やはり雪ノ下雪乃にはかなわない   作:黒猫withかずさ派

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愛の悲しみ編 1

『愛の悲しみ編』

 

 

7月11日 水曜日

 

 

 

 初夏を匂わす日差しも、心地よく吹き抜けて行く風も、目の前で繰り広げられている惨劇を直視すれば、どうでもいいような気がしてしまう。

 どうしてこうなってしまったのだろうか。

 どうして止めることができなかったのだろうか。

 どうしてもっと強く言うことができなかったのだろうか。

 目の前の惨劇の全ての原因が自分にあるとは思わないが、そうであってもあんまりではないか。

 自分が何をしたっていうんだ。

 俺はちょっと二人の仲が良くなればいいと思っただけなのに。

 そう、数分前までは平和だったんだ。

 

「ねえ比企谷君。今夜もうちに食べにおいでよ」

 

 車を大学近くの駐車場に止め、大学の正門へと足を進めている朝。昨日に引き続き今日も陽乃さんに食事の招待を受けていた。

 別にいやってわけでもない。むしろ美味しい食事にありつけるわけなのだから、嬉しいともいえる。もちろん雪乃の手料理は何物にも代えられないほどの大切な食事ではあるが、先日のストーカー騒動を思い出すと、どうしても陽乃さんを一人にしておくことができないでいた。

 だから、もはやストーカーが待ち伏せしているわけでもないのに、今朝も車で送り迎えをしているわけで。

 そして、雪乃も姉の陽乃を心配して、むげに断ることができないでいた。

 俺の数歩前を颯爽と歩く二人の姿は、もはや今の時間帯の名物となっている。美人姉妹がそろって登校するのだから、目の保養になるのかもしれない。

 ただ、二人が話している会話内容を知らないから無責任に眺めていられるんだ。

 常に俺達の日常を面白おかしくかき乱す姉の雪ノ下陽乃。今日は珍しく活発さを前面に押し出している服装をしていた。肩をむき出しにした黒のタンクトップは、これでもかっていうほど肌の白さと胸の大きさを強調させ、洗いざらしのスキニーデニムは、腰から足首にかけての優雅な女性らしい曲線を浮かび上がらせていた。

 さらに膝からももにかけてクラッシュ加工されてできた隙間から覗く素肌にはそれほど露出部分が多いわけでもないのにドギマギしてしまう。そして、肩まで伸びている黒髪は、ポニーテールにして揺らし、どこか人をからかっているような気さえしていた。

 

「昨日もそうなのだけれど、月曜も食事に招待されているだから今日もとなると三日連続になってしまうわ」

 

「どうせうちに私を送ってから帰るのだから、食事をしてから帰ってもいいじゃない。それにあなた達も料理をする手間が省けるのだから、勉強する時間も増えるんじゃないかな」

 

 雪乃は陽乃さんが勉強ネタを先回りしてふさいでしまった為に、きゅっと唇を噛んでいる。

 姉に反論しても見事に潰された妹の雪ノ下雪乃は、姉とは対称的な落ち着きみせる夏の高原がよく似合いそうな服装をしていた。

 アイボリーホワイトのワンピースは、胸元のレースとスカート部分のこげ茶色のラインがアクセントになっていた。膝元まで伸びたスカートは、夏を強く意識させるミニスカートのような華やかさはないが、その分、風が通り抜けているたびに揺れるスカートの裾がなにか見てはいけないようなものに思えて、目をそらしてしまう。

 ただ、背中の部分だけは、大胆に肌を見せていた。腰まで届く光り輝く黒髪が、その白い素肌を守るようにガードを固めているのが、彼氏としては心強く思えてしまう。

 俺も雪乃も、雪乃の母との約束によって海外留学をしなくてはならなくなり今まで以上に勉強しなくてはならなくなった。とくに英語での講義を受けねばならなくなるわけで、英語力向上はさしせまった最優先課題といえる。

 ましてや、雪乃に関しては、三年次に経済学部に学部変更しなければならないのでそのための試験対策もせねばならなく、俺以上に大変そうであった。

 

「そうなのだけれど……」

 

「それに今日も両親は帰ってくるのが遅いし、気兼ねなくゆっくりしていけるわよ」

 

「ええ……」

 

 もう全てに関して先回りされているな。

 勉強に、雪乃の母親。俺達が実家に近寄りにくくなる要因をすべて排除されていては断ることなどできないだろう。

 

「あのぅ」

 

「なにかな?」

 

「今日もご両親いらっしゃらないんですか?」

 

 陽乃さん相手では雪乃だけでは分が悪い。俺がいたとしてもたいした戦力にはならないけれど、いないよりはなしか。二人に追いついて横に並んで歩くと、美人姉妹を眺めていた通行人が俺の事を見て訝しげな表情を浮かべてしまう。

 たしかに、この二人と見比べてしまえば、その落差に驚くかもしれない。だからといって、俺もいたって夏という服装をして、おかしくはないはずなのに。

 リブ織りの薄水色のTシャツに、七分丈のバギーデニム。それとスニーカー。いたって平均レベルのファッションに、平均レベルを少し超えるルックス。

 だから、俺の事を見て怪訝な顔をされるようなレベルではないはずなのだけれど、やはり俺が一緒にいる二人のレベルが遥か上を突き抜けまくっているのが原因なのだろう。

 

「ああ、そうね。今日もっていうか、たいていいないわよ」

 

「え?」

 

「雪乃ちゃんから聞いていないの?」

 

「何をですか」

 

「うちは両親ともに仕事で忙しいから、自宅で食事をするのは珍しいのよ」

 

「まあ、うちも共働きですから、同じような物ですよ」

 

「そう? でも、うちの場合は、極端に干渉してくるわりに、普段はほったらかしなのよね。どっちか一方に偏ってくれた方が子供としては対処しやすいんだけどな」

 

「どこの家庭でも同じですよ。全てが満遍なく均一にだなんて不可能ですから」

 

「それもそうね。……どうしたの雪乃ちゃん?」

 

「姉さん。ごめんなさい」

 

「どうしたの雪乃ちゃん? そんな神妙な顔をして」

 

 振りかえると、俺と陽乃さんに置いて行かれた雪乃がポツリと立ち止まっていた。やや俯き加減なのでよくは見えないが、表情を曇らせているようにも見える。俺は訳がわからず、陽乃さんに助けを求めようと視線を動かすと、陽乃さんは、元来た道を引き返し、雪乃の元へと歩み進めていた。

 

「雪乃ちゃんが気にすることなんて何もないのよ。私が好きでやってるんだから、あなたは好きなように生きなさい」

 

「それはできないわ。私は一度はあの家から逃げ出したけれど、それでも姉さんに全てを押しつけることなんてできない」

 

 陽乃さんの政略結婚はなくなったが、それでも雪ノ下家をしょっていかなければならないことには違いはない。自由に結婚できるようになった分陽乃さんの責任は増したともいえる。勝手に結婚するのだから、政略結婚に劣らないくらいの成果をあげなくてはならないだろう。

 つまり、言葉通りの自由なんて存在しない。

 自由であるからこそ責任が生じ、責任を果たすからこそ自由を得られる。一見矛盾しているように聞こえるが、そもそも自由なんてものは根源的には存在しないのだからしょうがないと思える。

 たとえば、空を自由に飛ぶ鳥であっても、自由に空を飛ぶ事は出来ない。重力の影響は受けるし、体力がなくなれば羽ばたく事も出来ない。しかも、空を飛んでいるときは外敵に身を晒すわけなのだから、危険も伴ってしまう。だったら、自由とは何かという哲学的な思考に突入しそうだが、そこまで俺は暇人でもないし、哲学が好きなわけでもない。

 ただ、なんとなく「自由」という言葉は「権利」という言葉の方があっている気がするのは俺が捻くれているからだろうか。

 

「私は十分雪乃ちゃんに助けられているわ。だから責任を感じる必要なんてなにもないのに。それに、これからは比企谷君も助けてくれるんでしょ?」

 

「自分ができることならやりますよ」

 

「だそうよ。ね、だから雪乃ちゃんは今まで通りでいいの」

 

「でも、あのただでかいだけの家で一人でずっと食事をしてきたのでしょ。それに、姉さんが料理が好きなのも知っていたわ。でも、私はそれを知らないふりをしていた。食べてくれる相手もいないのにずっと一人で作り続ける孤独を見ないふりをしていた」

 

 そっか。陽乃さんが誰かの為に食事を作った事がないって言っていた意味がこれで理解できた。料理をするようになって最初に食べてもらう相手といったら、一緒に生活している親か兄弟が最初の相手になるだろう。

 だけど、もともと家政婦が雪ノ下家にはいるわけだから、陽乃さんが料理をする必要はない。それでも陽乃さんが料理をしたとしても、食べてくれる相手が仕事で家に帰ってこないのならば、誰かの為に料理をすることなどないはずだ。

 また、雪乃も実家を出てしまって家にはいない。ましてや得られないのならば最初から手に入れる事を諦めてしまうことに慣れてしまった陽乃さんだ。無駄な期待などしないで、最初から誰かの為に料理をすることを諦めていてもおかしくはないと思えた。

 この位置からでは陽乃さんの後姿しか見えない。苦笑いでもしているのだろうか。それとも優しく微笑んでいるのかもしれない。

 ただ、これだけは言える。今まで作り上げてきた理想の雪ノ下陽乃を演じる為に被ってきた作り笑いだけはしていないはずだ。

 

「それはそれで仕方がないわ。そういう雪乃ちゃんの選択も私は受け入れていたんだし」

 

「でもっ!」

 

「はいはい、この話はここまでね。だって、今、私は幸せなのよ。だから、過去がどうであろうと問題ないわ」

 

 そう雪乃に告げると、陽乃さんは俺の方に振りかえる。振りかえったその顔は晴れ晴れとしているのだが、それも見間違えかと思うくらいほんのわずかな時間で、……今はニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。

 

「ねぇ~、比企谷くぅ~ん」

 

 甘い声色で俺を呼ぶと、つかつかと俺に近寄ってきて、そのまま俺の腕に体をからませ、雪乃をおいて大学へと歩き出す。甘い声色と同等以上の陽乃さんの甘い香りが俺を駄目にしそうにした。

 俺はてくてくと陽乃さんに引きつられるまま歩み出すが、雪乃の声がどうにか意識を現実につなぎとめてくれる。

 

「ちょっと姉さん。八幡から離れなさい」

 

「だって、そろそろ大学に向かわないと遅くなっちゃうでしょ?」

 

「それと八幡に抱きつくのとは関係ないわ」

 

「だってだって、比企谷君の腕の絡み心地っていうの? なんかだ落ち着くんですもの。さっきまでおも~くて、くら~いお話していてなんだかお姉ちゃん精神的に疲れちゃった」

 

「だからといって八幡に抱きついていい理由にはならないわ」

 

「えぇ~。これから大学行くんだし、ちょっとは回復しないとやってけないでしょ。だ・か・ら、栄養補給よ」

 

 首をひねって後ろにいる雪乃を見ると、陽乃さんの言葉にあっけにとられ口をぽかんとあけていた。しかし、すぐさま唇を強く噛み締めると、つかつかと早足で俺達に追いつくてくる。

 俺の隣まで来ると、空いているもう片方の腕に自分の腕を絡ませて自分が本来いるべき場所を陽乃さんに見せつけようとする。といっても、その雪乃の可愛らしい自己主張さえ、陽乃さんが雪乃をからかう為の材料にしてしまいそうであったが。

 

「姉さんは普段からエネルギー過剰なのだから、多少いつもより少ない方がバランスがとれて周りに迷惑もかけなくなるからちょうどいいと思うわ」

 

「その理論だと、普段と違うバランスということで、いつも以上にピーキーになって、周りに迷惑をかけてしまうリスクが考慮されていないんじゃない?」

 

 雪乃も陽乃さんもお互いに話がヒートアップしていっているはずなのに、俺の腕に自分の臭いを染み込ませるべく腕と胸を擦りつけることを忘れてはいない。頭と体に二つの脳があるかのように、理屈と本能を使い分けているところが姉妹共に似ていると思うが、朝からこの二人に付き合う俺のエネルギー残量も考慮してほしい。

 なにせこの二人が表面上は争ってはいるけれど、実は仲睦まじく、普通とは違う姉妹関係を築きあげている。それは俺としても嬉しい事だ。だが二人のじゃれあいは、俺の精神もすりへらす事も忘れないでくださると八幡も大変助かります。

 

「姉さんがもたらす周りへの被害は、常に極限値なのだから、これ以上の被害は考慮する必要はないわ。だから、リスクを考慮する必要性はないといえるのではなくて」

 

「えぇ~。雪乃ちゃん酷い。私の事を台風みたいな存在だと認識していたのね。それは多少は周りに迷惑はかけはしているけど、それでも学園生活を楽しむ潤滑油みたいなものじゃない。それなのに、これ以上のリスクを考える必要がないって断言するなんて、酷過ぎるわ」

 

 と、悲しむふりをしながら俺に体重を預けてくるのはやめてください。

 ただでさえ夏の装いで薄着なのに、こうまで肌をこすりつけられては、意識しないように意識しても意味をなしえません。雪乃以上に女性らしさを強調する胸や体の柔らかさが俺に直撃して、防御不能です。

 しかも、陽乃さんの様子を見て、隣の国の雪乃さまは核ミサイルの発射装置に指をのせていますよ。

 

「姉さんは周りに迷惑をかけているという自覚があるのならば、少しは自重すべきね」

 

 そろそろ大学の近くまでやってきた事もあって、電車通学の連中の姿も見え始めている。このままだと、ただでさえ大学で有名な雪乃下姉妹なのに、それが一人の男を挟んで言いあいなんて、格好のゴシップネタにされてしまう。

 学園生活に潤いをもたせる潤滑油として俺を犠牲にするのは、俺にとってはた迷惑なことなので、できればやめていただきたい。この辺で二人を言い争いを終わらせないとな。

 

「この辺で終わりにしときましょう。そろそろ大学に着きますし、人も増えてきたので」

 

「そうね」

 

 雪乃は俺に指摘にすぐさま反応して、耳を真っ赤に染め上げる。しかし、もう一方の陽乃さんといえば、不敵な笑みをうかべ、さらに攻撃的な瞳を輝かせてしまっていた。

 

「そうよねぇ。言葉なんていつでも嘘をつけるもの。その点体は正直よね」

 

 陽乃さんは俺の腕に絡みつき、ぐいぐいと豊満な胸を押しつけてくるものだから、気になってしょうがない。視線を斜め下に向けてはいけないと堅い決意をしても、甘い誘惑がその決意を崩壊させる。それでも幾度も決意を再構築させてはいるものの、視線がその胸に釘つけになるのも時間の問題であった。

 

「なにを言いたいのかしら」

 

 引きつった笑顔を見せる雪乃に、俺はもはや打てる手はないと降参する。もはや核戦争に突入とは思いもしなかった。

 核なんて抑止力程度のもので、実際に打ち合いなんかしないから効果があるのに実際の撃ち合いになったら、どんな結果になるかわかったものじゃない。

 

「そうねえ……」

 

 陽乃さんは自分の胸に視線を向けてから、雪乃の胸に視線を持っていく。

 俺もその視線につられてしまい、陽乃さんの視線が雪乃の胸から陽乃さんの胸に戻っていくので、つい陽乃さんの胸を見てしまった。

 でかい! そして、柔らかい。

 柔らかいといっても適度の弾力があり、張りも最高品質だった。その魅惑の胸が俺の腕によって形を変えているのだから、俺の意識は目と腕に全てを持っていかれていた。

 だから、雪乃の痛い視線に気がつくわけもなく……。

 

「どちらの体に魅力を感じているかなんて、言葉にしなくてもいいってことよ」

 

「それは私に魅力がないといいたいのかしら?」

 

「そんなこと言っていないわ」

 

「そうかしら?」

 

「そうよ。だって、女の私から見ても雪乃ちゃんは綺麗よ。でも、私と比べるとどうなのかなって話なのよ」

 

「それは、私は姉さんより劣るといいたいのかしら?」

 

「だ・か・ら、そうじゃないのよ。比企谷君がどちらが好みかっていうのが問題でしょ?」

 

 そう陽乃さんは呟くと、下から俺の顔を覗き込む。

 俺は二人の言い争いを聞きながらも、陽乃さんの胸から視線をはぎ取ることができずに鼻を伸ばしていたので、実に気まずかった。しかも、陽乃さんの視線から逃れようと視線を横にそらすと、そこには雪乃がじっと見つめているのだから、さらに気まずい。

 俺にどうしろっていうんだ。

 俺に非がないわけではないが、俺を挟んで核戦争を勃発させないでほしい。

 

「ねえ、八幡。私の方が魅力的よね?」

 

「そうかしら? 雪乃ちゃんの慎ましすぎるものよりも、自己主張をはっきりさせている私の方が好きよね?」

 

「あの……、その」

 

 俺はこの場からとりあえず離脱しようと思いをはせるが、いかんせ両腕をしっかりと腕と胸とで挟み込まれているのだから、逃げる事はできない。都合よく由比ヶ浜あたりが乱入してくれれば、逃げるチャンスができそうかもと淡い期待を抱くが、人生甘くはなかった。

 むしろ厳しい現実が俺を路頭に迷わす。

 腕からは甘美な誘惑が俺を酔わせているのに、俺に向けられている視線は俺の命を削るのだから、釣り合いが取れていないんじゃないかって、俺の運命を呪いそうであった。

 

「八幡」

 

 俺をきっと睨む雪乃にうろたえてしまう。

 理性では雪乃の言い分が正しいって理解はしている。それでも陽乃さんの攻撃はそれを上回っていた。だが、陽乃さんは挑発的な表情を一転させ、いつものひょうひょうとした顔にもどすととんでもない事実を俺に突き付けてくる。

 

「さてと、大学に着いたし、そろそろ終わりにしようか」

 

 俺は二人に連行されていた為に気がつかないでいたが、俺達は既に大学の敷地内に入っていた。だから周りを見渡すと、俺達に近づいてはこないが、遠くから俺達の様子を伺う目が数多く存在していた。

 

「あっ」

 

 雪乃は小さく吐息をもらすと、自分が置かれている現状を把握して首を小さく縮こませる。

 頬はすでに赤く染め上げてはいるが、俺の腕を放さないところをみると、雪乃の負けず嫌いの性格がよく反映されていた。

 

「雪乃ちゃんは戦意喪失みたいだし、比企谷君もこれ以上の惨劇は困るでしょ?」

 

「俺としてはこうなるのがわかっているのだから、初めから遠慮してくださると大変助かるんですけどね」

 

「それは無理よ。だって、これが姉妹のコミュニケーションだもの」

 

 俺はその異常な姉妹関係に深い深いため息をつくしかなかった。

 その深すぎるため息さえも陽乃さんを満足させる一動作にすぎないようだが。

 

「それはそうと、比企谷君は午後からうちの父の所に行くんでしょ?」

 

「あ、はい」

 

 落差がある会話に俺は陽乃さんについていけなくなりそうになる。

 今まで散々核戦争さながらの話をしていたのに、今度は真面目な話なのだから。それでも、陽乃さんにとっては、どちらも同列の内容なのかもしれない。

 

「総武家の正式契約の話し合いに同席したいだなんて、変わってるわね」

 

「俺が関わった話ですから、ちゃんと結末まで見ておきたいんだすよ」

 

「そうはいっても、すでに細かい所まで話は詰めてあるから、今日は最終確認みたいなものらしいわよ」

 

「それは俺も伺ってますよ。でも、見ておきたいんです」

 

「そう? だったらしっかり見ておきなさいね。父もあなたの事を期待しているみたいだし」

 

「あまり期待されても困るんですけどね」

 

「期待されないよりはいいじゃない」

 

「そうよ。あなたは自分がしてきたことを誇りに思うべきよ」

 

「そうは言ってもなぁ」

 

 なにせ、今回の契約は俺が口を出したせいで動きだしたかのように見えても、裏では初めから雪乃の父が手を貸してくれているふしがあった。俺は親父さんの筋書き通りに動いていた気がしてしょうがない。

 だから、それを見極める為にも今日の会談に出席したかった。もちろん今日の会談で親父さんがぼろを出すとは到底思えないが。

 

「まっ、それが比企谷君らしいところなんだから、いいんじゃない? 雪乃ちゃんは、しっかりと私が預かっておくから安心してね」

 

「預かるではなくて、送っていくの間違いではなくて? いえ、むしろ、車は私が運転するのだから、姉さんを預かるのは私の方だと思うわ」

 

 たしかに陽乃さんの言いようは間違っているはずだった。

 

「ううん。間違ってないわよ。だって、会談って夜までやるわけじゃないし今日の会談はすぐに終わるはずよ。だから、うちで食事していく時間もあるはずだから、雪乃ちゃんはうちで預かっておくねってことよ」

 

 陽乃さんはさも当然っていう顔をみせるので、俺も雪乃も肩を落とすことしかできなかった。俺達はこれ以上の言い争いは無駄だと実感していた。

 初夏の陽気が俺達から体力を容赦なくじわじわと奪っていく。これから日が高く昇り、昼前には焼けるような日差しが降り注いでくるはずだが、俺達の隣にいる太陽は、朝から元気良すぎるようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから大変不評である弥生パートです。読み飛ばしても本編には影響ありません。

22000字ほどあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の雪乃と陽乃さんとの一悶着はあったが、それ以外はいたって平穏な一日が過ぎてゆく。俺の隣に座っている由比ヶ浜は、一日中ボケボケっとしており、つい先ほど食後の眠気に敗北してお昼寝タイムに突入していた。

 そう、俺の周りはちょっとしたいさかいがあっても、もっとも原因は陽乃さんで攻撃対象は雪乃だが、とても緩やかな日常を取り戻しつつあった。

 ただ、今日の午後に限っては、俺は頭を悩ましていた。どう考えてもスケジュールがきつすぎる。というか時間が足りない。この後ある午後一の橘教授の講義を終えれば今日の講義は全て終了する。

 講義は終了するけれど、その後の予定がないわけではない。とても重要な予定が組まれていた。その予定とは雪乃の親父さんに会いに行くのだが、橘教授の講義を最後まで受講してしまうと、どうしても遅刻してしまう。

 そもそも講義日程は毎回同じなのだから親父さんに頼んで最初から約束の時間をずらしてもらうべきなのだが、今回の会談は俺が急遽同席させてもらえるように頭を下げてお願いしたもので、俺の都合で会談時間を変更することはできない。

 今回の会談はラーメン店総武家の移転問題で、俺がほんのわずかながらも関わってしまったわけで、その行く末を見届けたく本日の契約締結に立ち会いたいと思ったわけだ。細かい契約内容の話し合いは終わっているが、契約が完了するまでは安心する事はできない。

 まあ相手が雪乃の親父さんなわけで信用できないわけではないが、それでも最後くらいは見ておきたかった。

 というわけで、由比ヶ浜が隣で熟睡している中どうやったら遅刻しないですむか俺と悪友の弥生昴は頭を悩ましていた。

 

「ほら学年次席。頭いいんだからちょっとはましなアイディアをだせ」

 

「だったら学年主席のお前が知恵を絞ってよ。もうさ諦めなよ。どう考えたって電車の時間に間に合わないと思うよ」

 

 俺の理不尽な要請にいたって冷静に反論してくる弥生昴。

 背は俺よりも高く、180くらいはあり、少々やせ気味なのも、クールなルックスのプラス要素にしかならない。弥生本人が嫌がっているくせ毛も、耳を隠すくらいまで伸びた黒髪は緩やかなウェーブを作り出し、その独特な雰囲気にさらなる加点を与えてしまう。

 カルバンクラインのカットソーも、ディーゼルのデニムも自分おしゃれ頑張ってます感がまるっきりないのも好印象を与えている。

 まあ要するに、服装には肩に力が入っていないのにうまくまとめられていて、こいつの話しやすい性格がなかったら、相手にしたくない奴筆頭だったはずだった。

 

「せめて20分早く講義が終わってくれたらな」

 

「無理だって。それだったら講義後の小テストを受けなければ20分稼げるんじゃないかな」

 

「そんなことしたら出席点もらえないだろ。お前馬鹿だろ」

 

「はいはい。主席様よりは馬鹿ですって」

 

「お前俺を馬鹿にしているだろ?」

 

「あっ、わかる? でも正確に言うんなら、馬鹿にしているんじゃなくて、いつも馬鹿にしているんだけどね」

 

「お前なぁ。真正の馬鹿だったら俺の隣で寝てるから、そいつに言ってやれ。でも何度馬鹿だって教えたとしても、すぐに忘れてしまうけどな」

 

「由比ヶ浜さんはいいんだよ。馬鹿じゃないって。むしろ天使だと思うな」

 

「はぁ……」

 

「女の子は可愛ければ問題ないよ」

 

「だったら、俺の代わりにこいつの勉強みてやれよ。可愛ければ問題ないんだろ?」

 

「僕は忙しいから無理だよ。比企谷も知ってるでしょ?」

 

 こいつは俺と同じで、講義終わるとすぐに帰るんだよなぁ。

 友達がいないってわけでもないし、けっこういろんな奴と話したりしてる。

 そう、由比ヶ浜や雪乃レベルの有名人であり、2年の経済学部生で弥生昴のことを知らない奴はほとんどいないんじゃないかってくらいの有名人だった。いやむしろ由比ヶ浜や雪乃の場合は相手が一方的に知っているだけの場合がほとんだが、弥生昴の場合はわずかな会話であっても、会話をした事があるからこそ相手が弥生昴のことを知っていると言ったほうがいい。

 それでも目立つ容姿もあって会話をした事がなくとも、初めから弥生昴の事を相手は知っていたのかもしれないが。ただ、だからといって特別に親しい友達がいるってわけでもないから不思議だと思っていた。

 

「俺だって忙しいんだよ。じゃああれか? もしお前に時間の余裕があったら由比ヶ浜の面倒みてやるのか?」

 

 弥生の顔が微妙に引きつっている。ポーカーフェイスを装うとしてはいるが、残念な事に成功してはいないみたいだ。

 こいつはむしろ感情のコントロールがうまい方なんだよな。その弥生が感情を制御できないとは、恐るべし由比ヶ浜結衣。

 

「ごめん、弥生。泣くなよ」

 

「泣いてないよ。僕は断じて泣いてないからな」

 

「いいからいいから。俺が悪かった。だからすまん」

 

 俺は弥生の方に体の向きを変えると、軽く頭を下げて謝罪する。

 

「いいんだって。比企谷の日ごろの苦労を茶化すような発言をした僕の方も悪かったんだ。だから、僕の方こそごめんね」

 

 弥生は俺の肩に手をかけ、全く涙を浮かべていない瞳を俺に向ける。俺はそんな馬鹿げた猿芝居をしている暇なんてないのに、つい後ろの観客の為に演劇を演じてしまった。

 

「もういいかな?」

 

 振り向かなくてもわかる。にっこり笑いながら怒り狂ってる由比ヶ浜がいるって。

 だって、俺の肩を掴む手が肩に食い込んでいるもの。

 ぎしぎしと指を骨に食い込ませながら、鎖骨をほじるのはやめてください! 非常に痛いですっ!

 いや、まじでやめて。手がしびれてきてるよっ。

 目の前の弥生の顔が青ざめていくのが、よりいっそう精神にダメージを与えてきた。

 

「いつっ……。ギブギブ。まじで痛いからっ!」

 

 首を後ろに回、振りかえると、やはり般若のような笑顔の由比ヶ浜が出迎える。

 弥生がいう天使こと由比ヶ浜結衣はみごとに堕天していた。すらりと伸びた健康的な腕に絡まる細いシルバーチェーンのブレスレットさえなにか呪術が刻まれているんじゃないかって疑ってしまう。

 まあ、いくら肩まで伸びた茶色い髪を揺らして怒ろうとも、人を安心させる柔和な顔つきは、いくら怒っていても損なわれてはいない。けれど、いまだ内に秘めた由比ヶ浜の怒りは収まらないようで、俺の顔を見たことでさらに手の力を強めてしまった。

 

「ごめん、由比ヶ浜。本当にシャレにならないほど痛いからっ」

 

「ほんとうに反省してる?」

 

 そう可愛らしく俺の顔色を下から覗き込むように問いながらも、全く肩に加える力は衰える事はない。むしろ由比ヶ浜の口がひくついていることからしても、少しも怒りは衰えていないようだった。

 

「反省してるって。飼い犬は最後まで面倒見ないといけないからな」

 

「ペットじゃないし……」

 

 ちょっと落ち込んだ表情をして俯いて可憐な少女を演出しても、まったく手の力弱めていないのは、どうしてですかっ?

 なにがまずかったんだ? 反省してるとか、謝罪の言葉じゃいけないのか?

 俺はどうすればいいか困り果て、わらにもすがる思いで弥生に助けを求める視線を送る。

 すると、さすが弥生。伊達に学年次席をやってないすばらしさ。俺のSOSを感じ取って、俺の耳元に助言を囁いてくれた。

 いや、たぶん、俺の涙目を見て、本気で心配してくれただけだろうけど……。

 

「ねえ比企谷。由比ヶ浜さんは謝罪を求めているじゃないと思うよ」

 

 謝罪じゃないって、なんだよ? 反省しているかって、由比ヶ浜は聞いているんだぞ。それなのに、俺からどんな言葉を引き出したいんだ?

 …………ふぅ~。やっぱあれかな?

 俺が由比ヶ浜の事を投げ出そうとした事か?

 俺が言った発言を思い返してみても、たいした数の発言をしたわけでもない。だから、必然的に候補は絞られてしまう。候補としては二つしかない。

 由比ヶ浜を馬鹿だと認定した事。

 そして、もうひとつは弥生に由比ヶ浜に勉強教えるのを変わってほしいって言った事だ。

 だとしたら、やはり後者の方で怒ってるとしか思えない。怒っているというよりは、悲しんでいるのかもな。だから、俺が謝罪しても許してくれないわけか。

 

「俺はお前の事を重荷にだなんて思ってない。むしろこんな俺に飽きずに付きまとってくれて感謝してるくらいだ。だから、これからも俺の馬鹿な行動に付き合ってほしい」

 

 やばっ。恥ずかしすぎる発言を言い終わって、そこで正気に戻ってしまた。

 なんだかだ、教室内が静かすぎるなぁって見渡すと、みんな俺達を注目しているし。しかも、目の前の由比ヶ浜ときたら、はにかんで顔がうっすらと赤く染まってるじゃないか。

 これはあれか。青春の一ページという名の黒歴史確定か?

 弥生なんか、うんうんと頷きながらも俺から少し距離とってるやがる。

 

「ごほん」

 

 俺がわざとらしく咳払いをすると、俺達に集まっていた視線はどうにかばらけ始める。

 もちろん注目はされ続けてはいるけどな。それでも、直接見ようとしている奴はいなくなったからよしとするか。

 

「まあ、いいかな。……うん」

 

 そう由比ヶ浜は呟き一人納得すると、俺の方に詰め寄ってきて俺がさっきまで弥生と格闘していたノートを覗きこんできた。

 

「さっきから何をやってたの? ヒッキーこの後何かあるの?」

 

 寝てたと思ったら、寝たふりして聞いていたのかよ。それでも半分くらいは寝てたみたいだけど。

 

「ああ、これね。比企谷が授業の後に約束しているみたいなんだけど、どうしても間に合わないんだってさ。だから、どうやったら間に合うか考えてるんだよ」

 

「へぇ~」

 

 由比ヶ浜はさらにノートに書かれている電車の時刻表などを見ようと俺にぴたっとくっついてくる。俺の腕に柔らかいふくらみがぶつかって、その形をかえてくるものだから気が気じゃない。

 さらには俺の腕に沿って由比ヶ浜の体の曲線が伝わってきて、その女性らしい適度に引き締まったウエストラインとか、形のいい大きな胸だとか、由比ヶ浜結衣を形作っている全ての女性らしさが俺の腕が記憶してしまう。

 俺がその甘美の測定から逃れようと腕を動かそうと考えはしたが、いかんせ由比ヶ浜は俺にくっついているわで、腕を動かせば一度は由比ヶ浜の方に腕を動かして今以上に由比ヶ浜の体を感じ取らねばならない。

 その時俺はそのまま腕を逃がすことができるだろうか。今でさえギリギリなのに、これ以上由比ヶ浜を感じ取ってしまったら甘い沼地に望んで沈んでいってしまいそうだった。

 

「だけどさ、そんな都合がいい方法なんてなくて困ってるんだよ」

 

 フリーズしている俺越しで話を進める二人なのだが、弥生は俺が困ってるのわかってるんだから助けてほしいものだ。由比ヶ浜は無意識なのか、馬鹿なのか、意識してるのかわからないが、俺から離れてくれとは言いづらいし。

 

「だったら授業休んじゃえばいいんじゃない? ヒッキーこの授業休んだことないし、期末試験もどうせいい点とるんでしょ?」

 

「そうなんだよね。俺もそう進言したんだけど、頑固でさ」

 

「へえ……」

 

 由比ヶ浜は俺が勉強熱心なのを感心したのか、俺の横顔を見つめてくる。しかし、俺の顔をしばらくきょとんとみつめると、俺達のあまりにも近すぎる距離に気が付いたのか、頬を染めて気持ち程度だが距離をとる。

 俺の顔が不自然なほど赤くなっていただろうから、さすがの由比ヶ浜でも気が付いたんだろう。これで少しは平常心を取り戻せたし、話に参加できるな。

 あと、俺と由比ヶ浜がくっつきすぎていた事は弥生もスルーしてくれたし、あえて由比ヶ浜に指摘してどつぼにはまるくらいなら、黙ってた方がいいな。

 

「橘教授の授業は休みたくても休めないだろ。だから困ってるんだ」

 

「へぇ……。そんなに橘先生の授業好きだったの?」

 

「好きなわけあるか。むしろ必修科目じゃなかったらとってない」

 

「まあ、ね。あたしも必修じゃなかったらとってなかったかも」

 

「だろ? 毎回授業の後に小テストやるなんて、この講義以外だと聞いたことないぞ」

 

「Dクラスの英語もそうだよ」

 

「あ、そっか。自分の講義じゃないからど忘れしてた」

 

「でも、そうかもね。自分が受けてない講義だとなんか実感わかないというか」

 

「比企谷が授業休むのに躊躇してるのって小テストの授業点でしょ?」

 

「まあ、な」

 

 雪乃の母に大学での成績だけでなく大学院での留学も約束しちまった手前、小さな失点だろうととりこぼしたくはない。実際問題今回休んだとしても大したマイナス点にはならないだろう。しかし、小さな失点を仕方ないで諦めるくせを付けたくはなかった。

 一度だけの甘えが次の甘えをよんでしまう気がしてならない。小さな失点も積み上がれば大きな失点になってしまい、ここぞというときに取り返しのつかない失敗に繋がってしまう。

 俺と雪乃の人生がかかっている大事な時期に、精神面での緩みは作りたくはなかった。

 

「橘教授も意地が悪いよね。小テストの答案が出席票のかわりで、しかも、授業の開始の時しか答案用紙を配らないしさ」

 

「あっ、それ。女子の間でも評判悪いかも。遅刻したら遅刻専用の答案用紙くれるし、あまりにも遅くきたら答案用紙くれないもんね」

 

「俺はその辺については合理的だなって思うぞ」

 

「なんで?」

 

由比ヶ浜は俺の事を理解者だと思っていたせいか、裏切られたと感じたらしい。

別に裏切っちゃいないが、よくできたシステムだとは思ってしまう。

 

「10分遅刻したやつと、1時間遅刻したやつを同じ土俵に上げるんじゃ不公平だろ」

 

「そうだけどさぁ……」

 

 いまいち納得できていない由比ヶ浜はまだ何か言いたげであった。それでも俺が話を進めるてしまうから、これ以上の不満は押しとどめたようだ。

 

「たしかに橘教授は合理的だよ」

 

「そうなの?」

 

「お前、最初の講義の時の単位評価の説明聞いてなかったのか?」

 

「たぶん聞いてたと思うけど、ほとんど覚えてないかも」

 

「はぁ……。お前なぁ、自分が受ける講義の評価方法くらい知っとけよ」

 

「えぇ~。だって、わからなくなったらヒッキーに聞けばいいじゃん」

 

 どうなってるんだよ、こいつの思考構造。大学入ってから、いや大学受験の時から面倒見過ぎたのが悪かったのか。こいつに頼られるのは悪い気はしないが、だけどそれが当然になって自分でできなくなってしまうのは悪影響すぎるぞ。

 

「大丈夫だって、比企谷。由比ヶ浜さんは自分一人でもやっていけるって」

 

「そうか?」

 

「比企谷が一番そばでみてるんでしょ?」

 

「まあ、そうかもな」

 

 なんで弥生は俺が考えていることがわかるんだよ。

 まあ、もしかしたらほんのわずかだが顔に出たかもしれない。それでも些細な変化に気がつくなんて、普通できないって。たしかにこいつの人を見る目というか、雰囲気を感じ取る力はたぶん由比ヶ浜を上回ると思う。由比ヶ浜が直感とかのなんとなくの感覚だとしたら、こいつのは理詰めの論理的思考だ。

 ある意味陽乃さん以上に手ごわい相手なんだけど、どうしていつも俺の側にいるのか疑問に思う事がある。

 俺が知っている弥生昴は、俺と同じようにある意味一人でいることに慣れている。でも、だからといって社交的でないわけではない。

 むしろこの学部のほとんどの生徒が弥生と一度くらいは話をしているはずだ。うちの学部に何人いるかだなんて正確な人数は知らない。それでも少なくない人数がいるわけで、波長が合わない奴が必ずといっていいほど出てくるのが当たり前だ。

 人当たりがいい由比ヶ浜でさえ苦手としている人物がいるし、本人は隠しているようだが、誰だって苦手なやつがいるのが当たり前だ。

 それなのにこの弥生昴っていう男は、相手がどんなやつであっても会話に潜り込んでいってしまう。これは一つの才能だって誉めたたえるべきであろう。

 しかしだ。そんな人間関係のスペシャリストのはずなのに、こいつと親しくしている友人というものを見たことがない。ある意味誰とでも仲良く会話ができるが、それはうわべだけだから成立してしまう。

 本音を言わず、相手の意見に逆らわずにどんな場面でも感情をコントトールしているのなら、それは友人関係ではなく単なる交渉相手としか見ていないともいえるかもしれない。

 そんな男が何故俺の側にいることが多いのだろうか?

 

「比企谷?」

 

 やばい。普段疑問に思ってたけど、考えないようにしていた事を考えてしまった。

 

「すまない。ちょっとぼ~っとしてただけだ」

 

「そう?」

 

 弥生はとくに気にする事もなく再び由比ヶ浜の相手へと戻っていく。ただ、本当に「なにも気にする事もなかったか」疑わしいが。

 

「で、ヒッキー。橘教授の評価方法ってなんなの?」

 

「ああ、そうだったな。俺が詳しく教えてやるから、今度こそ覚えておけよ」

 

「……善処します」

 

「ふぅ・・・、まっいっか」

 

 こいつに教えるのは犬に芸を覚えさせるようにするより難しいって理解しているだろ、俺。だから我慢だ。頑張れ、俺。

 

「小テストが出席の確認の代りだっていうのは、知ってるだろ?」

 

「うん」

 

「ふつうの授業の評価方法は授業点の割合の大小があるにせよ、それほどウェートが大きいわけではない。レポートとかもあるけど、橘教授ほど明確に数値化されてないんだよ」

 

「へぇ……、そなんだ」

 

「そうなんだよ。数値化されているせいで、今の自分の評価が丸見えになるから嫌だっていう奴もいるはずだ」

 

「へぇ、自分で計算してる人もいるんだ」

 

「もう、いい……」

 

「えっ? ちゃんと話してよ。しっかりと聞いているでしょ」

 

 こういう奴だったよ。何も考えない奴だって、わかってたさ。

 

「いや、違う。一人事だから気にするな。ちょっと気になって事があってそれを急に思いだして、おもいっきり沈んでただけだ」

 

「ふぅ~ん。あるよねそういう事。あたしも急に昨日見たテレビの事を思い出して授業中に笑いだしそうになる事がしょっちゅうあるもん」

 

「そ……そうか」

 

 顔が引きつりそうになるのを強制的に押しとどめて話を元に戻すことにする。

 お前の事で悩んでたんだよって、両手でこいつの頭を掴んで揺さぶりたい気持ち。あと数ミリで溢れ出そうだけど、どうにか保ちそうだ。だから、これ以上俺を刺激するなよ。

 

「で、だ。他に評価の内訳として、期末試験が5割。そして、授業点が5割になっている。もちろん授業点っていうのは小テストの点数が直接反映される。だから一回でも小テストを受けないとそれだけで総合評価が下がるんだよ」

 

「うん、面倒なんだね」

 

「面倒か? これほどすっきりと明確な評価方法はないと思うぞ。レポートなんか、字が汚いだけで評価下がりそうな気もするしな」

 

「まあ、今はパソコンで印刷したのが多いから、関係ないんじゃない?」

 

「そうかもな。評価方法の話に戻るけど、遅刻したやつはいくら小テスト受けても7割しか点数もらえないんだぞ。知ってたか?」

 

「そなんだ。遅刻すると答案用紙が違うから気にはなってたんだけど、今その疑問が解決したよ」

 

「お前今頃知ってどうするんだよ。もう期末試験始まるんだぞ」

 

「でも、私遅刻したことないし」

 

 たしかに遅刻した事はないか。この授業の前に必修科目があるし、通常ならば遅刻なんてする奴はいない。それでも遅刻する奴は出てくるから不思議だよな。

 

「遅刻はしないけど、授業中寝てるだろ」

 

「そう?」

 

「そうだよ」

 

 俺の追及から逃れようと由比ヶ浜は視線を横にそらそうとする。しかし俺は成長した。いや、成長せざるをえなかった。

 なにせこの野生の珍獣を大学に合格させるという至難の調教をしてきたのだ。由比ヶ浜の扱いには慣れざるをえなかった。

 俺はおもむろに由比ヶ浜に両手を伸ばすと、そのまま柔らかい頬を両手で思いっきりつまみ取り、強引に前を向かせる。不平を口にしてきているようだが、両頬をつままれている為に言葉にできないでいた。だから、目でも不満を訴えてはきているが、そんなのは無視だ。

 

「いっつも言ってるよな。授業はつまらない。とってもつまらなくて退屈だ。でも、あとで試験勉強に明け暮れるんなら、退屈な授業をしっかり聞いて、暇つぶしで授業をしっかり受けろって言ってるよな」

 

「ふぁい」

 

「どうせ勉強しなきゃいけないんだから、わざわざ授業に来てるんだから授業をしっかり聞けよ。後で自分で勉強するよりよっぽどわかりやすいだろ」

 

「ふぁい」

 

「わかったか」

 

「ふぁい」

 

 俺は由比ヶ浜が頷くのを確認すると、頬から手を放す。由比ヶ浜はたいして痛くはないはずなのに頬を手でさすりながら反抗的な目を向けてくる。

 もう一度手を両頬に伸ばすふりをすると、今度はようやくぎこちない笑顔で頷いてくれた。

 

「でもでもっ、あたしが隣で寝ていてもヒッキー起こしてくれないじゃん。寝てるのが駄目だったら、起こしてくれないヒッキーにだって問題あるんじゃない?」

 

 はぁ、まだ反抗するか。でも、俺にも言い分ってものがあるんだよな。

 

「橘教授の講義って小テストが授業ラスト20分に毎回あるからその分早口だし、授業の進行ペースも速いんだよ。だから、授業中はお前のおもりはできないっつーの」

 

「ああ、そんな感じするよね。なんか早すぎてついていけないっていうか」

 

 それはお前が授業内容を理解してないだけだろ。今それを指摘すると長くなるから言わんけど。

 

「あれ? でも、人気がない授業だけどいっつも教室は満席だよね? なんで?」

 

「お前、本当に大丈夫か?」

 

「なにが?」

 

 きょとんと首をかしげ、俺を見つめてくるその瞳には嘘偽りはないようだ。しかし、今はそれでは救われない。なにせ……。

 

「なにがって、この講義って必修科目だぞ。必修科目は一つでも落としたら留年しちまうんだよ。だからみんないやいやでも授業に真面目に出てるの」

 

「そなんだ」

 

 もういいや。ため息も出ない。

 俺はこれ以上由比ヶ浜を見ていると頭が痛くなりそうなので、視線を外す。すると、俺を見つめているもう一人の視線の人物に気がつく。正確に言うと、俺と由比ヶ浜を見つめる弥生の視線だったが。

 

「なに?」

 

「なんだよ、さっきからニヤニヤしてみてやがって」

 

「いやね、仲がいいなって」

 

「まあ、そうかもな。なんとなくだけど、憎めない奴だから、こうやって付き合いが長くなったのかもな」

 

「ちょっとヒッキー。きもい。そんな恥ずかしいセリフ真顔で言わないでよ」

 

「心外だな。きもいはないだろ」

 

「きもいから、きもいの。い~っだ」

 

 なんだよこいつ。たしかに昔の俺ならこんな恥ずかしいセリフは言わなかった。最近、いや、雪乃と付き合うようになって変わったのかもしれない。言葉にしなければ伝えられない事があるって知ったからな。

「仲がいいね」

 

「どうだか」

 

「でも、仲がいいところ悪いけど、このままだと会談に遅刻するよ」

 

 そうだった。

 どうやったら橘教授の授業を早く切り上げられるか弥生と相談していたのに、いつの間にか由比ヶ浜の相手をしていた話がそれてしまった。

 まったくこいつは和むんだけど、時と場合を選んでくれよ。さて、さてさてさてさて、どうしたものか?

 いくら考えようとも、都合よく打開案なんて思い浮かびやしやしない。いたずらに思考を繰り返しても、時間だけが過ぎ去ってゆくだけだ。

 ここは、由比ヶ浜のいう通り授業を欠席するか?

 ここで休んだとしてもだらだらと休み癖がつくとは思えないし、雪乃の父親の仕事現場をみることで、よりいっそう気を引き締められるとも考えられる。ならば、ここは潔く自主休講としてもいいかもしれない。

 ただ、諦めが悪すぎる俺はすぐさま代替案を模索してしまう。出席がそのまま単位評価に結び付いてしまう為に、病欠などの場合はしかるべく証明書を提出して、なおかつレポートも提出すれば小テストの8割の点数を貰える事が出来る。

 つまり満点のレポートならば欠席しても80点の評価が貰えるのだから俺も初めに欠席してレポートを提出するという選択肢を考えなかったわけではない。

 ここで問題となるのは、仕事の契約締結の場に参加することが橘教授が認める欠席理由になるかである。一応未来の仕事に関わっているわけで、またとない社会経験を得るという大義名分もあることにはある。

 でもなぁ、これが橘教授の講義を休むことと釣り合うかと問われると、微妙だ。ならば、欠席証明書を提出しないで小テストの五割の評価も貰う事もできるので、これだったら問題は少ない。

 そう、あくまで「問題が少ない」にすぎないのがこのレポートの落とし穴だった。

 なにせ、授業は眠いし、実際由比ヶ浜はよく爆睡しているし、他にも多くの学生が夢の中で受講しているといってもいい。

 そんな夢の中の受講生は、講義ラストに待ち受けている小テストで痛い目にあうんだからうまくできている講義システムだと、授業を真面目に受けている俺からすると評価してしまう。

 そう、俺が眠いの我慢して授業に参加しているのに、由比ヶ浜とかなにを眠りこけてるんだよ。そんな奴にかぎって小テストの時答えを見せてくれとか、どの辺がヒントになるか教えてくれとか言ってきやがる。

 俺はそういう由比ヶ浜みたいなやつは、毎回無視してやっている。隣で由比ヶ浜が小さな声で不平をぶちまけまくりまくって、最後の方には俺の肩を揺さぶりまくるのがいつものパターンだ。

 まあ、由比ヶ浜が実力行使に来る時間あたりには、俺も解答を埋め終わってるから、由比ヶ浜に一瞬ちらっと解答用紙を見せるふりをして、ニヤッと優しい笑顔を見せてから席を立つんだけどな。

 毎回猿みたいに「ムキ~」とかわめくけど、そろそろ猿でも自分でやるって事を学習してるはずなのに、俺にまとわりついてくる牝猿もそろそろ学習しろよ……。

 話は大きく脱線してしまったが、誰しもが受けたくない講義をレポートで出席の代わりにできるというのに誰もレポートを選択せず、一応講義に出席して小テストを受けているかというと、それはすなわちレポートの量が半端なく多いからである。

 他の講義もあるわけで、レポートだけに時間を割いていられるわけではない。しかも講義は90分で終わるというのに、レポートはどう見積もっても休日が丸一日つぶれること必至だ。

 誰もが望む夢の日曜日に、誰が好き好んで陰気なレポートをやらねばならない。どう考えても講義に出たほうがいいに決まっている。

 そんなわけで俺は大切な大切な日曜日を献上して契約締結の場に出席しようと苦渋の決断に迫られていた。

 まあ、色々御託を並べたが、誰が橘教授の講義を必修科目にしようだなんて考えたんだよ。

 きっと、決めた人間は悪魔に違いない。それだけは、はっきりと確信できた。

 

「ねえ、ヒッキー。もうそろそろ諦めたら?」

 

「諦められるわけないだろ。講義休んだら日曜が潰れるレポートがあるんだぞ」

 

「じゃあ、いっそのこと、レポートもやらなきゃいいじゃん」

 

「そんなことできるかよ。成績が落ちるだろ」

 

「一回くらい休んだところで、最終的な成績は変わらないと思うけど」

 

「そういった油断が成績をじわじわ下降させるんだ」

 

「もう、意地っ張りなんだから。ん~。だったらさあ、問題の山はって先生が黒板に問題書く前に解答用紙に答え書いちゃえばいいんじゃない? そうすればちょうど20分短縮できて、電車に間に合うんじゃない? 問題解く時間の20分をあらかじめ解答書いとけば、20分使わないで済むでしょ」

 

「ちょうどいいじゃないかな。20分早ければ電車に間に合うんだし、いっそのこと山はって、外れたら諦めて遅刻して出席すればいいと思うよ。そもそも遅刻しても怒られはしないだろうしさ」

 

「ちょっとヒッキー、黙らないでよ。そんなに怖い顔して黙っていると怖いよ。ごめん、ごめんてね。軽々しく言っちゃったよね。ヒッキーが真剣に悩んでいるのにちゃかしてごめんね。……ねえ、ヒッキー?」

 

「比企谷?」

 

「ねえ、……ねえったらぁ。」

 

 由比ヶ浜が俺の肩を揺さぶってくる。最初は遠慮がちに小さく揺さぶってきたが、俺が何も反応を示さないでいると、意地になってか激しく揺らしてきた。

 

「ええい、うるさい。ちょっとは静かに出来ないのかよ」

 

「だから、謝ってるんじゃない」

 

「それが謝ってるやつの態度かよ」

 

「いくら謝ってもそっちが無視していたんでしょ」

 

「別に無視してないだろ。ちょっと考え事をしていたから、たまたま気がつかなかっただけだ」

 

「え?」

 

「え?って、なんだよ。お前が問題の山はって、解答あらかじめ書いとけって言ったんだろ」

 

「え? えぇ~?!」

 

「なにをそんなに驚いてんだ。自分で言っておきながら驚くなんて。ん? 自画自賛しているのか? たまに、ほんとうにごくまれに役に立つこと言ったんだから、そういうときくらい自己満足に浸りたいよな。気がつかなくてごめんな」

 

「いや、いや、いや。なんかヒッキーがあたしの事で酷いこと言ってるみたいだけど、この際今はどうでもいっか。なに、なに。ヒッキー、山はって書くの?」

 

「由比ヶ浜さんは、どうでも、いいんだ?」

 

 弥生ならそう思うよな。でもな、由比ヶ浜の思考回路には二つの事を同時処理なんてできやしないんだよ。一つの事でさえも途中でセーブもできない年代物なんだぞ。

 きっとレトロマニアにはもろうけること間違いなしだけど、最先端を突っ走ってるやつには、理解できない代物なんだよ。

 

「ああ、山はって書いてみようと思う」

 

「そっか。なにもやらないよりいいもんね。運がよかったら間に合うかもしれないし、やらないよりはやったほうがいいもんね」

 

「それは違う。やるからに確実に問題を当てる」

 

「そんなのは無理だって。だって、問題は黒板に書くまでわからないじゃん」

 

「そんなことはない。なんとなくだけど傾向くらいはあるもんさ」

 

「たしかに出題傾向はあるけど、論述問題なんだから、問題のキーワードを全て当てないと、見当外れの解答になってしまうよ」

 

「そうだよ。あたしも軽々しく山はりなよって言ったけど、やっぱ絶対無理だよ。当たりっこないって」

 

「問題のキーワードを全て当てるんだろ? それなら問題ない。むしろキーワードほど当てやすい」

 

結衣「そんなことないって。一回の講義の内容も広いんだし、無理だよ」

 

 たしかにな。無鉄砲になんとなく探すんなら、無理に決まっている。だけど、解答を導くためのキーワードなんて、なにかしらの繋がりを持ってるんだよ。

 一つの論述を完成させるわけなんだから、一つ一つのキーワードには、他のキーワードとのつながりがあって、その繋がりがあるからこそ一つの論述が意味を持って完成する。仮に、キーワード一つ一つに全くの因果関係がないとしたら、それは論述ではなくて一問一答形式の穴埋め問題に過ぎない。

 

「論述問題に必要なキーワードなんて、だいたい決まってるんだよ。そもそもそのキーワードが一つでも欠けていたら減点ものだ。だから、キーワードを全てそろえること自体はたいしたことではない」

 

「たしかにそうだね。でも、キーワードがわかったとしても、問題自体を当てるのは難しくないかな?」

 

「ちょっと、ちょっと待ってよ。今ゆっくりとだけど、ヒッキーが言った事を理解するから」

 

「悪い、由比ヶ浜。今お前の相手をしている時間も惜しい。だから、この説明はまた今度な」

 

「あたしの事を馬鹿にし過ぎてない?」

 

「だったら、もう理解できたのかよ?」

 

「それは無理だけど」

 

「だろ?」

 

「由比ヶ浜さんには授業のあとで僕が説明してあげるよ」

 

「え? ほんとう?」

 

 ぱっと笑顔を咲かせる由比ヶ浜を横目に、俺は弥生が渋い顔を見せたのを見逃さなかった。何度か俺の代りに弥生が由比ヶ浜に説明した事があった。

 だがしかし、何度やっても由比ヶ浜は理解できなかった。

 弥生昴の名誉のために言っておくが、けっして弥生の説明が下手なわけではない。むしろ上手な方だと思う。俺以上に論理的で、道筋をはっきりと示す解説だとさえ思える。

 だけど、相手があの由比ヶ浜結衣だ。普通じゃない。俺も雪乃も、高校三年の夏、何度挫折を味わったことか。

 まあ一応お情け程度のフォローになってしまうが、由比ヶ浜結衣もけっして馬鹿ではないということは伝えておきたい。なにせ俺と同じ大学の同じ学部に一緒に現役合格できるくらいの学力はあるのだから。

 しかし、こいつの思考回路はとびまくっているんだ。俺も雪乃もこいつに勉強を教えるコツみたいなのをわずかだが習得できたから言えること何だが、どうやら由比ヶ浜は感覚で理解しているらしい。

 とくに数学なんかはどういう感覚で理解しているのか、雪乃でさえ理解できなかった。それでもどうにか教える事はできるようになったから、こうして同じ大学に通えているんだが。

 だから、弥生のように理路整然としている理論派の極致の説明は、由比ヶ浜にとっては天敵だと言えるのかもしれなかった。

 

「まあ、お前ら。二人ともお手柔らかにやっておけよ」

 

「わかってるって。無理はしないよ」

 

「ん?」

 

 どうやら弥生だけは俺の意図を理解したみたいだな。だとすると、俺の感覚が由比ヶ浜に偏ってないってことか。

 うし……、俺の感覚は由比ヶ浜化してないぞ。な~んか由比ヶ浜とつるんでいると、おつむが由比ヶ浜化しそうで怖いんだよな。

 

「なあ弥生。このノート見てくれよ」

 

「これって橘教授の講義のノートだよね」

 

「そうだ」

 

「なんでノートの真ん中で折り目が付いているの?」

 

「ああこれな」

 

 こら、由比ヶ浜。弥生とは反対側から俺のノートを覗き込んできたけど、そのドヤ顔やめろ。さっきまでまったく話についてこれなかったからって、ここぞとばかりに誉めて誉めてって尻尾を振るなよ。

 そもそもこのノートの折り目の意味をお前が知っているのは当然なんだよ。何度も俺のノートのお世話になってるからな。

 まあ普段の俺ならちょっとくらいお前にかまってやる余裕があったしれないけど、許せ今は時間がない。

 

「弥生はこの講義のノート見るの初めてだっけ?」

 

「どうだったかな? 他の科目のならあったと思うけど、あとで調べてみないとわからないかな」

 

「さすがのコピー王も俺の対橘用のノートは初見か」

 

「この講義は小テストが毎回ある分みんな自分でノートとってるから需要がないしなね。それと、そのコピー王っていうのはやめてよ。学部中にそのいたいあだ名が広がってしまったのは比企谷のせいだよ」

 

「それは違う」

 

「どうしてだよ? 比企谷が言いだしたことじゃないか」

 

 コピー王。たしかに俺が命名した弥生昴の二つ名だ。といっても、中二病全開で命名したわけではない。

 なんとなくこいつの行動を見ていたら、ふと口にしただけだ。それに、何度もコピー王なんて言ったとも思えない。たしかにこいつはコピー王だとは思う。なにせこいつはコンパクトスキャナーを随時携帯して、レポート、ノート、定期試験の過去問などなど、あらゆるデータをコピーしまくっている。

 まず、突出すべきところはその交渉術と行動力だろう。図書館で同じ学科の奴を見つけたら、友達でなくても、しかも話した事がない相手でも、顔を知っていれば突撃してノートの交換をしてくるのだ。

 そしてその行動範囲は同学年にだけで終わらず、大学一年次の前期日程、正確にいえば、五月の下旬には全学年で弥生昴の名と顔を知らない奴はいなくなってしまった。一見弥生の行動は、無謀にも絶大なる行動力を有しているようにも見える。しかし、本人曰く、一人のつてがいれば、その人を介して十人は声をかけられるとのこと。

 俺からすれば、図書館でいきなり顔しか知らない奴に声をかけているのを目撃しているので、一人のつてもいなくても、もしかしたら全学年制覇はきっと可能なんじゃないかって思えていた。

 いやいや俺が言ってる事は矛盾しているな。俺みたいなぼっちは例外としても、一般的な大学生ならば一人か二人くらいの連れはいる。

 ならば、一人のつれがいればドミノ式に全生徒に繋がっているとも言えなくはない。

 たしかにぼっちは誰ともつるんでいないので、どの組織にも接点がないともいえる。それでも大学生をやっていれば、グループ学習やらペアでの講義も必ずあるわけで、大学生活を誰とも接点を持たずに生活することは事実上不可能である。

 ここで言いたいのは、事実上不可能であるということだ。理論上はなんかしらのつながりがあるかもしれない。

 しかし、その繋がりは儚いくらいに細いもので、それが人と人との伝手であると言ってもいいのか疑問に残る。おそらくその伝手は、一般的に言ったら赤の他人というべきだ。

 だが、弥生ならば強引にそのあるかどうかも疑わしい伝手を使って交渉ができてしまうのだから、これはある種の尊敬すべき能力といえるだろう。

 ここで話を戻すが、コピー王たる弥生昴のすごさはわかってもらえたと思うが、そのデータ量のすごさは、既存の試験レポート対策委員会とかいうサークルを上回ってるんじゃないかと思えるほどだった。

 

「たしかに俺が言いだしたのは認める」

 

「でしょ? だったら比企谷の責任じゃないか」

 

「いいや、違う」

 

「なんでだよ」

 

「俺がお前にコピー王って連呼したとしても、誰がお前の事をコピー王って呼ぶだよ。俺は自慢じゃないが、友達はほとんどいないぞ。だから、お前の事をコピー王だなんて、伝える相手がそもそもいないんだよ」

 

「……そうだね。この学部で比企谷の話相手といったら、僕か由比ヶ浜さんくらいしかいないんだよね」

 

「だろ?」

 

「比企谷の友達の少なさを忘れるところだったよ」

 

「それさえも忘れてしまうほどの存在感のなさなんだよ。俺って奴は」

 

「そんなことないよ。比企谷はこの学部でダントツに目立っていると思うよ」

 

「それはないだろ。お前も俺の友達の少なさを認めたじゃないか。友達もいないからひっそりと教室の片隅に座っていたら目立たないだろ」

 

「由比ヶ浜さんがいつも隣にいるじゃないか」

 

「由比ヶ浜は友達多いし、そりゃあ目立ちはするけど、だからといって俺が目立つわけじゃあない」

 

「いやいやいや、違うって。人気がある由比ヶ浜さんを比企谷がいつも独占しているから必然的に比企谷も目立ってるんだよ」

 

「俺は由比ヶ浜を独占した覚えはないんだけどな」

 

 ほら、俺の横の由比ヶ浜結衣とかいう人。頬を両手で押さえて、ぽっと頬を染めてデレない!

 お前の責任問題を話し合ってるんだろ?

 って、俺達って、なに話してたんだっけ? 時間ないとか言ってたような。

 

「しかも工学部に綺麗な彼女がいるくせに、ここでも学部のヒロインを一人占めしているんだから恨みもかっていると思うよ」

 

「雪乃はあまりここの学部棟には来ないから関係ないだろ」

 

「雪ノ下姉妹っていったら、うちの大学で知らない奴がいないほどの美人姉妹だよ。その妹の彼氏といったら、注目されるに決まってるじゃないか」

 

「雪乃が美人っていうのは認めるけど、だけどなぁ……」

 

「ねえヒッキー」

 

「なんだよ」

 

 せっかく危機的状況でパニクっていたのを雪乃の事を思い出して和んでいたのに、なんで横槍を入れてくるんだよ。俺に恨みでもあるのか?

 だから、必然的に由比ヶ浜に向ける視線も、投げ返す返事も荒っぽくなってしまう。由比ヶ浜は当然俺の対応にむっとした表情で批判を込めて言いかえしてきた。

 

「別にヒッキーがゆきのんのことででれでれしているのは、あたしはかまわないんだけどさ」

 

「なんだよ。時間がないんだから、とっとと言えよ」

 

 ん? なんで時間がないんだっけ?

 

「別にあたしはいいんだけど、早く小テストの山をはらないと授業始まっちゃうよ」

 

 血の気を失うとはこの事だろう。さあっと体温が低下するのと同時に、体中の汗腺から汗が噴き出してきて体が火照る。

 やばい、やばい、やばいやばいやばいやばいやばいやばいっぃぃぃいいいいいい。

 時間がないのに何を白熱してるんだよ。

 コピー王って学部中に広めたのは、俺じゃなくて由比ヶ浜だっていうことを伝える為に、なんだってこんなに話に夢中になってるんだよ、俺。

 

「ありがとよ、由比ヶ浜。助かった」

 

「いいんだけどさ。……いつもお世話になってるし」

 

 俺はもじもじしながら口ごもる由比ヶ浜を横目に、弥生に向けて応援要請を手短に伝えていく。もうすぐ講義が始まって、橘教授がきてしまう。

 その前に、一応保険として弥生にも問題の山を一緒にはってもらわなくてはいけない。

 なぁに、たぶん俺一人でも大丈夫だけど、念には念をいれないとな。普段俺のレポートやらノートのコピーをしてるんだ。このくらいの労働、対価としては安いだろう。

 

「弥生、山はるの手伝ってほしい」

 

「それはかまわないけど、あと五分もないよ」

 

「それだけあれば十分だ。山をはるのは講義を聞きながらじゃないとできないからな」

 

 俺はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

 俺が弥生に頼んだ事は、いたってシンプルなノートの使い方だった。

 まずノートを半分に折り、左側を授業の内容を筆記する。これは一般的なノートを取り方と変わりがない。黒板に書かれた内容を書き写して、必要ならば解説を自分で付け加える。黒板には書かないで口頭のみの説明時に聞きそびれて、書き損ねそうになる事もあるが、悪態を心でつきながら教科書とノートを見比べて聞きそびれた個所を自分の言葉で埋めていく。

 左側は誰もが小学生の時からやっている事だから、特に説明はいらないだろう。俺が弥生に指示したのはノート右側の書き方であり、この講義特有の事情から生まれた手法だ。

 小テストは必ずと言っていいほど「説明せよ」という設問であった。授業で習ったばかりの知識を思い出して、論述を書きあげていく。だとすれば、授業を受けながら小テスト用の論述を書いておけばいいんじゃないかと思って始めたのが右ページの使い方であった。

 つまり、左側に書かれている授業で示された記号を右側ページに論述形式で書きなおしていくってことだ。一見人からみれば二度手間だろう。なにせ左側に書かれている内容を単に文章にしただけなのだから。

 雪乃も最初は二度手間だからやらないといっていたが、俺からの説明を聞いたら納得してくれた。でも結局は雪乃はやらないらしいが。

 俺からノートをよく借りる由比ヶ浜は、まあ理解しているのかしてないのか怪しいところだから保留にしておこう。

 この二度手間ともいえる右ページ。なにがいいかっていうと、解答の文章量がはっきりとわかることだ。左ページの記号のみでの説明だと、シンプルでわかりやすいのだが、文章にしてみると文章量が予想以上に多い時があったりする。

 それに気がつかずに実際解答用紙に書いてみたりすると、文字数オーバーになったりすることがざらである。また、文字数がオーバーしてしまうから、他の本来必要なキーワードをいれないで減点くらう事も多くなってしまう。

 ほとんどのやつが指定の文字数を埋めることで満足して、キーワード不足を気がつかないんだよな。つまり、あらかじめ文章量がわかるから、キーワードも落とさないし、文章量からの優先度も明らかにわかるわけで、省くべき説明も最初から書かないですむ。

 なんて理屈を上げてみたが、本当の狙いは文章を書く練習だったりする。要点のみをわかりやすく説明するっていうのは案外難しい。キーワードがわかっていても、実際文章を書くとなると文章の構成がちぐはぐだったり、短くまとめるべきところをダラダラと書いてしまったりもする。

 だったら日ごろから鍛錬すればいいじゃないかという事で始めたのがこのノートの使い方だった。

 嬉しい副作用としては、授業の復習時間が短縮された事と、自分の言葉で今受けたばかりの授業内容を書く作業によって印象を深める事だろう。雪乃みたいな才能がない俺にとっては、嬉しすぎる副作用であった。

 さて、これが表の右ページの効用なのだが、今回はこれを逆手にとって隠された右ページの効用を試してみたいと思う。

 

「比企谷って、ほんとうにこういうせこい方法を思いつくのがうまいね」

 

「せこいっていうな。要領がいいって言え」

 

「はい、はい。要領がいいですね」

 

 絶対心がこもってないだろ。

 

「あたし、説明聞いてたんだけど、それでもよくわからないんだけど」

 

「だからな、俺が由比ヶ浜を起こさない理由にもなるんだけど、この授業はそうとう忙しいってことなんだよ」

 

「それはわかったんだけど……」

 

「ノートの左側に黒板の板書を写して、右側には小テストにそのまま使えるように書き直した文章を書いていく。ここまではいいな」

 

「なんとなく……」

 

 わかってないな。

 うん、弥生も由比ヶ浜はわかってないねって顔をしている。

 

「で、だ。ここからなんだけど、一回の授業で習った範囲で、試験に出そうなのは多くて三つが限度だ。下手したら一つって事もある。これは論述形式にするからそれなりの容量が必要って事もあるけど、一回の授業で何個も試験で出題するようなものが出てこないんだよ。たいていは一つの主題を補足する為の説明がほとんだ」

 

「はぁ……。ん、それで」

 

 わかってないのに相槌うつなよ。

 いっか。時間ないし。俺はしかめっ面になりそうなのを無理やりうやむやにする。

 

「だからな、小テストで書かす文章量と、これは出題傾向でもあるんだけど、橘教授はその日一番重要な個所を出題する傾向があるところから、この二つをあわせもつ個所を授業を聞きながら探せばいいんだよ。いくら重要でも小テストにするには文章量が少なすぎたりするのはNG。また、次の週にまたがるのもNGだな」

 

「ふぅ~ん」

 

 もう、適当に相槌うってるな。それでも、この由比ヶ浜を相手しちゃうんだよな。それは俺がこいつに助けられているからかもな。

 

「ま、あとは慣れだな。他の講義も聞いていると、なんとなくこの辺を試験にだしたいだろうなっていう所がわかるようになるから」

 

結衣「え? そうなの? だったらもっと早く教えてよ。とくに期末試験なんて、それやってくれたら勉強する量が減って助かったのに」

 

 自分にとって有用な情報だけは聞きながさないんだな。食い付きが違いすぎるだろ。さっきまでの、はいはい、付き合ってあげてますよオーラ全開の態度はどこにやったんだ。いまや尻尾を振って、襲い掛かる勢いじゃねぇか。

 

「う・る・さ・い。今は忙しいんだよ。それに、試験直前にはいつも試験の山みたいなのは教えてるだろ」

 

「それは教えてくれているけど、それっていつも、最後の最後でぎりぎりにならないと教えてくれないじゃん」

 

「当たり前だろ。試験に出そうな所だけを覚えたって、知識としては不完全で役にたたないだろ」

 

「……そうかもしれないけどぉ」

 

「ほらほら、橘教授がきたよ」

 

「弥生、悪いけど頼むわ。由比ヶ浜は、前を向けよ」

 

「貸しにしておくよ」

 

「あたしだけ態度が違うのは気になるんだけど」

 

 

 

 

 

 騒がしかった教室も講義が始まれば静まり返る。教室の前にある二つの扉も閉められ、外から聞こえてきていた喧騒もかき消される。どこか几帳面そうな声色と、ペンがノートとこすれる音だけで構成される時間が始まった。

 いたって普通。どこまでも先週受けた時と同じ時間が繰り返される。

 始まって間もないのにどこか眠そうな生徒達の横顔も、やる気だけは空回りしている由比ヶ浜も、教室の前の方に陣取っている真面目そうな生徒達も、先週見た風景と重なっていた。

 ただ違う事があるとしたら、俺の期末試験と同じレベルの集中力と隣で手伝ってくれている弥生の姿くらいだろう。

 講義時間も残り少なくなり、あとは小テストを受けるのみとなった。

 弥生と予想問題と解答を確認したらほぼ同じ内容なのは安心材料なのだが、実際黒板に問題が書かれるまでは落ち着かなかった。

 けれど、その緊張も今は新たな緊張へと変わっていっていた。

 

「おめでとう」

 

「ああ、サンキューな。じゃあ、また明日」

 

「あせってこけないでよ」

 

「ヒッキー、頑張ってね」

 

 俺は二人に向かって頷くと、あらかじめ片付けておいた教科書を入れた鞄を手に教室の前に向かって歩き出す。試験問題はばっちし予想通りだった。

 あとは、解答用紙を提出して、全速力で駅まで走るだけだ。

 予想通りの設問に興奮状態で席を立ったまでは良かったのだが、今俺が置かれている状態を予想するのを忘れていた。

 いや、ちょっと考えれば誰もが気がつく事だし、気がつかない方がおかしいほどだ。

 そう、小テスト開始直後に席を立つなんて、通常ではありえない。どんなに急いで書いたとしても5分はかかる。

 それも、解答があらかじめ分かっている事が前提でだ。

 それなのに俺ときたら、誰しもがこいつなにやってるの?って気になってしまう状態を作りだしてしまっていた。最初は、俺達がひそひそ声で別れの挨拶をしているのに気が付いた比較的席が近くの連中だけだったが、教室の通路を歩く俺の足音が響くたびに俺を見つめる観衆の目が増えていってしまう。

 俺はまとわりつく視線を強引に振り払い教卓の前へと向かっていく。

 一段高い教卓を見上げると、訝しげに俺を見つめる橘教授がそこにはいた。悪い事をしているわけでもないのに目をそらしてしまう。ちょっとチートすぎる手を使ってはいるが、問題ない範囲だと思える。

 弥生に応援を頼んだのだって、そもそもこの小テストはテキスト・ノートの持ち込み可だけでなくて、周りの生徒との相談だって可能なのだ。もちろん授業中であるからして大声を出すことはできないが、ある程度の会話は認められていた。

 由比ヶ浜なんかは毎回俺に質問してくるんだから、ちょっとは自分一人でやれよと言いたくなる事もあるが。

 俺はするりと解答用紙を教卓の上に提出し、橘教授を見ないように出口の方へと向きを変えた。

 提出完了。あとは早足でここを切りぬけて、室外に逃げるのみ。テクテクと突き進み、あと少しで教室の出口というところで聞きたくない音を耳が拾ってしまった。

 なんでこういう音だけは拾ってしまうんだよ。

 たくさんある音の中で、しかも似たような音がいくつも重なっている場面で、たった一つ、俺が一番聞きたくない音だけを耳が拾ってきてしまう。

 全速力の早足が徐々に勢いに陰りを見せ、通常歩行へと移行する。

 それでも出口までの距離は短かったおかげでどうにかドアノブを掴むことができた。

 けれど、怖いもの見たさっていうの? 見たくはないんだけど、知らないままでおくのも怖い。

 だったら見ておいてから後悔するほうがましなのだろうか。

 ここで結論が見えない迷宮に深入りする時間もないし、なによりも現在進行形で目立ちまくっているわけで、俺が取るべき行動はこのドアノブをまわして出口から室外に出る事だ。

 しかし、人の意思は弱いもので、ドアノブをまわしてドアを開け、一歩外へと踏み出した瞬間に見たくもなかった光景を見てしまう。振り返らなければ見ることもなかったのに。でも、見てしまった。

 もちろん後悔しまくりだ。

 俺の視線の先には、俺の解答用紙を凝視している橘教授がいた。俺が見たその姿は数秒だけれども、死ぬ前の走馬灯のごとき時間。

 けっして死ぬわけではないのだけれど、閻魔さまは確かにそこにはいた。

 ここから逃げ出して走ったのか、遅刻しない為に走ったのか。もちろん後者のためなのだが、本能が前者を指し示す。

 駅のホームに着いたところで時計を見ると、想定以上に早くつくことができていた。

 電車がやってくるアナウンスもないし、慌てて階段を駆け上ってくる客も俺一人しかいない。これは橘教授効果だなと、皮肉を思い浮かべることができるくらいまでは精神は回復したいた。電車に間に合った事で、自然と子供が見たら泣くかもしれない(雪乃談)笑顔を浮かべているとマナーモードにしていた携帯が震え、俺も心臓を止めそうなくらい震えてしまう。

 もう、やめてくれよな。びっくりさせるなよと、携帯の画面を確認すると、弥生からの電話であった。あいつも俺と同じように解答だけは出来上がっているんだから、もう小テストは終わったのだろう。そうしないと、電話をする事は出来ないし。

 ……でも、もし、いや、あり得ないとは思うけど、でも、ん、なくはないが、橘教授が弥生の携帯を借りて俺に電話したとしたら?

 橘教授も生徒一人に時間をかける余裕なんてないんだしと、心に嘘をつきながら通話開始ボタンを押した。

 

「もしもし?」

 

「電車間に合った?」

 

「なんだよ弥生かよ」

 

「僕の携帯からなんだから当然でしょ。それに心配してあげているのに、そのいいようはないと思うよ」

 

 安堵のあまり人目を気にしないでその場に座り込んでしまった。せめてもの抵抗として、片膝を立てて座っているのが救いだろうか。

 誰も気にしないだろうけど、男の意地ってうやつで。

 

「全速力で走ってきたから疲れてるんだよ。今日は手伝ってくれてありがとな。だから感謝してるって」

 

「そう? 感謝してるんならそのうち恩返しを期待してるからね」

 

「俺に出来る事ならな。あと、時間に余裕があるとき限定で」

 

「それって、恩を返す気がないって事と同義だよ」

 

「返さないとは言っていないだろ。そろそろ電車も来るし、用件はそれだけか?」

 

「ううん。伝言を頼まれててね」

 

「由比ヶ浜か? 無事に着いたって言っておいてくれよ」

 

「それは伝えておくけど、伝言を頼んだ人ではないよ。ちなみに由比ヶ浜さんは、今も教室でテストやってると思う」

 

「じゃあ誰だよ?」

 

 嫌な汗が額から滑り落ちる。

 これは走ったからでた汗だ。そう、走ったからね。

 と、俺の考えたくもない人物を全力で拒否しているっていうのに弥生の奴は無情にも判決を下してしまった。

 

「橘教授からなんだけど、聞く?」

 

「聞かないわけにはいかないだろ。一応聞くけど、聞かないという選択肢は可能か?」

 

「それは無理」

 

「とっとと言ってくれ」

 

 ちょっとは期待させる言い回しをしろよと、批難も込めて伝言の再生を催促した。

 

「そんなにびくつくなくたって大丈夫だよ。橘教授は笑っていたよ。あの橘教授が大爆笑していたんだから、研究室に一人で行っても殺されはしないって」

 

「ちょっと待て。前半部分はいいんだけど、後半部分はサラっという内容じゃないだろ」

 

「とりあえず、伝言伝えるよ」

 

 こいつマイペースすぎるだろ。だからこそ、俺と一緒にいられるんだろうけどさ。でも、こいつったら友人関係は広いくせに、なんだって俺の側にいるんだろうか。

 

「はいはい、どうぞご勝手に」

 

「比企谷みたいにまでとはいかないけど、毎年何人かは去年の問題使って解答をそのまま提出する人がいるんだってさ」

 

「たしか試験対策委員会のやつが出回っているらしいな」

 

「らしいね。でも、教授も言ってたけど、去年の問題は使えないように若干設問を変えているんだってさ」

 

「論述だし、設問変えたって似たような解答になるんじゃないか?」

 

「その辺の違いは教授も説明してくれなかったけど、今回のは授業中の例え話が違っていたらしいよ。今日授業でやった例を用いて説明せよってなってたでしょ?」

 

「なるほどな」

 

 たしかに去年の問題を持っていたら、俺も過去問をそのまま使っていたかもしれない。俺の場合は過去問をくれる相手がいないんだけど……。

 でも、弥生だったら持っていてもおかしくないか。

 

「だから、去年までのをそのまま使って解答書いた答案は、出来の良しあしにかかわらず3割までしか点数をくれないそうだよ」

 

「設問の要求を満たしていない解答だし、当然だろうな」

 

「それで、今回の比企谷の方法なんだけどさ」

 

「ああ」

 

「橘教授、大絶賛だったよ。面白いってさ。面白ければOKとか、あのしかめっ面でいったんだから、みんな唖然としてたよ。できれば写真に撮って比企谷にも見せてやりたかったな」

 

「いや、遠慮しとく。想像だけでもちょっときついものがある」

 

「ということで、橘教授の研究室に来てくれってさ」

 

「だから、どうして俺が行かないといけないんだよ」

 

「気にいられたからじゃないのか?」

 

「なんで気にいられるんだよ」

 

「比企谷が今回とった方法を、自分が橘教授に教えたからかな?」

 

「なんで馬鹿正直に教えてるんだよ」

 

「そりゃあ、聞かれたからだよ」

 

「だとしても……」

 

「電車来るんじゃない? アナウンスしてるんじゃないか」

 

「ああ、もう電車がくるけど、……で、いつこいって?」

 

「いつでもいいって言ってたけど、来週も授業あるんだから、早めに行っておいた方がいいと思うよ」

 

「わかったよ」

 

 駅のホームに来るまでは絶好調だったのに、どこかしらに落とし穴が待ち受けている。注意深く突き進んできても、どこかでエラーが出てしまう。

 あの時、教室を出る時、教授の顔を一瞬でも見たのが悪かったのか?

 運命論なんて信じないし、俺のちょっとした行動が運命を未来を変えてしまうとは思えないが、それでもあの時橘教授の顔を見なければよかったと、電車を降りるまで何度も後悔を繰り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一応上記パートまで読み飛ばしても問題ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無事遅刻する事もなく到着し、雪乃の親父さんと総武家の大将との話し合いも和やかムードで終えることができた。

 結論から言うと、俺が遅刻しようと、その場に全くいまいと、話し合いにはこれっぽちも影響はない。契約書の内容も突っ込んだ内容になってしまうとあやふやだし、これを自分一人で精査しろといわれたら無理だってこたえるしかない。

 それは大将だって同じはずなのに、そこは当事者としての意識の差がでてしまったかもしれない。たしかに雪乃の親父さんがわかりやすいように説明していたけれど。

 これは陽乃さんから聞いた話だが、本来ならば親父さんが直接契約の場に出てくる事などないそうだ。もちろん大型案件ならば違うだろうが、企業所有のテナント一つの賃貸契約で企業のトップが出てくるなどあり得ない話であった。

 となると、これは俺の勝手な想像になるのだけれど、この会談もしかしたら俺の為に設けられた部分もあるんじゃないかと思ってしまう。ならば、俺が遅刻しないで到着した事も意味があるのだといえるかもしれない。

 さて、俺は親父さんにお礼を言ってから本社ビルをあとにする。

 緊張しまくっていた体がほぐれだし、肺に過剰に詰まっていた空気もどっと口から抜け出てくる。

 振り返りビルを見上げると、さっきまであの上層階にいたことが幻のように思えてくる。

 俺があの場にいられたのは親父さんの計らいであって、俺の実力ではない。

 いつか俺の実力で……、いや、雪乃と二人の力で昇り詰めなければならない。具体的な目標を目にできた事は、モチベーションの向上につながる。

 けれど、今は鳴りやまない携帯メールの対応が優先だな。マナーモードにしてあった携帯はビルから出る直前に解除したのだが、ひきりなしに鳴り響くメール着信音に、再びマナーモードにしていた。

 なにせ着信メール数が二桁を超えている。現在進行形で増え続け、もうすぐ三桁になりそうであった。

 チェーンメールではないよな?

 アマソンや苦天であっても、こんなにはメール来ないし、アダルト関係は雪乃の目が光っているから完全に隔離状態だしなぁ。となると、小町か戸塚か?

 だったら徹夜してでも全メールに返事を書くまでであるが、どう考えたってあの二人だよな。

 先ほどまでいた会談とは違う緊張感を身にまとい、とりあえずメールフォルダをクリックした。

 俺が携帯画面を見るのを拒むように差し込む西日を避ける為、ビルの柱の陰に入り込む。夏のむっとする空気が幾分か和らぎはしたものの、携帯に蓄積され続けているメールは俺の汗腺を緩めてしまう。首も元にねっとりとまとわりつく汗を和らげるために、ネクタイを緩めて、Yシャツの第二ボタンまで外す。一応商談ともあるわけでスーツに着替えてはいた。

 雪乃の親父さんからは服装は普段着でいいとのお許しを得てはいたが、総武家の大将がラーメンを作るときのユニホームからスーツへと着替えているのを見た時は、親父さんのご厚意をやんわり返上していた事にほっと息をついてしまった。

 やはりビジネスであるわけで、第三者である俺もマナーを守るべきである。今はいいかもしれないが、雪ノ下の関係者という甘えがなあなあの関係からの甘えを生み、いつ落とし穴に落ちてしまうかわかったものではない。

 とりあえず商談も終わり大学生に戻った俺は、スーツの上着を鞄と一緒に抱え込み臨戦態勢で目の前まで迫った恐怖に立ち向かう事にした。

 俺が商談中に舞い込んだ携帯データによると、86通のメールと10件の留守番電話メッセージが届けられている。雪乃と陽乃さんの二人によるもので、おおよそ半分ずつといった感じだろうか。

 内容をまとめると、陽乃さんからは、雪乃を預かった。返してほしかったら雪ノ下邸まで来い、といった感じだ。

 一方、雪乃からは、陽乃さんの戯言に付き合っている時間はないから、私を迎えにきたらそのまま帰りましょうといったものだ。

 この内容でどうして86通ものメールを送る事になったのか、今も送られてきているメールも含めると91通になるのだが、このメール合戦にいたるまでの経緯など知りたいなど思えなかった。

 どうせ陽乃さんが雪乃を挑発して、雪乃が負けじと応戦したのだろう。とにかく夕方になっても気温は低下してくれないし、暑苦しい事は極力さけるべきだ。

 だから俺はビルの陰から西日が強く叩きつけられるアスファルトを早足で歩きだす。一刻も早く次の日陰に逃げ込もうとテンポよく進む。

 だが、一通だけ趣旨が違うメールが着ていた事を思い出し、早足だった足が止まってしまう。

脳にインプットされたメール情報が誤情報でないか確認する為に携帯で再度確認したが、

 やはり誤情報ではなかった。

 送信者は、雪ノ下陽乃。メールの内容は、ペリエ750mL瓶を五本買ってきて。

 最後にハートマークやら、うざったい記号が羅列していた事はこの際デリート。なんだってこのくそ暑い中、4キロほどの水を買って帰らないといけないんだよ。そもそも俺は歩きなんだぞ。

 俺の代りに陽乃さんが運転して帰っているんだから、その時買えばいいじゃないか。なんだって車の陽乃さんじゃなくて、徒歩の俺がくそ重い荷物を持って帰らにゃならん。

 きっとこれは嫌がらせなんだろうけど、このとき雪乃が陽乃さんをやりこめていたんじゃないかって思えてもきてしまう。

 だって、これってただの姉妹喧嘩のたばっちりである事は確定しているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「御苦労さまぁ。2本は冷蔵庫に入れて冷やしておいてね。あとの3本は、あとで片付けるからその辺の置いておいていいわ」

 

 手に食い込んだスーパーの袋を床に置くと、ようやく苦行から解放される。若干手に食い込んだビニール袋によってしびれは残るが、快適な温度まで気温が下げられているリビングは、俺の疲れを癒してくれていた。

 

「八幡は休んでいていいわ。冷蔵庫には私がいれるから」

 

 と、雪乃は冷たく冷えたタオルを俺に渡し、重いビニール袋を運んでいく。

 いつもならば俺が重いものを率先として運ぶのだが、ここは雪乃の好意を素直に受け取っておこう。

 

「買い物だったら車で行けばよかったじゃないですか。しかも、重い瓶だったし。これって嫌がらせですよね?」

 

「嫌がらせではないわよ。だって、家に着いてからメールした内容だしね。もし家にいた時かどうかを疑うっていうのならば、雪乃ちゃんに家に着いた時刻を確かめてもらっても構わないわ」

 

 毅然とした態度で俺に反論するのだから、本当の事なのだろう。あまりにも俺の駄々っ子ぶりの嫌味に、ちょっと大人げなかった発言だと反省してしまう。

 冷たいタオルが俺の体を癒していくにつれて、どうにか正常モードの思考を取り戻せつつあるようだった。

 

「いや、陽乃さんがそういうんなら本当の事なんでしょう?だったら雪乃に聞くまでもないですよ」

 

「そう?」

 

「でも、ベリエ5本はないでしょ。俺は歩きなんですよ。せめて車の時に言って下さいよ」

 

「うぅ~ん……。それはちょっと悪いことしたなってメール送った後に気がついたんだけど、でも比企谷君なら断ったりしないでしょ」

 

「断りはしなかったと思いますけど、俺をいたわってくださると助かりますね」

 

「だったらちょうどいいわ」

 

 ちょうどキッチンから戻ってきた雪乃は陽乃さんの発言を聞きつけて、綺麗な曲線を描いている眉毛をピクンと歪な曲線に変えてしまう。

 

「だったらちょうどいいわではないわ。最初から姉さんはそうしようと考えていたじゃない」

 

「そうだったかしら?」

 

 陽乃さんはまったく悪びれた顔もせずに、雪乃の追及をさらりとかわす。だもんだから、雪乃の眉毛はさらに歪さを増してしまうわけで。

 

「で、なんなんですか?」

 

「うん。今日も夕食準備したから、二人とも食べていってほしいなってね」

 

 そう温かく微笑むものだから、俺はもとより雪乃でさえ反論はできないでいた。

 今の陽乃さんの笑顔の前では、雪乃も強くは出られない。昨日強引に帰宅しようとした雪乃を見て、陽乃さんが見せた寂しそうな姿を雪乃も忘れることができないはずだ。

 どこかおどおどしく、子供が親に許しを乞おうとする姿に重なってしまう陽乃さんを見ては、強気でなんていけはしないのだから。

 

「わかったわ。食べていくわ」

 

「そう? 雪乃ちゃんがOKだしたからには、比企谷君も問題ないわよね?」

 

「ええ、食べていきますよ。だけど、今度からは重いものを頼む時は車の時にしてくださいよ」

 

「ええ、わかったわよ。でも、帰宅する前に買い物を頼むって、なんだかホームドラマの一場面に出てきそうで、ほのぼのするでしょ?お帰りぃ。今日も暑かったね。はい、これ頼まれていたやつって感じでさ」

 

「そんなこと考えてたんですか?」

 

 陽乃さんの求めるものがちょっと意外すぎて、批難っぽい声をあげてしまったものだから、陽乃さんはすかさず俺に食いついてきてしまう。

 

「そんなことってなによ。私がいわるゆ家庭的な場面を求めるのが似合わないっていうの?」

 

「馬鹿にしたわけじゃないですよ。それに、似合わないとも思ってませんって」

 

「本当かしら? なんだか比企谷君お得意の論理のすり替えをして、これからうやむやにしようとしているんじゃなないかしら?」

 

「違いますって」

 

 この人、どこまで俺の事好きなんだよ。

 俺の行動パターン全てお見通しってわけか。

 俺の事を時間かけて研究したって、何もメリットなんてないですよって言ってやりたい。ただ、言ったところで面白いからやだって即時却下されるだけだろうな。

 しかし、八幡マイスターたる陽乃さんであっても、今回の分析は間違いなんですよ。

 

「俺が言いたかったのは、そんな意図的にホームドラマの一場面みたいな状況を作りださなくても、俺達ってもう家族みたいなものじゃないですか。だったら、人のまねなんてしないで、自分達らしいホームドラマをやっていけばいいだけだと思うんですよ。といっても、俺も雪乃も家庭的って何?って人間なんで、どうすればいいかわからないんですけど」

 

「えっと、それって、私もその家族の一人に入ってるのかな?」

 

「入っていますよ。そもそも陽乃さんは雪乃の姉じゃないですか。だったらその時点で家族ですけど、……まあ、今俺が言っているのは、それに陽乃さんが言ってるのも形式的な家族ごっこじゃなくて、精神的な繋がりをもった家族ドラマだと思うんですけど、そういう精神的繋がりを持った家族、俺達はやってると思うんですよね。俺の勝手な思い込みかもしれないですけど・・・」

 

「うれしぃ」

 

「ん?」

 

 陽乃さんの声が、陽乃さんに似合わず小さすぎたんで、戸惑い気味に聞き返してしまった。

 

「うれしいって言ってるのよ。たしかに比企谷君も雪乃ちゃんも、もちろん私だってホームドラマみたいな家族なんて似合わないし、どうやればそうなるかもわからないけど、……もうなってたのか。そうか、これが家族なのか、な」

 

「どうなんでしょうね?」

 

「あいかわらず適当な事を言う人ね。たまにはいい事を言うものだから感動しかけてのたのに、なんだか騙された気分ね」

 

「俺は適当なことなんて一言も言ってないぞ」

 

「たった今言ったばかりじゃない。どうなんでしょうね?って」

 

「それは俺達の関係だけが家族じゃないって言っただけさ」

 

「もう少しわかりやすく言ってくれないかしらね。コミュニケーションって知っているかしら?自分一人が理解しているだけではコミュニケーションは成立しないのよ」

 

「はいはい、わかっていますよ。これから説明するって。だからさ雪乃の親父さんも、そしてあの母ちゃんだって、俺から見たら家族やってるって思えるだけさ。そりゃああの母ちゃんだし、きついし相手したくないし、逃げられるんなら即刻退却するけどさ、それでも雪乃や陽乃さんのことを大切にしてるなって思えるんだよ」

 

「あの母が? 冗談でしょ。あの人は自分の着せ替え人形が欲しいだけよ。自分の思い通りに動かない人形には興味はないわ」

 

「たしかにそういう一面は否定できないし、俺もそうだと思う」

 

「だったら、あの母のどこに家族ドラマみたいな家庭があるのかしら? 雪ノ下の為。企業だけの為に行動してきたのよ。現に姉さんのお見合いだって進められてきたじゃない」

 

「陽乃さんのお見合いは中止になっただろ」

 

「それは八幡のおかげでどうにか取りやめになっただけじゃない」

 

「俺のおかげかは議論の余地が多大にあると思うけど、雪乃や陽乃さんを大切に思っていることは間違いないと思うぞ」

 

「自分の人形コレクションの一つとして大切にしているだけだわ」

 

 平行線だな。いや、俺があの女帝をフォローするたびに距離が広がっている。だったら地球を一周回ったら線が交わりそうな気もするが、ねじれの位置ならば永久に交わらないし、永遠に距離が広がっていってしまう。

 いわゆる「どうあっても交わることのない存在」を表す比喩を思い浮かべるが、それは直接交わらないだけだと俺は捻くれた横槍を入れたりしたもんだ。

 直接交わらないのなら、間接的に交わればいい。

 どうせ人間一人では生きられない。ぼっちという意味ではなく、人間社会という意味で。ならば誰かしらが緩衝材として働けばいいだけだ。

 だったら俺は、雪乃の為ならば、少しくらいあの女帝に近づいてもいいって思えてしまう。この行動さえも雪乃からすれば余計なお節介なのかもしれないが。

 

「その辺の事は今回は横に置いといてもいいか? 今回の話とは論旨がずれているからさ」

 

「いいわ。べつにあの人の事を話したいわけでもないのだから」

 

「助かるよ」

 

「それで私と母達がどうして家族ドラマみたいな家族なのかしら?」

 

「どんな家族であっても、なんかしらの問題を抱えているからですよ。うちだって父親が小町ばかり溺愛して、息子の方にお金をかけてくれないとか、仕送りをもっとしてほしいって申請しても即時却下だとか、たまに家族で食事に行くとしても俺の意見は全く聞いてくれないとか、……小町優先なのは俺もだからいいんだけど、親くらいは俺の事を気遣ってくれと言いたい」

 

「それは八幡が愛されていないだけで、家族の問題にさえならないのではなくて?」

 

「そうね。問題意識を持たないのならば、問題にはならないわ」

 

「そこの冷血姉妹。ちょっとは俺の事を大切にしてくれない? そもそも雪ノ下家の話をスムーズに進める為に比企谷家の例を出しただけなのに、どうして俺を揶揄することに全力をあげるんだよ」

 

「あら? 揶揄なんてしてないわ」

 

「どこがだよ」

 

「私は事実をそのまま言ったまでで、人を貶める発言など一切していないわ。そもそも私があげた事実を聞いて、それで自分が馬鹿にされたと思うのならば、その本人が自分の悪い点を自覚していると考えるべきだわ。そうね、補足するならば、見たくもない事実を目にしてしまったということかしら」

 

 雪乃は首を傾げながら饒舌に語りだす

 そして、顔にかかった長い髪を耳の後ろに流す為に胸の前で組んでいた腕を解く。

 

「別に認めたくない事実でもないし、仮に事実だとしても、親が俺の事を放任してくれていて助かってるから問題にはならない」

 

「強がっている人間ほど認めないものよ。早く楽になりなさい。人間一度認めてしまえば、あとは落ちるだけよ。最低人間の極悪息子なのだから、仕送りをしてもらっている事実だけでご両親に最大限の感謝をすべきだわ」

 

「なあ、雪乃。お前って、俺の彼女だったよな?」

 

 最近ではあまりく聞くことがなくなってきた雪乃の毒舌。久しぶりすぎて耐性が落ちてきている気もする。

 ある意味新鮮で、高校時代を思い出してしまい、感慨深かった。

 

「そうよ。あなたみたいな男の彼女をやっていけるのは、私しかいないわ。だから、……感謝するのと同時に、けっして手放さないことね」

 

 訂正。高校時代とは違って、現在はデレが入っております。

 頬を赤く染めて視線をそらす雪乃を見て、これが典型的なツンデレかと感動してしまった。

 これがツンデレが。ツンデレだったのか。

 高校時代の雪乃の場合、ツンはツンだけど、そのツンの破壊力がでかすぎて、殲滅兵器だったからなぁ。たとえデレがあったとしても、ツンによって殲滅された後に雪乃しか立っていなければツンデレは成立しない。

 

「そうだな、……そうすることにするよ」

 

「ええ、そうすることを強くお勧めするわ」

 

「あぁら、私は一言も比企谷君を傷つけたりしないわよ。どこかの言語破壊兵器娘とは違って、大切な人がいるのならば、自分自身が傷つけることはもちろん、他人にだって傷付けさせないわ」

 

「いやいやいや……、さっき雪乃と一緒に言っていましたよね?」

 

「私が言ったのは、問題意識を持たないのならば、問題にはならないわって言っただけよ」

 

「それが揶揄しているって言うんじゃないですか」

 

「違うわね」

 

「陽乃さんの中だけでは、そうなのですか?でも、俺の中ではそれを揶揄しているっていうんですよ」

 

「私の中でも相手に向かって言ったのならば、揶揄しているというわ」

 

「だったら、俺に対して揶揄したことになるじゃないですか」

 

「それは違うわね」

 

 あくまで強気で、挑戦的な瞳をしている陽乃さんにくいついてしまう。

 この人に立ち向かったって痛い目をみるだけの時間の無駄だってわかっている。だから、むしろ立てつかないで、うまく受け流すべきなのだろう。

 だけど、この人を知っていくうちに、深く関わりたいと思ってしまう自分がいた。

 

「どう違うんですかね?」

 

「それは、私が比企谷君に対して言った言葉ではないからよ」

 

「はぁ?」

 

 要領をえない。陽乃さんが何を言っているのか理解できず、気が抜けた短い返事しかできないでいた。

 

「だから、私は比企谷君に向かって発言していないって言ってるのよ。私がした発言は、雪乃ちゃんが言った発言に対する同意意見であって、比企谷君をさして発言した内容ではないってことよ。つまり、一般論を言ったってことかしらね」

 

「はぁ……」

 

 陽乃さんが言っている意味はわかる。わかるんだけど、ずるくないか?

 いくつかの意味にとれる言葉を使って責任をうまく回避していて、なんだが政治家が使う口述技法と重なってしまう。

 

「ね? 比企谷君を傷つける言葉なんて、どこかの自称彼女とは違って一言も言っていないでしょ」

 

「たしかにそうなんでしょうが……」

 

 と、陽乃さんは自分はいつだって味方だと言わんばかりに俺の腕に自分の腕を絡めてくる。

 自分を大切にしてくれて、いつも味方でいてくれるというのならば、それは俺だって嬉しく思える。

 だけど陽乃さんの行動がさらなる危機を招くってわかっていてやっているのだから、これは完全なる味方だって言えるのか?

 げんに雪乃の殲滅兵器起動のセーフティーロックが外された音がはっきりと耳がとらえたし。それは陽乃さんだって、知覚しているはずだ。

 

「ねぇ、酷いわよねぇ。暑い中帰って来たというのに、冷たい麦茶の一つも用意しないだなんて、そんな彼女はいないわよね。はい、八幡。これ飲んで」

 

 陽乃さんはいつの間に用意したのか、氷が適度に溶けだし、グラスがうっすらと曇り始めた麦茶を俺に手渡す。

 

「あ、ありがとう、ございます」

 

「もう、他人行儀なんだから。暑かったから喉が渇いたでしょ」

 

「そうですね。夕方なのに蒸し暑いし、なれないスーツっていうのもきつかったですよ」

 

「そうでしょ、そうでしょ。ささっ、ぐぐっと飲んで」

 

「あ、はい」

 

 きんとくる爽快感が喉を駆け巡る。熱くほてっていた体も、この麦茶を皮切りにクールダウンに入ってくれそうだ。

 雪乃の親父さんとの会談。その後の雪ノ下姉妹の対決。

 おっと、大学での時間調節もあったか。……あれは明日にでも橘教授の元に行かなくてはならないから問題ありだけど、今日はもういいか。

 色々面倒事の目白押しだったけれど、今日はもういいよ。

 喉の渇きが癒されたら、今度は胃袋が陳情してくる。ただでさえ暑くて燃費が悪いのに、緊張の連続で激しくエネルギーを消費してしまった俺のエネルギーは枯渇間近であった。

 

「ねえ比企谷君。今日は銀むつの煮付けを作ったのよ。食べたいって言ってたわよね」

 

「え? 本当に作ってくれたんですか?」

 

「もちろんよ。先日デートに行った時、デパ地下でお惣菜を見ていたときに食べたいって言ってたじゃない」

 

 たしかにデートはデートだけど、ストーカーをいぶりだす為の偽デートじゃないですか。でもここで訂正入れても面倒事を増やしそうだし、かといってこのまま受け入れたら雪乃が黙ってない、か。

 と、雪乃の出方を伺おうと視線だけ動かすと、雪乃は俺の視線を感じてゆっくりと瞬きを一つ送ってよこしてきた。

 ……セーフってことかな?

 

「たしかにいましたけど、覚えていたんですか?でも、あの時見たのは西京焼きでしたよね」

 

「そうよ。西京焼きも好きだけど煮付けの方が好きだって言ってたから、作ってみたのよ。でも、味付けが比企谷君好みだといいんだけどね」

 

「そんなの陽乃さんの作ってくれるものだったら、美味しいに決まってるじゃないですか」

 

「もうっ、嬉しいこと言ってくれるわね。でも、比企谷君好みの味付けも覚えたいからちゃんと意見を言ってくれると助かるわ」

 

「あ、是非」

 

 と、空腹の俺に好物を目の前に放り込まれてしまっては、雪乃の痛い視線に気がつくのに遅れてしまっても、しょうがないじゃないか。

 だって疲れているし、好物だし、嫌な事忘れて食事にしたいし……。

 はい、ごめんなさい。

 俺はやんわりと陽乃さんが絡めて来ていた腕をほどくと、雪乃に謝るべく膝を床についた。

 

 

 

 陽乃さんの指示の元、俺と雪乃はその手足となって料理を運んでゆく。

 三人が一斉にキッチンを動きまわったら身動きがとりにくくなって非効率かと思いきやそこは雪ノ下邸。比企谷宅とは違って三人が一同に行動しても問題はなかった。

 どことなく注意深くキッチンを観察すると、俺と雪乃が暮らすマンションのキッチンとどことなく雰囲気が似ている気がする。もちろん部屋の作りが違うし、規模だって違う。

 だけど、なんとなくだけど使い慣れた感じがするっていうか、違和感を感じないのは雪乃が実家キッチンの仕様をそのまま導入しているからだと思えた。

 比企谷家の台所にだって比企谷家なりのルールがあって、主に台所の支配者たる小町が作ったルールが絶対なのだが、その小町が作ったルールでさえ俺の母親が台所を自分なりに使いやすいようにアレンジしたものが源流だ。

 そう考えると、いくら実家を飛び出して高校から一人暮らしをしだした雪乃であっても実家での生活の全てを実家に置いてくることなんてできなかったんだって今さらながら思いいたってしまうわけで。

 ま、だからなんだって話で、雪乃に話したら自分が使いやすいようになっているだけよってそっけなく突き放されそうだけどさ。

 

「あまり改善点らしい意見はなかったわね。本当にこのままでいいの?」

 

 食事が進み、陽乃さんから依頼を受けていた銀むつの煮込みへの意見。

 俺好みの味を知りたいって言われても、俺が今まで食べた中で最高に美味しかった。

 なにせ俺が初めて食べたのは、親父が東京駅のデパ地下で買ってきたものであり、そして、それを俺が大絶賛したものだから母親が自分なりに作るようになった。そもそも親父だって、しょっちゅうそのデパ地下に行けないわけで、だからこそ母親が作ってくれるようになり、そして平日夜の料理番を任されるようになった小町が比企谷家標準の味付けとなった。

 味付けに関してはお店の物とは違うのだけれど、俺好みに改良されており、なにより小町が作ってくれているんだから文句はない。

 文句がないのは陽乃さんが作ってくれたものも同じだ。でも、同じ文句がないでも、その方向性が違うのが大きな差なのだろう。

 

「俺が今まで食べた銀むつの煮付けの中でダントツで美味しいですって。だから、これをどう改善すればいいかなんてわからないですよ。むしろなにか俺の意見を取りいれることで味のバランスが崩れかねませんか?」

 

「その辺の味のバランスは私の方で調整するから、比企谷君がもっと甘い方がいいとか、しょっぱい方がいいとか言ってくれると助かるんだけどな」

 

「味加減も抜群だと思いますよ」

 

「それじゃあ面白みがないじゃない。私の味付けを比企谷君に押し付けているみたいで。私は比企谷君の好みが知りたいのよ」

 

「そう言われましても……」

 

「八幡に無理難題を押し付けても、八幡が困るだけよ。それに、私も姉さんの味付けはバランスがとれていると思うわ」

 

「そうですって。俺の意見を聞くまでもないほど美味しいんですから」

 

「そ~お? だったら雪乃ちゃんが作ってくれたのと比べたらどうかしら? 作った人が違ったら、味付けが変わるでしょ」

 

「いや……、その」

 

「ないわ」

 

 陽乃さんが望むアットホームというべき温もりに満ちた食卓が、雪乃を中心に遥か遠くの南極の風を吹き乱す。室温は一気にマイナスを振り切り、絶対零度。

 この極寒の世界で生きられるのは、雪の女王たる雪乃とパーフェクトクィーンたる陽乃さんくらいだろう。

 あとは雪乃と陽乃さんの母親を思い浮かべるが、あれはあれで別次元の生き物って感じだし。そんなわけで小市民たる俺は、吹雪が止むのを黙って見ているしかなかった。

 

「ないって?」

 

「銀むつの煮付けを作った事がないっていっているのよ」

 

「そうなの?」

 

「ええ、そうよ」

 

「一応言っておくけど、銀むつってメロのことよ」

 

「そのくらいは知っているわ」

 

「雪乃ちゃんって、銀むつ嫌いだったっけ?」

 

「嫌いではないわ。ただ……」

 

「ただ?」

 

「……知らなかったのよ」

 

 雪乃の小さな呟きは、俺達の耳までは届かなかった。

 けれど雪乃の姿を見れば、陽乃さんはもちろん、俺だって見当はつく。その言葉の裏に込められた意味までも、しっかりと。

 

「知らなかったのよ。だって八幡言ってくれなかったじゃない」

 

「言う機会がなかっただけだって。スーパーに行っても銀むつってサンマやイワシみたいなメジャーな魚じゃないだろ。だから陽乃さんが知っているのも、たまたまデパ地下の総菜コーナーで見かけたからにすぎない」

 

「そうかもしれないけれど、だからといって……」

 

「姉の私が知っていて、彼女たる雪乃ちゃんが知らないのは許せない?」

 

 だから、やめて下さいって、煽るのは。挑発的な顔をして雪乃を追い詰めるのは、ただただ姉妹喧嘩に発展するだけじゃないですか。

 いまや絶対零度の吹雪を撒き散らしていた雪乃王国の氷塊は溶け始めていた。

 なにせ熱砂の女王陽乃さんが雪乃国に熱波をたたきこんで食卓を混乱に引きずり込もうといしているのだから。

 

「姉さん!」

 

「彼女だからって、全てにおいて他者よりも優れていたい?」

 

「そんなことは……」

 

「彼女だから、誰よりも比企谷君を理解している?」

 

「それは……」

 

「彼女だから、他の女を寄せ付けたくない?」

 

「だから、姉さん……」

 

「彼女だから、比企谷君の……」

 

「陽乃さん、もうその辺にしときましょうよ」

 

「そう?」

 

 雪乃は俯き、膝の上で握りしめているだろう拳をじっと見つめていた。その表情は黒髪が覆い尽くしている為に確認できないが、きっと打ちひしがれているのだろう。

 ……いや、負けず嫌いの雪乃のことだから、陽乃さんを睨みつけながら反旗の機会を探っているか?

 どちらにせよ、ここで止めないとせっかく改善した姉妹関係が壊れかねない。

 それにしても今日の陽乃さんは、踏み込み過ぎていないか?

 今までだって小競り合い程度のコミュニケーションは何度もあったけれど、今日みたく雪乃を追い詰めようとしたことはない。だから、不安になってしまう。

 何を考えているかわからない陽乃さんに逆戻りしてしまうんじゃないかって、陽乃さんから漏れ出ているかもしれない不気味な雰囲気を探してしまいそうになってしまう。

 

「雪乃もいいな」

 

「私は……、構わないわ」

 

「あとな、雪乃」

 

「なにかしら?」

 

 雪乃を顔をまっすぐ見つめて、言うべきか迷ってしまう。俺がこれから言おうとしている事は間違いではない。おそらく正しい。けれど、今の精神状態の雪乃が理解してくれるだろうか?

 人は時として事実を受け入れられなくなる。正しいのだけれど、正しいと理解できなくなってしまう。

 それでも今の雪乃には必要な言葉だと、信じたい。

 

「雪乃が俺の事を理解するなんて、無理だと思う」

 

 このたった一言で、雪乃の顔が凍りつく。

 うつろな目で俺を見つめ返し、膝の上になったはずの手はだらりの椅子の下の方へと垂れ下がる。

 裏切られたと思っているはずだ。

 どんなときだって味方だと思っていた俺に見捨てられたと思っているはず。

 なんだけど、こればっかりは言っておかないといけない、と思う。

 

「長年一緒に育った小町だって俺の事を全ては知らないし、俺だって小町の事を誰よりも理解しているって、うぬぼれてはいない。そもそもこんな一般論を言う事自体必要な事ではないと思うんだけどさ、なんだか今の雪乃には、こんな教科書に載っているような一般論が必要かなって」

 

「ある人物の全てを知る事はできない。知ることができるのは、ほんのわずかな一面のみ。親しい人ほど、その人物が持つ一面を数多く手にしてくけれど、それは多いだけであって、すべてではない。裏を返せば、親友が知らなくても、顔見知り程度の人が知っている事さえあり得るってことかしらね」

 

「まさしく教科書通りの解説ですね。まあ、そんなところですよ」

 

「いまさら小学校の教科書に出てくるような事例を八幡に上から目線でご演説して頂けるとは思ってもいなかったわ」

 

 雪乃の力が抜けきっていた肩がピクリと反応したかと見受けられると、半分虚勢が入りつつも胸をしっかりと張る。

 そんな雪乃を見ていると、どこまでも負けず嫌いなんだよって誉め撫でまわしたい衝動に駆られてしまう。なんて自制心を鍛えていると、俺の漏れ出たわずかの衝動を察知した雪乃の瞳が

笑いかけてきているのは思いすごしではないだろう。

 なにせ陽乃さんがむすぅっと俺を雪乃を見比べているのだから、ほぼ確定事項といえた。

 

「そうね。雪乃ちゃんなんて、涙ながらも比企谷君の演説を聞いていたんだから、なかなかの演説だったといえるんじゃない?」

 

「姉さん……」

 

 陽乃さんに険しい視線を向ける雪乃を見て、俺はため息しか出てこなかった。

 陽乃さんも陽乃さんで、どうして雪乃に挑戦的なんだよ。

 これが雪ノ下姉妹の正常な関係って言われてしまえばそうなんだけど、その姉妹の間に置かれている俺の事も考えてほしいものだ。

 

「もういいでしょ。俺だって雪乃の事を全て知っているわけじゃないし、俺よりも陽乃さんの方が雪乃の事を知っている事は多いはずだ。その一方で、ここ数年の雪乃に関しては、誰よりも俺が知っていると自負しているけどな」

 

「はい、そこ。のろけない」

 

「のろけていませんって。それに陽乃さんのことだって、ここ数日で大きく印象が変わってきているのも事実なんですよ。はっきりいって、今までの印象との落差がありすぎて、戸惑っているというか。……いや、当然の結末だったというか、かな?」

 

「どうなんでしょうね? 比企谷君が今見ている私も、それ以前の私も、同じ雪ノ下陽乃だと思うよ。だって、私は私だもの」

 

「それは事実ですけど、俺の頭の中でイメージされている雪ノ下陽乃はやはり変化していますよ」

 

「それは、比企谷君が私の事を知らないだけよ」

 

「ですよねぇ」

 

「落ち込むことなんてないわ。なにせ私なんて、生まれてきた時から姉さんの事を見てきたけれど、全く理解できないもの。……そうね、理解しないほうが幸せなのかもしれないわ」

 

 そっと頬に手を当てて陽乃さんを流し見る雪乃の姿に艶っぽさを感じてしまったのはここでは内緒だが、陽乃さんを理解しようと踏み込むのは、雪乃が言うような不幸せにはならないと思う。ただし、空回りしてしまうとは思ってしまうが。

 なにせ、陽乃さんは自分を見せない人だ。だから、ひょんなことがきっかけで突然垣間見せる陽乃さんの本心を見逃さないように注意深く見守るしかないのだろう。

 

「女はね、謎があったほうが魅力的なのよ。男は理解できないから理解したくなるってものじゃない」

 

「理解したいって思って下さる殿方がいらっしゃればいいわね、姉さん」

 

 言葉づかいこそ丁寧だが、絶対雪乃の言葉の裏には悪意がこもっているだろ。にっこりと細めた目の奥には、きっと陽乃さんへの反骨心がこもっているはずだ。

 

「そうねぇ」

 

 陽乃さんも陽乃さんで、妖艶な瞳を俺に送ってくるのはよしてください。

 

「まずは自分を理解してもらおうと思ったら、相手の事を理解しないと。だ・か・ら、今日は銀むつの煮付けを作ってみたけど、今度は西京漬けの方を作ってみるわね」

 

「宜しくお願いします」

 

「それと、煮付けの方も私の方で研究してみて、ちょっと味付け変えたのが出来たらまた食べてくれると嬉しいな」

 

「絶対食べますって。俺の方がお願いしたいほどですよ」

 

 陽乃さんは俺の返事に頬笑みで返事を返してきた。

 もう終わりだよね? 大怪獣戦争は終わりだよね?

 食事の話に戻ってきたし、核戦争は防がれたんですよね?

 俺はある意味「楽しい話し合い」が終わりを迎えた事に胸を撫でおろす。やや雪乃の方には不満がくすぶっているみたいだが、ここは我慢してくださると助かります。

 

 

 

 

 

 

 

 波乱に満ちた食事も終わり、食後のコーヒータイムとしゃれこんでいた。香り高いコーヒーの誘いが鼻腔をくすぐる。

 これといってコーヒーにこだわりがあるわけではないし、人に自慢するような知識もあるわけでもない。だからといって、コーヒーの香りの魅力が落ちるわけはなく、陽乃さんが淹れるコーヒーの香りに体は素直に反応する。

 コーヒーの臭いを嗅ぐと、体がコーヒーを渇望してしまう。

 まっ、MAXコーヒーはコーヒーのジャンルではあるが、それはそれ、あれはあれだ。むしろマッカンは、MAXコーヒーというジャンルだと思える。

 コーヒーに格別詳しいわけではない俺であっても、毎日のように嗅いでいる特定のコーヒー豆ならば、なんとなくだけど、いつものコーヒーだなって気がつくことができる。

 雪乃の紅茶を淹れる動作もそうだが、陽乃さんのコーヒーを淹れる仕草は絵になっていた。

 雪乃が柔らかい物腰だとしたら、陽乃さんはきりっとした優雅さを描いている。

 いつもはコーヒーメーカーで淹れるらしいが、今日は特別にハンドドリップだそうだ。本人いわく、コーヒーメーカーでやっても、自分でいれても大した差はないわ。自分でやるのは面倒だし、時間と手間がかかるだけ。

 だったら、機械に任せた方が効率的なのよ、とのことだったが、俺からしたら陽乃さんがコーヒーを淹れてくれている動きそのものがご馳走であり、コーヒーの魅惑をより高めているとさえ思えてしまった。

 先日も陽乃さんに手料理をご馳走になったが、そのときも包丁の選択を気持ちの問題で選んだところがあった。

 普段の陽乃さんの行いを見ていると、なにかしらの意味・効率があると思えていた。人の気持ちを手玉にすることも多々あるが、面白半分で行動に起こす事はない。むしろ明確な目的があって行動するわけで、気持ちの問題で選択などしないと思える。

 人間なんて気持ちでモチベーションや成功率が大きく変化するのだから、陽乃さんに限って気持ちの部分を切り離して語ろうだなんて論理的ではない。

 ただ、自分の気持ちを切り離して親の期待を優先して行動してきた陽乃さんだからこそ、俺は陽乃さんの行動原理においては気持ちの部分を切り離して考えてしまう悪い癖がついてしまったのかもしれなかった。

 だから、真心というか、陽乃さんがそういった気持ちの部分を大切にしてくれている事自体が無性に嬉しくも思えていた。

 

「鼻がひくひく動いて可愛いわね」

 

 俺の鼻を見て小さく笑顔を洩らす陽乃さんに、俺は顔が赤くなってしまう。

 コーヒーに誘われて体が反応してしまったのも恥ずかしかったが、それよりも陽乃さんのコーヒーを淹れる姿に魅入っていたことに気がつかれてしまったことに恥じらいを覚えた。

 その俺の恥じらいさえも陽乃さんにとっては、歓迎すべき振るまいなのだろうか。

 機嫌が悪くなるどころか、鼻歌まで歌いそうな勢いで準備を進めていく。

 

「なあ、雪乃。これっていつも家で飲んでいるコーヒーじゃないか?」

 

「そうなの?」

 

 俺と陽乃さんは、雪乃にコーヒー豆の答えを求める。

 急に雪乃に話が振られたせいで雪乃は一瞬キョトンとしたが、すぐさまいつもの調子でたんたんと解説をしてくれた。

 ただ、俺と目が合った時、ちょっと不機嫌そうになったのは気のせいだろうか?

 なにか雪乃の機嫌を損ねることなんてないはずなのに。

 

「ええ、うちのと同じコナコーヒーよ」

 

「いつも飲んでるのって、コナコーヒーだったのか」

 

「自分が飲んでいるコーヒーくらい知っておきなさい」

 

「でも、雪乃ちゃんがコナコーヒーを選ぶなんて意外ね。いや、想像通りっていうのかな?」

 

 陽乃さんはひとり何やら疑問に思ったり、納得したりとニヤついているので、この際ほっとこう。むやみに突っ込むと被害を受けるのはこっちのほうだ。

 

「てっきりスーパーで買ってきた何かのブレンドか何かかと思ってたんだよ。だってさ、雪乃ってコーヒーにはこだわりがなさそうだから」

 

「そう? 雪乃ちゃんもコーヒー飲まないわけじゃないわよ」

 

「そうなんですか?」

 

「だって、雪乃ちゃんが実家にいた時、私がコーヒー淹れてあげてたんだから。今日淹れたコナコーヒーも私が特に好きな銘柄で、雪乃ちゃんも好きだと思うわよ」

 

「へぇ……」

 

 意外だった。雪乃はいつも紅茶ばかり飲んでいるから、コーヒーはそれほど好みがあるとは思いもしなかった。

 いや、紅茶が好きだからといって、コーヒーの好みがないって決めるけるのは早計か。

 

「雪乃ちゃんって私の事がちょっと苦手なことろもあったから、比企谷君に私が好きなコーヒーを勧めるなんて意外だったわ」

 

「八幡がいつも甘いコーヒーばかり飲んでいるから、心配になったのよ。外ではいつも甘すぎるMAXコーヒーだし、家ではインスタントコーヒーに練乳をたっぷり入れて飲んでいるのよ。いつか糖尿になるんじゃないかって心配になるじゃない。……だから、美味しいコーヒーを八幡に飲ませれば、少しは甘くないコーヒーも飲むかなと。だから……、コーヒーなら姉さんのチョイスを信じたほうがいいかと思ったのよ」

 

「うぅ~んっ。雪乃ちゃんってば健気で可愛いすぎるっ。思わず抱きしめたくなるわ」

 

「姉さん。抱きしめたくなるわではなくて、既に抱きついているのだけれど」

 

 すでにコーヒーを淹れ終わったのか、コーヒーカップを3つのせたトレーとテーブルに置くと、陽乃さんは雪乃の後ろから抱きついていた。

 そのあまりにも素早すぎる動きに俺も雪乃も気がつかないでいた。

 気がつかないというよりは、一連の動作があまりにも自然すぎて違和感がなかった。だから、陽乃さんが雪乃の後ろに回り込んでいた事に気がつかなかったのかもしれない。

 

「ちょっと姉さん、苦しいわ」

 

 陽乃さんの強烈な胸に頭を圧迫されている雪乃が、目で俺に助けを求めてくる。

 どうしろっていうんだよ? 下手に手を出したら、二次被害に陥るぞ。ましてや、どこにどう手を出せばいいんだ。

 百合百合しい光景に目が奪われていたわけではない事は、主張しておこう。

 だから俺はトレーからカップを一つ手に取って、そのまま口にカップをよせたとしても、なにを非難されよう。

 うん、うまい。この前も陽乃さんのコーヒーを飲んだけど、さすがだ。ま、俺に味の違いなんてわからなくて、気持ちの問題なんだけどさ。

 俺が優雅にコーヒーを楽しんでいると、ちょっと忘れようとしていた問題が蒸し返される。先ほどより強く鋭い雪乃の視線が俺に突き刺さっている。

 おそらく早く助けなさいって、雪乃が目で訴えているんだろう。

 その必死な視線を貰い受けたのならば、彼氏としては助けるべきなのだろうな。でも、相手はあの陽乃さんなんだよな。へたに助けに入ると俺の方がさらなる被害をうけちゃうし。

 だから、雪乃。ここは一つ自分で頑張ってくれ。

 俺は再び雪乃達の百合百合しい姿緒堪能……いや、静かに見守るとするよ。きっと陽乃さんも飽きれば解放してくれるはずだしさ。

 さて、俺は陽乃さんが淹れてくれたコーヒーを飲んで待ちますか。

 どうやら俺が助けに入らないとわかり諦めたのか、雪乃の反抗は弱まる。

 一方、陽乃さんの方も横目で俺の動向を伺っていたので、俺が手を出さない事を理解したのだろう。

 ん? あれ? もう終わり?

 俺が再びカップに口につけようとすると、目の前の惨劇はトーンダウンし、二人とも静かに自分の席へと戻っていくではないか。

 あら? なんだか二人ともコーヒー飲み始めちゃったぞ。どうなってるんだ?

 

「ねえ、雪乃ちゃん」

 

「なにかしら、姉さん」

 

「もしもの話なんだけどさ、もしもよ、もしも」

 

「ええ」

 

「もし目の前で彼女が、それも愛おしい彼女が困っていたら、彼氏だったら、たとえどんなに困難であっても彼女を助けるものよね?」

 

「姉さん。何を当たり前の事を言っているのかしら。仮に、仮にだけれど、私がお付き合いする彼氏だとしたら、たとえ自分の命を引き換えにしてでも、私を助けに来るに決まっているじゃない」

 

「そうよねぇ。彼氏なんだし。もし、もしもだけれど、彼女を見捨てることなんてあったら、彼氏失格よね」

 

「当たり前じゃない。これも仮定の話なのだけれど、彼女が困っているのを目にしながらも、それを平然と横目で見ながらコーヒーなんて飲んでいるとしたら死刑ものね」

 

「そうよねぇ……。もしもだけど、雪乃ちゃんがそんな彼氏と付き合っていたとしたら、即刻別れるわよね?」

 

「そうね」

 

 あれ? なんでこうなった?

 なんでこんなときだけ息ぴったりなんだよ!

 そりゃあ雪乃を見捨てて陽乃さんから逃げ出したけど、それは俺が加わると二人して被害にあって、それもその被害が倍どころじゃすまないって雪乃も知ってるじゃないか。

 だから、俺は黙って嵐が過ぎ去るのを待っていたのに。

 

「だってさ、比企谷君」

 

「え?」

 

 陽乃さんはそう弾むような声で言うと、後ろから俺の首元に両腕を絡みつけてきた。そして、今度は雪乃ではなく、俺の頭をその豊満な胸で抱きかかえてくる。

 ほどよい弾力を持つそのクッションで俺の頭を包み込むと、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべていた。

 

「比企谷君、雪乃ちゃんに振られちゃったねぇ」

 

「え? あの……」

 

「だ・か・ら、私と付き合っても問題ないね。だって、比企谷君は今フリーでしょ。彼女いないんだったら私と付き合っても問題ないし」

 

「えっ、えっ? 陽乃さん?」

 

「もうっ。陽乃さんじゃなくて、陽乃でいいよ。あっ、私の比企谷君じゃなくて八幡って言ったほうがいいかな?」

 

「姉さん」

 

 怒涛のごとく進む展開についていけない。

 いつしか陽乃・雪乃連合は決裂していた。

 いや、最初からこうなる運命だったのか。陽乃さんだったら、ありえる。雪乃も気がついたときには遅く、陽乃さんのペースについていけてはいないようだった。

 

「陽乃さん? あの陽乃さん、ちょっと待ってくださいよ」

 

「もうっ。陽乃さんじゃなくて、陽乃でしょ。ほら、言ってみて」

 

「え? はい。陽乃」

 

「はい、八幡。……あぁ~、いいわ。なんか彼氏彼女ってかんじがするぅ」

 

 陽乃さんは勝手に舞い上がって、勝手にはにかんで、勝手に身悶えていた。

 ただ、問題があるとしたら、どの行為であっても陽乃さんの動きに連動して胸が大きく揺れ動き、その結果、俺の頭もその胸の恩恵を受けるわけで。

 うん、……柔らかくて、気持ちいいっす。

 と、陽乃さんの精神攻撃を直撃されていると、遠方から致死性の精神攻撃が準備されていた。

 もしトリガーが引かれでもしたら、俺の精神はすぐさま崩壊するだろう。

 しかし、まだトリガーに指をかけた状態だというのに、雪乃から漏れ出る冷気だけで俺を圧迫していた。陽乃さんは雪乃の冷気を感じ取っているはずなのに、まったく意に関せずで我が道を突き進んでいた。

 

「姉さん」

 

 ほら、陽乃。雪乃さんが呼んでますよぉ。

 訂正。陽乃さん。雪乃が呼んでいます。

 

「もう、八幡ったら。もう一回陽乃って呼んで。きゃっ」

 

「姉さん」

 

「ほらぁ、八幡も照れないで。陽乃って言ってよぉ」

 

「姉さん」

 

「ほら、ほらぁ」

 

「姉さん」

 

「陽乃、そろそろやめた方がい……ぐっ」

 

 俺は最後まで言葉を紡ぐことができなかった。

 顔を雪乃の手で掴まれ、そのまま陽乃さんの胸へと押しやられる。クッションが効いていて気持ちいいだけだが、前からの迫りくる圧迫はその心地よさも全て帳消しにしてしまう。

 いったい雪乃の細い指のどこに俺の顔をしっかりと掴む力がやどっているのか疑問に思う。

 見た目通り線が細い雪乃の体に、俺を抑え込む力があっただなんて、到底想像なんてできなかった。俺の顔を掴み取り、じりじりと俺の皮膚に爪が食い込んでいく。

 爪が食い込んで痛いのか、それとも指による圧迫が痛いのかわからない。

 おそらくその両方なんだろうけど、とにかく救いがあるとしたら、雪乃の手によって目が半分以上おおわれて視界を奪われている為に、雪乃の顔を直視しなくていい事だった。

 それでも雪乃の手の隙間から覗き込む雪乃の顔を見ると、ほんのわずかでもその顔を見た事を後悔してしまう。

 だって、その表情だけでも致死性の精神攻撃が備わっているなんて反則だろ。

 もし、これを直視していたんなら、俺は石になっていた自信がある。心を堅く閉ざして、必死に嵐が去るのを待つしかない。

 陽乃さんくらいなら、笑いながらその嵐の中でサーフィンをやってのけてしまう馬鹿者だろうけど、あいにく俺にはそんな度胸も卓越した能力も持ち合わせてはいなかった。

 

「ねえ、八幡。今陽乃とはいっていないわよね? たぶん私の聞き間違いだと思うのだけれど」

 

 たしかに思わず「陽乃」って言ってしまった。でもさ、雪乃。それは、陽乃のプレッシャーというか、いや、訂正します。

 陽乃さんのプレッシャーからくるもので、心の底から呼び捨てにしたいって思ったわけではないんだって。

 

「あ、……ぐっ」

 

 だから、言い訳になってしまうけれど、俺の本心を雪乃に伝えようとはした。

 だが、雪乃によってアイアンクローを喰らっている俺には口を動かす余裕もなく、ただただ嗚咽を漏らすことしかできなかった。

 

「ゆき……の、ちゃん?」

 

 陽乃さんの声もくぐもっていく。

 なにせ雪乃の握力だけで俺を陽乃さんの胸から引き離してしまったのだから。

 俺は雪乃に顔を引っ張られるまま抵抗もせず、腰を椅子から浮かす。そして、雪乃の誘いのまま雪乃の胸へと収められた。

 

「姉さん。おふざけにしても限度があるのよ。私の八幡にちょっかい出さないでくれないかしら」

 

「あら? いつ雪乃ちゃんと比企谷君が結婚したのかしら。せめて婚約したのなら問題だけど、ただ付き合ってるってだけじゃねぇ。比企谷君の所有権を主張するんなら、それくらいの根拠を示してほしいわ」

 

「あら。姉さんにとっては法的根拠など意味をなさないのではなくて? そんな曖昧で、紙切れ一枚の根拠など寂しいだけだわ」

 

「あら。気が合うわね。私もそう思うわ。だ・か・ら、比企谷君が望む場所を選ぶべきよね?」

 

「それが姉さんの所だとでも言いたいのかしら?」

 

「べっつに~。でも、比企谷君は、私の胸の中で幸せそうにしていたわよ。今いるゴツゴツしているだけの場所よりは気持ちよさそうだったわ」

 

 おっしゃる通りで。だからといって、それを認めるわけにはいかない。

 認めたら最期。今度は冷たい箱に俺が収められてしまう。

 

「そうかしら? 姉さんの場合は無駄に八幡を圧迫しているだけだったようだけれど。それに、たとえ肉体的優位性があったとしても、それがなんだというのかしら? それこそ一時の快楽にしかならないわ。そのような浅いつながりで八幡を繋ぎ止めておけはしないわ」

 

「雪乃ちゃんも言うわねぇ。そこまで比企谷君を信頼しているっていうことかしら。でもね、それだったら、肉体面だけでなく、精神面での優位性も確保すればいいだけじゃない。すでに肉体面では雪乃ちゃんは白旗を上げたんだし、あとは精神面しか残っていないとも言えるわね」

 

 雪乃は少し悔しそうに唇をかむ。肉体面だけならば、一般的に見れば明らかに陽乃さんが有利だ。出るところは出ているし、引っ込むべきところは引っ込んでいて、

 優美な曲線が女性らしさを際立たせている。それはある種の理想的な女性美なのだろう。

 誰もがうらやむその肉体を独占できるのならば、男としては本望だ。

 だけど、それは一般的な意見でしかない。その一般に俺が含むかは別問題だ。たしかに俺も陽乃さんの女性らしい美しさは認めるし、見惚れてしまう。

 こればっかりは雪乃には足りない。いくら新月のような儚い美しさと、満月のような引き込まれる笑顔を持っていようとも、圧倒的な太陽の前ではかすんでしまう。

 でもな、雪乃。俺は一般的な意見には含まれない。

 なにせ捻くれているからな。

 若干線が弱いか細い肉体も、優美さが多少弱かろうと、それがなんだっていうのだ。精神面の絶対性があるのなら、その肉体の持ち主のそのものを受け入れるのに。

 まあ、その精神面での絶対的持ち主から、強烈なアイアンクローを現在進行形で喰らっているのはどうしてなんだろうなぁ……。

 ちょっとだけ涙が出てきているのは、アイアンクローが痛いせいなんだよ、きっと。

 けっして、ひょっとして愛すべき人を間違えちゃったって疑問に思ったわけじゃないんだから、ね!

 

「そう、かもしれないけれど、だからといって、八幡を姉さんに渡すわけないじゃない」

 

 雪乃はそう宣言して、きつい目つきで陽乃さんを威嚇すると、さらに手の力を強める。

 きっと誰にも渡さないっていう意思表示なのだろう。

 陽乃さんもその強烈すぎる雪乃の主張を見て、不安を覚えてしまったらしい。

 そして、雪乃は陽乃さんの戦意喪失していっているのを見て、勝ち誇ってしまう。

 だけどな雪乃……。

 

「ねえ、雪乃ちゃん」

 

「なにかしら? もう何を言っても意味をなさないわ」

 

「そんなことじゃなくて」

 

「なんだっていうのかしら? もう姉さんの戯言には聞く耳をもたないわ」

 

「そうじゃなくって」

 

「勝ち目がないからって見苦しいわよ」

 

「ねえ、そうじゃなくって。見苦しいわよは聞き捨てならないけど、そうじゃなくってね」

 

「もうっ、歯切れが悪くてイライラするわね。はっきり言ったらどうなのよ」

 

 雪乃は陽乃さんへのいらつきを、さらに手に力を加えることで発散する。その雪乃の発散を見て、陽乃さんの顔はさらに不安げになっているようだった。

 

「はっきり言ってもいいのかしら?」

 

「ええ、どうぞ」

 

「たぶんそのままだと比企谷君に愛想を尽かされるわよ」

 

「なにを言っているのかしら?」

 

 雪乃は勝ち誇った顔で陽乃さんを見つめ返しているらしい。

 おそらくそうなんだろう。

 実際目の前で見ているのだから、確定情報だろうって?

 いや、違うね。重大な事を忘れられちゃこまる。なぜなら、雪乃のアイアンクローによって、意識が朦朧としてきている俺にとっては、今何が起きているかはわからなくなってきているのだから。

 そう、陽乃さんが気にしていたのは、俺の意識。消えゆく俺の命のともしびを心配していたのだ。

 そりゃあ、顔をわしづかみにされているんだから、今も痛いさ。

 でもな、ある水準以上の痛みを加えつけられていると、意識がとぶんだよ。これが落ちるっていうやつなんだろう。

 愛する人の腕の中で眠るのを夢見るやつは数知れず存在するだろう。だけど、愛する人の手で顔を鷲掴みにされて落とされることを想像したことがあるやつなんているのだろうか?

 薄れゆく意識の中、初めて落とされて意識を失う前に思ったのは、そんなくだらない現状確認であった。

 遠くの方で雪乃の声が聞こえる。

 もういいや。このまま眠らせてくれよ。もう疲れたんだよ。精神を抉る会話戦はこりごりだ。

 俺はふわりとした優しい温もりに包まれていくのを感じたのを最後に、意識を失った。

 

 

 

 

 

 俺が意識を取り戻すと、心配そうに俺を見つめる雪乃と陽乃さんがそこにはいた。

 どうやら五分ほど意識を失っていたらしい。

 やはり俺の意識がとんだ事態までなってしまったことに、二人とも反省していた。

 だから、雪乃が俺を膝枕していても、とくに言い争いにはなってはいない。もしかしたら、俺が意識を失っている間にひと悶着あったのかもしれないが、そこまで気にしていたらこの二人の間で生きてはいけないだろう。

 

「いつっ」

 

 さすがに雪乃によっての被害だとしても、膝枕をして顔をタオルで冷やしてくれていたのだから、一言お礼を言わなければならない。

 だけど、顔に多少の歪みがあるのか、うまく口がまわらず、痛みのみが俺に襲い掛かる。

 

「大丈夫? まだ顔が腫れているわ。無理に話さない方がいいと思うわ」

 

「ほら、じっとしてるのよ」

 

 陽乃さんはそう俺に優しく語りかけると、顔から滑り落ちた濡れタオルを再び俺の顔に当て、冷やしてくれる。

 最初は雪乃が原因なのだから、陽乃さんは雪乃をからかうのではと身構えていた。

 普段の陽乃さんならば、きっとしていたはずだ。だけれど、俺のこの状況を見てさすがに停戦協定を結んでくれたらしい。

 まあ、いつ停戦破棄がなされてもおかしくないけど。

 

「それにしても雪乃ちゃんったら、比企谷君に関してだとリミッターが外れちゃうのね」

 

「もう……、それは姉さんが悪いのよ」

 

「ごめんなさい。さすがにやりすぎちゃったわね。でも、雪乃ちゃんも気をつけたほうがいいわよ。いい方向にリミッターが外れるのならばいいのだけど、悪い方向に外れたとしたら、今日のことが可愛い失敗だと思えてしまう事態になりかねないわ」

 

 雪乃は陽乃さんの指摘に息をのむ。そして唇を引き締めると、しおらしい小さな声で呟いた。

 

「そうね。気をつけるわ」

 

 それっきり、俺にとっては多少気まずい時間が進んで行く。

 雪乃と陽乃さんは甲斐甲斐しく頬笑みを浮かべながら俺を介抱してくれているのでなんだかんだいっても充実していた。そんな二人の姿を見ていれば、俺も微笑ましい気持ちになるかといえば、そうでもない。

 陽乃さんはなにをしたいのだろうか?

 今までずっと俺と雪乃の仲を取り持ってくれて、なにかと協力してくれていた。多少行きすぎた場面や、冷やかしなどは受けていたが、それは許容範囲に収まる。

 けれど、最近の陽乃さんは陽乃さん自身が自分の感情に振り回されているんじゃないかって疑問に思ってしまう。

 本人もそれを自覚しているみたいであったが、だからといって、俺が何かできるわけでもない。

 陽乃さん本人でさえ制御できていないのに、俺が何かできるとは到底思えもしなかった。

 だから、雪乃に対して言ったリミッター云々の話は、雪乃に対してではなく、むしろ自分自身に言ったのではないかと思わずにはいられなかった。

 

「せっかくコーヒー淹れたのにさめちゃったわね。もう一度淹れなおすわ」

 

 陽乃さんは床から立ち上がり、コーヒーを淹れなおしに行こうとする。

 

「冷めてても大丈夫ですよ。それ飲みます」

 

「え? でも」

 

「姉さんのコーヒーは美味しいのだから、冷めていても美味しいわ。だから、私もそれで構わないわ」

 

「そう?」

 

 陽乃さんは持ちあげたトレーを再びテーブルに置くと、再び俺の横へと戻ってきた。なにやら少し嬉しそうにしているのは、俺の気のせいではあるまい。

 今まで料理を作ってあげる相手がいなかったのだから、コーヒーだとしても、ハンドドリップで淹れた陽乃さん特性のコーヒーを誉められて陽乃さんが嬉しくないわけがなかった。

 

「そうですよ。こんなに美味しいコーヒーは飲んだ事はありませんよ」

 

「そっかぁ。だったらまた淹れてあげるね」

 

 たしかにお世辞抜きに美味しすぎるコーヒーなのだから、本心からの発言ではあった。

 これでも、ここまで陽乃さんが心を開いてくれてるとは思いもしなかった。

 まるで童女のような無垢な頬笑みに、俺は心を全て奪われてしまう。

 その年初めて雪が降った翌朝。

 足跡一つない雪原のような真っ白な心。

 汚れがないっていうのは、こういうのだって初めて目の当たりにした。

 もちろん陽乃さんは人の汚い部分を俺以上に知っている。小さい時から大人の世界に投げ込まれてきたのだから、その場数は相当なものだろう。しかも、人の心を敏感に察知して先回りすることができる陽乃さんの事だ。必要以上に普通の子供なら体験できないような、仮に体験できたとしても小さな体では受け止められないようなプレッシャーを抱え込んできたと思う。

 だから、汚れなら誰よりもその醜さもいらだちも理解しているはずだ。けれど、俺が言いたい事は、他人の汚れではない。

 陽乃さんの汚れがない感情表現について語ってしまいたい。

 こんな事を言ってしまうと、心変わりでもしたか、もしくは陽乃信仰者とも勘違いされてしまいそうだが、陽乃さんに汚れがないわけでもない。最近の情緒不安定な陽乃さんの行動からすれば、汚れがあるといえてしまう。

 なんだかまとまりがない論文のようになってしまったが、俺が言いたいのは陽乃さんが、今、初めて、自分の心が汚されてしまう事を考えもせずにありのままの心をさらけ出しているっていう事だ。

 普通の人間ならば、自分の心を守ろうと自己防衛が働いて、どんな言葉であろうと自分の心を守りながら発言する。

 よくあるのが、一応頑張ったけど難しい試験だし次頑張ろうとか、あらかじめ先回りして自分を慰めたりすることといったところだろうか。

 これは発言ではないけれど、言葉自体に意味があるのだから、言葉を発した瞬間に身を危険にさらしてしまう。だから人は自分が傷つかないように殻にこもった言葉を発する。

 つまり、今の陽乃さんは無防備すぎる。

 まあ、誰にでも心を開いているってわけではないので、今のところは大丈夫だとは思うが、危うい状態であることにはかわりがない。

 おそらく、特定の人間一人。多くても4人だと考えられる。

 ……一人と考えてしまうのは、恐れ多いか。

 これでは雪乃には勝ち目がないとさえ思えてしまう。

 直線的に相手の心に飛び込んでくるその姿に、誰が抗う事が出来るっていうのだ。

 しかも、汚れがない、無垢で、純粋すぎるその心をむき出しにしたまま。

 こんな事を言ってしまうと、処女信仰者とも思われてしまいそうだが、けっして違うと一応言っておこう。されど、真っ白な心を目の前にして、その雪原への招待状をプレゼントされて喜ばない男がどこにいるというのだろう。

 なんて、回りくどい事をくどくどしく考えてしまったが、もしかして陽乃さん、本当に自分の感情を制御できなくなってません?

 感情を抑え、表面に出さない事は長年の生活で当たり前のようにできるようになっており、偽りの感情表現は豊かだと思う。

 一方で、その反作用で本心を素直に出すことができなくなり、本心からでる感情表現が制御できなくなってしまったのではないだろうか。だから、陽乃さんが感情を表に出す時は、常に全力で、それが隠しもしない丸裸の本心になってしまう。

 俺は今目の前にいる陽乃さんに見惚れていた。

 俺は、思わず身震いしてしまう。

 いや、なに。陽乃さんに対してではない。

 俺と一緒に陽乃さんを見ているであろう雪乃に対してだ。

 俺が陽乃さんに見惚れているのだから、雪乃だって陽乃さんの溢れ出る魅力に気が付いているはずだ。つまり、魅力的な陽乃さんに俺が見惚れてしまうと勘づくはずだった。

 俺はそっと視線だけを雪乃に向けて様子を伺う。雪乃は俺の方を見てはいなかった。念のためにもう一度しっかりと確かめたのだから見間違えてはいなかった。

 雪乃は固く唇を噛んで陽乃さんを見つめていた。

 別に雪乃は恐れを感じていたわけでもないだろうが、きっと複雑な心境なのだろう。なにせ陽乃さんが本心を見せたのだ。

 もちろん今までも陽乃さんが作り上げた感情を、偽物の感情表現を見てきた。

 けれど、雪ノ下陽乃という剥き出しの生身の感情を雪乃に見せた事はない。

 それを初めて雪乃は見たのだから、言い表せない感情が雪乃の中で渦巻いているはずだ。

 

「はい、是非お願いします」

 

「いつでも気軽に言ってね」

 

「はい」

 

「雪乃ちゃん?」

 

「……あ、はい。私も姉さんのコーヒー、また飲みたいわ」

 

 雪乃は陽乃さんの呼びかけに、どうにか笑顔を作り上げて返事をする。

 意識の底辺から一瞬で表情を再構築するあたりは、さすが雪乃だ。

 でも、作り上げた笑顔はあまりにも急ごしらえすぎたようで、すぐさま崩れ落ちようとしていた。

 雪乃の驚きようはわからないまででもないにしろ、ここは俺が話をつないでおくかね。

 

「そういえばこのコーヒーって、コナコーヒーなんですよね?」

 

「そうよ。私の一番のお気に入り。比企谷君も気にいってくれているみたいですっごく嬉しいわ」

 

「ずっと銘柄も気にしないで飲んできましたけど、名前を意識するとなんだか急に実感してくるというか、明確な存在感が出てきますね」

 

「たいていの物には名前があるんだし、名前によって比企谷君の記憶に明確なまでもコナコーヒーが刻まれたんじゃない?」

 

「名前がある方が印象深いですからね」

 

「それに、コナコーヒーの注意書きには、私も含まれているしね。雪ノ下陽乃の一番のお気に入りコーヒーって」

 

「まあ、そうかも……しれませんね」

 

 ちょっと陽乃さんっ。その発言危険ですって。ついさっき同じような状況で雪乃に締め落とされたばかりなんですよ。ちょっとは気をつけてください。

 ……と、雪乃の方の様子を伺うと、まだ立ち直れてなかった。

 どうにかセーフか。やばいですよ、陽乃さん。こんなラッキー、次はないですから。

 

「そうだ。コナコーヒーってどんなコーヒーなんですか?」

 

「どんなって?」

 

「この際だからもうちょっと詳しくなっておこうかなって思いまして、生産地とか特徴とか知ってみたなと」

 

 本当はこのまま陽乃さんの話の流れに乗るのは危険だと思ったから別の話題をふっただけなんですけどね。

 コナコーヒーにまったく興味がなかったわけではないけど、話題を強引に変えたって陽乃さんは気が付いているみたいだった。

 それでも陽乃さんが俺の意図に乗ってくれたのだから、使わせてもらいますが。

 

「そうねぇ……。生産地がハワイということは有名じゃないかしら?」

 

「ええ。そのくらいなら知っていますよ」

 

「ブルーマウンテンまでとはいかないまでも、高価なコーヒーなのよね。たしかに味も香りも私好みだわ。でも、値段が高い理由は人件費などの生産コストなのよね」

 

「人件費って、特殊な作業員でも必要なんですか?」

 

「違うわよ。純粋に人件費が高いだけよ。ほら、ハワイってアメリカでしょ。だから、発展途上国で作るよりも人件費が割高なのよ。ただそれだけよ。一応世界最大の先進国なわけでもあるのだから、人件費もお高いわよね。だから、どうせ作るのならば、人件費が安い発展途上国よね」

 

「でしたら、ブルーマウンテンは値段が安くなるんじゃないですか?」

 

「ジャマイカの詳しい賃金は知らないけど、アメリカよりは安いはずよね。でも、生産量が少ないのよね。だからじゃないかしら?」

 

「希少価値ってやつですね。でも、アメリカは農業国でもあるわけじゃないですか。小麦とかトウモロコシなどの大規模経営は有名ですよ」

 

「たしかにね。まあ、私も詳しく調べたわけでもないから、実情はわからないわ。ブランドの維持も関わってくるじゃないかしらね」

 

「ブランドですか……」

 

「だって、日本人だってブランド物大好きでしょ? 合成の革だったり、ビニールのような化学繊維で作られた鞄が何万も何十万もの値がつくのよ。同じコストで生産できるのなら、高いブランド力を維持して、値段を高いままにしておきたいのが、経営者というものじゃないかしら」

 

「そこまで身も蓋もない事を言われてしまうとなんですがね。日本人って行列ができていれば並んでしまうし、価値がないものを価値があるって思う心理もあるから、その辺をうまく売りにすれば、商売ぼろもうけですね」

 

「だよね。美味しいってわからないのにならんじゃって、何十分も並んで実際食べてみたら期待外れだっていう人も多いし」

 

「美味しくないものを美味しいように見せるのは犯罪ですよ。だから、TVのグルメ番組は信じません」

 

「そう? あれはあれで無知な群衆に売れない商品を売り付けるいい商売方法だと思うんだけどなぁ」

 

「陽乃さんは食べてみたいと思った事はないんですか?」

 

「さすがにあるわよ。でも、どうしても食べていって思う事はないわね。友達が買ってきたのを貰ったりとかで食べる程度よ」

 

「それだと陽乃さん自身は被害にあってないじゃないですか」

 

「まあ、ね。でも、私の場合はたとえまずくても料理をする上でのサンプルになってしまうだけね」

 

「だったら、まずい料理でもかまわないってことですか?」

 

「それは美味しいものを食べたいわよ。私も好き好んでまずい料理は食べたくはないわ」

 

「そうですよね」

 

 ここで陽乃さんがイエスといったら、どこまでストイックな料理人なんだよとちょっと意外すぎる評価をくだしそうではあった。

 

「あれ? なんでまずい料理の話になったんだっけ?」

 

「ブランドものとか、TVの評判の話からですよ」

 

「そっか。コナコーヒーもある意味ブランドものだしね」

 

「このコーヒーの美味しさには罪はないんでしょうけど……」

 

「まあ、ね。私もこのコーヒー大好きよ」

 

「はぁ……」

 

「どうしたの、雪乃ちゃん?」

 

 陽乃さんにコナコーヒーの事を聞いていたら、雪乃が突如としてため息を漏らすものだから、気になってしまう。

 雪乃にかまってあげずに、陽乃さんと話していたから拗ねたのか?

 そう全く方向違いの勘違いをしていると、もう一度ため息をついてから雪乃は語りだした。

 

「どうしたもこうしたもないわ。どうして美味しいコーヒーを飲みながらも擦れた会話をしているのかしら? 上品な会話をしてくださいとは言わないけれど、もう少し周りにいる人間が聞いていても楽しい会話をできないのかしらね?」

 

「俺はけっこう今している会話を楽しんでるけど?」

 

「私もよ」

 

 俺も陽乃さんも、雪乃が言っている意味が訳がわからないといた顔を見せるものだから、雪乃はさらにため息をついてしまった。

 

「もういいわ。楽しい会話を邪魔してしまってごめんなさいね。続けてくださってもけっこうよ」

 

「あぁ……、雪乃ちゃん」

 

「なにかしら、姉さん?」

 

 陽乃さんが口角を釣り上げて意地が悪い笑みを浮かべるものだから、雪乃は陽乃さんの挑発にのってしまう。

 二人とも安い挑発だってわかっているはずだ。それでも出来レースのごとく挑発を売り買いするんだから、けっこうこういう関係を気にいってるのかもしれなかった。

 

「もしかしてぇ、やいちゃってる?」

 

「はぁ?」

 

「私と比企谷君が、楽しく、弾んだ会話をしているものだから、雪乃ちゃんは一人でコーヒーを飲んでいないといけなものね」

 

「私はやいてなんていないわ」

 

「そうかしら?」

 

 陽乃さんはさらに口角をあげて、雪乃に迫りくる。

 雪乃も雪乃で、引いたり、かわしたりすればいい所なのに、自分から一歩前に出るんだもんなぁ。

 二人して負けず嫌いだから、しゃーないか。

 

「そうよ。私はただ二人が世の中に擦れ切った人間の会話をしていて、そっと一人でため息をついていただけよ」

 

「そうかしらね。まっ、いいわ。それで」

 

「なにかしら。なにか馬鹿にされているような気がするのだけれど」

 

「ええ。馬鹿にしているわ」

 

「姉さんっ」

 

「おいおい、雪乃。その辺にしておけって。それと陽乃さんも」

 

「は~い」

 

「八幡はどちらの味方なのかしら?」

 

「今はどちらの味方でもないよ。コーヒー飲んで会話しているだけだろ?」

 

「そうよねぇ。比企谷君の言う通りだわ。つっかかってきたのは雪乃ちゃんじゃない?」

 

「あっ、そう……よね。ごめんなさい」

 

 たしかにつっかかった内容の発言を最初にしたのは雪乃だ。

 でも、その原因を作ったのは陽乃さんでしょ。だから、ここで雪乃のフォローもしておかないとな。

 

「陽乃さんも雪乃を挑発させるような発言は控えてくださいね」

 

「は~い」

 

 ちょっと面白くなさそうな顔を陽乃さんは見せるが、まったく反省してないんだろうなぁ。

 明日になったら、いや、数分後には再び雪乃を挑発してそうだ。

 それが二人の関係を維持するのに必要な儀式みたいなものでもあるから仕方ないといえた。

 

「でも雪乃。コーヒー豆の生産コストについて話していたんだし、擦れた内容ってわけではないんじゃないか?」

 

 雪乃は目を丸くして俺を見つめる。

 そして、再度ため息をつこうとしたが、無理やり大きく息を吸う事でため息を打ち消した。そして、呆れ果てた顔つきで、言いかえしてきた。

 

「日本人のブランド好きとか行列好きの話をしていたじゃない。しかも、商品価値が低いとか、味がまずいのが前提で話していたわ」

 

「そうか?」

 

「そうよ」

 

「そうかしら? でも、実際問題、商品価値が実売価格よりも低くなるのは当然の事よ。そもそも原価よりも安い値段で販売なんてできないのだから。たしかに商品そのものの価値と販売価格が釣り合っていないのは詐欺だと思うわね」

 

「それが擦れているというのよ」

 

「事実だろ?」

 

「事実よね?」

 

「はぁ……」

 

 今度こそ雪乃はため息を打ち消すことができなかった。

 雪乃、あきれ顔で俺達を見渡すと、そっと瞳を閉じる。そして、数秒後にその瞼を開けた時には、陽乃さんにも劣らない意地が悪い瞳をしていた。

 

「私だけいいこぶってもしょうがないわね。今日は二人の会話に乗ってあげるわ」

 

「べつに俺達は特殊な会話をしていたわけじゃないぞ」

 

「そう感じているのは、あなた方二人だけよ。一般人には十分特殊で、十分すぎるほど異常だったわ」

 

「だったら一般人の感覚がおかしいんじゃないか? TVのグルメリポーターの言う事は信じるなって、小さい時に親から教わるだろ?」

 

「そのようなことは教わらないわ」

 

「うそ?!」

 

「嘘じゃないわ」

 

 あれぇ? 俺は、小さい時に親父から何度も言われてたんだけどなぁ。

 グルメ番組見ていたら、必ずといっていいほど言ってたし。

 どの辺が美味しくない根拠とか、夫婦そろって言い争ってたりしていたのが小さい時からの家族の団らんだったんだけどな。

 けっして美味しいとは思わないくせに、なんであの夫婦はよくグルメ番組なんてみていたんだろう? ちょっと不思議だ。

 

「知らない人から声をかけられたら逃げろとかは言われただろ?」

 

「ええ、言われたわ」

 

「街で行列を見たら、笑いながら指をさしてスルーしろ。けっしてならんじゃいけないは?」

 

「言われた事はないわ」

 

「グルメ番組に出てくるお店は、TV局にコネがある店しか出ないから、けっして美味しい店は出てこないは?」

 

「ないわ。……でも、よく姉さんが言ってた気がするわね」

 

「ええ、言ってたと思うわ」

 

「じゃあ、そうだなぁ……」

 

「もういいわ。あなたの性格形成の一端がよくわかったから」

 

「面白いご両親だったのね」

 

「そうかな? くそ親父だったと思うぞ」

 

「用心深くなったのは両親のおかげね。だから、偽物ではなく、本物を手に入れられたのではないかしら、ね、雪乃、ちゃん」

 

「な、なにを言っているのかしら? もう……」

 

 陽乃さんの不意打ちに雪乃は頬を赤らめる。そんな雪乃を見て、陽乃さんは満足そうにしているけど、さっきした反省はもう忘れたのですか。それでこそ陽乃さんだけれど、だけどなぁ。

 

「まあ、偽物も磨き続ければ本物とは違う輝きを放つと思いますから一概に偽物が悪とは思っていませんよ」

 

「え? そうなの? だったら雪乃ちゃんにもう飽きてしまったとか?」

 

 なんなんだよ、この人は。せっかく話題を変えようとしているのに、まだ雪乃をターゲットにするのか? 

 今は分が悪いと思ってか、雪乃は静かにしているけど、さっき散々面倒な事になってたじゃないですか。

 

「一般論を言っただけですよ」

 

「もうっ……、ちょっとからかっただけじゃない」

 

 陽乃さんは肩をすくめると、ちょっと残念そうに息をつく。

 俺ももろに嫌そうな表情が顔に出てただろうしな。

 でもなぁ、このまま陽乃さんが拗ねてしまうのも気が引けるし。

 

「そういえば、コーヒーも偽物が多いそうですね」

 

「たしかに偽物も多いわね。でも、一概に偽物とは言えないものもあるのよ」

 

「それは先ほど八幡が言っていた偽物でも上質な物もあるということかしら」

 

 俺がもう一度話題を振ると、雪乃も俺の意図を察してか、話に乗って来てくれる。そうなると陽乃さんも俺達の意図を理解してくれてか、にこやかに語りだしてくれた。

 

「それともちょっと違うわね。だいたいはあってるんだけどね」

 

「だいたいですか」

 

「そもそもブルーマウンテンもコナコーヒーも生産量が少ない希少な品なのよ。それなのに日本中にあふれているじゃない。希少な品なのに日本にあふれているって、異常だとは思わない?」

 

「そう言われてみれば異常ですね」

 

「だとすれば、名前だけの別ブランドなのかしら?」

 

「それともちょっと違うわね。まず、ブルーマウンテンだけど、ブルーマウンテンと名前をつけることができるのはブルーマウンテン山脈の標高800~1200メートルの特定の地域だけらしいわ。だけど、日本に輸入されている豆の多くは、標高800メートル以下の本来ならばブルーマウンテンとは名乗れない豆なのよ」

 

「だとしたら、偽物ってことですか?」

 

「どうなのかしらね? それなりに美味しいわけだから、飲んだ人が知らなければ幸せなんじゃないかしら?」

 

「ま、ブルーマウンテンっていう名前だけでコーヒーを飲んでいる奴らばかりだし問題ないかもな」

 

「ええ、そうね」

 

「あなたたちって……」

 

「事実だろ?」

 

「事実よね?」

 

 陽乃さんとはどこか俺と近い感性がある気がする。

 二人して顔を合わせると、思わず笑みが浮かんできてしまった。

 

「買い手が知らないからといって許されるわけではないわ」

 

「知らないから幸せって事もあるわよ」

 

「詭弁だわ」

 

「そうかしら? これはコナコーヒーのことになってしまうけど、ホワイトハウスの公式晩餐会では必ずコナコーヒーが出るそうよ」

 

「アメリカを代表するコーヒーってことだからかな」

 

「どうでしょうね? 美味しいからというのもあるだろうけど、見栄もあるのでしょうね。極論を言ってしまえば、コナコーヒーでなくてもそこそこのコーヒーでもそれが慣習のコーヒーになってしまえば銘柄なんて気にしないんじゃないかしら」

 

「それは外交上のアメリカから信頼の証としてコーヒーをふるまわれたという意味かしら」

 

「そうね。アメリカとしてもまずいコーヒーを出して信頼の証なんてプライドが許さないから、しないだろうけどね」

 

「そこはわざとまず~いコーヒーを出して、アメリカの信頼を得たいのならば飲み干せって脅迫するのも手ですね」

 

「はぁ……。そんなこと考えているのは、あなたくらいよ」

 

「そうか?」

 

「あと一人いそうね。はぁ。八幡と姉さんくらいよ」

 

「よくわかっているじゃない。でも、わたしでもまずいコーヒーなんて出さないわよ」

 

 たしかに陽乃さんならまずいコーヒーなど出さないと思えた。

 料理が趣味で、コーヒーを愛している陽乃さんが、信頼を得る為にわざとまずいコーヒーを出すなんて事はないはず。

 むしろまずいコーヒーを出されたら、信頼されていないとみるべきかもしれない。

 

「それを聞いてほっとしたわ」

 

「全然ほっとしたようには見えないのは、俺の気のせいか?」

 

「気のせいよ」

 

 あっ。これ以上つっこむなって、凍りつく笑顔で俺を見てる。

 これは危険信号だ。これ以上の刺激は極めてやばい。

 

「……そうだな。えっと、ブルーマウンテンでも偽物が多いって事は、コナコーヒーでも偽物多いんじゃないですか?」

 

 俺は身の危険を感じて、顔を引きつらせながら話題の軌道修正を図る。

 頼む、陽乃さん。俺の命がかかってます。

 俺は命のバトンを陽乃さんに託すと、陽乃さんはじっと俺を見つめ返す。

 そして……。

 

「コナコーヒーはもっと酷いわよ。コナコーヒーほど偽物が多いといえるわ」

 

 通った。やった。通じた。俺は、天に感謝をしつつ、陽乃さんの機嫌が変わらないように相槌を的確にうっていった。

 

「コナコーヒーはね、日本で出回っているほとんどがコナ・ブレンドと表記すべき混ざりものよ。だから純粋なコナコーヒーは価格が高いし、あまり出回っていないんじゃないかしら?」

 

「だったら、これこそ知らない方が幸せって事ですかね」

 

「そう考えるのも幸せになる方法だとは思うわ」

 

「じゃあ、今飲んでいるこのコーヒーは?」

 

「どう思う?」

 

 陽乃さんが俺を試すような瞳を俺に向ける。

 きっと陽乃さんが俺達にふるまってくれたのだから、本物だとは思う。しかし、ホワイトハウスの話の時に話題に上った、わざと偽物をということもあるし、本物だとは即座に決めることができない。

 まだ、判断できない……。

 判断を下せないまま、俺は陽乃さんの瞳を見つめ返す。どちらとも目をそらさず、重い時間だけが過ぎていく。

 どうやって判断しろっていうんだよ。

 俺にはコーヒーの違いを区別できるほどの知識も舌もない。わかる事があるとしたら、陽乃さんが喜んでコーヒーを淹れてくれた事だけだ。

 だったら俺は、こう答えるしかないじゃないか。

 

「俺は、……俺は、陽乃さんが淹れてくれたコーヒーを飲んですっごく幸せですよ。だから、このコーヒーの銘柄がコナコーヒーでも劣悪なコナ・ブレンドでもどちらでもかまいせん」

 

「そう? でも、コナ・ブレンドといっても、全てが劣悪ってわけでもないのよ。偽物を売ってるのだから、お店の良心は疑ってしまうけれど、それなりには美味しいのよ」

 

「そうよ、八幡。もし劣悪なコナ・ブレンドが出回りすぎたら、それこそアメリカの威信が失墜して、コナコーヒーのブランド力が落ちてしまうからお店の方もその辺は考えてはいるはずよ」

 

「たしかにそうだな。でも、俺が言いたいのはそんなことじゃなくてだな」

 

「わかってるわよ」

 

「そうなんですか?」

 

「そうよ」

 

 陽乃さんは恥ずかしそうに俺から顔を背けてしまう。

 さっきまでの俺を試そうと堂々としていた態度はどこにいったんだよ。

 

「え? えぇ?」

 

「姉さんは、照れているのよ」

 

 雪乃は俺の耳元まで顔を寄せて小さく呟いた。

 思わず陽乃さんの顔を見ると、俺の視線を感じて首をすくめると、さらに顔を赤くして俯いてしまう。

 そして、雪乃を見ると、なにやら満足そうに陽乃さんを見つめていた。

 あっ、そうか。さっきまで雪乃は陽乃さんにやられっぱなしだったもんな。

 

「でもね、比企谷君。コナコーヒーみたいにあなたが普段見ている私も偽物かもしれないのよ? 本物だと思っていたら、混ざりものが入った偽物かもしれない。出来はいいかもしれないけど、本物ではないかもしれない」

 

「えっと……、どういう意味で?」

 

「この際だから認めてしまうのだけれど、私って自分を作っていたでしょ? 母が求める私。父が求める私。姉としての私。そして、雪ノ下陽乃としての私」

 

「ええ、まあ。そうですね」

 

 ここにきて急に自分の立ち振る舞いを認めるだなんて、どうしたんだ?

 俺としたら、最近は素の陽乃さんを見る機会が出てきてもいるし、そう考えると悪い傾向とは思えないけど、雪乃はどう思っているのだろうか?

 俺は雪乃の方に視線をずらしてみたが、その表情からは心情は伺えない。

 もう少し陽乃さんの出方を見るべきかな。

 

「だけど最近二人には素の私を見せてしまってるって。あなた達は思ってるのではないかしら?」

 

「そうね。最近の姉さんはどこか今までとは違うかもしれないわね。けれどね、姉さん」

 

「ん?」

 

「それが本当の姉さんの本性かは見破れてはいないのだけれど、今の姉さんの行動は特に私達二人に対しては遠慮がなさすぎよ」

 

「それはね。二人が私にとって特別だからよ。だからこそ雪乃ちゃんが言う通り素の私を見せてるとは思うのよ」

   

 これは驚きだ。素の陽乃さんを見せているって本人が認めるとは。

 

「でもね、自分を作らなくなっていいと思うと、どれが本来の自分かわからなくなるのよね。ほらだって、いくら自分を作っていてとしても、どれも自分が望んで演じていたわけでしょ。だから、一概に全てが偽物というわけでもないと思うのよ」

 

「たしかに姉さんほどではないにしろ、どんな人であっても自分を作っている部分はあるわね」

 

「でしょう。だからね、二人の前だとどうすればいいかわからなくなっちゃうのよねぇ」

 

 陽乃さんはなにやら複雑そうな苦笑いを浮かべる。

 悲しいでも、自嘲でもない。嬉しいのだろうけど、どう扱っていけば分からないからもどかしいといったところか?

 たしかに、俺だって素の自分を、さあ見せろと言われても困ってしまうし、たとえ雪乃の前だとしても本性だけで行動しているわけではない。けれど、それでも雪乃の前だとリラックスできるし、心を許した行動もする。

 つまり陽乃さんは、俺達に心を許しているけど、どうすればいいかわからないってことか。

 小さいころから雪乃のお姉さんをしていて、雪ノ下家の長女もして、そして、あの母親が求める優秀な雪ノ下家の継承者を演じ続けていたんだしな。

 人に甘えることなんてできなかったのだろう。

 だからこそ甘え方なんてわかるわけないのか。

 

「作っていた自分も自分の一部で、……あぁ、何を言いたいんだろ、私」

 

 おおげさに両手で頭をかくと、そのままソファに身を沈め、両手両足をソファーの外に大げさに投げ出す。ある意味降参ってことかと見てとれる。照れ隠しともいえるが。

 けれど、今回の陽乃さんが照れてしまった流れを作ってしまったのは俺なんだよな。しかも、陽乃さんが誤魔化そうとしても失敗しちゃってるし。これはあとで倍返し以上の仕返しが来るんじゃないか?

 いやいや、こんなにも照れまくっている陽乃さんなんて初めてなんだから、倍じゃ済まないだろ……。

 やっぱここはフォローしておいて、後々の禍根を断っておくか。そうしておかないと、俺の精神がやばいっす。

 と、後々のことを考えて効果があるとは思えない対策を練る。

 

「陽乃さんは陽乃さんですよ。今も昔も同じ陽乃さんです。包丁を見て目を輝かせていた陽乃さんも、もうちょっとはまりすぎていたら怪しすぎる人だと思いましたが、一緒にいて微笑ましかったです。高級食器売り場に俺を連れていって、俺が売り場を恐る恐る見学して、あたふたしているのを意地が悪そうな目で見つめていたのだって、……少し手加減してくれると助かりますが、一緒に見ていて楽しかったですよ。そうですねぇ、あとは、初めて俺の為に手料理を作ってくれたときなんて、あまりにも料理が美味しすぎてびっくりしましたよ。料理をしている陽乃さんを飽きもせず眺めていたのを今でも覚えています。どれも初めて見る陽乃さんでしたが、今までの陽乃さんがいたからこその感動ですし、今も、今以前も、陽乃さんの事を嫌ったことなんてないです。むしろ今では一緒にいてワクワクしますよ。ただ、まあ、もうちょっと手加減だけはして欲しいですけどね」

 

 ちょっと臭すぎる演説を終えると、聴衆の反応をみるべく陽乃さんの様子を見る。

 すると、いつの間にかにソファーの上で膝を抱えてこちらをじっと見つめていた。

 ソファーの上で、トドみたいにぐてぇ~って横たわっているよりは回復してるようだった。これならば、俺も雪乃もこの後に陽乃さんからの仕返しを受けずに済みそうだ。

 よかったな、雪乃。少しは俺に感謝しろよ、と雪乃に視線を向けると、あろうことか、身を凍らすような冷徹な瞳で俺を射殺そうとしていた。

 えっとぉ、何故? 俺は、雪乃がこれから被るであろう被害を回避したんだけどなぁ。それとも、何かまずいことでもいったか? でも、当たり障りのないことしか言ってないし。

 訳がわからず陽乃さんの方に再び目を向けると、事態は急変していた。

 陽乃さんは目を丸くして俺を見つめ、そして、鯉が餌を求めるがごとく口をパクパクさせている。

 よく由比ヶ浜がパニクっているときに見る表情だけれど、あの陽乃さんがパニクってる?

 これこそ俺が初めて見る陽乃さんであり、俺の中で想像できうる陽乃さんの中で一番遠い場所に位置する陽乃さんでもある。

 つまりは、パニクっている陽乃さんを見て、陽乃さん以上に俺はパニクってしまった。

 なんなんだよ!

 俺は助けを求めるようと雪乃を見るが、……駄目だ。殺される。

 あれは見ただけで人を殺せる瞳をしている。見ちゃだめだ。

 俺は凍える吹雪がこれ以上侵入しないように扉を閉め、すぐさま陽乃さんの方へと視線を戻す。

 ……なんなんだよ。もう訳わからん。

 顔や首元だけじゃなくて、その腕さえも真っ赤に染め上げている陽乃さんがとろんと蕩けきった顔で俺を見つめていた。そして、俺が陽乃さんを見ていると気がつくと、一瞬目をあわせはしたが、猛烈な勢いで顔を膝で隠し、そのまま膝を抱えて小さく丸まってしまった。

 これってもしかして、何か俺がフラグ建てちゃった……のか?

 そんなことはないよな? だって、なぁ。どうしよう。

 これ以上何か俺が言っても火に油を注ぐだけだよな。だったら、一回死ぬ覚悟で雪乃に助けを求めるしかない。

 このまま何もしないと、確実に殺されるし。

 せぇので雪乃の方に振り向くぞ。せぇのだ。せぇの。勢いでやれば、半殺しくらいで済むかもしれないんだ。

 だから、何も考えないで、……せぇのっ!

 

「えっ?」

 

 俺は思わず声を洩らしてしまった。陽乃さんは陽乃さんで急展開すぎたが、雪乃も雪乃で危なすぎるほどの急展開をみせていた。

 

「何を馬鹿な顔をしているのかしら? あら、もともとお馬鹿だったわね」

 

「おい。馬鹿なのは認めてはいいが、どうなっているんだよ」

 

「どうなっているとは、どういう意味かしら? 何がどうなっているかをしっかりと示さなければ、お馬鹿の同類ではない私にはわからないわ」

 

「いや、もういい。今の質問は忘れてくれ」

 

「そう?」

 

 雪乃はもはや興味なさげに肩にかかった黒髪を優しく払うと、じぃっと俺を見つめてくる。

 いったい「なんなんだよ」を何回繰り返せば済むんだよ。

 急展開がフル回転で俺を揺さぶるから、ついていけないって。ただ、致死性をもった雪乃の瞳が閉じられたのは幸いか。

 しかし、今も何かしらの審判が継続されているんだろうなぁ。一度殺意を持った雪乃が、簡単に俺を許してくれるとは思えない。

 何について殺意を抱いているかを知らないままで死ぬのだけは勘弁だけれど。

 

「俺がこれ以上陽乃さんに何か言っても、フォローにはならない気がする。だから、俺の代りに何かフォローしてくれないか? ほら、このままほっとくと、後が怖いだろ?」

 

「そうね? このままだと、後が怖いほど面倒になるわね」

 

 雪乃はそうわずかに致死毒が漏れ出した発言をこぼすと、席を立ち、陽乃さんの元へと向かう。

 またなにか俺が雪乃の癇に障る発言をしたか?

 ちょっと雪乃の毒にあてられたみたいで、息苦しい。

 雪乃は陽乃さんの前まで来ると膝を折ってかがみ、陽乃さんの耳元で何やら呟いたようであった。陽乃さんは雪乃の声にピクリと肩を震わせて反応すると、顔を膝から上げ、正面にいる俺と目が合ってしまう。

 すると陽乃さんは逃げるように視線を俺から外すと、なにやら雪乃の耳元で囁いた。

 その陽乃さんの発言の結果として、雪乃は首を横に振る。それを見た陽乃さんも、その答えを予想していたのか驚きもしない。

 そして、雪乃も陽乃さんも不敵な笑みを浮かべて、いつもの二人へと戻っていったのだが、その陽乃さんが何か囁いた直後の二人の反応が、どうしても気になってしまった。

 どうしてっていわれても、勘だとしか答えようがない。まあ、勘といっても、生命の危機を感じるほどのインパクトがあったのだから、おそらくは俺の勘は当たっているのだろう。

 陽乃さんの発言を聞いた直後の、雪乃の痛みを抱えたまま永久に氷漬けにさせそうな笑顔。

 一方、陽乃さんのその死を選びたくなるほどの氷の拷問を笑って払いのけてしまう挑発的な瞳。

 二人の側には一般人たる俺もいることも気にかけて欲しいところだけれど、これ以上近づくと、死ぬ事さえ許されなくなってしまいそうで怖い……です。

 なにか話題を振って現状を打開しないと、確実に死ぬ。

 なんでもいい。セクハラ発言で二人からひんしゅくをかってもいい。もうこの際なんだっていい。とにかく生きたい。

 このまま命を、精神を削られて、病んでいくのだけは回避せねば。

 こうどんな話題でもいいという時こそ話題は見つからない。普段だったらどうしようもない事をぽろっと言って、雪乃のひんしゅくを買うほどなのに。

 それさえも出てこねぇ……。

 焦れば焦るほど精神が擦り減って、じわじわと自分がつぶれていくのを実感した。

 

「私がコナコーヒー好きなのは知ってもらえたけど、雪乃ちゃんがどのダージリンが好きか知ってる?」

 

 陽乃さんの突然すぎる発言に驚きを隠せないが、喜びの方が上回る。

 女神きたぁ~。心の第一声はこの一言に尽きるだろう。

 死神が女神の仮面かぶってるだけかもしれないけど、この際問題ない。

 もう死にそうだったんだよ。だったら、死神にさえすがるって。

 

「ダージリンは、ダージリンじゃないんですか? なにか生産農園が違うとかですか?」

 

「農園の違いはあるかもしれないけど、もっと根本的な事よ」

 

「だったらコーヒーと同じように偽物が多いって事ですか?」

 

「それとも違うわね。もちろん日本に出回っているダージリンのほとんどが偽物だけどね。コナコーヒーよりも劣悪な混じりものが多いと思うわよ。コナコーヒーよりも紅茶のダージリンの方が日本では有名だしね」

 

「やっぱり偽物ばっかりが流通してるんですね」

 

「当然でしょ」

 

 当然すぎる事を聞くなというような目はしていない。むしろ俺が話にくいついたことを嬉しそうに感じていた。だから、雪乃が訝しげに冷たい視線で見ていた事も、陽乃さんが何かを企んでいた事も死神にすがってしまった俺には、気がつくことなんてできやしなかった。

 だって、女神だ。死神が女神の仮面をかぶっていたとしてもその笑顔は最高だし、なによりもスタイルが素晴らしすぎるし。

 

「ダージリンはね、葉を摘む時期によって値段も味も香りも色も違うのよ」

 

「そうなんですか。一年で何度も収穫できるんですね」

 

「そうね。でも、狙った季節で一番美味しいのが収穫できるようには調整しているのではないかしらね。それでは雪乃ちゃんが好きな季節の葉はどの季節でしょ~か。はい、比企谷君、どうぞ」

 

「じゃあ、冬で」

 

「え?」

 

「不正解か?」

 

 雪乃が思わず声を洩らすものだから、不安になってしまう。

 

「何故冬なのかしら?」

 

「雪乃の誕生日が一月で冬だし、名前にも雪ってついているから、冬かなと」

 

「面白い解答よねぇ」

 

 雪乃は、俺の説明を聞くと、手で頭をおさえる仕草をわざとらしくする。

 あまりにも俺の解答理由がお粗末ってことを伝えようとしているみたいだけど、雪乃から伝わってくる気配で十分すぎるほど理解できるからなっ。

 

「ねえ、八幡」

 

「なんだよ」

 

「冬にどうやったら収穫できるほどの葉が成長するのかしら?」

 

「あっ」

 

「どうやら、根本的なことを忘れていたようね。いくらなんでも冬は難しいわ。秋摘みでさえなかなか成長してくれないのに」

 

「雪乃ちゃんの名前にからませて冬を選んだあたりは悪くはないけど、さすがに冬はねえ」

 

 雪乃も陽乃さんもちょっとお馬鹿すぎる解答を聞き、俺を可愛そうな人認定してしまったらしい。

 だったら、せめて苦笑いをして、聞くに堪えない罵倒を受けたほうがましだった。

 

「今度は各季節の特徴も教えておくわね」

 

「はぁ……」

 

 特徴って言われてもね。普段雪乃が紅茶を淹れてはくれているけど、いろんな種類のを淹れるんだよな。

 どれも美味しいし、なんとなくの特徴くらいはわかる。だけど、なんで今まで雪乃が一番好きな紅茶の銘柄を聞かなかったんだよ。聞く機会ならいくらだってあったのに。

 雪乃は紅茶が好きなんだし、大好きな銘柄の一つや二つくらいはあるはずだ。それなのに、なぜ俺は聞かなかったのだろうか。

 ……答えは簡単か。

 俺は紅茶を淹れる雪乃そのものが好きだったわけで、どの紅茶を淹れるかは問題にはしてこなかった。

 さっき陽乃さんが言っていた偽物のコーヒーではないけれど、これもやはり誰が紅茶を淹れたかが重要なのだろう。

 

「気のない返事ねぇ。まっ、いいわ。では雪乃ちゃん、解説して」

 

「姉さん。自分で言っておきながらも、重要な所を人に丸投げしないでくれないかしら。でも、まあいいわ」

 

「じゃあ、お願いね」

 

「まずは、三月から四月に収穫するファーストフラッシュ。爽やかな香りが特徴の一級品よ。カップに注いだ時の色が淡いオレンジ色でストレートティーがよくあうわ。そうねぇ……。春の季節にふさわしいさわやかな感じかしら」

 

「それって、俺も飲んだことあるよな?」

 

「ええ、もちろん。八幡は覚えてないかしら?」

 

「すまん。毎回違った紅茶が出てきて、それ自体は新鮮で、毎回美味しい紅茶を淹れてもらってるのを感謝してるんだけど、どれがどれだかまでは、ちょっとな」

 

「そう」

 

「ごめん。せっかく雪乃が淹れてくれているのに。だから、これからはさ。紅茶を飲むときに葉の特徴とか話してくれると助かる。だって、雪乃が好きなものだし、知りたいんだよ。いつまでも雪乃が紅茶を準備している姿ばかり目で追って見惚れているのもあれだしなって今になって痛感した。やっぱ、どんなものが好きかとかも知っておきたいしさ」

 

 ……………………あれ?

 無……反応?

 と、無反応と思っていたら、急激に雪乃の表情が変化していく。

 急に立ち上がったかと思うと、ソファーの周りを歩き出す。どこかに向かうわけでもなく、早足で歩きだしたかと思えば、急に止まって顔を両手で覆って座り込んでしまう。

 それもすぐに立ち上がったかと思えば、再び歩き出した。今度はどうするのかなって様子を見ていると、顔を真っ赤にしたまま俺を見つめ、目が合うと、ぷいっと目をそらして両手で顔を仰いで冷やそうとする。

 これはまた、なにか言っちゃったか?

 陽乃さんに打開策を求めて視線を送ろうとすると、不機嫌そうに頬を膨らませている。

 おいおい。今回に限っては陽乃さんには何も言ってないだろ。

 それなのに打開策をくれないだけでなく睨みつけるって、どういうこと?

 俺は困惑するしかなかった。

 

「なあ、雪乃。落ち付けって」

 

 俺が声をかけても逆効果で、雪乃の足を速めるくらいにしか効果がない。俺が雪乃を捕まえて落ち着かせるか、それとも、落ち着くまでほっとくのがいいのか。

 悩むところだけど、早く決断しないとやばそうだ。

 そうこうして次の手を決めかなていると、陽乃さんが雪乃の元へと向かった。ここは、陽乃さんの出方を見るのが得策かな。

 火に油を注ぐ事態になるんなら、強引にでも介入しないといけないが……。

 それだけは、ないですよね?

 じわりと嫌な汗が額から顎へと滑り落ちた。

 

「…………」

 

 陽乃さんがなにやら雪乃の耳元で何か囁くと、雪乃は急に電池が切れたおもちゃのように動きを止めて立ち尽くす。そして、ゆっくりと陽乃さんの方へと首を動かした。

 こちらからは雪乃の表情は見えない。

 また、陽乃さんの表情を読み取っても、雪乃がどんな表情をしているかなんてわかることなんてできやしなかった。

 だから俺は、いつもよりゆっくり進む時計の針を心臓を抑えながら待つしかなかった。

 どのくらいの時が経っただろうか。

 陽乃さんはすでに自分の席へと戻ってきている。コーヒーカップを優雅につまみ上げ、残り少なくなった冷え切ったコーヒーを楽しんでさえいた。

 やはり、待つしかないのか。

 と、俺もコーヒーを飲んで落ち着こうとカップに手を伸ばす。しかし、全て飲みきっていては、飲むことなどできなかった。

 俺は苦いコーヒーを飲む代わりに、渋い顔でカップを眺める。そんなことをしてもカップからコーヒーが沸きだすわけでもないのに、やることがないと人間なにかしら無意味な行動をしてしまうのかもしれなかった。

 なんか陽乃さんなんて、俺の三文芝居を面白そうに見てるんだよなぁ。

 俺を見ていて、カップにコーヒーがないのをわかっているんなら、お代わり淹れてくれないか?

 自分勝手な催促だってわかっているけれど、陽乃さんが淹れてくれるコーヒーの前では、自分で淹れたコーヒーなど飲みたくはない。3段階評価が落ちるどころか、7段階位は美味しさの差が出てしまう気がする。

 俺と陽乃さんが無意味すぎる空中戦をやっていると、ついに待望の進展がみられた。

 

「では、春摘みの次は、五月から六月に摘む夏摘みね」

 

 え、えぇ~……。

 雪乃は自分の席に戻ってくると、空になっているコーヒーカップを勢いよくもう一度全て飲みきる。カップの中身など気にもせずソーサーにカップを戻すと、雪乃は話を再開させてしまった。

 まあ、このまま再起動しないよりはましか。

 ここで何か言って再びフリーズされて再起動不能になるよりは、ここは雪乃にあわせるのが得策だと考えがいたった。

 

「あぁ、そうだな」

 

「そうねん」

 

 陽乃さんも俺に続いて陽気な声で相槌を打つ。

 けれど、腹の底で何考えているか、わからないんだよな。陽乃さんは陽乃さんで、面白そうに雪乃と、ついでに俺を眺めているだけだし、……これ以上ひっかきまわされるよりはいいか。

 

「夏摘みはセカンドフラッシュともいわれ、ダージリンの中でも最高級品に分類されているわ。マスカットフレーバーと言われているセカンドフラッシュ特有の 香りが楽しむ事ができ、この香りを楽しむだけでも価値があると思うわね」

 

「これもストレートティーがいいわね」

 

「そうね。ミルクなどを加えるのならば、秋摘みのオータムナルをお勧めするわ。十月から十一月に収穫するとあって、なかなか葉が成長しないのが難点ね。でも、その分味は強めで、しっかりしているわ。甘みもあって、セカンドフラッシュやファーストフラッシュのような際立った特徴がないのが特徴かしらね。だから、紅茶らしい紅茶ともいうのかしら。一般的な紅茶の味というのならば、オータムナルが一番近いかもしれないわ。でも、ダージリンの中では値段が安いのだけれど、それでもミルクティーにすれば、他の二つを圧倒する味なのよね。これも好みだから、私の意見が絶対とは言えないのだけれど」

 

「いや、雪乃の意見は参考になるよ。もちろん人の好みってのもあるだろうけどさ」

 

「これで全て出そろったわね。モンスーンフラッシュっていうのもあるけど、これは味も香りも価格も落ちるから、今回は考えなくてもいいとしましょう。ではでは、比企谷君。もう一度解答をどうぞ」

 

 もう一度俺に恥をかけってことですか?

 なんか、さっきの可愛そうな人認定も俺の精神を深くえぐる為に、二人してわざとやった気もするんですけど、どうなんでしょうか?

 でも、本気で可愛そうな人認定されるよりも、わざとの方がいいか。

 いや、まて。こんな風に俺が思い悩む事まで想定にいれて精神攻撃してるってこともないか。

 

「ちょっと比企谷君。そんなに考え込まなくてもいいから。さっきみたいに、なんとなくの解答でいいわよ」

 

 俺もさくっと解答したかったんですけどねぇ。なんだか深読みしなければいけない状況に追いやられてるんですよ。

 ふだんがふだんだけに、それは大変なんですよ。

 まあ、馬鹿にされたり、おもちゃにされるのはなれてるから、考え込んでエネルギーを膨大に消費するよりは、流れに任せて痛めつけられた方が被害が少ないかもな。

 だったら、さくっとお馬鹿な解答見せて差し上げます。

 

「だったら、夏摘みで」

 

「ほう……、その理由は?」

 

 陽乃さんは面白い解答を聞けたと目を細めるが、解答が正解しているかは読みとれない。

 雪乃にいたっては、無表情なまでの沈黙を保っているから、こちらも無理だ。

 

「まず、消去法で秋摘みを消します。理由は、紅茶らしい紅茶だからかな」

 

「それは、雪乃ちゃんが捻くれてるっていいたいのかな?」

 

「違いますよ。もちろん紅茶らしい紅茶も好きだとは思いますよ。だけど、なにか違う気がするんですよ」

 

「何が違うのよ?」

 

「それを言葉にするのが難しいから困ってるんじゃないですか。まあなんですか。今まで雪乃と一緒に暮らしてきて得た勘みたいなものですよ」

 

「それは値段が三つの中では一番安いから?」

 

「それは絶対ないと思いますよ。雪乃は値段よりも自分の舌と鼻を信じると思いますから」

 

「つまらないわね。雪乃ちゃんは、値段どころか銘柄さえも知らないで選びとったわよ」

 

「へぇ、そうなんですか」

 

 俺は感嘆の声を洩らして雪乃の方を向くと、雪乃は首をすぼめてはにかむ。

 なんだか雪乃の彼氏でいられる事を誇らしく思えてきてしまう。値段も名前も判断材料にせず、自分の感性のみで選びとるか。

 なんだか雪乃らしいな。

 けっして人の意見や先人たちの知識を否定するわけではないだろうが、むしろ知識は喜んで吸収しているけど、最終判断は自分ですべきだ。どんなツールであっても、それが世界最高のツールであっても、使う人間が使いこなせなければ世界最低のツールになり下がってしまう。

 だから、どんな時も自分を持ち続ける雪乃を見て誇らしくもあり、羨ましくもあった。

 俺はこの先、雪乃と同等の強さを持つことができるだろうか?

 不安を感じずにはいられなかった。

 

「はい、はい。そこ、いちゃつかない。さっ、比企谷君、解答の続き、続き」

 

「あ、はい。次は、春摘みが違うかなって思います。これも勘なんですけど、爽やかな感じっていうのがちょっとちがうかな、と。もちろん春っていうと、さややかな感じがすっごくして、雪乃のイメージにも合うとは思うんですけど、夏摘みと比べると劣るかなと」

 

「それはなぜかな?」

 

「これは俺の願望かもしれないんですけど、いいですか?」

 

「もちろん」

 

「マスカットフレーバーでしたっけ?」

 

「ええ」

 

「夏摘みだけなんか仲間外れみたいじゃないですか」

 

「え?」

 

「だから、秋摘みは紅茶らしい紅茶だから、一般的な紅茶ですよね」

 

「ええ、そうね」

 

「それから、春摘みはいくら爽やかな感じとはいっても、夏摘みよりは紅茶らしい紅茶なんじゃないかなって、思ってしまって」

 

「だから、夏摘みを?」

 

「ええ、まあ、そうですね」

 

「あのね比企谷君。いくら味や香りに特徴があるといってもフレーバーティーじゃないんだから、紅茶の専門家が聞いたら怒りそうだけど、紅茶は紅茶なのよ」

 

「それはわかっていまうすよ。だから、なんとなく思った、勘みたいなものだって言ったじゃないですか」

 

「まあ、そうね」

 

 陽乃さんがつまらなそうに呟く。

 もしかして、正解を引き当てたか?

 

「でも、それだけじゃセカンドフラッシュを選んだ理由にはならないんじゃない?」

 

「そうですね。これだと一番紅茶らしい紅茶から遠いのを選んだだけですからね。そうですねぇ……」

 

 俺は一度雪乃の顔を見やる。急に雪乃の方を向いたものだから、雪乃は驚き目を丸くした。すると、すぐに反撃とばかりに驚かすなと睨みつけてくれではないか。

 こればっかりは俺のせいだし、ごめんと目で合図して再び陽乃さんの方へと向き直った。

 

「孤高……ですかね。孤高ともいえる独特の香り。ダージリンに限定されなければ本当に何が好きかだなんてわかりそうもないですけど、雪乃なら自分はこれが好きっていう香りをもってそうかなと。最高級品といっても、マスカットフレーバーが苦手な人もいるかもしれないですけどね。まあ、だから右になおれじゃないですけど、誰もが飲み慣れた紅茶らしい紅茶よりは、独特な香りを有するセカンドフラッシュを選んだんですよ。そうですね。こう考えると捻くれているっている意見もあながち間違いではないかもしれないですけど」

 

 俺は自分で建てた推理に、おもわず心地よい苦笑いをする。陽乃さんから正解をまだ聞いたわけではないが、なんだか俺の心には満足感が満たされていっているようだった。

 捻くれている?

 上等じゃないか。似た者同士が惹かれあって何が悪い。

 普段は俺も雪乃もお互い似てなんかいないって言いはってはいるけれど、やっぱり俺達って似た者同士なのかもしれない。

 そう思うと、なんだか嬉しくなってしまった。

 

陽乃「ちょっと二人とも、二人してニヤニヤ笑っているなんて、気持ち悪いわよ。

   もういいわ。正解よ、正解」

 

 俺と雪乃は顔を見合わせて、初めてお互いがニヤついている事に気がつく。

 どうやら雪乃も俺と同じ意見らしい。悪くはない。いや、むしろ嬉しくもあるのだけれど、雪乃が捻くれてしまったのは俺のせいか。

 でも、セカンドフラッシュが好きになったのは、おそらく俺と付き合う前からだろうし、雪乃が仮に捻くれているとしても、それは元からというわけで。

 

「答えにたどり着く過程がめちゃくちゃなのだけれど、それでも正解にたどり着くなんて、ある意味才能ね」

 

「そりゃどうも」

 

「いいえ。まったく誉めてはいないわ」

 

 雪乃はそっけなく言った割には、嬉しそうにほほ笑む。

 確かに誉められた解答過程ではないかもな。捻くれている俺だからこそ辿った過程であり、捻くれているらしい雪乃だからこそ俺がたどり着けたのだから、けっして世間から見れば好ましい関係ではないのかもしれない。

 でもさ、一組くらい俺たちみたいな関係の彼氏彼女がいたとしてもべつにいいだろ?

 

「悪かったな」

 

「でも、いいわ。それでこそ八幡なのだから」

 

「それも誉めてないだろ?」

 

「わかったの?」

 

「当然だろ」

 

「はい、はい。そこの二人。勝手にいちゃつかない。でも、やっぱり雪乃ちゃんは今も昔も最高の物を見つけ出すことができるのね。それに、比企谷君は本物を見つけ出すことができるみたいだし」

 

「そうですか? でも、本物も素晴らしいとは思うけど、でもやっぱり、たとえ偽物であっても、俺にとってそれに価値があるのならば、世間では偽物だと評価されようと、本物以上の価値があると思いますよ」

 

「そうなの?」

 

「だから、さっきから何度も言ってるじゃないですか。本物だけに価値があるなんて、それこそ偏見ですよ」

 

「……そっか。コーヒーのお代わり淹れてくるわね」

 

 陽乃さんはそう小さく呟くと、パタパタと床を響かせながらリビングを後にする。その後ろ姿がなんだか可愛らしく思えて、その可愛らしさは本物ですよって、念を送ってしまった。

 

「鼻の下が伸びているわよ」

 

 振り返ると、不機嫌そうに睨む雪乃が俺を出迎える。

 なんだか二人して喜怒哀楽が激しすぎないか。

 俺は小さくため息をつくが、この微笑ましい仮初めの幸せに身を任せずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 なかなか俺達を離してくれない陽乃さんを、後ろ髪ひかれる思いのままマンションまで戻ってきたのは午後11時近くになっていた。お風呂も雪ノ下邸で入ってきたので、あとは寝るだけなので問題はない。

 勉強にしたって、雪ノ下邸でいつもと同じようにやり遂げてもいた。雪乃に関しては同じ学科の先輩たる陽乃さんもいるわけで、雪乃は必要ないと言いながらも、陽乃さんがさりげなくサポートしていたので自宅マンションで一人で勉強するよりもはかどっていた気もする。

 まあ、雪乃本人はけっして認めはしないだろうが。

 それでも陽乃さんも嬉しそうにかまっているので、どうにか姉妹間バランスはうまい具合にバランスがとれているのだろう。

 しかし、それも一定の距離感を保てる勉強に限るかもしれない。

 お風呂に関しては、どうもうまくいかなかったらしい。俺は自宅マンション以上に広くて、どでかい檜の湯船を堪能できたことで、すこぶる満足できるバスタイムではあった。

 純日本風の檜の香りに包まれる風呂。俺も噂レベルでは聞いた事はある。

 高級旅館や、今はやりの各部屋に作られている室内備え付け温泉なんかでは、もしかしたら、めぐりあうことができるかもしれないと思ってはいた。

 けれど、個人宅で、しかも、ここまで豪華な檜の風呂に入れるとは、夢にも思わなかった。豪華でありながらも、厭味を感じさせないわびさびを反映させた日本の風呂文化。俺がどうこういうのもあれだし、風呂にわびさびなんか求めてなんかいないのかもしれないけど。

 ただ、俺がこうまではしゃいでしまうほどの風呂に入れたってことだけは確かだった。

 そして、この雪ノ下邸の風呂場は、湯船だけでなく、洗い場もすこぶる広かった。大人二人が一緒に入ったとしても、十分すぎるほどのスペースが確保されている。

 だから、雪乃と陽乃さんが一緒に入ったとしても、風呂における人間の占有領域からしてみれば、十分すぎるほどの空き領域を確保できていた。

 そんな最高級のお風呂であっても、入浴直後の雪乃の感想を聞くと、次に俺がこのお風呂に入れるのは、当分先かもしれないと思ってしまった。

 

「もう絶対に姉さんとはお風呂に入らないわ」

 

「そういいながらも、けっこう長い時間入ってたじゃないか?」

 

「姉さんが離してくれなかったのよ。姉さんとお風呂に入るのなんて久しぶりだから油断していたわ。姉さんも年を積み重ねて大人になったのだから、少しは落ち着きをもった人間になったと考えたのが甘かったみたいね」

 

「そうか? なんだか肌がつやつやしてて、満足そうにみえるんだけどな」

 

「それは…………、それは、姉さんがあれもこれもとマッサージやオイルなど色々としてきたせいよ」

 

「だったらよかったじゃないか?」

 

「それが肌や髪の潤いを与えるだけならば、私も考えなくはないわ。けれどね八幡」

 

「なんだよ」

 

 俺に問いただすように詰め寄る雪乃の顔には、はっきりと修羅場を潜り抜けた人間にしか持ちえない決意が秘められていた。

 

「お風呂は一日の汚れを流し、リラックスする為の場だと考えているわ」

 

「それは俺も同意見だよ」

 

「そうね、一般的に言ってもほとんどが同意見でしょうね。けれど、姉さんはその一般的回答に含まれていないのよ」

 

 ある程度は予想はしていたが、雪乃にこうまで堅い決意を抱かせるほどとは。

 たしかに雪乃の肌のつやや、髪の艶は素晴らしいほどに整っている。

 しかしだ、その肌と髪の持主たる雪乃は、明らかに疲れ果てていた。雪乃が言う風呂でのリラックスは、どう見ても出来ていないといえる。

 

「へ、へえぇ……」

 

「八幡は姉さんの過剰すぎるもてなしを経験していないからそんなふうに他人事として言えるのよ」

 

「いや、俺も、雪乃ご苦労さんって気持ちをもっているぞ」

 

「そうかしら? 八幡も一度経験してみればわかると思うわ」

 

「それはさすがに駄目だろ」

 

「あら? そうかしら。私はいつでもウェルカムなんだけどな。それに、雪乃ちゃんのお許しもでたわけなんだから、何も問題ないでしょ」

 

 俺達が振り返ると、ちょうどキッチンからベリエの瓶を三本持ってきた陽乃さんがそこにはいた。そして、俺達に瓶を手渡すと、俺達の向かいのソファーへと身を沈めていく。

 これは雪乃には言えないのだけれど、妖艶さに磨きをかけた大人に成長した陽乃さんの湯上りの姿は直視できないほど色っぽく、艶やかさを振りまいていた。

 陽乃さんも久しぶりの雪乃とのバスタイムともあって、大人の慎み深さは霧散してしまったのだろう。

 俺も、雪乃の背中を両手で押して風呂場に消えていく陽乃さんを目撃していたので、ある程度は陽乃さんのはしゃぎようは予見はしていた。

 ただ、今目の前にいる頬が上気した湯上りの陽乃さんは、想像以上の大人の色気を備え持っていた。

 

「問題ありまくりですって」

 

「私は許可した覚えはないのだけれど」

 

「だって雪乃ちゃんが、八幡も一度経験してみればわかると思うわって言ったじゃない。だったら比企谷君には、是非とも経験してみるべきよ。今後の為にも」

 

「なんのためにですか。俺を捕まえてどうしようっていうんですか」

 

「そんなの決まっているじゃない。それとも、私の口から生々しい詳細を聞きたいのかしら?」

 

 陽乃さんの入浴後効果120%増しの色っぽさは、もはや回避不可能レベルに達していた。

 一度捕まってしまえば、どこまで引きづり込まれるかわかったものじゃないっていうのに、今日の陽乃さんはなんだかリミッターが外れた強さを持っていた。

 常に常識外れの強引さはあるけど、いつもは今一歩踏み込んでこない弱さがある。しかし、今日はその弱さがややかすんでいる。

 今話題になっているお風呂の話だけではなく、俺は、今朝陽乃さんを迎えに行った時からなにか違和感を感じていた。

 

「姉さん、そこまでにしておきなさい。これ以上の事となると、私も本気にならざるを得ないわ」

 

「あら、雪乃ちゃんはいつも本気じゃない? もしかして、いつも余裕があったのかしら?」

 

 雪乃はほんのわずかの時間目を丸くしたが、それを打ち消すように毅然と姿勢を正す。

 その行為が、その気持ちの切り替えが、雪乃の敗北を強く示していた。

 いつだって雪乃は本気だ。どんな時であっても、試合開始直後だろうと雪乃は実力を100%近く発揮している。

 これはある意味気持ちの切り替えが早いから、わずかな時間でさえも集中して勉強できる点で非常に優れているといえる。

 俺なんかからすれば、勉強に集中する為には多少の時間がかかるわけで、10分くらいの空き時間さえも全力で勉強できる雪乃をいつも羨ましくも思い、コツを教えて欲しいといったものだ。一応コツを聞き、かえってきた言葉は、特に意識してやってるわけではないとの事だが。

 そう、だからこそ雪乃には、余裕がない。

 常に全力だからこそ実力の天井を晒してしまうし、力の余裕なんてあるわけがない。

 これが格下相手ならば問題ないのだろう。けれど、相手が陽乃さんであったり、雪乃の母親なんかの化け物級の相手となると状況が一変してしまう。

 

「それとも雪乃ちゃんは、自分が言った言葉に責任を持てないのかしらね」

 

「家族の会話で、冗談を言ってはいけないのかしら。たしかに私は八幡に一度経験してみればいいとは言ったわ。でもそれは、経験する事はないだろうけど、もし経験したら逃げ出したくなるような経験だっていう意味で言ったまでよ」

 

 たしかに、常識的な話の流れからすれば雪乃の言い分が正解なのだろう。

 ……でも、相手は陽乃さんであった。

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

 目を細めて雪乃を見つめる陽乃さんの眼光が、雪乃の体を縮みあがらせてしまう。

 もはや勝負はついているのだろう。ついているんだろうけど、雪乃はきっと逃げないはずだ。

 

「だったら、同じ事を母にも言えるかしら?」

 

「それは……」

 

「もし大学での成績が下がってしまって、比企谷君との交際を認めてもらえなくなった場合、その時、交際は男女間の意思のみで成立するから、母の指示には従わないって言えるかしら?」

 

「成績は今のレベルを維持するわ」

 

「それは覚悟であって、未来での確定事項ではないわ。でも言ったわよね? 二人が母に交際を認めさせる条件として。それさえも家族間の冗談としてすますのかしら」

 

 強引な論点のすり替えだ。

 あの時の俺達の宣誓と、さっき雪乃がいった言葉の背景には大きな隔たりがある。

 強引すぎる。それは雪乃だってわかっている。

 わかっているけど、それを指摘する気力が雪乃からは消えかかっていた。

 まあ、あの女帝相手に冗談なんて言えやしない。きっと言えるのは、親父さんくらいだろうな。

 俺は想像もできない女帝と親父さんのやり取りを無理やり想像して苦笑いを浮かべてしまう。

 雪乃も陽乃さんも一歩も引く事をせず、時間だけが過ぎ去っていく。

 このあと女帝が帰ってくるまで冷戦状態が続いたのだが、このとき初めて雪乃の母親に会えた事に喜びを感じてしまった。あの俺の事を人として見ない蔑む目を見て、ほっとしてしまう日が来るとは夢にも思わなかった。

 それほどまで重苦しい雰囲気だったと言えるのだが、それはいつもの姉妹の会話と言ってしまう事も出来た。

 しかし、なにかが違う。ほんの少しだけれど、今日何度目かの違和感を覚えた。

 とはいっても、女帝が帰ってくると、雪乃も陽乃さんもいつもの調子に戻っていたので、俺の考え過ぎだったのかもしれないと、この時は思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

7月12日 木曜日

 

 

 

 コーヒーの香りが俺の鼻をくすぐる。

 雪乃のマンションで朝起きるとコーヒーの香りが俺を出迎えてくれるようになったのは、いつからだっただろうか?

 そもそも雪乃がコーヒーを豆から用意してくれるだなんて想像した事もなかった。奉仕部ではいつも紅茶を淹れてくれていたので、どうしても雪乃というと紅茶と結び付けてしまう。

 それでも俺の為にコーヒーを準備してくれているのは、俺がマックスコーヒーを好んで飲んでいるせいなのだろう。

 だったら練乳も用意してくれればいいのに、ミルクだけって、おそらくコーヒーに関しては雪乃は陽乃さんの影響を受けているのだろうと結論付けた。

 

「どうしたの? 朝から渋い顔をして」

 

「いや、なんでもない」

 

「なんでもないという顔ではないと思うのだけれど」

 

 俺の適当すぎる返答に、雪乃は訝しげに首を傾げて、俺の顔を覗き込んでくる。朝から人の心の奥底まで見通してしまうような目で見つめられると、ちょっと腰を引いてしまいしそうになってしまう。

 以前同じような状況で実際に腰を引いてしまったら、雪乃が悲しそうな顔をしたのを脳裏によぎってしまった。俺からすれば、適当に相槌を打ってしまった後ろめたさからくる逃げ腰だったのだが、雪乃からすれば隠し事をされたと感じてしまったようだった。

 今まで俺が一人で厄介事を抱え込んでしまう前科が山ほどあるわけで、いくら恋人になり、同棲までしたとしても、雪乃はその前科を忘れることができないのだろう。

 以上から、俺が今すべきことは、雪乃が納得すべき回答を胸を張って答える事だった。

 

「いや、な。このコーヒーっていつもと同じだよな?」

 

「ええ、そうよ。八幡が毎朝飲む為に買ってきた百グラム三百円のブレンドコーヒーよ。しかも、賞味期限一カ月前から3割引きになるお買い得品。普段から目が腐っているのだから、少しくらいエコに目覚めて廃棄ロスを減らすべく、環境に優しい行いをと、選んでいるわ」

 

「俺の目が腐っているのと、スーパーの廃棄ロスとの間には少しも因果関係ないだろ」

 

「そうかしら? てっきり八幡は腐りかけのものが好きなのだと思っていたわ」

 

「そもそもスーパーのお買い得品は腐ってないだろ。もし腐っていたら、それこそ大問題になってしまう」

 

「そうね。八幡の存在自体が大問題だったわね」

 

「俺の存在自体を否定するなよ。俺の目がたとえ腐っていようと、俺自身が腐っているわけではない」

 

「訂正するわ」

 

「ありがとよ」

 

「性格が腐っているから、その腐った心が外に漏れ出てしまったために、目が腐ってしまったのね。頑丈な体で産んでくださったお母様に申し訳ないわ」

 

「俺の体は腐敗を抑え込む為の器かよ」

 

「器としては不十分ね。げんに漏れ出ているじゃない」

 

「俺の体が欠陥品だっていいたいのか。……もういいよ」

 

 早朝からのこのハイテンションはさすがにきつい。

 俺は降参の合図として両手をあげてからコーヒーカップを手に取り、喉に流し込んだ。それを見た雪乃は満足そうにほほ笑むと、自分の為に用意したブラックコーヒーを一口口に含んだ。

 

「昨日はコナコーヒーって言ってただろ?」

 

 百グラム三百円が高いかどうかは判断しかねるが、インスタントコーヒーと比べるならば、高いと言えるのだろうか。

 いや、まてよ。この前、陽乃さんとコーヒー豆を買っていた時は、百グラム1400円くらいだったはず。

 一番高いのが1800円くらいで、コナコーヒーが2番目に高い豆だって印象が残っていた。そうなると、300円は安いのか?

 頭の中で試算しようとしたが、幾分コーヒーの知識が足りな過ぎる。インスタントコーヒーやマックスコーヒーについてなら、わかるんだけどな。

 なんて、頭の中で考え事をしてしまって、ちょっと難しい顔をしていると、雪乃が心細そうな顔色をみせてくる。

 だったら初めから毒舌吐くなよと言ってやりたいものだが、これが俺たちなのだから、しょうがないか。

 

「そうだったかしら?」

 

 雪乃は俺の顔色を伺いながら、精一杯の虚勢を張ってとぼける。

 その、頑張っていますっていう顔つきが可愛らしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。

 すると雪乃が俺の反応に気がついて、頬を膨らませるのだが、雪乃が安心していくのを如実に感じ取ることができた。

 

「とぼけるなよ。昨日、その口が言ってただろ」

 

「その口と言われても、どの口かわからないわ」

 

 すっかり調子を取り戻した雪乃は、俺をからかうような瞳を投げかけてくるものだから、俺としては条件反射でしっかりと大事に受け取ってしまう。

 もう一生消えない癖になってしまったな、……なんて教えてあげないけど。

 

「あくまでとぼけるつもりなんだな。……わかったよ。だったら、雪乃が理解できるようにいってやる。雪乃の可愛い口が言ったんだ。いつもは罵詈雑言ばかり乱れ撃ちするその唇が、しっかりとはっきりと言葉を形作ったんだよ。陽乃さんとコーヒーの話を聞いたときは、拗ねちゃって口をとがらせていたくせに、家に帰って来てからは、俺の唇を求めてしおらしく泣いてたっけな。その俺が大好きな雪乃の口が、コナコーヒーって断言したんだ」

 

「……そうね」

 

 雪乃はきょとんとした目で俺を見つめて小さく呟いた。

 そして、俺の目とかち会うと、恥ずかしそうに頬を赤く染めながら視線を斜め下にそらす。視線をそらした後も、挙動不審さ全開で、瞳を揺れ動かしながら俺の挙動を観察していた。

 ある意味自爆覚悟の攻撃だったが、ここまで効力があるとは恐れ入る。

 ナイス俺! 毎日負けてばかりではないのだよ。

 連敗記録を更新するだけが取り柄じゃないところをたまには見せつけられたことに、俺はちょっとばかし天狗になってしまう。

 

「雪乃?」

 

 俺の呼びかけに、雪乃は腰をよじって緩く握った拳で口元を隠すことしかしない。

 なんだか、俺の攻撃が威力がありすぎて、

 ……こう言っちゃなんだけど、雪乃、可愛すぎないか?

 さっきまで勝ち誇っていた勢いはどこにやら、すでに敗戦ムード一色に塗り替わっていた。

 もうさ、俺の負けでいいです。だから、これ以上の拷問はやめてください。

 

「雪乃さん?」

 

 俺の再度の呼びかけに小さく肩を震わせると、雪乃は喉に詰まっていた言葉を猛烈な勢いで吐き出してきた。

 

「そうだったわね。私がコナコーヒーだと言ったわ。私は紅茶なら詳しいのだけれど、コーヒーについては疎いのよね。確かに姉さんが好きなコーヒーの銘柄で、コーヒー好きの姉さん一押しの銘柄なら八幡も喜ぶと思って選んだのだったわ。でも、八幡も毎日飲んでいるのだから、自分が飲んでいるコーヒーの銘柄くらい覚えて欲しいわ。だって、私が淹れているコーヒーなのよ。だったら、私が教える前に自分から聞いてくるべきだったのよ。それと、たしかにコーヒーも悪くないわね。八幡に合わせて朝食のときに、私も飲むようになったのだけれど、目覚めの一杯としては効果がある飲み物である事は認めるわ。やはりカフェインの効果なのかしら? でも、紅茶の香りもいいけれど、コーヒーも最近いいかなって思うようになったのよ。ふふっ。一緒に暮らしていると、似てきてしまうのね。だけど、アフタヌーンティーともいうわけで、ゆっくりと落ち着きて会話をしながら飲むのならば、やはり紅茶をお勧めするわ。コーヒーは香りが強すぎて頭をすっきりさせるのには最適なのだけれど、リラックス効果は紅茶の方が上ね。これは私の偏った評価だけが示している効能ではないと思うわ。朝の目覚めのコーヒーというのように、同じような効果として、眠気覚ましのコーヒーというじゃない。つまり、眠気が飛ぶような強い効能があると言えると思うわ。だから、リラックスしたい場面で、そのようなインパクトがあるコーヒーはあわないと思うのよ。そうね、あわないというのは狭量すぎるわね。あわなくはないと思うのだけれど、私としては紅茶が好きだから、紅茶を飲みながら八幡と会話をしたいわ。あと、鳥と同等の脳みそしか有さない八幡に、こうまで強気に断言される日が来るなんて、今日は雪が降るわね。夏なのに雪だなんて、今日の異常気象は八幡のせいね。だから、八幡は、日本国民に対して謝罪する義務があると思うわ」

 

 と、どこまで理解できたかわからないが、最後の方は肩で息をしながら雪乃はそう言った。

 

「・・・えっとぉ、雪乃は自分の彼氏の事を何だと思ってるんだよ?」

 

「ペットの鳥かしら?」

 

「だったら、籠の中にでも入れておく気かよ」

 

「……それがもし可能ならば、実現させたいものね」

 

 どうにも本気とも冗談ともとれる怖い発言を目を光らせて朝からのたまうものだから、明らかに雪乃の様子がおかしいと、脳みそ鳥並みの俺であっても判断できた。もちろん雪乃のいつ息継ぎしたか質問したくなるご演説もおかしいけれど、これは雪乃なりの照れ隠しだ。だから、問題はない。

 一方、雪乃が俺を鳥のように閉じ込めておきたいと言った時の表情は、照れ隠しには当てはまらない。むしろもっと内に秘めた葛藤なのだろうか。

 彼氏彼女だからこそ言えない一言が含まれている気がした。

こ れでも雪乃の彼氏であり、今までも、そしてこれからもずっとやっていきたいと思っているわけで、雪乃が抱えている悩みを一刻も早く解決したい。

 悩みなんて人それぞれ抱えているものだし、ましてや自分の悩みでさえ簡単には解決できるものではない。

 ならば、自分の彼女だって、簡単に解決できるものではないのだろう。

 そもそも偉そうに人の悩みを解決してやるだなんて言う方がおこがましい。

 でも、今回の、俺の彼女たる雪ノ下雪乃の悩み限定ならば、完全に解決できるとまでは言えないまでも、それなりに悩みを軽減させる自信が俺にはあった。

 なにせ、その悩みの原因はおそらく俺自身なのだから。

 

「雪乃も喋りすぎて喉が渇いただろ。ちょっと喉を潤わせる為に休戦にしないか」

 

「そうね。私も喉が渇いてしまったわ」

 

 そりゃそうだろ。あれだけ喋ったのだから。

 雪乃は俺の勧めに従って、コーヒーカップを取ろうする。

 

「雪乃のお勧めでもあるし、紅茶を淹れてくれないか? 雪乃とゆっくりとリラックスしながら朝食をとりたいんだ。そうだな、明日からはコーヒーじゃなくて、紅茶にしないか?」

 

 雪乃は、俺の真意を探ろうと見つめ返してくる。

 どこか訝しげで、触ってしまったら泣きだしてしまいそうな瞳に吸い寄せられてしまう。だから、俺は雪乃からの視線に逃げることなく、視線を受け止める。

 さすがに演技かかった発言だったと思う。しかも三文芝居だったしな。けれど、俺の真意だけは雪乃に伝えたい。伝えなければならない。

 やはり陽乃さんが淹れてくれるコーヒーと比べてしまうと、同じコナコーヒーの豆を使っていても、違いがわかってしまう。

 俺の味覚がすごいわけではない。

 そもそも陽乃さんはハンドドリップであり、雪乃はコーヒーメーカーを使っているのだから味の違いが出て当然だ。

 もちろん俺は缶コーヒーも飲むし、喫茶店のコーヒーや、チェーン店のコーヒーも飲むし、最近はコンビニのコーヒーだって飲む。

さ すがにインスタントコーヒーは、練乳たっぷりのマックスコーヒーもどきを愛飲しているが、だからといって陽乃さんが淹れてくれるコーヒーが絶対であり、他のコーヒーを認めないと考えているわけではない。

 ただ、朝の目覚めで飲むコーヒーとしては、一緒に暮らす雪乃に対して失礼だと俺が思ってしまう。

 彼氏であって、同棲している彼氏でもある恋人が、雪乃の実の姉であろうと朝一番で違う女性の事を考えてしまうのは、けっしてよろしいとはいえない。

 むしろ裏切り行為だとさえいえるだろう。

 そもそも朝一番にコーヒーを飲む習慣を作ってしまったのも、雪乃の勘違いから始まったものだ。普段から俺がマックスコーヒーばかり飲んでいるわけで、そのせいで俺がコーヒー好きだと雪乃が思ったらしい。

 もちろん間違いではない。厳密にいえば、マックスコーヒー限定なのだが、その辺の違いを熱く語ったとしても、俺が論破されてしまうだけだろう。

 まあ、いってみれば、俺が好きなマックスコーヒー関連について雪乃に論破されるのが嫌だったという、器が小さすぎる俺に今回の騒動の小さな原因があったのかもしれない。

 若干こじつけ臭いが、嘘は言ってないとはずだ。

 俺からしたら、コーヒーではなく、朝は、雪乃が淹れてくれた紅茶でよかった。むしろ最初から雪乃の紅茶がいいと選択したほうがよかったとも今なら思えるが、いろんなところでコーヒーを飲むと言っても、そのほとんどがインスタントコーヒーか缶コーヒーくらいしか飲まない俺からすれば、雪乃が用意してくれたコーヒーメーカーで淹れてくれたコナコーヒーならば、目が覚めくらいうまいコーヒーであった。

 だからこそ、俺は雪乃が用意してくれた最初の一杯のコーヒーを皮きりに、その翌日も雪乃が用意してくれるコーヒーを飲む習慣を作ってしまった。

 だけど、その習慣も今日で終わりだ。

 やはり俺の偽らざる裸の真意を伝える為には、オブラードにくるまずにストレートに言おう。

 きっと雪乃も、それを望んでいるはずだ。

 

「どうしても陽乃さんのコーヒーと比べてしまうからな。でもさ、朝一番に感じたいのは雪乃だから。それが一杯のコーヒーであろうと、それは雪乃に対して不誠実だと思うんだよ。だからこれからは、雪乃が淹れてくれるダージリンのセカンドフラッシュを毎朝飲みたい、と思っている」

 

「ええ、わかったわ。……ありがとう、八幡」

 

 蕾がゆっくり開くように微笑みかける雪乃に、俺は見惚れてしまう。

 儚く、美しい花びらが、一枚、また一枚と、しっかりと自己主張していく。

 他人から見たら、温室育ちのか弱い花だっていうのかもしれない。

 花は他人を寄せ付けず、花の管理者さえも厳重に他者を寄せ付けないように薄いビニールハウスを張り巡らせている。

 でも、俺はわかっている。

 しっかりと根を張って、外に出ようとしているその花は、気高く、強いって。

 けれど、今降り注ぐ夏の陽差しは強すぎる。

 陽は、花にとってなくてはならない存在だ。

 しかし、強すぎる陽差しは毒にこそあれ、しまいには花を枯らせてしまう。

 ならば、管理者たる俺が、うまい具合に調整しなければならない。

 

「紅茶、淹れてくるわね」

 

「頼むよ」

 

 もう一度小さく微笑んだ雪乃は、くるりと華麗にターンを決めると、キッチンへと一歩踏み出そうとした。

 

雪乃「ええ」

 

 雪乃は何か思い出したらしく、一つ確認するように呟くと再びターンをきめると、俺の方へと歩み寄ってくる。椅子に座る俺の目線に合わせるようにかがみこんでくると、すっと俺の瞳の奥まで侵入してくる。

 朝日を背にする雪乃の表情はよく読みとれなかった。

 気がついたときには、雪乃はキッチンへと消えている。

 雪乃が残していった香りをかき集めて余韻に浸っていると、いつもの朝がこれで終わった事を実感した。

 これからは、今までとは違う朝を毎日過ごす事になるんだと思う。

 テーブルの上には、飲みかけのコーヒーカップは存在していなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 今日も今日とて大学の講義はある。

 大学生も社畜に許されている有給制度を導入しないかな? 上司に申請しても舌うちさえながらもっと早くに申請できないのって嫌味を言われる程度の苦行なら、俺頑張っちゃうよ。

 とまあ、暦通りに大学生をまっとうする俺は真面目に大学へと向かっている。

 今朝の出来事のおかげか、雪乃はすこぶる上機嫌で俺の隣を闊歩していた。

 昨日の雪乃と陽乃さんの衝突を心配してはいたが、陽乃さんにいたっては昨日の事など微塵も感じさせない様子であり、俺の方がかえって戸惑ったほどだ。

 一方雪乃はというと、陽乃さんを迎えにいって陽乃さんが車に乗り込んだ直後までは緊張してはいたみたいだが、陽乃さんがいつも通りの雰囲気である事を確認すると、雪乃からはとくに昨日の事を蒸し返そうなどしなかった。

 もちろん雪乃は表面上はいたって普通であることを演じてはいたが、俺や陽乃さんは雪乃のぎこちなさに気がついたし、陽乃さんもそのことに触れようとはしなかった。

 そして現在、俺を挟んで雪乃と陽乃さんはいつもの激しい会話を繰り広げているが、俺はそんな微笑ましくもあり、精神を削り取られる会話を楽しむ気にはなれないでいた。

 なにせ今日はいつもの登校時間より30分も早くして、橘教授に会いに行かねばならないのだから。さすがにいつもの登校時間ではないともあって、雪ノ下姉妹の登校風景に見慣れていない人たちがほとんどであり、振り返る奴があとを絶たない。

 本来の俺ならば興味半分にその数を数えたりしたりもするが、今日はそんな気にさえなれなかった。

 一応昨日の弥生の話からすれば、俺の解答が橘教授に悪印象を与えてはいないらしい。悪印象は与えていなくても、好印象を与えているとは限らないところが面倒だ。

 つまり、個人的には面白い好意かもしれないが、講義の小テストとしてはNGであり、レポートの提出を義務付けるなんてこともありうるわけで。

 そんなマイナスイメージばかりを昨日から幾度ともなく考えていれば憂鬱にもなってしまう。

 

「雪乃ちゃんも比企谷君も、今朝は心ここにあらずって感じでつまんな~い」

 

 つまんな~いと言いながら腕をからませてくるのはやめてください。いくら平凡な朝の光景だとしても、そこに核兵器を実装しては不毛の地になるだけですって。

 現に隣の国の雪乃さんのレーダーは緊急事態を察知して、俺に絡める腕の力を限界まであげていますよ。

 だから俺は肩にかかった鞄をかけ直すふりをして、さりげなく陽乃さんの誘惑を退けるしかなかった。

 

「ねえ雪乃ちゃん」

 

「なにかしら?」

 

 水面下で高度すぎる外交取引があったというのに、二人の顔は崩れる事もなく会話を進める。

 

「今度私の誕生日会を開いてくれるらしいわね」

 

「ええ、由比ヶ浜さんが企画したのよ」

 

「それだったら、雪乃ちゃんが具体的な準備をまかせられたってところかしら?」

 

「その認識で間違っていないと思うわ」

 

 異議あり。たしかに雪乃が具体案を作り上げるだろうが、こまごまとした準備は俺の方に回ってこないか?

 と、不満をぶちまけそうになるが、結局は料理なんかの重労働は雪乃がやるわけで、一番大変なのは雪乃なんだよな。料理だけは由比ヶ浜に手伝ってもらうわけにはいかない。むしろ由比ヶ浜を料理から遠ざけねばなるまい。

 いくら最近少しは上達してきたといっても、まだまだ戦力には数えられないだろう。

 となると、俺がヘルプに入るわけか。それはそれで楽しいからいいんだけどさ。

 

「だったら、リクエストしたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

「もちろん構わないわ。姉さんが主役のパーティーなのだから、その主役の要望にはできるだけ応じるつもりよ」

 

「だった……」

 

「でも、出来る事と出来ない事があるから、その辺の事は察してほしいわ」

 

 さすが雪ノ下雪乃さんです。陽乃さんが無理難題を突き付ける前にシャットダウンするとは。

 長年陽乃さんの妹をやっているわけではないっすね。俺だったらずるずると陽乃さんの雰囲気にのまれて、無理難題を意思不問で押しつけられていた所だ。

 しかし、陽乃さんも雪乃が生まれた時から雪乃の姉をやっているわけで、一呼吸つくと、再度の攻勢に取り掛かった。

 

「もちろん出来ない事ではないから安心してほしいわ。雪乃ちゃんに頼む事ではないしね。私がリクエストしたい事……」

 

「却下よ」

 

 雪乃の冷たく重い言葉が、陽乃さんの声を遮る。雪乃が陽乃さんを見つめる瞳は黒く輝いていて、何人たりとも国境からの侵入をゆるさない決意を漂わせていた。

 一方陽乃さんも、一瞬のすきを伺うその集中力は、まさに狩人といったところだろう。

 こえぇ~。陽乃さんはまだ何もリクエストしてないだろ。それでも雪乃には、陽乃さんが何をリクエストしたいかわかっているのかよ。

 

「えっと、ねぇ……」

 

「却下」

 

「だか……」

 

「不許可」

 

「そのね」

 

「不採用」

 

「ちょっと聞いてよ」

 

「不受理」

 

「むぅ~」

 

 雪乃はあくまで陽乃さんに言わせない気かよ。そこまでして聞き入れたくない内容なのだろうか。

 だとすると、陽乃さんだってこのまま引き下がるわけがないと思うのだが……。

 と、陽乃さんの出方を伺っていると、陽乃さんはさっそく俺の腕にしがみつき、俺の耳に口をあて、俺だけに聞こえる声でリクエストを伝えてきた。

 急すぎる不意打ちに、俺も雪乃も対応できないでいる。今までは雪乃に対してのアプローチだったので、俺に来るとは思いもしないでいた。

 ただ、たしかに雪乃が聞き入れたくない要望だと納得せざるを得なかった。

 なにせ……。

 

「一日比企谷君をレンタルしたいな」

 

 だったのだから。

 

「姉さん。いくら八幡に直接言ったとしても、私が許可しないわ」

 

「えぇ~。これは比企谷君が決めることでしょ?」

 

 雪乃には陽乃さんの囁きは聞こえなかったはずなのに、それでも許可申請をしないところをみると、やはり雪乃には陽乃さんのリクエストが詳細にわかっていたってことか。

 ただ、このまま陽乃さんが引き下がるとは思えないし、ましてや雪乃は徹底抗戦しかしないはずだった。

 だとすれば俺が調停役にならなければ、この騒動は終息しない。

 はぁ……。なんで朝っぱらからため息ついてるんだろ。おい、俺の事を見て羨ましがってるそこのやつ。俺の苦労も知らないで、俺の事を睨むなよ。

 と、通りすがりの美女二人を眺めている男に八つ当たりをしてしまう。

 けっしてこの苦労を譲ろうとは思わないし、手放しはしないけれど、一方的決めつけだけはやめてくれ。いや、お願いします。じゃないと、心が折れそうです。

 俺が周囲を観察中も、あいかわらず雪乃達の外交交渉は続いていた。

 さてと、このままでは核戦争まっしぐらだし、俺が交渉の場につくとしますか。

 

「いくら陽乃さんであっても、俺をレンタルする事は出来ませんよ」

 

「えぇ~。いくら雪乃ちゃんに悪いといっても、一日くらいはいいじゃない」

 

「それも違いますよ」

 

 俺の発言に陽乃さんに戸惑いが浮かべるが、援護されていたと思って浮かれ気味だった雪乃の表情にまで戸惑いが広がる。

 

「どういうこと?」

 

 陽乃さんは意味がわからないという顔で聞き返してくる。雪乃も陽乃さんと同じ気持ちらしく、ちゃんと話してあげなければ今にも詰め寄りそうなので、雪乃に対して優しく目で制しておく。

 一応その牽制で雪乃は落ち着きをみせてくれるが、納得していないのは目を見れば明らかだった。

 

「そもそも俺は雪乃の所有物ではないですよ。もちろん彼氏ではありますけど」

 

「ふぅ~ん。逆のたとえとして、雪乃ちゃんが比企谷君の恋人であっても、その体は雪乃ちゃんの物であって、比企谷君が自由にできる事はないっていいたいわけ? 案外比企谷君も常識すぎる事を言うものなのね」

 

「そういう言い方をされると、俺が非常識人みたいじゃないですか」

 

「あら? 八幡が一般人と同じレベルだと思っていたのかしら? その認識こそ非常識よ」

 

「おい、雪乃。雪乃は俺に援護してもらいたいのか、それとも殲滅したいのか、はっきりしろ」

 

「援護してもらいたいけれど、間違いは訂正したくなるのよね。潔癖症なのかしら?」

 

「可愛らしく首を傾げても今は無駄だぞ。なにせ魔王が目の前にいるんだからな」

 

「あら? 魔王って私の事かしら?」

 

「そうですよ。自分では認識していなかったのですか? そう考えると、陽乃さんも非常識人ですね。あっ、魔女っていう認識でもいいかまわないですよ」

 

「へぇ……、比企谷君が私の事をそんなふうに思っていたなんて、予想通りよ」

 

 だから、陽乃さんも可愛らしく首を傾げても、怖いだけですから。

 もう、両方の腕に絡まる細い腕をふりほどいて逃げだしたい。俺の状態はいわば護送中の容疑者の気分よ。

 

「そう認識していただいてもらえて助かります」

 

「どういたしまして。で、まだ一般常識をご高説していただけるのかしら?」

 

「そんな上から目線のことなんて言いませんよ。ただ、俺をレンタルしたいなんて言わないでも、直接俺に付き合ってくれって言ってくれれば、遊びにも買い物にも、いくらでも付き合いますよ」

 

「え?」

 

 おいおい……、あの陽乃さんの目が丸くなったぞ。真夏だっていうのに、本当に雪が降るかもしれない。

 俺はあまりにも失礼な感想を思い浮かべているが、雪乃も同様みだいだった。

 もしかしたら、別の意味も含まれているかもしれないが。

 

「だから、貸し借りなんて考えないで、素直に誘ってくれればいいんですって。そうすれば、いくらでも付き合いますよ。あっ、でも、時間がない時は無理ですからね。陽乃さんもわかっていると思いますけど、ご両親との約束がありますから勉強に忙しいんですよ。ですから、その辺の事情も考えたうえで誘ってください。出来る限り時間を作りますから。そうじゃなかったら、今朝だって車で迎えに行きませんよ。つまり、陽乃さんと一緒にいるのもいいかなって思っているからこうやって登校しているんです。あぁっ、……なんか恥ずかしすぎること言ってますけど、まあ、あとは察してください」

 

 俺はあまりにも恥ずかしすぎるご高説は演じてしまう。

 もし両腕が自由だったら、すぐにでも顔を両手で覆っていたはずだ。だが、無防備にも顔を晒している今のこの状況はある意味羞恥プレイすぎるだろ。

 なんとか視線だけ動かし雪乃を見ると、一応ほっとした顔を見せていた。雪乃だって俺と同じ気持ちで陽乃さんといるんだし、納得はしてくれるとは思っていた。

 けれど、全てが納得できるかと問われれば、そうじゃないのが雪乃の立場たるゆえんなのだろう。

 一方陽乃さんはというと、何を考えているかわかりません。

 だって、普段からわからないんだから、突然今だけわかったほうがおかしいってものだ。

 まあ、その顔色を見てみると、プラス方向に傾いているようなので、このままその外交交渉の落とし所は見つかったって事でいいのか、な?

 

「俺は今日こっちだから」

 

 俺は終戦を確認すると、この後に待っている本来の目的を遂げようと行き先を告げる。

 俺が急に歩くのを緩めたものだから、雪乃達に腕を引っ張られる形でその場に止まった。本来ならばもう少し先まで一緒に行くが、今日は橘教授に会いに行かねばならない。

 だから、今日はここでお別れだ。

 橘教授に呼ばれた事は、雪乃にも話してはいなかった。呼ばれた事ばかり考えていたせいで、雪乃に話す事をすっかり忘れていたのが原因なのだが、そのせいで、雪乃は訝しげに俺を見つめてきた。

 

「橘教授に会いに行かないといけないんだよ。昨日呼ばれていたな。今の時間だったらいるらしいから、面倒事は早めに済ませたいんだよ」

 

「聞いていないわよ」

 

「ごめん、すっかり忘れていた。あまり行きたくない用事でもあったんでな」

 

 俺はご機嫌斜めの雪乃に、誠意を持って素直に謝る。その謝罪があまりにも自然すぎて、雪乃はこれ以上の追及はしてこなかった。

 

「で、なんで呼ばれたの?」

 

「そうね。理由くらいは教えて欲しいわ」

 

 ですよねぇ……、陽乃さんに続いて雪乃も理由開示を求めてくる。

 陽乃さんは簡単には撒けませんよねぇ。雪乃もすっかり復活してるし。

 わかってはいましたけど、理由を説明すると全部言わないといけなくなって、きっと二人は笑うんだろうな。

 ようやく訪れるはずだった静かな朝。こうして再び乱世へと舞い戻っていく運命だったんだな。

 さっきまで核戦争開戦間近だったのに、今は同盟ですか。

 この二人のタッグを目の前にして、俺は開戦直後に白旗をあげるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから大変不評である弥生パートです。読み飛ばしても本編には影響ありません。

『愛の悲しみ編 2』の最初の方までとばしても大丈夫です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつもより少し遅い時間に到着した教室内は、あらかた席が埋まっている。

 しかし、もう7月ともあって、この講義も終盤であり、毎回違う席を狙って座る変わり者以外は、たいてい同じような場所に座るわけで、俺がいつも座っている席も空席のままであった。

 まあ、由比ヶ浜が先に来ていて、俺の分の席も確保しているみたいだったせいもあるみたいだが。

 

「よう」

 

「あ、おはよう、ヒッキー」

 

 ノートとにらめっこしていた由比ヶ浜は、俺が隣の席に着くまで気がつかないままであった。よく見ると、弥生の鞄らしきものも置かれているので、弥生はすでに来ているみたいだ。ここにはいないのは、きっと奴の事だから、誰かと情報交換でもしに行っているのだろう。

 あいつは頭がいいんだし、面倒な情報交換なんてしなくても今の成績をキープできると思うんだけどな。不安要素を潰したいっていう気持ちだったらわからなくもないが、あいにくそういう理由で行っている行為とも思えない。

 まっ、俺からその辺の詳しい事情を聞く事はないし。それに、弥生だって聞かれたくはないだろう。

 

「朝から復習とは、お前もしっかりしてきたな」

 

「まあ、ね。そろそろ期末試験だしさ」

 

「それはいい心がけだ。わからないところがあったら、早めに聞いてこいよ」

 

「うん、ありがと」

 

 俺はひとつ頷くと、授業の準備に取り掛かる。

 ノートにテキスト。それに筆箱っと。

 由比ヶ浜との会話でわずかながらであっても気分転換できたはずなのに、どうも朝の後遺症が俺の腕を重くする。

 いや、朝の雪乃と陽乃さんの衝突も神経を削りとられたが、それはいつもの光景にすぎない。

 このイベントを慣れてしまうのはどうかと思うが、一種の姉妹のコミュニケーションとして受け入れはしている。俺の手を鈍らせていたのは、橘教授に呼ばれた事に原因があった。

 ……もう忘れよう。終わった事だ。問題はなかったし、ただ疲れただけだ。

 

「おはよう、比企谷。橘教授はなんだって?」

 

 俺が忘れた事にしたばっかりなのに頭の上から声をかけてきたのは、席を離れていた弥生だった。

 こいつ、人が忘れようとした事を数秒も経たないうちに思い出させやがって、と心の中で愚痴るが、こいつには全く悪気あったわけではないし、むしろ本当に俺の事を心配しての事だとわかっている。

 そんな弥生の性格をわかっていも俺の顔は引きつってしまい、その顔を弥生が見たものだから、弥生は勘違いしてしまった。

 

「なにか問題でもあった? 昨日の感触ではけっこうよさげだったんだけどな」

 

「教授はいたって友好的だったよ」

 

 俺の返事に弥生は訝しげな瞳で見つめ返してくる。

 そりゃあ懸念対象たる橘教授に問題がなければ、なにも問題を抱える事はないと思うし、俺だってそうだ。

 

「だったらなんでそんなにも疲れた顔をしてるんだよ?」

 

「雪乃と陽乃さんが一緒についてきたんだよ」

 

 俺の簡潔すぎる説明に、弥生は全てを納得したといった顔を見せる。

 それと、俺が雪乃達の名前を出したとたん周りの喧騒がボリュームアップした事はこの際無視しだ。

 正確にいうならば、雪乃ではなく、陽乃さんに期待してのものだろうが、実被害を受けないで、外から眺めているだけの奴らはきっと楽しいのだろう。

 

「なるほどね」

 

「俺が呼ばれたはずなのに、ほとんど陽乃さんが話していたよ。それはそれで助かったんだが、ときおり爆弾発言投げつけてくるからひやひやものさ」

 

「でも、問題はなかったんでしょ?」

 

「ないけど、疲れたよ」

 

「どんなこと話していたの?」

 

「別に大した事はない世間話だったよ。さすがに解答時間ゼロ分で提出したやつは珍しくて、どんなやつか話したかったんだと。一応昨日の試験を採点したのを見せてもらったけど、満点だった」

 

「よかったね」

 

「……ねえ、私のはどうだったかな?」

 

 にこやかな表情の弥生とは対称的に、由比ヶ浜の表情はどんよりと沈んでいて、その声に覇気はない。

 

「いや、俺の解答しかみせてくれなかったな。そもそも他人の答案用紙は見せてくれないだろ」

 

「だよね」

 

「なあ、由比ヶ浜」

 

「ん?」

 

「出来が悪かったのか?」

 

 由比ヶ浜からの返答はなかった。つまり、そういう事なのだろう。隣の席で俺と弥生が真面目に授業に参加して、さらには、必死に山をはっていたっていうのに、こいつは何をやっていたんだって呆れそうになってしまう。

 その内心が露骨に態度に出てしまったのか、由比ヶ浜は慌てて自己弁護を開始しだした。

 

「ヒッキーが想像しているほど悪くなかったって。ただちょっとだけ自信がなかったから、聞いただけだし」

 

「へぇえ……」

 

 俺は条件反射的に訝しげにな声を返してしまい、由比ヶ浜はますます取り繕おうとやっきになってしまう。

 

「ほんとうだって。試験なんて自信がある方がおかしいんだって。ふつうは答案用紙が戻ってくるまでドキドキするものなのっ」

 

「ふぅん」

 

「だから、ほんとうに出来が悪かったわけじゃないんだって。ねえ、弥生君も見てたからしってるよね?」

 

 俺が信じてないと思ってしまっている為に、隣に見守っていた弥生にも援護を求めてきた。俺だって一応由比ヶ浜の成績は把握しているわけで、昨日の小テストの出来だって、ある程度の予想もできている。

 おそらく由比ヶ浜が主張するように、悪くはない出来なのだろう。ただ、俺の返事に元気がないのは、由比ヶ浜が懸念している原因とは違って、まじで陽乃さん達の相手をしていて疲れ切っていたわけで。

 その辺も教室に来た時に話したのに、由比ヶ浜はすっかりとそのことを忘れてしまっているらしい。

 

「僕も昨日のテストは早めに教室から出てしまったから由比ヶ浜さんの解答を全てチェックしたわけではないけど、それなりに書けていたと思うよ」

 

「ほら、弥生君だって悪くなかったって言ってるじゃん」

 

「別に疑ってるなんて言ってないだろ。そもそもお前が聞いてきたんじゃないか」

 

「そうだけど、ヒッキーのその目は私の事を信じてないって感じだし」

 

「この目はいつもこんな感じなんだよ」

 

「でも、でもぉ……」

 

 俺が人を信じているっていう目があるんなら、どんな目なのか俺の方が聞きたい。散々腐った目とか言ってたくせに、こういうときだけ疑うなんて都合がよすぎないか。

 

「比企谷は陽乃さんの相手をして疲れてただけだよ。さっき言ってたじゃないか」

 

「え? そうなの? だったら早くいってくれればよかったのに」

  

「最初に言っただろ」

 

「そうだっけ?」

 

 俺と弥生は顔を見合わせて苦笑いを浮かべてしまう。それでも由比ヶ浜なりに勉強していたんだし、俺達の会話を全て聞いていろって暴言を吐くほど暇じゃあない。

 

「そうだったんだよ」

 

「そっか、ごめんね、聞いてなかった」

 

「別にいいよ。勉強してたんだろ?」

 

「うん、期末試験もあるし、頑張らないとね。それはそうとヒッキー……」

 

 由比ヶ浜の声質ががらりと変わり、どこか俺を探るような意識がにじみ出ているような気がしてしまう。

 だもんだから、由比ヶ浜からのプレッシャーに押し負けて、俺の方もほんのわずかだけ体を引いてしまった。

 

「な、なんだよ」

 

 ちょっとだけどもってしまったが、それを気にしているのは俺だけで、由比ヶ浜はそんな俺を失態を気にもせず、俺へのプレッシャーを解こうとはしなかった。

 

「うん……、ねえヒッキー」

 

「ん? 言ってみ」

 

「う、うん。だからね、今日ヒッキーがお弁当当番でしょ。ちゃんとヒッキーが自分だけで作ってきたかなって」

 

 由比ヶ浜の視線を改めて辿っていくと、俺が普段使っている通学用の鞄とは違うバッグに向けられていた。そのバッグは通学の為の用途とは違い、底の部分が広めに作られており、弁当など底が広い物を入れる分にはちょうどいいバッグではあった。

 ぶっちゃけ俺一人で作ったみんなの弁当が入っているわけだが、おそらく由比ヶ浜が気にしているのは、雪乃が手伝ったかどうかなのだろう。

 

「俺一人で作ったつ~の。お前だけでなく、陽乃さんや雪乃まで俺一人で作るのを強要したからな。いくら雪乃に手伝ってくれって頼んだって、雪乃が俺一人に作る事を強要しているのに手伝ってくれるわけないだろ」

 

「それもそうだよね。ゆきのんも楽しみにしているもんね」

 

「なにが楽しみなのかわからないけどな。俺としては、雪乃か陽乃さんに作ってもらったほうが断然美味しいと思うんだけどな」

 

 俺の不用意すぎる発言を聞いた由比ヶ浜は口をとがらせ、すかさず俺に非難を向けてくる。

 いや、まじで怒っているのか、俺に詰め寄り、席が隣でただでさえ近い距離なのに、顔の表情の細かいところまでわかるほど近寄ってくる。

 いいにおいがしてくるのはなんでだろう?って、毎回思ってしまうのはこの際省略。

 いやいや、まじで近いですって、ガハマさんっ!

 二重のプレッシャーをかけてくる由比ヶ浜に対して、俺はひたすら動揺するしかなかった。

 

「むぅ~。あたしが作ったのは美味しくないっていうのかな? そりゃあゆきのんや陽乃さんの料理と比べたら、まったく比べ物にならないくらいの差ができているのは、あたしだって認めるけど、それでも前よりはうまくなったよ。プロ並みなんて当然無理だし、主婦レベルだってまだまだ遠い目標になっちゃうけど、それでも、それでも……」

 

 一気に言いたい事をまくしあげると、最後の最後には唇を噛んで泣くのを我慢しているように感じられた。

 別に由比ヶ浜の言っているような事を意図的に言ったわけではなかった。

 雪乃と陽乃さんの料理の腕がとびぬけてうまいのは事実ではあるが、由比ヶ浜の料理であっても、普通に食べられるレベルまでは上達してはいる。

 だけど、今ここでそのことを指摘するのは場違いなような気もしてしまった。

 

「悪かったよ。俺は由比ヶ浜の事をお前がいうような目では見ていない。雪乃は雪乃の料理だし、陽乃さんも陽乃さんの料理だ。だから、由比ヶ浜が作る料理だって、由比ヶ浜にしか作れないんだよ。いくら陽乃さんの腕がずば抜けていても、由比ヶ浜が心をこめて作った料理を再現することなんて、どだい不可能なことなんだ。そして俺は由比ヶ浜が作ってきた弁当を楽しく食べていただろ。文句なんて言ってなかったろ? それに、俺はまずそうに食べていたように見えたか?」

 

「だけどぉ~」

 

 なおもぐずつく由比ヶ浜に、さすがに俺もお手上げ状態になりつつあった。

 ただ、今ここにいるのは幸い俺と由比ヶ浜の二人だけではない。

 運がよすぎる事に、弥生が隣にいた。つまりは、友人関係を円滑に丸めてくれる弥生に、俺は由比ヶ浜の事を丸投げしようと画策しただけなんだが……、まあ、弥生が自分から助け船を出してくれるようだし、丸投げっていうわけではないかも、しれない、かな?

 

「比企谷も由比ヶ浜さんのお弁当を楽しみにしているだけよ。別に他の人のお弁当と比べる為に作っているわけじゃあないでしょ? 食べてもらいたい人がいて、その人の為に作っているんだから、その食べてもらい人が満足していれば、由比ヶ浜さんは自信をもってもいいと思うよ」

 

「ほんとうに美味しかった?」

 

 弥生の言葉に平静さを取り戻しつつあった由比ヶ浜は、俺の表情を探るように下から覗き込んでくる。

 んだから、その女の子っぽい仕草、NGだからっ!

 威力ありすぎ、効果てきめん、防御不可、回避不能、胸でかすぎ。

 つまりは陥落寸前の比企谷八幡ってわけで、俺はしどろもどろに返事を返すのがやっとであった。

 やっぱ夏の薄着であの胸のでかさは、脳への刺激が強すぎだろっ。

 

「美味かったよ。だいぶ上達してきたのがよくわかったし、これからも頑張っていけば、だいぶうまいレベルまでいくんじゃないか?」

 

「うん、頑張ってみるね。それと弥生君もありがとうね」

 

「僕は別に……。それにしてもお弁当っていいね。僕は、お弁当は無理だからさ」

 

「毎日は無理でも、たまにくらいなら弁当作ってきてもいいんじゃないか?」

 

「あいにく僕は料理ができなくて」

 

「だったら、家の人に作ってもらえばいいんじゃないか? まあ、弁当作ってもらうのに気が引けるんなら、夕食のおかずを多めに作ってもらっておいて、それを朝自分で詰めてくるのも手だと思うぞ」

 

「まぁ、それもいい考えかもしれないけど」

 

「ん? それも駄目か?」

 

 どうも弥生の反応が鈍い。どうやら俺は地雷か何かを踏んでしまった気がする。それもそのはず。弥生は苦笑いを浮かべて、丁寧に俺の案を退けてきた。

 

「いや、比企谷のアイディアはいいと思うんだ。でも、うちの家族は僕と同じように料理が苦手で、だから、もし作ったとしてもそれをお弁当にして持ってくるのはちょっとね」

 

「すまん、無神経な事言って」

 

「ううん、いいんだって」

 

 ちょっとばかり俺達の間に気まずい雰囲気が漂ってしまう。

 だが、空気を読むのに優れているのは弥生だけではなかった。ここにはもう一人の元祖空気人間たる由比ヶ浜がいる。

 空気人間っていってしまうと存在感がない人みたいに思われてしまうは、まあ、空気を読んで、その場の空気を安定方向にもっていく属性を持っているって意味では似たようなものかな? いや、全く違うか。

 どちらにせよ、今回はそんな空気を読める由比ヶ浜に助けられてしまった。もしかしたら、先ほど助け船を出した弥生への恩返しかもしれないが。

 

「あっ、そだ、弥生君。テスト対策の方はどうだった?」

 

「あぁ、うん。なんだか歯切れが悪い対応ばかりで、なんだか調子悪いっていうかな」

 

「そっかぁ~。でも、弥生君なら過去問とかなくても独学だけでもすっごい点とっちゃうんじゃないの」

 

「しっかりと時間をかけて勉強すれば可能かもしれないけれどね」

 

「ふぅん……。やっぱり弥生君でもてこずるんだ」

 

「そりゃあね」

 

 由比ヶ浜ではないが、今度は俺の方が二人の会話を飲み込めないでいた。

 わかっている事といえば、弥生がさっきまでいなかったのは、期末試験の過去問コピーを手に入れる為の交渉をしに行っていたらしいことと、そして、その交渉は失敗したらしいってことだ。

 珍しい事もあるんだな。弥生との取引に応じないなんて、ちょっとどころじゃないほどに珍しい事件と言えるはずだ。

 

「過去問って、今度の期末試験のか?」

 

「うん、そうだよ。既に持っているのもあるけど、いくつか抜けていてさ。それを手に入れたくてお願いしてみたんだけど、振られちゃったかな」

 

「珍しい事もあるんだな。弥生の期末対策ノートが交換材料だろ?」

 

「うん、そうなんだけどね」

 

「だったら、他の奴に頼んでみたらどうだ?」

 

「それがさ……」

 

 弥生が醸し出す重い雰囲気に、思わず由比ヶ浜に事情を説明してほしいと目で求めてしまう。

 しかし、由比ヶ浜が説明する前に弥生自身が説明をしてくれた。

 

「なんか避けられているっぽいんだよね。8月の初めから期末試験が始まるから、そろそろ本格的に過去問やノートのコピー、対策プリントなんかが出回るはずなのに、僕のところには表立っては回ってこないんだ」

 

「表立ってはって?」

 

「うん。僕が作った対策プリントなんかは今回も好評で出回っているんだけど、そのおかげでか、プリントを渡した時には過去問を貰う事は出来ないけど後になってメールで送られてくる事があるんだよ。やっぱりサークルとかに所属していないから、僕は先輩とのつながりが希薄で、過去門は手に入りにくいからね。その点サークルに所属している人たちは、無条件で先輩から回ってくるからその辺の強みはでかいね」

 

「サークルはサークルで、人間関係っていうの? 上下関係も厳しいから大変みたいだよ。それでもサークルが楽しいから続いているみたいだけど」

 

 由比ヶ浜のいい分もわかるが、だからといって試験の為だけにサークルに参加したくはない。

 たしかに、俺や弥生みたいな一匹オオカミは、試験だけでなく講義を受けるだけでもデメリットが生じてしまう。

 まあ、教室の変更や急な提出物なんか、講義にしっかり参加して、こまめに掲示板をチェックしていれば問題はないが。

 もちろん試験対策やレポートは、一応一人でもいい点が取れるようにはなっている。

 そもそもテストは一人で受けるものだが。

 しかし、一人でやってもいい点は取れるが、一人でやると時間がかかってめんどいとも言える。その点友達を総動員して取りかかれば楽ってもので、もし俺なんかが参加したら、あり得ない事だが、比較的楽そうなところを見つけて、やっかいごとは人に任せてしまう自信がある。

 

「そんなにサークルって楽しいか?」

 

「ヒッキーは所属していないからわからないだけだよ」

 

「お前だって所属してないだろ」

 

「まあ、そうなんだけど」

 

 といっても、人気がある由比ヶ浜は、俺とは事情が違う。サークルに所属はしてはいないが、飲み会やらバーベキューやら海やら……、リア充死ねって感じのイベント事には随時招待されていた。

 普段も時間があれば遊びに行っているみたいだし、それなりにサークルの先輩との繋がりもあるみたいだ。

 

「サークルなんて面倒だから俺は絶対にやりたくない。そもそも向こうも俺を入れてくれないだろ」

 

「それはぁ~」

 

 苦笑いしながら目をそらすなって。繊細な心の持ち主たる俺は、傷つきやすいんだからな。

 もっと丁寧に扱ってほしいものだ。

 特に雪乃とか陽乃さん、おねがいしまっす。

 

「でも高校の時、奉仕部は好きだったよね。こればっかりはヒッキーであっても否定させないんだから」

 

「それは、まあ……、例外だ。奉仕部は部活っていうよりも、よくわからない集まりだったからな。だから、あれだよ、あれ。うんっと……そうだな、例外事項だ、例外事項。一応部活動って定義であっても、奉仕部は例外にすぎない」

 

「ふぅ~ん」

 

「何ニヤニヤしてるんだよ」

 

 俺を見つめる由比ヶ浜の表情は、喜び成分半分。これからからかってやろう成分半分ってとろこだろう。

 わかってる。わかってるって。俺にとって奉仕部は特別だった。口が裂けても言えないけど、雪乃や由比ヶ浜。それに平塚先生がいたから俺はぼやきながらも卒業式のその日まで、奉仕部の部室に通っていたんだよ。

 こいつ絶対わかっててニヤついてるだろ?

 居心地が悪い俺は話を元に戻そうと、弥生の話の続きを促す事にした。

 

「んで、弥生。後からこっそり過去問メール送ってもらえてるんなら、問題ないんじゃないのか?」

 

 だから由比ヶ浜。こっち見るなって。わかったから、今はスルーということで。

 そして、さすがは俺を気遣ってくれる弥生昴。

 俺の情けない取り組みを感じ取ってくれたのか、弥生は俺の要求に素直に応じてくれた。

 

「今は問題ないかもしれないけど、きっと問題の先送りにしかならないと思うんだ」

 

「レポートの方にも問題が出たとか?」

 

「いや。過去レポは4月にはそろえていたから問題なかったけど、おそらく後期日程には反応が鈍くなると思うんだ」

 

「どうして? 前期日程のが手に入ったんだから、後期日程のもあるんじゃないの?」

 

「過去レポ自体はあると思うよ。あると思うけど、4月みたいに、同一レポートに対して複数の過去レポは手に入りにくくなるとおもうんだ」

 

「へ? 過去レポなんて一つあれば十分じゃない?」

 

「お前わかってないな」

 

「何が?」

 

「みんなが同じ過去レポを参考にしてレポート作成しちまったら、全部似たようなレポートが出来上がっちまうだろ。それでも参考程度ならいいんだけど、なかにはまる写しってやつが何人かいるから同じ過去レポを参考にしたやつらは、その不届き者の煽りをくらっちまうんだよ。レポートの再提出にはならないだろうけど、減点対象になりかねない。教授たちも馬鹿じゃないんだよ。伊達に長年教授職をやってはいない。過去レポの写しなんて、すぐにばれるんだよ。対策だってしているはずだ。だから、過去レポ写したのがばれたら最後。即刻評価減点対象に認定される」

 

「そっか」

 

「だから複数の過去レポがあると便利なんだよ。キーワードだけを抜き取って、あとはなんとなく自分の言葉でレポートをまとめられるからな」

 

「それに複数の視点からのレポートを研究できるから、より深みのあるレポートを作成できるしね」

 

「ふぅ~ん」

 

 こいつにとっては、レポートが仕上がるか仕上がらないかが最重要課題だったか。

 レポートの評価を気にしないのであれば、提出期限のみが問題であって、そこそこまともなレポートができるのであれば、レポートの中身を気にする必要なんてない。

 どうせレポートを提出する頃には、レポートに何を書いたかさえ忘れているはずだしな。

 まあいい。話が脱線気味だし、元に戻すか。

 

「弥生の話を聞いていると、試験対策委員会が機能しなくなったんじゃないかって思うんだけど、あそこってサークル活動停止したのか?」

 

「経済研? この前も食事会に誘われたから、活動していると思うよ。これから期末試験だし、決起集会みたいな感じだとかいってたかな?」

 

「決起集会? 合コンの間違いじゃねぇの?」

 

 俺は由比ヶ浜の訂正に訝しげな視線を送ってしまう。

 経済研って、試験対策やレポート対策の為に大量の資料を毎年収集して、部室に歴代の過去問、過去レポを保管してあるんだよな。

 あれさえあれば俺の勉強も楽になるにはなるけど、その分厄介事も増えるから経済研はやっぱ遠慮したいサークルに分類される。

 いや、全サークルから遠慮されているのは、俺でした。

 

「合コンはいかないし」

 

 俺の問いかけに、由比ヶ浜は全力で否定してくる。あまりの勢いに俺が悪い事を聞いちゃったんじゃないかって、すぐさま謝ろうとしてしまうほどであった。

 

「でも、この前行ったんだろ?」

 

「あれは、知らなかったの……。ただ食事してカラオケ行くって話だったのに、行ってみたら合コンだったってだけで」

 

「騙されたってことか」

 

「その言い方面白くないぃ」

 

「でも実際は合コンだたんだろ?」

 

「そうだけど……」

 

「だったら騙されただけじゃないか」

 

「だからっ」

 

「違うのか?」

 

「そうだけどぉ」

 

「そろそろ話しを戻してもいいかな?」

 

 弥生はこのまま俺と由比ヶ浜の押し問答を続けさせるのはまずいと感じたのか、会話の途切れを狙って、話の軌道修正に入った。

 

「うん、ごめんね。変なふうに話がたびたび脱線して」

 

「いやいいよ。楽しいし」

 

 楽しいのはお前だけだろうけど。でも、これ以上由比ヶ浜を虐めてもしゃーないか。

 ここまでお人よしっていうのも美徳だけれど、もう少し友達は選んだほうがいいぞ。

 合コンの餌の為にお前を巻き込んだっていう事は、だしに使われたってわけだ。お前を連れてった自称友人は、合コン会場のトイレで、由比ヶ浜早く帰らねぇかなって

きっとぼやいているはずだしな。

 雪乃じゃないが、施しは人の為にはならないってやつだ。

 

「じゃあ、経済研は、活動してるってことか。だったら今の時期のあいつらは、はりきって活動してるんじゃね?」

 

「らしいね」

 

「らしいねって、あいつらとも情報交換してなかったか?」

 

「してたんだけど、急にサークルに所属している者以外には、過去問を配布することはできないって言われたんだよ」

 

「は? 今までなんか、こっちがお願いしなくても過去問ばらまいていた連中だっただろ」

 

「そうなんだけどね」

 

 どうも弥生の表情は芳しくない。

 なにか裏事情を隠していますって顔をしてるから、聞いてくださいって言ってるようなものだ。

 けれど、空気を読むのがうまい俺としては、そっとしておくっていう選択肢をチョイスしておこうと判断した。

 期末試験やらレポートやらでとにかく忙しいこの時期。やっかいごとに巻き込まれるのだけは勘弁だ。

 

「あれ? 私は経済研の子から過去問もらったよ」

 

 おい、由比ヶ浜さん。空気が読める子じゃなかったんですか?

 わかっていますよね? 時間がないんですよ。

 英語のDクラスみたいなことだけは、やめていただきたいです。

 ……お願いしますっ。

 

「由比ヶ浜はぁ……、あれじゃね? えっと、おこぼれをもらたってういか、経済研の合コンにも誘われているわけだし」

 

「合コンは行ってないし」

 

「わかったよ。合コンは行ってないでいいな」

 

「うんっ」

 

 由比ヶ浜は俺の回答に満足したのだろう。とびきりの笑顔で短く答えた。

 

「じゃあ、ちょっと経済研の子の所にお願いしてくるね」

 

 って、おい。

 

「ちょっと、ゆいが……」

 

「やめとけ」

 

 俺の低い声が弥生の声を上書きする。

 それ以上に、俺が由比ヶ浜の腕を掴んだ手の方が威力があったのかもしれなかった。

 戸惑い気味の由比ヶ浜は、とりあえず席に再び腰をおろして、俺の出方を伺った。

 

「すまん。強く握りすぎちまったな」

 

「ううん。別に痛くなかったから大丈夫」

 

 俺はわかってしまった。弥生昴が話したくない裏事情ってやつを。

 伊達に人間観察が趣味っていうわけではなのだよ。ようは、簡単に言ってしまえば縄張り争いって奴だ。

 俺や弥生はそんな面倒な縄張りなんて放棄してしまいたいが、当の本人達はそうではないらしい。プライドっていうやつか。

 そんなくだらないプライドなんて捨てちまえっていいたいものだが、プライドなんて人それぞれだから、声高に馬鹿にする事はしないでおこう。

 ま、面倒事に巻き込まれたくないだけなんだけど。

 事の発端は、俺や弥生のノートやレポートだろうな。

 過去問、過去レポ以上に価値があるものといえば、生レポートしかない。今年の、しかもまだ提出していないレポートほど価値があるものはない。

 さすがに完成したレポートをそのままコピーして学部内に出回らすことはしないが、参考資料やキーワードなどを詳しく記載した設計図みたいなものは誰だって欲しくなるものだ。

 過去レポは過去レポでしかなく、教授によってはまったく違う課題を出題したり、微妙に変化をつけてきたりする。だから、誰だって今年の生レポートは欲しくなってしまう。

 それが学年主席と次席の生レポートなら、なおさらだ。

 しかも、俺は由比ヶ浜に勉強を教えている都合上、試験対策ノートや普段の授業対策までもプリントを用意している。

 気のいい由比ヶ浜は、その対策プリントを友達に見せたりするものだから通称ガハマプリントは経済学部では知らないものはいないほどの地位を確立していた。

 弥生も自分用に対策ノートを作っており、俺と情報交換するようになったのもこうやって弥生と話をするようになったきっかけの一つといえるかもしれない。

 まあ、こうやって俺と弥生が生レポートや対策プリントを経済学部に出回らしているのを気にくわない奴らがいるっていうのが今回弥生が過去問を手に入れにくくなっている理由なのだろう。

 つまりは、経済研。試験対策委員会との縄張り争いに巻き込まれてしまったってことだ。

 …………残念なことに。

 

「ヒッキー、その……」

 

 由比ヶ浜の視線が下の方に俺を誘導する。

 先ほどまで戸惑いを見せていた由比ヶ浜の顔色は、今や赤く染まりつつあった。俺は由比ヶ浜の視線の先を見つめて、ようやく現状を把握した。

 

「すまんっ」

 

 言葉とともに勢いよく由比ヶ浜の腕を掴んでいた手を放す。

 勢いをつけようと、急いで放そうと、いまさら現在俺が直面している状況を改善してくれるわけでもないのに慌てて行動してしまう。

 結果としては、俺の行動がさらなるさざ波を立てて由比ヶ浜の頬を赤く染め上げてしまった。

 

「うん。……大丈夫だから」

 

「あぁ、悪かったな」

 

 どうしたものか。こういったアクシデントは、時たま起きてしまう。

 今回のそれは、運よく弥生が危惧する由比ヶ浜と試験対策委員会の対立を回避してくれた。ただ、それは偶然であり、今後起こらないとは限らない。

 俺や弥生は過去問や過去レポがなくとも評価そのものには影響ないはずだ。

 俺は今年も主席を取らなければならないし、弥生も次席をきっちりキープすると思われる。

 由比ヶ浜に関しても、俺や弥生がサポートすれば、全く問題はない。

 そう、表面上は、まったく問題ないように見える。

 だから、困ってしまう。

 多くのクラスメイトに愛されている由比ヶ浜ならば、今後も試験対策委員会との関係は何事も問題がなかったかのように続いていくだろう。

 ……合コンにもきっと、こりずに誘ってくるはずだろうし。

 しかしだ。高校時代の文化祭や体育祭のような恨みをかう事態までとはいかないまでも、いや、人のひがみなんて底がしれないから用心に越した事はないが、ぎすぎすした人間関係のど真ん中に放り込まれてしまうのだけは勘弁してほしい。

 ただでさえ雪乃の母君様から、卒業後も役立てられる人間関係を築いてこいと命令されているのに、試験対策委員会のせいで、今以上に人が寄りつかない状態を作ってもらいたくはない。

 まあ、今も俺に寄ってくる人間なんて、由比ヶ浜と弥生くらいで時々由比ヶ浜にノートを渡しておいてくれって、由比ヶ浜の友人に頼まれることくらいだ。

 そのノートを渡してくれレベルの接点さえも稀だというのに、どうやってこの学部で人間関係を作っていけばいいんだっていうんだ。

 さて、現実逃避はさておき、由比ヶ浜の対処はどうしたものか。

 由比ヶ浜をこのままほっておいたら、いずれは俺達と試験対策委員会の関係に気がついてしまう。

 弥生の意見はどうなのだろうかと、弥生に目を向けると、俺の長々と費やしてしまった熟考を解決してしまった。

 

「実は僕、試験対策委員会に嫌われてしまったようなんだよ。ちょっとしたすれ違いだと思うんだけど、今はそっとしておいてほしいんだ。ごめんね、由比ヶ浜さん。少しの間、迷惑かけることになると思う」

 

 ストレートすぎないかい?

 俺は目を丸くして、弥生を見つめてしまう。

 俺の視線に気がついた弥生が悲しそうな笑顔を俺に向けると、俺の体温が熱くなっていくのを実感した。

 こいつが何をしたっていうんだ。

 たしかにギブ&テイクの関係であるようには見えるが、実は弥生の方が損をしているとも考える事も出来る。

 ある程度のシステムが出来上がってしまった現在では、弥生は中継地点としての機能ばかりが注目されてしまう。

 でも、俺は知っている。

 無数に集まってきてしまうデータを解析して、使えるデータと使えないデータをふるいにかけなくては、使えるデータ集は提供できない。

 ただ集まってくるデータを、そのまま提供するのでは信用力が築かれないはずだ。だから、今あるコピー王の地位も、中継地点としての機能も、

 すべては弥生昴の能力によるものが強いと思っている。

 まあ、そんあ中継地点なんかやらないで、自分の勉強のみに集中したほうがよっぽどいい点が取れそうな気もするし、時間もかけないで済むとも考えられる。

 ならば何故弥生はこうまでして中継地点をやり続けているのだろうか?

 これこそが女帝が言っていた人間関係の構築とでもいうのだろうか?

 ……わからない。

 わからないけど、今の弥生と試験対策委員会の関係をこのままにしておくことはできないということだけは確信できた。

 

 

 

 

 

 講義が終わり、ほどなく出口付近には帰ろうとする生徒がつまりだす。

 まだ教壇の上にいる教授はそんな混雑を避ける為か、黒板に塗りたくったチョークをゆっくりと拭っていく。

 チョークの粉っぽいほこりと、教室の出入り口から侵入してくる夏の熱気を不快に感じながら、俺も教授にならってのんびりと今日習った部分を見直していた。

 

「今日はごめんね」

 

 由比ヶ浜はぽつりと謝罪の言葉を呟く。

 自分の鞄を見つめる瞳には、後悔の念が漂っていた。

 ここまでくれば、由比ヶ浜が何について謝罪しているかなんて問い返さなくたってわかるものだ。

 由比ヶ浜が気にしているのは、弥生と試験対策委員会の事だろう。

 お前がいくら弥生の事を気にしても、俺達に出来ることなんて何もない。

 むしろ俺達がしゃしゃり出ることで、話はさらに複雑化してしまうほどだろう。なにもしないよりはしたほうがいいとか、やってみなければわからないなんて少年漫画の王道を恥ずかしくもなく叫ぶ奴がいるが、

 俺はそんなやつは何もわかっていないと反論する。

 なにもしないのではない。今はなにもできないのである。

 今無駄に動けば事態は悪化するだけだし、時間が経ってチャンスが来た時に無駄に事態をひっかいたために動けなくなる事さえあるのだ。

 様子を見て特に何もしない行動を冷めた大人の判断だって子供は笑うが、本当に解決を望むのならば、今は何もしないが正解の時がある。

 まあ、由比ヶ浜が一時の自己満足だけで納得するのならば、俺も付き合わない事もないが。

 だから俺は、あえて別の話題にすりかえる。それに、今回はちょうどネタもあったしな。

 授業前に、あろうことか俺との勉強会を断ってきたのだ。

 それも、真面目に勉強するかわからない友達との勉強会に参加するという理由で。

 心の広い俺は、今回の事は気にしないでおいてやるか。

 だから俺はこれ以上の議論はさせない為に、これ以上の心労を由比ヶ浜に負わせない為に、ぱたんとノートを閉じてから道化を演じることにした。

 

「いいって。俺からすれば、きっちりと予定範囲の勉強をしてくるんならどこで勉強していようと問題はない。むしろ俺の方こそ自由にできる時間ができて助かっている方だよ」

 

 案の定俺のわざとらしすぎる話題のすり替えに、由比ヶ浜は訝しげな視線を俺によこす。

 しかし、ほんの数秒俺の事を睨むと、肩の力が抜けていくのがわかった。

 そして、俺の意図はわかったが、納得はしていないという典型的な結論を俺に瞳で訴えかけながら、言葉だけは俺のすり替えにのっかってくれた。

 

「そういわれると、なんだか複雑なんだけど」

 

 由比ヶ浜はそうちょっとぶっきらぼうに言い張ると、教科書などを鞄にしまう作業を再開させる。

 

「複雑な事ないだろ。勉強なんて結局は自分がやらないといけない事だからな。ただ、ちょっと俺の方にも複雑な気持ちがあることにはあるけど」

 

 俺はノートを鞄の中にしまおうとする手を止めると、由比ヶ浜を悲しそうな目で見つめる。

 俺の言葉が途絶えた事に気がついた由比ヶ浜は俺の方に視線をやり、当然のごとく俺の視線にも気がつく。

 目がかちあうとまではいかないが、視線が軽く絡まると、俺はそっと視線を外して手元にある鞄を適当な目標物として見つめた。

 

「え? ……やっぱりヒッキーも悲しいと思う事があるの?」

 

 由比ヶ浜は俺の瞳の色を見て呟く。

 そして、照れた顔を隠そうとするふりをして、俺を覗き込んできた。

 ここで強調して言っておきたい事は、あくまでふりであって、由比ヶ浜はやや赤く染まった顔を本気で隠そうとはしていないってことだ。

 こういう女の武器を露骨に使おうとする奴ではなかったが、そうであっても、経験があろうとなかろうと、女の色香を自然と発揮してしまうところが由比ヶ浜が大人になっていっているんだって実感してしまう。

 

「そりゃあ悲しいに決まってるだろ」

 

 これは俺の本心。嘘偽りもなく、心の底から思っている事だ。

 雪乃にだって正直に答えることができるって確信している。

 

「ほんとにっ?!」

 

 由比ヶ浜の声には嬉しさが溢れ出ていた。

 実際その表情を見れば、誰だってその心が表すものを理解するはずだ。由比ヶ浜の声に反応して、その声も持ち主を見やった男子生徒は、ことごとく由比ヶ浜に対してだらしない視線を送った後に、俺に敵意を向けてから通り過ぎていく。

 女子生徒は温かい目で由比ヶ浜を愛でた後に、これまた俺に厳しい視線を浴びせてから通り過ぎて行った。

 どちらにせよ、俺に対してはあまり宜しくない反応だが、これも毎回の事などにとうに慣れきった予定調和といえよう。

 

「当たり前だろ」

 

「そっか……。寂しいって思ってくれているんだ。そっか、……へへへ」

 

 お団子頭をくしゅっと掴み、にへらっと笑う。こうして見ていれば、十分魅力的だって俺でも評価してしまう。

 雪乃を毎日のように見ていれば、採点基準が厳しくなってるんじゃないかって言われた事もあるが、そんなことはない。

 由比ヶ浜は雪乃とは違った華やかさと柔らかさがあり、大学内でどちらを実際恋人にしたいかというアンケートをとれば、由比ヶ浜が勝つのではないかと思っていたりもする。

 けれど、俺の眼の前で極上の笑みを浮かべている美女に言わなければならないことがある。

 お前の笑顔は勘違いによるものだと、強く言わねばならない。

 

「寂しいとは思わんけど」

 

「は?」

 

 極上の笑みが停止する。

 未だ絵画のごとく笑みが描かれているところを見ると、機能が停止しただけかもしれない。

 

「寂しいかぁ……。ある意味寂しいと思うかもしれないけど、どちらかというと悲しいの方があってる気がするかな」

 

 由比ヶ浜の笑みが徐々に消え去っていってるのを横目に見ながら俺は言葉を紡ぎ続ける。由比ヶ浜からの反応はないみたいだが、聞いてはいるらしい。

 

「そりゃあ勉強会行って、しっかり理解してきてくれたものだと思っていたのに、後になって全く理解していませんでしたってわかったら、悲しいに決まっているだろ。しかも、先に勉強する範囲を理解もしていないのに、その先の勉強を進めているんだ。当然前提となるものを理解もしていないで次の事を勉強してもろくに理解できないに決まってるじゃないか。時間を無駄にしたとは言いたくないけど、遠回りしちまったなって思ってしまうだろうなぁ・・・」

 

「悲しいって……、そういう意味のこと」

 

「まあ、な。勉強見てるのに、理解が不十分だって後になってわかったら悲しいだろ?」

 

「そうだねー。ヒッキーは、そう思うよねー」

 

 なんか、いわゆる棒読みってやつじゃないか。

 どこかそらそらしく、まったく感情がこもっていない。俺を見つめる目に、魂がこもっていないことが、手に取るようにわかってしまった。

 

「どう勘違いしたかは知らんけど、勝手に勘違いしたのはそっちのほうだろ」

 

 まあ、俺は鈍感主人公ではないので、由比ヶ浜がどう勘違いしたか理解している…………、が、理解はしているけれど、あえてそれをわかっていると教えるほど、優しくはない。

 

「なんか最近のヒッキーって、意地悪になってない? 陽乃さんと一緒にいるからうつっちゃったんじゃないの?ゆきのん、ヒッキーと陽乃さんが楽しそうに話しているのを見ている時、悲しそうにしてるもん。隠そうとしているみたいだけど・・・」

 

 俺の表情が一瞬沈み込んで、立て直してことに由比ヶ浜は気がついてしまう。

 大学に入って、ずっと一緒にいるから気がついたとも言えるし、高校時代からの付き合いだからとも言える。

 ましてや、人の機微に敏感な由比ヶ浜の事だから、当然の結果とも言えるのだが、この際どうでもいい情報だ。

 俺と由比ヶ浜の間に、気まずい雰囲気が横たわってしまったのだから。

 しかし、俺も由比ヶ浜もそれなりに交友を深めているわけで、リカバリーの方法を心得ていた。

 

「すまんな、心配掛けて。それに、俺の方も配慮が足りなかった」

 

「ううん、あたしの方もごめんね。ヒッキーなら気が付いていたもんね」

 

「まあ、な。でも、雪乃も理解していることなんだし、俺も出来る限りのフォローもしているはずだったんだけど、由比ヶ浜が口に出してしまったのだから、配慮が足りなかったんだろうな」

 

 自嘲気味に呟く様をみて、由比ヶ浜は慌てて俺に対してフォローをしだしてしまう。

 俺なんかじゃなくて、その心配りは雪乃にやってほしいって心から願ってしまう。

 別段邪魔というわけではなく、雪乃を癒してほしいという意味でだ。

 

「ううん。あたしが出過ぎたまねしただけだから。ヒッキー頑張ってるもん。ゆきのんの為に勉強頑張ってるのだってずっと隣で見てきたんだから、わかるもん」

 

「そうだな」

 

「でも、ね……」

 

「ん?」

 

「陽乃さんの気持ちも、わかっちゃうんだなぁ。一度は通った道というかな……」

 

 由比ヶ浜が言いたい事は、痛いほどに、俺の胸を締め付けるほどにわかってしまう。

 俺の何倍も、何十倍も苦しんできた由比ヶ浜の前で、痛み自慢なんてしないけれど。

 だから俺は、由比ヶ浜が次の言葉を発するのを黙って待つしかなかった。

 俺には由比ヶ浜にかける言葉を何一つもちあわせていない。

 時が解決してくれるだなんて、甘い事は考えていないし、人として成長していけば解決するだなんて、ご都合主義も持ち合わせていない。

 だから俺は、黙って由比ヶ浜が突き付ける切れないナイフを身に沈めていく。

 いくら突き出しても体を割くことができないナイフを永遠に受け止め続ける。

 由比ヶ浜が顔をあげて、歩き始めるまでずっと。

 

「そろそろあたしも行かなくちゃいけない時間かな」

 

「頑張って勉強してこいよ」

 

「うん! あとでヒッキーにお小言言われないように頑張ってくる」

 

 由比ヶ浜にまだ固さが残っているが、あえてそれを指摘するような顔を見せる事もないだろう。

 由比ヶ浜が頑張っているのに、俺の方が水を差すべきではない。

 

「お小言なんか言わないから、わからないところがあったら、いや、怪しいと思ったところがあったら、すぐに言えよ。これもまた俺の復習になるんだから、問題ない。想定内の出来事すぎるんだから、お前はいらない心配などせずに、俺を使い倒せばいいんだよ」

 

「うん、ありがとね」

 

 今度の笑顔には固さはみられなかった。

 俺が見分けられないほどの作り笑いではなかったらという条件付きだが。

 人は痛みと共に成長していく。

 それはまた、痛みを隠すのもうまくなるって事なのだろう。

 

「気にするな。で、いつものメンバーか?」

 

「そだよ」

 

 あいつら、どいつも由比ヶ浜レベルなんだよな。

 真面目に勉強をしようと取り組んでいる由比ヶ浜の方がややおりこうとさえいえたりする。

 とはいっても、うちの学部では平均的な学力ではあるはずだ。俺や雪乃とは違って交友関係が広い由比ヶ浜結衣は、いたって順調に我が経済学部においてもすくすくと友人関係を築いている。

 高校時代の三浦や海老名さんのような気の知れた友人というか、一歩踏み込んだ友人関係までとはいかないまでも、健全な友人関係を作り上げていた。

 三浦も海老名さんとは今でもちょくちょく会っているらしいので、高校卒業イコール友人関係まで卒業となっていないことからしても、深い友情を高校時代に積み上げることができたレアなケースだと思う。

 ましてや、高校時代とは違って規模も条件も大きく異なる大学生活。

 大学時代の友人関係は、雪乃の母親に言われるまでもなく今までとは違うことくらい俺にもわかっていた。

 まず、規模については、全国区ということがあげられる。

 高校までだったら、それなりに今までの友人関係が使える場合が多い。

 高校からいきなり北海道から東京に越えてくる奴なんて少ないと思う。

 しかし、大学ならば、地方から東京に、ちょっと離れた県から有名大学に、なんてケースはざらである。

 つまり、今までの友人関係をリセットされる場合が多いといえよう。

 ただ、高校は同じレベルの生徒が集められているわけで、同じレベルならば同じレベルの大学に行くのも当然であり、俺や由比ヶ浜のように高校時代からの顔見知りもいることはいる。

 けれど、同じレベルの大学であっても、学部や学科が違うことは当然に発生する。

 それは将来を見越しての選択なのだから、当然の結末といえよう。

 そう、将来を見越しての選択は、自分の選択学部・学科だけではない。

 友人関係も、最後の選択だと俺は考えている。

 一応社会人になっても、普通の人間ならば友人を作ることができる。

 俺が普通の人間にカウントされていないことは、雪乃に言われるまでもなく認識しているが。

 但し、社会人になってからの友人関係は、どうしても仕事を介しての交友と考えてしまう嫌いがある。

 学生時代だって、同じ学校という枠を介しての交友だと反論されてしまいそうだが、それであっても、金銭面の損得や、職場の先輩後輩といった、生活に必要な仕事に直結した関係ではない。

 一応これもフォローしないといけないが、中学・高校時代なんて、学校が世界のすべてだと考えている奴らが大勢いることは、友人がほぼゼロだった俺でも認識はしている。

 なんていうか、実際社会人になってみないとわからない事だろうけど、金銭面が全く絡んでいない友人関係は、大学で最後って気がしてしまうのも俺の思いすごしではないと思われる。

 なんて、そんな大事な大学生活において、大学に入学してからまともな友人を一人も作っていない俺が、大学生活の友人作りの大切さを力説しても、ましてや社会人になってからの友人関係に危機感を抱いたとしてもまったく意味のないことだって、雪乃の痛い視線をぶつけられなくても理解していた。

 つまり、先ほどまで俺の隣で講義を受けていた弥生昴は、いつものように毎時間俺の隣で講義を聞いてはいるものの、弥生昴を友人ですと紹介できるレベルの関係までは発展していないと自信を持っていえる。

 

「そっか……。まっ、がんばれ」

 

「うん」

 

「そういや弥生って交友関係広いくせに、講義が終わるとすぐに帰るよな」

 

「そうだね。昼食の時も、うちの学部の人と食事をしているわけでもないみたいだし」

 

「そうなのか?」

 

 これは初耳だ。弥生の事だから、特定の誰かと毎回食事をしてはいないかもしれないけれど、情報交換も兼ねて誰かしらと食事をしていると思っていた。

 たしかにレポートなどの課題は、どれかしらの講義からの提出を求められて手元に全く課題がないという状態はほぼない。

 ほぼないと言えるが、だからと言って毎日のように情報交換するほどでもないのも事実である。

 

「あいつの事だから、てっきり誰かと食事しているものと思っていたんだけどな。でも、他の学部の高校の時の同級生と会っているってこともあるんじゃないか?」

   

「どうだろ? 弥生君の高校の時の友達って聞いたことがないかも」

 

「県外から来たんだっけ?」

 

「うぅ~ん……、どうなんだろ? 高校の時の話も聞いたこともないけど今どこに住んでいるのも知らないんだよね」

 

「ま、そんなもんじゃねぇの? 俺も高校の時もそうだったし、大学に入ってからも、その初心は忘れずに実行しているぞ」

 

「はは……」

 

 乾いた笑いをするんじゃねぇよ。繊細な心の持ち主の俺が傷ついちゃうだろ。自虐的なギャグをうまくさばくのがお前の役目だろ。

 ……別にいいけどさ。

 

「でも、弥生は交友関係広いんだし、誰かしらあいつんちに行ったことがあるんじゃないの?」

 

「それはないと思うな。だって、弥生君ってもてるじゃん」

 

「そうなのか?」

 

 つい見栄?を張ってしまって、とぼけてしまった。

 いや、俺だって弥生が女性うけするルックスと性格の持ち主だって理解している。しかも、背も高いし、物腰も柔らかい。

 どこかの雑誌アンケートを元に作りだした理想の男っていっても過言ではないかもしれない、と思っていたりもする。まあ、実際の生活感がないというか、大学外での行動が全くわからないところがアクセントとしてのちょっと秘密を隠している危ない男に該当しているかは疑問だが。

 

「そうだよ。もてもてだよ。頭もいいし、勉強も優しく教えてくれるんだからもてないわけないじゃん。だから狙っている子もけっこういたんだけど、実際家に上げてもらった子はいなかったし、デートまでこぎつけて子さえいなかったんだよ」

 

「へぇ……」

 

 由比ヶ浜の指摘は予想通りだった。

 あいつがもてないわけがない。本来なら、俺と仲良く並んでお勉強なんてする相手でもないって自覚までしている。

 ん? ……いなかった?

 いなかったってことは、今はいるってことか?

 俺の顔の変化を察知したのか、由比ヶ浜は俺が問いかける前に、俺が求める答えをくれた。

 

「うん、でも、なんだか最近弥生君が彼女といるところを見た子がいるんだって」

 

 由比ヶ浜の顔を見ると、いたって平然としている。

 よくある噂話の延長なのだろうが、見たという奴がいるのならば事実なのかもしれない。

 まあ、根も葉もない噂話など、今回の由比ヶ浜から聞いた話のように出来上がっていくのかもしれないが、ここは素直に驚いておこう。

 

「あいつの彼女を見たって言っても、噂話じゃないのか?」

 

「ううん。大学構内で一緒に歩いているのを見たって言ってたから本当みたいだうよ」

 

「まじかよ。でも、たまたま一緒に歩いていただけかもしれないだろ」

 

「何度も見かけてたらしいけど、二人とも仲良さそうに歩いていて、友達同士の距離ではなかったみたいだよ」

 

 こいつはまじで驚いてしまった。

 大学構内って事ならば、目撃者も多いだろうし、信憑性が高くなってしまう。友人だと思っていたやつが、自分には教えてもらってないけど恋人がいましたっていうのはこういう事をいうのか? こういう立場を言っているのか?

 ……落ちつけ。落ちつけ、俺。ここはクールに、……クールにいくべきだ。

 

「やっぱヒッキーも聞いてなかったんだ?」

 

「やっぱってなんだよ」

 

 頬と唇と手や足と……、体中がぴくついて挙動不審な動きをしてしまっているのはこの際無視だ。頭だけはクールに冷静で沈着な頭脳を有していれば、クールな俺で立ち振る舞えるはず。

 

「でも、ちょっとショックだよね」

 

「そうか?」

 

「そうか?って、ヒッキーすっごくきもいよ」

 

「はぁ? どうして俺がきもくなるんだよ?」

 

「だって、いかにも変質者っぽく共同不審なんだもん。そりゃあ、ヒッキーの大学での唯一の友達って言ったら弥生君しかいないもんね。その弥生君に彼女がいたって教えてもらえなかったらショックだよね。うん、あたしだったらショックだった」

 

「まあ、そうかもな」

 

 俺の顔を見て呆れていた表情を見せていたはずなのに、俺達が由比ヶ浜に告白したときの事を思い出してしまったのだろう。

 悲しそうな顔でここではない遠い過去の事を見ているような瞳をしていた。しかし、それもすぐに切り替わり、今目の前にいる俺に同情がこもった目を向けてきやがった。

 

「ヒッキーがいつも弥生君に冷たい態度取るから拗ねちゃったんじゃないの? この前の橘教授の講義を早く抜けられてのだって、まだお礼してないでしょ」

 

「今朝会ったときに、ありがとくらいは言ったさ。それにあいつは見返りが欲しくてやってくれたわけじゃないと思うぞ。もちろん勉強に関しては、色々と手伝ったり手伝わされたりしているけど、どからといって見返りがなければやらないってわけじゃあない」

 

「そなの?」

 

「そんなの意外ですっていう顔するなよ。たしかにお互いの勉強効率が上がるっていうのは事実だ。でも、それが直接見返りを求めているかと聞かれると、違うって答えたい」

 

「でもでも、ヒッキーが一方的に勉強を教えるってことだったらヒッキーは協力関係を解消するでしょ?」

 

「お前の設定だと、そもそも一方的な施しになるから協力関係とは言わない」

 

「そっか」

 

「でも、由比ヶ浜が言いたい事は、なんとなくだけどわかるよ。弥生がたとえ学年次席じゃなくても俺はあいつのと関係を今と同じように続けていたと思うぞ。あいつはしっかり期日までにやってくるからな。しかも、気遣いがすごいっていうか、他人が嫌がる事は、一度わかれば二度とはしない」

 

「ヒッキーがそこまで人を誉めるだなんて、珍しくない?」

 

「そこまで俺の採点は厳しくねえよ」

 

「そうかなぁ」

 

「まあ、いいさ。彼女がいたって驚く事じゃあない。俺が言うのもなんだけど、あいつはいいやつだからな。だから、彼女がいてもおかしくない」

 

「そだね」

 

「それに、もし彼女がいるんだったら、そのうち紹介してくれるかもしれないしな」

 

「うん、そだね」

 

 由比ヶ浜は笑顔でこの話題を締める。

 ただ、俺からすると、弥生に彼女がいようがいまいがどちらでもよかった。

 彼女がいたとしても、その彼女を紹介しなければいけないというルールはない。むしろ会う機会がないのだったら紹介なんてしても意味ないとさえ思えている。

 だから、どちらかというとこの話題。

 弥生の彼女の事よりも、俺と弥生の関係の方が気になるっていうか、知り合い以上友人以下であるかもしれないことに、軽いショックを受けていたりした。

 

 

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜とは友達と勉強会という名の免罪符を得たお喋り会に行くという事で

教室の前で別れた。

 あいつの場合は、気がしれた友達よりも勉強をするように睨みつけてくれる監督が必要だとは思うんだが、毎回俺が睨みつけるのは、さすがに俺の方が疲れてしまう。

 ちょうどいい機会だ。俺の方も休暇が必要なので、とくに何も言わなかった。

 

「そう……。今日は由比ヶ浜さんの勉強を見てあげる必要はないのね」

 

「たまにはいいんじゃねぇの? あいつもいつまでも俺達に頼りっぱなしっていうわけにもいかないし、一人でも勉強できるようになってくれないと困るだろ」

 

「今日は勉強会ではなくて?」

 

 雪乃は俺の言葉を聞き、訝しげな瞳を横から向けてくる。二人して横に並んで歩いているので、やや下の方から覗きこんできているが、俺は素知らぬ顔をして、前を向いたまま歩き続けた。

 俺と雪乃は、もう一コマある陽乃さんの講義が終わるまで時間をつぶす為に喫茶店に向かっている。

 本来ならば由比ヶ浜の勉強を見て時間を潰していたが、今回はそれができない。だから学外の駐車場近くにある喫茶店に向かっていた。

 大学にあるカフェでも学食でもよかったが、雪乃がいるとどうしても視線が集まってしまう。その応急処置として選ばれたのが学外の喫茶店だった。

 

「たしか勉強会だって言ってたな」

 

「だとすれば、一人で勉強するわけではないと思うのだけれど」

 

「あいつが行く勉強会だからこそ、一人で勉強する為の強靭な精神力が必要なんだよ」

 

 雪乃はあえて言葉を挟まず、俺に話を続けろと目で訴えてくる。俺の方も前を向いたままだが、横目で雪乃の反応だけは確認していた。

 

「別に勉強会が悪いっていうわけでもないんだが、あいつらが集まっても1時間も経たないうちに休憩に突入して、お菓子食べながらのおしゃべりタイムがずっと続く事になると思うぞ。さすがに試験直前ならば違うだろうけど、まだ試験直前というには早すぎるからな」

 

「まるで見てきたことがあるかのような発言をするのね。もしかして一度くらいはお呼ばれしたことがあるのかしら? でも、今回呼ばれていないという事は、一緒にいることが不快だったようね」

 

「ちげぇよ。一度も呼ばれた事はないし、呼ばれたとしても行かねぇって」

 

「負け犬の言い訳ほど見苦しいものはないのよ」

 

「だから、そんなんじゃなぇって」

 

「だとしたら、どうして由比ヶ浜さんが参加する勉強会の様子がわかるのかしら?」

 

「あいつらが教室でミニ勉強会っていうの? 授業前にわからないところとかを教え合っている事があるんだが、いつも問題解決する前に別の話題に突入しているんだよ。だから、結局はわからないところはわからないままになっちまってる」

 

「そう……。八幡もその会話に参加したかったのね。かわいそうに。いくら由比ヶ浜さんの隣の席にいたとしても、会話には参加できないのね」

 

「それも違うから。あいつらの声が大きいから聞こえてくるだけだ。まあ、本当にわからないで困っているところは弥生に聞いたりしてるから問題ないな」

 

「そういうことにしておきましょうか。…………あら?」

 

「そういうことにしておくんじゃなくて、そうなんだって。って、店の入り口で急に立ち止まるなよ」

 

 喫茶店の扉を開け、先に店内に入った雪乃は、俺達よりも先に席に座っていた客に視線を向けていた。

 俺は雪乃の視線を辿ってその席に着く二人の客に目を向ける。

 

「彼って、弥生君よね?」

 

「弥生だな」

 

「一緒にいる女性は、彼女かしら? だとしたら、別の店にしたほうがいいのかしらね?」

 

 一応雪乃にも、由比ヶ浜から聞いた弥生に彼女がいるらしいという事を伝えていた。

 だから、雪乃はまだ弥生から恋人を紹介もされていないことに配慮して店を変えたほうがいいかと提案してきたのだろう。

 たしかに、あいつが恋人の存在を隠していたのならば、ここは知らないふりをして立ちさるべきだ。

 けれど…………。

 

「あの人って、弥生准教授じゃねえの?」

 

「弥生准教授?」

 

 そういえば、雪乃は1年Dクラス担当の弥生夕准教授とは面識がなかったかもしれない。

 弥生って苗字は珍しいとは思っていが、もしかして親戚か?

 俺も弥生准教授と直接会話をしたのは一回きりだから、すっかり忘れていた。だとすれば、由比ヶ浜の友達が見たっていう彼女は、弥生准教授ってことになるんじゃないか?

 年だって准教授ということから推測すると20代後半だと思えるが、見た目以上に若く見え、なによりも美人だ。

 弥生昴と同じ血筋というのも頷ける容姿だった。

 違いがあるとすれば、弥生昴の髪質が、ややくせ毛がある為に緩やかなウェーブを作りだしていることだろう。

 弥生夕准教授のほうは、同じ黒髪でも真っ直ぐ伸びた素直な面持ちを持っている。どんな姉弟であっても、よっぽど似ていないと姉と弟なんてわかるわけがない。

 ましてや、髪質が全く違っていたらなおさらであり、由比ヶ浜の友人が恋人同士であると勘違いしても責める事は出来ないと思えた。

 今日は以前会った時と同じように濃紺のスーツのパンツルックであるが、たしか背が170は超えていたので、身長が180近くもある弥生昴と並んで歩けば絵になる二人といえよう。

 たしかに二人が並んで歩いていたら、注目されない方がおかしいほどだ。まさに美男美女というところだろう。

 雰囲気は雪乃が図書館司書になったらこんな感じかもしれないと思ったりする。

 綺麗にとかされたまっすぐな黒髪は雪乃よりはやや短いが、弥生准教授の柔らかい面影にばっちしあっていた。

 今日は学外ということか、細いメタルフレームのメガネは外されている。こうしてメガネなしの素顔を見ると、以前よりも幼く思えてしまうのも弥生准教授の魅力の一つなのだろう。

 なんて事を考えていたら、弥生が俺達の事に気がついて声をかけてきた。

 

「比企谷じゃないか」

 

 席から立ち上がる弥生は、一緒の席でどうかと誘っているようだ。同席の弥生准教授も俺の事を知っているせいか、同じ意見のようだった。

 だから俺は軽く返事を返すと、雪乃の意見を聞くべく視線を雪乃のほうにスライドさせる。軽く顎を引いたところからすると、雪乃も同席は問題ないらしい。

 

「偶然だな」

 

「そうだね。僕たちはよくここに来ることがあるんだよ」

 

「そうか。俺達はそばの駐車場を借りているんだが、ここの喫茶店はいつも眺めているだけだったな」

 

「そうなんだ。それはもったいない事をしたね。ここの紅茶は美味しいよ」

 

「それはもったいない事をしていたな」

 

 俺は弥生の隣に席を移した弥生准教授に視線を向けると、そのことに察知した弥生がテンポよく紹介し始めた。

 

「比企谷は姉さんには会ったことがあるよね?」

 

「姉さん?」

 

「あれ? 姉さん。 比企谷に僕たちの事言わなかったの?」

 

 弥生は慌てて隣の席の准教授に確認を求めるが、当の本人たる准教授はほんわかとした笑みを浮かべるばかりだった。

 あれ? なんだか雰囲気が違くないか?

 この前はもっと神経質そうな雰囲気を匂わせていたけど、弟が一緒だと違うのか?

 それとも、あの時は緊張してしただけともいえるし、メガネをかけていないだけでも、それだけでも柔らかい印象を感じれる。

 メガネをかけているときでも大学4年生くらいに見えていたが、メガネをはずすだけで、高校3年生でも十分通用しそうな気さえした。

 ただ、若くは見えるが幼くは見えない。ある意味ちょうどいい具合に成長が止まったとも見ることができるが、人間がもっとも若々しい時期や美しい時期なんて、個人の主観でしか成り立たないし、なおかつそんな事を考える事自体が無意味だ。

 どんな人間であっても老いるのだから。

 ただ、目の前にいるこの人においては、俺の主観によればちょうどピークで成長が止まっているように思えた。

 

「どうでしたっけ?」

 

 そうにこやかに俺に問いかける姿に、俺も自然と頬の筋肉が緩んでいく。以前会った時は話をするうちに打ち解けて硬さが抜けてはいったが、ただ話していた内容が大学教育や勉強論が主な内容であった為に准教授としての面だけが表に出ていた。

 その時の印象は真面目で一生懸命。

 熱血指導とはいかないまでも、教育にひたむきな姿勢が感じられて好印象であった。

 しかし、今目の前にいる弥生准教授はほんわかとしており、由比ヶ浜以上にフワフワしていて年下の女性としか見えない。

 

「俺に聞かれても。まあ、以前会った時にはDクラスの事が中心でしたよ。大学の教育についてとかも話しましたけど、あとはこの辺のラーメン屋についてくらいですかね」

 

「そうでしたか。それは失礼しました。あの時は、なかなか面白い意見を思っている方だという印象が残っております。とても楽しい時間でしたよ」

 

「それはどもです」

 

 にかっと軽く首を傾げる姿に、俺もにやっと硬くく首を傾げて返事をする。

 ……いい人だ、絶対いい人に決まっている。

 弥生の姉?だからというわけではないが、俺の不気味な笑みを見ても引いていない。

 あろうことか、俺の笑みを見て、さらに笑みを返して下さったではないか。

 これは、恋だな。きっと恋だ。俺は今自分が恋に落ちる瞬間を目撃してしまった。

 …………あっ、雪乃の厳しい視線が恋を焼き払っていく。

 恋は儚い。儚いからこそ恋。恋に焦がれ、恋は焼き払われていく。

 短い恋だったが、後悔はしていない。

 うん、恋っていいなぁ。

 

「じゃあ、僕が比企谷の予定を教えて事も言わなかったの?」

 

 弥生は俺の短すぎる青春を気にもせずに姉と話を進めていく。

 いいんだ、俺の事は一人のものさ。

 

「そうなるのかしらね」

 

「ごめん、比企谷。いきなり姉さんが話しかけたんで、びっくりしたんじゃない?」

 

 今は妹じゃなくて姉だったという事にびっくりしているけどな。

 まじで若く見え過ぎだろう。雪乃のかあちゃんも若く見えるけど、弥生の姉さんは女帝とは違う方向で若く見える。

 

「ちょっとだけな」

 

「姉さんもいきなり面識がない人に声をかけられたら警戒するでしょ」

 

「ごめんなさい。でも、あの時は私も緊張していて、いっぱいいっぱいだったのよ」

 

 弥生が姉をたしなめる姿は、どっちが年上なんだよとつっこみを入れたいくらい自然だった。

 これがこの二人の通常の関係なのかもしれない。だとすれば、やはり以前会った時の硬さは、本人が言うように緊張から来るものだったのだろう。

 

「本当にごめん。姉さんも悪気あったわけじゃないみたいだし、許してほしいな」

 

「気にしてないからいいって」

 

「そう?」

 

「あんまり責めると、泣きそうだぞ」

 

「え?」

 

 俺の指摘を聞き、弥生は慌てて隣の姉に顔を向ける。

 実際泣いてはいないし、泣きそうでもない。

 それでもしょげてしまって俯く姿は、どうしても年下の女の子に見えてしまう。

 

「姉さん、ごめんね。僕が強くいいすぎたよ」

 

「ううん、いいの」

 

「ま、もういいんじゃないか。俺の隣にいる雪乃のことも、早く紹介してあげないと居心地悪いみたいだしさ。弥生は面識あるけど、弥生准教授は初めてでしたよね?」

 

 ようやく出番とばかりに雪乃は綺麗にお辞儀をしてから自己紹介を始める。

 背筋がまっすぐ伸ばされた背中がゆっくりと傾倒していく様はいつみても美しかった。丁寧過ぎる挨拶のような気もするが、厭味ったらしさがまったく出ていないのは雪乃の気品と育ちのおかげだろう。

 

「はじめまして、工学部2年の雪ノ下雪乃です」

 

「はじめまして雪ノ下さん。英文科で准教授をしている弥生夕です。比企谷君には英語の講義でお世話になっています」

 

「この男がご迷惑をかけていなければいいのですが」

 

「いいえ、とても助かっていますよ。…………そうですね。弥生が二人いると不便ですので、私の事は夕でいいですよ。弟の事は昴でいいですから」

 

 弥生准教授ぽんっと手を合わせて、名案が閃いたとばかりに訴えてくる。

 たしかに弥生が二人もいたら面倒なことは面倒だ。だけど、いきなり名前で呼ぶ事は俺にとってはハードルがやや高い気もする。

 

「駄目ですか?」

 

 俺が苦い顔をしたのを察知して不安に思ったのか、瞳に薄い涙の膜を作って弱々しく尋ねてきた。

 別に虐めているわけではないのに、虐めてしまったと感じてしまうのはどうしてなのでしょうか?

 雪乃も雪乃で、弥生さんをいじめるなと鋭い視線を送ってきているような気がしてしまう。

 

「だめじゃないですよ。でも、俺が夕さんって言ってもいいんですか?」

 

「はいっ。問題なしです」

 

 にっこりと元気よく返事をする夕さんに、昴は横でちょっと困った顔をする。

 なんとなくだが、二人の位置関係がわかった気もした瞬間でもあった。

 

「昴もそれでいいのか?」

 

「まあ、いいんじゃないかな。僕としては名前で呼ばれでもいいと思っているし」

 

「なら、私の事も雪乃とよんでください。おそらく私の姉の陽乃にもそのうちお会いする可能性が高いと思いますから」

 

「たしか陽乃さんは大学院に行っていらっしゃるのですよね。雪乃さんの事も陽乃さんの事も昴から聞いているんですよ。とても賢くて綺麗な方だと」

 

「いいえ、私などまだまだです。姉は大学院にいっていますから、姉ともども宜しくお願いします」

 

「いいえ、こちらこそ。雪乃さんと呼ばせてもらいますね」

 

 なんだか夕さんを前にすると、これが当然という雰囲気になってしまう。ふんわかとした雰囲気というか、穏やかな空間というか。悪い気はしない。なにせ雪乃の事を知っていると言っていたが、昴から聞いたとしか言わなかった。

 これはある意味思い込みが激しいと言われるかもしれないが、雪ノ下姉妹はうちの大学では有名すぎるほど有名な姉妹だ。

 生徒の間だけでなく、教授たちの間であっても知らない人はいないレベルにまで達していた。教授レベルまで達してしまったのは、陽乃さんの行動によるものなんだが今はまあいいだろう。

 噂なんて、眉をひそめてしまう内容まで作りだしてしまうのが現実だ。

 たしかに陽乃さんの行動は、噂以上にぶっとんでいるのもあるからあながち嘘ではない気もするが、噂で知っていますと言われるよりは、共通の知人、ここでは弥生昴から聞いていますと言われる方がよっぽど信頼できる。

 これは勘ぐりすぎかもしれないが、こんな小さな気遣いができるのが弥生昴であり、その姉の弥生夕も当然同じレベルの気遣いができる人間であるのだろう。

 一応自己紹介を終えた俺達は、俺と雪乃の分の紅茶とケーキを注文する。

 まあ、なに。俺の事は比企谷で定着していることは、まあ、いいさ。

 いじけてなんかいないんだからねっ!

 注文後、しばしの静けさの中少しばかりいじけてはいたが、夕さんの視線に気が付くと、どういうわけか自分まで晴れ晴れとした気持ちになってしまう。というわけではないが、このまま夕さんに見惚れてしまうのはやばいと本能が察知した俺は、適当な話題を振ることにした。

 

「そういえば、今日はメガネかけていないんですね? 以前会った時はメガネかけていましたよね」

 

「ええ、普段はかけていないんですよ」

 

「僕はメガネをかけなくても問題ないって言ってるのに、わざわざ伊達メガネをかけているんだよ」

 

「じゃあ、目が悪いっていう訳ではないってことですか」

 

「両目とも視力2.0だよ」

 

「だったら、なんでかけてるんです?」

 

「それはですね……」

 

 俺の問いかけに、夕さんは頬を少し赤く褒めあげながら視線を斜め下にそらした。

 そんないじらしい恥じらい姿に、雪乃が隣にいるっていうのに今度こそまじで見惚れてしまう。

 おそらく意識してやっていないんだから、ある意味陽乃さん以上にたちが悪いというか注意すべき存在だと認識してしまう。

 

「メガネをかけたってたいして変わり映えしないのに、顔が幼く見えるのが嫌だってメガネをかけて伊達威厳をかけているんだってさ」

 

「はぁ……」

 

 たしかにメガネなしだと高校生でも通用しそうだが、これって平塚先生が聞いたら泣いちゃうぞ、きっと。

 人によっては想像もできない悩みがあるんだなって思い、今度こそ雪乃の存在を忘れて夕さんの顔をまじまじと観察してしまった。

 …………一応テーブルの下で雪乃による血の制裁があったとこだけは示しておこう。

 

 

 俺達が注文した紅茶とケーキが運ばれてくる。

 身なりをしっかりと整えた渋い初老の男性店員がティーポットとカップを必要最低限の騒音だけをたてて置いてゆく。

 ふいにカップに手が伸びカップを手に取ると、カップから温かさが感じ取れた。おそらく客に提供する前に暖めたのだろう。

 小さな気配りが、昴がお勧めする店であることに納得してしまった。

 雪乃もそれに気が付いているようで、口角を少しあげながら嬉しそうに紅茶が注がれていくのを見守っていた。

 紅茶を飲み、ケーキが食べ終わるまで俺達の会話は弾んでいたと思う。ケーキも想像通り美味しかったし、なによりも雪乃が自分以上の腕前だと紅茶を誉めた事に俺は驚きを隠せないでいた。

 これならばきっと陽乃さんも気にいるだろう。

 そうなると、この喫茶店で待ち合わせという事も今後増えるのだろうかとお財布事情を考えなければ素晴らしすぎる未来に思いをはせる。

 雪乃や陽乃さんは、財布の中身なんか気にしないで好きな物を注文するんだろう。

 俺はついこの間も馬鹿親父に申請した小遣いアップ申請を即時却下されたばかりなのに。

 まあいいさ。雪乃も陽乃さんも、その辺の俺の懐具合はわかっているから、無理に俺を誘ったりはするまい。

 いや、俺だけ水で、二人だけ紅茶とケーキってことはあり得ないか?

 よくて俺だけ紅茶だけとか。

 まあ昴も未来の俺の同じように紅茶だけのようであった。昴はこの中でただ一人ケーキを注文していないが、紅茶だけで十分満足している様子である。

 さすが普段から俺の相手ができる昴とその姉というべきか。

 夕さんも話をする端々に相手を思いやる繊細な心づかいが伺えた。

 雪乃もそれを察知してか、柔らかい頬笑みを浮かべながら今も夕さんと会話を楽しんでいる。

 だが、雪乃がティーポットに残っていた紅茶をカップに注ぎ終わった時、それは突然訪れた。

 今までほんわかいっぱいの雰囲気を振りまいていた夕さんが、俺に初めて声をかけてきたとき以上に緊張した面持ちで俺と雪乃の前で姿勢を正して語り始めようとしていた。

 俺と雪乃も、目の前から発する重たい空気を感じとる。

 ただ事ではないプレっっシャーに、夕さんと同じように姿勢を正し、これから語り始めるだろう夕さんの言葉を聞き洩らすまいと身構えるように耳を傾ける。

 そして昴はこれから何を語るのかに気がついたようで、やや青ざめた顔で夕さんを見つめていた。

 

「……姉さん」

 

 重い沈黙をやぶったのは昴だった。

 ここまで昴が取り乱しているところは見たことがなかった。この事から、これから夕さんが話す話題の中心は昴の事だって推測するのはたやすかった。

 夕さんは手元にあったケーキ皿とティーカップを少し横に寄せてから、再び俺達に視線を向ける。

 俺達は、昴には申し訳ないが夕さんを止める事は出来ない。

 それだけの意思がその瞳には込められていた。

 昴も夕さんの意思が固いとわかっているのか、これ以上の抵抗はよしたようだった。

 

「比企谷君たちには、いずれは話そうと考えていましたよね」

 

「……そうだけど」

 

「それとも今日はやめておきます?」

 

「いや、任せるよ」

 

 ここで話を切られても、重大な何かがありますって宣伝しているものだ。

 仮に話を切ったとしても、俺は見ないふりをするだろうし、雪乃も態度を変えることはないだろう。

 でも、弥生の顔色を見ていると、どうも俺の懸念は考えてはいないように見えた。

 ここまで話したから話の流れで話を進めるというよりは、姉に背中を押されたから決心できなかったことにようやく決心できたという方が正しい気がした。

 

「どこから話せばいいのか迷ってしまうのですが、手近なところからお話ししましょう」

 

 そうゆっくりとだが、しっかりとした口調で語りだす。

 俺達は軽く頷き、聞く意思を示した。

 

「ありがとうございます。……まず、昴がケーキを頼んでいないのに気がついたかしら?」

 

「ええ、気が付いていました」

 

 俺も首を縦に振って肯定する。

 

「昴君は甘いものが苦手だったのかと思っていたのだけれど」

 

「いや、弥生は、昴は甘いものが好物だって言ってたと思う。由比ヶ浜が美味しいケーキ屋について話していたときに昴もケーキが好きだって言ってたと思うし」

 

「よく覚えてるね」

 

「たまたまだ。たしか昴が紹介してくれた店に行ったはずだからな」

 

「どうだった?」

 

 昴が間髪いれずに店の事を聞いてくる。

 それを聞いて、夕さんは話がそれていると瞳で注意を促す。けれど昴は夕さんの意向を踏みつぶして話を続行するようである。

 おそらく昴はいまだ決心ができていないのだろう。ならば、俺は夕さんに向かって一つ頷いてから昴の話にのることにした。

 

「ん? 美味しかったと思うぞ。雪乃も好きな味だって言ってたはずだし」

 

「ええ、たしか歯科大の近くのレストランだったわね」

 

 雪乃も俺の意図に気が付き、話に合わせてくる。

 もはや夕さんも納得したようで、もう何も語ってはこなかった。

 

「道がわかりにくい場所で、大変だったでしょ?」

 

「大丈夫だったかな。あの時は昴が地図書いてくれたからな」

 

「地図がお役にたててよかったよ」

 

「いやいや、こっちが書いてもらったのだから、お礼をしないといけないのはこっちのほうだ」

 

「あそこのパスタやピザも、なかなか美味しかったんじゃない?」

 

 昴が紹介した店は、パスタとピザのレストランである。

 本来ならばパスタやピザの方が有名なのだが、昴一押しはメインの品ではなくデザートのケーキであった。中でもチーズケーキを勧めされていて、レストランの中では色々なケーキをシェアして食べたが、テイクアウトではチーズケーキのみを選択したほどであった。

 

「ああ、あれから何度行ってるよ。車がないと不便な場所っていうのが難だけどな」

 

「今は車があるから気軽よね。またおねだりしようかしら」

 

 と、夕さんが見守る中、俺達3人は意図して話を脱線させたままにする。

 けれど、それであっても夕さんは話を無理やり勧めようとはしなかった。じっくりと昴が決心するのを待ってくれていた。

 

「ごめんね姉さん。大事な話の途中で腰を折って」

 

「ううん。これも話したいことの一部でもあるから問題ないわ」

 

 その返答に、俺と雪乃は訳がわからず顔を見合わせてしまう。一方昴だけは理解していたみたいであったが。

 

「そのレストラン。相変わらず美味しいですか?」

 

「はい、美味しいです」

 

「そうですね。リピーター客が多いみたいで、相変わらず繁盛しているみたいでした」

 

「昴はね、今はそのレストランでは、ケーキしか食べられないの」

 

「え?」

 

「正確に言うのでしたら、テイクアウトのケーキしか食べられない、かしらね」

 

 俺と雪乃は、自分達と夕さんのケーキ皿を見てから、ティーカップしか置かれていない昴の手元を確認した。

 たしかに、テイクアウトではないケーキはこのテーブルには用意されていない。つまりは、テイクアウトではないから、今昴はケーキを食べていないって事になる。

 

「それって、どういう意味ですか?」

 

 俺は問わずにはいられなかった。聞かなくたっていくつか仮説は立てられる。つまり、外での食事ができないという事なのだろう。

 どうやらドリンクは大丈夫みたいだが、どの程度の食事までが無理かはわからない。

 由比ヶ浜が言っていた昴が昼食時には消えるというのも関係あるのだろう。

 今手にしている情報からでも結果だけはわかる。では、どうして食事ができないか。原因だけはわからない。

 だから俺は、平凡すぎる問いしかできなかった。

 

「そうね……。基本的には、外食は無理です。条件次第では改善している点もあるのだけど、それでも普通に外食をするのは無理かな」

 

「理由を聞いてもよろしいでしょうか?」

 

 雪乃も問わずにはいられなかった。けれど、好奇心からではない事はその意思が強い瞳から感じ取ることができた。

 ようは雪乃も昴と正面から向き合うってことなのだろう。

 

「ええ。これから話しますけど、昴が高校3年生になる春休みの時まで遡ることになります。それでもいいかしら?」

 

「中途半端な情報よりは、しっかりと聞きてから、どうお力になれるか考えさせて下さい」

 

「それで構いませんよ」

 

 夕さんは俺達の顔をもう一度確かめたから小さな笑顔で返事をした。

 先ほどまでの柔らかい印象は損なわれてはいないが、強い決意が宿っており、日だまりのような温もりが満ち溢れている。しっかりと冷房が効いているはずなのに、窓から降り注ぐ真夏の陽光がちりっちりっと皮膚を焼き、ひんやりとした汗が背中を這う。

 決意なんてものは聞いてみなければわからないって返すしかないのが実情だ。

 しかし、親しい人間が痛みを隠して笑ったり、平気なふりをしているのを見ないふりができるほど精神は腐ってはいないし、鈍感ではない。

 俺は一度瞼を閉じて、すぐに瞼を開ける。別にこれで頭がリセット出来るわけではないが、リセットしたと思う事くらいは効果はあるはずだ。

 さて、雪乃も俺と同じように理由がわからないことに焦点を当てていたらしい。

 ただ、その原因を聞いたとして、どう判断するか、どう接すればいいのか。

 実際俺達にできることなんて限られている。雪乃だって、力になれるのか考えさせてほしいと慎重な姿勢だ。

 実際聞いてみなければわからない。

 こういうシリアスなときほど言葉のニュアンスを選びとるのは大変だ。期待だけさせておいて、話を聞いたら突き放すだなんて、雪乃にはできやしない。

 

「私たちの実家は東京なのですが、昴も高校を卒業するまでは実家で暮らしていました。私は既に実家を離れ、千葉で暮らしていたので当時の事は話を聞いただけなのですが、今思うと、あの時実家に戻っていればと後悔せずにはいられません」

 

「……姉さん」

 

 弥生姉弟が軽く視線を交わらすが、俺達は話の腰をおらないように黙って続きを待った。

 

「東京だけではないですが、移動となれば電車ですよね。数分おきに来る電車に乗ったほうが車より早く着きますし、高校生となれば移動の手段の主役は電車となるのは当然でした。しかし昴は、高校3年生になる春休みを境に、電車に乗れなくなりました。一応薬を飲んで無理をすれば乗れない事はなかったようですが、高校3年の1年間は、今でも夢に見るほど苦痛だったようです。なにせ、高校に行くには電車に乗らなければ無理ですからね。便利なツールがある分、それが使えないのは苦痛でしかなく、しかも人には言えない理由となれば、高校生活も暗くなるのは当然だと思います」

 

 ここまで一気に話きると、夕さんは昴の様子を伺う。

 2年前の話であり、昇華できるいる問題とは思えない。それでも昴の顔には苦痛は見えず、むしろ俺達を気遣っているとさえ思えた。

 

「電車に乗れなくなった原因はパニック障害です。昴の場合は電車限定ですが、薬を飲んで無理をすれば乗れる分他の人よりは軽かったと言えるかもしれませんが、だからと言って正常な生活を手放した事には変わりはないのです。きっかけは予備校に通う電車の中で気分が悪くなって倒れ、そして、救急車で搬送された事だと思います。ただ、なぜ倒れたかはいくら検査を受けてもわかりませんでした。昼食で食べたものが悪かったのか、それとも風邪気味だったのか。もしくは胃腸に問題があったのか、あとで胃カメラものみましたが、結局は根本的な原因はわかりませんでした。でも…………」

 

 夕さんは一度話を中断させ、ティーカップを選ばずに水が入ったグラスを選択して、冷たい水で喉を潤した。

 やはり重い内容であった。聞いた事自体は後悔してはいない。運悪く面倒な奴と喫茶店で出くわしたなんて思いもない。

 ただ、ここまで辛い思いを昴が隠していたことにショックを覚えた。

 まだ話の途中だが、昴はどう気持ちの整理をして俺と接していたのだろうか。俺はなにか無意識のうちに昴を傷つける事をしていなかったかと不安になる。

 無知は救われない。知らなかったからといって許される事はない。

 むしろ、無知は罪だ。

 

「比企谷君。辛いですか? ここで引き返してもいいのですよ」

 

 夕さんはあくまで低姿勢で、大事な弟よりも俺達他人を気遣っている。

 昴さえも同じ意識のようだ。

 俺はそれがたまらなく辛かった。自分よりも他人を気遣うこの姉弟に、俺はあなた達が気遣う必要がある人間ではないって教えてあげたかった。

 

「いえ、大丈夫です。……知らなかった事とはいえ、なにか昴を不快な目にさせなかったかなと思い返していただけですから」

 

「大丈夫。慣れ……、問題なかったから」

 

 昴らしからぬミスに、俺の気持ちは沈んでゆく。

 昴ならば、相手が気がつかないように言葉を選択するはずだ。それなのに、今の昴は精神が追いこまれていて、それができない。

 つまり俺は、昴に対して無神経な言葉を吐いたことだ。

 さっき言葉を飲み込んだのは、慣れてしまった。無神経な言葉に慣れてしまった、と言わないでおこうとしたのだろう。

 

「そうか」

 

 だから俺は短く言葉を返す。

 言い訳は当然のこととして、意味がないフォローはそれこそ不快にしかならない。これが最低限使える返事だと思う。

 ベストでもベターでもない、どうにか役に立つかもしれないボーダーラインぎりぎりの言葉。

 

「では、話を進めても?」

 

「お願いします」

 

「では……。結局体の健康上の問題はすぐに回復しました。ただ、精神的な後遺症を残したのが大問題でした。つまり、電車で倒れたトラウマで電車に乗ると気持ち悪くなってしまうのです。しかも、電車に乗って吐いてしまうのを避けようとする為に、外での食事さえも避けるようになり、食べると吐きそうになってしまうのです。実際吐く事はほとんどありませんでしたが、動けなくなるという点では大きな問題を抱えてしまったわけです」

 

「無理をすれば電車に乗れるのですよね。では、どのくらいの無理を強いられるのでしょうか?」

 

 雪乃の眼には憐みは含まれていない。凛とした背筋で問う姿が何とも心強かった。

 

「ええ。今では精神安定剤を飲まなくても、どうにか電車に乗れるようにはなりましたが当時は精神安定剤なしでの乗車は不可能でした。できれば座って乗車したいほどで、満員電車を避けるべく、部活に入っているわけでもないのに朝早く高校に登校していました。ただ、下校は家に帰れる、安心できる場所に逃げられるという意識のせいか、比較的楽に帰ってこられたそうです。でも、精神的余裕のなさから予備校には通えなくなりましたが」

 

「それはきついですね。高3で、まさしく受験生なのに」

 

 一般の受験生以上の負担を強いられるわけか。由比ヶ浜の指導も大変だったが、それとは違う角度での負担は漠然とした想像しかできなかった。

 

「その点は、弟自慢ではないですが、勉強面では不安はありませんでしたよ」

 

 え? なにこの弾んだ恥じらいの声?

 

「もうっ、姉さんったら」

 

 ええ? なにこのデレている弟?

 

「だって、昴だったら、どこの国立大学でもA判定だったじゃない」

 

「そうだけど、さ」

 

「予備校だって、友達といたいから通っていたって言ってたじゃない」

 

「予備校で知り合った友達は、高校の雰囲気とは違って新鮮っていうか」

 

 あれ? シリアス展開だったんじゃないの?

 俺からしたらシリアスよりも、目の前で展開中のブラコン・シスコンカップルの萌えを見ている方が和むんだけど、見た目があまりにもお似合いのカップルすぎてちょっと引き気味になってしまう。

 ……雪乃は苦笑いを噛み殺して話を続きを待っていたけどさ。

 じゃあ俺は、生温かい視線でも送っておくよ。

 

「こほんっ・・・。話がそれましたね」

 

 俺の腐った目が生温かい熱のせいで腐臭を増していくのに気がついたのか、夕さんは上擦った咳をしながらも場を収めにかかる。

 

「いえ、大丈夫ですよ」

 

 俺の方もたぶんクールに言葉を返せたはずだが、若干声が上擦っていたかもしれない。

 なにせ一瞬であろうが恋に落ちた相手が目の前でいちゃついてたんだもんな。しかも姉弟でだし……、リアルでこういうのってあるだな、と変な所で感心しつつ興奮を隠せないでいた。

 

「……それでですね」

 

 つえぇなぁ……。もう立ち直ってるというか、マイペースなのかもしれないけど、健気に立ち上がろうとするその姿に俺は心を激しく揺さぶられてしまいますよ。

 つまりは、やっぱまだ恋は続いているそうです。

 一応俺は誰にも見せられない夕さんプロフィールをこっそり更新させておく。

 むろん雪乃プロフィールは墓場まで誰にもみせないで持っていくつもりだ。小町や戸塚のならば本人に延々と可愛さを訴えてもいいけど。

 

「本来ならば、昴は東京の実家に残って東京の国立大学に入る予定でした。その実力もありましたしね。でも、実際選択したのは千葉の国立大学です。そして私が所属している大学でもあります。理由はお察しの通り私がフォローする為です。住むところは電車に乗らなくていいように私も大学まで徒歩で来れるアパートに引っ越しましたし、昼食も食べないわけにはいかないので、私の研究室で一緒に食べられるようにリハビリしてきました」

 

「大学1年の冬になりかけた頃に、やっとどうにか食べられるようになっただけだけどね。高校の時は全く食べられなかったから、それと比べれればずいぶん進歩したって姉さんは誉めてはくれているけどね。高校の時は学内では全く食べられなかったけど、受験生ということで昼食の時は図書館にこもっていても不審がられないのは運が良かったというのかな」

 

「考えようだな」

 

「だね」

 

「では、昴君は夕さんと一緒に暮らしていらっしゃるということでいいのですね」

 

「ええ、そうです。その方が自宅でのサポートができますからね。

  それに、大学で体調を崩した時も家が近いと便利ですからね」

 

 雪乃の質問に夕さんは誠実に答えていく。

 まっすぐ雪乃を見つめ返すその瞳は、隠し事をしないと意思表示しているようであった。

 

「もう一生姉さんには恩返しができないほどの恩を貰ってしまったかな」

 

「いいのよ。私が好きでやっているだけですもの」

 

 だから、そこっ! 見つめ合わないでっ。

 シリアスな展開なら、最後までシリアスで通してくれよ。どうして途中途中でブラコン・シスコンカップルを眺めなければならないの。

 しかし、俺の視線に気がついたようで、夕さんはすぐさま話の軌道修正を図った。

 

「今は私と研究室で食事をすれば対処できていますが、いつまでもそれができるわけではないでしょう。それに、この問題を解決しなければ、昴の夢を諦めなければならなくなるので、それだけは絶対に避けたいんです」

 

 力強い意思がこもった言葉に、俺は夕さんの想いの強さを感じ取る。

 いい姉弟だと思えた。陽乃さんと雪乃もやたらととがっているところがあるが、これもいい姉妹だと最近では思えるようになってきている。

 そもそも誰であっても何かしらの問題を抱えている。

 俺はもちろんだが、あの陽乃さんだって大きすぎて一人では抱えられないほど巨大な問題を抱えていた。普段の行動だけでは真意はわからないって陽乃さんのことで経験したはずなのに、今回の昴の事でも気がつかないでいた事で自分の未熟さを痛烈に実感させられてしまった。

 

「東京の大学も夢の実現の一部だったのではないのでしょうか?」

 

「絶対行きたい大学だとは思っていなかったけど、夢を実現する為に通るべき道だとは思っていたかもしれないね。でも、千葉の大学に来て、比企谷や雪乃さんに出会えた事を考えると、こっちにきてよかったと、心から思えているよ」

 

 柔らかい笑顔を見せるその姿に、戸塚以外ではあり得ないと思っていた男に惚れそうになる。

 いや、まじでこれを見た女どもはほっとかないだろ。皮肉でもなんでもないが、これは強烈だと思えてしまう。

 浮かれている自分を不審がられていないかとちょっと、いや、やたらと心配して雪乃を状態を盗み見る。

 ……セーフ、かな? どうやら雪乃も昴の発言を嬉しく思っているようだが、感動止まりらしい。それに俺の事も不審には思ってはいないみたいだ。

 これはこれで安心したのだが、もしかして俺って変なのか?、と顔が青くなるくらい本気で自分の嗜好を疑いそうになってしまった。

 

「迷惑だったかな?」

 

 俺の自分勝手な暴走に昴は勘違いして不安を覚え、声がか細くなってしまう。

 

「いや、俺も昴に出会えてよかったよ。……もし昴がいなかったら、由比ヶ浜以外に話す相手がいなかったなって思えてさ。男友達となるとゼロだったんだなって」

 

「そう? 比企谷ならきっと友達できたはずだよ。最初はぶっきらぼうな人だと思っていたけど、思いやりがある人だってわかったし、それに惹かれて近寄ってくる人がきっと現れたはずさ」

 

「そうか?」

 

 思わぬ誉め言葉に俺は頬を緩め顔を崩す。これは恋かもしれない。

 なんて、もう言ったりはしないが、心地よい温もりを感じさせてくれる言葉に酔いしれる。

 だからといって友達が欲しいわけではないのは今でも、これからでも変わらないだろう。

 ただ、側にいて苦痛にならない人間ならばいても悪くないと、……居て欲しいとさえ思えるようになったのは、人として成長しているかもしれないと柄にもなく思ってしまった。

 

「でも比企谷の事だから、自分からは友達作らないんだろうけどね」

 

「……おい。誉めるのか貶めたいのかはっきりしろ。精神的に疲れるだろ」

 

「そうかな? なら、比企谷は友達ほしいって思ってる?」

 

「どうかな……」

 

 これは率直な俺の意見であり、嘘も建前もない。

 わからない。今はそう判断するのが正しいと思えた。

 自分では判断できないのが、今俺が出せる結論であり、限界でもある。

 いくら雪乃という彼女ができたからといっても俺が今まで築いてきた人生観が変わるわけではない。

 ぼっちをなめるなとか言うつもりもない。

 好きでぼっちをやっていたわけであり、後ろめたい感情も持ち合わせてもいない。

 だけど、雪乃が紅茶を愛していても、コーヒーが嫌いではなく、むしろ好きな飲み物であったように、俺もぼっちであった自分を誇りに思っているのと同時に、誰か自分の側にいて欲しいと思ってしまったとしても、俺のアイデンティティーが崩壊するわけではないと考えることができる。

 それが一見すると矛盾しているように見えたとしても、人間の感情はロジカルではないのだから……、と自己弁護したことも付け加えておこう。

 

「だろうね。比企谷ならそう言う思った」

 

「まあな」

 

「昴は、比企谷君の友達ではないの?」

 

 夕さんの素朴すぎる疑問に息を飲む。これが由比ヶ浜あたりの問いならば、いくらでも適当すぎる回答ができたはずだ。

 でも、今目の前に問うているのは昴の姉である夕さんだ。

 ごまかしがきかない。

 俺をまっすぐと見つめ、瞳の奥深くにあるかもしれない俺の心を射抜いてくる。

 

「わかりません」

 

 そう言うしかなかった。これも俺の本音だ。

 

「今まで友達なんて欲しいとも思わなかったし、いたとしても人間関係が面倒だって思っていましたから。でも雪乃と出会って、自分勝手な偶像を押し付けるのは相手にとっても、自分にとっても、視野を狭めるしかないってわかりました」

 

 雪乃を見ると、首を傾げて俺を見やり、「そうなの?」って訴えかけてくる。

 これは雪乃にも話したことはない偏見。勝手に雪乃を理想化して、勝手に裏切られたと思って、そして、自分の馬鹿さ加減を直視した昔話だ。

 雪乃だって嘘をつく。隠したいことだってある高校生であるはずなのに、俺の理想で塗り固めてしまった。

 俺が作り上げた雪ノ下雪乃を通して雪乃を見ていたって言えるだろう。雪乃にとっては、はた迷惑極まりなかっただろうに。

 

「雪乃の一面しか見ていないのに、勝手に知ったかぶってもたかが知れているんですよ。今でも知らない部分の方が断然多いでしょうし、それで構わないと思っています。えっと……つまり、何が言いたいかといいますと、今知っている面と、これから知る面。そして、一生かかっても知ることがない面の全てを兼ね合わせて雪乃が出来上がっているわけなんですが、たぶん新たな面を知って戸惑う事があるでしょうし、また、知っていたとしても苦手に感じてしまうところも正直あります。そんな面倒すぎる相手であっても、雪乃となら一生付き合っていきたいなって思ってしまったわけで……。すみません。今、自分で何を言っているかわからないっていうか、まとまってないところが多分にあって、それでも、雪乃とだったら、うまくやっていける・・・、そうじゃないな、側にいたいって思ったんです。あと、雪乃以外でも由比ヶ浜っていう面倒すぎる奴もいますが、こいつは色々と俺の平穏な日常をかき乱すんですけど、今ではかき乱されるのもいいかなって思ってしまっている自分がいまして。あとは、雪乃の姉の陽乃さんって人もいまして、この人は由比ヶ浜以上に台風みたいな人でして。でも、陽乃さんに対しても、ほんのわずかな側面しか見ていなかったんだなって、最近知ることができたんです。今では新たな一面を見せてくれるたびにハラハラして、新鮮な毎日を送っています。えっと、だからですね・・・。弥生に対しても……、昴に対しても、そういうふうになっていくのかなって、なったらいいなと、思っています」

 

 夕さんの問いかけに、うまく答えられただろうか。

 言っている自分でさえ矛盾だらけの演説だって落胆してしまう。

 今思うと、けっこう俺、恥ずかしいこと言ってなかったか。今となっては雪乃の反応さえ見るのが怖い。

 ましてや、俺の事を多くは知らない夕さんや昴に対してはなおさらだ。

 喉がいがらっぽい。長く話しすぎたせいだけではないってわかっている。

 でも、冷めきった紅茶を飲むことで喉を潤せられるならばと、カップをぞんざいな手つきで掴み取ると、一気に喉に流し込む。やはり紅茶だけでは喉は潤わない。だから、まったく手をつけていなかった水のグラスも強引に掴むと、これもまた一気に喉に流し込む。

 氷がほぼ溶けてしまった水はほどよく冷えていて、喉に潤いと爽快感をもたらしてくれた。血が頭に上っていた俺をクールダウンさせるには最適なドリンクではあった。

 と同時に、張りつめていた緊張を自動的にほぐす効果もあったわけで……、俺は何も心構えをしないまま顔をあげ、弥生姉弟と対面することになった。

 俺は無防備なまま弥生姉弟を直視する。

 普段の夕さんを見た事はないが、教壇に立つときのように毅然とした態度で俺を観察しているように思えた。

 一方昴は、相変わらずいつも俺に接しているときのように、柔らかい表情を浮かべていた。

 ついでにというか、一番結果を知りたくない雪乃はというと、顔がかっかかっかしていまだ確認できていない。

 だけど、知らないままではいられない。俺に似合わない独白までしたんだ。しっかりと見ておく必要があるようと強く感じられた。

 首を回すとグギグギって擦れてしまうそうなのを強引に回して様子を伺う。見た結果を述べると、よくわからないであっているだろう。

 なにせ俯いていて、雪乃の後頭部しか見えなかったのだから。でも、テーブルの下で俺の膝上まで伸ばされた指が、俺の手の甲をしっかりと握りしめていることからすれば、けっして悪い印象ではなかったのではないかと思えた。

 

「それはもう友達ということでいいのではないかしら?普通そこまで考えてくれないと思うわ。そこまで考えてくれているってわかって、よかったといえるかしらね。ね、昴?」

 

「あ……、うん。やっぱり千葉に来てよかったよ」

 

「そう、か……? 昴がそう思うんなら、よかったの、かな?」

 

「だね」

 

 テーブルの下で握られていた手がよりいっそう強く握られる事で雪乃の存在を確認し、そっと雪乃の方に瞳をスライドさせる。やはりまだ顔をあげてはいない。

 まあ、いいか。なにかあるんなら、あとでゆっくり聞けばいいし。聞くまでには心の準備もできているだろうしな。

 

「でも、昴君は何故八幡と友達になったのかしら? 自分の彼氏を貶すわけではないのだけれど、八幡は元々積極的に友好的な関係を築く方では……、いえむしろ交友関係を断絶しているといってもいいほどだといえるわ。だから、そんな内向的な人間に、どうして昴君のような人間として出来ている人が接してみようと思ったのかしら? そもそも八幡に近づくメリットなど皆無だし、むしろデメリットの方が……」

 

 俯きながらも透き通る声はくぐもる事を知らずに響き渡る。

 雪乃は貶さないと初めに断っておきながら、デメリットばかりあげていくのはどうしてだろうか。

 ここで俺が口を挟んでも、雪乃の的確すぎる指摘は止まらないだろうし、俺は精神を削り取られながら雪乃が飽きるのを待つしかない、か。

 ただ、雪乃が誉めるほどの人格者の昴は、雪乃の暴走を止めるべく、話の流れを引き戻してくれる。

 

「比企谷と初めて話した時、比企谷について何か意識したわけではなかったと思うよ。授業でグループでレポート出さないといけない課題があって、その時のグループの一員がたまたま比企谷のグループの人と友達だっただけで、その接点でたまたま比企谷が近くにいただけだったと思う。たしか一人で黙々とレポート取り組んでいたのは、今でも覚えているよ」

 

「はぁ……。やはりどこにいても八幡は八幡なのね」

 

 ナイス、昴!と、心の中でガッツポーズをとるが、雪乃の間髪を入れずのご指摘に俺は小さく拳をあげるのが精々だった。

 

「グループ課題なんて、自分の分担はとっとと終わらせておくのがいいんだよ。遅れると文句出るだろ?」

 

「あの時も比企谷はそう言ってたよ」

 

 昴は懐かしそうに語るが、俺は顔を引きつるしかなかった。もちろん雪乃があきれ顔であった事はいうまでもない。

 

「そんなこと言ったっけな。昔の事だから、忘れたな」

 

「まあ、あの時の比企谷は本当にレポートで忙しかったみたいだけどね。後で聞いたんだけど、比企谷が他の人の分のレポートまで押しつけられてたって」

 

 あぁ、思いだした。早く自分の分担終わらせたせいで、他の奴の分までやるはめになったんだっけな。

 そのことだったら、今でも覚えている。

 あのくそムカつく女。

 あいつのせいで俺のレポート提出期限が守れなくなるところだったんだよな。グループのうちで誰かしら一人が分担部分の仕上げ期限を守らないと、自動的に俺までもがレポートの提出期限を守れなくなる。

 これがグループ大きな弊害だ。

 一番の弊害は、他人と一緒にレポートをやらなくてはならない事だが、これと同じように足を引っ張られるのもたまったものじゃない。

 

「いつも面倒事を押し付けられ慣れているから、いちいち全部は覚えてねえよ」

 

 俺は嘘は言ってはいない。

 いちいち「全部を」覚えていたら、ストレスが解消されなくなっちまう。だから、面倒を持ちこんでくる「危険人物だけ」は覚えていて、そいつらには近づかないようにしている。

 まさしく日本人の典型パターンといえよう。サイレントクレーマーとは俺の事よ。ただし、悪評を人に流す事がない分善良的かもしれないが。

 ま、言う相手がいないだけなんだけど。

 

「比企谷ならそう言うと思ったよ。でも、自分の役割はしっかりとやるんだよね。たとえそれが理不尽な内容であったも」

 

「買い被りすぎだ。それに世の中の8割は理不尽でできているから、あんなのありふれた日常だ」

 

「それでもだよ」

 

 昴は困った風に笑って反論した。

 

「雪乃さんの問いかけの答えに戻るけど、その出来事で比企谷に興味を持ったんだけど、僕はがもともとレポートとかを収集して情報交換をしていた関係で、比企谷に話しかけることが増えていったんだ。比企谷は、レポートとかの課題は、提出期限よりも比較的前にやりおえていたしね」

 

「そういやそうだったな。俺の方も昴から使いやすい参考文献とかの情報貰えるんで重宝していたけどな。まさしくギブ、アンド、テイク。悪くはない。最近の昴はコピー王とか言われるくらい有名になったしな」

 

「そのあだ名は恥ずかしいからやめてよ」

 

「そう思うんなら由比ヶ浜に文句を言えよ」

 

「それはもう言ったとしても意味がないから諦めているよ」

 

 一応弁解しておくと、今は由比ヶ浜はコピー王などとは言ってはいない。由比ヶ浜がそのあだ名を使ったのは、おそらく一週間もないと思う。

 しかし、名前って言うのは独り歩きするもので、昴が流した情報と共にあだ名までもが広まってしまい、由比ヶ浜一人があだ名を使わなくなったとしても、コピー王の名前は定着されてしまっていた。

 

「あいつも悪気があってじゃないしな」

 

「それに、今は有名になりすぎた自分にも問題があるみたいだしね」

 

 昴は独り言のように自戒する。

 おそらく試験対策委員会のことだろう。

 しかし、昴が今その話題を持ちあげてこないのならば、議題にすべきではない。今はもっと切迫した問題が目の前にあるのだから。

 

「それで昴は、比企谷君と仲良くなっていったという事でいいのね?」

 

 夕さんはおかしくなりかけた話の流れを修正する。昴が夕さんに試験対策委員会との確執を話しているかはわからないが、昴が何か抱えている事だけは気が付いているようではあった。

 

「どうかな? きっかけにはなったけど、決定的な要因ではないかな」

 

「と、いうと?」

 

 雪乃も昴の異変に気がついてはいるみたいだが、昴の言う決定的な要因に関心を示した様であった。

 

「比企谷は人の心に踏み込んでこないからね。ある程度の距離を保ってくれるというか、踏み込んできてほしくないところにはけっして踏みこんでこない。そういうところが、問題を抱えている僕にとっては都合がよかったんだよ。それに人との関係もあるけど、勉強に関してもね」

 

「当時は昴の事情なんて知らないだけだったけど、そもそも俺は人の内側に好き好んで踏みいれたりしないだけだよ。面倒だからな」

 

「それも、比企谷を見ていて気がついたよ。でも、最初は本当に都合がいいだけだったんだけど、いつの間にかに僕の方から比企谷の方に踏み込んで行きたいと思ってしまったけどね」

 

「そ、そうか……」

 

 どういえばいいんだよ。俺は好意を向けられるようなことなんてしてないと思うんだが。

 

「比企谷君の側にいる事によって昴も比企谷君の魅力に気がついていったってことだと思うわ。表面上のうわべだけで判断したのではないと思うから、それだけ昴も比企谷君に惚れたってことではないかしらね」

 

 と、夕さんがまとめてくるんだが、どうも男同士の友情っていうよりは、男女間の恋愛話に聞こえてしまうのは気のせいだろうか。

 まあ、深く考えたら負けだと思うので、俺にとって都合がいい部分だけ記憶して、後の部分は聞かなかった事にしておく。

 

「昴と仲良くしてもらっている比企谷君には悪いとは思っているのですが、きっといいように利用しているって思われる事でしょうが、少し話を聞いてくれませんか?」

 

 夕さんがうまく話をまとめてくれたと思っていたら、夕さんの固く引き締まった声が俺に投げかけられてくる。

 あの昴でさえ顔を引き締めていて、心細げに俺を見つめていた。

 

「いいですよ。利用っていうなら、この前も昴に俺の身勝手なお願いを聞いてもらったばかりですし、お互い様ですよ」

 

 この前雪乃の父親との会談に間に合うようにと昴には助けてもらったばかりだ。

 あの時昴は、楽しげに恨み事を言いながらも手伝ってくれた。

 ギブ、アンド、テイク、ではないが、人に頼られるっていうのも悪くないって教えてくれたのは由比ヶ浜のおかげだろう。

 たしかに、由比ヶ浜の性格がよくなければ、いい人すぎなければ、由比ヶ浜の為に大学受験の家庭教師なんてするわけがなかったとは言い切れる。

 それでも合格まで見届け、さらには今でも面倒見ているなんて、俺が面倒と言いながらも楽しんでいなければ続きっこない出来事だ。まあ、由比ヶ浜には絶対に楽しんでやっているなんて教えてやらんけどな。

 

「ありがとう」

 

「ありがとう、比企谷。でも、聞いた後でやっぱり引き返したいって思ってもかまわないから。だから、変な責任感だけは持たないでほしい」

 

 夕さんに続いて昴までもが硬く引き締まっていた顔を緩めてほっと肩を下ろす。俺の立場からすれば簡単な事なのに、きっと当事者となれば違ってくるのだろう。

 しかも俺には昴達が考えているほどの価値なんてないという思いもあるが、それもここで言うべき言葉ではないはずだ。

 

「そこまで俺は責任感の固まりじゃない。逃げたくなったら自分の意思でとっとと逃げているさ」

 

「困ったことに逃げて欲しくても逃げないでいるのよね」

 

 雪乃の声は小さく、隣にいる俺にさえ声はかすれて聞きづらいはずなのに、どういうわけかはっきりと俺の耳まで届けられる。

 しかも、なぜか弥生姉弟にまで届いてしまっているようで、柔らかい笑みが眩しかった。

 

「では、本題に入りますね。昼食会を開いているそうですが、それに私たちも参加させていただけませんか?」

 

「俺は構わないけど……問題ないと思うぞ。な、雪乃」

 

 弥生姉弟を昼食会に参加させることに、俺個人としては問題ない。

 だけど、俺一人の一存で決まれらる事ではないので、隣にいるもう一人の参加者の意見を聞くべく問いかける。

 

「もちろん私も歓迎します。ただ、由比ヶ浜さんと姉さんの意見も聞かなくてはいけませんので、今すぐ正式なお返事をする事は出来ません。……でも、由比ヶ浜さんと昴君は友人同士ですし、夕さんも昴君のお姉さんなのですから、おそらく反対意見は出ないと思いますよ」

 

「それに、昼食会なんてお上品な昼食の集まりではないですよ。ただたんにその日の弁当当番が弁当作って、みんなで食べているだけですから。だから都合が合えば一緒に食べればいいし、逆に用事があるんなら無理をして参加する必要もない。そんなありふれた食事ですよ」

 

 雪乃はごくごく常識的な回答をしたが、雪乃自身受け入れないわけではないのだろう。

 むしろ……考えたくはないのだが、俺の数少ない友人を確保すべく、積極的に動いてさえいるようにも見えた。

 それほどに俺に友達なんて呼べる人間ができたことが奇跡だといえるのだが。

 

「ありがとうございます。でも、言いにくいのですが、二つだけ問題がありまして」

 

 夕さんの恥じらう姿に見惚れてしまう。いや、大丈夫。もう恋なんてしないって誓ったから。

 なんてドギマギしていたが、夕さんが述べた二つの問題のうち、二つ目の問題が気になった。

 おそらく高い確率で一つ目の問題は、昴の食事についてだろう。今は夕さんの研究室で食べる練習をしていると言っているが、今回の昼食会はそのステップアップだと考えられた。

 

「たぶん二つとも大丈夫だと思いますよ。一つは昴の事ですよね?」

 

 俺が夕さんが言い淀んでいる内容をズバズバ言ってしまうものだから、雪乃は無言で非難の声をあげる。

 細められた雪乃の目からは、見るからにして凍傷になりそうな視線が送り込まれてきていた。背筋がぞくりと伸びきったが、俺はそれを我慢して前を見続けようと努力する。

 だから、そんなに睨むなって。ほら、夕さんも言いにくそうだったし、どうせ言わなければならない事なら、俺の方から後押しすべきだろ?

 しかし、俺の健闘は空しく敗戦を喫し、俺はとぼとぼとアイコンタクトで弁解の意を返したが、雪乃から返ってくるアイコンタクトはさらに100度ほど下がった凍てつく視線のみであった。

 俺があたふたと雪乃の対応に困っていると、昴から温かく見守っている視線も感じ取れる。

 ただ、そんな外野の思いやりは今回ばかりは無視だ。

 夕さんは少し困った風な表情を浮かべているだけであったが、昴はニコニコと頬笑みまで浮かべていた。

 お前の事で困っているだぞって突っ込みを入れたいほどだったが、やはりそれも却下。

 そんなことをしたら雪乃からさらなる非難が降りてくることが必至である。

 だが、俺の置かれている状況に察してくれたのか、夕さんは話を進めようとしてくれた。

 

「ええ、昴の事です。先ほどもお話ししましたが、現在昴は普通に外食することができません。私の研究室での食事はどうにかできるようになりましたが、それ以外は全く・・・」

 

「飲み物を飲む事は出来るのですよね?げんに今は飲んでいますし」

 

 雪乃が昴の前に置かれたティーカップに視線を向けながら話すので、自然と残りの3人も雪乃の視線を追いかけて、そのティーカップに意識を向けた。

 

「はい、飲み物は比較的問題はありません。ただ、大丈夫だと言っても、水やお茶くらいですね。コーヒーや炭酸飲料は飲めなくはないみたいですけど、控えているようで」

 

「そうだね。飲めなくはないのだけど、胃を痛めると思ってしまうものや刺激が強いものは無意識のうちに……、意識をしてともいうかな、やはり避けてしまう傾向があると思う。あとは甘いのもやはり避けてしまうかもね。胃に残るというか、甘ったるい感じが残るのが怖いというか」

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

「いいえ。こういうことは初めに言っておいた方がいいですからね。もちろん聞いた後であっても、やはりお断りというのも問題ありません。私達家族の問題を無理やり押し付けようとしているのですから」

 

「無理やりだなんて、そんなことは思っていません。少なくとも私は迷惑だとは思っていませんし、ここにいる八幡もわりとお人よしで、自分が認めた人間はけっして見捨てる事はしない人間ですから」

 

 雪乃はどこか誇らしげにない胸を張って目の前の姉弟に俺の事を自慢する。その誇らしげな瞳が曇らないような人間になろうとは思うのだけど、ちょっとばかし持ちあげすぎじゃね?、と照れが入ってしまう。

 

「そのようですね。昴もそういうことを言っていましたから」

 

 俺を持ちあげないでくださいって。期待にこたえたくなっちゃうでしょうが。

 だから俺は照れくささを隠す為にぶっきらぼうに答えるしかなかった。

 

「出来ることしかやれませんよ。過剰に期待されても困るだけですけど、まあ、出来る限りの事はやるつもりです」

 

「比企谷らしいね」

 

「お前も俺を誉めるなって」

 

「誉めてないよ。事実を言っただけだよ」

 

「それを誉め……、もういいよ」

 

 俺は照れ隠しの限界を感じて雪乃とは逆の通路側に顔を向けて戦略的撤退を試みた。

 ただ、人の良すぎる彼ら彼女らの事だから俺の顔色を見れば、俺の現状を把握なさっているようですが。

 まあ、いいさ。いじりたければいじってくれ。

 俺は無抵抗で身を捧げますよっと。ちょっとばかし斜め下に捻くれた感情をむき出しにして頭を冷ますべく店内を見渡す。

 すると、当然ながら自分たち以外の客も紅茶を飲んでいるわけで。

 そして、俺はその紅茶を美味しそうに飲んでいる知らない客の姿を見て、過去の過ちに気がついてしまった。

 

「昴。前にマッカンを布教しようと奢ったことあったよな。あれはやっぱり……迷惑だったんじゃないのか? 知らなかった事とはいえ、本当にすまなかった」

 

 俺は昴の方に視線を戻すと、すかさず過去の過ちを懺悔する。昴は一瞬目を見張ったが、すぐにくすぐったそうに笑みを浮かべる。

 つまりは俺が指摘した事実を覚えていたって事だった。

 嫌がらせをした方が忘れて、された方がずっと覚えている。俺のは意図的にしたわけではないからといって免責されるべき罪ではない。

 固く握りしめる拳から不快な生温かい汗が手を濡らしていった。

 

「比企谷君。その缶コーヒーのことがあったことも、今回昼食会の参加をお願いしようと決心した原因の一つでもあるのですよ」

 

「どういうことでしょうか?」

 

 いまいち夕さんの言葉を素直に飲み込めない。それは雪乃も同じ感想であり、すかさず質問した事にも出ているのだろう。

 だから、無言で夕さん達を見つめ返す俺を助けるべく、雪乃が話の相槌を代りに問いかけてくれた。

 昴達の話によれば、胸やけをしそうな甘すぎるマッカンは、昴が避けるべきドリンクの一つと考えるべきだ。ましてや気持ち悪い症状を避けるようにしている昴が、積極的に飲むべきものとはどのように分析しても導くことができないでいた。

 

「僕は甘いものが苦手というわけではないから、マッカンが嫌いというわけではないよ。むしろ自宅であったならば、好んで飲んでいるからね」

 

「そうですね。比企谷君に布教されてからは、昴は好んで飲んでいるほどですから。今ではいつも常備しているんですよ。よっぽど嬉しかったんでしょうね」

 

「姉さんったら……」

 

 夕さんの暴露話に、照れ半分、拗ね半分で甘える昴。どこのほのぼの姉弟だよって、今度こそつっこんでやりたかった。

 …………が、つっこんでやらん! 勝手にやってろ。こういうのは関わったら負けだ。

 でも、どういうことなのだろうか?

 甘いのも駄目だと言っていたし、コーヒーも避けると言っていた。なのに、どうしてマッカンだけは大丈夫だったのか、どうしても疑問に残った。

 

「どうしてマッカンだけは大丈夫だったのでしょうか?」

 

 聞かずにはいられなかった。俺の過去の過ちが昴を傷つけていたかもしれないのに、どうして大丈夫だったのだろうか。

 俺の姿が必至すぎたのか、夕さんは姿勢を正して、先ほどまでの姉弟のじゃれつきをきっぱりとぬぐいさってから、頬笑みを交えて答えを開示してくれた。

 

「それは、比企谷君がくれたものだからですよ。もし比企谷君がくれたものが他の飲料水であったのならば、それがよっぽどのものでなければ、昴は嬉しく思っていたはずです」

 

「もともとマッカンは知っていたけど、それほど手に取ろうとする品ではなかったからね。それほど販売に力を入れている商品というわけでもないし、コーヒーは新商品がどんどん出てくるジャンルでもあるからさ。でも、比企谷に勧められて飲んでみたら、美味しかったと思ったのは嘘じゃないよ」

 

「でも、体調の方はどうだったんだよ」

 

 これが一番聞きたい事であった。味の方はマッカンだから心配はしていない。むしろ味を否定する奴は味覚が狂っていると判断すべきだ。

 

「それも問題ないよ」

 

「……でも」

 

 俺はなおも信じられないと疑問を姉弟に投げかける。いくら大丈夫だと言われても、自分の過ちは許されない気がした。

 

「本当に問題なかったんです。むしろ好調すぎて、私の方が疑ってしまったほどで」

 

 夕さんが笑いながら驚き体験を思い出すものだから、俺だけでなく雪乃までも次の言葉を紡げないでいた。

 

「そんな顔をしないでくださいよ。本当の事なのですから」

 

「でも」

 

「どうして大丈夫だったのでしょうか?」

 

 なおも信じられないという顔で雪乃が問い直す。

 

「それは先ほども言いましたが、比企谷君がくれたものだからです。この説明だけでは不十分ですね」

 

 俺達がまだ納得していないと判断したのか、夕さんはさらに話をすすめた。

 

「つまりですね、私の研究室では食べられるようになった理由はわかりますか?」

 

 俺と雪乃はそろいもそろって首を横に振る。考える事を放棄したわけではないが、答えが見えてこなかった。

 

「これは昴の感覚的な問題なのですが、私の研究室が疑似的な自宅の一部と認識しているみたいなのです。そもそも家でならば、安心できる。家でならば、いくら吐いたとしても問題を世間に隠したままにしておける。家でならば、家族が助けてくれる。そういった守られた空間があるからこそ昴は家でならば食事ができているのだと思います。そして私の研究室が家の延長線上と考えることができれば、そこでならば食事ができると考えましたし、実際徐々にではありましたが食事ができるようになってきました。そもそも外出先での食事だけが無理であって、自宅では問題なく食事が出来ている事に、研修室では食事ができるのは不思議に思わないでしたか?」

 

「そう言われてみればそうですね」

 

「それでも病院に担ぎ込まれた直後は、家であっても外出直前の食事は気を使ったけどね。食べてしまったら、外出先で吐いてしまうかもっていう強迫観念があるから」

 

「たしかにそういう段階もありましたが、今では私の研究室でならば一人でも食べられるようにはなったんですよ。さすがに毎日必ず私が研究室にいることなんてできはしませんから」

 

 今では困難を乗り越えた結果のみを俺達に伝えてくるが、その過程をみてきたわけではないが、きっと挫折の繰り返しに違いない。今だからこそ話せる事であって、今だからこそ俺達に告白できるようにまで前進したと推測することができた。

 だから、夕さんが俺達に打ち明けるときの緊張も、その突然の告白を聞いた時の昴の驚きも、今となっては十分すぎるほど納得できるものであった。

 

「それで今度は俺達と一緒の食事にステップアップということですか?」

 

 たしかに合理的で、よく考えられたリハビリ計画ではある。

 だけど、それがどうして俺が布教したマッカンに結び付くのだろうか?

 

「比企谷達には悪いとは思っているけど、今回ばかりは甘えさせてほしい」

 

「いや、ぜんぜん迷惑だとは思ってないから、改めてかしこまられるとそのせいでむずがゆくなっちまうよ。だから、俺達をばんばん使い倒してくれればいい。それに、俺達に出来ることなんてたかがしれている。昴の問題は、昴本人にしか解決できないからな」

 

 酷い事を言っているようだが、事実だから仕方がない。

 由比ヶ浜の勉強であったも同じことが言えるが、俺や雪乃がいくら一生懸命勉強を教えたとしても、結局は由比ヶ浜が勉強しなければ学力は向上しない。

 これと同じ事が昴にも当てはまってしまう。

 

「まあ、そうだね。それでも感謝しているって事だけは覚えておいてほしいんだ」

 

「感謝されているんなら、遠慮なく貰っておくよ」

 

 と、やはりぶっきらぼうにしか感謝の念は受け取れない。

 こればっかりは慣れていないのだからしょうがない。

 

「それでは、先ほどの缶コーヒーがどうして関係あるのでしょうか」

 

 雪乃は俺達のホモホモしい、いや断じて拒絶するし、雪乃がそう思うはずはないが、状況に耐えかねて、話の続きを夕さんに促した。

 

「はい、そのことですが、本来ならば昴は甘すぎる缶コーヒーは飲めないはずでした。例えば、貰ったとしても、この後歯医者に行かなければいけないから飲んではいけないとか、病院の検査があるから無理だとか、あとは、このあと長時間電車に乗る予定があって、トイレが近くなるような飲み物は口にできないなど、適当な理由を述べて断っていたはずなんです」

 

 おそらく今まで幾度となく繰り返してきた言い訳の一部なのだろう。

 覚えてはいないが、もしかしたら俺もその言い訳をされた対象なのかもしれない。

 

「でも、比企谷君がくれた缶コーヒーはその場で飲んだそうです」

 

「比企谷からすれば、由比ヶ浜さんに勉強を教えている途中のいつもの休憩にすぎなかったようだけど、僕からすれば画期的な事件だったんだ」

 

「すまん。なんとなくしか覚えていない」

 

「仕方がないよ。比企谷からすれば、普段勉強を教えている日常のうちの一つにすぎないんだから」

 

「それにしても八幡が缶コーヒーを奢ってあげる友達がいた事の方が驚きね」

 

「俺の彼女なのに、どうしてそう自分の彼氏を悲しい目で見ているんだよ」

 

「あら? 事実を述べただけなのだけれど」

 

 雪乃はとくに表情を変える事もなく、淡々と悲しすぎる事実を述べあげていく。

 その淡々と口にするその瞳に、少しばかり嬉しそうな光が宿っていた事は、俺や陽乃さんくらいしか気がつかない事だろう。

 

「わぁったよ。もういいよ」

 

「ええ、理解してくれたのならば、もう何も言う必要はないわね」

 

 雪乃は上品に笑顔を作りあげると、最後にもう一度くすりと笑ってこの話を締める。

 だが、今回は俺達二人だけではないということを雪乃は失念していた。目の前に二人も観客がいるのに、雪乃は雪乃らしくいつも通りに俺に甘えてしまった。

 だから、目の前の観客の受け取り方は人それぞれではあるが、雪乃が観客の視線に気がついてしまえば、照れて体を委縮させてしまう効果は十分すぎるほど備えられていた。

 

「仲がよろしいのですね」

 

「そうだね。いつも一緒にいる由比ヶ浜さんでさえついていけない時があるみたいだよ」

 

 由比ヶ浜についてはこの際どうでもいいことにしよう。

 付き合い長いし、今さら意識して隠したって、既に知られてしまっていることだ。だから、気にしたって意味がない。

 しかし、夕さんに関しては別である。

 いくら昴の姉であっても、会って、話をしたのがこれで二回目であるし、雪乃においては初対面でさえあった。そんなほぼ初対面の相手に、こうまでも雪乃が警戒心を解いて素に近い言動を晒してしまうだなんて、これはある意味異常事態だといえた。

 これはおそらく弥生姉弟が持つ雰囲気が影響しているはずだ。

 この姉弟はどことなく無意識のうちに話しやすい雰囲気を作り上げる傾向がある。これが詐欺だったら問題ではあるが、俺に詐欺を働いても利益など得られはしないだろう。まあ、雪乃相手であれば、雪ノ下の財産を狙うという自殺行為でもあるわけだが、詐欺師相手に命の大切さを説くなど必要はない。

 ……陽乃さんに、その母親たる女帝。親父さんもこの前の事で陽乃さんに近い存在であると、性格そのものというよりは策略家という意味で、わかったわけで、その怪物たちが住む雪ノ下に手出しをするなんて、はっきりいって自殺行為としか思えなかった。

 なんて、俺が頭を冷やすべく現実逃避をしていると、雪乃が俺に助けを求める視線を送って来ていた。

 しかし、その雪乃の視線さえも恋人たちのアイコンタクトには違いなく、さらなる温かい視線を加算する行為にしかならないでいた。

 そして雪乃は自分の自爆行為に気がつくと、さらに顔を赤くして、俯くしか取れる手段は残されていない。

 とりあえず落ち着きを取り戻そうとしている雪乃は、氷が溶けきった水をゆっくりと何度も口元に運んで頭の再起動を始める。目の前にいる弥生姉弟も俺達を冷やかす気などさらさらないようで、雪乃と俺が話に復帰できるのを黙って待っているだけであった。

 一応自爆行為をしたのは雪乃だけあり、軽傷?だった俺の方が雪乃より先に立ち直れたのは当然だったのかもしれない。

 このまま沈黙を続けるよりは、なにか会話をしていた方が雪乃も回復が早いとふんだ俺は、夕さんが言いかけたままでいた事を聞くことにした。

 

「色々話を脱線させてしまってすみません。それで、先ほど言っていた昴に奢ったマッカンなんですが、どういう意味合いがあるんですか?」

 

 俺の復帰に、夕さんは顔色を変えることなく応じてくれる。

 先ほどの夫婦漫才さえも見なかった事にして話を再開してくれたのは、雪乃よりダメージが少ないといっても、とてもありがたかった。

 

「それはですね、比企谷君が昴が安心して食事ができる空間を作り上げていたと考えることができることです。もちろん食事そのものはまだ未経験ですが、警戒していた甘いコーヒーを自分から飲んだことは、私からすれば驚くべき事態なのです。そうですね、ちょっとだけ妬けてしまいましたね」

 

「……それは、友情っていう意味でよろしいのでしょうか?」

 

「ええ、そうですね」

 

 夕さんはさも当然という顔で答えてくれた。

 そこには他の意味合いなど含まれてはいないようであり、俺は心の中でゆっくりと胸をなでおろした。

 これは、一応確かめなければいけない事項である。

 いや、ないとは思うのだけれど、海老名さんと同類の腐女子っていう可能性は捨てきれなかった。そもそも腐女子の存在を考えてしまう事自体が海老名さんの影響を受けている証拠だが、まあ一応用心ってことだ。

 とはいっても、そんな用心をする事自体が悲しい事であり、また、用心しなくてはいけない事自体が俺自身が正しい道を歩いているか不安にさせてしまうものであった。

 まあ、俺がアブノーマルなわけがない。そして、そんな嫌疑がかかったとしたら、雪乃が黙っちゃいないだろう。

 

「ということは、マッカンが大丈夫だったのならば、弁当も大丈夫かもしれないと考えたわけですか。俺からすればかいかぶりすぎだって思えてしまう事態なんですけどね」

 

 俺が確認を込めて夕さんに問いかけると、昴と夕さんはやや興奮気味に反論してくる。

 

「そんなことはないよ。あの時は無意識のうちに飲んでしまったんだから。飲んだ事に気がついたのは、家に帰って姉さんにコーヒーの事を話した時なんだ。その時までは自分がしでかしたことにさえ気がつかなかったんだから、そういう意味では僕はリラックスできていたって思えるんだ」

 

「本当ですよ。昴がそんな悲しい嘘をつくはずはないってわかっていましたけど、なかなか昴の言っている事が信じられなかったほどなんですよ」

 

 前のめり気味に話す二人を見ていると、その喜びは真実であり、本当に長く険しい道のりだったのだろうと推測できる。パニック障害なんてネットでならばよく見る言葉であり、ありふれた症状にすぎないが、当事者を目の前にしてしまうと自分の浅はかな認識が悲しくなってしまう。

 日々のニュースの中で交通事故などもありふれた日常ではある。また、台風などの天災も身近な存在ではあるが、どうしても活字になっていたり、TV画面の向こう側の情報として知覚してしまうと、自分とは関係ない世界の出来事にすり替わってしまう。

 実際はいつ自分に降りかかってもおかしくない出来事であり、極論を言ってしまえば、戦争であってもいつ自分が巻き込まれてしまってもおかしくはない事態ではある。

 それなのに俺はいつも隣にいる弥生昴の日常にさえ気がつかないでいた。

 目の前まで、あと数センチまで迫ってきていた日常であるのに、俺は一年以上も無関心に過ごしてしまい、そのことがどうしようもなく歯がゆく思えた。

 

「どこまで効果があるかなんてわかりませんけど、俺に出来る事なら遠慮せずに言って下さい」

 

「ありがとうございます」

 

「すまない、比企谷」

 

「気にする事はない。俺ができる事を出来る範囲でやるだけだからな。だから、そんなのは俺の日常生活の範囲内だし、その影響下に人が好き好んで身を置いたとして、そこで得られる利益があったとしても俺はとくに何もやっていないといえる。つまりは、その、俺がもし利益を生み出しているんなら、それを享受してくれるんなら俺も嬉しい、かもしれない。その代わり、俺は昴の事を気の毒だなんて思わないからな。腫れものに触るようなことなんてしないから、その辺だけは覚悟しておけよ」

 

「比企谷……」

 

 これは俺自身への宣戦布告みたいなものだ。

 どうしても弱っている人間に対しては、人は上から目線になってしまう。使わなくてもいい気づかいをして、かえって相手を傷つけてしまう。

 だから俺は今まで通り昴と接する事に決めた。

 どこまでできるかなんてわからない。でも、実際言葉にして本人に伝えてしまうと、なんだか本当にできてしまいそうな気がしたのは気のせいかもしれないが。

 

「食事を一緒にするだけだ。あんま気追わないで、たとえ箸が進まなくてもその場の雰囲気だけでも楽しんでればいいんじゃないか? そうすれば夕さんの説明でもあったようにそこが昴の安心できる場所へと変化していくかもしれないだろ。もちろん保証なんてできないけどな。……まあ、昴の大変さなんて俺が経験してないからわかるわけないけど、それでもできることがあるんなら協力するし、それに、できることからしか始める事は出来ない」

 

「そうだね」

 

 俺が言うのもなんだが、ここで話が終わっていれば感動のシーンだったのだろう。

 友情ものの映画のオファーがきちゃいそうな雰囲気も作ってしまったし、俺自身も少しはりきってしまった感もあった。

 しかし、どうにか頭の再起動を完了できた雪乃の一言が、俺を巻き込んで事態を一変させてしまった。

 

「八幡と食事をする効能についてはわかりました。お二人が気になさっている昴君の体調面も、由比ヶ浜さんもうちの姉も人に言いふらす事もないでしょうし、サポートも進んでしてくれるはずです。でも、さきほど仰っていた二つの問題のうちの二つ目の問題とはどのような問題なのでしょうか?」

 

 雪乃の問いかけに夕さんは顔を青くして固まり、昴はそんな姉を見て、なにか残念そうな視線を送っていた。

 

「いいにくいことでしたら、無理にいわなくてもかまいません。しかし、言なわないでいることで食事に支障をきたすのならば、ヒントくらいはいただけないと対処のしようがありませんが」

 

 雪乃の気遣いを聞いても、やはり夕さんの瞳は揺らいだままであった。

 もともと年より若く見えるのに、今はさらに若いというか幼くさえ感じられる。

 そこまで動揺している姉を見ては当然のごとく昴はサポートする奴なのだが、今回ばかりはなかなかフォローする間合いを取れないでいた。

 

「いや……、俺達が覚えておく必要があるのは昴のことぐらいだろうし、後の事は多分問題ないと思いうぞ。一緒に食事をしてみないと気がつかないような事はたくさんあるけど、今気にしていることだって、後になってみれば気にする必要がないことかもしれない。だから、もし実際食事をしても問題になっていると感じたのでしたら、その時話せばいいんじゃないか」

 

「比企谷もああいってくれているし、それでいいんじゃないかな?」

 

「そうね……、ごめんなさい。今はその言葉に甘えさせてもらうわ」

 

「はい、遠慮せずにそうしてください」

 

 俺は夕さんの顔から堅さが抜けていくのを見て、ほっと一息つく。

 それは自分から話をふった雪乃も同じようで、俺以上にほっとしているようであった。

 

「私の方こそすみませんでした。プレッシャーを与えるような発言をしてしまって」

 

「元々は私が問題は二つあるなんて言ったのですから、一つ目の問題しか説明しなければ、二つ目が気になるのは当然の事ですよ」

 

 夕さんは照れながらも雪乃に謝罪の言葉を返す。柔らかな笑みを纏ったその姿は、どうやら立ち直れたらしい、

 

「いえ、配慮が足りなかったのは私の方です。本来ならば歓迎の意もこめて明日のお弁当を私が作ることができればよかったのですが、あいにく姉が当番なんですよ。でも、姉は私以上に料理が得意なので、きっと夕さん達も満足すると思います。そうね、夕さん達のお弁当当番どうしようかしら? 姉さんが月曜日と金曜日を兼務していて一人だけ二日も当番なのだから、姉さんが当番の日を夕さんに担当してもらおうかしら? あっ、すみません。もしかしたら昴君からはお聞きになっていらっしゃるかもしれませんが、私たちはお弁当を作ってくる担当日を決めてお弁当を用意しているんです。もしよろしければ、夕さん達も参加してくれませんか? 八幡も参加できているのですから、気楽に考えてくださってかまいません」

 

 しかし、雪乃が俺達のお弁当当番について説明すると夕さんの顔からは安堵は流れ落ち、無表情なまでも堅い表情を作り出してしまう。

 雪乃も突然の夕さんの変化に対応できないでいた。

 それはそうだ。雪乃はさっきの二つ目の問題のことも、今の発言だって話の流れ上当然出てくる話題であり、話しておかなければならない内容である。

 そのことを忘れずに発言しただけなのに相手がその発言を聞いて戸惑ってしまっては、雪乃の方が困惑してしまうのは当然であった。雪乃も夕さんも気まずそうに視線を彷徨わせ、昴は夕さんを気遣いつつも何もできないまま心配そうに見つめている。

 そこで俺は気がついてしまった。そして、思いだしてしまった。

 昴が何故夕さんを心配そうに見つめていて、夕さんがどんな問題を抱えているかを。

 そもそも昴は人の繋がりを大切にし、相手を思いやるやつだ。人と群れるのが苦手な俺ともうまく具合に距離をとってくれているのだから、その技量は相当なものだと思われる。

 それなのに、今昴が気遣っているのは雪乃ではなく夕さんであった。むろん弟が姉を気遣うのは普通だし、違和感はない。

 しかし、弥生昴ならば身内よりも先に友人を気遣うのが先のはずだ。でも、実際には雪乃ではなく夕さんを心配そうに見つめているだけで、雪乃の事は意識はしていても、フォローする余裕がないようであった。

 もちろん俺がいるから雪乃のフォローは後回しでもいいという考えもできるが、それでも一言ぐらいはフォローするのが弥生昴だろう。

 だからこそ俺は違和感を感じてしまい、それがあったからこそ昴が何を心配していて、夕さんが何を問題にしているかを思い出してしまった。

 以前俺達が弁当である事を昴が羨ましいと言ったことがあった。もしかしたらお世辞も混ざっていたかもしれないが、ごくありふれた日常の会話ではある。

 ただその時昴は言ったのだ。俺の発言に対して苦笑いを浮かべていたはずだった。

 

「だったら、家の人に作ってもらえばいいんじゃないか? まあ、弁当作ってもらうのに気が引けるんなら、夕食のおかずを多めに作ってもらっておいて、それを朝自分で詰めるのも手だと思うぞ」

 

「あぁ、それもいい考えかもしれないけど……。比企谷のアイディアはいいと思うんだ。でも、家の人も僕と同じように料理が苦手で、それをお弁当にして持ってくるのはちょっと……」

 

 って、会話があったことを思い出してしまった。

 その時は母親が料理が苦手だと勝手に思いこんでしまっていた。

 しかし、昴が今一緒に住んでいるのは夕さん一人だけだ。つまりは、母親が料理を作ってはいないってことになる。なにせ一緒に住んでいないのだから当然無理だしな。

 だから自動的に「僕と同じように料理が苦手」な人は、夕さんとなってしまう。

 ここまでわかればあとは簡単な理屈だ。

 夕さんが気にしていた二つ目の問題。きっと夕さんは昴から聞いていたのだろう。

 俺は昴には話してはいないが、由比ヶ浜が話していたのを俺は覚えていた。弁当当番があり、由比ヶ浜も頑張っており、俺の料理も楽しみにしていると。

 二つ目の問題。それは、夕さんは弁当当番を任されても料理が出来ないって事だろう。

 そりゃあ夕さんも気まずいにちがいない。自分の方から昼食会に参加させてほしいといっておきながら、弁当当番は出来ないと言うのは勇気がいる告白である。

 たとえ誰も無理やり弁当を作ってほしいと強制しないとわかっていても気が引けてしまうはずだ。俺としては、無理やり弁当当番の一員に任命されてしまった俺の事も弁当当番を免除してほしいと訴えたいが、おそらく全員一致で却下されるだけだろうけど。

 ただし、弥生姉妹は除く。

 

「えっと、その……。夕さんたちは弁当を無理に作らなくてもいいですよ。弁当を食べる機会は週五回あり、陽乃さんはそのうち二回作りますけど、俺と雪乃と由比ヶ浜は一回ずつでして、もし作ってくれるのでしたら俺の登板と交換っていうのでもいいですけど」

 

 俺は凍りついた雰囲気にさらなる災厄が降り注がないようにと、恐る恐る提案してみる。

 すると、さすが昴といったところか。俺の意図にいち早く気付き、この場を丸めようと参戦してくれた。

 

「僕はもともと料理が全くできないし、姉さんも大学の事だけでも大変なのに僕の事もあるわけだから、ここは甘えさせてもらってはどうかな?」

 

「甘えるといっても、そんな大層な事はしてないですから」

 

 雪乃はといえば、自分の発言が発端となった事もあり、未だに困惑を身にまとったままでいるが、事の推移を見守ろうと沈黙を保ってくれていた。

 ここで雪乃が今ある状況も理解しないままなにかしら発言でもしたら、俺と昴の苦労は一瞬にして泡ときす。

 しかし、交友関係を活発に広げようとはしない雪乃であっても、自分がおかれている状態を読みとる能力が乏しいわけではなく、不必要に人間関係に波風を起こさない術くらいは学んできているようであった。

 まあ、学んではいるけど、気にくわない相手に対しては好戦的ではあるが。

 それが雪乃らしいといえばらしすぎるわけで、その辺を無理に隠す必要もないとは思う。

 とりあえず、この場は俺に任せるといった視線を雪乃から受け取った俺は、目の前で未だぬ動けないでいる夕さんに意識を集中させた。

 

「姉さん?」

 

 いくら昴のサポートがあっても、弁当に関しては夕さんの言葉がなければ話は進まない。昴が夕さんの意識を揺り動かそうと声をかけると、聞き慣れた声に反応した夕さんは唇と軽く噛むと、俺達向かっていきなり頭を下げてきた。

 

「ごめんなさい。私も料理が全くできません」

 

 俺と昴はどうしようかと目を交わすも、夕さんを見守るしか手が残されてはいなかった。一方雪乃はやっと今置かれている事態を全て理解したようだ。

 

「比企谷君はわかっていたみたいだけど、昴から聞いたのかな?」

 

 顔をあげて俺を見つめる夕さんは、頬を上気させて潤んだ瞳で俺に問いかけてきた。

 これはやばい。女の色気がぷんぷん撒き散らすタイプではないが、自然と男を引き寄せる魅力が俺を惑わそうとする。

 俺の中の夕さんのイメージは、英語の講義に一生懸命取り組んでいる真面目な講師でほぼ固まっていた分、このギャップはすさまじすぎる。

 いくら雪乃が隣にいたとしても、魅力的な女性の魅力を否定する事は出来ない。いや、どことなく雪乃と雰囲気が似ているせいもあるのだろうか。

 年も違うし、性格は全く違う。見た目は若く見えるせいもあって年齢を感じさせないが、俺が初めて弥生准教授と会った時に抱いた生真面目さと言うか清潔感?

 几帳面さというか芯が通った力強い美しさが雪乃とダブらせる。

 なんて夕さんに見惚れていると、隣の本物の雪乃が訝しげに俺の顔を覗き込んできて、はっと息を飲んでしまった。

 

「八幡? 大丈夫?」

 

「えっ、あぁ、うん。問題ない。えっと、ストレートに夕さんが料理ができないと聞いたわけではなくて、なんとなく料理がうまくないって話を聞いたことがあっただけですよ」

 

「そうなの?」

 

 昴に首を傾げて聞く姿、本当に30歳くらいなのですか?

 実際の年齢を聞いたわけではないけど、昴の年齢と准教授っていうことを考えれば30前後ってきがするだけだが、どう見ても雪乃よりも幼く見えてますって。しかも、かわいすぎるし。

 本当に初めて夕さんを見たときに感じた几帳面そうな講師の印象をどこに忘れてきたんですかって聞いてみたい。

 

「うん。ごめんね」

 

「ううん、いいのよ。私が料理ができないのは事実だから。本当は私が料理が出来るのならば、もっと昴の食事面でのサポートもできるし、もっと早く回復していたかもしれないのに、本当に駄目なお姉ちゃんでごめんね」

 

 今度こそ本当に涙を瞳に貯め込んだ夕さんは、昴に向けて許しを乞う。

 

「そんなことないよ。夕姉はいつも僕の為にがんばってくれているよ。僕の方こそ迷惑ばかりかけていて、申し訳ないって思ってしまっているんだ。仕事だって大変だし、それなのに僕という負担までしょいこんでしまって、感謝は毎日しているけど、夕姉の事を駄目だなんて思ったことなんてないよ」

 

「昴ぅ……」

 

 駄目だ。二人だけの世界作っていやがる。

 なんだか、見ているだけで胸やけがするっていうか、これが砂糖を吐くっていう場面なのか?

 砂糖を吐くってラノベでしか体験できないことだったんじゃないのかよっ!

 とりあえず、げんなりとした顔だけは見せないように俯いて顔を隠し、俺は雪乃の様子を伺うべく目だけ隣にスライドさせた。すると俺の視線に気がついた雪乃は、とくになにか訴えかけてくる事もなく、視線は目の前で繰り広げられ続けている甘ったるい光景に向けられた。

 まっ、しゃーないか。

 冷めてしまってはいるが、砂糖がなくても甘くなりすぎた紅茶を飲みながら待つとしますよ。

 こういう場面に介入してもろくな事はないからな。

 と、諦めモードで視線だけは甘さを避けるべく店内を眺めることにした。

 ただ、そんな甘ったるい時間はそう長くは続くわけはなかった。

 一つ目の理由としては、喫茶店の中ということで公共の場であること。

 二つ目としては、目の前に俺と雪乃がいることだが、おそらく3つ目の理由が本命だろう。それは、弥生姉弟のその場の空気を読む能力が由比ヶ浜並みであるっていうことだ。

 そりゃあ、いくら蕩けるような雰囲気を作っていようと、目の前で気まずそうな雰囲気を隠そうとしているのが二人もいたら気がつくに決まっている。

 いくら俺と雪乃が平静を装ったとしても、平静さを強く装うほどに気がついてしまう二人なのだから。

 

「えっと、その……、待たせてしまったみたいでごめん」

 

「いや、気にするな」

 

「比企谷君に雪乃さん。恥ずかしい姿を見せてしまってごめんなさいね」

 

「いいえ。私は気にしていませんから大丈夫です。むしろ八幡がいやらしい目で夕さんを見ていたみたいなので、その方が申し訳ないです。彼女として、彼氏の不始末をお詫びします」

 

 と、雪乃は丁寧過ぎるほど丁寧に頭を下げて謝罪する。

 絶対雪乃は俺が夕さんに見惚れてしまった事を怒ってるな。

 って、いつ頃から気が付いてました?

 でもそれは雪乃とダブらせてしまった部分が大きいわけで……、はい、ごめんなさい。

 隣から発せられる局所的な冷気が俺だけを襲う。きっと昴も夕さんも、雪乃の冷気に気が付く事は出来ても、その身を凍らせる冷気を感じる事はできないのだろう。

 それだけピンポイントに俺だけに嫉妬を向けられていた。

 

「いいえ、比企谷君はとくに……」

 

「それは夕さんが気が付いていないだけで、八幡が巧妙にいやらしい視線を隠していただけです」

 

「本当に大丈夫ですから」

 

「そうですか? 夕さんが大丈夫と仰ってくださるのでしたら」

 

「僕たちのせいで話を中断させてごめん。それで話を戻すと、僕と姉は料理ができないんだ。だから、僕たちは自分たちの分のお弁当だけは用意するよ。それでもいいかな?」

 

 俺の窮地を察知した昴は、ちょっと強引だけど話を元に戻そうと努める。

 俺だけじゃなくて夕さんも若干雪乃に引き気味だったのも、強引に話を戻した原因かもしれない。

 ただ、昴が強引な手を使った為に、さらに雪乃の機嫌を悪くしてしまうかという不安だけは残っていた。

 再び視線だけをぎこちなく雪乃に向けると、さっきまで申し訳なさそうな表情を作っていたのに、今は少しだけ頬笑みを浮かべて昴の話に合わせてきた。

 

「お弁当を用意するといっても、それはコンビニかお弁当屋さんで買ってきたものですよね?」

 

「そうだね。その日の気分で店は変えてはいるけど」

 

「だったら、私たちが昴君たちの分もお弁当を用意しますよ」

 

「それは悪いよ」

 

「そうですよ。私たちはお店で買いますから、これ以上のご迷惑は」

 

「いいえ。これは昴君の為でもあるんですよ。お店のお弁当よりは手作りのお弁当の方が食べやすいと思います。もちろん健康面においても違いがあるでしょうし」

 

 たしかに雪乃の言う通りだ。いくら店の弁当で野菜を多く取って健康面を考えようとしても、

家庭で作った健康を考えた手料理には敵わない。

 むしろ大きな差があるはずだ。

 それに、外で食事ができない昴の症状を考えれば、少しでも刺激が少なく胃の負担が小さい料理を選ぶべきでもある。

 昴も理屈の上では雪乃の言い分が正しいとわかっても、だからといって簡単に雪乃の提案に甘えることなどできやしなかった。

 

「でも・・・」

 

「私たちが好きで作っているのだから、無用な遠慮をする必要はまったくないわ。それに作る量が二人分増えたとしても手間暇はそれほどかわらないと思うし」

 

「ですけど……」

 

 やはり昴も夕さんも簡単には首を縦にはふれやしない。もし俺が逆の立場なら、同じ態度をとったはずだ。いや、まて。そもそも俺に弁当を作ってきてやるっていう奇特なやつがいないから考えても時間の無駄、か。

 そもそも昴がまともに食事ができないというハンデキャップが弥生姉弟の心を重くしてしまう。それなのにお弁当まで甘えるというのは、さすがによほどの鈍感な人間くらいしか簡単には甘えることなどできやしないだろう。

 しかし、弥生姉弟が甘えられないとしても、雪乃はそれをよしとはしない。だったら、俺が妥協案を提示するしかない。

 雪乃の為、弥生姉弟の為、そして、何よりも俺の命を守る為に。このまま何も挽回しないままでは、俺が雪乃に殺されてしまう。それだけはなんとか回避せねばなるまい。

 純粋なる好意の前に、俺はみにっくたらしい自己保身のための行動にでる決意をした。

 

「それじゃあこういう案はどうだ?」

 

「何かいい抜け道でも見つけたの?」

 

「抜け道とは心外だな。俺はいつもそこにある道からしか選択していない。もし昴が抜け道って言うのならば、それはお前がその道を見ていないだけにすぎない。そこにある道をどうして抜け道と言う。目の前には最初から道があるんだぞ」

 

「さすが主席様が言う事は違うね」

 

「言ってろ」

 

 俺は昴の軽口にのせられて、どうにか雪乃によって作り出された極寒の地からは抜け出せた。だから調子に乗った俺はそのままの勢いで、それほど大したことではない案を提示することにした。

 

「俺としては、俺の弁当当番をなくせるのが一番なんだが、それは無理みたいなので代案を提案する。代案て言っても、ただ材料費として一人一食400円を昴達から貰うだけなんですけどな。一応大学内で売っている弁当の値段と学食の値段、あとは俺達が作る労力を加味すると、400円くらいの価格が妥当かなと考えんだが、どうよ?」

 

「私たちはそれでも構いませんよ。むしろ400円では安すぎませんか?」

 

「いいえ。先ほども言いましたが、作る手間暇は変わりませんから、材料費さえいただければ、それはお弁当の対価だけと考えていただいて構いません」

 

「だな。その方がお互い貸し借りの意識がなくていいかもしれない」

 

「僕も雪乃さん達がそれでいいというのだったら、それでお願いしたいな。どうかな? 姉さん」

 

「私も比企谷君の案でお願いしたいかな」

 

「だったらこれで決まりだな」

 

「姉さんはこのあと来るからいいとして、由比ヶ浜さんには連絡を入れておいた方がいいわね」

 

「由比ヶ浜の方は任せる」

 

 これで昴の状態がよくなっていく一助になればいいと願わずにはいられない。

 つい最近大学に入学したばかりかと思っていたら、今はもう大学2年の夏季休暇が目の前まで迫って来ている。そして昴と友達だか知り合いだかよくわからない連れになって1年以上も経つというのに、俺はこの弥生昴の事をちっとも知らなかったという事実を突き付けられてしまった。

 案外俺は他の同級生よりも昴の事を知っていると根拠もない自負さえしていた気がしてしまう。ただいつも席を並べて講義を受けていただけなのに、たまに試験対策やレポート対策の為の情報交換をしていただけなのに、たったそれだけで弥生昴の事を知っていると思いこんでいた。

 俺も他の連中と同じように昴の外見と人当たりがいい性格のみしか知らなかったくせに、いい気なものだ。もし俺が逆の立場だったならば、そんなうわべの情報だけで知ったかぶりするなと鼻もちならない態度さえしてしまうのに。

 だけど、そんなちっぽけすぎる俺であっても、昴の病状を心配せずにはいられなかった。俺が自虐的に使う心の傷なんて、お遊び程度のネタにすぎない。本物の心の傷とは、昴のように日常に影響を及ぼしてしまう消せない傷だ。

 なんて、俺がなんちゃって自虐ネタで黄昏いていると、弥生姉弟は楽しそうに雪乃と昼食についての段取りを進めていた。

 ただ、拗ねくれている俺は明日からの弁当の事より、さっきはさらっと説明しただけですませてしまった根本的原因であり、全く対応策について聞かされていない昴の悩みについて気になってしょうがなかった。

 そもそも昴が外食できなくなったのは、電車での出来事があったからだ。夕さんの話によれば、薬を飲んで無理をすれば電車に乗れるとはいっていたが、もし日常的に電車がのれるのならば、わざわざ千葉の大学なんて入らないでそのまま東京の大学だって入れたはずなのだ。

 それなのに千葉に来たっていう事は、夕さんの説明では不十分すぎると言わざるをえない。つまりは、夕さんが昴の面倒を見るというよりは、出来る事なら昴は電車には乗りたくない。もっとつっこんで言ってしまえば、電車に乗ることができないといえるのかもしれない。

 この間違ってほしい推測が正しいとすれば、事態はもっと深刻なのだろう。

 中学の時は、自転車に乗ればどこまでもいけるような気がした。高校になって電車通学の奴らを見るようになってからは、電車というツールが台頭し、世界はもっと広くなった。そして大学生になった今、全国から集まってきた生徒だけでなく海外からの留学生なんてのもいるわけで、俺達の世界は本当の意味で広くなったんだと思う。

 ましてや社会人になったならば、いうまでもないだろう。

 そんな俺も大学院は海外にいく予定なわけで、飛行機というツールも日常的になってしまうはずだ。

 それなのに昴は高校時代に獲得するはずであった電車という便利なツールを使えなくなってしまった。これは誰が見ても大きな損失のはずだ。

 もし、昴が広い世界を望むのならば、

 もし、昴が俺とは違って狭い人間関係だけで満足できないとしたら、

 もし、昴が千葉よりも遠くの世界にいく事を望んでいたのならば、

今のままではけっしてよくないとだけは、当事者でない俺でも理解できた。こんな俺を友達だと言ってくれた昴に、なにかしてやりたいとがらでもない事を考えてしまった。

 友達なんていらないって、とがってみたりもした。友達ごっこならなおさらいらないし、そういう青春ごっこをしているやつらを白けた目で見てもいた。

 でも、そういううわべだけの関係を演じるのではなく、人から認められるのならば、他人からは友達ごっこだと罵られようと、俺は喜んで友達ごっこを演じてやる。

 

「そういえば、夕さん」

 

 会話に割って入った俺の問いかけに笑顔で顔を向けてくれる夕さんって、本当にいい人だよな。こういう姉だったらまじでほしいかもしれない。・・・駄目だな。まじで惚れちまいそうだ。さすがにアウトローの俺であっても姉弟間の恋愛は遠慮したいが、昴と夕さんとの組み合わせなら・・・。いかん。海老名さんの気持ちが少しわかった気がしてしまうのはどうしてだろう。

 

「どうなさいました?」

 

 心配そうに見つめるそのまなざしに、俺は吸い寄せられそうになる。そしてつい本当に前のめりになりそうになった瞬間、テーブルの下にあった手をつねられる痛みで当然のごとくだらしない姿を見せる事を防ぐ事が出来た。

 だらしない姿というか、俺が夕さんに見惚れていたのが雪乃にばれただけなんだが、とりあずこれで済んで良かったと冷や汗を流しつつ横目で雪乃を見ながら強引に納得した。

 

「いや、その・・・夕さん。橘教授に俺の事を話しましたよね?」

 

「ええ、橘教授にはお世話になっていますから、いつも講義方針について相談に乗ってもらっているんですよ。ですから、そのときに比企谷君の事も話した事があります。・・・ごめんなさい。私が比企谷君の事を話してたせいで何か不都合がありましたか?」

 

 夕さんは眉尻を下げて申し訳なさそうに慌てふためく。全然夕さんは悪くはないのに困らせてしまった事で俺の方も気まずくなり、慌てて話の続きをすることになる。

 

「いや、不都合なんて全く。むしろ夕さんが教授に俺の事を話していてくれたおかげで今朝の面談もスムーズに終える事が出来たのですから、感謝しているほどですよ」

 

「ほんとうですか?」

 

 俯き加減だった顔をあげ、ぱっと絵になる笑顔を咲かす。

 

「ほんとうですよ。八幡は自分の方からは積極的に話さないものだから、夕さんからの事前情報がとても役に立ちました」

 

 雪乃が俺の言葉が真実であると補強するがごとく補足説明をする。ただ、余計な事まで言いそうなのが怖いが。

 

「八幡は人に誉められる事に慣れていないせいか、結局は姉さんがほとんど話していたんですよ」

 

「え? そうなの? 今朝比企谷は陽乃さんがほとんど話していたとはいったけど、その内容は比企谷の事だったの?」

 

 雪乃の説明を聞き、昴は驚いた顔を俺に見せる。たしかに今朝、かいつまみ過ぎた教授との面談内容を昴と由比ヶ浜には話したわけで、雪乃の説明との乖離はちょっとばかしでかいとも言えた。

 

「もしかして八幡。自分の英雄談を話すのが嫌だったから姉さんのせいにしたのね」

 

 雪乃は呆れ果ては顔を見せ、これ見よがしに二人もギャラリーもいる前で盛大にため息をつく。そんなため息をつかれちゃったら、俺がしょっちゅう雪乃に気を使わせているって思われちゃうだろ。たとえ事実だとしても、もうちょっと・・・、はい、だから睨まないでください。反省しています。・・・と、雪乃の激しい調教を兼ねた睨みに脅えつつ反省の顔を見せた。

 


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