかしら?」

 

 小さく囁いたその弱々しい声を、俺の耳ははっきりと捉える。そもそも聞き洩らす心配なんてなかった。

 俺は陽乃さんのかすかな変化さえも逃しまいと神経をとがらせていたのだから。

 

「さすがに今は無理です。俺は雪乃を知ってしまいましたからね。雪乃の隣にいる喜びを知ってしまったからもう無理です。あの笑顔を他の男になんて譲れはしませんよ」

 

「それもそうね」

 

「当たり前ですよ」

 

「そうね。当たり前なのよ。………………これでわたしがアメリカに行く理由、わかったかしら?」

 

 静かに俺を見つめる瞳に、俺はもうなにも言いだせなかった。まっすぐと俺に向ける瞳を受け取る資格が俺にはない。俺はとうに資格を失っている。

 それは今まで言い訳にさえなっていない理由で享受していたにすぎない。

 何せ俺は、自分で陽乃さんがアメリカに行く理由を導き出してしまったから。理屈を積み上げ、反論できないような理屈を自分で作りだしてしまった。

 自分で自分の首を絞めるような行為に誘導されてしまった事に気がついたのは、俺の息が途絶える間際であった。

 酷い人だ。俺がこれ以上足掻かないように縄で締めつけてくる。俺に気がつかれないように慎重に縄を巻きつけ、俺が気がついたときには縄はしっかりと緩まないように締めたらた後である。

 これではもう動けない。陽乃さんの優しさを無様に受け取るしかなかった。

 

「大丈夫よ」

 

「……え?」

 

「大丈夫だって言ってるのよ」

 

「それは聞こえているんですけど……。なにが大丈夫なのでしょうか?」

 

「あぁそうね。それをいわなければ理解できないか」

 

「えぇ、まあその。そうですね」

 

「大丈夫だっていうのは、アメリカでの留学を無事終了させたら日本に帰ってくるってことよ」

 

「帰ってくるんですか?」

 

「ひっどい言いようね。しかも驚いているし」

 

「そりゃあ驚きますよ」

 

「どうして?」

 

 きょとんと見つめるその姿に、ほんとうにわかってないんですかと叫びたくなる。

 しかし、俺はぐっと手を握りしめ陽乃さんを見つめかえした。

 すると、陽乃さんは本当にわかっていないという目を俺に投げ返してくる。これが演技だとすればお手上げなのだが、俺の勘が演技ではないと伝えてきた。

 確証なんてないし、そもそも勘なのだからしょうがないが、いわば陽乃さんのそばにいすぎた為に身についた感覚とでもいえようか。

 

「俺と雪乃から離れる為にアメリカに行くんですから、ずっとアメリカに行ってるわけにはいかないでしょうけど、それでも活動拠点をアメリカにするものかと。もしくは、しばらくはアメリカにいるものだと思っていました」

 

「なるほどね。そう思われても仕方がないか」

 

「ええ、まあそうです」

 

「でも、日本に帰ってくるわよ。だってわたしは雪ノ下家の長女だもの。いくらお母さんに自由にしていいって許されていても、わたしは雪ノ下家を捨てる事はできない。だから日本に帰ってくるの」

 

「それって……」

 

「何かな?」

 

 俺はその先の言葉を紡ぐ事はできなかった。

 なにせこれから陽乃さんがしようとしていることは、まるでさっき陽乃さんが例に出した雪乃に婚約者がいても俺が雪乃のそばにいられるかっていうたとえそのものだったから。

 いくら今陽乃さんがアメリカに行こうと、今俺と雪乃の側にいるという拷問を延期するにすぎない。

 何年後になるかわからないが、陽乃さんが日本に戻ってきた時、俺と雪乃の側にいられるように準備しようとしていることを、俺はこの手で邪魔なんてできやしなかった。

 どのような準備かはわからない。他に好きな人を作るっていうのが妥当な線だが、陽乃さんを全て受け入れられる人が見つけられるかは運だ。

 仮に見つけられなくても、俺への気持ちを薄めることくらいはできるだろうか。

 理想を言えば、俺への愛情を家族の愛情へ昇華できれば最高だが、こればっかりは絶対に身勝手な期待はよしておこう。

 ……なんかすっげえナルシストっていうか、自分もてて困ってます感が出ているのが自分でも気にいらないが、この際忘れるとしよう。

 

「それって何年くらい先のことですかって聞こうとしたんですよ。あのお義母様を俺と雪乃の二人で相手するのは荷が重いっていうか、ちょっと無理目かなと思って」

 

「ふふっ、そうね。あのお母さんを相手にするのは無理かもね。でも、わたしでも無理なのよ」

 

「わかっていますよ。でも、俺達よりは大丈夫ですよね?」

 

「そうだけど、あまり期待しないでよね。でも、時ができたら日本に戻ってくるわ」

 

「助かります」

 

「そろそろ時間じゃないかしら? 次の講義あるのでしょう?」

 

 陽乃さんの視線につられて壁に掛けられている時計を見る。いかにも学校の備品ですっていう時計は、昼休みがあと少しで終わると告げていた。

 

「はい。邪魔して済みませんでした」

 

「いいのよ。気分転換にもなったからよかったわ」

 

「時間ができたらでいいですけど、陽乃さんも昼一緒に弁当くらいは食べてくださいよ」

 

「わかったわ」

 

「ええ、お願いします。じゃあ、俺行きます」

 

「午後の講義頑張ってね」

 

「はい」

 

 俺は無表情の笑顔を作り、部屋を後にする。陽乃さんの笑顔も年季が入った笑顔だったようだ。

 俺も陽乃さんも、俺が何を言おうとしたか、何を言いかえたかなんてわかっていた。

 俺が聞きたかった事は、何年くらいで帰ってくるかではなく、高校時代の俺と同じ事を陽乃さんがしようとしていることについてなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 聞こえてくるのはエアコンの音と申し訳程度に聞こえてくる時計の秒針のみであった。八幡がかき鳴らす廊下の足音はとうに聞こえなくなってしまっている。

 しかも耳を澄ませてかすかに聞く事が出来た階段を下りていく音さえもとだえてしまったのだから、八幡がもうここにはいないとわかってはいた。

 しかしわたしは八幡が出ていった扉を目元に力をこめながら見つめていた。

 だからもう八幡のことを警戒する必要なんてないのに、でもわたしは顔を表情を崩す事が出来ないでいた。

 それも仕方がないのかもしれない。だって心と表情とが一致していないもの。

 わたしはいつだって雪ノ下陽乃を完璧なまでに演じてきってはいたけど、今日ほど辛いと思った事はないのよね。

 八幡の言葉を借りるのならば、これこそが諦めなのだと思う。自分に期待しない。他人にも期待しない。だから得られる結果は人が与えてくるもののみ。

 その代償が今のこの表情だっていうのなら泣けてくるわね。涙なんてでてくるわけないけれど。

 ほんといっそのこと、八幡の目の前で泣きわめく事ができたらすっきりできたのに、と思わずにはいられない。

 いまだに表情どころか視線さえも八幡が去っていった扉にとどめながらわたしは自戒する。

 さすがに未練がましいと、わたしでさえ思ってしまう。

 八幡の事を面倒な性格だっておちょくることがあっても、本当に面倒な性格だなんて思った事はない。むしろ面白い性格であると思うし、愛おしいとさえ思ってしまう。今ではできる事なら自分の手で支えたいとさえ思っている。

 本当に難儀な性格なのは、わたし。

 年季がありすぎて修正不可能だし、しがらみもありすぎるせいで手をつける事さえ難しい。

 そんなわたしのことを心配して手を伸ばしてきた相手にさえ、今突き放してしまった。

 本当は、今すぐにでも動く事が出来ない脚を引きずってでも八幡の元に駆けだして、八幡に胸に飛び込みたい。

 なにもかもを投げ出し、後のことなんて彼に全て任せてることができるんなら、どんなに幸せか。

 きっと世界中で一番の幸せ者に違いない。

 きっと彼ならわたしの不自由を退けてくれる。

 困った顔を見せながらも、面倒だって文句を言いながらも、彼ならわたしを助けてくれるかもしれない。

 だけど、それは同時に最愛の妹たる雪乃ちゃんを苦しめてしまうのよね。

 まあ、今の状況であってもそうとうプレッシャーをかけているに違いないかな。

 だからわたしは雪ノ下雪乃の姉をやめることができない。

 雪ノ下家の雪ノ下陽乃をやめることはできるようになっても、雪ノ下雪乃の姉だけはやめるわけにはいかないのよね。

 どれだけ時間がたったのだろうか。おそらく昼休みは終わってしまったようだ。外から聞こえてきていた学生たちの話声がほとんど聞こえなくなったことからすると、もうすでに午後の講義が始まったのだろう。

 さすがに午後二つ目の講義まで考え事をしていたとは思えないし、せいぜい20分くらいかしらね。

 ようやく弛緩してきた顔の筋肉を使役して壁にかかった時計を見ようとすると、控え目なノックが部屋の扉から生じられた。

 体がピクリと反応してしまう。八幡ではないとわかっていても期待してしまう自分がいた。

 

「どうぞ」

 

 反射的に返事をしてしまった。雪ノ下陽乃であるべき表情がまだくずれていなかったことも起因していたのかもしれない。

 わたしが返事をしてから10秒くらいたっただろうか。向こうからの返事がないことに、ある種の納得をしだしたころようやく扉が開かれた。

 わたしの予想はあたっていた。むしろこの答えしか思い浮かばなかった。

 

「姉さん」

 

「雪乃ちゃん。どうしたのかな?」

 

「用があるから会いに来たのだけれど」

 

「そうじゃなくって、今は授業中じゃないかな。雪乃ちゃんは授業にでなくてもいいのかしら?」

 

 わたしの指摘に怪訝そうな顔をみせるが、間違っている事を指摘したわけでもないのでひとまず納得したという顔をみせる。

 でも、わかっている。

 わたしが無駄なあがきすぎる一言をいったことなんてわかってはいる。

 わたしにようがあるから会いに来た。しかも、授業よりも今話す意味があるからこそ雪乃ちゃんはここにきた。

 そんなことわかりきってる。わかりきってはいるけど、どうしてもわたしは逃げ腰になってしまっていた。

 

「そうね。できることなら遅刻であっても講義には出ておきたいわね」

 

「だったら早く戻ったほうがいいんじゃない?」

 

「それは姉さん次第よ」

 

「そう? それはお姉ちゃん責任重大だなぁ」

 

「えぇ、責任重大よ。私と八幡の前から勝手にいなくなろうとするだなんて、無責任すぎわる」

 

「あら? 比企谷君から話を聞いたの?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ、盗み聞きでもしていたのかな?」

 

「廊下からでは部屋の中で話している声は聞こえても、何を話しているかなんて正確には聞こえないわ」

 

「ということは、わたしと比企谷君が話をしている間廊下にいたということかしら?」

 

「そうよ」

 

 隠さないのね。それとも比企谷君と打ち合わせでもしてあったのかしら?

 

「比企谷君が駄目だったから、次は雪乃ちゃんってわけか」

 

「それは、違うと思うわ」

 

「違う?」

 

「八幡とは話をしていないもの。おそらく八幡は私に気がつくことなくここから出ていったはずよ」

 

「どうやって隠れていたの? 廊下には隠れられるような場所はなかったと思うけれど?」

 

「八幡が向かう方向とは逆方向の柱の陰に隠れていたわ」

 

「それでも、よく見つからなかったわね」

 

「そう、かしら?」

 

 わたしが心底感心したという表情を見せると、雪乃ちゃんはそれが意外だったらしく、雪乃ちゃんの肩の力が抜けていってしまう。

 ただ、その抜けた力も、わたしの次の一言で別のところに力が入ってしまったようではあるけれど。

 

「だってわたしだったら大きすぎる胸が柱からはみ出てしまって、八幡に見つかっていたと思うもの。これは雪乃ちゃんの胸がかわいそうなほど小さいからこそ見つからなかったというべきかしらね? というよりも、雪乃ちゃんの胸自体見つけられないとでもいうべきかしら?」

 

 とまあ、ちゃかしたわけでもないんだけど、感情の制御さえできていない今のわたしは、苦し紛れの発言ばかりしてしまっていた。

 

「姉さんっ」

 

「でも事実よね?」

 

「たとえ事実であってもなんだっていうのよ」

 

「事実なだけよ。雪乃ちゃんの胸が小さい。ただそれだけよ。あとはそうね。わたしの胸が大きいって事くらいかしら? あとはほかになにかあるかしらね?」

 

「はぁ……。もういいわ」

 

「そう?」

 

「ええ、もう姉さんのこういったごまかしはいいっていうことよ」

 

「べつにごまかしているわけではないと思うんだけどな」

 

「姉さんがそう言うのならばそれでもかまわないわ」

 

「ありがとね、雪乃ちゃん」

 

 せっかくにっこりとわらってあげたというのに、雪乃ちゃんったらつれないんだから。

 唖然とした顔なんて可愛くないわよ?

 

「アメリカに行くのよ?」

 

「そうよ」

 

「それを取りやめにする事はできるのかしら? いえ、留学の話はどこまですすんでいるのか教えて欲しいわ」

 

「そうねぇ……、まだ留学先も決まってはいないというのが実情かな。仁から色々と話は聞いてはいるし、紹介もしてくれると言ってくれているから、留学先さえ定まれば一気に決まっちゃうかな? うん、そんなかんじ」

 

「そう……。お母さんはなんて?」

 

「お母さん? とくになにも。好きなようにしてもいいけど、しっかりと勉強してきなさいってことくらいかしら」

 

「姉さんが留学する必要はあるのかしら?」

 

「勉強することはたくさんあるし、うちのことを考えれば留学しておいて損はないわよ。むしろ勉強だけに集中できる環境に身を置いて、残り少ない学生生活を有効活用すべきだと思うわ。さすがのお母さんもこれ以上わたしを学生にしたままにしておいてはくれないでしょうから」

 

「姉さんが本気で勉強するつもりなら、べつに留学する必要さえないのではないかしら?」

 

「わたしを高く評価してくれるのはうれしいけど、わたしも天才ってわけでもないのよね。わかるでしょ? 仁を見ていれば天才ってものがどれほどのものかを、ね」

 

「それは……」

 

「たしかに……、わたしも、そして雪乃ちゃんも、世間の目から見れば優秀だとは思うわよ。学校の成績はいいし、覚えるのも早いしね。だけどね、わたしたちって、ただ優秀なだけじゃないかな? たしかにテストで満点に近い点数はとれるけど、そこからさきの領域っていうのかしらね? ずばぬけて高い能力を持っている人の領域まではいけてはいないと感じているわ」

 

「姉さんのいう通り私たちの能力の限界は見えてはいるわ。だけど、それがなんだというのかしら? そこまで高い能力が必要だとでも? お母さんがそれを求めているとでも?」

 

「いいえ、求めてはいないわ。だってわたしたちにはないもの。いくらお母さんでも、ないものは求めないわ。求めたとしても得ることができないものを無駄に求めてなんの意味があるのよ」

 

「……それは」

 

「わたしはね、自分の限界がわかってる。だから留学してわたしの限界の先を見ていると人たちに会ってみたいのよ。だって面白いと思わない? しかも世界中からそんな人たちが集まってくるのよ? もちろんわたしたちみたいな凡才もたくさんいるでしょうけどね」

 

「それが姉さんが留学する理由なのかしら?」

 

「ええそうよ」

 

「だとしたら、どのくらいの期間留学するつもりなのかしら?」

 

「比企谷君と同じ事を聞くのね」

 

「八幡と?」

 

「ええそうよ。だってあなたたちってわたしが日本に戻ってこないと思っているのでしょう?」

 

「そういうわけでは……」

 

「だったらわたしがいないとお母さんが大変?」

 

 あら、ここまで同じなのね。ほんと似たもの夫婦とでもいうべきかしら。

 

「大丈夫よ。規定の年数を終えたら戻ってくるわ」

 

「……そう」

 

「あら、嬉しくないみたいね」

 

「そういうわけでもないわ」

 

 どうしたのかしら? 雪乃ちゃん、変に元気がないわよね。

 心がここにはないとでもいうべきか、わたしのほうを直視しないというべきか。

 こういう場面の雪乃ちゃんだったら真っ直ぐとわたしを射抜く視線を向けてくるわよね? それなのにどうして?

 

「まっ、どうでもいいか。ちゃんと日本にも帰ってくるし、うちの仕事もしっかりとやるわ。だってわたしは雪ノ下陽乃だから」

 

「わかったわ。私からはなにもいわないわ」

 

「そうしてくれると助かるわ」

 

「じゃあ私は行くわね。今から行けば半分くらいは講義が聞けると思うし」

 

「頑張ってね」

 

「……ええ」

 

 ひんやりとした返事がわたしの頬をすり抜けていく。

 あれだけ熱がこもっていた言葉が嘘のように静かにわたしをすり抜ける。エアコンの音がうるさいくらいに鳴り響き、耳障りだとさえ思えてしまう。

 ほんとうはもっと言いたい事がありますっていう顔をしてはいるのに、雪乃ちゃんは宣言通りこれ以上は何も言ってはこなかった。

 もしかしたら、これ以上わたしになにを言っても無駄だと思ってくれたのかしらね。だから用が済んだこの部屋から雪乃ちゃんは出て講義に行こうとした。

 しかし、部屋から出る直前。ドアノブに手をかける直前になって、わたしに話しかけてきた。

 雪乃ちゃんが振り返ってこないためにどんな顔をして言ってきたのかはわからない。その顔を知っているのは、雪乃ちゃんが見つめる先のドアノブくらいかしら。

 

「…………姉さん」

 

 若干熱が込められた言葉にわたしは期待してしまう。

 なにに期待したのかって問われてもこたえることはできないのだけれど、わたしの心が揺れた事だけは確信できた。

 

「ん?」

 

「姉さんは笑顔を作っていたようだったけれど、どれも悲しそうな顔をしていたわ」

 

「……そうかしら?」

 

「私がこの部屋に入ってきたときからずっと悲しそうな顔をしていたわ。途中何度か笑顔を作るべきところで笑顔を作ろうとしていたみたいだけれど、全部崩れていたわ」

 

「……そう」

 

「素直に泣いてくれた方が、よっぽど安心して送り出せたわ」

 

 そう言い残すと、今度こそドアノブを静かに回し部屋を後にした。

 わたしは返事さえできなかった。返事をしてしまえば泣いてしまうとわかっていたから。

 もしかしたら既に泣いていたのかもしれない。だから雪乃ちゃんは振りかえらなかった。そうも考えられる。

 心優しい雪乃ちゃんのことだから、わたしが泣けるようにわざと背中を見せてくれていたとも考える事ができるけど、そんなこと今さら考えてもね。

 あぁあ……。雪乃ちゃんが言う通り最初から泣いてしまえばよかった。

 八幡の前で泣ければどんなに救われたものか、考えずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 昨日の帰りもそうだが、今朝の登校時も陽乃さんは実家のハイヤーを使っていた。もちろん事前に雪乃に連絡はあった。

 メールではなく電話であったことは、せめてもの誠意だろうか。陽乃さんだから誠意というよりも見栄? それよりも強がりってところがあっているのかもしれない。

 俺達に強がってもしょうがないのにって言ってあげたい。せめて俺に陽乃さんくらいの強がりができたら言えただろうに……。

 そして、もう一つ昨日まではとは大きく違う点があるとしたら、それは昼の食事の時には陽乃さんも一緒に食事をしたことだろう。

 まずはじめに、ここ数日一緒に食事ができなかったことを謝り、その理由も説明する姿はいつもの陽乃さんに見える。

 誰の目からしてもいつもの雪ノ下陽乃であり、完璧すぎるまでの雪ノ下陽乃であることが俺と雪乃を苦しめた。

 俺達がよく知っているはずの雪ノ下陽乃を見てしまうと、どうしても高校時代の仮面をかぶった陽乃さんを想いだしてしまう。母親からの期待を満足させる為にかぶっていた仮面を、今度は俺と雪乃の期待を応える為に仮面をかぶっていると思えてしまう。

 この陽乃さんの強がりには意味があるのだろうか?

 こんなことを俺は望んでいたのかと叫びたかった。

 そしてもなによりも、何もできない自分が、どうしようもなくみじめで嫌だった。

 食後、由比ヶ浜は俺に何も言ってはこなかった。場の雰囲気に敏感な彼女の事だから、きっとなにかに勘づいてはいたはずだ。

 いつもと同じ食事の場面であるはずなのに、どうしようもなく居心地がよすぎて違和感を感じてしまう。

 だけど、俺が発する雰囲気というか、雪乃の雰囲気ともいうのか、心優しい由比ヶ浜は俺達を静観してくれているようである。

 そして、今日の帰りも陽乃さんはいない。

 雪乃に陽乃さんから電話があったとさっき聞いたばかりだ。いや、聞く前からわかってはいた。雪乃が一人で来るのを見る前からわかっていた。

 きっと陽乃さんは必要以上に俺達には接近してこないだろう。

 俺にはこれ以上なにもいえないし、陽乃さんも何も求めようとはしないはずだ。雪乃は……、昨日陽乃さんに会ってきたとは聞いたが、具体的に何を話したかは聞いてはいない。でも、俺に何も言ってはこないって事はそういうことなのだろう。

 つまり、これ以上の手はない。そういうことなのだと、俺は無理やり納得した。

 それにしても、3人でいた時は静かになってほしいと思ってばかりいたのに、いざ2人での静かな下校になってしまうと寂しく思ってしまう。

 身勝手なのもだ。

 なくなってから初めて気がつくなんて、使い古された小説の一場面じゃないかよ。

 昔に戻っただけなのに、雪乃と2人でいたときに戻っただけなのに、どうしても物足りなさを感じてしまう。

 

「元気がないわね」

 

 俺のことを誰よりも見ている雪乃が隣にいれば気がついてしまうのに、俺は無様な姿を雪乃にさらしてしまう。

 いまさら格好つけてもしょうがないか。雪乃ほど俺の情けない姿を知っている人間はいないしな。

 

「いつもこんな感じだと思うぞ」

 

「そうかしら?」

 

 姉さんがいないからじゃないかしらと言いたげな瞳に俺は戸惑いを覚える事はなかった。

 なにせ俺も雪乃と同じ意見だったから。雪乃もなんだかんだいって陽乃さんとの時間を楽しんでいた。

 そもそも嫌いだったら話にさえあげないはずだ。

 

「陽乃さんがいないからそう思うだけだと思うぞ」

 

「そんなこと言っていないわ」

 

 声を荒げる雪乃に対して、俺はどこまでも冷静だった。いわば諦めているとも言われそうだけど、雪乃と陽乃さんのことを相談できる事が俺の心を落ち着かせてくれた。

 

「まあ、落ち着けって」

 

「私は落ち着いているわ」

 

「はぁ……、まあいいか。えっとな、俺が言いたかったのはな、陽乃さんがいたから振り回されて、必然的にテンションが上がっているように見えていただけだって言いたかったんだよ。普段の俺はあそこまでテンションは高くない。むしろ今くらいのほうが精神衛生上にはありがたい」

 

「それも、そうね。姉さんといつも一緒にいるようになる前は静かだったわね」

 

「だろ? 普段俺達が二人でいるときなんてあまり会話がなくても、それはそれで普通だっただろ? 俺はそれが心地よかったし、とても大切な時間だと思っている。心が落ち着くっていうのか、無駄に騒ぐ必要もないし、沈黙も苦痛ではなかった」

 

「八幡と二人でいるの、嫌いじゃないわ。ううん、掛け替えのない時間だったわ。とても大切な時間で、とても大好きな時間だわ」

 

「雪乃もそう思っていてくれてうれしいよ。だから今こうして平凡だけど落ち着いている時間は大切なんだよ」

 

「……八幡」

 

「雪乃が元気がないって思ってしまっているのも、陽乃さんと一緒の時と比べているのにすぎないんだろうよ。だから、今の俺が元気がないと思ってしまっても不思議ではない。むしろ慣れってこぇえなって思うところだな」

 

「八幡」

 

 嘘は言ってはいない。事実は言っている。

 それが俺の本心かは別なんだが…………、やっぱ駄目なんだろうなぁ。

 だって雪乃が怒っているから、な。

 

「八幡」

 

「はひ?」

 

「この後付き合ってもらいたいところがあるのだけれど」

 

「それはかまわないけど、どこにいくんだよ?」

 

「大丈夫よ。ちょっとしたものを買いに行くだけよ」

 

「雪乃のちょっとしたものっていうのがちょっとしたもので終わる気がしないのは、俺の気のせいだよな? むしろ勘違いだと思いたい。いや、今すぐ逃げてもいい?」

 

「どうかしらね? でも、私から逃げられると思っているのかしら」

 

 怒っているよりはいいんだけど、笑っているからいいのか?

 でもなぁ、これだけは本人達には言っちゃ駄目なんだろうなぁ……。

 だって、なにせ、今の雪乃の顔が、なにかを仕出かそうとしている時の陽乃さんの顔にそっくりなんだもんな。

 やっぱ姉妹なんだとつくづく思ってしまう。

 悪い傾向ではない。むしろこういう時の陽乃さんについていけばきっと事態をひっくり返してくれると確信している。どんなに絶望的な状況であっても、この人ならやってくれると期待してしまう。

 もちろん雪乃と陽乃さんはいくら姉妹であったとしても別人格だし、同じ人間ではない。むしろ、ただ陽乃さんに似ているからといって過大な期待をしてしまうのは雪乃に失礼というべきだろう。

 だけど、今の雪乃を見ていると、楽しそうで心を引き付けられるなにかがあって、俺の心を軽くしてくれる。

 陽乃さんとは違うなにか。雪ノ下雪乃だけが秘めているなにかが俺を奮い立たせてくれた。

 だから俺はこうつぶやけた。

 

「どこまでも付き合うよ」

 

 こうして俺は重い腰をあげる事をようやくできるに至る。

 ………………まあ、雪乃に後ろからおもいきり蹴りあげられてだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 夏の太陽は残業が大好きなようで、いまだに明るさを俺達に提供してくれている。そのおかげか、もうすぐ夜という時間にさしかかっても、ささやかながらの明かりを提供してくれていた。

 といっても、のしをつけてお返しをしたけだるい熱気が居座っているんだが。

 ただ、出番待ちの月がちらほらと見え隠れするようになってはきているので、太陽も月に追い出されてしまう時間にはなってはきてはいる。

 車の外もいくぶん風でも吹いているようで、道行く人々の顔には昼間降り注ぐ炎天下の中で歩いている時の様相は見受けられない。

 これが8月になれば夜になっても暑さがまったく消し去れなくなり、いくら夜になっても体力を奪い取る風しか得られず、早く秋よこいと嘆く者たちが増えてくるのだろう。

 今の俺はといえば、エアコンが効いた車の中でいるわけで、暑さなんか関係ないんだけど。

 それでも放課後雪乃にせかせられながら歩きわたったショッピングの疲れが脚と腕に蓄積され、まだまだ十分には疲れは癒されてはいないせいで、けだるさが全身を駆け巡っていた。

 

「もうすぐ来るんだよな?」

 

「ええ、家の運転手には今の時間帯に大学に迎えに来てほしいと伝えられてたわ。だから、姉さんがなにかに勘づいて電車で帰らない限りここで待っていれば大丈夫だと思うわ」

 

「いくら陽乃さんでも気がつかないだろ?」

 

「そう願いたいわね。わざわざ実家まで行って姉さんが使うはずの車を使えるようにしたのだから、うまくいってくれないと困るわ」

 

「あの運転手にも感謝だな」

 

「あとで私たちの車を持ってきてもらって乗りかえるときにお礼をいなければいけないわね」

 

「わざわざここまで連れて来てもらって、今は俺達の車に乗っていてもらっているんだから、サラリーマンは大変だよな」

 

「あら? そのいいかただと、私がブラック企業の上司だと言っているように聞こえるのだけれど」

 

「言ってない、言ってないからな」

 

「そんなに真剣に否定されてしまうと、かえって真剣に心配になってしまうわ」

 

 少々大げさだっただろうか? 雪乃の意地が悪くも温かくもあった瞳に影がはいる。いくら親しい間柄であり、なおかつ相手の事がわかっていると思っている相手であっても、時として自分の想定とは真逆の方向に行ってしまうことがある。

 雪乃に対してもそうであるように、最近相手の事を知ったつもりになってしまっている相手であるのなら、しかも心の内を簡単には見せてはくれない陽乃さんであるのなら、親しみを込めた言動でされ陽乃さんを傷つけてしうことがあってしまう。

 

「俺に対しては気にする事はないぞ?」

 

「どういう意味かしら?」

 

「雪乃がいくらブラック企業の上司並みに俺をこきつかおうが、俺は構わないって言ってるんだよ」

 

「やはり私の事をそういう風に思っていたのね。たまにやりすぎてしまったかもと反省することもあるのよね。そうね、そうよね……」

 

 えっとなんだ。本人も自覚あるんだな、とは言わないけどさ。俺もたまにはやりすぎだろと思う事はあったような……。

 どうも俺に期待しすぎているというか、期待してくれているのは光栄だし、やり遂げたいとは思うのだが、なんだか雪乃基準の成果を求めてくる事があるんだよなぁ……。

 一応俺がやり遂げられる水準を考えてくれてはいるようだ。

 ただ、雪乃の求める水準って高すぎるんだよな。そもそも雪乃がやってのけるレベルが高すぎるのが原因なんだろうけど。

 

「そんなに思い詰めるような事を考えるなよ。俺はただ、雪乃が求める事ならなんだって叶えてあげたいと思っているだけだ。まあ、それでもできない事が多すぎるのが難点ではあるけどな」

 

「そんな事はないわ。八幡は私ができないことをいつもやってのけてくれているわ。それをどれだけ私が感謝しているかわかっていないようね」

 

「俺も雪乃に感謝してるって。今日だって雪乃が動かなければ俺は何もできないままだったからな」

 

「そうかしら? 八幡のことだから今日はできなくても、いつか動いていたと思うわよ」

 

「それこそ俺を買い被りすぎた」

 

「そんなことはないわ。いつだってわたしは……」

 

 ひんやりとした汗が俺の首筋を撫でていく。冷房がほどよく効いた車内であっても雪乃が俺に向ける熱が俺の体温を上昇させていってしまう。

 いつだって俺の隣にいて、いつだって俺を支えてくれる頼もしすぎる彼女は、俺をとらえて離さない。

 ふたりの熱い吐息が混じり合うほどまで近寄った俺達の距離は、思考をたやすく停止させてしまう。俺の瞳は雪乃の瞳に酔い、雪乃の瞳は俺の瞳を慈しむ。

 あと少し。後もうちょっと近寄れば……。

 

「なにをやっているのかしら?」

 

 いつも俺達をいじくり倒す声色で、いつものように憎たらしいほど嫌味な笑顔を携えて、陽乃さんは車の後部座席に座っていた。

 その陽乃さんの一言は、俺達を現実世界に引き戻すには十分すぎるほどの威力を秘めたいた。

 首筋だけとはいわず、背中や太ももから噴き出す汗は容赦なく俺の体温を急上昇させ、思考を妨げてくる。

 それは雪乃も同じようで、俺の座席へと乗り出していた体をあせくせと自分の座席へと引き戻し、スカートにしわがよらないようにと必要以上にスカートのすそを直していた。

 

「陽乃さんっ。どうしてここに?」

 

「そうよ、姉さん。どうしたのよ?」

 

「二人とも声が裏返っているわよ?」

 

「そんな事はないと思うわ」

 

「そ、そうですよ。これがいつもの俺の話声ですよ」

 

「そうかなぁ……?」

 

 なおも攻める続ける陽乃さんは、俺の座席の後ろから迫りくる。首から絡めてきた指先は胸のあたりで両手が合流し。俺を座席ごと誘惑してくる。

 冷房が効いているはずなのに、いまやそのハイテク装置は機能していないらしい。雪乃によって上昇させられた体温は、陽乃さんによって体の機能停止まで体温を押し上げられた。

 そして一通り慌て尽くした俺は、陽乃さんが家に帰る為に家から派遣されたハイヤーに乗り込んできた事を思い出す。陽乃さんの手が暖かいのも、今夏の暑い外から冷房が効いた車内に滑り込んできた証拠でもあるはずだ。

 そして、この俺達へのからみ。しかも、俺への過剰なまでもスキンシップは、ちょっと前までの陽乃さんの行動に一致している。

 陽乃さんが提供してくれる温もりが、俺にここ数日の違和感を忘れさせてしまうには十分であった。

 

「姉さん、八幡をたぶらかすのはやめてちょうだいっていつも言ってるわよね。いつも姉さんのからみは過剰すぎるわ。そのうちセクハラで訴えられるわよ」

 

 そして、この雪乃の嫉妬ともとれる普通の恋人の対応は、やはり数日前を連想させるには十分であった。

 きっと雪乃も俺と同じ印象を抱いていたはずだ。

 陽乃さんならしれっとした顔で、「八幡がそんなことするわけないじゃない? むしろ喜んでいるわよ」なんて言ってくる気がする。

 

「ごめんなさい」

 

 しかし、陽乃さんは違っていた。

 雪乃の拒絶を言葉通りに受け取ってしまう。いつもの俺達であったはずなのに、俺達はいつもの俺達には戻れなかった。

 陽乃さんがいつものように接してくれたものだから、どこか期待していたのだろう。それを打ち砕かれた俺は、変わり果ててしまった陽乃さんにどう接していいかわからなくなってしまう。

 

「はぁ……、怒ってないわ。少しヤキモチを妬いただけよ。だらか姉さんも脅えないで」

 

「そう? それならいいわ」

 

 温かかったはずの両手を凍えているみたいにさする陽乃さんを見て、どう安心すればいいのだろうか。きっと雪乃の言葉も届いていないのだろう。

 

「それはそうと、どうしてこの車に雪乃ちゃんたちが乗っているのよ?」

 

 陽乃さんは落ち着かなかったのだろう。せわしなくさする両手が、自分で話題を変え、気分を落ち着かせようとしているのが丸わかりであった。

 

「姉さんにようがあってお願いしたのよ。こうしないと姉さんを捕まえられないでしょ?」

 

「……ごめん」

 

「はぁ……。今日はうちで夕食を食べていってほしいわ」

 

「それは」

 

「今日だけだからお願い」

 

「…………わかったわ。せっかく雪乃ちゃんが招待してくれるのだから、しっかりともてなされてあげるわ」

 

「きっと姉さんも気にいってくれると思うわ」

 

「………………どうかしらね」

 

 小さく呟いたその言葉は、声に出すつもりではなかったのだろう。だから俺も雪乃も聞こえないふりをして車から降りる準備を始める。

 

「向こうに私たちが乗ってきた車があるから、そっちに移るわ」

 

「ええ、わかったわ」

 

 西の空を見上げると、あれだけ照らし続けていた太陽が隠れようとしていた。

 熱く人の体力を容赦なく奪っていく太陽も、姿を消してしまえばその威力はなくなってしまう。わずかに残った残照が俺たちに太陽の存在を思い出させるにすぎない。

 しかもその残照は時間がたてば忘れ去られ、人々は新たに現れた星々に意識を向かわせる。

 俺もいつか陽乃さんのことを過去のこととして思い出にしてしまうのだろうか。そしていつの日か思いでさえも上書きされ、新たな日常が当たり前になってしまうのだろうか。

 たぶん程度の差こそあれど、人は同じような事を繰り返して生きているのだろう。印象深い出来事は思い出としてしばらくは心の表面に顔を出してはくれるが、時間が思い出を心の底へとしずませてゆく。

 できることなら俺は陽乃さんを思い出にはしたくない。雪乃もそうであるはずだ。

 だからこそ俺達は、陽乃さんを俺達の家に招待したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 マンションにやってくるまでの間、何を話していたかよく覚えていない。おそらくとりとめのない話をしていたのだとは思うが、必要がない緊張が俺達の口を重くする。

 お互い相手を思いやって、傷つけてしまうかもしれない話題は避けていた。人はなにに傷つくなんてわかったものではないので、結局はまったく意味もない話題へと集約してしまう。

 その意味のない話題さえもお互いの心を削っていくとわかっていて、だんだんと口数が減っていってしまうことは当然の結末ではある。

 しかしマンションの室内に入ると、雪乃は小さく一つ息を吐くと顔を引き締め、車内でのよそよそしさを外に追い出したようだ。

 その覚悟というか、凛々しすぎる彼女を見たからには、彼氏としては情けない姿を見せるわけにもいかないわけで、自然に俺の背筋も伸びていく。

 

「姉さん。悪いけど食事の準備を手伝ってくれないかしら?」

 

「いいわよ? 問答無用で拉致されたわけだし、料理くらいいくらでも手伝ってあげるわ」

 

「拉致というと、どちらかといえばいつも陽乃さんがしているんじゃないですかね……」

 

「そうだったかしら?」

 

「ええ、まあ。この間も早朝からやって来て俺を一日中連れ回したじゃないですか」

 

「あれはデートっていうのよ?」

 

「そうともいえますけど……、まあいいですよ。俺も楽しかったですから」

 

「おしゃべりはそのくらいにして、八幡はさっき買ってきた荷物の包装を片付けてくれないかしら?」

 

「あいよ。その後洗っておけばいいのか?」

 

「それはこっちでやっておくわ。さすがにキッチンを三人で使うには狭すぎるわ。その代わり、テーブルを綺麗にしておいてほしいわ。あとは……、そうねえ。お風呂とトイレの掃除をしておいてくれないかしら? あと時間があれば玄関の掃除? その前に寝室の掃除の方を優先にしておいた方がいいかしら?」

 

 小首を傾げ、人差し指で頬を撫でながら考えるふりをするのは可愛らしいとは思う。できる事なら今すぐスマホで写真を撮りたいほどでもある。

 …………まあ、似たような写真が何枚もあるから、どうしてもほしいというわけではないが。

 なんてほのぼの惚気話ではなくてだな、料理している間に掃除をしておけって事だろ? いつもの事だからいいし、家事は分担だから文句はない。

 

「そのわざとらしい頼み方はなんなんだよ? 媚を売っているとは思わんけど、どうも雪乃らしくはないというか」

 

「以前由比ヶ浜さんが教えてくれたのを実践しただけよ。それに八幡も鼻の下の伸ばしながら掃除をしてくれているじゃない?」

 

「だんじて鼻の下なんかのばしてない」

 

「そうかしら? いつも子供が見たら通報されてしまいそうなにやけ顔で掃除をしているじゃない」

 

「それは食事のことを考えていただけだ」

 

「わかったわ。そういう事にしておいてあげるわ」

 

「…………掃除してくるわ」

 

 これ以上ここにいたらやばい。本能が囁く…………わけではなく、どういうわけかマンションに帰ってきてから緊張が緩和された雪乃と、さらに陽乃さんまでいつもの雰囲気を醸し出しているものだから、これ以上ここにいても事態が悪化するだけだと誰だってわかるものだ。

 この二人を同時に相手をできる人間がいるとしたら、それは雪乃と陽乃さんの母親くらいだろうし、そもそも一人であっても俺には荷が重すぎるものだ。

 だから俺は、心地よい敗北感を背負いながら足取り軽く風呂場へと撤退していった。

 

 

 

 風呂場の掃除から始まり、トイレ、寝室の掃除が終わったところで掃除タイム終了のようだ。もう少し時間があれば玄関の掃除もと思ってはいたが、キッチンからの臭いに誘われて様子を見に行くと、そろそろ食事の時間らしい。

 雪乃も鬼畜ではないので、いや、女神だということで(雪乃談)、食事の時間を遅らせてまで玄関の掃除をする必要はないとのこと。

 手を洗ってから席に着くと、今日買ってきた新たな茶碗が陽乃さんの前にならんであった。

 

「さっきは聞かないでおいたけど、さすがにもう聞いてもいいわよね? こうしてあなたたちの要求通りあなたたちのマンションにまできて、しかも夕食まで一緒に作って食べようとしてるのだからね」

 

「私が考えたのよ」

 

「雪乃ちゃんの作戦だとは思ってはいたけど、どういう意味かしら?」

 

「姉さんの食器を買っただけよ」

 

「それは見ればわかるわよ」

 

 たしかにテーブルの上を見ればわかるっていうものだ。今までは陽乃さんは来客用の食器を使っていたが、今日いきなり自分用の食器を用意されていれば気がつかないわけがない。

 …………由比ヶ浜も来客用の食器を使ってはいるが、由比ヶ浜なら違う食器を出されても、そういうものかなって思って終わりだよなぁ。それどころか、気がつかないんじゃないか、あいつの場合。

 いや、空気を読む事には長けているあいつの事だ、きっと気がつくはず…………かなぁ、どうだろ?

 

「ならその通りよ」

 

「でもどうして急に? この前あなた達の食器を買った時はこの食器、買ってないわよね?」

 

「ええ、そうよ。だって今日買ったものだもの」

 

「それもそうよね。じゃあ、どうして今日買ったのかしら?」

 

「そうね。私からの宣戦布告というところかしらね」

 

 いつも通り凛とした姿勢の雪乃は、その決意表明ともとれる発言をすると、静かにその場の存在感を増していく。

 睨みつけているわけでもないのに、研ぎ澄まされた眼光は陽乃さんを射抜く。きっと雪乃にとってはいつも通りなのだろう。そのいつも通りの雪乃だからこそ周りにいる人間が受けるプレッシャーは作られたプレッシャーの比ではない。

 雪乃の隣にいる俺でさえビビりまくりなのだから、プレッシャーを直接受けている陽乃さんの心の揺れは想像できない。

 まあ、陽乃さんだし、涼しい顔で受け流してたり…………してるとか?

 

「意味がわからないわ」

 

「本当かしら? この食器を見てその意味を理解できないとでもいうのかしら?」

 

「だからわからないと言っているじゃない」

 

「……そう。じゃあまず、今日この食器を買った意味を教えてあげるわ」

 

 予想は裏切られる。あの陽乃さんが雪乃から目をそらしてしまった。

 いままでこんな光景はなかったはずだ。少なくとも俺は見た事がない。

 いつも堂々としていて、普通の人間にとっては難題であってもどこ吹く風といった感じでひょうひょうと成し遂げてしまうあの雪ノ下陽乃が、逃げた。

 そう、逃げた。俺は陽乃さんが逃げるなんて想像したことがない。

 あのお義母さま相手であっても、勝てないまでもやり過ごしている。

 その陽乃さんが、逃げ………………………………た?

 そうじゃない。陽乃さんは強いっていうイメージが強いから逃げるというイメージがもてなかっただけだ。

 俺や周りの人間は陽乃さんに強い人間というイメージを持ってしまっていたんだ。

 でも違う。陽乃さんは、いつも逃げていたんだ。そう、逃げていた。

 そして、雪乃だけが、妹も雪乃だけが陽乃さんが弱いと、陽乃さんが逃げていると知っていた。

 陽乃さんは母親から政略結婚させられそうになったときは、結婚を遅らせる為だけに大学院に進学している。しかも、大学院卒業後も逃げまくる為に、海外留学まで考えていた人じゃないか。

 そして現在、政略結婚がなくなって消えたと思っていた海外留学を、俺と雪乃の前から逃げる為に再度海外留学を画策しているじゃないか。今、全力で逃げようとしているじゃないか。

 しかも、あの母親の要求と雪ノ下家の長女としても義務の為にかぶっていた雪ノ下陽乃という仮面を、今は俺と雪乃の期待にこたえる為に雪乃の姉としての仮面をかぶっているじゃないか。

 今日だってほんとうは辛いはずなのに昼食を俺達と一緒に食べてくれたじゃないか。

 きっと今日一緒に食事をした連中ならば気が付いていたはずだ。

 陽乃さんと親しい人間なら、いつもの陽乃さんではないと気が付いていたはずだ。

 

「お願いするわ」

 

「私たちが実家で使う食器をこの前姉さんと一緒に買ったわよね」

 

「そうね。一緒に選んだわ。まあ、ほとんど雪乃ちゃんが決めてはいたけどね」

 

「今日の食器も悪いけど私が選んだわ」

 

「そうだと思っていたわ。比企谷君が選んだとは思えないもの」

 

 悪いが、俺も陽乃さんの意見に同意だ。まず、高級食器にうとい。こればっかりは庶民の出の俺に期待してもらっても正直困るってものだ。

 まあ、ない知識の事を嘆いても意味ないか。 

 それよりも、これらの食器を買う事の意味が一番の難題なんだろうな。

 たぶん俺は思い付いても買う事はできないはずだ。どうしても雪乃を一番に考えてしまうからな。

 だからこれらの食器は、雪乃にしか買えない。

 

「私は、八幡が選んで買ってほしくはなかったのよ。これは私のエゴね」

 

「別にいいんじゃない?」

 

「そうかしら。………………話を戻すわね。この前私たちが実家で使う食器を買ったわ。だから、今度は姉さんがこのマンションで使う食器を買ったの。姉さんが使う為に」

 

「それはありがたいけど……、雪乃ちゃんはいいの? 別に私の食器をそろえてくれるのはありがたいけど、この食器でいいのかしら?」

 

「ええ、いいわ。言ったでしょ? 宣戦布告だって」

 

「…………それもそうね」

 

 陽乃さんから邪気が抜けていく。……邪気って表現するのはあってないか。重荷っていうのが適当だな。

 けど、なんていうか、重荷という表現だけでは表現できないその重さが見えてしまう。一種の呪いとでもいうべきか。

 きっと姉妹の間にしかわからないものがあるのだろう。

 ちなみに、俺は全く理解できていない。

 そもそもこの食器。どういう意味合いで雪乃が買ったのかさえわかっていないのだ。雪乃は教えてくれないし、俺も雪乃に理由を聞くタイミングがなかったしな。

 だってさ、食器を選んでいる時の雪乃って、近づくなオーラ全開だったし。

 でも、店で買っているときは気が付けなかったが、こうしてテーブルに並べられれば、俺にも気がつける部分がある。

 まあ、小学生でも気がつけるレベルだから、今さら誉められるものではないんだが。

 テーブルの上には、今日買ってきた陽乃さんの食器が並べられている。

 俺と雪乃が使っている食器と似ている食器が、陽乃さんの前に用意されていた。

 茶碗にはじまり、汁もの用の椀や箸に至るまで、俺と雪乃の食器と並べれば、この3組で一つのセットだと思ってしまうだろう。

 実際雪乃が選んだから、メーカーとか、茶碗を作った人までとはいかないまでも産地というのか? 見た目だけではなく、作り手の所まで調べているんじゃないかと思えてしまう。

 だから、今日買った食器だというのに、昔からここにあったと感じさせるぬくもりがそこには存在していた。

 そして俺は、その温もりを違和感なく享受した。

 

「私は元々雪ノ下の人間ではあるけれど、八幡と一緒に雪ノ下で生きていく決心をしたわ。とはいうものの、私がいくら足掻こうとあのお母さんが簡単に私を手放してはくれなかったでしょうけど、それでも八幡と一緒にあの家にいることにしたわ。だから姉さん。姉さんもこのマンションにいる事を決心してほしいの。もちろん酷な要求をしているとは理解しているわ。でもね、姉さんがアメリカに行っても意味がない。だって姉さんがアメリカに行ったところで心の整理ができるはずがないもの」

 

「雪乃ちゃんは断定できちゃうのね。私でさえ自分の心の内を理解できていないのに」

 

「姉さんは人の感情を理解するのは得意かもしれないけれど、自分の事となると八幡以下よ」

 

「案外評価が低いのね」

 

「ちょっと待て。俺くらい自分の心を制御できている人間はいないぞ」

 

 そしてもう一つちょっと待てと言いたい。どうして俺をここでディスる。しかも、雪乃も陽乃さんも俺のことなど無視して話を進めているしさ。

 …………わかってはいるさ。ここは全て雪乃に任せているんだからさ。でもな、いちおう彼氏であるわけだから、少しくらいはオブラードに来るんだ表現をして頂けると嬉しいのですが……。

 

「だから言ったでしょ? 他人の感情を読む能力は素晴らしいけれど、自分に対しては並み以下だと。そもそも自分の感情を抑えてきた人間が、自分の心をわかるわけないもの。今まで自分の心を見ないふりをしてきた弊害ね」

 

「なるほどね。自分を偽ってきたつけがここにきて出てきたわけか」

 

「そうなるわね。だから、姉さんがアメリカに行ったとしても、意味がないわ。姉さんが言う通り勉強に集中したとしても八幡のことを忘れる事などできやしないわ。もちろんアメリカにいるときは勉強に集中するとは思うわ。でも、八幡への気持ちは封印しているだけよ。だから、日本に帰って来て八幡に会った瞬間に、その封印はきっと解けてしまう。だからアメリカに行っても意味がないわ」

 

「もしかしたら向こうで恋人ができるかもしれないわよ?」

 

「勉強をしに行くのでしょ? 姉さんがそう決心してアメリカに行ったのなら、ほかのことになど興味を示さないと思うのだけれど?」

 

「…………これだから姉妹は嫌なのよ。これが男兄弟だったら理解なんてできないでしょうけど、女はね」

 

「なら、認めてしまう?」

 

「でも、恋なんていつ落ちるかわからないわよ?」

 

「普通ならそうでしょうね。でも、姉さんの心の中には八幡がいる」

 

「……うっ」

 

 めずらしく雪乃が陽乃さんに圧倒してないか? 普段の二人の関係からすれば想像すらできない光景だ。

 由比ヶ浜が見たら、きっと目の前で繰り広げられていても信じやしないんじゃないのかとさえ思えてくるぞ。

 …………そうでもないか? 陽乃さんが言っていたけど、男にはわからないけど女にはわかるってことがあるみたいだし、そうなると俺だけが理解できないとか?

 

「そのような状態で、どうやって他の男性が姉さんの心に入っていくのよ。しかも誰の侵入も許さない姉さんの心の中に入ってくる人間なんて八幡以外にいるとは思えないわ」

 

「…………うぅ。雪乃ちゃんがいじめるぅ」

 

 あっ、泣いた。でも、泣き真似だってことはわかってはいるけど、あの陽乃さんがなぁ。ある意味新鮮ではある。

 もちろんここで手をさしのべる勇気はない。むしろたじろいで動けないまでである。なにせ手をさしのべたら、生涯手を離される事がないトラップつきだとわかりきっているしな。

 

「あとは時間が解決するなんてことはないわね」

 

「うっ!?」

 

「だって八幡の事を思いださないように封印しているだけなのよ。封印は消去ではないわ。いつか封印が解けた時、八幡への想いは解放されてしまうわね」

 

「ねえ、雪乃ちゃん」

 

「なにかしら?」

 

 つんと見つめる雪乃の視線は冷たい。

 冷静に一つ一つ陽乃さんの逃げ道を潰していくその行為は残酷なまでも機械的だ。だが、徹底した侵略もどこか温もりがあり、優しさに包まれているような気がした。

 

「そんなにお姉ちゃんをいじめて楽しい?」

 

「べつに楽しいとかつまらないとかという感情はないわね。ただ私は事実を述べているだけだもの。でも、もしその事実を聞いて姉さんがいじめられていると感じたのならば、それは図星だっただけよ」

 

「それをいじめと言うのよっ!」

 

 あっ! 叫んだのと同時にわずかながらだけれど目じりが涙でぬれてなかったか?

 

「私の中ではいじめとは言わないわね」

 

 やれやれと首を振る雪乃の姿には余裕が見受けられた。

 ここに陽乃さんを連れてくるまで緊張していた雪乃だが、やはり覚悟を決めて動き出した雪乃は強い。

 

「だから姉さん」

 

「なによっ?」

 

 もはや駄々っ子のごとく返事をする陽乃さんには、威厳も偽りもなくなっていた。

 そこには年相応の陽乃さんがいるだけで、もしかしたら微笑ましいくらい楽しそうに気持ちをぶつけあっているんじゃないかと思えてしまう。

 

「姉さんは自分の手で解決しなければ自分自身が納得できない面倒な人間よ。どうしても自分が納得しなければ何をやっても無駄に終わるわ」

 

「だから、アメリカに行ってなにかしらの形で納得すれば問題ないじゃないのよ」

 

「はぁ……。だからその事についてはさっき無駄だといったじゃない。姉さんも納得していたように思えるのだけれど? あぁ、心の中では納得できてはいたけれど、私の言葉で納得する事は拒否していたともとれるわね」

 

「今日の雪乃ちゃん。すっごく意地悪よ?」

 

「姉さんの妹だもの。仕方ないわ」

 

「それを言われてしまうと、反論できないわね」

 

 反論できないのかよっ! やっぱ姉妹なんだよなぁ……。

 

「しかも最悪のケースとして、自分を抑え込んでアメリカに行ったものの、感情を無理やり抑え込んでも噴き上がる感情を制御できず、すぐに日本に帰ってくるかもしれないわね。悲劇のヒロイン症候群とでもいうのかしらね?」

 

「それはないんじゃないの? 自分で言うのはなんだけど、感情を抑え込むのには自信があるわよ?」

 

「以前の姉さんならそうだったと思うわ。でも、今は違うじゃない?」

 

「どうしてよ?」

 

「だって、八幡が姉さんの感情を解放してしまったじゃない。一度素直な心を解放してしまっては、もう一度心を閉ざすことなど難しくなってしまうのではないかしら? だって、素直な気持ちで人に接する喜びを経験してしまったのでしょう?」

 

「うっ……」

 

「だから、姉さんは高い確率ですぐに日本に帰って来てしまう。八幡への気持ちを膨らませ、しかも暴走気味に」

 

「まるで未来を見てきたようないいようね」

 

「もし私が姉さんの立場だったら、私がそうなってしまっていたでしょうしね」

 

「なるほど……」

 

「私も姉さんの気持ち、痛いほどわかってしまうもの」

 

 あぁ……納得するんですか。いやね、そこまで雪乃に好意をむけてくれているのは嬉しいと思う。でもさ、これっていわゆる「ヤンデ……」フラグ。いや、違うよな。雪乃だもんな。

 ………………うん。俺が雪乃一筋なら問題ない。そう、何も問題ない。そうにきまっている。

 

「だから、姉さんが日本にいてくれたほうが、私としては助かるのよ。目の届く場所にいてくれれば対処のしようがあるわけだし」

 

「ほぉ……、正妻の強みってわけね」

 

「そう思ってくれても構わないわ」

 

「まっ、事実だからしょうがないか」

 

「それに、もし私が逆の立場だったら。姉さんが八幡の彼女で、私がそうではなかったら、きっと姉さんは私に手をさしだしてくれたはずよ。だから私は手をさしのばすのよ」

 

「…………雪乃、ちゃん」

 

「姉さんは姉さんであって、雪ノ下陽乃なのよ。いつだって雪ノ下陽乃なのだから、そこからは逃げる事はできないわ。それに、逃げたとしても私が追いかけるわ。だって家族だもの。姉さんの妹は執念深いのよ」

 

「自分で執念深いって言ってしまうのね? これじゃあわたしも八幡も逃げられないわね」

 

 今、さらっと重大な事を言いませんでしたか? 雪乃から逃げるつもりはないよ。ないけどさ……。これはもう本当に「ヤンデ……」なんじゃ、ないのか?

 今は病んでいないのが救いか? 気をつけないとな。

 

「姉さんはふてぶてしく、そして策略を張り巡らせて八幡にアプローチしていなさい」

 

「言ってくれるわね」

 

「八幡の気持ちが私から離れていく事はないでしょうけど、諦めがつくまで八幡にアプローチして、そして気持ちにけりをつけて欲しいわ。戦わない雪ノ下陽乃なんて、姉さんではないわ」

 

「それを言ってしまうからには、雪乃ちゃんも覚悟しているのよね?」

 

「だから言ったでしょう? 宣戦布告だって」

 

「なるほど」

 

「だから、私に対して気にする気持ちは必要ないわ」

 

「わたしは……、ここにいてもいいのかしら?」

 

「ええ、私がいてもらいたいのよ」

 

「愛人になってしまうかもしれないわよ?」

 

「構わないわ」

 

 ほんとうかよっ?!

 今この場で俺が介入する勇気なんてありゃしないから黙っておくけどよ。陽乃さんが宣言すると事実になってしまうような気がしてしまうんだよなぁ。しかも雪乃公認だし。

 

「言ってくれるわね」

 

「八幡にその甲斐性があればの話だけれど」

 

 ですよねぇ……。へたれな俺には土台無理な話ってことなんだよな。

 そもそも命の危機…………って感じがするのは、間違いではないはずだろうし。

 

「それもそうね」

 

「それに、もし八幡が姉さんを愛人にするのなら、それは私の意思でもあるわ」

 

「ふぅ~ん」

 

「八幡は私の事を考えて結論を出すわ。だから、姉さんは私のことを気にする必要なんてないのよ。八幡が出す答えが私の答えでもあるのだから」

 

 それって、すっげえプレッシャーじゃないかよ。俺が雪乃だけじゃなくて陽乃までの人生を背負う選択をするってことだろ?

 ここまで俺を信じてくれてもらえるのはうれしいけど、さすがに過大評価しすぎではありませんか?

 

「わかったわ」

 

「理解してくれて助かるわ」

 

「ありがとね、雪乃ちゃん」

 

 そう晴れ晴れとした笑顔で雪乃に微笑むと、きりっとした意思の強い瞳を俺に向けてくる。

 一瞬雪乃が睨みつけてきたんじゃないかと錯覚までしてしまう。さすがは姉妹だというところか。

 恥じらいも興奮も、後悔や信頼も、そして不安や期待も、あらゆる感情が渦巻くその姿は愛おしく思えてしまう。

 だって自分を偽っていないから。本心を隠していれば、きっと傷つく事はあっても軽傷ですんでしまうだろう。でも、本心からぶつかれば、嘘は付けないから大けがをおってしまいがちだ。

 自分の心をさらけ出してしまえば、後戻りなどできやしないから。

 だから俺も本心をさらけだそう。うまくできるかはわからないけど、陽乃さんがしてくれているのだから、せめて嘘だけは付きたくはなかった。

 

「わたしは、比企谷八幡のことが、好き。大好き。愛してる。…………言葉で表現しきれないから、欲望を解放してこの愛情を体で伝えられればどれほどいいかって思えてしまう」

 

 俺は初めて陽乃さんから「愛の言葉」を耳にした。

 今までセクハラまがいの愛情表現を受けてはきたが、言葉にして好意を伝えられた事はなかったと思う。

 だからこそ俺はへたれでいられたのかもしれない。

 だって、言葉にして伝えられていなければ、その愛が勘違いだったかもしれないと思えるじゃないか。でも、もうその時間は終わった。なにせ陽乃さんが俺に言葉で本心を伝えてきたから。

 

「俺は雪乃のことを一番に考えていますよ? それでもいいんですか?」

 

「わかっているわ」

 

「俺はずっと自分の事しか考えてこなかった、と思う。自分が傷つくだけで解決できるならそれでもいいと思っていた。誰かが我慢しなければならないのなら、面倒なさぐりあいをするくらいなら、俺が泥をかぶったほうがいいと思っていたから。あれこれ話しあったりするのは非効率でもあるとも思ってしまいたしね。どうせだれかがやらなくてはならわいわけですし」

 

「比企谷君らしい考えだったわね」

 

「他人は助けてくれない。自分の事で精一杯なのに他人のことなんて助ける余裕なんてない。だから、自分のことはすべて自分だけでやらないといけないと思っていた」

 

「間違いではないわ」

 

「たしかに間違いではないと、今でも思っていますよ。でも、それが全て当てはまるわけでもないのも事実ですよね?」

 

「どうかしらね? それは人によるわよ?」

 

「まぁ、そうでしょうね。でも陽乃さん」

 

「ん、なにかな?」

 

「今の俺は、俺の事を後回しにしてでも雪乃のとこを最初に考えてしまうんですよ。今大学に通ってほとんどの時間を注いで勉強しているのも、将来雪乃の隣にいる為にすぎません。この方針は大学を卒業しても変わらない。一生雪乃と一緒にいる為に俺の全てを注ぎ続けます」

 

「ん? そんなこと知ってるわ。実際わたしが見てきたもの」

 

「俺は雪乃が悲しむ姿は見たくないんですよ。そりゃあ人生笑っているだけでってことはないはずです。苦しい時や悲しい時が必ず訪れるはずです。笑っているだけの人生でしたなんて言う奴は、どこか精神が歪なはずです」

 

「捻くれている八幡には言われたくないって思っているんじゃない?」

 

「でも、陽乃さんも俺と同じような意見なのでしょう?」

 

「それは否定しないかな。だって、楽しいだけが人生じゃないのもの。悲しい事もなければ楽しくないわ」

 

「だから俺は、せめて雪乃が笑っているときは真っ直ぐそれを見つめられる人間でいたいんです。一緒に笑っていたいんですよ。後ろめたいことなんて抱きながら中途半端な気持ちで見つめたくはないんです。それに、そんな気持ちじゃ一緒に笑えません。そもそも笑顔なんて貴重だとは思いませんか? 一日のうちで笑っている時間なんてわずかですよ。無表情で一日が終わる事はないでしょうけど、笑顔を見せないで終わる日も少なくはないと思いませんか?」

 

「ん~……、わたしも自分の表情がどうなっているかを全て確認した事がないからわからないけど、八幡の言う通り、案外笑顔って貴重なのかもしれないわね」

 

「俺は雪乃の隣で胸を張って生きていきたいんですよ」

 

「なるほどね。じゃあ、今は胸を張って生きていられているのかな?」

 

「どうなんでしょうね? 自分でいうのはなんですが、けっこうどころかかなり捻くれた人間だったと思うんですよね。やはり人間の本質はなかなか変えられないと言いますか……」

 

「最後くらいはかっこうよくしめなさいよ」

 

「これが比企谷八幡なのですからしょうがないじゃないですか」

 

「そんなことはないわ。八幡の隣にいるわたしが保証するわ」

 

「雪乃?」

 

「たしかに今も捻くれているわ。でも、私を大切にしてくれている。不器用ながらも愛情を注いでくれているわ」

 

「まあ、なんだ。ありがとな」

 

 てれるじゃねえかよ。まっすぐすぎる瞳でみつめられちゃったら、彼氏としても心強いけど、やっぱてれてしまうよな。

 って、それどころじゃないか。

 

「ですから陽乃さん。俺が嫌なんです。愛している雪乃の隣にいられなくなるのが嫌んです。雪乃が悲しむ姿を見るのが嫌なんですよ」

 

「わかったわ。雪乃ちゃん……、八幡に愛されているのね」

 

「ええ……」

 

 どうにか理解してくれたか。

 これが雪乃がいうところな陽乃さんが納得しての解決とはいえないかもしれないけど、あとはゆっくりと未練を全てなくしていくしかないよな。

 雪乃と陽乃さんは、雪ノ下陽乃に関しては時間が解決することなんてないって言ってたけど、俺はそうとは思わない。

 もちろん時間だけが解決してくれることなんていう楽観的すぎる考えなんて持ち合わせてはいない。けれど、時間をかけて解決しないといけないことがあるこつも事実だ。

 長い年月プラス入念なケア。どちらも欠くことができない大切な要素なはずだ。

 だから俺は陽乃さんの隣にもい続ける。

 雪乃と一緒に、陽乃さんが自分の足で自分の道を歩き始める日までずっと。

 

「だったら、雪乃ちゃんが納得してくれて、なおかつ悲しむ事もなければなにも問題が発生することなくわたしとお付き合いすることができることになるのよね。そうすれば八幡はずっと雪乃ちゃんの隣にいられるわけだから、すべてがうまくおさまるわ」

 

 えっとぉ…………。映画で言うならば、感動のシーンでしたよね?

 なのにどうしてもう一人のヒロインに詰め寄られている修羅場が展開されているのでしょうか? 

 ほら見てくださいよ。メインヒロインたる雪乃もわけがわからないくて呆れているっていう顔をして……………………いないだとぉ!

 おい、雪乃。どうして納得してますっていう顔をしてるんだよ。しかも挑戦は受けてやるっていう顔をするんじゃないっ。

 どこの少年漫画のバトルものの展開やっちゃてるんだよ。

 「好敵手」って書いて「とも」って読ませるのか?

 ここだと「姉妹」って書いて「ライバル」って読ませるのが正しいのか?

 いや落ち着けよ、俺。なに馬鹿な事を考えて現実逃避しちゃってるの?

 今は目の前の敵(?)を迎え打たねばいけないしょうよ。

 でも、どっちの敵(?)を?

 なんか右も左もがっちりと抑えられてしまっていますよね?

 

「上等だわ。雪ノ下雪乃が受けて立つわ。私を納得させられるのなら、いくらでもやってみるといいわ」

 

 だから、雪乃も挑発するなっての。

 

「…………ありがとう、雪乃ちゃん」

 

 素顔。これが雪ノ下陽乃の素顔なのだろう。

 厚い雲に覆われていた空に、ゆっくりと日差しが差し込んでくるような柔らかい笑顔。まだまだ遠慮がちに照らす太陽は、これから夏がやってくることを予感させる。

 今まで何度か素顔の笑顔を見る機会はあったが、これほどまですがすがしい笑顔を見た事はない。この笑顔と比較してしまうと、今までの笑顔はどこか遠慮があったのではないかと思えてしまう。

 まあ、陽乃さんの場合だと遠慮という概念でくくるよりは戸惑いと名付けたほうがしっくりとくるか。なにせ今まで素顔を見せる事を封印していたんだ。それを突然解放してもいいって言われても簡単には全てを晒す事などできやしないだろう。

 俺だって捻くれるなと雪乃に命令されてもちょっとやそこらでは改善できないもんな。

 

「感謝されるようなことはしていないわ。むしろこれから大変なのは八幡のほうね。だってね。どう切り抜けていくのか楽しみだわ」

 

「それはそうね。……だってさ、八幡」

 

「まあ、そのなんだ。お手柔らかにお願いします」

 

 光栄にも陽乃さんの心を初めて汚した男になってしまった。

 今まで誰も立ちいる事ができないでいた真っ白で、汚れを知らないその雪原に、土足で踏み込んでしまった。

 一生消えることがない事をしでかしてしまったのだろう。俺にとっても、陽乃さんにとっても、そして雪乃にとっても。

 俺はなにをやらかしてしまったかを自覚している。もちろん一生背負っていかなければならないと覚悟もしてる。俺の覚悟程度でいいのならいくらでもしてやろう。

 ただ、陽乃さんにとってのその初めての受け入れを俺に許してくれた事を、俺は最上級の喜びを抱いてしまっていることは、雪乃に対する裏切りになってしまうかだけは気がかりではある。

 まあ、雪乃のお許しが出ている時点で免責ってことでかたをつけておくか。

 とはいうものの、免責という時点で事実上の有罪であってしまうことだけは後々の禍根にならなければいいなと祈らずにはいられない。

 そのときはそのときか。きっと俺と雪乃ならば、そして陽乃さんも含めた三人であれば切り抜けられるはずだ。

 今後、陽乃さんが、無垢で正直な心を、俺に語りかけてくれる機会は減ってしまうだろう。一度痛みを知ってしまえば、本音は言いにくくなる。何かしらの建前で武装して、オブラードにくるんだ言葉を投げかけてくることになるはずだ。

 それこそ陽乃さんが使い慣れてきた仮面でもあるのだから、すぐになじんでしまうかもしれない。

 そもそもありのままの心をそのまま感情表現できる時期など限られており、それは幼少期に卒業するイベントである。

 それを今、大人になってから卒業するとは、ある意味陽乃さんらしいって言えるのかもしれない。

 それは少しさびしくもあり、それと同時にこれからの成長を見られることは楽しみではある。

 ………………ただなんだ。なんだかすっげぇ怖くないか?

 今の陽乃さんでも十分すぎるほど魅力的で美しいのに、これからもっと成長する余地があるってことだろ?

 そう考えると、今でさえ人の想像を超えて人を魅了してしまう女性は、これからどこまで人を虜にしてしまうのだろうか。

 今日の太陽は美しいほどに朗らかであった。

 

 

 

 

 

 

『愛の悲しみ編』終劇

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。