やはり雪ノ下雪乃にはかなわない   作:黒猫withかずさ派

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はるのん狂想曲編 2

 7月4日 水曜日

 

 

 

 月曜火曜と日曜日にあったことなどなかったように大学生活は進められていく。陽乃さんも表面上は安達ともいつも通り接しているらしい。さすが強化外骨格の持ち主。どんなことがあってもその仮面は崩れさることはない。

 やはり年季が違う。俺だったらもろにきょどって不審がられるだろう。それはある意味カモフラージュにはなりそうだが、できることならそんな不名誉な事は避けたいものだ。

 さてその安達はというと、今日も軽薄そうな感じで他の友人たちとつるんでいる。これは俺の勝手な判断だが、お調子者で責任感が欠けてるように見えてしまう。実際は責任感があるかもしれないけど、見た目がマイナス材料になっている。まあ、見た目を信じてはいけないと思うけど、雪乃曰く、見た目にはその人の人となりと育ちを映し出してしまうから判断材料の一つになってしまうとか。

 たしかに第一印象って大事だしな。いくら本当はいいやつでも第一印象で失敗したら、それを挽回するのは大変だ。むしろ、ずっと第一印象を引きずってしまうこともあるほどである。

 なんてご高説してみても俺は人の事なんか言えないのが悲しいところだが。

 ま、陽乃さんも俺の安達の印象には賛成らしい。仮に、私の重い結婚話なんか聞かせたら、すぐさま逃げ出しそうねと笑いとばしてもいたが、それがどうにも悲しそうに笑っているように見えてしまう。

 この数日、陽乃さんの内面を覗き込む機会がある分、陽乃さんのことを深く考えてしまっている。きっと俺が見ている陽乃さんも、陽乃さんのほんの一部分にすぎない。陽乃さんがひた隠しにしてきた部分は、簡単には見せてはくれないだろうし。

 さて、ストーカー問題もあるが、俺には目の前の英語勉強会も待っている。だけど、こっちの方はもう大丈夫そうだ。

 なにせ、俺が講義をしなくても各自が自分の担当箇所を説明してくれている。だから俺の仕事といえば、なにかあれば軌道修正したり、スケジュールを立てるくらいだった。そもそも元々勉強できるやつらであるわけで、自転車と同じく、のれてしまえばすいすい進む事が可能になってしまう。

 そんな感じで、今日の英語の授業も、授業後の小テストさえも問題なかったはずだ。

 きっと明日の勉強会では、ほくほく顔のあいつらを見ることになるだろう。

 

「比企谷君ですよね?」

 

 やばっ。なんだよ人がいい気分でいるっていうのに。・・・・・・にやけてなかったよな? それに俺に声をかけてくる人間なんていたのか? っていうか誰だよこの人?

 雪乃と陽乃さんの講義はあるが、俺は空き時間ともあって、適当に時間をつぶそうと図書館に向かおうとしていた。そんなおりに聞き覚えがない女性の声が俺を呼びとめる。

 年の感じは、20代半ばか、いやもう少し若いか。学生って感じでもないし・・・と、やや警戒気味に振り返りその女を観察する。そこにはグレーのスーツを着込んだ背が高くスレンダーな女が立っていた。

 背は170は超えており、几帳面そうに身なりを整えている。しっかりとまとめられた髪型とよれがないネクタイが几帳面さをより印象付ける。ただ、細いメタルフレームに納められた薄いレンズからのぞかせる目からは緊張している様子もうかがえた。

 なんというか、真面目な事務員か図書館司書って感じか。でも、そんな人間が俺にようなんかあるわけもないし、人違いか? いや、名前呼ばれたし、とりあえず返事だけでもしとくか。

 

「はい。そうですけど」

 

 俺の警戒心も伝わったらしく、すぐさまその女性は簡潔に自己紹介を始める。けっしておどおどした感じはなく、はっきりとした口調が人前で話すことに場馴れしていることを示していた。

 

「私は1年生のDクラスで英語を教えている弥生夕といいます。比企谷君の事はDクラスの生徒から聞きました」

 

「そうですか」

 

 もしかして、やばい? 余計な事をしてくれたなって、釘をさしにきちゃったのか? となるとこれは闇討ち? いやいやまだ夜じゃないし、それに闇討ちだったら名のったりしないだろ。それに俺が悪いことをしたわけじゃない。ただこの人にだって先生としてのプライドもあるわけで、そうなるとちょっとやばいかも・・・・・・。

 俺は一歩足を後ろに引きたい気持ちを押しとどめる。しかし、それでも体は正直なもので、嫌な汗が噴き出てきた。

 

「そんなに警戒しなくても。私はお礼を言いに来たんですよ」

 

 俺の警戒心を読みとって先回りしてくる。柔らかい頬笑みには苦笑いが含みでる。俺が警戒心丸出しだったせいもあるけれど、この弥生夕という人は機微には敏感なのかもしれない。

 そうなるとDクラスの連中の態度の変化もも丸わかりだったのだろう。そもそもいきなりクラス全体の成績が変化したら怪しいと思うものだ。また、裏では冷血・サディスト・鬼畜・役立たずなんて陰口を言われていることも知っていたはずだ。

 Dクラスの連中も陰口をたたいているはずだが、それについては俺は注意さえしてもいない。

 人の印象は、第一印象が勝負。俺があれこれいっても評価は覆りはしない。覆るとしたら、真相を知って、なおかつ、そいつらが相手に歩み寄ったときのみだ。

 

「お礼ですか? 俺はなにもやってませんよ。小テストの点が良くなったのも、あいつらが勉強をした結果です。俺がテストの点をとれるようにしたわけじゃないです」

 

 弥生先生は俺の発言を聞くと、目を丸くしてから小さく笑いを洩らす。可愛らしく笑う人だ。この人ほんとうに年上の先生かよ。たしか准教授だったよな? となると平塚先生と同じくらいだよな・・・・・・。見えない。ぜんっぜんこの二人が同世代だなんて思えない。陽乃さんの同級生でも通じてしまいそうだ。・・・・・・えっと、一応平塚先生ごめんなさい。

 きっと俺の心の呟きなんて知られないだろうけど、でも、謝っておかないと怖いのはなんでだろう・・・。

 

「笑ってしまってごめんなさい。いや、ね。Dクラスの子たちが言う通りの人だなと思って」

 

「どうせ冗談が含んだ印象ですよ」

 

「そうかな。結構的を射てる内容でしたよ」

 

「そうですか?」

 

「ええ、今会ってみてびっくりしたほどですからね。・・・今日はもう帰りですか?」

 

 どこか探るような瞳に、俺はちょっとだけきょどってしまう。

 ふつうなら、っていうか雪乃や由比ヶ浜あたりなら冷たくも温かく笑うだろう俺の不審行動に、この人は慈愛というか見守られているとさえ思えてしまう。だから、嫌味な感じというか尖った感情がまったく感じ取ることができなかった。

 

「いいえ。連れが今の時間の講義があるんで、それが終わるまで待ってから帰る予定です」

 

 弥生准教授は年季が入ったシルバーの腕時計を確認すると、笑顔で俺に提案してくる。

 

「それだと、しばらく時間があるってことですよね。食事でもどうですか?」

 

「構いませんけど」

 

 どういうわけか警戒心が解けてしまった。どうしてこんな誘いに乗ってしまったかなんて理解できない。わかっている事こと言えば、ちょうど小腹がすいていることくらいだ。夕食までにはまたお腹もすいているだろうし、雪乃の料理には影響ないはずだ。

 それに、むげに断ってDクラスの連中に悪い影響を与えるのもよくないだろう。ただ、俺の弥生准教授に対する第一印象からすると、その可能性は低い。どうも人の悪口なんていうようには見えなかった。

 

「それでは行きましょうか。美味しいラーメン屋がこの近くにあるんですよ。もしかしたら比企谷君も知っているラーメン屋かもしれませんね」

 

 俺は弥生准教授の横にならび歩幅を合わせる。

 大学周辺にもラーメン屋はいくつかあるわけで、俺が行ったことがあるラーメン屋である可能性は高かった。どれもそこそこ以上の味だったはずだし、どこへ行っても大丈夫だろう。

 たしか行ってない店もあったよな。行くとしても、できるなら行ってない店の方がいいか。初めての店に一人でいくのもいいが、誰か知っている人にお勧めを聞くのも悪くはない。

 俺は一人まだ見ぬラーメン店への幻想を抱き心躍らせる。

 でもなぁ、初めて会った人間に、しかも男子生徒相手にラーメン屋って、どこの平塚先生だよ。

 俺は弥生准教授に連れられ正門を通り抜ける。前の講義が終わってからしばらく時間がたっていることもあり、学生の姿はちらほらしか見受けられなかった。別に准教授と一緒のところを誰かに見られてもかまわないが、陽乃さんのストーカー騒動もあって、人の目を気にしてしまう。

 いや、まじだって。いくら綺麗な人と歩いて若干浮かれ気味でいるからといって、それだけで浮気認定されるわけでもあるまい。でもどうしてこんなにも後ろめたい気持ちが這い出てきてしまうのだろうか。

 

「比企谷君。Dクラスの子たちを見てどう思いましたか?」

 

 突然の質問に身構えてしまう。煩悩とラーメン脳を頭の隅に追いやり、目の前の問題に意識を向けた。Dクラスの担当講師に会った時点で聞かれる可能性が高い質問ではあると警戒だけはしている。

 そりゃあいきなり小テストの点数が上がったら、俺でも気になるもんだ。

 

「そうですね・・・・・・・」

 

 俺は一呼吸置き、弥生准教授の様子を観察するが、俺を警戒するそぶりはない。

 ここは馬鹿正直に答えておくべきか。

 

「もともと頭がいい生徒ではあると思ってはいましたよ。今までは点数が落ち込みはしていましたけど、この大学に入れた時点で優秀なのは証明されていますから」

 

「それは、同じ大学に在籍している自分も優秀だといいたいわけですか?」

 

「いや、そういうわけでは」

 

 俺もあいつらと同じ大学だし、俺の言い方だと俺も優秀だって自慢になってしまう。でも、そういう事を言いたいわけじゃないって弥生准教授もわかっているはず。

 だからこそ思いがけない返答に慌ててしまう。

 

「すみません。意地悪な事を言ってしまって」

 

「いえ、大丈夫です」

 

「私も比企谷君の意見に賛成です。大学受験で燃え尽きてしまう生徒もいますが、Dクラスの子達は少し事情が違いますね。中にはいるでしょうけど、それでも少数派でしょうね」

 

「はぁ・・・・・・・」

 

 この人が何を言いたいのか注意深く探る。この人は遠くを見つめ、まるで今までを振り返っている気がした。今年のDクラスの生徒は十数人いる。それが毎年新入性が入って来て、毎年Dクラスに振り分けれれる奴らがいて、それが何年も続ければDクラス出身者もそれだけ増えていく。

 きっと、今までも毎年同じように落ちこぼれが生産される事が繰り返されてきたに違いない。

 

「うちの大学は全国クラスで見ても優秀な方だと思います。だから、全国から優秀な子たちが毎年入ってきます。きっとその子たちは地元の高校では優秀な成績だったのでしょうね。クラスメイトからは羨ましがられたり、尊敬されたりしてたのでしょう。先生達からの信頼もあったはずです。でも、そういう子達が一か所に集められてしまったら、優秀な子達だけで順位が付けられてしまい、今までトップ集団であっても、いきなり下位グループに落とされてしまう子達が必ず出てしまいます」

 

「そうですね」

 

 俺と同じことを考えていたことに驚きを覚える。

 いや、そうでもないか。当然のことだ。この人は毎年その光景を見て実感してきている。俺よりも深く関わってしまっている。

 

「今まで挫折を知らなかった子達は、打たれ弱い。一度沈んでいってしまったら、浮かび上がるまで時間がかかってしまう。大学を卒業するまでかかってしまう子もいますし、卒業しても無理な子もいる。でも、どの子たちにも共通して言えることは、大学で勉強している間に立ち上がれる子は極めて少ないということです。浮かび上がろうにも、化け物のような才能の持ち主が毎年入学してきますから、その子たちには勝てないって諦めてしまうのでしょうね。勉強は勝ち負けだけではないというのに」

 

「理屈からすればそういう考えが正しいのでしょうね。でも、理屈ではわかっていても人間だれしも強くはありませんし、簡単には浮かび上がれませんよ」

 

「そうでしょうね。私も一人だったら浮かび上がれなかったでしょうね」

 

 浮かび上がれなかった? うちの大学で、准教授英にまでなったこの人が挫折してるのか?

 

「そんなに驚いた顔しないでくださいよ。私も長く生きていますから、挫折くらい何度もしています」

 

「すみません」

 

「いいんですけどね。私もね、うちの大学のDクラス出身なんです」

 

「はっ?」

 

 俺は盛大に驚きの声をあげてしまった。近くにいたうちの大学生らしき人物たちは脚を鈍らせてから俺の事を一瞬だけ怪訝そうに見つめ、そして再度歩きを速める。

 一方俺の声を間近で聞いた弥生准教授は無邪気に俺の顔を見て笑っている。俺の反応が予想通りだったのか、俺の顔が変だったのか、それとも他の要因かはわからないけれど、弥生准教授は俺の反応に満足している感じであった。

 

「ふつうは比企谷君のような反応をしますよね。私だって大学に残って准教授になってるなんて夢にも思っていませんでしたし。でもね、私の場合は挫折しても手を差し伸べてくれた友人がいたんです。彼女はAクラスで、どの教科であっても優秀でした。今は就職して、出世街道まっしぐらって感じですかね。勉強だけではなく人当たりもよかったですし、彼女ならどこであってもうまくやっていけると思いますよ」

 

「そうでしょうね」

 

 俺もそういう奴を知ってるが、そういう奴はどこであっても根をしっかり張り、ぐいぐいと勝手に成長していくはずだ。

 

「だから私は、自分がDクラスのときそうだったように、今のDクラスの生徒たちにも再び立ち上がって勉強を楽しんでもらいたいんです」

 

 やはり人からの噂はあてにならない。だって、この人はDクラスの為を思って行動していた。きっときつくあたっていたのは彼らに頑張ってほしいからだろう。きつく当たるだけではなく、フレンドリーに接してみたり、講義内容も初歩からやったりと、色々と思考錯誤を繰り返してたのかもしれない。

 だけど、弥生准教授だけが頑張ったとしても、人は簡単には変われない。生徒本人が変わりたいと望み、そして正しい行動しなければ変わることなんかできやしない。

 おそらく弥生准教授だけがこのまま生徒の手を引っ張り続けていたならば、弥生先生は重みに耐えられなくなっていつかは弥生准教授まで引っ張られて倒れてしまい、全員這いつくばる事になってしまったかもしれない。

 

「だからですね、本当の事をいうと、比企谷君がDクラスの子たちを立ち直らせてくれたのを見て、悔しくもあったんですよ。だって、私が何年かけてもできなかったことを数週間で解決してしまったのですから」

 

「俺は彼らに動いてもらっただけですよ。動かざるをえない状態に追いやっただけです。そして一度動きだしてしまえば、あとは勝手に動いてくれているだけです」

 

「それをやるのが難しいんですけどね」

 

 弥生先生は頭をかきつつ、あきれ顔をみせる。

 だけど、そんなこと言われても、俺が成功したのも運があったからとしかいえない。俺も勝算があってやったわけでもない。俺が思い付いた方法が、たまたま当てはまっただけ。

 だから、こう言うしかない。

 

「運が良かったんですよ」

 

「そうですか? それでもあなたには人を引きよせる魅力があったことだけはたしかですよ」

 

「そうだったらいいんですけどね。むしろ存在さえ忘れられるほどなんですが」

 

「失敗続きの私が言っても、説得力に欠けますか」

 

 しかめっ面を作っているようだが、どうしても可愛らしく思えてしまう。これでも年上のはずなのに、・・・・・・もしかして俺って年上に弱いとか? いやいや、サンプルが陽乃さんと平塚先生しか身の周りにいないからどうも判断が困るな。だって、あの二人って普通とはかけ離れた存在だし。あれと同じサンプルを見つける方が難しすぎる。

 

「そんなことは・・・・・・・」

 

「いいですって。・・・・・・あっ、ここですよ。私の行きつけのラーメン屋は」

 

 目の前には見覚えがある店舗がそびえている。それもそのはずだ。なにせ俺も平塚先生とよくこの店に来ているのだから。俺は弥生准教授との会話に集中しまくってて気がつかなかったけど、歩き慣れた道ならば違和感もなく歩けるわけだよな。

 店ののれんには総武家と書かれていた。

 

「もしかして、比企谷君もここ知っていましたか?」

 

「あぁ、はい。よく来ています」

 

「そうですか。それはよかった。私もここの大ファンでしてね。でも、今度の道路拡張工事でこのビルも取り壊しになってしまい、店も閉店しなくてはならなくなり、とても残念ですね」

 

「それを聞いたときは急なことで驚きましたよ」

 

 今でも覚えているあの感覚。自分は無力だって思い知らされる脱力感。人生思い通りにならないことが多々あるが、大切なものほど失った後にたくさん後悔する。

 過去を振り返らないなんて無理だ。きっと何度も思い出してしまう。時間がたつにつれて記憶が薄れてはいくけれど、いつかまた何かのきっかけで鮮明に思い出し、より深く傷つく。

 

「それにしても、この辺の再開発は大規模ですね。ここの道路だけじゃなくて隣の道路のほうも拡張工事らしいですから」

 

「えっ? 向こうの道路の拡張工事するんですか」

 

「ああ、これはまだ内密にしておいてほしいんだけど、いいかな?」

 

「あ、はい」

 

「私の同級生に議員の秘書さんをやってる人がいましてね。この前食事をしたときに聞いたんですよ。彼女も議員の秘書をやってるのだから、秘密にしなければいけないこともあるのでしょうに・・・。私みたいなしがない大学勤めに話しても実害はありませんけどね」

 

 弥生准教授は苦笑いを浮かべる。おそらく酒が入ってしまうと、本当に言ってはいけない事までも話してしまっているのかもしれない。その辺は推測にすぎないけれど、もしかしたら、それだけ弥生准教授が信用できる人ってことなのかもしれないとプラス査定してしまった。

 

「その辺は弥生准教授を信じてるんじゃないですか。それでも話す方もどうかと思いますけど」

 

「そうですよね。今度きつく言っておきます」

 

「あの・・・・・・」

 

「なんでしょう?」

 

「拡張工事って、最初から両方ともする予定だったんですか?」

 

「違いますよ。正確に言いますと、ここの道路の拡張工事は既に公示されていますので秘密でもなんでもないんですよ。ただ、向こう側の道路の方が現在交渉中といいますか、内密にことを進めているらしいです」

 

「そうなんですか」

 

「あっ、でも、比企谷君も秘密でお願いしますよ」

 

「はい」

 

 俺の返事を見届けると、食券を2枚購入して弥生准教授はのれんをくぐって店内に入っていく。

 俺は弥生准教授の話を一人でじっくりと検証してみたい気持ちが強かったが、中で一人弥生准教授を待たせるわけにもいかない。はやる気持ちを抑え、俺は後に続く。

 やはり裏で何か動いているのかもしれない。公共工事ならば、雪乃の親父さんに聞けば何かわかるか? でも、今は目の前のラーメンだな。

 店内に充満するラーメンの臭いの誘惑には勝てる気がしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ、そんなことがあったの。私は弥生准教授の講義とったことなかったけど、結構よさそうな人だったのね」

 

 ソファーに深く身を沈めていた陽乃さんは興味深そうに俺の話に前のめりになってくる。

 弥生先生とラーメンと食べた後、俺は急ぎ陽乃さんと雪乃がいる待ち合わせの場所に戻った。時間はたっぷりあったはずなのに、時間を忘れ弥生准教授との会話に夢中になっていた。もちろん拡張工事の話をもっと詳細に聞きたかったが、最初に聞いた情報異常の事は聞く事が出来なかった。そもそも弥生准教授もこれ以上のことを知らなかったわけだが。

 俺達は工事の事よりも勉強論というか、大学の実情や問題点の話で盛り上がってしまった。俺は将来先生になりたいわけでも大学に残りたいわけでもないが、弥生准教授の人柄に強く関心を持ってしまっていた。

 人の縁というものは不思議なものだ。些細なきっかけで思いがけない縁と巡り合ってしまう。それが今回弥生先生と巡り合ったわけだ。

 そう考えて過去にさかのぼると、雪乃に会わせてくれた平塚先生には一生頭が上がらないかもなと、感謝なんかするはずもないのに思いだしてしまった。

 

「それで、拡張工事についてお義父さんに聞いてもらえませんか?」

 

「それは構わないけど、大したことは聞けないと思うわよ」

 

「姉さん、私からもお願いするわ」

 

 雪乃は紅茶をトレーに載せてソファーに戻ってくる。リビングにはうっすらと紅茶のフルーティーな香りが囁きだす。コーヒーのような強烈な香りってわけでもないが、優しい香りが心を緩める。

 陽乃さんは受け取った紅茶を満足そうに一口飲むと、いつもの頼れる姉の顔をみせる。陽乃さんのふさぎ込んだ精神面は一時はどうなることかと心配はしていたが、最近は明るさを取り戻しつつある。

 やはり犯人の目星がついたことが大きいかもしれない。それでも決定打にかけるのがつらいところだが、今では味方も増えた。それがなによりも心強く思えた。

 だから根拠もないのにこう思える。

 きっとうまくいく。

 そう思えてるほど気持ちが軽くなって来ていた。

 

「善処はするけど、あまり期待しないでよ。お父さんったら、仕事の事はあまり話してくれないのよね」

 

「そこをなんとか頑張ってください」

 

「わかったわ。比企谷君には迷惑かけてるものね」

 

「迷惑なんかじゃないですよ。陽乃さんだからこそ手を貸しているだけです」

 

「そう?」

 

 そんなに驚くほど俺が手を貸すのが意外な事か? わけがわからん。

 とりあえず雪乃に参考意見を聞こうと視線を向けると、少し残念そうな笑顔を見せ、目を伏せる。

 自分で考えろってことかよ。まあいい。陽乃さんのことを深く考えても答えなんて見つからないしな。今はわかりそうな所から攻めるべきか。

 とりあえず拡張工事の裏事情を調べたところで総武家が助かるとは思えない。だけど、急な立ち退きだ。きっと何か裏で動いているはずだ。わずかな望みかもしれないけど、これも弥生准教授からの縁だ。

 当たってみて、損はないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

7月5日 木曜日

 

 

 

 先日弥生准教授からテストの点数具合を聞いてはいたが、Dクラスの連中があまりにも好調すぎて俺でも驚いてしまう。弥生准教授が暗躍している俺の事を気になって会いに来た気持ちもわからなくもない。

 短期間でここまで改善するとは誰も思っていなかったはずだ。

 だからか俺は朝からすこぶる機嫌がよかった。こんなに晴れ晴れとした朝はひさしぶりだと思える。英語の勉強会もそうだが、今朝陽乃さんを迎えに行くと、昨日のお願いの解答を聞くことができた。

 それによると、総武家に面している道路を計画したのは親父さんとは別グループのものらしい。それに対抗して打ち出した計画が、親父さんが所属するグループが推し進めている隣の道路の拡張工事だったようだ。

 素人の俺としては、隣接する道路を二つも拡張しても税金の無駄遣いだって思えてしまうが、実情としては総武家の方の道路は通学路、主に人の通りがメインの工事らしい。そして、親父さんの方の道路は、トラックや車などの交通渋滞を改善する為のものだとか。

 どちらも必要な工事だとは思うけど、やはりそこには利権問題が絡まっていた。その辺は推測が含んでしまうが、所属するグループの議員の利益になるように動いていることはたしかである。もちろん陽乃さんであっても親父さんからお金がらみの事は聞き出せはしなかったが、あの道路には雪ノ下の企業のビルことだけは調べる事ができた。

 あとでこっそり雪乃が教えてくれたことだが、陽乃さんはそのとき感情をあらわにしたらしい。身内のちょっと汚い裏事情。それは陽乃さんであっても隠したいはずだけど、俺は親父さんが汚い大人だとは思ってはいない。

 それはかなしい事に俺が一歩大人に近づいたことなのかもしれないが、企業の経営者としての判断としては間違いではないと思えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

7月6日 金曜日

 

 

 

 今日も陽乃さんを自宅まで送り届けるために雪ノ下邸の目の前まで車で送り届ける。清掃が行き届いた門の前に車を止め、あたりに人が潜んでいないか確かめる。閑静な住宅街は人通りも少なく、人の気配があまりない。けれど見えないところに隠れているのが今までのパターンであり、こちらから見えないからといって安心などできないのが歯がゆかった。

 石川の話によれば、陽乃SFCは陽乃さんを観察することが目的なのだけれど、その本来の目的が今後も続けられるかなんて保証なんてない。そもそも人の欲望なんてものは時間と共に増大していき、歯止めがきかなくなるのが常である。だからこそ俺達は決断した。その決断が正しいかなんて俺にも、そして陽乃さんにもわからない。

 しかし、いつまでも後手に回って、本当の危機が迫ってくるまで待つなんて事は陽乃さんらしくはないのだから、俺達の決断はきっと正しいのだろう。

 

「降りても大丈夫みたいですよ」

 

 俺の声は届いているはずなのに陽乃さんは車のドアを開けようとはしなかった。べつに俺にドアを開けてくれとか、家の中から執事やメイドがやってくのを待っているわけでもない。

 なにか俺や雪乃に話したい事があって、まだ車内に居続ける様子である。いつもの陽乃さんらしくはないその様子から伺える。それは雪乃も同感らしいが、雪乃は俺とは違って自分から話を進める気ではあったが。

 

「これ以上姉さんが気に病む必要はないわ。明日の事は各自の意思で参加を決めたことで、姉さんが強要したわけではないわ」

 

「わかってる」

 

 バックミラーに映る陽乃さんは、俯いているためにその表情を読み取れない。しかも、返ってきたきた返事も覇気を感じられず、迷いが残っている事を表していた。だからもしかしたら雪乃に返事をしたのではなく、何度も心の中で繰り返し自問していたものに返事をしただけかもなと思ってもしまう。

 これは陽乃さんだけが当てはまるわけではなく、俺や雪乃についてもあてはまり、同じような自問自答を繰り返してきた。

 

「すべては明日決着がつくわ。もしうまくいかなかったとしたら、それはすでに私たちだけで解決できる範ちゅうを通りすぎていただけだわ。それならば母も表立った行動に移す踏ん切りがつくでしょうし」

 

 陽乃さんは返事をしない。俺も雪乃の指摘について、前半部分については賛成だ。だが、俺も、そして、陽乃さんも、後半部分については信じることができなかった。おそらくという言葉を使う必要もなく、確実にあの女帝は行動には移さない。

 これが雪ノ下家全体を揺るがす事件や傷害事件以上の暴力に格上げしない限りは、雪ノ下の娘である以上、我慢すべき範ちゅうであるとみなされてしまうはずだ。

 だから、このストーカー問題を解決したいのならば、俺達が行動せねば解決できない。しかも俺達が解決できるレベルを通り越していたとしても、それは俺達の問題であって、女帝が必ず解決しなければいけないレベルと同一であるとはいえなかった。

 

「陽乃さんが顔をあげていないと、みんなが不安になってしまいますよ。嘘でもいいから笑っていて下さい」

 

 俺は陽乃さんに「雪ノ下陽乃」であることを強要してしまう。それが陽乃さんにとって慣れ親しんだ「雪ノ下陽乃」であったとしても、そこに陽乃さんの本心とは乖離があったとしても、今は「雪ノ下陽乃」であってもらわなければならなかった。

 

「そうね。私は雪ノ下陽乃だもんね」

 

 顔をあげ、ふてぶてしく宣言する陽乃さんに、俺はなんて声をかけるべきだろうか。ありがとう、だろうか。それもと、すみません、か。・・・いや、どちらも俺達らしくない。だったら・・・。

 

「俺は、その雪ノ下陽乃が知っている比企谷八幡ですから、適当にこき使ってくれても構いませんよ。きっと不平をのたうちまくりながらも、あなたの側にいるはずです」

 

 柄にもない事を言ってしまったと、全てを言いきった後に気がつき体温が上昇していく。ちょっとどころか、かなりきざすぎる。車内でよかった。これが面と向かった場所だったら、一目散に逃げていたかもしれない。・・・絶対雪乃は逃がさないように手を放してはくれないはずだが。

 

「そうね・・・、側にいるだけでいいわ」

 

 いくら恥ずかしい事を言ってしまって頭がショート寸前であろうとも、陽乃さんの言葉を聞き違えはしないはずだった。だけど、どこか違和感を感じずにはいられない。陽乃さんの言葉なのだろうけど、どこか雰囲気が違うような気がしてしまう。だから、その違和感を確かめようと俺は後部座席を見ようと振りかえる。しかし、そこには陽乃さんはいなかった。

 

「明日は頼むわね」

 

 そう言い残し、陽乃さんは車から降りてしまう。

 これ以上の追及は無理か。それよりも明日だな。俺はうやむやになった心の一部に封をして、いつものように別れの挨拶を返した。

 

 

 

 

 

 

 

7月7日 土曜日

 

 

 

 7月7日、七夕。今日は天候にも恵まれ、各地でイベントが行われるのだろう。街のあちらこちらには七夕特有の飾りがにぎやかになびいている。イベント開催者が毎年新しいのを買ってるのならば、無駄な遣いじゃないかって捻くれてた意見を思い浮かべてしまう。また、去年のを使っているのなら、ほこりがかぶったものを頭上につるすなよ、とこれまた皮肉を言ってしまう。

 まあ、どちらにせよ邪魔なディスプレイだって思うのだが、七夕を感じるには見慣れ過ぎた光景が広がっていた。

 駅前もひときわ盛大な七夕飾りと笹が飾られ、否応にも今日が七夕だと実感させられる。浴衣を着飾った女性たちも多くいて、駅の中へと消えていく。きっと今日の為に用意した浴衣を誉めあったりしているのだろう。

 街はいつもより活気づき、落ち着かない雰囲気を醸し出す。しかし、俺達が発する落ち着かない雰囲気は意味が違う。皆堅い表情をしていた。

 

「いよいよだね」

 

 場の雰囲気に敏感な由比ヶ浜は皆を和ませようとあれこれ画策するが、全てむなしく霧散していく。なにせ、一回限りしか効果がない計画を実行する日が来てしまったのだから。今日の為に考えうる手は打ってきたし、多方面の協力も取り付けてきた。陽乃さんや雪乃だけではなく、ここにはDクラスのメンツも勢ぞろいしている。

 本当に他にやれることはなかったのか? あとで後悔するのは自分なんだぞ、と何度も自問してきたけれど、効果はない。雪乃にしたって、陽乃さんであっても、万能ではない。

 それはこの数日間で痛みを伴って実感してきたことでもある。人は失敗するからこそ、成長する。いや、ちがう。失敗して、そこから這い上がるからこそ成長する。這いつくばったままの奴は、それまでだ。

 だけど、一人でなんでもやろうだなんて子供じみた考えはもはや俺はもってはいない。

 高校時代の俺が今の俺の考えを知ったら笑い転げるかもしれないが、事実だからしょうがない。自分の限界を知っているはずの高校時代の俺であっても、自分の限界を知った上で行動している高校時代の俺であったとしても、みっともなく這いつくばりながらも懸命に立ち上がろうとしている奴の方が強いって、今の俺の事を共感してくれるだろう。

 だって、かっこいいだろ? 弥生准教授やDクラスの連中。一度は泥水にまみれながらも、今は懸命に前に突き進んでいる。まあ、俺に手を貸してくれているっていう個人的な理由も加点理由かもしれないけど、それは、まああれだ。人の印象だからしょうがない。

 それに陽乃さん。なんでもできるスーパーウーマンって勝手に思ってたけど、それも間違いであった。笑いながらトラブルをぶん投げてくるはた迷惑な人っていう強烈な印象もこびり付いているけれど、それは陽乃さんの一つの側面でしかない。この数日間で俺が勝手に抱いた印象もほんの少しの陽乃さんのでしかなく、きっと俺が知らない一面がまだたくさんあるのだろう。

 そして、陽乃さんもやっぱり女の子であった。俺はなんの役に立ちもしない男かもしれない。それでも守ってあげたいと思ってしまう。陽乃さんがそういう普通すぎる女の子でもあったんだって気がついてしまった。

 その普通すぎる女の子の笑顔を取り戻せるかどうかがかかった七夕祭り。準備は整っている。あとは臨機応変にやっていくしかない。

 

「準備はいいか」

 

「たぶん大丈夫」

 

「たぶんかよ」

 

「由比ヶ浜さんのサポートは私がするのだから問題ないわ」

 

「ゆきのん」

 

 由比ヶ浜は雪乃の腕をとりじゃれつくが、最近雪乃はそれを嫌そうにはしない。慣れかもしれないけど、雪乃も丸くなったものだ。

 作戦前の緊張を和ませるゆりゆりしい光景を堪能したところで、今日の主役たる陽乃さんが登場する。ま、由比ヶ浜は雪乃と一緒に行動する予定だから問題ないか。

 むしろ雪乃が無理をしないように由比ヶ浜が見張ってると言ってもいいほどだけど。

 

「みんな、今日はほんとうにありがとう。感謝しきれないほどのことをこれからしてもらうけど、いつかきっとこの恩は返します」

 

俺、雪乃、由比ヶ浜。それに、Dクラスの連中。石川は俺達と一緒のところを他のストーカー連中に見られるとやばいので別行動中だけど、みんな頼もしい連中だ。

 

「そういうしんみりする言葉は全てが終わってからにしてくださいよ」

 

「姉さんらしくないわ」

 

「そうですよ。もっとこう、元気になるような檄をしちゃってください」

 

「そう? だったら・・・・・・、私の雪乃ちゃんに害をなそうとする連中は一人残らず皆殺しよ!」

 

 いや、まあ、雪乃も危ない立場かもしれないけど、ちょっと違わなくない? 陽乃さんの隠れシスコンが公になっただけで、みんなどんひきじゃねえか。雪乃なんかは、他人のふりしてるぞ。

 今さらだから俺はなにも言わないけどよ・・・・・・・。

 

「なにかあったらすぐに連絡してくれ。危険だと思ったら逃げていい。みんなの安全が第一だけど、今日だけはちょっとだけ力を貸してくれると助かる。だから今日一日、俺達に力を貸してくれ」

 

 あれ? 俺、けっこういいこと言ったよね? でも、なに?この静けさ。

 雪乃や陽乃さんに助けを求めて視線をむけると、なんだか意地悪そうな笑みさえ浮かべている。雪乃に関してはちょっとばかし同情の色も入っている事が救いだろうか。

 由比ヶ浜にいたっては失礼にも笑いをこらえようと悶え苦しんでいる。こいつこんな性格悪かったか? いや、いいか。それよりも俺の滑りまくった大演説、だれか消火してくれよ。

 やはり慣れないことはすべきじゃねぇなあとDクラスの連中の顔を見回すと、各々表情は違うけれど、どうにか俺の思いは届いてはいたらしい。

 腕を組んで場の雰囲気を満喫している者、ニヤニヤ笑いながらも頼もしい目をしている者、頷く者、手を取り合い緊張を共有している者。

 人それぞれリアクションが違うが、なんとも頼もしいことか。

 

「さ、みんな打ち合わせ通り、配置に着く時間ね。ちょっと痛い事言う子もいたけれど、それは寛大な目で見てくれると助かるわ」

 

 そう陽乃さんが身も蓋もないことをいうと、皆何故だか失笑を洩らす。俺って、そんなに恥ずかしい事いったか?

 

「じゃあ、みんなよろしくね」

 

 陽乃さんが作戦開始を宣言すると、皆それぞれの場所へと散り始める。ただ、散っていく前に、俺の肩やら手を叩いてから持ち場へと向かってゆく。

 それは、これから戦いにいく戦士の別れのあいさつのようであり、なんとも頼もしく、俺に勇気を奮い立たせる気もした・・・・・・なんて、どっかのワンフレーズを思い出す。ちょっとはかっこつけた言葉を言ったかいもあったかな、と小説のワンシーンのような光景に思いがけず身が震えてしまった。

 

 

 

 時計の針は午後0時35分を示している。陽乃さんが安達と待ち合わせの約束をした時間まであと5分と迫っている。けれど安達が来る気配などは感じられないし、到着が遅くなるというメールもきてはいない。

 俺が雪乃と待ち合わせをして遅れるとなれば、何も連絡をしないなんて論外だ。しかも、約束の時間に間に合うとしてもギリギリの時間になりそうな時も事前連絡が絶対。やっぱ連絡は大切だよねぇ・・・、雪乃に調教されたわけではないのよ。・・・きっと。

 陽乃さんから聞かされている安達の性格からすると、安達はいつも待ち合わせ時間からわずかに遅れてくるらしい。よくて時間ちょうどくらいで、遅れてきても悪びれもしない態度にみんないつも内心イラっとくるとのこと。

 それでも陽乃さんのことだからにこやかに出迎えるのだろう。裏事情を知らないって、ほんとに幸せなことで。

 でも、陽乃さんがストーカーの事で相談にのってもらっているお礼として映画に誘いだしたのだから、いつもよりは若干早くは来るかもしれないと内心考えてはいた。誰もが振り向く美人に映画に誘ってもらったんだ。うきうきしない男はいない。但し、相手の性格を知っている場合は除く。

 普通の男連中なら前日の夜は早めに寝ようとするけど、なかなか寝付けることができなくなってしまうだろう。それでも目覚ましより早く目が覚めてしまうあたりは、人間よくできているものだ。そして約束の時間までは十分すぎる時間があったとしても、家にいてもそわそわしてしまい早めに家を出てしまうかもしれない。そんなことをしても早く待ち合わせ場所についてしまうだけで、今度は早く到着しすぎるのではないかとか考えだしてしまって、余計な悩み事さえ増えてしまう。

 それが俺が想像する一般的なデート慣れしていない男だが、俺はそんな男連中とは違う。もし、初めて誘われたデートならば、相手が待ち合わせ場所に来ているかをまず確認する。そして、周りにクラスメイトなどが潜伏していないかを用心深く観察することだろう。なにせ、どっきりの可能性が非常に高い。だから、用心深く行動してもしきれないほど用心したほうがいいに決まってるじゃないか。一応どっきりである場合の返しの言葉もいくつか考えておき、翌日学校で話題に上がっても俺は空気になって静かに放課後まで過ごすことになるだけだ。

 被害は最小限に。でも、せっかく女の子から誘われたんだから、罠であっても行きたいってものなんだよ。デートという未知なる憧れにあこがれて何が悪い。

 さて、今回デートという名の憧れで罠をはった陽乃さんはというと、手首を返し腕時計で時間を確認していた。手首で揺れる細いシルバーチェーンに繋がった小さな腕時計は、細い腕をより細くよりか弱く演出してる。今一度陽乃さんを観察してみると、ロールアップしたデニムに白のハイカットスニーカーは、初めてのデートの服装としては男の期待を裏切るものかもしれない。たしかに今日はストーカーとの決戦だし、動きやすさを考慮すれば当然の選択といえば当然だ。けれど、夏空のような真っ青の袖なしのカットソーとクリーム色の透かし編みのカーディガンの組み合わせは女性らしい輪郭を挑発的に剥き出しにし、その色香は周りにいる男性諸君の視線を集めてしまっていた。

 その男性諸君の一人に数えられそうになってしまった俺は首を振り、陽乃さんと同じように時間を確認すると、時は0時41分。

 秒針がもうする頂上に戻ってきそうだからほぼ42分か。安達はデートだというのに、いつもと同じペースで、しかも遅刻して登場かよ。それとも、俺と同じように警戒しているのか?

 と、少し不安になってきたところで安達がついに登場する。

 不安にさせるなって。せっかくデートなんだから、早く来いよと悪態をついたのは俺だけじゃないはずよ。とくに、あとで女性陣からの意見を聞いてみたいかも。時間にルーズな点は今の時点でマイナス評価だろうし、ここから挽回できるのかが気になるところだ。第一印象じゃないけど、出だしは大事だよねぇ・・・。

 そう考えると、女子会トークなんかで自分のデートを採点なんかされた日には当分寝込みそうだな・・・・・・。雪乃は由比ヶ浜であってもデートの事を詳しく話すとは思えないけど、ちょっと怖いかも。あっ・・・・・、今度雪乃にデートの不満点とか、日常の不満点とか聞いておこうかな・・・・・・・・と気弱になったりなってないとか。

 

「お待たせぇ。今日は七夕だし、人が多くてまいっちゃうよな」

 

「そうね。七夕祭りとかあるし、しょうがないんじゃないかな」

 

「浴衣女子がわんさかいちゃって、目がいっちゃってさ。俺もおっさんになってきちゃったかもって思うとすっげえ切ないわ。でも、綺麗なものに目が行くのは自然な事だし、逆に考えると、綺麗なものをみて感動しない方が枯れちゃったって判断できるか」

 

「そう、かもしれないわね・・・・・」

 

 おわぁ~、めっちゃ陽乃さんひいてないか? 確かに七夕だし浴衣来てる女性が多いけど、これからデートする相手の事も考えろよって男の俺でも思ってしまう。

 たしかに今日は映画だし、陽乃さんも浴衣は着てこないけど、他の女の事を誉めるのはやばいだろうに。

 ただ、それさえも気にしないのが安達クオリティー。我が道を行くつわものだった。

 

「はい、映画のチケット。今日はお礼だし、私のおごりだから」

 

「あっ、サンキュ~」

 

 安達はチケットを受け取ると、一人映画館の中に入っていく。陽乃さんも俺に目配せを送ると、その後を追いかけるように中に入っていった。

 中では既にDクラスの生徒のうち4人が二手に分かれて待機中のはずだ。席は後ろの両隅を抑えてると連絡があったから、これで監視は万全。あとで遊撃部隊として、俺が中に入っていけば体制は整う。

 それと、映画館の外のことは雪乃達に任せておけば十分だろう。

 まっ、映画館の中の仕事なんて、とりあえず監視するだけだし、楽なもんだよな。

 陽乃さんたちの少し後ろに座らないといけないんで陽乃さんがチケットを買った後に俺も自分のチケットを買ったが、リバイバル上映らしいんで席もたいして埋まってはいない。なんか南極基地に行かされた料理人がひたすら料理しまくる映画らしい。

 そんなの見て面白いのか? デートだし、もっとこう恋愛ものとか選ぶかと思ってたけど、まじで陽乃さんの趣味で選んだのかもな。なにせ料理が趣味だって言ってたし、あとで聞いてみっかな。

 だとするとそうだな。陽乃さんらしいイメージの映画って何だ? マフィアの抗争とか似合うか? それとも本格的な社会派映画? うぅ~ん、改めて考えてみるといまいち思い付かないものだ。そう考えると、料理の映画って存外似合ってるのかもしれないか。

 俺は安達に顔を見られないようにいそいそと二人の後ろの席に着く。ただ、安達は俺の事など気にする余裕などなく、陽乃さんばかりを見て鼻を伸ばしながら陽乃さんの言葉に耳を傾けていた。

 

「映画館で携帯がならないようにするのがマナーだけど、マナーモードにするだけというのもマナー違反だと思わない?」

 

「なんで?」

 

「だって、携帯で時間やメールを確認したりすれば、必然的に画面が光るじゃない。ほんの小さな光であっても、暗い映画館の中で突然光を発するだなんて迷惑だわ」

 

「あぁ・・・・そうかもね。さっそく携帯の電源切っとこうかな」

 

「そうね」

 

 これも作戦のうちの一つだが、、陽乃さんが注意した内容は実は陽乃さんの本心なんじゃないかと俺は思ったりしている。きっと普段の安達は上映中だろうと携帯いじるタイプなのだろう。

 携帯持ってると腕時計がなくても時間わかるから、腕時計を持つ人は少なくなってるらしい。「高級腕時計」イコール「ステイタス」みたいなのは残っているけど、一般人が使うような普通の腕時計の必要性は減少している。それはそれで時代に即したスタイルだとは思う。

 だけど、そのおかげで、今まであり得なかったマナー違反も出来上がってしまったことも事実であり、マナー意識の改善が追い付いていない。

 陽乃さんがどこまで考えているかは知らないが、好きな映画を邪魔されるのは嫌なのだろう、と俺はとりあえず結論付けておいた。

 

「せっかくだから、今日は携帯なしで楽しもうっかな」

 

「え? それいいかもね」

 

「でしょう。だって携帯っていっつもだれかに縛られている感じがして、見張られているっていうの? なんだか首輪をつけられている感じがするのよね」

 

「そ、そうかな? でも、いつもだれかと繋がりを持てるっていうのは便利でしょ」

 

「そういう風に思えるんなら・・・どれだけ助かるものか」

 

「でしょう」

 

 自分の意見を支持されたと思った安達は一人むか喜びをする。だから陽乃さんのわずかな違いに気がつかない。いつもの陽乃スマイルのまま、いつもの捉えどころがない口調のまま、誰にも気が付けない悲鳴をあげていた。

 俺は一歩下がっている位置に、まあ実際陽乃さんの真後ろの位置に座ってもいるけど、観察者として聞いていたから気がつく事ができたちょっとした異変。いつも陽乃さんからの熱烈なちょっかいを警戒し、その行動を頭に焼き付けているからこそ気がつけたのも影響してるはずだ。

 

「でも、今日だけは安達君へのお礼だし、他の人の事は忘れておこうかな。だってお礼をしている最中に他の人のことを見ているなんて失礼でしょ? だから今日だけは携帯から縛られるのはやめて、電源を切っておこうかなって」

 

「おっ、それうれしいかも。たしかに縛られない感じが、フリーダムで面白いかも。いつもと違う感覚っていうのも新鮮で楽しいだろうし」

 

「でしょう? 今日だけは自由でいこうっ」

 

「いいね、いいね。じゃあ、今日は携帯フリーデイってことで」

 

「そうね」

 

 陽乃さんの弾んでいるような声に、一応はほっと胸をなでおろす。

 よしてくださいよ。作戦通りに動いてくれているのは感謝しますけど、でも、どうして毒まで混ぜようとするんですか。毒なら後で俺が全部飲み干しますから、今だけは俺の命を縮めるような真似だけはよしてくださいって。

 顔が引きつりそうなのを無視すると、携帯の電源をオフにしていない俺の携帯を素早く操作する。短い文章を打ち込んだメールを、俺は50センチ前にいる人物へと送信する。

 最初からマナーモードだった陽乃さんの携帯に、どうにか電源を切ったふりをする前に受信される。

 

「なにかあった? すっごくうれしそうな顔をしているけど」

 

「ごめんね。電源切る前にメールチェックしてみたら、家族からメールがきていたのよ。しかも普段はメールなんてくれない相手から。だからちょっとおかしくて」

 

「へぇ・・・。俺は弟からメールくるけど、あんまうれしいって思う事も楽しいって思う事もないかな」

 

「それでもいいじゃない。家族なんだし、楽しい事ばかりではないわ」

 

「まっ、そだね。でも、それでも今日はいいことあったんでしょ?」

 

「たしかにそうかもね。珍しい事に」

 

 そう陽乃さんは言うと、今度こそ携帯の電源を切ったふりをする。

 俺の方も上映前にメールの確認をするが、新しいメールはきてはいない。今の段階で緊急メールなんてこられても困るだけだが、なにもないってとこは今のところは順調に計画が進んでいるってことだ。

 最後尾列に座っているDクラスの仲間を確認すると、みんな辺りを警戒しつつも映画を楽しむようだ。俺の視線に気がついたようで、頷いてきたので俺も頷きかえして前を向く事にする。

 さてと・・・・俺も2時間半。映画でも楽しみますか。

 俺がしまった携帯には、「いっつも馬鹿な弟が愛しい姉の後ろにくっついてるのも微笑ましいものじゃないですかね」って送信済みのメールがあったとか、ないとか。

 

 

 

 

 

 カラオケボックスの壁が多少は防音処理がなされているといっても、隣の部屋からの歌声は漏れてくる。ちょっと音程が不安定ながらもコミカル演奏と陽気歌声でおしきって歌い続ける。それがちょっと調子っぱずれていても、曲のイメージは壊していない。曲の終盤にいくにつれ、マイクの主は勢いに任せて声を張り上げていく。

 一緒に楽しんでいる同室の連中ならば、その独特な歌声さえもカンフル剤となって盛り上がっていける。しかし、歌声が聞こえない隣の部屋の連中にとっては、はた迷惑極まりなかった。

 それもカラオケボックス本来の使い方をしているのならば、自分たちも歌を歌いさえすれば、他の部屋からの歌声も気にはならないだろう。でも、ここに集まった3人は、誰一人としてマイクを掴もうとはしない。そもそもマイクは部屋の片隅に置かれたまま手をつけられてはいない。

 そこにいる男女は皆パソコンモニターと時計の針に注目していた。

 ここはカラオケボックスなのだから歌うのが普通だが、雪乃・由比ヶ浜・石川の3人は、作戦本部として利用していた。たしかに今やカラオケボックスは歌を歌う以外に気軽に使えるレンタルルームとしての用途もありはしたが、ここまで緊張感に満たされた部屋も珍しいかもしれない。

 映画館が見渡せる喫茶店のほうが作戦本部としては都合がよさそうだが、石川と雪乃が一緒のところをストーカーたちに見られるのはなにかとまずい。SFC会員に今日の陽乃さんのスケジュールがばれていないといっても、いつどこで遭遇するかわからない。

 だから、人目を忍べる場所としてはカラオケボックスは最適であった。

 

「そろそろ時間だね」

 

 さすがの由比ヶ浜であってもその声に緊張の色が混ざり合う。ましてやモニターから目をはなせないでいる石川の緊張度合はピークに差し掛かっている。

 

「はじめていいですか?」

 

「ええ、お願いするわ」

 

 静かな部屋に雪乃の声が溶け込む。はっきりとした口調はどこか自信と安心感を醸し出し、硬直していた石川の指を軽くする。

 石川は雪乃のゴーサインに頷くと、あらかじめ作っていた文章をSFCサイトにアップした。

 いつもの日曜日なら賑わっているはずのSFCサイト。でも、今日はぱったりと静まり返っている。それもそのはず。情報提供者である安達が、陽乃さんとのデートを邪魔されない為に陽乃さんのスケジュールをアップしていないからである。

 だから、ときおり街を巡回でもしているやつからの「陽乃情報求む」「陽乃行方不明」などの書き込みはあるが、だれも陽乃さんの足取りはつかめてはいない。

 しかし、石川がコメントをアップしてから1分も経たないうちに事態は一変する。爆発的にコメントが書きこまれる。いつもと違う日曜日。情報に飢えているメンバーも多いはずだ。そこに上等な餌を放り込めばそこに群がるのは当然の結果ともいえる。

 計算通りの結果なんだが、これほどまで注目されているSFCサイトだと証明されると、雪乃達の背筋をぴくりと震わせるには効果がありすぎた。

 石川があげた情報は、いたってシンプルだ。

 「SFC会員の抜け駆け報告! メンバーの一人が陽乃さんと千葉駅の映画館に入っていくところを確認。至急制裁決議を問う」

 ちょっと大げさなコメントかもしれないけれど、効果を求めるならば最適なはずだ。現にさっそく怒り心頭のお客様がおひとりご来店。

「本当なら死刑。今すぐ映画館に向かうべし」

 さすが陽乃信者。根っからのストーカーかもな。

 

「なんか怖いね」

 

「大丈夫よ。私がついているし、八幡もいるわ」

 

「うん」

 

「ごめんなさい」

 

「あぁうん。いいよ、大丈夫。今は改心したって陽乃さんが言ってたから、石川君の事は信じているよ」

 

 石川も元ストーカー。ストーキングしていた相手ではないにしろ、生の女の子の感想は身にしみるのだろう。しかも、今回はストーカー壊滅作戦をしているから、なおさらストーカーへの

批判は根強い。Dクラスの女子生徒の友人にも被害者がいたわけで、その話を近くで聞いていた石川の表情は青ざめていた。

 俺や雪乃、由比ヶ浜、そして陽乃さんしか石川君が元ストーカーだとは知らされはしていなかったが、石川はとても居づらそうであった。由比ヶ浜が声をかけてフォローしてはいるが、石川が何も言わないのはこれも罰だとまっすぐと受け止めているからだろうか。

 停滞していたSFCサイトは石川の発言を元に波紋を広げ、盛り上がりをみせていく。過激な発言も多いが、事が事だけに慎重論も根強かった。

 たしかに今まではSFCの理念の通りに「そっと見続けて」いたわけだ。いくら抜け駆けしたものがいるといっても、その理念を破棄して陽乃さんの目の前に出るとなると躊躇してしまうのだろう。

 でも、過激に踊る発言は、普段は慎重な性格であっても熱を帯びればつられて踊り始める。一度激しい感情が渦巻いてしまえば、理性はけし飛び、過剰に反応せざるを得ない。

 一人また一人と過激派が生まれるたびに、加速的にSFCメンバーは過激派へと変貌していく。たった一つの波紋。激動を引き寄せるには十分すぎる一石であった。

 

 

 

 陽乃さんのスケジュールを隠しているだけあって、SFCメンバーは映画館の中にはいないようだ。一応俺もDクラスの仲間も警戒はしているが、時間がたつにつれて映画に夢中になっていく。

 いやな、まじでこの映画面白い。最初は南極で料理するだけで、あとは食事のシーンくらいしかないんだろうとたかをくくっていたが、今や俺達全員が画面に引き付けられている。陽乃さんは見たことある映画だそうだが、それでも時折笑いをこぼしながらも映画に集中していた。

 ま、安達だけは映画始まってしばらくは陽乃さんを横目でこっそり観察していたけど、それも飽きたのか、30分も経たないうちに眠りこけていた。

 そのほうが都合がいいから起こさないけどな。

 

 映画も終盤に入り、あと残り30分ほどで終わるはずだ。俺は予定通り一度トイレに行くふりをして劇場の外に出る。

 率直な話、まじで映画に見いっていた。本当は映画の途中で席を立ちたくなかったが、これも仕事だ。だけど今度DVD借りようかな。最初の方は全然集中できていなかったし・・・・・・・。

 今は作戦に集中しないといかんと雑念を追いやり、携帯を取り出す。そして辺りを見渡し、人がいないことを確認すると、雪乃に電話をかけた。

 

「そちらは異常ないかしら?」

 

「あぁ、大丈夫だ。安達は寝こけてるし、SFCメンバーもいないようだ。そっちの方はうまくいってるか?」

 

「今のところは予定通りよ。SFCサイトを見ているメンバーが映画館になだれ込もうとするのを抑えるのが難しかったけれど、そこはどうにか予定の場所の方に誘導したわ」

 

「よく誘導できたな」

 

「そうね。今思うと理屈じゃないってよくわかるわ。戦争のときの事をよく引き合いに出されるけれど、異常な興奮状態であると妄想が現実になってしまうみたいだわ。予定の場所で安達さんが姉さんに告白なんてする確定要素などあるわけないのに、それでも興奮している集団には理屈など必要ないようね」

 

「そうか、うまくいってくれてよかったよ」

 

「でも、・・・・・・ちょっと怖いわ。私も姉さんもうまくいくと思ってはいたのだけれど、こんなにも盲目的に人は行動できるだなんて、わかってはいても実際体験すると怖いものね」

 

「悪かったな。嫌な役押し付けてしまって」

 

「いいの。私は八幡の役に立てれば、それで」

 

「それはありがたい発言だけど、でもそれって、・・・雪乃がいう盲目的に信じるってやつじゃないか?」

 

「そうかもしれないわね。ふふ・・・・、可憐な美女を虜にできてうれしい?」

 

 みんな緊張して作戦に励んでいるというのに、どこか場違いな明るい笑い声が携帯のスピーカーから俺の耳をくすぐってくる。甘い音色が俺の心を溶かし出し、ここにはいない雪乃の意識と混ざり合っていく気さえする。

 からかい成分が混じっている分、すんなりと俺の理性は受け入れてしまう。ただ、ほんのわずかだけ本気の部分が混ざったいるのは、雪乃の偽らざる本心なのだろう。

 人を愛せば盲目的になってしまう部分もある。はたから見れば、滑稽であるとさえ思う。俺も高校時代はそう思っていた。結婚なんて打算だし、恋人も一時の気も迷い。ふとしたきっかけで現実を直視し、破局に繋がる。愛なんて妄想で、現実には存在しない。

 夢から覚めても実際結婚生活が破局しないのは、今ある生活を守る為の打算的な妥協にすぎない。

 そんな冷めきった目をしていたが、今なら盲目的でもいいじゃないかって思っている。だって、永遠の愛なんてありえはしないだろうけど、いつかは嫌いな部分もみつけて毛嫌いするかもしれないけれど、一生雪乃の側にいたいっていう気持ちだけは本物だって信じてみたいじゃないか。

 

「すっげえうれしいよ」

 

 だから俺は本心をマイクに向かってつぶやく。雪乃が目の前にいないからちょっとばかし大胆になったのかもしれない。

 

「そう・・・?」

 

 雪乃はみごとな不意打ちを喰らい、うわずった声を洩らす。可愛らしい戸惑いに、俺の嗜虐心は満足感を覚える。

 虜にしたのはどっちだよと言ってやりたい。俺を変えたのは雪乃であって、孤独な檻から引っ張り出してくれたのも雪乃だ。だから、すでに俺は雪乃の虜なんだけどな。

 言っても信じやしないだろうから、これから少しずつ教えてあげればいいと思うと俺の嗜虐心は再び頬笑みだしていく。

 

 

 

 トイレに行って用を足し、席に戻ると映画はすでに終わりかけているようだった。

 もうちょっと早く戻ってきて、ラストシーンくらいは見たかったと本気で後悔しかける。まじでDVD借りようと心に誓ったころには映画も終わり、席を立つ者も出始める。

 陽乃さんは劇場内が明るくなるまで座っていると言ってたから、まだ動く必要はないはずだ。俺がトイレから戻ってくるときに問題なしと陽乃さんにサインは送っていたから大丈夫だとは思うが、これからが本番だと思うと自然と肩に力が入っていった。

 

 

 

 陽乃さん達が席を立つと、俺もタイミングをずらして席をたつ。Dクラスの仲間の一方は陽乃さん達より先に席を立って、劇場の出入り口でを待機している。

 俺はなるべく安達からは死角になる位置を取り、二人を後を追った。

 用心してキャップと伊達メガネで変装もどきもしてあるから大丈夫なはず。それでも安達が気がつくわけないと分かっていても緊張はしてしまう。

 一応もう一組のDクラスの仲間は最後まで映画館に残ってもらい、観客全員が退室した後に

劇場から出てもらう予定だ。ここまで用心深くする必要があるのか疑問に思ったが、陽乃さんと雪乃がいうのだから必要なのだろう。

 出口に向かう観客は、真っ直ぐ出口に向かう集団と、一度トイレに向かう集団のおおむね二つの流れが出来上がる。パンフなどを買いに行く観客はほとんどいない。たしかに最新の映画ではないし、いまさらなにか関連グッズが売ってるとも思えないが。

 もし安達が売店やトイレに行くとなると、不自然にならないように俺も映画館に残らなければならなくなりいささか面倒だ。しかし、どうも二人は出口に向かうようであった。

 しかし、これで一安心と思いきや、出口を見やると、見覚えがあるお団子が揺れている。

 おい由比ヶ浜! たしかカラオケボックスに詰めていたはずだよな? しかも俺の方を見るなって。しかもそんなに飛び跳ねたら目立っちゃうでしょうが。

 たしかにこれから予定の場所に集合だけどさ、安達も由比ヶ浜の事も知ってるだろうから、危ないだろって・・・・・・、雪乃もいるのかよ!

 俺は急ぎ携帯を握ると画面を展開していく。もう手遅れかもしれないけど、雪乃に警告メールを送るか。何もしないよりはましだ。それに着信のバイブに反応して俺の意図に気がついてくれるかもしれないし、と淡い期待を抱き携帯を覗いていると、湯川さんからメールが届く。

 Dクラスの連中は最近登録された名前ともあって、ほとんどの生徒の名前とその顔とが一致しない。もうね、普段使っていない脳の領域だから仕方がないのよ。

 と、一人ごちるが、運よく湯川さんの名前と顔とが一致する。つまりはそれだけ俺に印象を残した人物ってことでもある。いつも勉強会で俺のサポートしてくれているからさすがに湯川さんのことは覚えているって。なぁに、覚えていますよ。あの派手な二重瞼と日本人形みたいな容姿がアンバランスに混ざり合ったメガネ女子だろ。しかも工学部で雪乃の後輩でもある。もうばっちり覚えておりますよ。

 さて、その派手で地味な湯川さんだが、そのたしか映画館前で待機していたはずだ。

 

(安達の弟が来ています。このまま安達兄と弟を会わせると危険ですから、雪乃さんと由比ヶ浜さんが安達弟の注意をひきつけます)

 

 まじかよ?! 安達弟がSFCメンバーかは不明だ。でも、安達兄が予定の場所に行かないとなると作戦が破綻して大問題になってしまう。

 だからここは雪乃達に任せるしかない、か? 雪乃って毒舌吐くくせに案外人見知りだし、ほんとうに大丈夫なのかよ? たしかに由比ヶ浜がいればフォローしてくれるか?

 ・・・・・・あれ? あいつら安達弟と面識あるのか? 面識ないとしたら、どうやって話しかけるんだよ。

 

 

 

 映画がそろそろ終わるころ、緊急連絡が由比ヶ浜に届く。電話の相手は湯川さんであった。

 

「緊急事態です。安達の弟が映画館の前に来ています。彼の様子からすると誰か待っているように見えます。もしかしたらお兄さんの事を待っているのかもしれません」

 

「安達って、弟いたんだ。うぅ~ん、でも、どうなんだろ? ふつうに映画館に来ているだけってこともないかな? これから友達と待ち合わせとか」

 

「それはわかりません。でも、偶然にしては出来過ぎていると思いませんか?」

 

「そうかなぁ・・・・。ちょっと待ってね。ゆきのんに聞いてみるから」

 

「はい」

 

 雪乃は由比ヶ浜が声に出している内容からだいたいの事情は把握していた。そこに由比ヶ浜が湯川さんからの情報を説明し、全容を把握させる。そして、由比ヶ浜からの説明を受け終わると、雪乃は断片的な把握は正しかったと結論づける。

 すると雪乃は間を開けずにあらかじめ用意してた解決策を実行に移した。

 

「由比ヶ浜さん。緊急メールをみんなに送ってちょうだい。安達弟と面識がある人がいるかどうか聞いてくれないかしら」

 

「うん、わかった」

 

 由比ヶ浜は素早くメールを作成すると一斉送信する。すると続々とすぐに返事が戻ってくる。八幡をはじめとする映画館組の返送はなかったが、あいにく安達弟と面識がある人はいなかった。

 サークルにでも所属していたらもしかしたら安達弟と面識くらいあったかもしれないが、大学1年生と2年生。面識があるほうが奇跡かもしれない。

 雪乃は予想通りの返事を確認すると、次の行動に移る。

 

「今すぐ私たちが安達弟を直接確認に行くわ。そうみんなに伝えてくれるかしら」

 

「うん、わかった」

 

 由比ヶ浜がみんなににメールを出すのを確認すると、次は隣に待機いしていた石川にも指示を出す。

 

「私と由比ヶ浜さんはこのまま映画館に向かうわ。石川君は時間になったら公園の側で待機してください」

 

「わかりました」

 

「それと、私が映画館に向かっている間の指揮を任せます」

 

「はい」

 

 雪乃の行動は早い。由比ヶ浜のメール待ちをしている間に自分の荷物はまとめていた。雪乃はカラオケボックス代を全額テーブルの上に置くと、由比ヶ浜を引き連れ映画館に向かう。

 足取りは速く、テンポがよい足音が陽気な歌が漏れ出る廊下に鳴り響く。

 もうすぐ映画が終わってしまう。その前に安達弟を捕獲しないといけない。カツカツと響く足音は、いつしか力強く跳ねるような音へと変わっていった。

 

 

 

 雪乃達が映画館そばまで来ると、物陰に隠れていた湯川さんに引き連れられ姿を隠す。隠れているといっても街中だし不自然に隠れているわけではない。今は顔がばれているかもしれない雪乃を取り囲むように陣取っているだけだが。

 

「あの派手なシャツを着ている人が安達の弟です」

 

「あの蛍光色みたいなのを着ている人かしら?」

 

「はい、その人です」

 

「人の趣味をどうこういうのはどうかと思うのだけれど、ああいった服を着て人前に出ても恥ずかしくないのかしら? それこそ罰ゲーム?だとすれば納得がいくわね。・・・となると、やはり誰かと待ち合わせかしら?」

 

「さあ・・・・・?」

 

 湯川さんは曖昧な返事を返すしかなかった。仮にも安達は2年生で先輩にあたる。その辺の礼儀はいくら作戦対象であってもわきまえていたし、そしてなによりも目の前にいる雪乃先輩にたいしても失礼な返事をすることなどできやしなかった。

 そもそも罰ゲームだなんて思い付くあたりが普通ではないのだが、雪乃にその辺の常識を求めるのも考えものだ。

 

「湯川さんの友達が安達さんの弟と同じサークルなんだよね?」

 

 由比ヶ浜は雪乃の常識を特に気にする事もなく湯川さんへの質問を始める。

 

「はい、そうです。何度か友達が話しているところを見たことがあるのでたしかです」

 

「そっかぁ・・・。その友達を今すぐ呼ぶことってできない?」

 

「呼ぶことはできますけど、もう映画終わってしまいますよ」

 

「そだね・・・・・・」

 

 映画が終わってしまう。安達弟が作戦の破滅を引き寄せる情報を安達に渡す可能性はまだ未知数だ。未知数だからこそ不安定要素が焦る気持ちを増大させ、雪乃達へのプレッシャーを強めていく。

 

「一応大学が同じなのだから、なんらかの理由を作り上げて話しかけるのは可能かしら? あとで湯川さんのお友達には謝らなくてはならなくなるけれど、お友達の先輩だから挨拶に来ましたとか」

 

「どうだろ? いくら先輩後輩でも、顔見知りでもない相手に突然話しかけられたら警戒しないかな? どう? 湯川さん? 安達さんの弟が湯川さんの顔を覚えているかな?」

 

「どうでしょう? 友達と一緒であれば気がつくかもしれませんけど、私一人ではどうも印象が薄いと思います」

 

「だよねぇ・・・」

 

「では、ここはいっそのこと、逆ナンというのをしてみるのはどうかしら? これなら知り合いでなくてもできるのではないかしら?」

 

 雪乃が勇気を振り絞ってか弱い声で提案する。提案している雪乃自身照れが入っていて、自分らしからぬ提案だとわかっているようだ。

 

「いやいやいやいや、無理だから。そもそもそんな経験がないから却下。ゆきのんしたことないでしょ? 街でナンパされることはあるかもしれないけど」

 

「たしかに自分からした事はないけれど、一方的にわけがわからない暴言を吐いて、相手に発言する時間を作らせなければいいのよね? ただ不快を与えるだけなら私でもできるとおもうのだけれど?」

 

「それ違うからっ。ナンパって相手を言葉で叩きのめすものじゃないからねっ」

 

「でも、私に声をかけてくる男性は、私が理解できない言葉を語りかけてきて、いつも私を不快にしていくわ。だからそれを真似すればいいのではないかしら?」

 

 首を傾げて可愛らしく言ってはいるが、言っている内容そのものはナンパ師の人権までも否定する勢いだ。たしかに雪乃にとっては不快な相手でしかないのだろう。

 

「それも違うからっ。それに・・・、ナンパって意味合いはすっごく軽いけどお付き合いしませんかって言う意味だよ。そんなのゆきのんできないでしょ?」

 

「お付き合い? ・・・それって恋愛の?」

 

「そうそう。わたしもよくはわからないけど、その場限りとか、そういう感じで、さ。その、ちょと不謹慎な恋愛っていうか、遊びっていうかな・・・」

 

 はっと息を飲み込む雪乃は、ようやく自分の提案の意味を理解する。ぽわんとしていた表情は硬く引き締められていき、そして今や羞恥心でうち震えていた。

 雪乃の自尊心が自分がナンパ行為をする事を許しはしなかった。フェイクとはいえ、八幡以外の相手に好意を持つ「ふり」をすることが耐えがたかった。

 雪乃自身、自分が潔癖であるとは思ってはいない。嫉妬はするし、人を憎む事さえある。けれど、自分の隣にいる相手に関しては誠実でありたいと願ってしまう。傷つくことに躊躇しない八幡に、仮に嘘だとわかっていても八幡の事を否定したくはなかった。

 そうこうあてもない打開策を模索していても、時間が過ぎていくだけであった。

 

「ねえ、ゆきのん」

 

「なにかしら」

 

「あの人ってさ、工学部の2年だよね?」

 

「たしかそうだったわね。そうよね、湯川さん?」

 

「はい、工学部の2年です。だから雪乃さんと同じ学部ですね」

 

「そうだよっ。前にゆきのんに話しかけてきたグループにいたじゃん。たしかその中にあの人がいた気がする」

 

「そうなの?」

 

 由比ヶ浜の勢いに釣られて安達弟を凝視するが、雪乃には全く見覚えがなかった。そもそも声をかけてくる男は学年、学部を問わずに現れる。しかもたまに一人で街に出ればその数の格段に跳ね上がる。大学内では彼氏がいる事が周知の事実になりつつあるので、無謀な特攻をするものは減ってはきているが、それでも度胸試しで来る変わり者が今でもいたりする。

 そんな連中を雪乃がいちいちその顔を全部覚えているはずもなく。

 

「そうだよ。何度か声をかけてきたグループだったから覚えていたんだ。だって、ゆきのん、すっごく迷惑そうだったから。あのさ、ゆきのん。・・・・・その時助けてあげなくてごめんね」

 

 しょんぼりうなだれる由比ヶ浜を見て、雪乃は瞬きを繰り返すが、顔を引き締めるとはっきりとした口調で語りかけた。

 

「由比ヶ浜さんにお礼を言うことがあっても、批難することはまったくないわ。あのような輩はいつもの事だし、もし言うべき事があったとしたら自分で言うべきよ」

 

「ううん、でもぉ・・・・・・」

 

「もし由比ヶ浜さんが私をかばって、その事で由比ヶ浜さんが嫌な目にあったり、批難を受けてしまう方が私にとっては悲しいわ。でも、もし今度同じようなことがあるのならば、由比ヶ浜さんに相談するわね」

 

「うん、相談してくれたら、私頑張るね」

 

 由比ヶ浜は大きく頷くと、雪乃の返事を聞く前に雪乃の腕に絡みつく。

 これが平常時であったのなら、雪乃も由比ヶ浜が満足するまでじゃれつかせていただろう。いかんせん今は時間がない。既に映画は終わり、観客が外にはけ始めていた。

 

「由比ヶ浜さん。悪いのだけれど、今は時間が惜しいわ。由比ヶ浜さんの記憶が正しいのならば、私と安達の弟とは面識があるということね」

 

「そうだよ」

 

「そう・・・・・」

 

 雪乃は由比ヶ浜をやんわりと引き離すと、顎に手をあて思案する。その間数秒。即断した雪乃は、由比ヶ浜の手を引いて歩きだしていた。

 

「湯川さん。ここはまかせるわ」

 

「はい」

 

「由比ヶ浜さん。私は安達の弟の事は覚えてはいないし、彼とうまく話をする自信もないの」

 

「う、うん」

 

「私は誰にであっても物怖じしないで話ができる由比ヶ浜さんを尊敬しているわ。だから、期待してもいいかしら。彼と面識がある私が話をするきっかけを作るわ。でも、その後の話は出来そうにないから、だからその後は由比ヶ浜さんを頼ってもいいかしら?」

 

「任せておいて」

 

 由比ヶ浜は握られた手に力を込めると、歩く速度を上げ、雪乃の隣に並び立つ。

 由比ヶ浜は大学ではいつも雪乃に勉強の世話をしてもらっている。そして雪乃も、自分の勉強に忙しいのに、嫌な顔を見せたことがない。だから、雪乃が素直に由比ヶ浜を頼ってくれることは、由比ヶ浜はなによりも嬉しく思えてしまう。雪乃が損得で由比ヶ浜の友達をしていないってわかっていても、頼られたことが心地よく感じられた。

 雪乃は安達弟の前に躍り出ると、由比ヶ浜と二人で映画館から出てくる客からは安達弟が見えないポジションを選びとる。安達弟の方が雪乃たちより背が高く、安達兄に気がつかれてしまう恐れもあるが、まずは安達弟の動きを抑えなければ作戦が崩れ去ってしまう。

 

「安達君・・・ですよね?」

 

「あっ、雪ノ下さん」

 

 雪乃に気がついた安達弟は顔をあげ、一瞬驚きはしたものの笑顔をさかせる。雪乃の声は雪乃にしては珍しく震えていたが、安達の反応を見て落ち着きを取り戻す。それに、雪乃の反応に気がついた由比ヶ浜が、繋がれた手に力を加えたのも勇気を与えたのだろう。

 

「安達君も映画かしら?」

 

「えっと・・・、そんなところかな」

 

 安達は最初こそ予期せぬ来訪者に喜びを感じてはいたが、それも、普段声をかけても邪険に扱われていたことを思いだすと、緊張と警戒の色がにじみ出ていく。

 

「私は、友達と遊びに来ていて・・・」

 

「へぇ・・・」

 

 安達弟は由比ヶ浜の顔を確認すると、大きな胸へと視線を落とす。

 そりゃあ健全な男だし、目が下にいってしまう。大きいし、雪乃のとは違って、インパクトでかいし。

 雪乃達が安達弟にくいついたのを確認した湯川さんは、雪乃から指示されていた作戦を決行する。これはタイミングが要だった。なにせ、湯川さん達と映画館での見張り役とが「偶然」映画館の出入り口で出くわし、そして他の客に邪魔にならないように雪乃達のほうへと移動するというタイミング命の壁作戦。

 日曜で人も多いし、多少は位置がずれても修正できるが、あまりわざとらしいと不審に思われてしまう。

 

「それで・・・・・、普段私、大学では一人でいることが多いでしょ。それでも私に声をかけてくれる人はいるのに、何を話せばいいのかわからなくて、冷たい態度を取ってしまうことが多いの」

 

「そう、なんだ」

 

「だからその・・・・、友達に言われてしまったの。もう少し、話をするのを頑張ってみたほうがいいって。それで、この前声をかけてくれた安達君がいたから、迷惑かもしれないのだけれど、声をかけてみたの」

 

 雪乃はじっくりと言葉を選びとり、しどろもどろに声を絞り出す。

 実際緊張しまくっているのだろう。全く知らない相手に好意的な雰囲気を醸し出しながら話をしなければならない。これが相手を非難して、叩きのめすだけなら得意中の得意だろうけど・・・・・・。

 雪乃はここまでのセリフは考えていたみたいだった。しかし、これ以上は無理そうだ。雪乃は由比ヶ浜の顔を不安そうに何度も見て、援護を待っていた。

 ただ、この不安そうな雪乃の仕草さえも効果的な演出になり、安達弟は不審がってはいなかった。

 と、このタイミングでDクラスの連中がうまく合流する。雪乃達の背後から湯川さん達の明るい声が聞こえてくる。そして、湯川さん達が雪乃達の方へと位置をずらすと、由比ヶ浜はそのタイミングで一歩安達弟の前に詰め寄った。

 

「ごめんねっ。私がゆきのんたきつけちゃったんだ。あたし達高校では一緒の部活だったんだけど、大学では別々の学部でなかなか会えなくて。それでね、ゆきのんに友達できたかなぁって心配してたら、やっぱ簡単にはねできなくて・・・」

 

「そうなんだ」

 

「うん、それでね。安達君を見かけて、安達達がゆきのんに話しかけたことがあるってきいたんで、これだぁって思って、声かけちゃったんだ。ごめんね、・・・びっくりしたよね」

 

 由比ヶ浜は胸の前で小さく手をパタパタ振りながら、さらに一歩詰め寄る。

 これが計算してやってるんなら可愛げがあるとも言えるんだが、ぜってぇこいつは天然なんだろうな・・・。

 

「いや、大丈夫。びっくりはしたけど、・・・・そっか。そう、なんだ」

 

 安達弟はうまく雪乃たちが食い止めることに成功できたようだ。これなら大丈夫なはずだ。

 そして、安達兄が出口をくぐる時がやってくる。安達兄からは安達弟は見えないとわかっていても緊張してしまう。

 雪乃も後ろに回した手でスカートを握りしめ、落ち着かない様子であった。ましてや湯川さん達はみるからにして緊張している。幸い、安達兄を目で追ったりはしてないので、問題にはならなかった。

 だが、安達兄と陽乃さんが映画館の出口を出たところで二人は立ち止まる。左右どちらの道へ行こうか迷って止まったのだろうか。

 雪乃達のほうを見られるとまずい。公園とは逆方向であるのもあるが、安達弟に気がつく可能性もある。この瞬間息が詰まったのは俺だけではないはずだ。

 もはや俺達に打つ手はない。あとは運しか……。

 そう願った瞬間、陽乃さんが安達兄の腕をひき、公園の方へと歩み出す。陽乃さんは緊急メールを見てはいないはずだし、陽乃さんからだって安達弟を見ることはできないはずだった。そもそも安達弟のことを知らないはずだ。

 もしかしたら雪乃に気がついて反応したのだろうか? それとも、公園に行く予定であったわけだし、その一環の行動だろうか? 陽乃さんに聞かなければ答えはでやしないが、とりあえず助かったことは確かだ。

 これで目の前の問題は解決された。あとは雪乃を安達弟から撤退させないといけない。俺は携帯を手に取り、雪乃のアドレスを呼び出す。

 いやまてよ。由比ヶ浜の方がこういう人間関係の時は機転がきくか。俺は改めて由比ヶ浜宛のメールを作成し出した。そして、送信ボタンを押そうとしたとき、少しばかり目線を上げると由比ヶ浜はすでに携帯を確認している。

 あれ? 俺はまだ送信ボタン押してないよな?。げんに送信完了のメッセージは表示されていない。

 俺が携帯と由比ヶ浜の間を行ったり来たり視線を泳がしていると、雪乃達は安達弟と別れ、公園へと向かって行ってしまう。唖然とその光景を見ていると、安達弟が映画館の中をのぞきだす。

 俺は慌てて携帯を見るふりを継続すると、出口に向かって歩き出す。

 このままここに居ても危ないし、早く公園に行かなければ。 俺は俯き加減で安達弟をやりすごし、早足で映画館を後にする。しばらく歩いてから振り返ると、安達弟はまだ映画館の中をのぞいていた。

 安達弟がSFCに関係しているかはわからない。仮にSFCメンバーだとしたら、早く公園でSFCメンバー達と安達兄を会わせないと時間が足りなくなる。もう少しだけならこのまま安達弟をほっといても時間を稼げるかなとふんだ俺は、さらに歩く速度をあげ最終地点の公園へと急ぐ。

 駆け足になり始めたころ不安に思って再度首だけ振りかえると、安達弟の姿は消えていた。映画館の中に入ったのだろうか?

 そういえば、雪乃がうまく安達弟から離れて行った事だが、雪乃のことだから最初から逃げ出す準備もしているよな。なにも策を持たないでつっこむわけないか。その辺の事前準備は雪乃にも陽乃さんにもかなわない。

 そろそろ陽乃さんが最終段階に移ってるころだな。ならば、俺が公園に着いたころにはクライマックスか。映画のラストシーンは見逃したが、今度ばかりはラストシーンを見逃すわけにはいかなかった。

 

 

 

 俺が公園に着くと、すでににらみ合いが始まっていた。SFCメンバーの数は、なんと予想を超える人数となっている。

 なにせ安達兄と石川を抜きにしても14人。芸能人の追っかけじゃないんだから、これはちょっとばかし多すぎやしないか。

 これもネットの力というか、安達兄がよくも集めたと誉めるべきかはわからない。それでも今は、その多すぎる数が作戦をうまく軌道に乗せていた。

 

「会長! 抜け駆けは禁止のはずですよね。なんで陽乃と一緒なんですか」

 

「抜け駆けして陽乃さんとデートだなんて、ずるすぎます!」

 

「よくも俺達を利用してくれたな」

 

 SFC会員たちは口々に安達兄を非難する。怒号が飛び交う中、明らかに安達兄は慌てふためき冷静さを削り取られていく

 

「お前たちだって面白がってやってたじゃないか。お互い利用し合ってたんだ。だからお互い様だ。俺がデートできたのも、俺の努力が実ったにすぎない」

 

 売り言葉に買い言葉。SFCメンバーの安い挑発にのった安達兄は、自分の正当性を陽乃さんが隣にいるのにSFCメンバーを糾弾する。

 

「なに言ってんだよ。お前の努力なんて大したことないだろ。いつも陽乃のスケジュールをリークするだけで、あとの面倒事は俺達に押しつけやがって」

 

「頭脳労働と肉体動労の間には、大きな壁があるんだよ。俺は頭脳派だから、肉体動労はお前達の仕事だ」

 

 その後も陽乃さんの存在を忘れて一触即発の危機が継続する。殴り合いまでいかないのは、性格の根っこが小心者である証拠だろうか。そのおかげでか大騒ぎとまでは発展していない。道を行き交う人々は、関わらないようにと公園を側に来ると足を速める程度で済んでいた。

 俺も無関係だったらそうしてたはずだ。だって、面倒だし、逆恨みほど怖いものはないしな。

 

「そろそろいいかしら?」

 

 陽乃さんの凛とした声が怒号を収める。それはけっして大きな声ではなかった。むしろ怒号の前ではかき消されるほどの普通すぎる声量。それなのに、誰しも注目してしまうのは、陽乃さんの存在感の大きさによるものだろう。

 みんな声の主のほうへと顔を向ける。興奮していた安達兄さえも振り返り、陽乃さんを見つめ、そして現状を把握して肩を落とす。

 そこには無表情なまでの笑顔が待ちうけていた。その笑顔はいつもの笑顔にすぎない。けれど、いつもの笑顔ということは感情を押し殺した笑顔と同義だ。

 つまり、けっして誰にも本心を晒さない為の仮面が存在していた。

 

「ねえ、安達君。なんで私をつけ回しているストーカーの顔を知ってるのかしら?」

 

 顔は笑顔のはずなのに、声は凍えるほど冷たい。

 

「なんで知ってるかだって……」

 

 安達兄はSFCメンバーを見渡す。手を握っては閉じ、握っては閉じと落ち着かない。だが、非常に焦って状態で絞り出した言葉は、意外にも冷静であった。

 

「それは……、雪ノ下と一緒に解決したストーカーだろ。だから、知ってるに決まってる。名前までは覚えていないけどさ」

 

「そう・・・・・」

 

 安達兄はわずかに熱を帯びた陽乃さんの声に安堵する。しかし、手を握りしめる動きは激しさを増すばかりであった。

 

「でも、私が知らない顔もあるんだけど?」

 

「それは……」

 

「それに、さっき自分で自分がSFCの会長だって言ってたじゃない」

 

「俺は会長だなんて言ってない。言ったのはあいつらだ」

 

「そう? でもSFCってメンバー同士、お互いの顔を知らないんでしょ? それでも安達君は彼らを見てすぐにSFCメンバーだって気が付いた。それはあなたが会長で、彼らを集めたから知っているのではないのかしら?」

 

 安達兄の手の動きが止まる。今や力強く手を握りしめ、皮膚に薄っすら血がにじみ出していた。

 

「それにね。あなたがさっき散々自分がSFCで活動してた内容を白状してたじゃない」

 

「あっ……」

 

 陽乃さんも人が悪すぎる。安達がやってきた事を全てわかっているはずなのに、それなのに相手を泳がして、その後にとどめをさすなんて容赦がない。

 安達は陽乃さんのとどめの言葉によって体から力が抜け落ち、手のひらもだらんと垂れさがっていた。

 

「俺だって雪ノ下に告白して振られはしたけど、友達でもいいやって思ってたんだよ。でも弟がSFCなんてものを作ったりするから、いけないとわかっていても淡い夢を見ちまったんだ」

 

「え?」

 

 陽乃さんの笑顔の仮面がぶれ、驚きを見せる。俺もそうだし、雪乃やDクラスの連中も驚きを隠せないでいた。だって俺達はSFC会長は安達兄だと思って行動していたのだから。

 

「安達君が会長じゃないの?」

 

「だからぁ、俺が会長だなんて一言も言ってないだろ。言ってたのはそこにいるあいつらであって、俺は否定してたじゃん」

 

「そうかもしれないけど……どういうこと?」

 

「だからさ、俺の弟が雪ノ下の妹の方には恋人がいるけど姉の方にはいないとわかると、俺が同級生だからって雪ノ下がどういう人か教えてくれってしつこかったんだよ。それでストーカーを退治した話もして、その時の名簿もちらっと見せたのがいけなかったのかもな。あいつったら俺の目を盗んで勝手に名簿持ち出して、挙句の果てにはストーカーを集めてSFCなんてものを作っちまった」

 

「あなたの弟が私と雪乃ちゃんに好意を持ってたってこと?」

 

「どうだろうな? 好意は持ってたと思うけど、なんか変なこだわりみたいのをもってたんじゃないか? 純粋な好意って感じがしなかったからな。今全てが終わって思いかえすと、あいつの方がストーカー連中よりもいかれていたのかもしれない」

 

「そっか。……あれ? 安達君が私に告白したって本当? ていうか、いつのこと?」

 

 今度こそ安達は立っている力さえ崩壊し、その場に座り込む。

 こればっかりは俺も陽乃さんを擁護できなかった。告白した事さえ忘れるのはひどすぎやしないでしょうか? 

 俺も若干じとめで陽乃さんを見つめてしまう。

 

「したよ。したけど結構前だから忘れたちゃったのかもな。雪ノ下はもてるし」

 

「かもしれないけど、完全に覚えてない、かな。相手が知り合いでさえなければ本当に覚える事さえしないけど、同級生の安達君だし、覚えていると思うんだけどなぁ……」

 

 俺は密かに思ってしまう。陽乃さんの言葉の裏を探ってしまえば、それって単にこれからも付き合いがある相手だから気まずい雰囲気を回避する為だけに覚えているって言ってるようなものじゃないでしょうか。まあ、それはそれなりにアフターフォロー的な意味で重要だけどさ。

 

「大学3年の夏。定期試験の打ち上げでカラオケ行っただろ。みんな酒覚えたばっかで、飲めない酒飲みまくって、酔いつぶれた奴が続出したやつ。それも覚えてない?」

 

「それなら覚えてるかな」

 

「みんな酔いつぶれて、俺と雪ノ下が会計に行ったよな」

 

「たしか、そうだった……ような」

 

「そのとき、告白したんだよ」

 

「うぅ~ん……」

 

 陽乃さんは腕を組み記憶を探る。ときおり安達兄の顔をまじまじと凝視するもんだから、安達兄も照れて顔をそらすしまつ。

 

「あっ、うん。あったね」

 

 おめでとう、安達兄よ。こればっかりは敵味方の垣根を超えておめでとうと言いたい。

 

「だろ?」

 

「でもさ。あれって冗談じゃなかったの?」

 

「そんなわけあるかよっ」

 

「でもね、あまりにも軽い感じのノリの告白で、真剣味がまったくなかったじゃない。しかも普段と同じような軽いノリだったし、友達としてなら楽しいけど、恋人はNGかな」

 

 む、無念。思いもしないタイミングで2度も振られるとは同情してしまう。それも日ごろの行いだよなぁ。……やっぱ同情しないでおくか。

 うなだれる安達兄を横目に、陽乃さんはSFCメンバーに強い視線を送る。元々ネット弁慶の連中だけあって、対人スキルは低かった。

 だから目の前にいる陽乃さんに委縮して誰ひとり動けないでいた。

 しかしその沈黙も思いがけない人物の登場によって破られた。

 

「兄ちゃんっ。なんでまんまと罠にひっかかっちゃうんだよ。せっかく俺が作り上げたSFCがぱあじゃないか」

 

 一足遅れてやってきた安達弟が、怒りを兄に向ける。兄の方はもう観念しているのか、表情がうつろだ。

 

「もういいだろ。終わりだよ」

 

「くそっ!」

 

「兄弟喧嘩はもういいかしら?」

 

 怒りにまかせてやってきた弟は、状況を判断できてはいなかった。陽乃さんに俺達。それからSFCメンバー。多勢が弟を囲んでいる。

 それにようやく気が付いた安達弟は、逃げ出そうとする。しかしSFCメンバーが壁になってその逃走を妨害する。さすがの小心者たちも怒り心頭なのだろう。それにネット上での繋がりであっても、一応は知り合いである事が彼らの体を動かしていた。

 

「あなたにも説明してもらえるかしら?」

 

 陽乃さんの迫力に弟の勢いは完全に止まる。そして兄の元へと戻ると、俯き加減で話しだした。

 

「SFCを作った経緯は、兄ちゃんが話した通りだよ。雪ノ下に、妹の方に話しかけても邪険に扱われ、顔を向けてくれさえしてもらえなかった。しかも恋人までいやがって。だから、姉がいるって知ったときは嬉しかったよ。顔は似てるし、何よりも胸がでかかったからな」

 

 あっ、そこっ! それNGワードだからねっ。胸の大きさで人を判断しちゃ駄目だって教わらなかったのかよ。後で俺が爆弾処理をしなければならなくなるのよ。わかってる? あんた?

 人知れず立ち込める邪気に俺の不安は膨張する。けれど、俺の不安をよそに、事態は進んでいく。

 

「でも、兄ちゃんに姉の方のこと聞いても、どうやってアプローチすればいいかなんて思い付かないし、だったらなにか共通の話題とか見つければいいかと思って始めたのがSFCだったんだ」

 

「ちょっと待ってよ。それって飛躍しすぎてない?」

 

「そうか? 兄ちゃんにあんたのこと聞いても、なんかいまいちなんだよな。たぶん兄ちゃんに俺をあんたに紹介してもらっても、あんたは俺のことなんて友達の弟っていう記号としてしか認識しないだろ? それに顔は好みで、なによりも胸が大きいのは魅力的だけど、どこかふわふわして掴みどころがないんだよな。だから、兄ちゃんを介して話しかけても意味ないって思って、どうにかして裏の顔を覗いてやろうって思ったんだよ」

 

「そう……」

 

 意外や意外。安達弟は陽乃さんの本質を見抜いていた。俺と同じように斜めから世間を見ているからこそ気が付いたようなものだ。一方で、真っ直ぐ正面から世間を見ている一般人なら、陽乃さんの笑顔はまさしく笑顔なんだろうけど。

 

「弟君の経緯はわかったわ。でも、なんで安達君までストーカーの仲間になってるのよ? 大学でいつも会ってるし、今日みたいに二人だけって事はなかったけど、みんなで遊びに行く事だってあるじゃない」

 

「雪ノ下への未練が復活したんだよ。弟の活動を知って、雪ノ下をもう一度知りたいって思ってしまったんだ。もっと知ることができたら雪ノ下好みの男になれるかもかもしれない。そうすればもう一度チャンスがあるかもしれないって思ってしまってもおかしくはないだろ? だからスケジュールも提供した」

 

「なるほどね……」

 

「俺達を警察に突き出すのか?」

 

 安達兄の覚悟にSFCメンバー達の顔が青くなる。今は被害者面しているが、彼らも立派な犯罪者に変わりはない。ただ、何もしないで見ているだけとなると、本当に犯罪が成立するかは疑問が残る。まあ、世の中にはぶっとんだ裁判官がいるわけで、そういうのにあたったら有罪になるかもしれんけど。

 

「ねえ、あなたたち」

 

 抑揚がない声が絞り出される。怒りとか、感情がもろに出ているなら身構えようがある。でも、この表情がない笑顔ってどう対応したらいいんだよ。

 どうやらSFCメンバーも同じような感想らしく、戸惑いを隠せず、ただただ表情を表曇らせていく。中には逃げ出そうとしている者もいる。逃げても無駄なのに。

 

「この中に、私とストーカーをやめるようにって楽しい話し合いした人いるよね?」

 

 この言葉に反応した数人は、顔色を失い、震えだす。唇は震え、手はガタガタと大きく震わせていた。

 尻もちをついて頭を抱え出した奴の事はみなかったことにしてやろう。いや、見てない。俺はそんな魂が抜かれてしまったやつがいただなんて知らない。見てないったらっ、と俺まで取り乱しそうになったが、心の安全装置が自動発動し記憶を削除する。

 

「その後SFCに入るまでにストーカーに戻ってしまった人はいる? 素直に答えてくれるとありがたいわね」

 

 陽乃さんの問いに、楽しい話し合い経験者は一斉に顔を横にふる。あの魂を抜かれた奴でさえ力強く首を横に振っていた。

 一体なにをやったんだよ、陽乃さん……。精神削られて後遺症が出そうだから聞きたくないけどさ。

 

「そう……。だったら、あなた達がどういう経験をしたかを横にいるお友達にも話してくれると助かるわ」

 

 うわぁ……。今度は見事に首を縦にふってんじゃん。ある意味すげぇ意思の統一だよな。

 

「でもね……、してくれないっていうんなら、もう一度みんなで楽しいお話をしようか?」

 

 陽乃さんの抉るような問いかけと圧力が彼らを追い詰める。念押しをしなくても俺でも彼らの今の気持ちがわかる。だって、俺も逃げ出したいし。できることなら全速力でこの場から逃げ出して、ラノベでもテレビでもいいから現実逃避がしたいです、先生!

 

「聞きわけがよくて助かるわ。じゃあ、もうSFCは解散して、ストーカーもしないわよね? あと手元にある写真とかも処分してね。もちろんネットに散らばった画像もすべて削除してね。死ぬ気でやればそれくらいできるでしょ?」

 

 もう笑顔じゃないよ、あれは。プレッシャーしか感じやしない。笑顔という名の凶器だった。

 そしてSFCメンバー達は陽乃さんの要求を全て受け入れ、この楽しい話し合いが終わるのを大人しく待っていた。

 

「さて、安達君兄弟だけど、警察に突き出したりしないわ。だって、せっかく大学に入ったのに、今さら大学やめたりしたら親が悲しむでしょ。それにね。安達君はノリが軽くてどうしようもないところはあるけど、研究に関しては評価してるとこもあるのよ。それなのに大学やめちゃったらもったいないわ」

 

「雪ノ下はそれでいいのか?」

 

「別にかまわないわ。でもね。今まで通りにあなたと関われるかって聞かれると正直難しいわ。だから、みんなには安達君とちょっと喧嘩しちゃったって言っておくわ。もうプライベートでは話すことはないでしょうけど、大学では今まで通りにしてくれると私も助かるわ」

 

「俺の方こそすまなかった。怖い目にあってるの知っていながら、それを利用して」

 

「そのことに関しては許してないわ」

 

「そうだよな」

 

 安達兄は陽乃さんにおどおどと視線を向ける。しかしそこで出迎えたのは陽乃さんの鋭い視線だけだった。もはや安達兄が知っている雪ノ下陽乃はいない。誰もが望み、称えうらやむ雪ノ下陽乃はもういない。これから彼は雪ノ下陽乃には会えなくなったのだ。

 安達兄は陽乃さんから視線をそらす。もはやそこには自分にむけられる笑顔など存在しないと自覚する。

 そこには、むき出しの憎しみだけが存在していた。

 

「弟君のほうもそれでいいかな」

 

「わかったよ」

 

「雪乃ちゃんにも今後は近づかないでね」

 

「ああぁ? さっき本人からよろしくって言われたんだけど」

 

「あれね。嘘に決まってるじゃない。あなたを引き止める為よ」

 

 安達弟は文句を言おうと顔を上げる。その見つめる先には、兄が経験した以上の憎しみを解放する陽乃さんが待ちうけていた。俺も遠目で見ているけど、感情むき出しの陽乃さんの方が人間らしく感じられてしまい好感が持ててしまう。

 いや、でも、憎悪の視線は丁重に辞退すますよ。

 それでも感情的な陽乃さんは人間っぽくて、生々しくて、その熱すぎる体温が俺を安心させてくれる。デパートや雪ノ下邸で見た陽乃さんが幻じゃなかったんだって、俺に伝えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

7月8日 日曜日

 

 

 

 安達弟も観念すると、事後処理はあっという間に事は終わりを迎える。もとよりSFCメンバー達は一刻も早くその場から逃げ出したかったはずだ。だから陽乃さんの解散の合図、恩赦ともいうが、とともにいなくなった。

 楽しい話し合いを経験していない奴も楽しい話し合いのことは知っていたのかもしれない。たとえ知らなくても後で仲間から聞いてきっと青ざめることだろう。

 そして安達兄弟もすごすごと去っていった。兄の方はノリは軽いし、時間にルーズなところもあるが、もうストーカー行為なんてしないはずだ。大学での関係は陽乃さんの今後の方針によるが、きっと俺の感覚からすれば甘すぎる対応になるのだろう。

 ただ、弟の方はというと反省しているか不安なところもある。まあそこんとこはあの兄に任せるしかないか。

 で、俺はというと、雪ノ下邸にて、雪乃のご両親と「楽しい話し合い」を繰り広げようとしていた。

 

「総武家のテナント受け入れ、ありがとうございました」

 

「かまわないよ。ちょうどテナントを探していたし、総武家は私も通っていてね。だから、総武家さんがうちのビルに入ってくれるというなら、大歓迎だよ」

 

「そうはいっても、急な話でしたので」

 

「父が大歓迎っていってるんだから、素直に受け取っておきなさい」

 

「そうよ。お父さんがビジネスに私情は挟まないのだから、利益が出ると踏んだのでしょうし」

 

「雪乃は鋭いなぁ」

 

 一部の地域で楽しいだんらんが行われている中、局所的に発生した台風の暴雨は俺にのみ叩きつけられていた。言うまでもなく雪乃の母親が厳しい顔で俺を品定めしている。

 女帝以外の俺達は和やかに話をしていると言ってもよかった。話を戻すと、総武家の移転先は現在工事予定の道路の向こう側の新たな道路拡張予定地に面している雪ノ下の企業所有のビルに移転する予定だ。

 現在の道路も人の通りがよい。しかし、移転地は車の通りも多いながら、道路拡張も行われることで人の通りも大幅に増加すると予想されている。

 こういってはなんだが、現在の場所に残るよりも新店舗の方が利益がだせるはずだ。

 

「それは普段の行いのせいよ」

 

「まいったなぁ……」

 

 親父さんは雪乃に鋭い突っ込みを入れられるも、頬笑みながら受け止めている。雪乃もそんな父を軽く苦笑いを浮かべながらも、会話を楽しんでいる模様だ。

 ただ、いくら対立議員グループが計画していた道路拡張工事の横に親父さんの議員グループが新たな道路拡張工事をするからといって、こうも簡単に総武家を受け入れてくれるものだろうか?

 

「お母さんもいつまでもしかめっ面していないでよ。いつもお父さんの事目の敵にしている議員に一泡喰らわせることができたって、喜んでいたじゃない。あの議員ったら、自分のビルに人気チェーン店のラーメン屋を入れるらしいけど、総武家が隣の道路に新店舗作るって知ったらどう思うのかしらねって、豪快に笑ってた気もするなぁ」

 

「わ、私は、そんな下品な物言いはしていないわ。たしかにいつも嫌がらせばかり受けていて、歯がゆい思いをしていたわ。……あなたも何か言ってください。いつも嫌がらせを受けても何食わぬ顔をしていたのは、あなたの方なのよ。私がどんな思いであなたのことを心配していたことか」

 

 陽乃さんの暴露話に女帝は頬を染め上げながら親父さんに詰め寄る。

 女帝も照れたりするんだなと意外すぎる一面を見て驚いたが、雪乃と陽乃さんは特に反応はない。

 ということは、いつもの光景なのか?

 …………えっ?

 女帝って、親父さんだけには弱い……でいいの?

 

「いいんだよ。お前が心配してくれるだけで、私は十分助かってるんだから」

 

 親父さんはゆっくりと女帝の手の甲に自分の手を重ね合わせる。

 ちょっと待て。なんだこのラブラブしすぎる甘ったるい空気。娘がいる前でよくもまあ……。

 再び雪乃と陽乃さんの様子を見るが、変わりはない。

 って、おい。やはり日常茶飯事だったのかよ! ……もう、いいや。俺の負けです。

 やけくそ気味の俺は心を落ち着かそうとティーカップに手を伸ばす。ここはひとまず撤退して、体制を立て直すのが最善だろうし。そしてなによりも女帝がデレているのをこれ以上見るのは精神崩壊につながるだろっ。

 しかし、カップに口をつける直前、以前にも感じた見られている感覚が俺を襲う。顔を上げ、視線の元に顔を向ける。そこには奇妙な光景が待ちうけていた。なにせ毎日鏡で見ている腐った目が俺の事を見ている。

 一瞬鏡があったのかと疑いもしたが、目の持ち主は俺ではない。そこにいたのは、雪乃の父親。つまり親父さんが俺を見ていた。親父さんはいつもは腐った目などしていない。

 たまに仕事がかったるいとか、疲れているとか、面倒事は自分にばかりまわってくるとか、休みがないのは社会が悪いとか……、あれ? なんか聞きおぼえがあるようなセリフだよな。

 思い返してみれば、親父さんには穏やかな雰囲気はある。仕事もきっちりこなし、責任感も強い。だけど、それは仕事をしているときの親父さんであって、プライベートの親父さんではない。俺と会ってるときも、最初は雪乃の彼氏であり、親父さんからしてみればお客さんにすぎなかった。

 だから、今目の前にいる親父さんこそがプライベートの本来の姿というわけか。もう一度親父さんを見やると、たしかに腐った目をしている。俺が凝視していると、親父さんの目は穏やかな目へと変わっていく。

 やはり親父さんも自分をある程度作ってたのかよっ。さすがは陽乃さんに似ているだけはある。

 …………俺はここで重大な事実に直面する。しかも、二つもだ。

 一つ目は、親父さんが腐った目をしていること。

 そして、その腐った目の持ち主を心底愛している女帝がいるんだが、もしかして雪ノ下家の女性って男の趣味が悪いのか?

 こういっちゃなんだが、俺はもてない。それなのに雪乃が彼女なわけで、一生分とさらに来世での運も使いはたしているはずだ。そんな俺と付き合ってくれている雪乃には悪いが、雪ノ下家の女性が腐った目をした俺や親父さんに惚れているなんて、ある意味男の趣味が悪いって断言できる。

 さて、二つ目の重大事実だが、それは俺が親父さんに似ていることだ。そしてそのことはさらに親父さんが陽乃さんに似ていることに直結し、となると陽乃さんは俺にも似ていることとなるわけだ。

 たしかに論理の飛躍はある。欠点だらけで、穴ぼこだらけの推理に違いない。

 それでも俺と陽乃さんが似ている一面を持ってるかもしれない可能性があることは、ちょっとなぁ、と俺を複雑な気持ちへと引きずりこんでいった。

 

「そうだ。陽乃に言うことがあったんだろ」

 

 親父さんは女帝の背中を柔らかく押しだす。女帝は親父さんに抗いながらも陽乃さんの顔を見て一度逡巡するが、たどたどしく話し始めた。

 

「陽乃」

 

「はい」

 

「お見合いの件、なかったことにしてもいいわ」

 

「えっ?」

 

 突然の宣告に俺も、陽乃さんも、雪乃だってうれしい戸惑いをみせる。

 どういう心境の変化が? また面倒な条件をつけるっていうのか?

 俺はすぐにでも聞きだしたく身を乗り出しそうになるが、雪乃がそっと俺の膝に手をのせ、俺を押しとどめた。

 

「本当にいいの?」

 

「ええ、後継者候補ができたから、もうよそから後継者を連れてくる必要がなくなったわ」

 

 女帝は俺を一瞥すると、軽く鼻を鳴らしてから陽乃さんと向きあう。

 

「だから自由に結婚してもいいし、いつまでも独身でもかまわないわ」

 

「えっと、その、独身はちょっと」

 

 陽乃さんは苦笑いを見せるが、それも一瞬。自由になった喜びが陽乃さんを襲いかかる。

 そこにはもはや「笑顔」はない。陽乃さんによって作られた仮面の笑顔はもはや存在していなかった。

 

「私にもいいなぁって思える人ができたから。だからね……」

 

 陽乃さんは照れくさそうにそうつぶやくと、静かに温かい涙をこぼし始めた。

 

「比企谷君」

 

 突然女帝から名を呼ばれた俺は身を堅くする。

 だって、そもそも俺に話すことってないだろ? いったいなんだっていうんだ。

 

「はい」

 

 そんな間抜け面をしていた俺も日頃の経験が無条件発動して背筋を伸ばし、腹に力を込めて返事を返してしまう。

 

「あなたが後継者候補として、世界ランク一ケタのMBAにおいて一ケタの順位を収めるという条件を覚えているかしら?」

 

「覚えています」

 

「そう、だったらその条件をクリアしなさい」

 

「え? ……はい、出来る限りの努力はします」

 

 あの陽乃さんを助ける為の条件って、本気だったのかよ。ってことは、俺はこれから勉強漬けの毎日? 

 由比ヶ浜の大学受験勉強じゃないけど、あれが英検3級の試験だって思えるくらい生易しい

レベルに思えてくるのはどうしてでしょうか。

 

「はぁ……、そんな意気込みでやっていけるのかしら? でも、いいわ。もしできなかったら、雪乃と別れればいいだけですからね」

 

「え?」

 

「当然でしょ。約束を守れない男に用はないわ」

 

「ちょっと待って、お母さん。私も留学するわ。もし八幡が達成できないとしても、私が条件を満たしてみせるわ。そうすれば後継者問題には支障が出ないはずでしょ?」

 

「そう? だったらそれでもかまわないわ」

 

 女帝は満足そうにうなずくと、俺への関心は途切れ、雪乃が淹れた紅茶へと興味を移していった。

 

「悪いね。これでも大変感謝してるんだよ」

 

「感謝されるようなことはなにも」

 

「総武家の件も感謝しているし、ストーカーの件については感謝しきれないほどに感謝している。ふがいない父親だと痛感したよ」

 

「そんなことは……。それに総武家の事はこちらがお願いしたことで、感謝されることはなにもありませんよ」

 

「そんなことはない。ライバル議員に一泡吹かせてくれたじゃないか」

 

「それは偶然であって、結果論にすぎません」

 

「そうかな? じゃあ、ストーカーの件は陽乃の父親として感謝してるんだけどな」

 

「それも俺だけが頑張ったわけじゃないです。陽乃さんや雪乃、大学の仲間も大勢協力してくれたからこそできたことです」

 

「でも、それができたのも、君が大学で人脈を作ったから成し得たことじゃないかい?」

 

 たしかに大学での人脈を作れって言われたけど、偶然にも作れている。この人脈がこの先どうなるかなんてわからない。

 損得で付き合ってるわけでもない。だけれど、これからも長い付き合いになっていくってことだけは、不思議と確信してしまう。

 

「君に人脈はあるかってきつい問いかけもしたけど、これさえも成し遂げた。だからね……、あれも君の事を認めているんだよ」

 

 親父さんはそっと女帝に視線を向ける。女帝も俺達の会話が聞こえているはずなのに、ダンマリを決め込んだようで、一切反応をみせようとはしない。

 

「今日はゆっくりしていきなさい。きっと陽乃が美味しい料理をつくってくれるはずだから」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 穏やかな時間が紡ぎ出され、いつしか日が暮れていた。雪乃と陽乃さんは夕食の準備をしにキッチンに向かい、ここにはいない。陽乃さん曰く、ささっと簡単に作ってくるわ、とのこと。

 前回ご馳走になったことを思い出すと、その簡単にのレベルが非常に高い。きっと俺の予想以上のご馳走がくるはずだ。

 だから……、俺は目の前の光景をも耐えられれるはず。いや、耐えてみせる。けっして笑うな。笑うの厳禁。口角が少しでも上がった瞬間殺されるって気がしてしまう。

 なにせ、実際にはいちゃついてはいないけれど、雪乃の両親、目で語りあっちゃってるだろ。しかもそうとうのろけている。

 できることなら料理の手伝いに行きたいところだが、陽乃さんに必要ないと釘をさされている。となると雪ノ下邸にて軟禁されている俺としてはこのリビングから出ていくことなどできやしない。まあ、雪乃が以前使っていた部屋を見てみたいとお願いすればもしかしたら見せてもらえるかもしれないが、それもかなりのハードルだ。

 だから俺は目のやり場を適当に泳がせながら、この数日間を思い出す。

 そういえば平塚先生って、誰から総武家の立ち退き話を聞いたのだろうか? 誰かしらから聞かないと、平塚先生が知ることはない。では、誰からか。

 そして雪ノ下の企業所有のビルが「たまたま」1階のテナントを募集しているのは偶然なのか。しかも、新しい道路計画に合わせて、客が入る見込みがある場所で。

 仮に、平塚先生が雪ノ下家の誰かから話を聞いたとする。そして仮定だが、平塚先生と俺がラーメン仲間であり、なおかつ、総武家の常連だと知っていたとすれば、平塚先生が総武家の事を聞いた直後に平塚先生と俺は総武家に行く可能性が高いといえる。

 また、俺と平塚先生がラーメンを食べに行くと約束していたのさえ知っていたとしたら。

 もはや仮定の連続であるが、最後の仮定として、陽乃さんが親父さん似であることは、逆をいえば、親父さんも陽乃さん似であるわけで。そうなると、その陽乃さん似の親父さんが陽乃さんのような策略を展開する可能性も高いわけ、だ。

 と、仮定に仮定を重ねまくる机上の空論が完成する。

 もし、これが正しいとしたら。

 もし、途中の仮定が若干違くとも結論までたどり着くことができるとしたら、と憶測を重ねずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 最高の夕食も終わり、家に帰る時間となる。雪乃は女帝からマンションに持って行けと、あれこれ紙袋を渡されているようだ。ほんと素直じゃないところも多いけど、どこにでもいる親子であると実感してしまう。

 ……雪乃は本気で嫌がっているみたいだが。

 ちょっとだけ同情しますよ、お義母さん。

 親父さんも席をはずしていて、リビングには俺と陽乃さんの二人が残っていた。

 

「なんか、うまく解決してよかったですね。終わってみるとあっという間というか」

 

「そうね。私も終わってみると拍子抜けかも」

 

 陽乃さんは両手を天井に伸ばし、体をほぐす。

 この数日、ストーカー問題が出た4カ月前から、いや、生まれて物心がついた時から陽乃さんは常に緊張を強いられていたのかもしれない。その枷が外れた今、仮面をかぶっていない素顔の陽乃さんが屈託のない笑顔でくつろいでいた。

 

「何か顔についてる? そんなにも真剣にじぃ~っと見つめられたらお姉ちゃん、ちょっと恥ずかしいかも」

 

「いや、そんなことは。ちょっと気が抜けただけです」

 

「そうなの?」

 

 陽乃さんは俺が面白い事を言ったわけでもないのに柔和な笑顔をはじけ出す。

 

「そうです」

 

「そっか」

 

「あの、陽乃さん」

 

「なぁに?」

 

 俺は自分の鞄の中から、リボンでラッピングされたプレゼントを陽乃さんの前に差し出す。

 

「これは?」

 

「昨日は忙しかったんであれでしたけど、一日遅れの誕生日プレゼントです」

 

「そっか。……誕生日だったわね」

 

「そうですよ。雪乃も陽乃さんの誕生日パーティーをやるつもりで、今度の休みでもやるみたいですよ」

 

「ええぇ~、雪乃ちゃんが? 意外すぎない? ……ねえ、ホント?」

 

「えっと、その……」

 

「それって、ガハマちゃんが発案したんでしょ」

 

「どうでしょうね? もしそうだとしても、計画したのは雪乃ですよ」

 

「そうなんだぁ……。あっ、エプロン」

 

 陽乃さんは丁寧にラッピングをはいでいくと、中から深い藍色のエプロンをとりだし、頭上に掲げる。

 

「陽乃さんの趣味は料理じゃないですか。だからエプロンなら気にいらなくても、適当に使いつぶせるかなって」

 

「そんなことないって。すっごく気にいったわ。うれしすぎて抱きつきたいくらい」

 

 陽乃さんは真剣に笑みを俺に示すと、さっそくエプロンを試着する。

 

「どう? 似合ってる?」

 

「似合ってますよ」

 

「そっか。似合ってるか。でも、比企谷君の私のイメージって、こうなの?」

 

「インスピレーションですよ。そのとき思った色がそれだっただけです」

 

「ふぅ~ん……」

 

 陽乃さんは俺の顔をしばらく観察すると、なにか納得して視線での拘束を開放する。そして、その場でくるくる回りながらエプロンを確認していく。

 普段の陽乃さんだけを知っていたら、きっと地味な色のエプロンなのだろう。たしかにオレンジとか派手な色がよく似合いそうだとは思う。だけど、俺が見ている陽乃さんは、情が深くて、そしてなによりも人のために自分を犠牲にできる強い女性であった。

 

「ねえ、比企谷君」

 

「はい? えっと、かわいいし、似合ってますよ」

 

「なにその適当な感想」

 

「すみません」

 

「まっ、いっか」

 

「陽乃さん?」

 

 ごく自然に、それが当然の行動のように行われてしまったので俺は反応が遅れてしまった。俺に詰め寄り、その距離わずかのところから俺の顔を覗き込む陽乃さんに俺は馬鹿なような呼びかけしかできないでいた。

 

「ねえ比企谷君」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「プレゼント、ありがとね」

 

「いえ、大したものではないですよ」

 

「じゃあ今度は大したものをプレゼントしてもらおうかしら?」

 

「そ、それは……」

 

 いつもの会話。いつもの比企谷八幡と雪ノ下陽乃の寸劇が、その距離20センチも離れていない至近距離で行われている。けれど、いやではない。いつもの有無を言わせないプレッシャーは存在しない。

 そこにあるのは、甘くて切ない瞳と香り。

 

「誕生日の七夕には間に合わなかったけど、しっかりと彦星様が迎えに来てくれたんだから、喜ばないはずないわ。ただ、一日遅れっていうのが比企谷君らしくていいわね」

 

「それだと陽乃さんが織姫様ですか?」

 

「私が相手では不満かしら?」

 

 陽乃さんはそう意地悪そうに呟くと、さらに詰め寄る。俺達にはもう距離なんてない。爆発しそうな心臓の鼓動さえも聞こえてしまうその距離で、俺はその瞳を離せないでいた。

 

「不満なんてないですよ。むしろ光栄ですって」

 

「そう? だったら、今度このエプロン着て、ご希望の裸エプロンで、八幡の為に料理作ってあげるわね。でも、料理が出来上がる前に私を食べちゃってもいいわよ」

 

 陽乃さんはそういつものような軽口をいうと、ウインクをしてから俺の胸に額を押し付けてきた。動かなくなったその体に俺はなにもできないでいた。

 そもそも俺には手を動かす資格がない。これがラノベ主人公ならフラグがたった追加ヒロインをハーレムに入れればすむ話だ。とっとと彼女の体を抱きしめて、適当な甘い言葉や勘違いだらけのラブコメ発言を吐けばいいだけだ。だけど俺にはそんな人生をもてあそぶ選択肢など選べはしなかった。

 今まで雪ノ下家の呪縛に捉えられていた陽乃さんを、今度は無責任な比企谷八幡への想いで縛りつけることなどできやしない。ましてや雪乃まで悲しませることなどできやしなかった。

 

「…………」

 

「陽乃さん?」

 

「ん?」

 

 顔をあげて見せてくれた陽乃さんの笑顔は、もはやいつもの笑顔の仮面ではなかった。

 どこか崩れ去りそうな、ぎこちないながらもどうにか作り上げた儚い笑顔。ちょっと触れただけでも崩れ落ちそうな寂しさを漂わせていた。

 

「陽乃さんの手料理、楽しみにしていますよ」

 

「うん。楽しみにしておいて」

 

「二人前だろうが三人前だろうが全部食べますから、盛大に作っちゃってください」

 

「うん。期待してる」

 

「あと、……来年の七夕は遅刻しませんから、盛大にやりましょう」

 

「うぅ~ん……。そっちのほうは……、期待しないでおこうかな」

 

 陽乃さんは少し困ったような笑顔を見せると、俺に背を向ける。

 

「そうですか? じゃあ、俺が勝手に迎えに行きますから、そのときは、うまい飯でも用意してくれると助かります」

 

 陽乃さんは俺の声に何も反応を見せず、一歩また一歩と玄関に向け足を進める。そして、4歩目の足を上げようとした時、その体は硬直した。

 堅く握られていた両手のこぶしを広げると、ゆっくりと俺の方へと振り返る。

 

「やっぱり期待はしないでおくけど、食事の材料だけは用意しておくわね」

 

 そう俺に宣言する顔には、もはや儚さは消え去っていた。いつもの陽乃さんのように前をしっかり見つめ、自分の意思で突き進む凛々しさがよみがえっている。

 しかし、もはやそこには作りものの笑顔はない。優しい温もりを俺の心に満ち溢れさせていく、とても魅力的な女性がそこにはいた。

 陽乃さんが俺の体に残した甘い香りが俺の鼻をくすぐるのを、俺は気持ちよく受け入れていた。

 

 

 

 

 

 

 

7月10日 火曜日

 

 

 

 激動の週末を過ごし、疲れと興奮が収まらない中、月曜を迎える。週の始まりといえばかったるくて、その日から週末までを指折り数えだす日と決まっている。

 一週間前の俺だったら同じようにカウントダウンを開始していただろう。しかし、この週の月曜日だけは特別であった。

 そわそわして落ち着かない。目覚ましよりも早く起床すると、すでに雪乃は目を覚ましていた。なにをしているわけもなく、俺の頭をゆっくりと撫でて愛でているだけだが、やっと平穏な日常を取り戻したことを実感させてくれた。

 俺達は平穏な大学生活を取り戻し、いつものように大学に通う。以前と同じ日常もあれば、変化した日常もある。日常は俺達が気がつかないうちに毎日緩やかに変化していく。劇的に変化することなんて稀だ。

 先の騒動が俺達の日常に大きな変化をもたらすとは考えてはいない。ストーカー騒動の前の日常に戻っただけだ。仮に変化があったとしても、それは俺が気がつかないうちにゆっくりとゆっくりと変化を繰り返し、やっと芽が出て俺が気がつく状況まで変化したころには、その変化の原因など忘れていることだろう。

 ストーカー問題は解決されたから、もう陽乃さんを送り迎えをする必要はない。これから新たなストーカーも現れる懸念も捨てきれないが、当分は大丈夫なはずだと思いたい。

 ただ、危険は取り除かれはしたが、陽乃さんの送り迎えは今も続いている。陽乃さんたっての強い要望によって。

 雪ノ下家から車を預かっている身としてはその要望は断れないし、たいした遠回りでもないので、これからも送り迎えは続くと思われる。

 雪乃は送り迎え継続の話を聞いた直後はふくれっ面ではあった。抗議もしようとしたが、いかんせん実家からの要請なので強くも逆らえず、あっというまに決定事項となってしまった。

 もちろんマンションにもどってから散々俺に対して本気とは思えない文句を言っている。まあ、本気で抗議するんなら、俺のところに話がおりてくる前に握りつぶしているはずだ。

 だから、俺としては陽乃さんの提案を最初から賛成であった事は雪乃には内緒にしている。

 そしてもうひとつ変化があったことといえば、雪乃と陽乃さんがDクラスの勉強会で先生役として参加するようになったことだ。二人とも非常に優秀であることから、みんな大歓迎で迎え入れた。

 週末までの騒動も仲を深めるきっかけになっていたはずだ。今も二人のもとには授業後の質問をする生徒で溢れている。

 いつも一番前に座っていたコケティッシュな湯川さんはすっかり陽乃さんファンの一人になったようで、俺のことを一瞥もくれずに陽乃さんの元へと向かって行ってしまった。それはこっそりと俺の心に傷を残していた事は秘密だ。

 

「陽乃先輩。今度大学院について質問してもいいですか。私できれば大学院に行きたいって思っていて。今は曖昧で、ぼんやりとした目標しかないんですけど、もっと勉強したくて」

 

「いいよ、いいよ。いつでも大歓迎。湯川さんみたいな後輩ができるんなら、お姉さん協力しちゃうよ。それに、教授にも紹介してあげるから、いつでもおいでよ。工学部って男ばっかだし、みんな喜んでちやほやしてくれるはずよ」

 

「ありがとうございます。ちやほやは遠慮しておきますけど、実際一度研究室を目にした方が明確なビジョンができてもっと頑張れる気がするんです。それに私、Dクラスになってしまったときに諦めていたんです。これでも地元の高校ではずっと1位だったんですよ。先生も同級生もみんな私をちやほやじゃないですけど信頼してくれていて。だけど大学に入ったら一番下のクラスじゃないですか。すっごく落ち込んだし、地元にも帰りたくなくなっちゃって、地元の友達からメールが来ても当たり障りのない内容ばっかでしか返事ができないでいたんです。でも、私にもチャンスがあるってわかって、もう一度頑張ろうって」

 

「そっか。でも、うちの大学院って倍率高いし、大変だよ。AクラスだろうがDクラスだろうが、他の大学からも勉強したい、研究したいって強く望んで勉強してきた人が集まってるわよ」

 

「そう……ですよね」

 

 湯川さんの跳ねるような勢いは、陽乃さんによって叩き落とされる。陽乃さんが自ら通ってきた道である分説得力があった。陽乃さんの場合は学力面ではまったく問題がなかっただろうけど。

 

「でもね、今の気持ちを4年間忘れずに勉強を続けられたら、きっと道は開けてくるんじゃないかな。もちろん大学院だけがゴールじゃないし、色々勉強しているうちに、うちの大学院じゃなくて海外留学なんて考えちゃうかもしれないわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな……、私が海外留学だなんて」

 

「その考えはいただけないなぁ。自分で限界を作っちゃってる」

 

「あっ」

 

「でしょ?」

 

「はい、私、今の気持ちを忘れずに頑張ってみます」

 

「うん、頑張ってね」

 

 湯川さんは陽乃さんからエールを貰うと、足取り軽く廊下で待っている友達のもとへと小走りで戻っていく。俺は陽乃さんも後輩にいいこと言うなぁと感心して陽乃さんを見つていめると、陽乃さんがニヒルな笑顔を俺に返す。

 これって絶対、俺が聞いているのをわかってていってただろ。先輩の言葉としてはむしろありがたいんだけど、ありがたいお言葉言ったんだから誉めてよって顔で訴えなければ、もっと最高なのに。

 陽乃さんは最後に満面な笑顔を見せると、自分も授業に行こうと荷物をまとめ出した。

 もし今回の騒動で劇的変化があったとしたら、それはきっと陽乃さんの素顔だろう。今までは、なにかにつけて演じてきた部分が表層を覆い内面を隠し、本心を晒す事はけっしてなかった。それが今回の事件をきっかけに、いつもではないが、ときおり本心を見せてくれるようになったのは大きな成果だと思える。

 世間一般では、今までも十分すぎるほどに魅力的な女性であったし、女性からも好かれもしていた。これからは、ふとしたきっかけに見せるなにげない本音が出た表情に魅了されてしまう信者も増えてくるのだろう。

 個人的な見解としては、本音を見せた陽乃さんのほうが、カリスマ性を演じた仮面よりも数段も魅力的だと思っている。

 

「それでですね、聞いてくださいよ」

 

 雪乃の方の質問も終わり、今は由比ヶ浜が中心となって雑談の花を咲かせていた。英語の質問ではないので、ここぞとばかり前に出る由比ヶ浜が輝いて見えるのは気のせいだろうか。

 大丈夫。勉強だけがすべてじゃないぞ、由比ヶ浜。それにしても楓だっけ? 楓、葵、名前だけは純日本人コンビはいささか興奮気味だよな。なんかトラブルでもあったのか?

 

「それで、どうしたの?」

 

「はい、この前の安達弟なんですけど……」

 

 安達の名前が出ると、その場にいた全ての生徒の顔がこわばる。

 陽乃さんもバッグにノートをしまう手を止めてしまい、楓の声に耳を傾けているようだ。雪乃も顔から笑顔が抜け落ち、顔がこわばってしまっていた。

 楓と葵は雪乃の変化を察知して次の言葉を詰まらせてしまう。雪乃はやんわりと微妙な笑顔を浮かべて話の続きを促すが、それでもやはり二人は遠慮してしまっているようだった。

 ただ由比ヶ浜だけは場を盛り上げようと楓達の話に相槌を打つ。

 

「へぇ、弟くんの方がどうかしたの?」

 

「安達の弟のほうが雪乃さんを好きだったけど、比企谷さんが恋人だとわかって諦めたって言ってたじゃないですか」

 

「うん、まあ、そうだったね」

 

「それだけでも軽い男だってわかって失格なんですけどね」

 

「そだね」

 

「実は、ストーカーをするだけじゃなくて、ひどいデマまで流してたんですよ」

 

「えっほんと? それは知らなかったなぁ」

 

「はい。男子生徒中心にデマがひろがっていたらしくて女子生徒の方へは流れてこなかったんですよ」

 

 ということは、雪乃がいる工学部2年から広まった雪ノ下姉妹がストーカー被害にあっているっていう噂も安達弟ルートから流れてきたものだろうか。

 安達弟がどんな理由で噂を流していたのかはわからないが、もはやそんな理由を聞きだしたいとは思えなかった。

 

「で、どんな内容なの?」

 

「比企谷さんが財産目当てで雪乃さんに近づいているっていうのがあったかな」

 

「ゆきのんちお金持ちだし、そう思ってしまう人もいるかもね」

 

「でも違うんですよ。それだけじゃないんですよ」

 

「比企谷さんは雪乃さんだけじゃなく、保険として陽乃さんにまで手をだして、ゆくゆくはお父様の会社までも手に入れようとしてるっていうひっどい内容なんですよ」

 

「ヒッキーにそこまでは……できないんじゃないかなぁ。主にゆきのんちの家庭の事情でだけど」

 

 由比ヶ浜は明らかに不可能なデマを聞き、顔をひきつらせてしまう。

 さすがに雪乃の両親を少しは知っている由比ヶ浜は、会社乗っ取りなんてできないってわかっていらっしゃる。俺も由比ヶ浜の意見に大いに賛同するし、そもそもあの二人を相手なんてしたくはない。仮に相手をしただけで雪ノ下家の全財産をくれるっていわれても、雪ノ下家に手を出すなんてしたくはない。主に精神的事情で。

 それに、もし俺が会社を手に入れようとして雪乃と陽乃さんを味方につけたとしても、この二人の協力だけじゃ不可能すぎる。いっそのこと、親父さんや女帝までも味方につけないと、うまくいくとは思えない。

 こうなると騙す相手さえもいなくなってしまうが、ここまで準備しないとどうしても成功するとは思えないだろう。

 でも、俺なら絶対そんな面倒な事はしない。自分で会社を立ち上げて、雪ノ下の企業レベルまで成長させる方がよっぽど現実的だと教えてやりたいほどだ。

 

「それに、由比ヶ浜さんも被害者なんですよ」

 

「えっ、私? どうして?」

 

 ストーカー騒動。今までずっと蚊帳の外にいた由比ヶ浜までもが被害者になっていたとは驚きだ。

 由比ヶ浜の名が呼ばれた時、雪乃の肩がわずかに震えたのを俺は見逃さなかった。

 

「それはですね。比企谷さんの愛人として、由比ヶ浜さんを囲ってるっていう内容でした。いつも由比ヶ浜さんが比企谷さんと一緒にいるのは愛人契約してるからとか」

 

「それ、ぜったい違うから。ヒッキーと一緒にいるのは学部が一緒って事もあるけど、勉強を教えてもらってるのもあるし、……友達……でもあるからさぁ」

 

 由比ヶ浜は胸のあたりでぶんぶんと両手をふって否定する。

 

「そうですよね。私も男子から話を聞いたとき、それは嘘だって言ったもん」

 

「でも、どの噂もひどい嘘しかなくて笑っちゃったよね。……あっ、ごめんなさい」

 

「いいよ、いいよ。私もゆきのんもその場にいたら一緒に笑ってたと思うし」

 

「それでも、ごめんなさい」

 

 その後もあらぬ噂を延々とお披露目されていく。よくもまあ、ここまでたくさんのデマを考えたものだと、発想力のほうを感心してしまう。

 由比ヶ浜も表情をころころを切り替えながら相槌を打つもんだから、楓も葵も話の勢いが止まらなくなって、延々と話が止まらなかった。

 だから俺はしばらく好きなように話をさせておくか、と傍観者に徹することにする。それでもつまらない噂を聞くのはすぐに飽きてしまい、本でも読んでるかと鞄を取ろうとしたとき室内を見渡すと、話をしている由比ヶ浜、葵、楓しか室内には残ってはいなかった。

 雪乃と陽乃さんは、先に行ったのか?

 ということは、そろそろ時間かなと時計をみると、朝一番の講義までは時間があった。それでもこのまま話を続けられてもやばいし、そろそろ終わりにさせるかなと椅子代わりにしていた机から腰を上げる。

 俺たちも授業に遅れないようにしようと、俺は話に夢中の三人に声をかける決意をした。

 

 

 

 

 

 昼休み。これも俺達の日常の変化の一つであるといえよう。弁当を食べようと空き教室に集まった四人は、持ち寄ったお弁当を囲んでいる。まあ、いつものメンバーで俺、雪乃、由比ヶ浜、そして陽乃さんの四人は、恒例となった昼食の準備にいそしんでいた。

 昨日は、陽乃さんが4人分のお弁当を持ってきてくれたので豪勢であった。ただ、雪乃は俺の分も含めて二人分の弁当を用意していた。そして由比ヶ浜も最近弁当を作るようになったので

自分の分を持ってきている。そこに陽乃さんが用意した四人分となると、合計7人前の弁当が勢ぞろいとなった。

 由比ヶ浜の弁当はまさに女の子の弁当って感じで量は少ない。雪乃のは、俺の分は俺に合わせて作ってあるが、雪乃本人の分は少なめだ。しかし、陽乃さんの豪勢すぎる弁当は、まさに運動会のお弁当だった。男4人がかりで食べたとしてもめいっぱい食べられる量が詰まっていた。

 7月になり気温も高くなってきているので、いくら保冷剤を使っていたとしても冷蔵機能もない昼の弁当を夕食として食べるわけにもいかず、唯一の男の俺が頑張って食べたが、食べきることはできなかった。

 その俺の奮闘ぶりを理解して頂いたのか、翌日の今日からはお弁当当番らしきものが作られたらしい。「らしい」というのは、俺の意見が全く聞き入れてもらえず、勝手に取り決めを作られたからなのだが、俺自身も弁当を作らないといけないのはなんとか再検討してもらえないだろうか。

 昨日家に帰ってから俺の登板の時は雪乃に弁当作るの手伝ってほしいと懇願したが、笑顔で断られた時絶望してしまったのは内緒だ。

 でも、そのあときっちりと

 

「だって、八幡が作ったお弁当、食べたいじゃない」

 

って、恥じらいながら笑顔でアフターケアもなさるんだから、雪乃にはかなわない。

 

「ねえねえゆきのん。今朝はごめんね。話に夢中になってて、ゆきのんが先に行っちゃったの気がつかなかったよ」

 

「いいのよ。私の方も急用ができたから」

 

「そう? だったらいいけど」

 

 由比ヶ浜は雪乃の返事に満足してか、うまそうに弁当をパクつき始める。それを見た雪乃も優しく由比ヶ浜を頬笑みながら自分も食事に入っていった。

 

「陽乃さんも朝の勉強会ありがとうございました。勉強会の後にお礼を言おうと思ってたんですけどいなかったんで、いまさらですけどちゃんとお礼が言いたくて」

 

「いいのよそんなの。私が好きで手伝ってるんだから。それに、私もちょっと急用ができちゃってね。だから、何も言わないで行っちゃってごめんね」

 

「いや、いいですよ。あの後時間ぎりぎりまで由比ヶ浜たちは喋りまくってたんですから。俺達に付き合ってたら授業に遅れてしまっていましたよ」

 

 楽しいお弁当タイムは続く。

 雪乃と陽乃さんの朝の急用がなんだったかだの、なにも疑問を覚えることなく穏やかな時間が刻まれる。

 今朝の勉強会の後、二年工学部の教室で「楽しい話し合い」があったなんて、気がつくことなどありはしなかった。

 

 

 

 

 

 火曜日の朝。誰の元にも平等に訪れる月曜日の次の日。

 日曜日までの休日の疲れも月曜日に別れを告げ、どうにか平日に慣れつつある火曜日。休日疲れが抜けきれない者は、通勤通学ラッシュにもまれて水曜日までには強制的に平日を実感するようになるはずだ。

 それは工学部の教室であっても等しく訪れ、朝一番の授業を憂鬱と共に過ごすことになるのだろう。ここにいる二人を除いて。

 

「おはよう、安達君」

 

「元気そうでよかったわ」

 

 雪乃と陽乃さんはそれぞれ若干ニュアンスは違うが、安達弟に朝の挨拶をする。それを聞いた安達弟は怪訝そうな顔を見せるも、挨拶をされては返事を返すしかなかった。

 

「おはよう……ございます」

 

 安達弟の戸惑いももっともだ。もう関わりもないと思っていた相手からの朝一での訪問。安達弟にしろ、雪乃達にしろ、金輪際関わりたいとは思っていないはずだった。

 朝が苦手で授業開始ギリギリに教室に入ってくる連中なら、いつもと同じ光景を見るだけですんだかもしれない。しかし、今の時間帯に入ってきた不幸な生徒は、いつもと違う光景に目を疑った。当然ながら時間に余裕を持って登校してきた優等生諸君らは不幸にも絶対君主の支配から席を離れることができないでいた。

 雪乃もクラスメイトに挨拶をされれば丁寧に挨拶を返す。それは長年にわたって身につけてきた礼儀作法によるものだが、雪乃が安達弟の元へ自分から赴いて挨拶することなんて、今まであり得なかった光景であった。

 しかも、姉の陽乃さんまでいるのだから、誰しもが驚いたことだろう。

 そして、ただならぬ雰囲気が雪ノ下姉妹を中心に教室中に侵食していき、いつしか朝の憂鬱な雰囲気が一転する。緊迫した雰囲気に捕まり、一人、また一人と雪乃たちを注目してしまう。これから始まるであろうまだ見ぬ展開に恐怖心と好奇心を同居させ、教室内にいた生徒は事の顛末を探ろうと声を押しとどめ、静かに渦中の三人に目を向けていた。

 

「2年工学部から流れている噂を聞いたわ」

 

 雪乃の目は安達弟を捉えて離さない。安達弟は昨日の事もあって、落ち着かない様子である。たまらず雪乃から目をそらすが、それさえも雪乃にとっては興味の対象にはなりえなかった。

 

「私と……、ここにいる姉のことはかまわないわ。でもね、私の恋人と友達を傷つけるような真似を今後もするのなら、社会的に殺します」

 

 雪乃は断言する。断罪する。背筋が凍りつくセリフをこともなさげに宣言する。

 雪乃の顔からは表情が冷たく砕け散り、ただ事務的に決定事項を伝えているだけであった。身を震わせる他の生徒たちは、声をわずかに洩らしはしたが、場の雰囲気にのまれて沈黙を守る。後から教室に入って生徒は、ただならぬ雰囲気に、遅刻したわけでもないのに身をかがめて申し訳なさそうに席についていった。

 そして、雪乃に続いて陽乃さんが追い打ちをかける。

 

「あなたがどんな社会的な影響力を持つ後ろ盾を持ってるかなんて知らないわ。でも、使いたいのならご自由に。私は大切な人を守る為に、その後ろ盾やそのシステムごと叩き潰すだけだから、安心してね」

 

 口調も笑顔も以前の陽乃さんそのものであったが、それがかえって人の心を委縮させる。震え上がる安達弟に、楓たちから聞いた噂のうっぷんを全て吐き出した雪乃達は、ようやく晴れ晴れとした笑顔で自分の場所へと戻っていく。

 もはや安達弟のことなど日常の記憶からは抹消されていることだろう。残っている記録といえば、記憶ではない、攻撃対象リストの記載のみ。

 朝から工学部二年の教室を震え上がらせた騒動は、翌日までには他学部まで広がっていく。

 ただ、誰一人雪ノ下姉妹を批判する者など現れはしなかった。日ごろからの行いってものもあるが、正面切って雪ノ下姉妹にたてつく者などは、よっぽどの変わりものか自殺願望者しかいないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

7月14日 土曜日

 

 

 

 首元やら鼻やら目元など顔中がこそばゆい。まだ起きる時間ではないはずなのに、どうやらちょっかいを受けているらしいかった。

 まどろみの中薄くまぶたを開けると、雪乃が長い漆黒の髪でくすぐってきていた。

 俺が大好きな髪をそんなくだらないことで使うなって説教してやろうかと思いもしたが、甘ったるい朝の空気が俺を駄目にする。

 

「八幡おはよう」

 

 俺の目覚めを瞬時に察知した雪乃は、柔らかな笑みとともに朝の挨拶を告げる。だから俺もしゃがれた声ですかさず返事する。

 

「おはよう。……いま何時なんだ?」

 

「さあ?」

 

「さあって……。まだ5時過ぎじゃないか」

 

 俺は目覚まし時計を確認すると、非難の声をあげる。

 さすがに起きるには早すぎる。少なくとも6時までは寝ていても大丈夫なはずだ。しかも今日は土曜日だから、もっとゆっくりしていてもいいはずなのに。

 

「そう?」

 

「そうって……、くすぐったいって」

 

 俺は優しく黒髪を押し戻す。おはようの挨拶をしているときだって、雪乃はずっと俺をくすぐり続けていた。

 悪くはないんだけど、さすがにこそばゆい。

 

「もうっ」

 

 雪乃は全然怒った風でもないのに、一応は怒ったつもりの非難を洩らす。

 と思ったら、今度は俺の頭を雪乃の小さな胸で包み込み、優しく撫で始める。

 たしかに色々トラブルもあって忙しかったし、その反動で今朝みたいに甘美な朝がここ数日続いてはいた。それでも大学もあり、ゆっくりと朝を楽しむ時間は限られていた。

 そう考えると、今日は貴重な朝だよな。

 俺は雪乃の背中に手を回し、小さく力を込めてると、ゆっくりと雪乃の香りを肺に満たす。すると雪乃は胸元で動かれたのがくすぐったかったのか、小さくとろけるような吐息を洩らした。

 色っぽく身悶える雪乃を下から覗き込むと、二人の視線が交わった。

 

「もう……」

 

 はにかんだ雪乃の笑顔が俺を幸せに導く。

 今日は最高な一日になるはずだ。

 だって、最高の朝の目覚めを得られたんだから、今日一日うまくいくに決まっている。

 そして、きっと明日の朝も最高なはずだ。

 なにせ俺の隣には、いつも雪乃がいるから。

 

 

 

『はるのん狂想曲編』終劇

 

 

 

 

 

 


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