やはり雪ノ下雪乃にはかなわない   作:黒猫withかずさ派

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はるのん狂想曲編 1

『はるのん狂想曲編』

 

 

 

6月14日 木曜日

 

 

 

 俺は無機質な携帯アラームを停止し、すぐさまサイドテーブルに携帯を戻す。横に顔を向けると、いつもいるはずの雪乃はいない。ダブルベットの空のままになっている部分にそっと手を伸ばすと、ひんやりとした感触だけが伝わってくる。別に雪乃の温もりを求めたわけではない。そもそも昨夜はここにはいなかったのだから、ベッドが温まっているわけがない。だけど、確かめずにはいられなかった。

 いつも起きる時間にセットしてあった携帯アラームは、その昨日通り時間ぴったりに俺を起こしてくれた。しかし、いくら携帯が高性能化したといっても、雪乃までは用意してはくれなかったようだ。体を起こし部屋を見渡すと、いつも以上に部屋の殺風景さが際立っている。もともと雪乃の趣味で寝室には極力物を置かないようにしているのが、今日に限っては恨みがましく思えてしまった。

 一人で使うには広すぎる部屋にある、一人で寝るには寒すぎるダブルベッドの上に、俺は一人ぼけぼけっとどうしようもない恨み節をぶちまけていた。そもそも俺の家庭の生活水準からすれば、海浜幕張駅近くにある高層マンションの上層階になんかに息子だけを住まわすことなんてできやしない。まあ、雪乃が高校時代から暮らしている部屋で同棲させてもらっているだけなのだが、俺の見た目だけで判断されるとしたら、俺の事を知っている連中は口をそろえてこの高級マンションは比企谷には似合わないというのだろう。

 一応これでも平均よりそれなりに上のルックスに、平均より上の身長。体つきの方も、毎日の自転車通学で余計な肉はそぎ落とされている。学力だって千葉の国立大学の経済学部で1年次は主席も収めた。しかし、これだけのプラス材料があるのに評価が低いのは、もしかしたら本当に目が腐っているからではないかと思ったりしてもいる。いや、断じて目が腐っているとは思わないが、彼女たる雪乃にさえ、まあ言うのはほどんど雪乃なのだが、目が腐っていると言われ続けてしまうと、本当にやばい状態なんじゃないかと思ってしまう事もしばしばあったりなかったりとか・・・。

 雪乃は昨夜9時過ぎのギリギリまで粘りはしたが、陽乃さんからの最後通告が雪乃を実家に連れ戻した。これ以上雪乃を引きとめてしまえば、雪乃の両親が家に戻ってくる前に雪乃が実家に戻すことが危うくなり、せっかくお膳立てしてくれた陽乃さんに申し訳ない。後ろ髪を引かれる思いを抱いてしまうが、仕方なかった。

 土曜には、雪乃は帰ってくるんだから、それまでの辛抱のはずなのに、ぽっかりと心に穴があいてしまう。小町からすれば、雪乃に頼りすぎってことなんだろう。

 だけど、そうじゃない。雪乃への依存ではなく、雪乃が俺の一部だって最近では思えてしまう。それこそ依存だっていわれそうだけど、この感覚、表現しがたい。その人の為に自分を差し出したい、全てを捧げたいと言うのならば、それは依存ではなく、人生のパートナーといえるんじゃないだろうか。

 顔を洗い、寝ぼけた頭を叩き起こしたものの、キッチンから漂ってくるいつものコーヒーの香りがないことに、軽く落ち込む。雪乃の面影を探るべく、冷蔵庫を覗くと、雪乃が昨夜大量に作り置きした料理が詰め込まれていた。

 今朝食べるようにと指示されていた皿と冷えた麦茶を取り出し、ラップをはがすと、山葵と高菜の香りが漂ってくる。さすがに昨夜おろした山葵とあって、おろしたての新鮮さは薄まってしまっているが、食欲を誘うには十分すぎる威力を保っていた。

 雪乃のことだ、山葵を使うって俺が主張したものだから、わざわざ山葵を使うところが可愛く憎たらしい。なんて、雪乃がおにぎりを握っている光景を思い浮かべながら一つ手にとり

口に運ぶ。

 うん、美味い。さっぱりとした味わいに、山葵の辛みがうまく融合している。朝食欲がなくても、これならばっちり食事をとることができるな。たしか弁当で、いなりずしの中身がこれだった時があった気がする。いなりもいいけど、ノリを巻くだけでも十分すぎるほど美味しいレベルだ。

 勢いよく一つ目を完食し、2個目へと手を伸ばす。今度のはノリではなく、ゴマをまぶしているところが、心にくい。

 味を変えて飽きさせない心配り、恐れ入ります。と、大きく口に含むと・・・・、

 

「ぐぁ・・・、ん・・・・・・・・。かれぇーーーーーーーーーー!!!!!」

 

 今度はおにぎりへの絶賛ではなく、山葵への絶叫が俺の口から飛び出した。静かな朝なのに近所迷惑かどうかなど考える余裕はなかった。とにかく口の中にから広がり、鼻から抜けるときの山葵特有の刺激が俺のゆったりと過ごしていた朝をこっぱみじんに打ち壊した。

 すり下ろした山葵が増量しているだけなら、香りで多少は分かるかもしれない。しかし、一晩おいたわけだから、香りはとんでしまって判断基準にならなかった。

 くそっ、やられた。

 よく見ると、ゴマがまぶされたおにぎりはこれ一つだけだ。つまり、これ一つだけがジョーカーってことらしい。

 なんなんだよ。戸塚か? いや平塚先生に嫉妬してたのか? いやいや、由比ヶ浜っていうせんもあるだろうし・・・・、心当たりがありすぎてお手上げだ。

 それにしても、戸塚だったとしたら、それはいきすぎだろうに。子供の悪戯としては、可愛いレベルだけど、この悪だくみをせっせと準備をしている雪乃の姿を思い浮かべてしまうと笑みがこぼれてしまう。

 俺は、おにぎりを睨みつけると、手に残っているおにぎりを二口で飲み込む。

 

「うっ・・・・。やばいかも」

 

 手元にある麦茶だけでは用が足りず、急ぎ水道の蛇口をひねりコップに水を入れる。一息に飲み干したものの、鼻から抜ける辛さは衰えることはない。だいぶ無理をすれば食べられないことはないレベルの辛さだけど、さすが山葵。食べ終わってからのダメージが絶大すぎるだろ。

 ダメージが消え去り、さらなるお茶を全て飲み干したが、次の一個に手が伸びにくい。あと2つ残ってはいるが、はたしてこれがジョーカーではないっていう保証はあるのだろうか。手からうっすら汗がにじみ出し、小刻みに震えが伝わる。唾を飲み込むこと数回。すでに唾を飲み込む唾すら出にくくなってきている。

 覚悟を決めた俺は、最後に空唾を飲み込み、すかさずおにぎりを喉に通す。驚くことに、というか、常識的に残り二つのおにぎりは普通に美味しかった。

 何を思って始めた心理戦かはわからないけど、朝から手に汗握る心理戦だけはやめていただきたいと、切に願う一日の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 一日の始まり。朝、気持ちよく目覚めれれば、その日一日はうまくいく気がする。朝の占いで、自分の星座が運勢最悪ならば、違うチャンネルに回し、都合がいい占いを見繕う気持ちもわからなくもない。たとえチャンネルを変えなくとも、占いなんて気持ちの持ちようだっていいはったり、今が今日の最悪の時間帯で後は上り調子だと思い込んだりもしたりする。

 つまりは、気の持ちようなのだが、朝の一手がその日一日引きずることはたしかである。ましてや、昨日までの出来事の積み重ねがあるのならば、人間、警戒しないほうがおかしいってものだ。

 だから、俺が由比ヶ浜の笑顔を警戒しても、なにもおかしくない。

 

 今日も昨日と同じように教室で由比ヶ浜お手製のお弁当を食べている。ありがたいことに、由比ヶ浜は雪乃のアドバイスを実行することなく、3日連続して全く同じ弁当を用意してくれていた。

 まじで、危険すぎるから雪乃のアドバイスを取り入れた応用編お弁当だけはやめてほしい。命にかかわるだろ、まじで。

 違う点があったとすれば、フリカケの代りに、小分けになったノリを用意されていることと、緑茶ではなくほうじ茶であったことくらいだ。本日も美味しく弁当を食べ終わったところまではよかった。しかし、ここからが急転直下、俺は地獄に突き落とされる。

 

「ねえ、ヒッキー。頼みたいことがあるんだけど」

 

 俺の隣の席で俺の弁当より一回り小さい弁当を食べるのを中断させた由比ヶ浜は、姿勢を改めて俺の方を向いて話しかけてきた。俺が由比ヶ浜の声が聞こえているのに何も反応しないでいると、無視していると感じたのか、由比ヶ浜は首を傾げて俺の顔を覗き込んできた。

 相変わらず頭に一つお団子結びをしているその髪型は、大学生にもなったのだから幼すぎると考える事も出来なくはないが、いまだに似合っているところを見ると、幼いどうこうよりも、俺が見慣れてしまったせいかもと思っていたりもする。

 だが、視線を頭の頂上から下におろしてくると嫌でも目につくその胸が、彼女の幼さを否定するだろう。高校のときよりもさらに成長したその胸は、男性諸君の注目を集めるのには暴力的なまでの破壊力を有していたし、その顔も高校時代よりもシャープさに磨きをかけたようで、大人の色香を漂わせるようにもなっていた。

 それらの成長した大人の色気と子供っぽい髪型とのアンバランスさが、うまい具合に混ざり合ったのが、由比ヶ浜結衣という性格にも現れているような気がした。

 

「あぁ、言ってみ。聞くだけなら聞いてやる。でも、断るけどな」

 

 とにかく嫌な予感しかしない俺は、視線を合わせることなく、とりあえずお断りの言葉を早々に差し上げることにした。

 

「はっ! そんなの意味ないし。ねえったらぁ」

 

 俺の腕をとり、揺さぶる由比ヶ浜。傍目からすれば、微笑ましい光景なのだろう。かわいい女の子が、男の子に可愛くねだってる姿にあこがれを持った時期もありました。

 しかしだ。由比ヶ浜が持ち込むお願いごとの9割以上は、厄介事だ。

 まず筆頭としてあげられるのは、俺と雪乃と同じ大学に行きたいと高校3年の1学期も終わるころにお願いしてきたことだ。せめて高校2年の冬休みなら、救いようもあるだろう。得意科目と不得意科目を見極め、センター試験と本試験でうまく取りこぼしがないように勉強を開始すればいい。

 時間があるんなら、たとえ由比ヶ浜であっても、俺も雪乃も温かく迎え入れただろう。しかしだ。なんで夏期講習の準備を考え始めようとする高校3年1学期終了直前なんだ。高校3年の夏季講習なんて、一通りの受験勉強を終えて、試験に向けて再確認する時期だろ。なのに、なにを好き好んで受験勉強をスタートせねばならない。

 俺が諦めモードで話しを聞いたのは当然として、あの雪乃であっても顔が凍りついていた。氷の女王といわれる雪乃を凍りつかせるなんて、すさまじすぎるぜ、由比ヶ浜パワー。

 だから、由比ヶ浜のお願いは、十分すぎるほど警戒すべき案件である。

 とまあ、大学2年になってさらなる破壊力をえた由比ヶ浜は子供のごとくねだりまくる。俺もそんな由比ヶ浜を放置することもできず、結局話を聞く羽目になる。教室で話題を振ったのさえ、俺が断りにくくするためじゃないかって疑いたくもなるが、なんだかんだいっても由比ヶ浜に甘いんだよなと大げさにため息をついた。

 

「とりあえず腕を離せ」

 

 俺は、乱暴に腕を揺さぶるが、由比ヶ浜の方も引けない用件があるらしく簡単には手を話してはくれない。ここまで強硬に出られると、かえって由比ヶ浜のお願いが恐ろしくもなり、俺の顔は引きつってきてしまう。

 

「話を聞いてくれるまで、は・な・さ・な・いぃ~」

 

 強硬手段に訴え始めてきた由比ヶ浜をこのままほっとくこともできず、とりあえず話だけは聞く事にする。ただ、とりあえず話を聞いて、やっぱり聞かなかった事にできることなんてあるのかは疑問であったが。

 

「揺さぶられてたら話をきけないだろ」

 

「あっ、そっか」

 

 ぱっと腕を離し納得するあたり、なんでうちの大学に現役で合格できたのか不審に思えてしまう。雪乃の親の力を使ったとしても、裏口入学なんて無理だろうし、そもそも雪乃が賛成するわけもない。だったとしたら、底抜けにあほ過ぎるところが、合格の決め手だったのだろうか。俺や雪乃の言うことを、心から信じて、馬鹿まっすぐにやり遂げられる精神構造が奇跡をよんだんじゃないかって、最近思ったりもする。

 

「で、なんだ?」

 

「あ、そうそう。それでね、1年生の英語のDクラスって知ってる?」

 

「あれだろ? 大学に入学してすぐに受ける英語のクラス分け試験のやつだよな」

 

「うん、そうそう」

 

 英語のクラス分けテスト。成績のいい順に振り分けられる英語の授業だ。大学受験が終わったと気を抜いていると、突然突き付けられる非常にうれしくない英語の試験ともいう。誰もがうれしいと思うことがない最初のイベントだった。

 ちなみに、俺と雪乃は、順当にAクラスに在籍していた。あと、由比ヶ浜もAクラスを獲得している。

 それもそのはず。俺達は大学受験が終わっても、由比ヶ浜の勉強をやめていなかった。そもそも由比ヶ浜の現役合格なんて夢物語であったから、来年に向けての受験勉強でもある。そして、大学に入ったとしても勉強についていけないのならば、中退するリスクが出てしまう。俺と雪乃が無理をして合格させたのに、中退なんてさせたら由比ヶ浜の両親にも申し訳ない。ならば、卒業までさせるのが人情ってものだ。

 俺と由比ヶ浜は同じ学部だし、俺が由比ヶ浜の勉強をみるってことになったが、クラスが違うとなるとフォローもしにくい。よって、入学して最初のクラス分け試験も念頭に入れて、由比ヶ浜に勉強を教え続けていたというのも当然の出来事であった。

 まあ、とうの由比ヶ浜は、やっと受験勉強から解放されたと思ってたところで英語漬けの毎日を強制させられた。俺や雪乃に対して、鬼・悪魔と連発していたけど、その気持ちはわからなくもない。

 だけど、許せ。これも親心ってやつだ。半分程度は、自分の受験勉強以上にストレスをため込み、体力を擦り減らしてしまったうっぷんを由比ヶ浜にぶつけてたけど、それも愛嬌っていうもんだ。

 

「それでね、今年のDクラスの人たちに頼まれてさぁ・・・・・」

 

 首をかしげて覗き込む由比ヶ浜の姿は、女の子の姿としては可愛いのだろう。しかし、今の俺には、地獄からの招待状を届ける悪魔にしか見えなかった。

 

「・・・・なんだよ」

 

 俺の声には不安がにじみ出ていたはずだ。それなのに由比ヶ浜は、俺の表情をあえて無視して自分の用件を述べてきた。

 

「ヒッキーにその人たちの勉強見てほしいの」

 

 そして言い終えると、手を合わせ、頭を下げてくる。顔を下に向けながらも、ちらっ、ちらっと俺の顔色を覗き込む姿、わかいいじゃないか。でも、俺も対由比ヶ浜用に訓練された男。この程度ではびくともせんぞ。

 

「お願いします。ヒッキーしか、頼れる人がいないんです」

 

 さらに深く頭を下げてくる。外野からは、ひそひそ声のはずなのに、俺への突き刺さる非難の言葉があがってくる。

 お前らは外野で実害ないから、軽い気持ちで引き受けろって言えるんだ。実害を受ける俺の方としたら、たまったものじゃない。

 

「頭を上げろって・・・」

 

 由比ヶ浜の肩に手をかけ、頭を引き上げる。目にはうっすらと涙をため込んで、うるうるを見つめてくる。くぅ~んと寂しげな瞳をきらめかせるのは、やめなさい。由比ヶ浜に同情する外野は、さらに俺への非難を強めてしまう。これだったら、下手に顔を上げさせるなんてしなければよかったと考えはしたが、どちらにせよ俺は詰んでいたはずだ。

 

「わかったよ」

 

 俺は、視線を横にスライドさせ、なるべくぶっきらぼうに返事をした。

 

「ありがとう、ヒッキー」

 

 元気一杯にお礼を述べると、すかさず俺に抱きつき、ふくよかな双胸を押し当ててくる。雪乃とは違った破壊力抜群の柔らかさに、血のめぐりが加速する。小柄で丸みを帯びた肉体。だからといって、たるんでいるわけでもなく、しなやかな柔らかさがじかに伝わってきた。

 

「わかったら、とりあえず離れろって」

 

 俺は無理やり邪険に由比ヶ浜を振り払い、冷静さを取り戻そうと躍起になる。それでも沸騰した血はなかなか適温には戻ることはなさそうであった。

 

「ごめん、ごめん。うれしくて、つい」

 

 名残惜しそうに俺から離れる由比ヶ浜をみて、はやし立てる外野はこの際無視。

 

「でも、俺のできる範囲だからな。もし、うまくいかなくても、文句言うなよ」

 

「うん」

 

 元気よく返事をする由比ヶ浜をみて、どこまで納得しているのか判断しかねる俺だった。

 とりあえず、教室で俺達の寸劇をみている連中にどう言い訳しようか・・・・。って、どんな言い訳しても無理でした。

 現行犯だし・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 午後の講義の後、由比ヶ浜に連れられて行かれたのは、少人数用の小さな教室だった。主に外国語の講座なんかで使われていた気がする。部屋に入ると既に人は集まっていて、十数人の生徒が席についていた。由比ヶ浜は室内を見渡し、そのまま教壇の上に立つ。

 教壇に立って由比ヶ浜が授業をする風景をふと考えてみたが、あまりにも現実から離れ過ぎていて想像できない。思わず笑いそうになってしまったが、皆俺達を注目していたので、口元を抑えて無理やり隠した。

 

「皆そろってるみたいだね」

 

「はい。全員そろっています」

 

 由比ヶ浜が一番後ろの席まで届くようなはっきりとした声で告げると、一番前に座ってるいかにもまじめそうな学生が全員を代表して応えた。ただ、まじめそうであって、勉強ができるではない。

 そもそも勉強ができるんなら、英語でDクラスになんてなってはいないはずだ。しかしだ・・・・・、元から勉強ができないわけではない、と考えている。なにせ、由比ヶ浜みたいな特例はあっても、一応うちの大学の入試をパスしている。最近はAO入試とかあるし、なかにはとんでもない奴もいるらしいけど。

 

「こちらは、ヒッキー・・・・、じゃなくて、比企谷八幡」

 

 おい。ヒッキーはやめろ。うちの学部でも、ヒッキーって言う奴がたまにいて、うざい。ほとんどが比企谷だけど、ノリでヒッキーって言う奴がいるけど、諸悪の元凶は、お前なんだよ、由比ヶ浜。

 

「ども」

 

 俺は由比ヶ浜の紹介に応じて、短く挨拶をこなす。

 

「お噂は、かねがね聞いております。あの由比ヶ・・・・ではなくて、試験対策のプロだとか」

 

 やはり今回も俺の挨拶に反応したのは、先ほど挨拶をした真面目そうな生徒だった。

 あぁ、やっぱり由比ヶ浜に勉強を教えている関連の噂は1年まで届いてるか。まさしく調教だからな。教授だって、こいつの成績と顔が重ならないらしいし、いつぞやはカンニングまで疑われる始末。そんときは、雪乃が怒って、大騒ぎになって、挙句の果てには陽乃さんまで出てきたんだっけ。大怪獣パニックそのもので、見ている方は楽しかったけど、あの助教授かわいそうだったよなぁ・・・・・。

 と、俺に集まる視線を遠ざける為に遠い思い出に浸ってみたりする。けど、やってみたものの、痛いほどの視線はかわらなかったけど。

 

「いいって。由比ヶ浜に勉強教えてることをきいたんだろ。こいつも自覚してるし、変に気を使わなくていい」

 

「あぁ~・・・・・。私には気を使ってほしいかも」

 

 俺はさりげなく真面目生徒さんの言いなおしをフォローし、とりあえず由比ヶ浜の事は気にしないでおく事に決めた。目をスライドして、ふてくされてる由比ヶ浜をちら見するが、すぐさま視線を前に戻す。

 

「別に気を使わなくっていいってよ」

 

「ちょっと、ヒッキー」

 

 きゃんきゃん騒ぐな、鬱陶しい。みんな知ってるんだから、オープンにした方が話がしやすいだろ。だから、由比ヶ浜は、無視っと。

 

「それで、勉強を教えてほしんだって」

 

「お願いします」

 

 俺の問いかけに、今度は代表の真面目生徒だけでなく、全員が一斉に声を合わせて言うものだから、声が響いてちょっとだけどびびってしまう。こっちは小心者なんだから、お願いするにしてもビビらせちゃだめだって。

 

「うふぉん。えっと、それで・・・、英語ならいいけど、専門は無理だぞ。Dクラスって、全学部から集まってるし、専門までは面倒はみられない。それと、第2外国語もドイツ語ならOKだけど、これも英語とやり方だから、できれば自分たちで対処してほしい。それでも、専門もやり方くらいは教えられるかな・・・・・」

 

 そもそも大学の勉強なんてなんてものは、高校とは違う。人手をかければかけるほど楽ができる。なにせ、サークルで試験対策サークルなんてものまで存在する。もちろんサークル名がそのまま試験対策サークルではないけど、実情は試験・レポート・ノート、そして、遊びだ。

 なんだかんだいって、みんなで楽して勉強をやっちまって、あとは遊ぼうっていういかにも健全なサークルなわけだが、ノウハウを知っていれば、個人でもできる。そこんところをDクラスの連中に教えて、実行してほしいんだけど、いきなりは無理だろうなぁと、まだ始まってもいないのに気が沈んでしまった。

 

「とりあえず、前回の小テストみせてくれ。実力がわからないと対策の立てようもない」

 

 あらかじめ集められていた小テストの答案を、またもや真面目生徒さんが持ってくる。

 どれどれ・・・・・・。

 ごめん。先に俺の心が折れちまった。

 なにせ、大学受験を宣言した高3夏の由比ヶ浜が勢ぞろいだったのだから・・・。

 どうすりゃいいって言うんだよ!

 

 

 

 

 

 

 

 とにかく勉強会の準備も必要ってことで、勉強会は明日の朝7:30からと告げて終了させる。一応次回の授業でやる範囲の全訳だけはしとくようにと指示はしておいた。

 はぁ・・・・・。先が思いやられる。由比ヶ浜一人でも大変なのに、今度は十数人もいるなんて。

 そんな明らかに暗い俺のことを心配して、由比ヶ浜が声をかけてくる。いたわるくらいなら、最初から難題持ってくるなといいたいところだけど。

 

「ヒッキーごめんね。なんか思ってたより大変そう」

 

「そうだよ。あいつら全員お前レベルなんだ」

 

「じゃあ、大丈夫だね」

 

 さっきまで心配そうにみつめていやがったのに、もう能天気に笑っていやがる。どういう頭の回路をしているか、一度調べたいものだ。

 

「どこに、そんな楽観視できる要素がある?」

 

「私レベルなら、きっとヒッキーがなんとかしてくれるでしょ」

 

 自信満々に俺を覗き込む姿に、NOなんて言えやしない。みえじゃないけど、信じてもらえるっていうのも悪くはなかった。

 

「はぁ・・・・」

 

 俺は、わざとらしく大きなため息を見せる。そして、大きなためをつくってから、ゆっくりと語りだした。

 

「あんまり俺に頼りすぎるなよ。今回だけだ」

 

 ぶっきらぼうに語り、目を横にそらしたはずなのに、由比ヶ浜はすぐさま俺の目線に移動してじっくりと瞳を覗き込んでくる。そんなに見つめられると、ドキドキしてしまう。もちろん2つの意味で。

 1つ目は、異性としての由比ヶ浜。

 そして2つ目は、こんな光景を雪乃に見られたらと思うと、包丁沙汰騒ぎどころじゃない!

 

「ひひひ・・・」

 

 にっこり笑う由比ヶ浜の口から、白い歯がこぼれる。こいつ、最近わかっててやってる節があるから困ってしまう。だから、俺は軽口をたたくしかなかった。もちろん、由比ヶ浜に対して、重いペナルティーつきでだ。

 

「ちょうどいい。お前も補習一緒に受けろよ。去年の復習だし楽なもんだろ。もちろん去年のノートをみるのはNGな」

 

「なっ!」

 

 白い歯をのぞかせていたと思ったら、今度は唖然として口をあほっぽく丸くしている。天国から地獄とは、こういうことなんだなと、実験成功をふむふむと感心する。

 

「あ、、、あたしは関係ないじゃん。もう単位とったし」

 

「英語は、卒業しても必要だし、これからの授業でも英語の文献使うだろ。それに英語の資格とるかもしれないから、やっといて損はない」

 

「えぇ~」

 

 不満たらたらの由比ヶ浜をみると、なんかすっとするが、ここはあえてやる気が出るご褒美も与えておくか。

 

「お前が予習して分からないところがあれば、あいつらも大抵わからない。俺を助けると思って、手伝ってくれるとうれしい」

 

「そうなの?! じゃあ、やってあげる。しょうがないなぁ、ヒッキーに頼まれたんじゃ、やらないわけにはいかないし」

 

 由比ヶ浜があほの子でよかった。こいつほど扱いやすい奴はいないんじゃないか。尻尾をプルプル振り回しながら、ぶつぶつつぶやくのを横目に、もう一度ため息をつく。どんなに御託を並べても、人に勉強を教えるっていうのはストレスが溜まりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

6月14日木曜日 夜

 

 

 

夕方、由比ヶ浜に連れられ、Dクラスの連中に紹介された夜。俺は平塚先生からの電話を受けていた。

 

「まじで全員由比ヶ浜状態なんだから、しゃれにならないですよ」

 

 今日に限って言えば、俺が平塚先生に一方的に愚痴をぶちまけていた。普段だったら俺の方が聞き役に回って、何時間も平塚先生の愚痴を聞く羽目になる。ただ、平塚先生が愚痴を言う場合は、電話でというよりは実際に会って、しかも酒を飲みながらという恐ろしいシチュエーションなのだが、悲しい事か最近ではその対応にも慣れてきてしまっていた。

 

「それでも君は見捨てないのだろ?」

 

 俺の心の叫びを聞いてもなお平塚先生は冷静な返答を告げてくる。どうして人の悩みって冷静に対応できるのだろうか。やはり自分の事ではないから、あくまで他人事だからなのだろうか。でも平塚先生の事だから、真面目に聞いてくれているんだろう。俺は、少しでも疑ってしまった事に罪悪感を覚え、心の中で小さく謝罪を入れておいた。

 

「見捨てる見捨てない以前に、見捨てることができない状態なのですが」

 

「君らしいな。だけど、どんな状態であろうと、逃げようと思えば逃げられるはず。たとえどんな評価が下されようとも、逃げてしまうやつは逃げてしまうよ」

 

 たしかに逃げようと思えば逃げられたかもしれない。平塚先生が言うような最低なレッテルを貼られないまでも、うまく言いくるめて逃げることもできたはずだった。

 だけど、俺はそれをしなかった。なぜか? 答えはいくつか浮かんだけど、答えを出したいとは思えなかった。

 

「そうですかね。俺は、楽したいんですけどね。ただでさえ、自分の勉強の方で手一杯なのに、由比ヶ浜の世話もしてるんですよ」

 

 だから、俺はお茶らけて語りだすしかない。自分の気持ちをうやむやにする為に。

 

「ふふっ・・・、それが今君が出した答えならば、そうなんだろうな」

 

 なにか含みがある笑い方をするので、裏を読もうとしてしまう。が、すぐにそれは霧散させる。裏を読もうとするたびに深みにはまってしまうので、無駄なことはしない。

 だけど、俺が熟考する前に、平塚先生は今の話題を打ち切り、本来の要件を打ち出してきた。

 

「それはそうと、今日電話したのはだな、明日行くラーメン屋を変更してもらいたい」

 

「それは、かまわないっすよ」

 

「そうか。それは助かる」

 

「それで、どこにするんですか?」

 

「総武家にしようと思う」

 

「いいですけど、最近よく行ってるから、別のところにするんじゃなかったんですか?」

 

「そうだったな。だけど、ちょっと確かめたいことがあってな」

 

「そうですか。それで、何を確かめるんです?」

 

「まだ噂の段階なので、総武家に行ってから話すよ」

 

「はぁ・・・・・・」

 

 俺が訝しげな声を洩らしても、平塚先生は気にしていないようである。どうも由比ヶ浜といい、平塚先生といい、俺にトラブルを運んでくるようにしか思えなかった。そもそも朝の出だしが悪かったんじゃないかって、ほんのわずかだけど雪乃を恨みたくもなりもした。

 雪乃に悪気があったわけでもないし、いや、あったのか。えっと、あの特性山葵入りおにぎりを食べてから、俺の運が下降気味な気もする。

 別に俺と雪乃の間だけのことならば、微笑ましいエピソードで終わるけど、朝、由比ヶ浜につかまったことを考えると、おにぎりもマイナスエピソードに思えてくるのは人間の負の心理連鎖とも言えるのだろうか。

 まあ、俺の気持ち次第で何事もプラスにもマイナスにも変化してしまうけど、いくら雪乃がプラスの極致といえども、今日の由比ヶ浜と平塚先生のマイナス要素にはプラス要因が少なすぎるようだった。

 

「なにか暗いな、君は。今までみたいに、一人でなんでも抱え込む癖がまたでてきたのではないだろうな」

 

 平塚先生が俺の事を心配してくれているのに、どうも沈んだ気持ちは浮上してはこない。だから俺は、自力で方向転換することにした。それに、こればっかりは俺の気持ちの持ちようによるものだしな、と自分を強引に丸めこめようとした。

 

「大丈夫ですよ。いくら俺が一人で抱え込もうとしたとしても、雪乃が目を光らせていますからね。ちょっとした隠し事でさえ見抜かれてしまって、たまったものじゃないですよ。だから、前みたいに一人で解決しようだなんて思ってもいませんし、今では一人でやる方が非効率だと思っていますよ。それに、使える人材はフル活用すべきですよ。そうすれば自分が楽出来ますから。・・・あぁ、そうだ。平塚先生とラーメン屋行くことを雪乃に話したんですけど、大変でしたよ」

 

 気持ちが暗くなっていくのを振り払うように、努めて明るく話題を切り出す。それを聞いた平塚先生は、一呼吸あける代わりに小さくため息をついて間をとると、俺の話に大人の対応で応じてくれた。

 

「別にラーメン屋に行くくらいで、なにが大変なんだ?」

 

 俺は、まだ、平塚先生の要件がマイナス要件だと決定したわけでもないが、つい頼れる大人だということで、由比ヶ浜へのうっぷんを吐き出してしまう。甘えだってわかってはいるけど、それをあえて受け止めてくれる平塚先生に頼ってしまう。

 

「雪乃に包丁で脅されました」

 

「はっ?」

 

 さすがの平塚先生でも言葉を失う。緊張感が電話ごししからでも伝わってきた。そう思うと、からかってみたいと思うのが人の心情というもので。どことなくもやもやしていた気持ちがさっぱりとしだして、顔の血色もよくなっていく気がした。

 

「雪乃以外の女とデートするなんて許せないそうです」

 

「デートではないだろ。教師と教え子だし、それは卒業してもかわらない」

 

「そうですよね。でも、平塚先生は綺麗でとても魅力的じゃないっすか。しかも、俺が平塚先生に色々と頼ってしまうところもあるし」

 

「それでも・・・・」

 

 だんだんと平塚先生の声が震えてきているのがわかると、こっちも調子にのってしまう。

 

「雪乃からすれば、俺達の性格がうまく一致してるって思ってしまうのかもしれませんね」

 

「たしかに君とはラーメンの趣味も合うし、話しても楽しいとは思う。だけど・・・・」

 

「安心してください。俺もそう思ってますから。だけど、これは平塚先生だからってことで言ったわけではないのですが、もし俺が浮気なんかしたら・・・・・」

 

「浮気なんかしたら、どうなのだね・・・・」

 

 息をのむ音が電話口のむこうから聞こえてくる。それがかえって俺を慎重にさせ、なおかつ調子づかせる。

 

「包丁で刺すそうですよ」

 

 俺は爽やかな声で言い放った。

 

「ひっ!」

 

 電話越しだというのに、その恐怖の声がリアルさを俺の中に芽生えさせた。そして、そのあまりにもの驚きように、やりすぎたのではないかと後悔の念が押し寄せる。たしかに雪乃だったらって、平塚先生も思ってしまうかもしれないけど。

 

「嘘です。冗談です」

 

「本当かね?」

 

 まじでビビって涙声じゃないか。思わず手を震わせながら電話をしている平塚先生を思い浮かべてしまう。そうすることで、さらなる罪悪感を感じてしまう悪循環に入ってしまった。

 これは早めに切り上げておくべきだな。平塚先生もそうだが、あとでこの会話の事が雪乃の耳に入ってしまったらと考えると、平塚先生が感じている以上の恐怖を感じずにはいられなかった。

 

「本当ですよ。でも、言ったことは確かなんですけどね」

 

「どっちなのかはっきりしたまえ。・・・・・・言ったってことは、言ったんだな。私を刺すのか? あぁ、結婚して、子供も産んでいないのに死ぬのか」

 

「ちょっと、ちょっと平塚先生。冗談で言ったんですよ。俺を脅かす為に雪乃が言っただけですって」

 

 あくまで冗談っぽく、和やかに。これが悪い悪戯だと思われない事が重要だ。俺の声は、うまく冗談っぽく言えているだろうか。なんだか平塚先生の声を聞いていると、俺の方まで手が震えだしてしまいそうであった。

 

「君を脅かす為に雪ノ下が言ったっていうのか。・・・・・そうか、そういうことか」

 

 どうにか平塚先生は落ち着いてきたようだが、今のうちにあやまっておくか。雪乃じゃないが、平塚先生も怒らせると怖いし、親しき仲にも礼儀ありってことで。

 

「脅してしまって、すみま・・・」

 

 俺は、最後まで謝ることができなかった。あと数秒早くいいだしていたら言えたかもしれないが、最後の最後で平塚先生の声が俺の謝罪を遮った。

 

「比企谷」

 

 重たい声が俺の耳に届く。俺ののぼせきった心を冷ますには十分すぎるほどの威力を持ち合わせていた。

 遅かった。謝るタイミングをミスったことに気がついたときには、時は遅く。もはや、嵐が去るのを待つしか手段は残されていない。

 

「はい」

 

 緊張した声で俺は返事を返す。

 

「明日、楽しみにしておくように。おそらく、君の力を借りることになると思う」

 

「力を貸したいのはやまやまなのですが、あいにく忙しいので。ほら、由比ヶ浜の件もありますからちょっと・・・・」

 

「ちょっと何かね?」

 

 不機嫌そうな声が俺を詰問する。俺は電話の向こうにいる平塚先生を見ないはずなのに、片方の眉をピクリと吊り上げ、眼光鋭く睨みつけている姿が見えてしまった。

 

「なんでもありません」

 

「わかればよろしい。では明日、総武家の前で」

 

「はい」

 

 俺の小さな声の返事に満足したのか、晴れきった声が聞こえて電話は終了した。電話後、俺には、後悔の念しか残っていなかった。もちろん自分のしでかした過ちについてだ。

 これでトラブル二つ目確定じゃないか。やはり朝の山葵おにぎり直前までが今日の運勢の最高点だったらしい。最高点ってことは、後は下るしかないが、いつまで下るのかは俺も想像できなかった。

 

 

 

 悪いタイミングは重なるわけで、俺が平塚先生との電話をじっくりと後悔している暇もなく、電話を切るとすぐさま次の電話がかかってくる。携帯の表示を見ると、雪乃からであった。本来ならば嬉々して電話をとるが、平塚先生をからかったネタが雪乃であったこともあり、気が重い。

 

「もしもし」

 

 俺は、平塚先生の後遺症を引きずったまま暗い声で電話に応じてしまう。

 

「珍しく話し中だったものだから、かけ間違えたのかと思ってしまったわ」

 

 雪乃は、棘がある言葉を浴びせてきてはいるが、その声は明るい。俺も雪乃の声が聞けて、自然と声が明るくなっていくのが感じられた。

 

「俺だって電話することくらいある」

 

 たしかに珍しいけど、ないことはない。

 

「小町さんかしら?」

 

 疑ってやがるな。ここは今日のことを踏まえて、正直に、かつストレートに言ったほうが被害が少ないはずだ。

 

「ちげーよ。平塚先生だ。明日のラーメン屋、いくところを変更だってさ」

 

 さも事務的な報告を強調すべく端的に言ったけど、かえってわざとらしすぎたか?

 

「そう。・・・・そうなの」

 

 あまりにもしおらしい反応に対応困ってしまう。こちらから話を振れば、墓穴を掘りそうだし、困ったものだ。

 

「総武家に行くことにしただけだ」

 

「そっか・・・・そうね」

 

「そうだ」

 

 なにこの受け答え。先に手を出したほうが負けなの?  心理戦だったら雪乃が有利に決まってるから、もう詰んだのかよ。

 

「ねえ八幡」

 

「はひっ?」

 

 雪乃のやや重い声に思わず声が裏返る。やましいことなんてないのに。絶対ないはずなのに。

 

「なんて声出してるの」

 

「ちょっと考え事してて」

 

「私と話しているのに、他の事を考えてたっていうのかしら?」

 

 やばい、墓穴を掘ってしまった。どうする、どうするよ、俺。

 

「それは、ええっと。なんだ・・・・・」

 

 何も思いうかばねぇ。その事さえもわかっているのか、呆れた声が聞こえてきた。

 

「まあいいわ。明日平塚先生と会うのだったら、明後日うちに食事に来てくださらないか聞いてくれないかしら?」

 

「どうして?」

 

「どうしてって、あなたが平塚先生にお世話になってるっていったんじゃない」

 

「そうだっけ?」

 

「そうよ。いきなりすぎて平塚先生の予定が埋まっていなければいいのだけれど」

 

「それは大丈夫だと思うぞ。なにせ、クリスマスだろうとスケジュールは 真っ白って豪快に笑って・・・・・、泣いてたからな」

 

 きつい。自分で言っておきながら、悲しすぎるだろ平塚先生。

 

「そうなの? それならば、聞いておいてね」

 

 雪乃は、平塚先生の悲しすぎるスケジュールを聞いてもなお平然と話を進めていく。もはや雪乃にとって平塚先生が一人でクリスマスを送ることが当然の出来事になっているようであった。

 

「ああ、予定聞いたら早めに雪乃にも伝えるよ」

 

「そうしてくれると助かるわ。それでね八幡」

 

 雪乃の神妙な声色に、俺は再び警戒感が走ってしまう。

 

「まだあるのか?」

 

「用ってことでは、ないのだけれど・・・・・」

 

 平塚先生を食事に誘うことは、本題ではないのだろう。それに、雪乃が言う通り用もないと思う。

 つまり、用がないこと自体が用ってことで。普段なにも話すこともなく、黙々と二人で勉強している時間。けっして二人で楽しく会話をしているわけでもないが、至福な時間だって胸を張って言える。何をするかが問題ではない。誰と過ごすかが重要なのだ。たとえ話す内容がないとしても、今日の食事の話だったり、大学の話だったり、他人が聞けばつまらない話だろうが、俺達にとっては、楽しい会話が成立する。だから俺達は、くだらない話をながながと話続けることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 雪乃との楽しい電話が終わり、気がつけば深夜になっていた。まだ風呂も入っていないことに気がつく。とっととシャワーだけでも浴びて寝ようかと動き出したところだが、またしても電話の着信音に呼びとめられた。

 携帯の表示を見ると、雪ノ下陽乃と表示されている。見なかったことにしてシャワーを浴びたい気持ちが非常にでかかったけど、電話に出ないと後が怖いので、渋々電話に出ることにした。

 

「もしもし」

 

「もう寝てた?」

 

 不機嫌な声がもろに出てしまってたか? しかし、すでに睡眠中と誤解してくれたおかげで難を防げたようだった。

 

「そうっすね」

 

「そんなことないか。だって、雪乃ちゃんと今さっきまで電話してたよね」

 

 知ってたんなら、かまかけるなって言いたい。こっちが適当なこと言ってるのばれるだけじゃないか。

 本当にこの人には敵わない。

 

「わかってるなら、変な探り入れないで下さいよ」

 

「だって、比企谷君に電話しようとしても、なかなか雪乃ちゃんが比企谷君のこと離してくれないんだもの。だから、少しくらい虐めてもいいよね?」

 

 非常に納得できない要求を突き付けてくるのに、いたって楽しそうに告げてくるから、俺の方もあまり暗い声にならない。しかし、非常に憂鬱な気持ちにはなるが、

 

「やめていただけると助かります。それに用があるんだったら、直接雪乃に言っておけばいいじゃないですか」

 

「それは無理」

 

「どうしてです?」

 

 やはり今日の最後もトラブルか? 俺の声に警戒心が漂う。

 

「土曜日、静ちゃんと食事するんでしょ。だったら私も用があるから一緒に食事したいなぁって」

 

 それほど大した要求ではないことが分かり、俺の声からも堅さが抜ける。陽乃さんのことだから、今日一日の最後と言う事も加味して相当な覚悟はしていたのに、ある意味肩すかしではあった。まあ、肩透かしにならないことを喜ぶべきではないのだが。

 

「それだったら、なおさら雪乃に言ってくださいよ」

 

「駄目よ」

 

「駄目って・・・・」

 

「だって、雪乃ちゃんに言っても断られるだけじゃない。比企谷君に言えば断られないでしょ」

 

「わかりましたよ。俺の方から言っておきます」

 

「ありがとう。じゃあ、土曜日にね」

 

 それほど大変なお願いではなかったので、俺は気兼ねなくお願いを受理する。しかし、あっという間にハリケーンは過ぎ去ったが、疲労感半端ない。もうこれ以上話を長引かせたくなくて、簡単に引き受けたけど、そもそも雪乃だって陽乃さんのこと嫌いじゃないのにと、雪ノ下姉妹の関係を思い悩む。

 たしかに雪乃も嫌がるそぶりは見せるけど、本音は嬉しいはずだ。面倒な姉妹かもな・・・・。

 もう思考の限界か。さっさとシャワーを浴びて寝ることにしよう。

 明日はトラブルがありませんようにと、切に願って。

 

 

 

 

 

 

 

6月15日金曜日

 

 

 

 そして、本日第一回英語勉強会を迎えた。やるき満々の由比ヶ浜は一番前の席を陣取ってるけど、ここはあえてスルーする。

 お前がやる気を出しても、他の奴らの成績が上がらなきゃ意味がないと視線を送っても、由比ヶ浜はエールだと勘違いしているようだった。

 

「提出してもらった全訳は、悪くはない。悪くはないけど、よくもない。よくない理由が分かる人?」

 

「はいっ」

 

 俺の質問に、由比ヶ浜が元気よく手をあげてこたえる。

 お前が手を上げても意味がないんだって。しかも、お前には今までみっちり教えてるんだから、わからないほうが問題だ。

 由比ヶ浜の勢いに委縮したのか、誰も手を上げようとはしない。そもそもわかっているんなら、ここにはいないけど、積極性に欠けるのはどこも同じか。

 

「わからないところはそのままでいいって言ったけど、わからない理由まで書きこんでほしい。まあ、俺がわからない理由まで書くように指示してないから書かなかったって言えばそれまでだけどさ。あと、テキスト量が多いから、雑になってるっていうのも問題だ。こんなのまだまだ少ない方だし、専門課程入ったら英語の参考資料も使うだろうし、このままの速度だとちとやばい」

 

 なんかお通夜モード・・・・・。わかっちゃいたけど、これをやる気にさせるのも俺の仕事なのか? つーか、昨日のやる気はどこにいったんだ?

 

「というわけで、強制的にやる気を出してもらいます」

 

「えぇ~」

 

 俺の命令に、由比ヶ浜がDクラスを代表して、ただ一人批難の声をあげる。他の連中は、顔をしかめることくらいはするにせよ、声に出してまでは不平を訴えてはこなかった。

 由比ヶ浜よ、あからさまに嫌そうな顔をするなって。お前ほど、落差が激しい奴はこの教室にはいない。まあ、お前が一番つらい勉強を強いられてきたのは知ってるから、その表情もわかるけど・・・・・、今はやめろ。経験者が語るって奴で、教室にいるやつらがドン引きしているだろ。

 

「由比ヶ浜」

 

「なになに」

 

 椅子の上で座ったままピョンピョン跳ねるあたり、単純すぎる。俺に名前呼ばれただけなのに、現金なやつ。

 

「お前は経験者だし、普通はペアだけど、お前を抜いた人数が偶数だから、お前は一人な」

 

「えぇ~・・・・え~」

 

 先ほどの倍以上の由比ヶ浜の悲鳴に、今度はDクラスの連中さえうろたえてしまう。

 反抗的な視線を見せたって、お前が持ってきたトラブルだろと批難の視線を由比ヶ浜に送る。しかも、さっきの「えぇ~」よりも、数段厭味込めただろ。

 

「反抗的なやつは、厳しいペナルティーを課します。あと、ノルマをやってこなかったやつも同様だ。ちなみに、今回のペナルティーは・・・・、由比ヶ浜、今回皆で分担して全訳するところをお前は一人で全部やってこい」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 今度は反抗的な声さえ聞こえてこなかった。

 あ、まじでショック受けてやがる。口をパクパクさせて、悲しそうな目で俺を見つめてるなぁ。やば、ちょっと薄っすらだけど、目に涙溜まってないか? やりすぎたか? ま、あとでフォローいれておくか。

 と、気楽に由比ヶ浜の事は処理しておいたが、Dクラスの連中の気を引き締めるのには有効であったようだった。俺は、その勢いを借りて話を進めた。

 

「それじゃあ、具体的な手順説明するな・・・・・・」

 

 大まかに言うと以下の通りだ。

 毎回ペアを組んで、分担された自分の範囲を全訳する。

 ペアは、毎回違う人にする。

 分からないところは、分からない理由を書く。単語の意味などは、分かる範囲で書く。

 人に聞いてもいいけど、人に聞いた訳をそのまま写すのはNG。

 ペアを組んだ人と、分からないところは教え合って、できる限り全訳を埋める。

 ざっと言えばこんな感じだけど、いくらテキスト量が多いといっても人海戦術を使えば短時間で終わる。しかも、ペアを組むことで責任感をアップ。まさしく隣の味方は監視役ってやつだ。自分がやらなくても誰かしらがやってくれるなんて甘い考えを捨てさせる作戦だけど、うまくいくかはこいつら次第かな。

 でも、こいつらも高校では学年トップ集団だったはずだし、そのときの意地は残ってるはず。大学で天井が見えない実力者たちを見て落ちぶれはしたけど、やればできるやつらだと信じたかった。

 

「それじゃあ、今日はここまで。次回は火曜日の朝な。では解散」

 

 俺のおしまいの合図とともに、みんなぞろぞろと席を離れていく。やはり初日から飛ばし過ぎたかもしれない。やるきはあったはずなのに、実際始めてみると勢いが続かないのは人のサガかね。

 そのやる気を引き出すのが俺の仕事だけど、暗雲立ちこめて雷雨じゃねぇか。やる気っていうのは信用できないもので、あったと思っても、すぐさま消えちまう。たとえ10分前にあったとしても、ほんの些細な出来事で霧散する。些細な出来事っていうのは、現実だけど、人間は現実を直視できるようには出来上がってはいないらしい。だから、現実との折り合いをつけるべきだけど、それができない奴が多いわけで。

 まあ、とにかく現実って奴は面倒だ。由比ヶ浜を基準に授業をやってみたけど、こうしてみると、由比ヶ浜の根性はすさまじいって感じられる。何を言われても、きっちりと勉強してたもんなぁ。もちろん反抗的な目をギラギラ俺にぶつけてきたけど、それは仕方がない。

 俺が居残って質問してきたのを解答し終わると、由比ヶ浜は、すすすっと俺に近寄ってくる。何も言ってはこないけど、しっかり先生やってるじゃんって訴えてきてるのだけはしっかりと理解できた。

 だけど、俺が課したペナルティーが重いのか、気持ちは重めだ。

 

「由比ヶ浜」

 

「なぁに・・・」

 

 まじでまだいじけてやがる。落ち込ませたままだと、これからの調教、もとい、お勉強のモチベーションも落ちるし、やっぱ餌もやらんとな。

 

「お前の場合、分からないところは俺に直接聞けばいい。だけど、わからないからってすぐに聞くなよ。早く読む練習も必要なんだからなあと、午後時間あるし、一緒に勉強していくか」

 

「うん」

 

 元気よく返事を返してくる由比ヶ浜を見て、俺もようやくほっと一息つけた。やっぱり由比ヶ浜のコロコロ変わる表情を見るのは面白い。いじけてたと思ったら、今度は尻尾をプルプル振りながらじゃれついてくる始末。

 だけど、じゃれつくのはいいけど、腕に絡みつくのはやめなさい。誰か見てるかもしれないでしょ。

 といっても、俺達を知ってるやつらなら、いつものことかってことですまされるかな。でも、お前の柔らかい感触はデンジャラスだから、やめてほしいです。理性の崩壊が始まってしまうし、そしてなによりも、雪乃がこわい・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

6月15日金曜日 夜

 

 

 

 夕方、由比ヶ浜との勉強会を済ませ、なおかつ、さらなる課題を付け加えてやると、俺は急ぎ総武家に向かう。由比ヶ浜の質問が多いこともあって、約束の時刻はとうに過ぎていた。最初こそ早足だったのが、いつのまにかに小走りになり、今や軽く走っている。

 遅れる理由を平塚先生にメールしたけど、終わったらダッシュで来いって返信は横暴すぎる。確かに今は日が暮れて、夕食時。約束の時刻は既に2時間は過ぎているけど、・・・・・、はい、ごめんなさい。

 今もあと5分で着くってメールしたが、メールする暇があったら走れって・・・・。近くまできたらメールしろって言ったのはあんたでしょって、嘆きごとを小さく口に出してしまう。

 お腹すいてるのはわかるよ。わかるけど・・・、もう、ごめんなさい。今走ってますから。

 

 額から汗の粒がはじけ出て、前髪がぺたっと額に張り付くころ、俺はようやく総武家にたどり着く。夕食時を少し過ぎたからといっても、まだまだラーメン屋は稼ぎ時だ。美味そうなラーメンの香りが漂ってきて、すきっぱらにダイレクトに食欲をかきたたしてきた。

 

「遅い」

 

 俺が焦りを忘れて食欲を思いだしていると、きつい声が俺を叱咤する。もちろんその声の主は、平塚先生であることは見なくては理解できた。

 ラーメン屋の列の前に一人たたずむ黒い影。いつものようにスーツを着こなし、存在感を強く周囲に撒き散らしながら俺を待っていたようだ。けっして体のラインを強調するようにはできてはいないスーツであろうと、艶めかしい曲線美を作り上げている。艶やかで長い黒髪も、豊満な胸を際立たせる引き締まったウエストも、女性らしいそのヒップも、意思が強そうな瞳は威圧感を感じてしまう人もいそうだが、時たま見せる子供っぽい表情を見れば、そのギャップに心を奪われるはずなのに、どうして十分すぎるほどに人を引き付ける魅力を有しているのに、残念な恋愛経験しかないんだろうかと真面目に考えた事もあった。しかし、卒業後も私生活も通して付き合いを続けているうちに、なんとなくだが男性に縁がない理由を知ってしまったというか、知らなければよかったという境地にいたってしまった事は、平塚先生には内緒だ。

 まあ、結婚だけが全てじゃないですよ、平塚先生。けっして声には出せないけど。声に出したら殺されるとわかっていて、誰が指摘するか。

 雪乃が、将来もしものときは、自宅の隣に平塚先生の家を用意しようと真面目な顔で考えていた時は、俺も一緒に考えてしまったが、いつになるかはわからないけど、案外いい人が見つかる気がするのは、俺と雪乃の共通認識でもあった。

 とりあえず今は、ラーメン屋にならんでいる男たちの視線だけで我慢してください。列に並び、とくにすることがない男連中の視線を集める為にその魅力を使っているのは残念だけど。

 

「すんません。これでも、全力で走ってきたんで、それで勘弁してください」

 

 俺は申し訳なさそうに謝罪をする。もちろん平塚先生にだけれど、それだけではなく、俺にきつい視線を送ってくる男連中にもだ。でも、俺は恋人じゃないんで、辛辣な視線はやめてください。

 

「そうみたいだな」

 

 平塚先生は、男連中の視線など全く気にすることもなく、ハンドタオルを俺に差し出す。俺はその好意に甘えて、素直にハンドタオルを受け取り、汗をぬぐう。

 

「今度洗って返しますから」

 

「うむ。では、並ぶぞ」

 

 俺は、さっそうと列に加わる平塚先生の後を急ぎ付いていく。列に並ぶと、既に食券を買ってあった平塚先生は、俺に食券を一枚手渡してきた。総武家は、回転率アップのために店外に食券機があり、外で並んでるときに注文を取りに来てしまう。早く食べられることは嬉しいけど、初来店の人なんかは戸惑い気味だ。慣れれば、うまいシステムだとは思うけど、繁盛店ならではだろうか。

 

「これでよかったよな」

 

「うす」

 

 たしかに、その日の気分で違うものをっていう気持ちもないわけでもないが、それさえもお互い、ラーメンに関しては分かってしまう気がする。そこまでわかってしまうほど一緒にラーメンを食べまくったっていうべきかもしれないけど、ラーメンに関して趣味が合うのは確かだった。

 俺は、いそいそと食券代の小銭を手渡す。この一連の流れ。まさしく熟年の夫婦って気もしないではないが、あえて考えないようにしている。なんか考えだしてしまうと、いつの間にかに平塚先生と結婚してる気がしてしまうのは、どうしてだろうか。

 見た目は綺麗だが、性格も若干男っぽく、趣味も偏っている。だからといって、居心地が悪いわけでもなく、むしろしっくりくる。だけど、これを認めてしまうと、婚姻届を突き付ける自分の姿が目に浮かんでしまう。

 って、やばい思考を打ち消すべく、ラーメンの香りを肺に満たすことにした。意識を隣にならんでいる平塚先生に向けると、待たせたことを怒ってるわけではないみたいである。俺の視線に気がつくと、少し微笑んで、テキパキと俺が拭ききれていない汗をハンカチでぬぐってくれた。こういうときは遠慮すべきではないと、最近学んだ。遠慮すれば、怒られるし、最悪、悲しそうな顔を見せるのは、反則だって思っていたりもいる。

 とりあえず、他意があってしてくれているわけでもないし、素直に受け取っておこうと方針を決めていた。

 もともと平塚先生の方から話しかけてくるパターンが多いが、空腹が言葉を少なくさせる。俺達は、ラーメンの香りを嗅がねばならないという拷問を乗り切り、ようやくラーメンを目の前にする。空腹が最高のスパイスなどとよくいったものだが、ここのラーメンは空腹じゃなくても十分すぎるほど美味しい。逆に、空腹すぎると味が分からなくなる気もする。食欲のみで食事をしてしまうと、かえって味が分からなくなり、せっかくのラーメンが台無しだ。

 今回は、空腹ではあったが、なんとか美味しくラーメンを頂くことができ、ホクホク顔でスープをすすっていた。隣を席を見ると、すでに食べ終わった平塚先生は、ラーメン屋には似つかわない真剣な表情でドンブリの底を見つめていた。

 

「どうしたんすか?」

 

 俺の声も届かなく、しばらく沈黙のみが居残る。

 

「ゆっくり食べたまえ。今は食べることを楽しむべきだ」

 

「そっすか」

 

 俺は、あえて追及することをやめ、残り少ないラーメンに意識を集中させる。ほどなくして俺も完食し、コップの水も飲み干した。

 

「ごっそさんでした」

 

「今日も見事な食べっぷりでしたね。また来てくださいよ」

 

 俺が空になったドンブリをカウンターの上にあげると、カウンターの中から気持ちがよい声がかえってくる。総武家に通い詰めている事もあって、総武家のオーナーであり、厨房の責任者でもある大将が、よく通る声で話しかけてくれた。年はまだ30代半ばくらいのはずだが、そのはつらつとした姿は、20代でも通用する気がした。

 店の制服として着用しているお揃いの黒いTシャツに、Tシャツから伸び出る筋肉を纏ったその腕は、マッチョとまではいかないまでも、スポーツをやっている事を伺わす。そして、頭にかぶっている真っ白なタオルは、髪止めと汗どめの効果よりも、厨房の中で働くときの躍動感を増しているような気がした。

 大将は、その見た目とハキハキとした言葉使いから、体育会系の部長って感じがしてしまう。しかし、俺が体育会系イコール拒絶反応を起こしていないのは、接客をわかっていることもあるが、大将の人柄と、人との距離感をわきまえているからなのだろう。

 

「あ、はい」

 

 俺としてはやや大きめな声で返事を返す。そもそも店内で大きな声を出そうとは思っていないし、実際は普通の声よりも小さいかもしれないけど、その辺は俺の性格によるものと割り切っていた。

 俺が対象に返事をしたことで、いまさらながら平塚先生は、俺が食べ終わった事に気がつく。そして、ラーメン店では似つかわない神妙な面持ちで、大将に声をかけた。

 

「ごちそうさまでした。・・・・・それで大将」

 

「なんでしょう?」

 

 平塚先生も、いつも軽く挨拶したり、客が少なければ多少は会話をすることもある。だけど、真剣な顔で話すことなんて、今まで見た事はなかった。だから、平塚先生の真剣なまなざしをみれば、大将も警戒してしまう。

 食券を渡し、食べ終わるまでの一連の流れが変われば、人は何かあるなって身構えるものだ。

 

「閉店するそうですね」

 

 その発言は、突然だった。俺は、平塚先生の言葉に衝撃を受ける。

 千葉のラーメン激戦区。たしかに、少しは超激戦区から外れた場所にあるといえども、大手チェーン店も最近近所に開店し、経営は大変だと思う。しかし、だからといって、閉店するほど客足が少なくなってるわけではない。むしろ、客は減りもせず、多いままといってもいいほどだ。だからこそ、俺は閉店する理由が見当たらず、困惑してしまう。

 俺は、答えを求めて大将に視線を向ける。すると、すでに平塚先生から質問がくるのが分かっていたのか、穏やかな顔をしていた。

 

「もう知ってたんですね。はい、来月には閉店する予定です」

 

「あの噂は本当だったんですね」

 

「えぇ」

 

 寂しそうにつぶやく二人は、理由が分かっているのだろう。大将は当事者としても、平塚先生も知ってたわけか。だから、俺を今日ここに連れてきたってことだな。でも、俺にやってほしいことって何だろうか? なぞは謎を呼び、困惑を深めるばかりであった。

 

「なんで閉店するんですか?」

 

 俺は、当然すぎる疑問を大将に問いかける。

 

「もう噂が広がってるみたいだから言いますけど、道路拡張工事が始まって、ここのビルも取り壊しになるんですよ。でも、もうちょっとやれると思ってたんですけど、急に大家さんがね」

 

「じゃあ、移転先も?」

 

「ええ、まだ何も。いい物件ないか探しているんですけど、もともと激戦区ですし、いい物件は既にね」

 

「早く次の物件が見つかるといいですね。大将のラーメンが食べられなくなると寂しく思うお客も多いですから」

 

 大将の言葉に、平塚先生は寂しそうに返事を返す。

 

「そう言ってくださると、うれしいね」

 

「ごちそうさまでした」

 

「またいらしてくださいね」

 

 平塚先生の用事は終わったらしく、店外に出ていく。俺はもう一度「ごちそうさま」と告げると、急ぎ後を追う。

 店を出ると、平塚先生は煙草を吸おうとしていた。いらだちぎみにたばこを取り出そうとしていたが、うまくタバコは出てこないでいる。苛立ち気にたばこの箱を睨みつけ、煙草の箱を軽く握りしめると、そのまま鞄にしまいこみ、店の横に設置されている自動販売機からコーヒーを2本購入する。

 マッカンを俺に渡すと、自分は、腰に手をあてて、ブラックコーヒーを一息に飲みきる。タバコが吸えなかったいらだちをコーヒーに向けただけでなく、閉店の悲しみも含まれているのだろう。

 俺はとりあえず自分のコーヒー代を支払おうと財布を取り出すが、「奢りだ」とそっけなくつぶやくものだから、反論などできやしないでいた。自分の思い通りにできないことなんて、人生には山ほどある。思い通りにできることより、できないことの方が多いほどだ。だから、人間、忍耐強くならなきゃいけないけど、それでも、いらだちは減るものじゃない。

 ここで、俺さえも「奢り」を断ることで、平塚先生の思い通りを否定するなんて野暮なことはするなんてできまい。わかってますって、素直にコーヒーを受け取るのが、友情?、ラーメン仲間?、まあ、二人の仲ってものだろう。

 

「平塚先生の頼みって、総武家のことだったんですね?」

 

「は? 頼みって?」

 

 俺の声で我に返った平塚先生は、目を丸くして驚いていた。

 え? 電話でなにかやってもらうことがあるっていってましたよね? もしかして、老化で記憶の方も劣化して・・・・・。

 

「電話で言ってたじゃないですか?」

 

「ああ、あれは冗談だ。ここが閉店するのを確かめたかっただけだよ。それともあれか、君に頼めば閉店を取りやめにできるとも」

 

「それは、俺の力ではちょっと」

 

「すまんな。こんなこと言うべきではないな。忘れてくれ」

 

「いいんすよ。俺も閉店だなんて、ショックですから。でも、平塚先生と一緒でよかったですよ。一人だったら、ちょっと辛いかも。こういうとき、一緒にいて欲しい人が側にいてくれると助かりますよ」

 

 カランと缶が転がる音が響く。静かな夜の街にイレギュラーな音が一つ混ざり込むので、俺は、すっと視線を向けると、その先には平塚先生がぼ~っと俺を見つめる視線があるだけだった。ラーメンを食べたばかりだとはいえ、アイスコーヒーを一気飲みしたばかりだから体が熱くなるわけでもないのに、平塚先生の顔は熱いものを食べた直後のように赤く染まっている。

 しかも、俺の視線に気がつくと、うろたえて視線を泳がす始末。

 

「どうしたんすか?」

 

「なんでもない!」

 

 言葉短くいいきると、俺のマッカンを強引に奪い取り、またしても一気に飲み干す。ぷはぁって男らしい飲みっぷりに感心していると、自分が落とした空き缶を拾い上げ、ゴミ箱に捨てにいった。カランという軽い音に続いて、今度はガシャンという思い音が静かな街に鳴り響く。

 どうやら平塚先生は律儀にも俺の為にもう一本マッカンを買ってくれたようであった。俺は、差し出されたマッカンを小さな会釈で感謝の意のみを伝えると、今度こそ財布を取り出すこともなく、遠慮なくマッカンを受け取ることにした。

 よく冷えた缶コーヒーの冷気が俺から熱を奪っていく。さらに、初夏とはいえども、夜ともなれば心地よい風が体から熱を奪っていく。ラーメンを食べて得た温もりも、俺は既に使いきってしまったようであった。

 まあ、平塚先生はあいかわらず熱にうなされているようだけど、関わると危険だと本能が訴えかけてくるので、向こうの熱も冷めるまで待つとするか。

 俺は、視線を平塚先生から上の方へと移す。見上げた空には、かずかにだが街の明かりに逆らって星々が輝いていた。ほんのわずかな光量を地球に届けるのに、どのくらいのエネルギーを使っているのだろうか? 誰が見るかさえわからないのに、よく輝いていられるよと、無意味すぎるつっこみを入れてしまう。

 これからさき、雪乃との約束を果たす為に、どのくらいのエネルギーが必要なのだろうか。あの星と同じように、到着点まで光を届ける事は可能だろうかと、不安にもなってしまう。だけど、今考えたって答えなど出てくるわけもない。あの星だって、俺が到着点であるわけでもないだろうし。

 また、天文は全くの素人ではあるが、高校までで習った事などとうに忘れてしまっていたことに気が付き、軽いショックを受けてもいた。散々勉強した事を忘れるなって由比ヶ浜に上から目線で言っているのに、自分の事となると人は寛容になってしまうらしい。これじゃあいけないと気持ちを引き締め、今度天文について調べてみようかなと、実行するか疑わしい予定を立ててしまった。

 さてと、どうやら今月は、トラブルっていうか、厄介事ばかりらしい。厄介事も甘すぎるコーヒーと共に一気に飲み干し、胃で消化できないものかと儚い願いを思い浮かべつつ、俺はプルタブをひと思いに開けた。

 

 

 

 

 

 

 

6月16日土曜日

 

 

 

 太陽はすでに昇りつめ、ゆっくりと傾きかけたころ、ようやく俺は遅すぎる朝食を口にする。昨夜は、ラーメン屋に行った後、平塚先生と遅くまで話し込んでたし、主に平塚先生がだが、その後は英語の勉強会の為の準備で寝た時間などとうに忘れていた。

 英語の準備なんて明日にしてしまえばいいって悪魔が何度も誘惑してきたが、土曜日は雪乃が帰って来る。面倒事を持ち越して土曜日を迎えるのなんて嫌だった。

 面倒事なんて、仮に持ち越したとしても、精神衛生上よくないし、持ち越している時間経過ごとに精神を蝕まれてしまう度合いが増大する。締切間近まで引き延ばしたとしても、焦り、圧迫、ストレス、時間・・・・・、どれ一つ見てもプラス材料なんてない。だったら、早めに終わらせて、次の仕事に移ったほうが、よっぽど健康にいいし、仕上がりもいいはずだ。

 つまりは、楽したいだけなんだが、久しぶりに雪乃に会えたのに、雪乃にかまえないでいると、雪乃の機嫌が悪くなるのが、一番怖いともいえる。

 

 さて、朝食もとい昼食をとるべく冷蔵庫を物色しているとインターホンの鐘が俺を呼ぶ。アマゾンや楽天で注文したものもないし、この部屋にやって来る者などほぼいない。雪乃にしたって夕方に帰ってくる予定だ。

 どうせ宗教かんかの勧誘だろうと思い無視しようと考えはしたが、英語の準備が終わったことに心が寛大になっていた俺は重い脚を引きずってインターホンに応答する。

 

「どちら様?」

 

 俺が不機嫌さ一杯に声を吐き出すと、目の前の画面には、不機嫌すぎる雪乃が映し出されていた。綺麗すぎる顔立ちがいらだちをみせることで、綺麗な顔立ちが激しいいらだちを綺麗に作り出してしまい、俺へのプレッシャーは段違いに増していた。

 

「どちら様? 比企谷の妻ですけど。その他人行儀な態度は、もしかして浮気でもしているのかしら?」

 

 その表情以上に冷たい声色が駆け抜けると、俺の体温は極限以上に冷え込んでしまう。

 ろくにモニターを見ずに応答したのが悪かった。しかも、宗教だとたかをくくって、ぶっきらぼうに言ったのも最悪だ。

 モニターの中の雪乃は、画像が悪いくせに、不機嫌さだけは如実に映し出していた。

 そもそも夕方に帰ってくるんじゃなかったのか?

 あと、妻って言わなかったか? えっと・・・、怖いからあえてスルーさせ・・・いいえ、気持ちよく受け入れさせてもらいます。

 

「すまん、寝起きなんだよ。モニターも見ないで応対してさ。今すぐロック解除するな。ほら、雪乃の顔を見て、目が覚めた、覚めた」

 

「いいわ。上がっていけば、わかることだから」

 

 雪乃は、そう短く、突き放すように答えた。

 あぁ、なんなんだよ、いったい。せっかく目覚めがいい朝?、昼だっていうのに。それなのに、雪乃を怒らせてしまって、最悪じゃないか。

 もうすぐ雪乃が上がってくるし、どうしたものか。テーブルの上には、冷蔵庫から取り出した食事が少し。これだけでは足りないからもう少し冷蔵庫から拝借せねばなるまい。

 って、食事の心配している暇なんてないだろ。いやまて、雪乃は昼食とったのか? それに、雪乃が予定より早く帰ってきたんだ。喜ばしいことじゃないか。もともと浮気なんかしているわけもないし、後ろめたいことなんかも一つもない。

 だったら、やることといえば・・・・・・・、

 

「おかえり、雪乃」

 

 玄関で雪乃を待って、家に迎え入れることだけだ。

 

「ただいま。ちょっと・・・・・・、そんなににやにやしていると、本当に浮気しているんじゃないかって疑ってしまうわ」

 

 雪乃は、玄関に一歩入ると、両手に重そうな荷物を持っているというのに、左右の肩は水平に保ったまま背筋をまっすぐ伸ばしていた。姿勢がいい事はいいことだが、怒っているとなると、ただただ迫力を増すだけである。

 着ている服は初夏を連想させる爽やかな薄水色のワンピースだというのに、今雪乃の中で渦巻いている感情とはほど遠いイメージのようであった。そして雪乃は、自分の感情を隠す事もなく、顔をしかめて訴えてくる。

 しかし、俺にとっては、それも想定内だ。 

 

「にやにやじゃない。にこにこに訂正してくれれば、問題ない。ぶっきらぼうな応対は悪かったけど、本当に寝ぼけていたんだよ。これから遅い朝食をとるところだったんだし」

 

「朝食って、もう1時過ぎよ。すでに昼食と言うべきだと思うのだけれど」

 

 俺は、雪乃の指摘に苦笑いを浮かべながら雪乃の鞄やら手提げ袋を受け取り、部屋の中に運ぶ。出かけるときにはなかった荷物も増えていることから、実家から何か貰って来たのかなって能天気な事を考えをしていると、背中に心地よい重みが加わった。

 

「ただいま、八幡」

 

 雪乃は、俺の脇の下から手を回し、俺の胸のあたりでその両手を結びつけてくる。背中から雪乃の重みと温もりを久しぶりに感じる事ができ、喜びが込み上げてきた。しかし、あいにく俺は両手に荷物持ってるし、どうしたものかなと悩んでいると、雪乃は、そっと俺から離れてしまう。名残惜しい感触を手放してしまったことに俺の優柔不断さを呪いそうになるが、これからゆくり距離を詰めていけばいいと呪いの言葉を取り下げた。

 

「夕方に帰ってくると思ってたのに、早かったんだな。言ってくれれば、よかったのに。そうしたら食事も」

 

「そうね。驚かそうなんて考えないで、早く連絡しておけばよかったわね。でも、私も昼食まだだし、ちょうどよかったわ」

 

 やっぱ驚かそうって考えていたわけか。たしかに驚きはしたけど、早く帰ってくるって言ってくれていれば、それなりの準備もしていたわけだし、優劣つけがたいか。

 

「ま、いいんじゃねえの。これから食事なんだし、堅苦しいこと考えるのはよしとこうぜ」

 

「それもそうね。それと、平塚先生は夕方いらっしゃるのよね」

 

「その予定だけど。あと、陽乃さんも来るって言ってたな」

 

「姉さんが? なにも聞いていないのだけれど」

 

 あの人、マジでなにも言ってないのかよ。たしかに俺に言っておいてくれって言ってたけどさ、姉妹なんだし、さっきまで一緒にいたわけなんだから、自分で言ってくれてもいいんじゃないか。

 それを、面倒事のみ俺に押し付けて・・・・・。

 

「昨日、雪乃からの電話の後、かかってきたんだよ。しかも、雪乃と俺が電話してるの知ってたみたいだし、もしかして、監視されてたのかもな」

 

 冗談っぽく言ってみたものの、あの人ならやりかねないと思い、じわじわと苦笑いが浮かびあがる。それにつられて、雪乃も苦虫を噛み潰したような表情をする。

 

「姉さんについては、もうあきらめましょう。深く考えたほうが負けよ」

 

「そうだな。考えても答え出ないし、疲れるだけだ」

 

「それで、姉さんは何か言ってたのかしら?」

 

「なにか用があるとは言ってたけど、詳しいことは何も。どうせもうすぐ来るんだし、なにも考えず、直接聞いたほうが早いだろうな」

 

「そう・・・・・・・」

 

 雪乃は、消え去りそうな小さな声で呟くと、珍しく俺から目をそらす。

 雪乃には、なにか心当たりがあるのだろうか? そもそも、今回実家に戻ったのも、実家の用事というのみで、詳しい内容は聞かされていない。俺の方も、あれこれ詮索するのも悪いと思ったし、俺に聞いてほしいのならば、雪乃の方から話すだろう。

 だけど、雪乃の顔を見ていると、心配してしまうことはたしかであった。

 

「お腹すいたな。雪乃も食べるんだろ? 何食べる?」

 

 だから俺は、明るくふるまう。雪乃が話したくなるまで。

 

「そうね。冷蔵庫を確認してみなければ、わからないのだけれど、昼食は軽めに済ませて、あとで夕食の為にお買い物にいきましょう」

 

「りょ~かい」

 

 雪乃は俺の意図を察知してか、俺の流れにのっかる。

 だけど、これは面倒事を後回しにしてるだけだ。いつか解決しなければならないし、解決できるとも限らない。英語の準備のように、解決できる内容であることを祈ることしか今はできなかった。

 

 

 

 

 

 日が暮れ始めるころ訪問者の訪れが鳴り響く。買い物をしているときに陽乃さんからメールが届き、平塚先生と待ち合わせてから来ると知らされていた。もちろん俺の携帯にメールが来たことは言うまでもない。しかも、平塚先生と一緒に来るとはやはり抜け目がない。

 どれだけ妹を警戒しているんだよって突っ込みを入れてみたくもあったが、その倍以上の答えたくもない質問をされそうなので自重した。

 

「今日は食事に招待してくれてありがとう。これは食事の時にでも飲もうと思ってな」

 

 平塚先生が手土産としてワインを持参してきた。どっちかっていうと日本酒の方が似合いそうな気もするんだが、あえて突っ込むまい。こちらも痛々しい自虐ネタを披露されても泣きたくなるだけだし。

 

「ありがとうございます。今日はラーメンではないのでちょうどワインがあうと思います」

 

 あろうことか、雪乃はいきなり平塚先生に牽制を入れてくる。

 って、おい。いつまで平塚先生とラーメン食べに行ったの気にしてるんだよ。いつもは平塚先生とラーメン食べに行っても事前報告だしな。やっぱ事後報告っていうのがいけなかったのか。

 

「いやいや、ラーメンであってもワインに合うのもあるんだぞ。ラーメンといってもあなどるなかれ」

 

 平塚先生は平塚先生で、雪乃の厭味なんか全く気が付いていないし。それはそれでありがたいけど、しょっぱなから気疲れするとはこの先おもいやられる。

 

「雪乃ちゃん、比企谷くん、こんばんは~。ご招待してくれてありがとねん」

 

 続いて陽乃さんもリビングに入ってきたのだが、雪乃の視線を完全に無視して陽気に挨拶をしてきた。

 

「私は招待した覚えはないのだけれど」

 

 しかし、いくら陽乃さんといえども視線は黙殺できても直接的な詰問は無視できないようであった。

 

「あれ~・・・・。てっきり招待してくれているって思っていたんだけど。そっかぁ、ごめんね、雪乃ちゃん。邪魔者は帰るね」

 

 陽乃さんはしょんぼりと肩を落として帰るふりをする。

 あくまで「ふり」だ。見るからにして落ち込んでいないし、引き止めるのを待っている。だけど雪乃は引き止めはしないだろうし、平塚先生は誰も聞いてはいないのにいまだラーメン談義をしている。

 やっぱ俺が引き止めるのかよ・・・・・・・と、肩を落とさずにはいられなかった

 

「せっかく来ていただいたんだし、俺も陽乃さんと食事してみたいなぁって」

 

 自分で言っておきながら、嘘くせぇ。大根役者以下のセリフ回し。ま、いっか。どうせだれも俺のセリフなんてきいちゃいないだろうし。

 

「そう? だったら久しぶりに語っちゃう? 雪乃ちゃんの昔話もOKだよ」

 

 あ、それ、おもいっきり聞きたいかも。お義姉さま、お聞かせてください。なんだったら今晩泊まっていってくださっても、と現金な欲望を抱いていると、横からの冷たい圧力が俺を押しつぶした。

 

「姉さん・・・・・・・」

 

 そんなに都合よくはいかないか。一気に部屋の空気が冷えきったし。俺達3人の周りだけ一気に零度以下じゃね?

 もちろん平塚先生は我関せず・・・・・・ではなく、いまだラーメンに夢中だし。

 

「あちゃ~・・・・・。昔話は雪乃ちゃんがいないときにね。だ・か・ら、今度お義姉さんとふたりっきりで食事しようね」

 

 陽乃さん、近い、近いっ。って、もうくっついてますよ。雪乃とは違う大きなお胸がむにゅって腕に。このままだと俺の体が雪乃にむにゅって潰されそうです。

 

「離れなさい」

 

 俺か陽乃さんのどちらに言ったかわからないけど、ありがたいことに、陽乃さんのほうから離れてくれた。ただほっと一息つく間のなく今度は雪乃が対抗して腕をからめてくる。こればっかりは陽乃さんの圧勝なのだけれど、言えるわけもない。

 まあ、大きさじゃないから安心してくれ。誰が隣かが一番大事なんだし。

 

「比企谷君、悪いけど静ちゃんをちょっと現実に連れ戻してくれない? その間に雪乃ちゃんと食事の準備しちゃうからさ」

 

 陽乃さんは雪乃の返事を聞く前に行動にうつす。

 実家では料理どうなのかなって思い返してみたが、あいにくそんな場面には遭遇していない。だったらここでは?と思い返すが、いまいち確証が出なかった。

 勝手に人ん所の台所使われるの嫌がる人いるけど、雪乃もその例に漏れない。由比ヶ浜が来て一緒に料理したりするけど、それは雪乃が一緒であるから問題にならないだけだ。目の届く範囲なら、いくら失敗しても由比ヶ浜なら許されていた。

 だけど、陽乃さんはどうなんだろうか?

 

「姉さんはスープの方を仕上げてくれないかしら」

 

「お、トマトと卵のスープかぁ。OK、OK。中華風? それともコンソメかな?」

 

「そうね。コンソメで仕上げようかと思っていたのだけれど」

 

「OK」

 

 言葉と体が独立して動いているのに、二人ともお互いの注文をしっかりと理解してキッチンの中を駆け巡っている。雪ノ下邸ほどは大きくはないキッチンだというのに、二人の体がぶつかることがないところを見ると、うまく息があっているようであった。

 どうやら問題はなさそうだ。この分だと実家では、一緒に料理をしているのかもしれない。素直に仲がいい姉妹っていうわけではないかもしれないけど、俺が心配することなんてなさそうだ。

 この分なら料理の準備は、何事もなくすすめることができそうであった。

 あのときまでは・・・・・・・。

 

「ねえ雪乃ちゃん。あのこと、もう比企谷君に話した?」

 

 陽乃さんが唐突に話を切り出してきた。当然俺には「あのこと」の意味がわからない。わからないのなら、わかっている人に聞くのが手っ取り早くて、なによりも労力が少なく済む。だから、とりあえず陽乃さんに視線を向けたのだが、あいにく背中を向けているのでその顔色を伺う事が出来なかった。であればと雪乃に視線を向けると、雪乃は体を硬直させ、包丁を持つ手がハムを半ばまで切っている途中で止まっている。

 この状況からすれば、雪乃には陽乃さんが言う「あのこと」に心当たりがあるのだろう。それもあまり嬉しくない内容だと推測できた。だったら俺は聞かなかった事にしようとも考えたが、それを許してはくれないのが陽乃さんなわけで、俺は重い首を再度発言者たる陽乃さんに戻すと、陽乃さんは相変わらず手際よく料理を進めていた。

 となると、雪乃だけが緊張しているって事は、雪乃に関係あるって事だろうか。俺は揺れる心を落ち着かせ、ショックに備えようと身構える。身構えようとショックはでかいだろうが、不意打ちよりはましだと割り切ることにした。

 そんな俺の苦労も知らず、陽乃さんはひょうひょうとした声で話を進めようとする。

 

「面倒だし、早めに言っちゃうね」

 

「姉さん!」

 

 雪乃が声を荒げるなんて。俺は陽乃さんが話を切り出し始めようとした事よりも、雪乃の声に驚いてしまった。冷静、一本槍。氷の女王。どんなときだって迷わず信念を貫く雪乃が震えている。雪乃のかあちゃん相手であっても、ここまでは乱れやしない。

 雪乃は震える手を包丁から引き離すように、左手で右手から包丁をもぎ取る。かたっと、包丁がまな板に弾む音だけが部屋の中で異様に響く。いつの間にか平塚先生の一人ラーメン談義も終わっていた。いや、平塚先生も事の急変に気が付き、ことの次第を見守っていた。

 

「私ね、結婚するの」

 

 俺達の視線を浴びる中、陽乃さんは静かにそう宣言する。どこか空々しくもあり、他人事のように聞こえてくるのが印象的である。だから、俺は初め誰が結婚するのかって疑問に思ってしまう。でも、「私」と言っているのだから、当然陽乃さんが結婚するわけで・・・。

 結婚? ということは、相手は誰なんだろうか。そもそも結婚なんだし、相手がいなければ成立しない。なんて考えを進めるほど、俺は無意識のうちに真相に近づく事を抵抗してしまう。

 それよりも、結婚って言葉に敏感なお年頃の女の子がいることをお忘れではないでしょか。平塚先生の前ですべき話では・・・・・、と馬鹿な逃避が出来るレベルではなかった。あの平塚先生でさえ、まじめくさった顔つきで陽乃さんの言葉を吟味している。

 もしかしたら、平塚先生も陽乃さんとの付き合いもあるし、平塚先生の方が俺よりもなにか知っているのかもしれなかった。

 

「驚いてくれたのは、比企谷君だけか。まっ、そうだろうねぇ。もともと政略結婚の話はあったわけだし。それを私の方がのらりくらりと先延ばしにしていたわけだしさ」

 

 陽乃さんの独白は続く。

 あっけからんと話す内容じゃないだろうに。政略結婚? いつの時代の話だよ。ていうか、企業経営や議員やってると今でもある風習なのか?

 

「比企谷君には初めて言うのかな。私ね、今度お見合いするの。お見合いといっても、断ることなんてできないけどね」

 

 話をふられることで俺の金縛りは解ける。だけど、理解が追い付いていかない。理解したくない。

 

「それってお見合いっていえるんですかね。お見合いだと断ることができるもんじゃないですか」

 

 ようやく捻りだす事が出来た言葉は、相変わらずのへ理屈だ。いつもだったら俺のへ理屈に敏感な雪乃や平塚先生も、今回ばかりは金縛りを解く効果を得られなかったようだ。

 

「そう? だったら政略結婚するっていったほうがわかりやすいかな?」

 

 なんでそんな無表情で言えるんだよ。もっと感情的に言ってくれよ。いまだったら子憎たらしいいつもの陽乃さんでいいからさ。まったく掴むことなんてできない遥上を歩いている陽乃さんでいてくれよ。

 声にならない声で叫びまくる。陳腐で幼稚な自己満足な主張が、今の俺の本心でもあった。そんな声にも出していない叫びだというのに、陽乃さんは俺をいたわるように微笑むと、ゆっくりと語りかけてきてくれた。

 

「比企谷君は優しいのね。私の為に悲しんでくれるんだね」

 

「そりゃあ身近にいる人が望みもしない政略結婚なんて強要されたら悲しみもしますよ」

 

「そっかぁ・・・、悲しんでくれるか。いい義弟をもててなによりだわ」

 

「ちゃかさないで、姉さん」

 

 雪乃が叫びがほのぼのした空気を切り裂いた。俺もその気迫で、はっと意識を取り戻す。

 

「雪乃ちゃん?」

 

 いつの間にかに復活していた雪乃は、陽乃の前までやってきて陽乃さんを睨みつける。雪乃の強い意志が詰まった瞳に、あろうことかあの陽乃さんが目をそらしてしまう。今までの姉妹の関係からすると、ありえないことであった。

 あの陽乃さんが逃げるだなんて、誰が想像できる?

 

「政略結婚になってしまったのは、姉さんのほうにも責任があるのよ」

 

「雪乃?」

 

 話が見えてこない俺は雪乃に答えを求める。その視線に雪乃は気が付くが、意識は陽乃さんに向けたままである。一瞬の隙が命取りともいうように、意識を陽乃さんからそらそうとはしなかった。

 

「だって、姉さん、今まで誰とも付き合おうとしなかったじゃない。父だって、誰かいい人がいれば考えてくれるともおっしゃっていたじゃない。もちろん母は嫌な顔をしていたけれど、それでも姉さんが選んだ人だったらって・・・」

 

「それが難しかったんだけどね。だって、誰がいいかなんてわからないし」

 

「そんなの、付き合ってみなければわからないじゃない」

 

「それがわかっちゃうのよ」

 

「わからないわよ」

 

「雪ノ下」

 

 今まで黙っていた平塚先生が雪乃の肩に手をかけ、そっと雪乃を身に引き寄せ、陽乃さんから遠ざける。雪乃も平塚先生に体を預け、抵抗らしい抵抗はしなかった。雪乃も感情のぶつけあいがしたいわけではないのだろう。いつもは誰よりも冷静沈着な雪乃が、手に爪の跡が付くくらい拳を握りしめ感情を押し殺そうとあがいている。

 もがけばもがくほど雪乃の感情は沸騰していく。その一方で陽乃さんの感情は、雪乃に熱を供給しているんじゃないかって疑いたくなるくらい凍りついていく。

 

「わかっちゃうのよ、これが。それとな~くこの人はどうかなって人に将来のことを探りいれてみると、これじゃダメだなって落胆してしまうのよ。絶対母のお眼鏡にかなうわけないし、父であっても無理ね。・・・それよりも先に、私の方がその男に幻滅しちゃうかな」

 

 陽乃さんはまるで何度も経験してきたことのように語る。苦々しくて、思い出したくもない過去。きっと自分なりに改善すべきことは改善し、目をつぶるところは諦めてきたのだろう。それでも手が届かない。やはり解決なんて難しい話だった。

 雪乃は今日陽乃さんが来るってことの意味がわかっていたんだ。

 

「だってねえ、私と付き合うってことは将来が決まっちゃうのよ。しかも、あの母がもれなく付いてくるし」

 

 それは俺も嫌かもしれない。いや、できることなら逃げ出したい。しかし、俺はあの女帝に立ち向かう事を選んでいる。雪乃と一緒にいる為には、克服しなければならい試練だった。

 たしかにあの女帝と初めて会った時のインパクトは強烈だったし、お互いの印象も最悪だった。それでも付き合っていかなければならないし、今では、まあ、味がある人だなと、なんとか、かろうじて、わずかに、若干・・・・・、どうにか思えるようになった。

 

「もし私が逆の立場で男だったら、私と付き合うなんて願い下げよ。だって、面倒くさいもの」

 

「そんなの言い訳にしかならないわ」

 

「そうかもね。でもね雪乃ちゃん。私も何人かいい人そうな人、見つけはしたのよ。でも、無理だった。だって、ちょっと将来を視野にいれた話をしてみると、みんなドン引きしちゃうのよ。たしかにいきなり企業経営とか議員活動なんて話されたら、よっぽどの馬鹿か、私を踏み台にして成りあがろうって人しか話にのってこないわ」

 

 雪乃はもはやなにも言い返さない。もう何も言い返せなかった。握りしめられていた拳が、ゆっくりと開かれていく。今や体から力が抜けていき、平塚先生に体重を預けているほどだ。

 

「だからね、私、雪乃ちゃんに嫉妬しちゃう。だって、比企谷君がいるんですもの。あの母に正面切って挑んじゃうなんて、最初正直正気を疑ったわ。だけど比企谷君は、馬鹿でも踏み台希望でもなかった。純粋に雪乃ちゃんに惚れてただけ。それだけで、行動できちゃうだなんて妬けちゃうわ。でも、私には、そんな人、現れなかった。・・・それが現実」

 

 もし俺が雪乃の両親に交際宣言しなければ、同じことが雪乃にも起こっていたかもしれない。そう考えると、ぞっとする。あの時はなりふり構わず行動したけど、あれも若さゆえの行動ともいえるが、今はその若さに感謝したいほどだ。

 

「でもね、どうにか大学院卒業しても海外留学できそうなのよ」

 

 そう明るい話題をふる陽乃さんには、明るい話題とは裏腹に明るい笑顔なんてなかった。

 

「もちろん婚約するのが前提だけどね」

 

 そこにあるのは悲しいまでもの無表情のみ。陽乃さんの体だけあって、心がここにはない人形が存在していた。・・・いや、いつも心なんてあったのだろうか。どこか胡散臭くて、完璧を演じている雪ノ下陽乃。そういう求められている役を演じている気がした。だったら彼女の心は、その時どこにあったのだろうか? そう、今のように。今彼女の心はどこにあるんだろうか。

 この日、俺が勝手に作り上げていた陽乃さん像が崩壊していく。勝手に祭り上げて、勝手に壊して幻滅する。陽乃さんだって、望んで今の自分を作り上げたわけではないだろう。陽乃さんが置かれている環境が、強制的に陽乃さんを作り上げてしまった。

 それが今、音も立てずに壊れてゆく。

 

「また姉さんは逃げ出すの? 最初は大学卒業するまでに相手を見つけられればって話だったのに、姉さんは相手を見つけなかったのよ。そして今すぐは結婚したくないからって、大学院に入ったんじゃない。それで今度は婚約してもいいけど、結婚は留学が終わってから? 笑えてしまうわ」

 

 それは突然だった。予期せぬ出来事が起こってしまうと、人間何もできないものだ。

 乾いた音が一つ鳴り響く。それは、雪乃が陽乃さんの頬を叩いた音。雪乃が暴力で訴えたことなんて、今まで一度たりともない。言葉で散々心をえぐりはするが、けっして暴力で訴えたことだけはなかった。

 それが今、やぶられた。陽乃さんよりも、雪乃の方が叩いたことによるショックを受けている。むしろ叩かれた陽乃さんは、薄寒い笑みさえ浮かべ、事の行方に身を任せていた。

 自分からは動かない。人をチェスのコマのように扱ってきたあの陽乃さんが、自分の意思で自分を動かすことを放棄してしまっている。

   

「陽乃も今日のところは、ここまでにしておけ。雪ノ下もだ。・・・・・・・比企谷」

 

 俺の存在は蚊帳の外に置かれたいたと思っていたのに、平塚先生に突然自分の名前を呼ばれ、肩をぴくつかせる。

 

「悪いが、食事の用意は比企谷がしてくれ。私ができればいいんだが、あいにく料理はからっきしでな」

 

「あ、料理くらい、俺がやりますから・・・・・・・」

 

 いち早く平常心を取り戻せたのは平塚先生だった。年の功ってやつかもしれないけど、いくら平塚先生が事情を知っていたとしても、それは当事者としてではない。冷たい言い方かもしれないけど、いくら平塚先生が事情を知って陽乃さんの相談にのっていたとしても、それはどこまでいっても第三者でしかなりえなかった。

 だから平塚先生はここにいる誰よりも冷静になれる。ここに平塚先生がいてくれてよかった。いや、陽乃さんはこうなるってわかっていたから、多少強引であっても平塚先生がやってくる今日の食事に割り込んできたのではないだろうか?

 それならば、雪乃が平塚先生を今日食事に招いたことだって、・・・さらには雪乃が陽乃さんが来るって知った時の反応だって・・・・・・。あらゆることに疑問を投げかけてしまう。悪い癖だ。きっとどれかは真実であって、なにかは思いすごしであるのだろう。

 しかし、いくら思いを巡らせようとも、今目の前で起こっている現実には何一つ役に立つとは思えなかった。

 部屋を見渡すと、平塚先生は雪乃を連れ、リビングのソファーに腰をかけていた。陽乃さんはといえば・・・・・、いまだ雪乃に頬を叩かれた場所で立ち尽くしている。

 ふいに陽乃さんが体を震わせた。すると、陽乃さんを見ていた俺と視線が交わってしまった。

 

「・・・・・・・・」

 

 陽乃さんの唇が動いているが、声は聞きとれない。読唇術なんかができれば読みとることが

できたかもしれないけど、あいにくそんな高等技術は持ち合わせていない。

 むしろ、読みとれなくてよかったと思ってしまう自分が情けなかった。

 

「手伝うわ」

 

 今度は声に出しているので理解は出来る。

 

「え?」

 

 だけど、陽乃さんの声が出る事に驚いてしまう俺がいた。

 

「だから、手伝ってあげるっていってるのよ」

 

 表情は硬いが、いつもの陽乃さんに近い表情を浮かべている。あくまで近いであって、そのものではないとこからしても無理をしているのがわかる。

 だって、最初の言葉が「手伝うわ」ではないことくらいは、読みとることができたから。

 

 

 

 

 

 これほど重苦しい食事なんて、経験したことがない。雪乃の両親と食事をしたときでさえ緊張はしたが、ここまでではなかった。雪乃には悪いが、どちらかといえば陽乃さんと二人で食事の準備をしていたときのほうが気が楽でさえあった。

 感情が欠落した笑みをまとった陽乃さんではあったが、意思疎通は可能であったし、なによりも料理をしていれば気がまぎれる。

 しかし、ゆっくりと腰を据えて食事となれば、事態は変わる。食事に集中すればいいと思い込んでみたが、味が知覚できない。それは平塚先生であっても同じようで、しかめつらで食事を進めていた。

 

「なになに? 私のせいでみんな暗いなぁ。だったら、なにか面白い話でもしてあげようか? そうだなぁ、・・・・・・じゃあ、比企谷君、面白い話をどうぞ」

 

 いつも通り演じられている陽乃さんの声が、堂々と暗い空気に檄を飛ばす。

 俺ですか? いきなり振られましても。それに、いつだって面白い話なんかあるわけもない。俺は助けを求めるべく平塚先生に視線を向けるが、薄情な平塚先生はそっと視線を背ける。

 あ、逃げやがったな。こういうときこそ年の功ってもんを発揮してくださいよ。いつまでも若手だなんていってられ・・・・・、ごめんなさい。

 俺がまごついていると、陽乃さんは最初から俺に話を振るわけでもなかったのか、自ら話を展開させた。

 

「それでは、とっておきの笑えないけど、笑える話を。実は私、ストーカー被害にあってま~すっ」

 

 陽乃さんは作り笑顔いっぱいに、両手をつき上げて笑いを醸し出す。ただ、内容が内容だけに誰も笑えるわけもなく、重い空気がさらに重くなる・・・・・。

 って、最初から狙ってやってたんだろ。これ以上重い空気にならないだろうって踏んで話したんだろうけど、いかにも陽乃さんらしいといっても、少しは空気を読んでくださいよ。

 

「姉さん。それはまったく笑えない話なのだけれど。むしろ、姉さんには危機感をもってほしいわ」

 

「そうだぞ陽乃。自分だけでどうにかなる内容ではないだろ。警察に届けなければならないかもしれないし、君は自分が女性だということも忘れがちなところがある」

 

 雪乃も平塚先生も思い思いの批判を述べるが、基本陽乃さんを心配してのことだ。もちろん俺も心配しているのだが、以前陽乃さんがストーカーを撃退したっていう武勇伝をきいていることから、今回のことが異常なケースなのではと勘繰ってしまう。

 いくら政略結婚という厄介事があったとしても、陽乃さんがストーカー被害を黙って対処せずにいるとは思えなかった。

 

「おや。みんな心配してくれているのね。お姉ちゃん、もてもてだな」

 

「姉さん」

 

「お、雪乃ちゃん、こわいぃ」

 

「ちゃかさないで」

 

「はい、はい。でも、そこの勘のいい比企谷君は気が付いているみたいだけど、どうも普通のストーカーではないみたいなのよ」

 

「そもそもストーカーなんて、普通の人ではないと思うわ」

 

「まあ、そうくくってしまえば、そうなんだろうが・・・・・」

 

 苦笑いを浮かべる平塚先生をよそに、陽乃さんは話を続けた。

 

「友達に手伝ってもらってるんだけど、なかなかストーカーの尻尾がつかめないの。いつもは友達に頼んでとっ捕まえてもらって、そのあと楽しい話し合いをするんだけどね」

 

 楽しい話し合い。きっと楽しいのは陽乃さんだけだろう。俺なんかは小心者だし、ストーカーの方を心配してしまう。自業自得ではあるけど、話し合いに「楽しい」なんてつけるあたり、怖すぎる。

 さて、ここでまでで気になった点といえば、三つある。

 まず一つ目は、そもそもこのストーカー自体が陽乃さんの虚言ではないかということ。重苦しい雰囲気を、方法には問題があるが、別の方向へ誘導するには効果がある。現に、雪乃も平塚先生も、うまく話に乗せられている。

 だけど、これはすぐに却下だ。なにせメリットが小さすぎる。政略結婚という話をしていた時に、それをわざわざさらなる問題でうやむやにしようだなんて、後のことを考えればデメリットの方がでかい。人に心配させながら、それを嘘で煙に巻いたなんてあとでしれたら、今後の信頼関係が崩壊する。

 そもそも雪乃と陽乃さんの姉妹関係なんて、見た目ほど悪くはない。むしろ最近は良好だといえる。

 それと平塚先生との関係であっても、高校を卒業しても付き合いがあるなんてレアケースだし、今それを壊す意図が思い浮かばない。

 で、それで二つ目の疑問点だが、本当に陽乃さんより上手なのだろうかということだ。ひいき目なしに考えたとしても、あの陽乃さんだ。俺が逆立ちしたとしても手玉にとれるとは思えないし、雪乃であっても難しいだろう。

 さらに、陽乃さんの友達の協力を得ていることからしても、もし本当にストーカーが存在すると仮定すると、陽乃さん以上にやっかいな人物といえる。陽乃さんの存在を過信しすぎかもしれない。さっきも政略結婚という話題で見たこともない陽乃さんを発見したばかりでもある。

 しかし、どうも陽乃さん以上に頭がきれるストーカーなんて・・・・・・・存在するとは思えなかった。

 最後に三つ目だが、陽乃さんがなぜ俺達にストーカーの話題をふったかだ。俺達にストーカーを捕まえてほしいのか? それとも助言がほしいとか?

 いくら思案して答えなど出てくるとは思えなかった。難題すぎる。俺はいらだちを隠すように二の腕を握りしめ、熱が上昇していく血液を抑えようとした。

 

「比企谷君? ねえ、比企谷君ったら?」

 

 思考の海に投げ出されていた俺は、陽乃さんに名前を呼ばれたのに気がつかないでいた。

 

「あ、はい?」

 

 かっかかっかして、体内を駆け巡っていたいらだちが気の抜けた返事をすることで、俺に冷静さを取り戻させる。

 

「ほんといい子ねぇ。しっかり考えてくれていたのね」

 

 陽乃さんは目を細め、柔和な頬笑みを浮かべて俺の頭を愛おしそうに撫でてくる。

 さすがに俺の頭を撫でるのはよしてください。ほら、人を殺せる視線がちらっとあちらのほうから・・・・・・。

 俺は視線が刺さってくる方を目で知らせるが、陽乃さんは俺の忠告も雪乃のデスアイも完全に無視して頭を撫でまくる。俺も邪険に手を払っても無理だと経験上わかっているので、飽きるまでやらせておくことにした。あとで雪乃が対抗心むき出しの行動があるだろうけど、場を壊すよりはあとで雪乃が納得するまで付き合う方が建設的だ。

 

「それでどう思った?」

 

 なおも俺の頭を撫でながら感想を聞いてくる。まあ、俺としてはなんだか心地いいので、このままでもいいかなって誘惑に抗えないできている。陽乃さんも俺の心情を当然のごとく読んできて、頭どころかネコを可愛がるように喉まで撫でまわす勢いになってきていた。

 

「どうっていわれましても情報が少なすぎますし、陽乃さんが無理なのに俺が対処できるとも思えませんよ」

 

「それもそうね。姉さんが対処できていないのに私たちが何かできるとは思えないわ。それと八幡から離れなさい」

 

 雪乃は陽乃さんに一睨みして俺との接触を遮断する。陽乃さんは既に満足していたのか、何も抵抗もせずに手をひっこめた。

 

「それなら早めに警察に相談してみてはどうかね?」

 

 平塚先生の助言は適切すぎる。手に負えないのならば公権力に頼るしかない。

 

「それも考えてはいるんだけど、時期的にちょっとね」

 

「はぁ・・・・・。娘の安全と社会的地位。どちらが大事なのかしらね」

 

 雪乃は呆れ果てるが、両親の方針に陽乃さんは納得している様子だった。おそらく親の行動をすぐそばで見てきているかの差なのだろう。

 

「いいのよ。警察に相談したところでなにかプラスに事が進むとは思えないし」

 

 警察に相談したとことで、大きなトラブルが発生していなければ、警察が実力行使をしてくれるとは思えない。それに、24時間陽乃さんを警護してくれるわけでもあるまいし、金にものをいわせるのならば、陽乃さん個人でボディーガードを雇ったほうが手っ取り早いし、両親もそれならば許可するだろう。

 しかし、それが根本的解決につながるわけではない。いつまでも後手後手に回っていては、ますますストーカーの行動はエスカレートしてしまう。ならば、過剰反応を起こさせるように仕向けて、そこで捕まえるなんて強引な作戦も思い浮かぶが、追い詰められたストーカーが何をやってくるかわからない分、今はむやみに行動すべきではないだろう。

 

「そういうわけだから、比企谷君」

 

「はい?」

 

「雪乃ちゃんのことよろしくね。読めない相手だけに、雪乃ちゃんの方も心配だし」

 

「それはできる限りのことはしますよ」

 

 なるほど。最初から雪乃の事を心配してのことだったのか。シスコンであっても、ここまで変化球で愛するシスコンも珍しいんじゃないか? きっと半分以上はうざがられているはず。それさえも楽しんじゃってるのが陽乃さんらしいけど、もう少しストレートにできないものですかね。

 

「そこは命に代えてもって言ったほうがかっこいいんじゃない?」

 

 陽乃さんは、ぐいっと値踏みするように俺を下から舐めまわす。今さら俺を審査しようと、既に査定済みではないですか。いくらやっても底値である事には覆らないっすよ。

 

「あいにくできないことは約束しないたちでしてね」

 

「そういう捻くれたところを直したほうが、雪乃ちゃん、喜びそうなのに」

 

 精一杯皮肉を込めて言いかえしてやったのに、この人には皮肉のかけらすら届いてはいない。

 うっせ。自分の方こそ直した方がいいんじゃないですかね。捻くれたシスコンなところとか。俺は負け惜しみ全開で、こっそり心の中で皮肉を叫ぶ。

 

「姉さん。人の事を心配するよりも自分の方をした方がいいのでは?」

 

「雪乃ちゃん私の事心配してくれるのね。お姉ちゃん、うれしいなぁ・・・・・・・」

 

 陽乃さんのわざとらしい泣くしぐさに雪乃はため息をつくのを堪える。

 

「はぁ・・・・・・・」

 

 が、結局はため息をつく。そしてため息が伝染してしまったのか、俺や平塚先生まで長いため息を漏らしてしまう。

 ただそんな中、あいかわらず陽乃さんは面白そうに俺達を眺めていた。

 

「ところで明日ご両親は家にいますか? 先日、雪乃が俺のせいで家に戻ってきたこともあるし、最近会ってもいないので一度ご挨拶に伺いたいなって思っていたんですよ」

 

 とりあえず俺は、俺の用事の方を先に済ませておくことにした。なにせこのまま陽乃さんのペースにさせておいたら、いつ食事会が終わってもおかしくない。だったら面倒事は早めにすませておくに限る。

 それに、いつ話ができない状態に逆戻りするかわからないし。

 

「いい心がけだねぇ、感心関心。父は今夜泊まりだけど、明日の午後には帰ってくると思うわよ。だから、夕方なら大丈夫だと思うけど、帰ったら母に聞いてみるね」

 

「ありがとうございます」

 

「わざわざ出向かなくても。それに、何を言われるか・・・・・」

 

 雪乃は俺の申し出に、心配そうな眼差しで断りを入れようとする。

 

「いいんだよ。けじめはしっかりしておかないとな。そしてなによりも、根回し、ゴマすり、強いものに巻かれろが俺のモットーだからな」

 

「あまり関心できない心がけだが、比企谷が行くって言ってるんだ。素直に連れていったらどうだ、雪ノ下?」

 

 さすがは年長者。平塚先生は世の中のわたり方ってものを心得ていらっしゃる。

 

「・・・・はい」

 

 そう言われれば雪乃も引き下がるしかない。

 

「それなら夕食も食べていってね。だって、いつも辛気臭い食卓なんだもの。せっかく二人がくるんだったら、食べていってほしいな」

 

「お邪魔でないのでしたら」

 

「なら決まりね。父は喜ぶわ。母の方は相変わらずだろうけど」

 

「わかったわ。でもその前に、由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買わなければいけないのだから、そのことも忘れないでちょうだいね」

 

「わかってるよ」

 

「ほんと、雪乃ちゃんには敵わないなぁ。いい彼氏見つけられてよかったね。うらやましいったらありゃしない・・・・・・・」

 

 陽乃さんが自虐的な笑みをふりまく。幾分好転したかと思われた雰囲気も、その雰囲気を作ろうと努力した陽乃さんの一言で崩れ落ちる。おそらく陽乃さんも意識して発言したわけではないだろう。それは陽乃さんの姿を見ていればよくわかった。陽乃さん自身が自分の発言に驚く事すらできずに呆然としている。

 悪い雰囲気はいくら好材料があっても振り払えるものではない。逆に、いい雰囲気などは悪材料一発で全てが吹き飛ぶ。人間、楽天的には行動などできやしない。あのあほの子由比ヶ浜であっても空気を読み、世間と自分を擦り合わせて生き抜いている。

 もし、自分は楽天家なのって言い張るやつがいるんなら言ってやりたい。楽天家など存在しないと。そいつはただ目の前の問題を後回しにし、見ないふりをしているだけの落後者予備軍であると。

 だから、人間問題が山積みになって逃げられなくならないように常に悪材料を注目する。そうしないと身動きできなくなってしまうから。つまり無意識化に擦りこまれた防衛反応から、人は悪材料ほど敏感に反応してしまう。

 そして俺の現状はと言うと、見渡すかぎりに難題が埋め尽くされている。一歩踏み出せば他の問題が誘爆しそうな状態に、俺はそっとため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

6月17日 日曜日

 

 

 

 由比ヶ浜への誕生日プレゼントは昼食前には決まり、今は歩き疲れた脚を休めている。といっても既に時計の針は2時を指し示そうとはしていたけど、一応は昼食前だ。人ごみに酔った俺と雪乃は、いささか酔いをさますには不十分な人で溢れているレストランに入っていた。

 それも仕方がないか。今は休日だ。やや昼食時をすぎているといっても、どのレストランでも人があふれているだろう。それでもタイミング良く待ち時間もわずかで席に座れたんだ。文句も言えないだろう。

 店内は家族連れや高校生・大学生らしきグループがあふれかえっている。話声が店内に流れるBGMをかき消している所は目をひそめるが、休日と客層を考えれば致し方あるまい。やはり大型ショッピングモールということもあって、店舗自体は小さいが、さすが今時のイタリアンレストランといった感じで、客席からピザを焼く窯や料理をしている姿が見渡せるいかにもおしゃれなレストランであった。

 雪乃は店内の様子を気にもせず、店員に案内されたテーブルの席に黙って腰を下ろす。店員がメニューやら今日のお勧めなどの決まり文句を言い切り奥へ下がっていくのを待つと、ようやく方から力を抜いて椅子の背に背中を預けた。

 どこまでもお嬢様である雪乃であっても、今日の買い物は疲れたらしい。自分の物探すのではなく、由比ヶ浜への誕生日プレゼントということもあって気合も入っていたのだろう。

 俺の方も歩きつかれ、正直とりあえず座れればいいかなっていう思いが強い。一応雪乃に見習って店員が下がるまでは我慢したが、その後は周りの客を気にもせずだらんと背中を椅子に預け、腕までもだらんと椅子の下へと垂れ流す。もし雪乃と一緒でなく一人で来ていたら、牛丼でもとりあえず腹にかっこんで、そのまま真っ直ぐ帰途に就いていた可能性が非常に高い。いや、家に帰ってから雪乃の料理を食べるが上か・・・。

 だけど、今は雪乃が一緒だ。かっこつける訳ではないけど、それなりのお食事を提供したい。ただ、半端な知識で見栄を張ってもぼろが出る。ピザなんて、スーパーの冷凍ピザか宅配ピザの知識が関の山である。外でピザやパスタをなんて食べることなんて、サウゼを除けば雪乃と一緒の時しかあり得ない。

 だから、俺はいつもの黄金パターンを披露する。それは、とりあえずビールならぬ、とりあえずセットメニューで。

 セットメニュー。すなわちお店のお勧め商品そのものだ。お勧めならばその店の看板商品であるし、下手な商品は提供しないだろう。もし初めて行った店でその店の看板商品が意に沿わない味ならば、次からその客は来なくなるだろう。

 ほら、寿司に行った時もお勧めの握りを聞くでしょ? やっぱ旬のものを、その日仕入れた活きがいいものを、店員から聞くのが間違いを回避する王道だと思える。ここで見栄を張って自己流で注文したって店員は心の内で笑いはしないけど、苦笑いくらいはしているかもしれない。被害妄想かもしれないが、プロにみえなんて張る必要なんてない。

 それに、お勧めのセットメニューなら仮に苦手なものがあっても、セットメニューを軸にして自分たち好みのセットメニューを組み立てていけばいいだけだし、ほんとよく考えられている初心者向けシステムだと思える。

 というわけで、雪乃には見破られているけど、いつものセットメニューを提案した。

 

「そうね。セットもいいけれど、こちらの季節限定のはどうかしら?」

 

「そうだな。それだったら一つは季節限定セットにして、もうひとつはピザとパスタを適当に頼めばいいんじゃないか? この前はたしかマルゲリータだったし、他のも食べてみたいかもな」

 

 雪乃の俺のかじ取りは絶妙すぎる。うまく俺を操縦されているともいうけど、俺が受け入れて納得してるんだから問題あるまい。

 ざっとメニューに目を通した雪乃は、俺の案も考慮に入れて最終案を提示する。俺も特に対案を出す気もなく、店員を呼ぶブザーを押した。そして注文を終え、ようやく一息つけたところで、俺は今夜の心配事案を訪ねることにした。

 

「なあ雪乃。実家に行くんだし、なにか手土産買っていったほうがいいか?」

 

「特にいらないと思うわ。行儀よくしていてくれるのが、なによりの手土産よ」

 

 にっこり笑いながらも、余計なことしないでねって釘をさしているのね。もちろん俺も面倒事はごめんだ。お前のかーちゃんこえーし。睨まれただけでも寿命が縮んじまう。

 

「そうはいってもなぁ・・・・・・・・。夕食ご馳走してくれるって言ってるし、それにいきなり会いたいって言ったのに会ってくれるんだぞ。やっぱなにか持って行ったほうがいい気がしないか?」

 

「でも、なにを持ったところで母は喜ばないと思うわ」

 

「それって、俺が持っていってもってことだよな?」

 

「ええ、・・・・・・まあ、そういうことになるわね」

 

 あのかーちゃんが冷たい目をして俺の手土産を受け取りはするが、即座に視界の外に外すべく部屋の片隅に追いやられるのが目に見える。だったら嫌がらせでもして、受け取ることさえ嫌なものを送ってやろうか、と邪悪な笑みを浮かびそうになるが、ふと逆の考えが浮かびあがる。

 手元から離せないものを送ればいいってことか。俺の手土産は嫌でも、邪険に扱えないもの。それだったら・・・。

 

「決めた。紅茶にしよう」

 

「紅茶? 実家にも十分そろっているし、母が喜ぶとは思えないわ。たしかにそのうち飲むことにはなるかもしれないけれど」

 

 子供の浅知恵を丁寧に諭す雪乃。雪乃がそう思ってしまうのも仕方がないだろう。俺もただ渡しただけなら、すぐさま引き出しの奥にしまいこまれてしまうと思う。

 

「そこは付加価値だ。店では買えないものを特典として提供すればいいんだよ」

 

「ちゃんと面白いのでしょうね?」

 

 雪乃もわかっていらっしゃる。俺の悪だくみにのってくるとは、だんだんと俺に染まってきちゃってる?

 

「面白いっていうか王道パターンだよ。だから面白くはない。だけど、一泡吹かせる程度には、なる、はず・・・・・かな? なくとも手元には置いておいてくれるはずだよ」

 

「そう? なら、聞かせてもらいましょうか」

 

 さすがは共犯者。邪悪な笑みを浮かべていらっしゃる。だれも俺達の悪だくみなんて聞く訳ないけど、そこは雰囲気だ。俺達は顔を近づけて、こっそりと作戦を立て始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 夕方になり日が沈みかけたころ、俺達はお迎えの車に乗り込み雪乃の実家に向かう。娘にぽんと高級マンションを与えるあたりですでにお嬢様だって理解しているはずだけど、運転手つきの車でお迎えがくると、あらためて社会的格差を実感してしまう。

 雪乃と暮らしていると育ちの良さを見る機会が多いけど、近くにいすぎるせいで、それが雪乃の性格そのものだと感じてしまう。その背後には小さい時からの躾や親の影響があるはずなのに、どうもそれを見落としてしまう。

 だから雪乃の実家に行くと、自分なんかが雪乃と付き合ってるのもそうだが、将来結婚なんてできるか不安になってしまう。いつまでも大学生カップルのままではいられない。陽乃さんのお見合い話を聞いて、俺は現実に引き戻されてしまっていた。

 雪乃との緩やかな時間。幸福に満たされた時間だけど、それも無限ではない。いつか終わりを迎えて、次の段階へ行かなければならなかった。追い出されていくのか、それとも準備を整えてから自分の意思でいくのか。俺達は今大学二年生。次の段階への意識を持つには、俺と雪乃にとってちょうどいい機会だったのかもしれない。

 家に着くと、玄関にはメイドさん・・・・・はいなく、陽乃さんが出迎えてくれた。メイドさんはいないけど、ハウスキーパーが週5回も来てるし、やはり桁違いの金持ちだ。

 一度、週5回も来てくれるんなら、うちにも一回わけてほしいって雪乃に冗談まじりに言ってみたことがある。すると、雪乃はまじめな顔をして言い返してきてしまった。

 

「実家は広いし、毎日全てを掃除するわけではないのよ。掃除する場所のローテーションを決めて、週に二回はすべてを掃除できるようにされているの。それと、とくに汚れが付きやすいところは毎回かしら。掃除だけでなく、洗濯や買い物、庭の手入れ・・・・・。やるべきことはたくさんあるわ。だから、もしうちのマンションにも来てもらうとなると、別のハウスキーパーを雇うことになるわね。・・・・・・・あと、これは個人的な意見なのだけれど、八幡と私が暮らしている部屋に信頼できる人といっても、他人を入れるのは、・・・・・・ちょっと、ね」

 

 俺が一生懸命雪乃の長い説明を聞かねばと集中していたら、いつの間にかに雪乃の話すテンポは遅くなり、しまいには顔を赤らめてしまっている。

 

「そ・・・そうか」

 

 俺はどう反応すべきかわからず、うろたえた返事をどうにか返すのがやっとだった。

 

「そうね。・・・・・それに、私も八幡も自分で家事をやってるのだし、問題ないと思うわ。私は八幡の為に料理を作るのも好きだし、八幡と一緒に料理したり掃除したりするのも有意義な時間だと感じてるわ」

 

 そっと俺の出方を見定めるべく、下から覗き込んでくる姿にたじろいてしまう。

 

「それだと、ハウスキーパーなんて必要ないな」

 

「ええ、そうよ」

 

 そのあと二人して、中学生カップルかよっていうほどうぶな会話をしたっけ。あのときは若かった。今も若いし、今でもドキドキしちまうのはしょうがない。だって、雪乃が相手だし。

 と、脳内でのろけてたところで陽乃さんが、悪魔・・・・・、いや女帝の元へと案内してくれた。ほんと、陽乃さんが可愛く思えてしまうほど雪乃の母親は恐ろしい。

 これが普通の住宅かよっていう広々とした廊下を歩いていくと、重厚な扉の前まで案内される。陽乃さんはノックもせずに重そうな木の扉を開ける。見た目とは裏腹に、軽く扉は開いていった。

 リビングの中に入るとまず出迎えてくれたのは、雪乃の親父さんであった。ソファーから立ちあがり、俺達の方へと出迎えにさえ来てくれようとしている。その立ち振る舞いは上品で洗礼されてはいるが、だからといって嫌味を感じさせない。いわゆる成金ってやつではないからだろうか。このバカでかい家も、そしてその家具調度品も、どれをとっても高価な品であるはずなのに、あくまで主役は住人であって家そのものではないと、つつましく存在している。ただ、俺からするといくら落ちつくように整えられている家であっても、内心を隠しきっている親父さんの存在に気を抜くことはできないでいる。一見物腰が柔らかい印象があり、俺に対しても好意的には対応はしてくれている。だかたといって心の内を見せてはいないってところが雪ノ下ファミリーってところなんだろう。

 一方、ソファーに深々と腰掛けて、雪乃の事だけを盗み見ている母親たる女帝には、俺の事は目にさえ入っていないようだった。

 女帝はいささか機嫌がいいようにも思える。きっと雪乃が来たからに違いないが、その実年齢以上に若々しいその姿は相変わらず陰りをみせていない。なんとなく雪乃とその姿を重ねる事が出来てしまうのは、今日に限ってはその隠す事もしようとしない圧倒的な迫力が消えているからだろう。その上機嫌がいつまで続くかは雪乃次第だろう。・・・あとは俺が邪魔をしないってことくらいというか、俺の存在に気が付くまでかもしれないと考えてしまった。

 

「ただいま戻りました。急に来ることになってしまい、申し訳ありません」

 

「今日は自分たちに会う時間を作っていただき、ありがとうございます」

 

 雪乃は上品にお辞儀をして挨拶を述べる。両親相手に何をかしこまってるのかと思えるほど上品な姿に見惚れそうになってしまう。俺は見惚れてしまっていた為に数秒遅れて雪乃に続いて挨拶をした。俺の方は、まあ平民の平凡なるお辞儀ってところか。

 すると雪乃の親父さんが俺のお辞儀の出来を気にする事もなく、挨拶を返してくれる。

 

「私も比企谷君には会いたいと思っていたから、かまわないよ。それに、君の元に雪乃が帰ってしまったから、当分はうちには寄りつかないと思っていたしね」

 

 親父さんは牽制ともとれる発言をしてくるが、親父さんの事だから他意はないのだろう。ほんとうに残念に思っていて、なおかつ俺にも会いたかった。ただそれだけだと思う。それでも俺は愛想笑いでもすればいいのか判断に困るところだ。

 一方未だに女帝の方ははご機嫌斜めで、俺の方は一切みようとしていない。雪乃の方には、目を盗むように見つめている。いっけんうまくいってないような母子関係。雪乃や陽乃さんから聞いていた印象からは、面倒な関係だと思っていた。もちろん雪乃も苦手意識は持っていたと思う。だけど、以前実際会ってみて、それは間違いだと結論付けている。

 だって、どう見たって雪乃を溺愛している。しかも、重度なツンデレで。母子関係でツンデレって、雪ノ下家の女性は皆ツンデレ遺伝子でも持ってるのかよって叫びたかった。

 ある意味面倒な母子関係。こんな母親なら、雪乃じゃなくたって苦手意識をもつはずだ。しかも、女帝様は雪乃が女帝に苦手意識を持ってるなんて微塵にも感じていないし。むしろ、好かれていると思ってさえいる。どんだけ自信家なんだよって、これまた叫びたいところだったが、これもどうにか自重した。

 もちろん雪乃だけでなく、陽乃さんも溺愛されている。だから俺は、分が悪い賭けだとしても今日ここまできたのだ。きっとこの母子関係がなにか糸口になるはずだと信じて。

 

「ごめんなさい、お父さん。大学の方にも慣れてきたので、八幡も時間があれば、これからもっとここにも来たいって言っているのよ」

 

「そうか。だったら自分の家だと思って来るといい。私の方はなかなか時間が取れなくて家を留守にしてしまうが、陽乃もいるし、来てくれると嬉しいよ」

 

「はい。是非」

 

 俺はすかさず返事をする。どうも堅さが抜けきれない感じが残ってはいたが、和やかな雰囲気にほっと一息つけそうではあった。けれど、女帝が身にまとう絶対的な空気には逆らえそうにはなかった。

 

「大学に慣れてきたからといって、気を抜くべきではないわ。慣れてきたときこそ今までの習慣を見直して、生活態度は改めるべきね。惰性で続けていることもあるでしょうし、他の学生に差をつけるにはうってつけの時期だわ。ただ、大学で他の学生を気にしなければいけないレベルであるとすれば、そのほうが問題だけれど」

 

 一瞬で和やかな空気をぶち壊しやがって。でもこの人、本気で雪乃の事を心配してるんだろう。言い方はきついけど、内容は的確だし。だけど・・・・、雪乃にはその親心は届いてないんだろうなぁ・・・・・・。ほら雪乃なんて、敵対心むき出しの目で女帝を見つめちゃってるもん。女帝も雪乃が食いついてきて嬉しそうに見つめ返してるんだから、似たもの親子ともいえる気もする。

 一方で陽乃さんと親父さんは、その二人を面白そうに見つめてるんだから、この二人もいい性格してるよな。きっと陽乃さんは、父親似な気がする。最初は陽乃さんこそ母親似だと思ってたけど、それは自分を守るための防衛反応に過ぎない気がした。小さいころから大人の社会に引っ張り出され、訳もわからん議員やら企業やらの集まりにマスコットとして放り出されたんだ。そりゃ身近にいる母親の真似をして身を守るってのも不思議ではない。

 力強く社会を渡り歩く母。それは心強い存在だけど、それと同時に恐怖の存在であったような気もする。ま、すべて俺の想像だけど。

   

「私も八幡も、1年の成績は主席だったわ。だからといって気を抜いたりなどしていません。今も気を引き締めたまま毎日遅くまで勉強していますし、問題はないはずです」

 

「そう? でも大学生の本分は勉強だけれど、大学の時の人脈は大切よ。そちらのほうは大丈夫かしら?」

 

 さすが痛いところをつく。俺も雪乃も講義が終われば、まっすぐ家に帰ってしまう。由比ヶ浜の勉強を見ることはあっても、他の奴らとの人付き合いがあるわけではない。

 

「そのことについては、・・・・・検討中です」

 

 雪乃の反撃の勢いは衰え始め、かろうじて虚勢を保っているにすぎなかった。

 

「検討しているだけで、もう一年経ってるわね。二年生になったのですし、どうするつもりかしら?」

 

「それは・・・・・」

 

 検討中だなんて、ここにいる誰もが苦しい言い訳だってわかってる。げんに、雪乃は悔しそうに唇を軽く噛みしめている。陽乃さんと親父さんは今も面白そうに眺めてるだけだけど、なにを考えているのやら。

 

「それはですね、今、勉強会を立ち上げたんです」

 

 俺の突然の割り込みに、女帝は心底嫌そうな顔を見せる。やっぱ大切な彼女がピンチなんだし、かっこよく彼氏が助けるべきでしょ。但しその彼女といえば、なにをいってるのかしらっていぶかしげに見つめてるし、ちょっとは彼氏を信じなさい。

 

「今は英語がメインなんですけど、ゆくゆくは他の教科もやっていくつもりです。それと、英語を出発点にしたのは他学部の人も英語の講義はあるわけで、一緒に取り組むにはちょうどいい教科だと考えたんです。ここを足がかりにすれば他学部との交流もできますし、勉強面でもプラスになります。ですから、勉強をおろそかにせず人脈も築ける、一石二鳥のプランを現在実行中です」

 

「そう。だったらいいわ」

 

つまらなそうに俺を見つめた女帝は興味を失ったのか、紅茶のカップを優雅に持ち上げ、ティーブレイクに入っていく。どうにか最初の嵐は通り越せたか。それにしても、ナイス由比ヶ浜! ほんとうは勉強会じゃなくて俺が勉強を教える会だけど、勉強会には違いない。それに、Dクラスは全学部から集まってるし、他学部との交流も嘘をついているわけではない。ここから人脈を作ったり、自分の勉強にプラスになるかと聞かれれば嘘をつかなければならないかもしれないけど、今は聞かれてないし、セーフだよな。冷や汗ものだけど、大丈夫なはず。

 女帝からの圧力からようやく落ち着きを取り戻しつつある俺は横を見ると、雪乃がまた変な理屈積み上げたわねって目で語りかけてくる。・・・お前の為なのに、とは思ったが、声に出す事はしない。女帝の前でという事もあるが、たとえいなくても女帝と同じ仕打ちをするのが目に見えていて、どうしてそれを実行する? こういうところばかり親に似やがって。わかってもらえない男心は、つらいっす。

 それにしてもあの二人・・・。陽乃さんと親父さんだけど、結局最後まで面白そうに見つめるだけか。陽乃さんに関しては女帝がひいた後、にたぁ~って隠れて笑ってたけど、俺は気がつかないふりをした。なにせ、せっかく嵐が去ったのに変な横槍いれられたらたまったものではない。

 

「あ、そうだ。これお土産です」

 

 間が持てなくなった俺は手土産として買った品を差し出そうとする。しかし、誰に渡すものか。一応目の前にいる女帝に渡すのが自然だけど、受け取ってくれそうにない。だって、こっちをまったく見てないもの。

 

「わざわざすまないね」

 

 女帝が無視を決めこんだことへのフォローとして、親父さんが間髪いれずに俺に声をかけてくる。由比ヶ浜にも負けない場の雰囲気を読む力は、さすが議員さんってとろこだろうか。

 

「いつもお世話になってますから。気持ち程度で申し訳ないですが」

 

 さて、本当に困った。ここは親父さんに渡すべきか。

 

「珍しい紅茶を買ってきたのよ。前から気にはなっていたのだけれど、どうしても買うとなるといつも同じものになってしまうのよね。だから夕食の後、みんなで試飲してみようと思って」

 

 雪乃は俺から紙袋をかすめ取ると、そのまま女帝に受け渡す。

 俺からの手土産はノーサンキューだけど、やはり雪乃からならば即受け取るよな。これで俺の手土産も引き出しの奥に放り込まれなくて済むはずだ。

 ま、こんなところかな。

 レストランで立てた計画なんて、だれでもやってるありふれた計画だ。むしろ計画だなんていうほうが恥ずかしい。贈り物を受け取らないのならば、受け取ってくれる人を介して渡せばいいだけだ。ただそれだけの作戦だった。雪乃もこの計画を聞いたときは、あまりにも陳腐な作戦で拍子抜けしてたけど、効果の高さを説明するとすんなり納得してくれた。

 奇策なんてものは本来使わない方がいい。奇策は奇策でしかなく、今まで使われてきてない分データがない。だから不確実性が高まってしまう。つまらない王道だろうが、データがそろったテンプレートな作戦の方がうまくいくに決まってる。

 

「そう。だったら夕食の後、飲みましょうね。私も新しい茶葉を探してみたいと思っていたところなのよ」

 

 嬉しそうに受け取る女帝に、雪乃もほっと胸をなでおろす。こうしてみているだけなら仲がいい母子なんだけどな。それから外野のふたり。いつまでニタニタ見つめてるんです。いい根性してるよ、まったく。

 

 

 

 

 

 食事も終わり、雪乃がいれた紅茶を飲み皆各々くつろいでいる。あの女帝でさえも雪乃が紅茶をいれる一つ一つの動きを頬笑みをまじえて見つめているほどであった。とうの雪乃は紅茶の用意に集中しまくって、その視線なんかに気がついてないのが女帝の悲しいところだろう。

 さて、こなすべきイベントは全て終わった。あとは雑談でもして帰るのみ。今なら気まづくなっても冷却期間を取ることで俺達の関係も改善できる。

 そろそろ動きますか。

 

「あの、少しいいでしょうか?」

 

 俺はカップをソーサーに戻し、姿勢を正してから声をかけた。視線はまっすぐと女帝に向け、けっしてそらすなと暗示をかける。

 だって、こえーもん。気合を入れなければ、きっと逃げ出してしまうはずだ。げんに今だってテーブルの下の足と手が震えている。

 だから俺は腹に力を入れ、椅子を若干浅目に座りなおしていた。手にはすでに汗がじっとりと湿り、背中からも汗がしみだしていた。自分の姿勢は正しいかなってチェックを始めてみると、いつも雪乃に姿勢を正すようにって言われていたことを緊張度合急上昇中というのに思い出す。

 ふふっ・・・なんだ。雪乃がいつも一緒じゃないか。俺がいくら取り乱そうが俺の横には雪乃がいる。

 一瞬だけど目だけをスライドさせて雪乃を確認すると、やはり心配そうに俺を見つめている。彼氏を信じろって。俺はこの為だけに、今日ここに来たんだからさ。

 

「なにかしら?」

 

 あっ、すっげー不機嫌そう。そりゃあ雪乃がいれてくれた紅茶を飲むのを邪魔されたしな。でも、タイミングは今しかないんで、ごめんなさい。

 

「陽乃さんの結婚についてです」

 

「あなたが口をはさむことなんて一つもないわ」

 

 俺の申し出に、女帝はぴしゃりと話を打ち切ろうとする。だけど、今回ばかりは俺もしつこく食い下がる。

 

「はい。ですから、取引をしにきました」

 

「取引?」

 

 女帝はいぶかしげに俺を見つめ、カップをおろす。カチッとカップとソーサーが触れるわずかな音さえも静かな室内に染み渡った。

 

「はい、取引です。陽乃さんの結婚は、将来企業経営をまかせられる人材と人脈の為だそうですね。そして陽乃さんは父親の地盤を引き継いで議員活動をする。これであっていますか?」

 

 女帝は俺をじっと見つめるだけでなにも返事をしてこない。俺の真意を探るべく、なるべく俺に情報を与えないつもりか?

 

「それであっているよ」

 

 俺と女帝の小競り合いに今までずっと沈黙を続けていた親父さんが思わぬ助け船を出してくれる。今まで通り穏やかな表情ではあるが、目だけは真剣であった。

 こちらの方も一筋縄にはいきませんよねぇ・・・・・・・、はぁ。

 女帝は親父さんにとがった視線を送り威嚇する。しかし親父さんがじっと見つめ返すと、女帝は頬を少し赤らめて視線を外す。

 あれ? なんなのこれって? 

 ただ、それも一瞬のこと。すぐさま俺に向かって倍の威力で威嚇を始めた。

 

「自分が雪乃と結婚して、婿養子として経営見習いになってはいけませんか? もちろん自分一人の力では無理でしょうから、雪乃や陽乃さんの協力が必須ですが」

 

 雪乃と将来の仕事については、何度も話し合ってきた。雪乃は俺には好きな仕事をして欲しいって言ってたけど、そもそも俺がしたい仕事なんてありゃしない。適当に仕事して、適当に給料くれて、適当に残業して、適当に愚痴をこぼす。そして、雪乃との時間がとれるなら、なんだってよかった。

 雪乃が実家の企業に就職するって聞いたときは、俺もそれを支えたいって真剣に伝えた。だから、雪乃が実家の企業で勤めるんなら、俺は平社員だろうと、経営者をサポートする役だろうと雪乃を支えられるんならどれだってたいして変わり映えしない。どんな仕事につこうが、責任と大変さは俺にとっては大した差はないんだから。やるか、やらないか、それだけだ。

 

「それだけかしら?」

 

「はい」

 

「それだけならば取引とはいえないわね。だって、そちらの商品に魅力がないもの」

 

 女帝はつまらなそうに呟き、再びカップをとろうとするも、その指は途中でカップを掴まずに再び腕へと戻っていく。

 痛いところをついてくる。今の俺には将来性だけしか取引材料がない。しかも、その将来性さえも不確定なもので、一学年の成績が主席なんてプラス要因にさえなるわけでもなかった。

 

「必要ならば、大学院でも留学でもなんだってします。今の自分には将来性しかないのはわかっていますが、それでも再考してはいただけないでしょうか?」

 

「そうねぇ・・・・・・」

 

 俺を上から下までゆっくりと視線を動かしていくと、侮蔑を含めた笑みを浮かべる。

 

「人脈については、大学・留学で築きあげるとして、今は置いておきましょう。ただ、あなたがこれから築く人脈よりも、陽乃がお見合いをして手に入る既存の人脈の方が大きいのよ。仮にあなたが留学するとしても、世界ランク一ケタのMBAを取得するとして、なおかつ、一ケタの順位で卒業しなければ、価値が全くないわ」

 

「それがお望みでしたら、やってのけるまでです」

 

「そうね。でも、それも将来性でしかないわ。だって、今もお見合いの話は進んでいるのよ。今しているお見合いを止めるほどの将来性が今のあなたにあるのかしら?」

 

 これは反論できない。なにせ俺には将来性しかないのに、その将来性を納得させるだけの材料なんてありはしない。ある高校生が東大に合格してみせるって言い張ったとしても、高校での定期試験や模試で好成績を残していなければ、誰も信じやしないだろう。

 今の俺には、定期試験の結果も模試の成績もない。女帝を納得させるだけの結果がなに一つ持っていなかった。

 

「今はありません。ですから時間をくだされば・・・・・・」

 

「時間って、どのくらいかしら? 1年? 2年? それとも5年かしら? それだけ待つだけの価値が、あなたにあると思って?」

 

 ずっと女帝を見つめて離さないでいた目線がぶれようとする。ここで視線を外したら負けだ。だけど、俺にはなにも反撃する武器がない。わかってたさ、こうなるって。何度も何度もシミュレーションして、最後に行きつくのが今の状態だって。

 だけど、奥歯を噛み締めくらいつくように視線を向ける。これしか武器がないけれど・・・・・・・・。

 

「もういいわ。・・・・・・ありがとね、比企谷君」

 

 いつ俺の隣に来たのだろうか。声がする方を見上げると、陽乃さんが隣まできていた。俺の肩にふわりと手をのせて悲しそうな笑顔を浮かべている。そっと肩に触れているだけなのに、小刻みに揺れる振動が陽乃さんとのつながりを強く印象付けていた。

 

「陽乃さん・・・・・・・」

 

 この人は初めからわかっていたんだ。俺が今日ここに来た理由も、そして、どんな結果になるかも。もしかしたら俺に電話した時から全てのイメージが出来上がってたいのかもしれない。

 俺が惨敗するのが既定路線。もちろん陽乃さんも鬼ではない。俺に惨敗させるためだけにここに呼んだわけではないだろう。一番の目的は、・・・・・・・雪乃だろうな。だって、重度のシスコンだし。

 ここまで俺に見込みがないって分かれば、陽乃さんが結婚して、外から経営者を呼ぶしかない。そうすれば、雪乃が実家に縛られることもなくなるだろう。

 つまり、すべては雪乃の為。その為に俺に面倒な役回りを押しつけやがって。俺も分かってて引き受けたんだけどさ。終わってみれば案外あっさりしたものだ。

 宴が終わる。俺と陽乃さんで仕掛けた演劇も、沈黙と共に幕が下りる。誰も喜ばない、誰も感動しない、儚い泥仕合。俺が勝手に転んで、勝手に泥の中で這いつくばっただけ。最後に美しいお姫様が手を差し伸べてくれたんだから、一応はハッピーエンドということになるのだろうか。

 ただそれだけのお話だ。

 

「お母さんも、この話はここまででいいわよね?」

 

「ええ、かまわないわ」

 

 女帝は再びカップを手にとり、とうに冷めきった紅茶に口をつける。冷めてしまっても、いつもなら味と香りを楽しめそうだが、あいにく今の俺には無理そうだ。でも、乾ききった喉を潤す為に俺も紅茶を飲もうと手を伸ばす。

 しかし、話を切り出す時から緊張していたわけだ。だから、その時から喉が渇いてたわけで、紅茶など残っているわけもなかった。

 

「お代わりをいれてくるわね」

 

 俺達の寸劇をずっと横から眺めていた雪乃が、すっとカップを持ち去る。雪乃はどう思ったんだろうか? すでに陽乃さんの意図に気がついてるのだろうか?

 きっと頭の回転が速い雪乃のことだ。途中から気が付いていたからこそ、何も言わず寸劇を見ていたともとれる。陽乃さんの心がこもったプレゼントを受け取るために、駆け寄りたい気持ちを押し殺して黙って観客であり続けのかもしれない。

 

「ありがとう」

 

 これで俺の役目は終わりか。そう思うと、どっと疲れがでてきたな。食事も豪華だったけど、まったくといっていいほど味がわからんかった。帰ったら何か雪乃に作ってもらうかな・・・・・・・って、その前に説教だろうな。俺は何もできなかったんだし、説教することで気が晴れるんなら、何時間だってされてやる。雪乃が陽乃さんの行動を理解できても、納得なんてできやしないだろうけどさ。

 

「ところで比企谷君」

 

 俺がソファーの背もたれに身を任せてくつろぎたいのを我慢していると、陽乃さんが陽気すぎる笑顔で俺を呼んでくる。

 

「はい?」

 

 俺の役目って、もう終わったんじゃ? 戸惑いの目を陽乃さんに送る。

 

「もうすぐ暑くなるし、自転車通学は無理でしょ。去年も夏場は電車だったし」

 

 たしかに体力がない雪乃に夏場自転車通学なんてできやしない。通学するだけで体力を使いきって、勉強どころではないだろう。

 

「ええ、そうですね。そろそろ電車通学に切り替えようかと思っていたところです」

 

「それならさ、車で通学しちゃいなよ。ちょうど車もあるし、免許も持ってるんだしさ」

 

 とにかく陽乃さんの意図がわからない俺としては、陽乃さんの会話にとりあえずのっかるしか手がなかった。頼みの雪乃は紅茶のお代わりを用意しに行っていてここにはいないし、俺は陽乃さんが予定していただろう返答を返すことしかできないでした。

 たしかに免許は大学合格発表後に教習所に通ってとってはいる。雪乃も一緒だったが、由比ヶ浜には遠慮してもらった。もちろん英語の勉強のためだ。

 

「でも、マンションには駐車場ありますけど、大学にはありませんよね」

 

「そこは大丈夫だから。すでに大学の側の駐車場を確保済みよ」

 

「えっと。・・・・・・ほら、ガソリン代かかるし」

 

「ガソリン代くらい、雪乃ちゃんが持っているクレジットカードで払えばいいわよ。ね、お父さん」

 

 話を振られた親父さんは、静かにうなずく。ということは、車の件はすでに話が通ってるってことだろう。俺は陽乃さんの筋書き通りに言葉を吐き、焦りを隠せないまま話すのも脚本の内だったのかもしれない。

 

「自分たちはまだ学生ですし、電車で大丈夫ですよ」

 

「あれぇ、去年雪乃ちゃんが電車を待ってた時、日差しにやられて軽い熱中症になったことなかったかなぁ」

 

 なぜそのことを知ってるんですか。そんなこといっちゃったら、超ド級の親馬鹿のお母様がお怒りになるではないのでしょうか。

 堅く固まった首をゴリゴリ動かし、正面から女帝に視線を向ける勇気はないので、視線の端にかかるようにお母様に目を向ける。

 あっ、般若・・・・・・・・・・。

 重い首を十倍のスピードで元の位置に戻すと、陽乃さんを睨みつける。

 なんてこと言っちゃってくれたんですか! 俺を生きて帰らせないつもりですか?

 

「車だったらエアコンも効いてるし、夏場でも快適に移動できるでしょ?」

 

「そうですね」

 

 俺はブスくれた返事をあて付けにする。

 

「じゃあ、車の用意はできてるから今日もっていってね」

 

「はい・・・・・」

 

 これでお終いだからねって合図なのか、ウィンクをしてくる陽気な陽乃さんに、俺はため息のような返事をするのがやっとだった。

 俺達戦友だったんですよね? 共に女帝に立ち向かって負けはしたけど、堅い友情を結んだばかりじゃないですか。それなのに背後から撃つだなんて。やはり陽乃さんにはかなわない、というか、何を考えているかわからない。

 俺が苦笑いをうがべていると、ふと、視線を感じる。

 だれだ?

 女帝は紅茶にしか興味がなさそうだし、雪乃は紅茶の準備中。陽乃さんと親父さんは、車の話をしているし。この部屋には、もはや誰もいない。ならば、陽乃さんが言っていたストーカーか?

 俺は暗くなった外に目を向ける。注意深く窓の外を眺めるが、庭の外灯の光は不審者を浮かび上がらせはしなかった。遠くの方を見つめるとビルもあるが、さすがにそこからの視線を感じるとは思えないし、気のせいだったのだろうか。

 女帝との対決だけでなく、最後には陽乃さんからの一撃もあったわけで、疲れのせいかもな。

 疲れた脳は思考を減速させる。普段は気がつくはずなのに、疲れをいいわけに考えることを放棄してしまう。重い腰を上げることもなく、雪乃が持ってきたお代わりの紅茶を大事に味わってしまっていた。

 カップから昇る芳醇な香りが俺を癒し始める。導かれるように茶色い液体を口に含むと、紅茶の熱が今という時間を実感させる。緩やかに進む時計の針は、明日も同じ時を刻むだろう。それは、ほんとうに同じ時を刻むのだろうか?

 もはや考える気力など残っていない俺は、雪乃を眺めることにした。

 

 

 

 

 

 

 

6月18日月曜日

 

 

 

 大学の講義が終わり、俺達のマンションに集まった一同は由比ヶ浜の誕生日パーティーを楽しんでいる。ちなみに俺も楽しむ予定だったのだが、どうして食事の用意をしているのだろうか。今も雪乃の指示に従って芳ばしい香りが鼻をくすぐる唐揚げが盛られた大皿を運んでいる途中であった。

 一方、俺の苦労も知らずに楽しんでいるメンバーといえば、由比ヶ浜、小町、それに平塚先生があげられる。この日の主役たる由比ヶ浜と役に立たない平塚先生は最初から除外されたとしても、料理が得意な小町くらいはせっせと働くお兄ちゃんを手伝っても罰は当たらないよ?

 でも、いいか。小町も受験勉強でストレスがたまっているのだろうから、息抜きも必要だし。この日ばかりは大学受験勉強中の小町も大義名分を盾にパーティーに参戦したけど、そんな言い訳しなくても来てもらったのに。ただ、小町を家に迎えにレグサスで行った時マジでひいてたけど、それだけはマジでやめてくれ。

 

「本当にゴミいちゃん、雪乃さんのヒモになっちゃったんだね。これもお兄ちゃんが選んだ人生だし、小町煩くは言わないよ。お兄ちゃんがレグサス乗ってる事お父さんが悔しがるかもしれないけど、小町だけはお兄ちゃんの味方だからさ」

 

 よよよっとわざとらしく崩れるのはいいとして、でも玄関先でやるのだけはよしてくれ。これでも元主夫志望の身としては近所の目というのには気にしてるんだからよ。

 たしかに俺もレグサスが家の前に横付けされていたら、親父が会社の金でも横領して、ちょっとやばめの人が家ん中をひっかき回しにきたと思ってしまう。

そしたら貴重品だけ手にとって小町を連れて雪乃の所に避難だな。おっとカマクラも釣れていていかないと小町と雪乃に怒られるな。母親の方は弁護士頼んで離婚手続きで忙しいだろうし、俺が家族を守らないとな。あまり頼りたくないけどこういうときは陽乃さんに相談するのが最善か。

 勝手に親父をぐ~てれの悪者に仕立て上げてシミュレーションしてみてはみたが、案外小心者で堅実な親父だから可能性としては低い未来だろう。

 よし、俺の家族で犯罪者になりそうな奴はなし。ただこう言う事を考えるあたりは兄妹なんだな。俺も小町の事を言える立場でもないか。そう考えると俺と小町の反応は似てるっていったら似ているんだろう。さすがは兄妹ってところか、と変な所で感動してしまう。

 一方その点由比ヶ浜の順応性は高い。あほの子といえどもびっくりしたのはほんの一瞬。すぐさまおつむを再起動した由比ヶ浜は、そんなこともあるよねぇ的なノリで、あとは何事もなかったように雪乃と共に後部座席に乗り込んだ。

 はた目から見ると俺は若い運転手って感じがしてしまったのは事実だが、それに気がついてわざわざつっこんでくるあたりが由比ヶ浜らしくもあった。

 

「さあケーキも食べたし、この辺で本日のメインイベントに入ろうか。な、雪ノ下」

 

 誕生日恒例のケーキに立てたろうそくの灯を消して、誕生日プレゼントを各々献上するという由緒正しき典型的な誕生日パーティーイベントを消化してきた俺達は、平塚先生の声に耳をむける。しかし、由比ヶ浜と小町の視線は俺と雪乃が用意している料理のほうへの意識が強く、正直平塚先生が言っている事を理解しているかは怪しかった。

 

「平塚先生。メインイベントとはなんでしょうか? このあとは食事にしようと思っていたのですが」

 

 食事の準備をしながらも、一応平塚先生の事を忘れてはいなかった雪乃は、とりあえずほっとくと面倒だからというオーラを隠す事もなく身にまとい、平塚先生の相手をかってでる。

 いや、一度は俺に相手をしてあげなさいよと雪乃は視線を送ってきてはいたが、こっちは今小町の相手を忙しいと首を振って辞退していた。なにせ小町ったら唐揚げを盗み食いするんですもの。兄としては、めっ、と睨みをきかせないとな。

 

「も~らいっ・・・・・・・。ん、美味しいぃ。これ雪乃さんが作った唐揚げだよね。外はカリカリなのに固くなくてサックサク。しかも中はじゅわぁっとっと肉汁が溢れて来て、なんなのこれ。お店でもこんなに美味しいの食べられないって。雪乃さんの料理の腕もさることながら、誕生日ともあってやっぱ使っているお肉が違うのかな?」

 

「ん? いつも買っている普通の鶏のもも肉だったと思うぞ」

 

「えぇ~、じゃあ味付けとか揚げ方が違うのかな?」

 

「どうだろうな。でも最近唐揚げにこっていたから、その影響かもしれないけど」

 

「ふぅ~ん・・・・・・」

 

 おい、俺が役に立つ情報を提供出来なかったとしても、もうちょっとは俺に敬意を払ってくれよ。

俺が勝手に小町の仕打ちにへこんでいると、由比ヶ浜が横からひょいと現れて、唐揚げを一つつまんで口に放り込む。

 

「そういえばゆきのん。津田沼の唐揚げ屋の味がどうとか言ってたよね」

 

 ちゃんと口の中のものを全部飲みこんでから話しなさい。雪乃お母様が平塚先生の相手をしていなかったら口うるさく注意していたはずだぞ。その口の中でもぐもぐしてはふはふしている姿が可愛いって言う奴がいうかもしれないが、雪乃は甘くはないからな。

 と、由比ヶ浜に注意してやろうと身構えていたら、小町がもうひょいっともう一つ唐揚げをかすみ取ると、由比ヶ浜のようにもぐもぐはふはふと食べながら話しだした。

なにこれ、可愛い。やっぱ可愛いは正義。つまり小町は正しい。

 

「あぁゴミいちゃんが雪乃お義姉様の気持ちも考えないで暴言を吐いたやつですね」

 

 やだ、なにその冷たい目。雪乃直伝かよ。

 

「なになに? ヒッキー、ゆきのんに何か言ったの?」

 

 俺に詰め寄る由比ヶ浜は、怒りと共にもう一つ唐揚げをとっていく。非があるかもしれない俺としては強く出れないわけで、由比ヶ浜のつまみ食いに注意さえ出来ずに皿が寂しくなっていくのを眺めているしかなかった。

 

 

「俺は別に何か言った覚えはないぞ。それに雪乃だっていつも通りだったし、小町の勘違いって・・・・・・」

 

「ううん、それはゴミいちゃんが気が付いていないだけだって。だって雪乃さん家に来て、比企谷家の唐揚げを食べさせてほしいって来たもん」

 

「え? 初耳だけど」

 

「やっぱヒッキー、ゆきのんにひどいこと言ってたんじゃない」

 

「だから知らないって。で、小町どういうことなんだよ」

 

 俺の詰問に、今度は小町の方が「やばっ」と顔をしかめる。どうせ雪乃に内緒にしておいてほしいとでも言われているんだろうけどな、おそらく雪乃はいずればれるのを承知で一応口止めしているだけにすぎないと思うぞ。

 

「ん、まあどうせ雪乃さんもずっと内緒にするつもりではないと思うから言っても大丈夫かな」

 

 さすがは我が妹。自分の性格と雪乃の行動パターンを読んでいらっしゃる。でも、自分のことをしっかりと分析できているんなら、もうちょっと頑張ってみようよ。ほら、大学受験とか。

 俺の思いやりも知らないで小町はしれっと雪乃の方に目をやり、特に確認を求める事もなく勝手に判断を下す。俺としては小町も最初から雪乃の判断をわかっているあたりが問題だと思うんだが。身内なら可愛い小町で済ませられるが、世間はけっこう秘密をばらした事がばれるのが早いし、恨みも買いやすいからお兄ちゃんとしてはその辺が心配だ。ただ小町も、俺達相手だからセキュリティレベルを下げているんだろうから、その辺は心が許されているって事で今日のところは納得しておくか。

 

「お兄ちゃん、津田沼の唐揚げ屋さんをべた誉めしたでしょ。しかも、前日の夕食で雪乃さんが唐揚げ作ったのにも関わらず」

 

「それはひどいよヒッキー。夕食で食べたばかりなのに、次の日にまた唐揚げ食べるのもひどいのにさぁ」

 

 痛い。この四つの視線が痛いのはやっぱ俺のせいなのか。これは二人のシンパシーによる共闘なのだろうけど、俺としては別に酷い事をいったおぼえはないんだけどな。

 

「いや、まて」

 

「見苦しいよお兄ちゃん。ここは素直に謝るべきだと思うのです」

 

「そうだよ。小さな不満が大きな決裂をうむんだよ」

 

「だから、ほんとうにちょっとまってくれ」

 

 皿を両手に持った俺は、二人の気迫に押されて一歩後退する。後退しても二人が一歩詰め寄ってくるので、俺達の距離は変わらない。けれど、散々文句を言いながらも唐揚げを食べる手だけは止まる事もなく、皿一杯に盛られていた唐揚げは半分ほどまで激減していた。

 

「ん、まあいいよ。じゃあ、見苦しい言い訳を言ってみて、お兄ちゃん」

 

「ああ、まあそのな。だから唐揚げを買ったのは珍しい場所に出店していたからなんだよ。普通人通りが多い所に出店するのがセオリーなのに、大通りから一本中にはいった人通りがややすくない場所に出店していたんだよ。しかも踏切前で車もとめにくい場所だったしな。だからどんなもんかなと思って買ってみたんだけど、それが思いのほか美味かっただけだ」

 

「ふぅ~ん、それで?」

 

「まあ俺としてはラーメン食べに行く途中にある場所だし、俺としては悪い場所ではないんだが、出店場所の意外性と新しいお気に入りの店が見つかったことで、ちょっと大げさに美味しいっていっちゃったのかもしれない、気もしないこともないような、あるような・・・・・・」

 

「そのとき雪乃さんも一緒だったんでしょ」

 

「そうだな」

 

「その時の雪乃さんの反応はどうだったの?」

 

「普通だったと思うぞ。雪乃も美味しいって言ってたし」

 

「そうなの? 今度あたしも連れて行ってよ」

 

 ようやく一人脱落か。これで痛い視線の攻撃力も1割ほど減ってはくれた。自他共に認めるシスコン、いや小町命の俺からすれば、由比ヶ浜が抜けた事での攻撃力低下は1割くらいしかないと断言できる。

 

「ああいいぞ。小町もどうだ?」

 

 となると、一番のネックの小町を攻略すべきだよな。俺は知っている。小町も唐揚げが大好きだって知っているんだぞ。あの雪乃でさえ認める唐揚げを小町がスルーできるかな?

 俺は不敵な笑みを心のうちで浮かべるが、ここは兄妹。長年の一緒に生活してきた事とあって、小町は俺のいやらしい笑みを心の目で感じ取っていた。

 

「まあ、小町としても実況見分しなければいけないか。雪乃さんの為にも行ってみようかな」

 

 籠絡完了。唐揚げの前には小町であってもちょろいもんだ。あとは敗戦処理をうまくして、ほぼ空になりつつある唐揚げの皿について雪乃に怒られるだけだ。

 

「それで構わないぞ。だったらラーメン食べた帰りに買って帰るっていうのはどうだ。もちろん買ってすぐに食べると熱々でサクサクなうえにジュワジュワで最高だから、二、三個はデザート代りで食べられるぞ」

 

「それは、ちょっと・・・・・・」

 

「さすがにお兄ちゃんの妹でもある小町でも、そのチョイスは女子のをわかってないと言わざるを得ないよ」

 

 俺の最高の提案に賛同するばかりかげんなりしている姿に、俺は幾分ショックを隠せないでいた。

 ラーメンで油で、唐揚げでも油。どう考えたって最高の組みわせだろうに、これにどこが問題があるっていうんだ。

 

「あたしはちょっとカロリーが気になるっていうか、食べ過ぎはよくないって思うなぁ」

 

「そうだよお兄ちゃん。美味しいものを食べ過ぎていると太っちゃうよ。ただでさえ雪乃さんの料理は美味しいんだから、このままの食生活が続くと、きっと太るよ・・・・・・・、ん?

でもなんだかお兄ちゃんの体、引き締まってきてないかなぁ・・・・・・・んん?」

 

 両手に皿を持っているせいで小町が俺の体をなめるように観察していく姿は直接見えはしないが、それでも視線で体を舐めるように這わせられては、こすばゆいったらありゃしない。しかも、ついには手で直接触ってくるなんて。……お兄ちゃん、禁忌さえも乗り越えてしまいそうだ。

 

「ちょっと小町やめろって。料理運んでいる途中なんだし、落としたら危ないだろ」

 

「ちょっと黙っててよ。結衣さん、この脚触ってみてください」

 

「え? どうして?」

 

「いいから触ってみてくださいって」

 

「うん、まあ、ごめんねヒッキー。失礼しま~す」

 

 由比ヶ浜は小町に手をひかれて俺の太ももからふくらはぎまで触ってその感触を確かめる。最初は恐る恐るって感じだったのに、数秒後には大胆に触りやがって。こっちが動けないのをいい事におもちゃにしやがって。あぁ、俺の体が汚れちゃう……。

 

「うそ、ヒッキーいつ筋トレしてるの?」

 

「別にトレーニングなんてしてねえけど」

 

「うそだぁ、だって脚の筋肉しっかりとついてるじゃん」

 

「だから特別なにかトレーニングとかしてるわけじゃないって」

 

 疑惑の追及をやめない由比ヶ浜は引き下がろうとはしない。それどころか疑惑がますます深まっていくようでもあった。

 

「たしかに高校の時から自転車通学してたけど、ここまでの筋肉はついていなかったと思うんだよなぁ」

 

 なおも遠慮もなくぺしぺし脚を叩きながら呟く。

 最初に見せていた恥じらいはどこにいったのかなぁ……。

 

「たしか大学入る前にロードレーサー買ったよね。もしかしてお兄ちゃん、その影響?」

 

「どうだろうな? 雪乃も買ったんで一緒に走りに行ってるから、もしかしたらその影響下もな」

 

「あっ、うん、そうだよ。ゆきのんの体も引き締まってきてたもん。今まではゆきのんだしそういうこともあるかな程度で気にしなかったけど、やっぱり裏があったんだね。でもゆきのんずるい。あたしがダイエット頑張ってるって知ってるし、相談もしてたのに、それなのに自分だけ自転車で痩せてたなんて」

 

 両肩を落とし、頭はうなだれ、しまいには絶望しきった声で悲壮にくれている奴が目の前にいると、自分が悪いってわけでもないのに、どうしてもありもしない罪悪感を感じてしまう。これが他人だったら見ぬ振りができるけど、さすがに由比ヶ浜相手となるとそうもいかない。

 

「雪乃も秘密にしていたわけではないと思うぞ。そもそも雪乃のロードレーサー買いに行ったときにはお前も一緒だっただろ。ロードレーサー見ててもすぐに興味を失って、ウエアばかり見てはしゃいでいただろ。覚えてないか?」

 

 ピタッとしたウエアを見て、エロすぎるぅとか言ってたんだよな。由比ヶ浜が言うものだから、ほかの客がドキってしていたのを今でも覚えているぞ。ほとんどの男連中が試着しろ~って邪な念を送っていたが、見るだけで試着はしなかったんだよな。

 

「たしかに……。でも走りに行く時誘ってくれないじゃん」

 

「いや、それも誘ったぞ。でも早すぎてついていけないからって初回でリタイヤして、次誘っても来なくなっただろ」

 

「え? そだっけ?」

 

 絶対覚えているって顔してるぞ、こいつ。

 

「そうなんだよ。それに痩せたいんなら食事制限とか、ほかにもいろいろ面倒な事はやらないで運動すれば痩せるんだよ。体を動かせばエネルギーを消費して痩せる。当然のことだろ」

 

「お兄ちゃんはわかってないなぁ」

 

「なんでだよ?」

 

「みんなが定期的な運動をできればダイエット産業がここまで繁栄するわけないじゃん」

 

 なに馬鹿なこと言ってるのっていう目が、ちょっとばかし癪に障って殴り手てぇと思ってしまったが、小町を殴ることなんて論外なので事なきを得る。

 たしかにダイエットしてますって言う奴に限ってダイエット本とか何冊も持っているよな。ダイエット始める宣言しては失敗し、より簡単なダイエット方法見つけてきて再チャレンジしては再びダイエットに失敗する。そして永遠にダイエット方法を何度も変えては失敗を繰り返すと。

 そう考えると、ダイエット本って、本気でダイエットしたいやつは買ってはいけないものなんじゃないの? だけど、ダイエット失敗させる為に本を売っているとしたら、最高の商売方法だよな。最初の一週間だけやる気にさせて、最後には失敗させる。んでもって、数ヵ月後には新しいダイエット方法を開発しましたとか言っちゃって新たなダイエット本を発売。

 あらやだ。これやったら生涯生活安定じゃないの? 新興宗教の教祖よりもこっちのほうがあってる気がするぞ。

 まあ、俺が本気でダイエット本書いたら「毎日汗だくになるまで走れ」の一行で終わっちまうか。だれかゴーストライターが本一冊分くらいになるくらい肉付けしてくれねえかなって馬鹿な事を考えながら平塚先生の相手を任せていた雪乃を盗み見ると、やはりというか今もなお押し問答と言うか平塚先生をなだめることに成功していなかった。

 

「誕生日と言えば、食事の前に乾杯があるだろう。「私」と雪ノ下が用意したプレゼントを渡すべきだと思うのだが」

 

「そうですね。では、料理を全て運び終わってからにしましょう」

 

「そうだな」

 

 すっごくうれしそうっすね、平塚先生。視線が「雪乃」が用意しようとしたプレゼントに釘付けですよ。だってねえ……。

 本来平塚先生は今日のパーティーを欠席する予定であった。一応先に「若手」に割振られる他校の教員との懇談会の資料を準備する予定が組まれていたので、俺と雪乃と共に買いだしだけ一緒にし、パーティーに出られないお詫びとして支払いだけするつもりでいたらしい。

 俺達はマンションの下にあるいつものちょっとばかしお高いスーパーで買いだしをしていた。店内に入ってすぐ目の前に広がる野菜売り場で、その中でもひときわ目立つ変わったキノコまで取り揃えてあるコーナーで目を輝かせるのはよしてくれませんか、平塚先生。

 俺はカートを押しながら雪乃の隣をついていき、このままでは大量のキノコを持ってきそうな平塚先生を牽制することにした。

 

「変わったキノコがあって面白いのはわかりますけど、今日買うのは決まっていますから雪乃に任せた方がいいですよ」

 

「え?」

 

 いや、わかりますよ。俺も初めてここに来た時、目にとまりましたから。馬鹿でっかいキノコからテレビで紹介されても普通のスーパーでは売っていないようなキノコまで、当然のように陳列されていたら興味を持つのは当然だとは思いますよ。でも、生のキノコって変色しやすいのもあるし、そんなにはたくさん買い置きしないんだってよ。だから、平塚先生が既に手に持っているキノコを全部買うことなんてないですからね。経験者が語るってやつなんだが、俺も若かったなとたそがれてしまいそうになる。

 

「今日使うのはマッシュルームだけですから、他のは元に戻しておいてください」

 

「いや、これなんて焼いて食べるだけでも酒のつまみになりそうでいいんじゃないか?」

 

「たしかにお酒にあうかもしれませんが、今日この後平塚先生はお仕事にお戻りになるのですよね」

 

「そうだけど、そうだけど……」

 

 ちょっと平塚先生。でっかいキノコを握りしめて涙ぐまないでくださいって。これでも顔とスタイルだけは抜群なんですから、そんなキノコを愛おしそうに見つめていたら、他の客の注目を集めちゃうじゃないですか。ただでさえ雪乃と平塚先生が店内に入っただけで注目されてざわついているのに。

 

「はぁ……、わかりました。平塚先生が自宅用に買うという事でどうでしょうか。それならば食材を無駄にする事もないでしょうし」

 

「ほんとうか? じゃあ、好きなの買ってもいいんだな」

 

「えぇどうぞ」

 

 どっちが年上かわからないな。まるで小さい子供がお菓子を勝手に買い物かごに入れようとするようにキノコをカートに詰め込んでいく姿、まさしくそれと重なっていますよ。本来なら平塚先生がお母さん役をやるべきなのに……。

 ぐすっ、平塚先生ぇ。俺が代りに泣いておきますからね。立場は逆でしょうけど、自分では体験できない貴重なほのぼのとした親子の買い物のシーンを体験してください。

 

「買うものって案外少ないんだな」

 

 俺は雪乃が手に持つ買い物リストに肩を寄せ覗きこむ。すると雪乃はメモ書きを俺が見やすいように肩を傾けてくれた。

 ただ、聞こえるはずなんてないのに、かすかに揺れて擦れあう雪乃の黒髪の音を耳が拾ってきてしまう気がする。もちろん幻聴だってわかっている。だから俺はそのさらっさらでつやっつやのその黒髪をじかに触って確かめようと手を伸ばした。肩が触れ合うほどに寄りそっているわけで、すぐにでも触れることができるが、臆病な俺は一度雪乃の表情を確認しようと視線をずらす。やはりというか俺の異変に敏感に察知してしまう雪乃は俺の手の行方を目で追っており、俺はたまらず軌道修正してメモ書きをもつ雪乃の手に手をそわせた。

 なんというか、意気地なしとでもいうのだろうか。それとも雪乃の手で我慢したともいうのか。もう一度雪乃の表情をちらっとだけ確認した時、その口元がほころんでいたような気がした。けれど、再々度雪乃の口元を確認する勇気だけはいまだに持ち合わせてはいないようであった。

 

「そうね。事前に準備していたのもあるから、今日は新鮮なお魚や野菜くらいかしらね。あとは由比ヶ浜さんへのプレゼントも買う予定ではあるのだけれど」

 

 数秒にも満たないやり取りがあったというのに雪乃にいたって平然とした声を発する。

 

「やっぱあれにするのか?」

 

 俺の方はというと、当然ながらやや上擦った声を発生してしまうのは御愛嬌だ。

 

「ええ、一応二十歳になったお祝いでもあるのだから、記念もこめてあれにすることにしたわ」

 

 俺達は去年に続いて今年も大型ショッピングセンターに由比ヶ浜のプレゼントを買いに出かけていた。しかも、長々と探索した結果はここでは買えないであり、あろうことかマンションの下にあるスーパーで買う事になっていた。だったらわざわざショッピングセンターまで行く必要がないといわれそうだが、そこはまあ、デートだと思えば問題ない。

 彼女の買い物が長くて疲れると言っている諸君。対処方法をお教えしよう。一番いい解決方法は一緒に楽しんでしまうだが、それが無理なら彼女の表情の変化を観察する事をお勧めする。けっこう今まで知らなかった表情とか知ることがあるし、好みとかもリサーチできて有意義な時間がすごせるはずだ。人間観察が趣味である俺って、いい事思い付くだろ?

 ……まあ、この事を小町に口を滑らせてしまったら、みごとに砂糖を吐きまくられたが。

 

「あれとはなにかね? 誕生日プレゼントとして分厚いサーロインステーキでも買うのかね?」

 

 どこまで豪快な男性思考なんですかとつっこもうとしたが、その前に雪乃が説明をはじめてしまっていた。

 

「今日はステーキは用意しませんよ」

 

「では、なにをプレゼントする予定なのだね」

 

 平塚先生は勝手に物珍しそうに棚を見て回っていたのに、俺達の会話の方が面白そうだと判断したのか寄ってくる。だけど、どうして俺を間に挟んで会話しているんですか。たしかに雪乃が棚側ですけど、ぴったりと俺に寄りそう必要はないですよね。

 ちょっとばかし自己主張がお強いお胸が俺の腕で形をかえてしまっているのをどうにかしていただけませんか。このままでは、俺の命の形も雪乃に変えられそうなんですよ。

 そんな俺の不安なんてよそに、平塚先生はぐいぐいと詰め寄りながら話を進めようとする。

 

「私はパーティーには出られないんだ。教えてくれてもいいじゃないかね」

 

「わかりました。お教えしますから、八幡と腕を組まないでください」

 

 その指摘を受けて俺達は顎を引いて下の様子を確認する。あんまりにも柔らかい感触がすると思っていたら、俺の腕を抱え込むように抱いているんじゃないですか。やっぱり普通の状態ではないとは思っていましたけど、怖くて確認できていませんでした。……いろんな意味で。

 俺達ははっと息を飲んで視線を水平に戻す。そして平塚先生がぱっと腕を離し、半歩横にずれることで終焉を迎える。その代わりというわけでもないが、本来俺の隣に収まるべき雪乃が反対側の腕に吸い寄せられた。

 

「す、すまない」

 

「大丈夫ですよ、平塚先生」

 

「雪ノ下・・・・・・」

 

 大丈夫じゃないですって。その綺麗すぎる冷たい笑顔が不気味なんだって。周りにいたはずの客たちも、俺達の不穏な気配を察知して散っていってるぞ。

 

「平塚先生は大丈夫ですよ。意思を固く貫けなかった八幡に問題があって、本来なら八幡がうまく声をかけるべきでしたから。だから、罰を受けるとしたら八幡だけです。ねっ、八幡」

 

 冷凍食品売り場にいるから寒いってわけではない。ここのスーパーの冷凍庫は全て密閉型で、冷気は漏れない仕様だ。だから、冷気を感じるとしたら冷凍庫以外からと言うわけで。おそらくドライアイスよりも熱く冷えきった雪乃の腕が俺の腕を凍傷に導かんと柔らかくその腕を抱いている。けっして逃げる事が出来ない甘美にぬくもりに俺は溺れながら、後ほど訪れるであろう罰を覚悟した。

 

「そ、そうか」

 

「ええ・・・・・・。それで私が何をプレゼントするかですよね?」

 

「あぁ、そうだったな」

 

 雪乃の見事なスマイルに、平塚先生は口を引きつりながらも笑顔を捻りだして返していた。

 

「ちょうど二十歳になってお酒も飲めるようになるので、その解禁記念も兼ねてシャンパンを送ろうと思っているんです」

 

「それは洒落ていて由比ヶ浜も喜ぶんじゃないか」

 

「だといいのですが・・・・・・」

 

 一応プレゼントを決めたとはいえ、雪乃はまだ迷っているようだ。散々他のも見て回ったけど、これといって二十歳を記念する品は見つかる事はなかった。たしかに年に一回訪れる一つの記念日ではあるけど、真剣に雪乃が考えてくれたものなら、あいつは何でも喜んでくれるんだろうに。

 

「でも、今日は平塚先生が一緒でよかったです。本当は姉さんも誕生日を祝いに来る予定だったのですが、急に予定が入ったらしくて」

 

 大学の講義も途中で切り上げて、陽乃さんは俺達にお詫びのメールだけを残して一人で帰ってしまった。だから、どんな用件で欠席するかは知らない。教えてくれないのならば、俺達には関係ないのだろう。ただ、由比ヶ浜は陽乃さんが来ないことを寂しがってはいたが。

 

「そうらしいな」

 

「それでシャンパンを買うにしても未成年でもある私と八幡ではどうしようもなかったんです。だから平塚先生が一緒で助かりました」

 

「それは役に立てて何よりだ。で、買う銘柄は決めてあるのかね?」

 

「はい、トン・ペリニヨンの199X年ものをプレゼントしようと思っています。ちょうど由比ヶ浜さんが生まれた年のシャンパンを八幡が売っているのを見つけていたんです。ほんと、お酒なんて飲めはしないのに、なにが面白くてお酒の棚を見ていたんでしょうね」

 

 面白いだろ。普段名前は聞いても親父なんかじゃ買えもしない銘柄がしれっと並べられているんだぞ。しかも、普通のスーパーどころか酒屋だってあまり売ってないんじゃないかっていうやつだぞ。それが普段から棚にそろえられているってのは普通ではない。だから、それを見ていたとしても、一般人にとっては面白いんだよ。

 さすがはマルエヅの高級店バージョンだよな。こことか東京の超高級マンションで有名な所とか限られた地域にしか出店してないけど、案外中を覗けば普通なんだよな。・・・・・・見た目だけは。でも、よく見ると普通のスーパーでは売っていない高級品を、さも当然でしょってごとく売っているから、俺も初めて来たときは今の平塚先生みたいにはしゃいだっけな。

 なんて昔の俺と目の前にいる平塚先生とを重ねていると、はしゃいでいた顔がわくわくを通り越して驚愕へと変貌していた。

 

「どうしたのですか、平塚先生? なにか問題でもあるのでしょうか?」

 

「あるに決まっているではないか。問題どころか大問題だ」

 

「先生、唾を飛ばさないでください。興奮するのは勝手ですが、周りへの迷惑も考慮してください」

 

 唾は駄目でも、両肩を掴まれて揺さぶられるのは問題ないんだな。いまいち最近の雪乃の判断基準がわからなくなってきているんだが、由比ヶ浜の絶え間ない努力が実ってきているんだろうか。高校の時、既に由比ヶ浜がくっついても文句いわなかったしな。

 だけど、周りの客からは小姑が新妻にいちゃもんつけていいびっているようにしか見えてませんよ。あら、恥ずかしい。となると、俺が夫か。こりゃ照れるなぁ・・・じゃない! 

なんか俺の方まで小町に洗脳されていそうで怖くなってしまう。・・・・・・悪くはないけど。

 

「それはすまない。しかし、興奮するに決まっているではないか」

 

「だから、なにに問題があるのでしょうか?」

 

 雪乃は一歩も引かずに平塚先生をまっすぐ見つめて問いを繰り返す。凛と背中を伸ばして立ち向かうその姿を見た若奥様たちが、雪乃の事をこっそり応援している事は黙っておこう。無言の声援の中に旦那さん頼りなさそうっていう冷たい視線は、とりあえず今後の検討課題として家に持ち帰らせてもらいます。

 持ち帰るイコール対処しないだけど、それでも期待を捨てないのはどうしてなんだろうか。絶対いい返事なんてこないのに。

 

「トンペリだぞトンペリ。二十歳になったばかりの酒の味も全くわからない若造が飲む酒ではない」

 

 あぁ墓穴を掘っちゃったよ、この人。自分で自分は若手ではないって思ってるんじゃないですか。そりゃあ年が気になるお年頃だけど、こういう地が出やすい時こそ気をつけないと。

 俺がやや明後日の方向の心配ごとをしていると、いまや顔がくっつくほど迫りまくった平塚先生を雪乃が冷静にいなしていた。

 

「だからこそですよ。一番最初に良いものを飲んで覚えておくことが大切だとは思いませんか。たしかに由比ヶ浜さんもお酒の味はわからないでしょう。でも、今日という日の思い出としては最高の味を感じてくれると信じています。それに、お祝い事ですので、味よりも気持ちが大切だと思いますよ」

 

 毅然としながらも最後は柔和な笑顔でしめると、周りの奥様方から小さな歓声が沸き上がる。強くて美しい。まさに若奥様の理想だな。

 

「いや、そうかもしれないが・・・・・・」

 

 でも、まじで正論すぎるだろ。普通感情的になっている相手に正論で迎撃しても感情で押し返されるのが関の山なのに、雪乃の鉄の意思で真摯に訴えかける温もりで、あの平塚先生の昇りきった熱を冷ましているじゃないか。

 

「でしたら問題ないですね」

 

「そうだが・・・・・・、いやそれでも、なあ。やはり若いのにあのトンペリだぞ。私でさえ飲んだ事がないのに飲んじゃうのか」

 

 後半小声で愚痴っているようですけど、ちゃんと聞こえていますからね。たぶん最後の愚痴が本音だろうけど、ちなみに雪乃もしっかりと聞こえているみたいっすよ。

 

「はぁ・・・、ではトン・ペリニヨンだけは今日由比ヶ浜さんにプレゼントしますけれど、乾杯をするのは平塚先生がいらっしゃるときにします」

 

「それでは由比ヶ浜に悪いだろう。今日から酒が飲めるというのに、私の都合で乾杯を遅らせるのはよくない」

 

「では、乾杯だけでも顔を見せていただける事は出来ないのですか?」

 

「うぅ・・・・・・」

 

 何に葛藤してんだよ、この人は。仕事が終わってから来てもいいんだし、そんなに悩む事か?

 

「あの、お仕事ですから無理にとは言いませんけれど」

 

「いや、行く。誕生日会に出席させてもらおう」

 

「え? でもお仕事が」

 

「大丈夫、大丈夫。本当は後輩がやる予定だった仕事だったのに、合コンだからって拝まれてな。しかも今度合コンするときは呼んでくれるなんて餌まで……、いやなんでもない。つまりは後輩の遊びの為に由比ヶ浜の誕生日会を駄目にするなんてできないな。ちょっと待っててくれ。今電話してくる。なぁに若手ごときにいいように使われんさ」

 

 平塚先生は俺達の返事も聞かずに店外に電話をしに小走りで出ていく。そんな子供すぎる大人を見ている俺達ができる事といえば、その後ろ姿を生温かい目で見送ることくらいしかなかった。

 でもさ、先生。ついに若手が現れてしまったんですね。実際にはけっこう前からいただろうけど、もう自分は若手じゃないって事を受け入れて! もう見ていて辛いからっ。

 受け入れる事は辛いでしょうけど、一緒に泣いてあげますって。今は一緒に飲む事は出来ないけど、俺が二十歳の誕生日を迎えたら一緒に酒と涙を飲んであげますから、そろそろ若手のラベルの返上を真剣に御検討お願いします。

 

「それでは皆さんグラスを持ちましたかぁ。まだの人をお急ぎを」

 

 小町がはきはきとした声が狭くはないリビングに響きわたる。準備を促さなくても若干一人はフライングする勢いの気迫がみなぎっているが、この際水を差すまい。

 

「ちょっと待って小町さん。由比ヶ浜さんと平塚先生はいいのだけれど、私はもちろん、八幡と小町さんもお酒は飲めないわよ」

 

「いや、乾杯くらいいいだろ、お祝いの形だけなんだし問題ないと思うぞ」

 

 珍しく俺が場を収めようとするも、雪乃の毅然とした姿は崩れない。意思が強いその眼光は、俺を捉えたまま離さないでいた。

 俺も絶対飲みたいってわけでもないんだけどさ、ほら。平塚先生とかが早くしろって唸っているだろ?

 

「いいえ、こういうことはしっかりとしておくべきよ」

 

「そっか、そうだよね。じゃあさ、ゆきのんの誕生日の時に乾杯しない? ほら、その方がなんだかいい感じっぽいし」

 

「そうですね。小町はまだまだ先ですし、雪乃さんの誕生日が一番いい感じですね」

 

 やっぱ由比ヶ浜が空気読んじゃうだろ。だから俺が自分の立ち位置を変えてまで場を収めに出たのに、今日が由比ヶ浜の誕生日って事を忘れてたな。ほら、お前が由比ヶ浜の言葉を聞いて申し訳なさそうにするのだってわかってたんだよ。

 

「雪ノ下。一口口につける程度では誰も文句は言わんよ。それに車も乗らないのだろ? だったらお祝いとしての形式的な乾杯くらいならいいのではないかな」

 

 おいおい・・・、まだあんたは諦めてなかったのかよ。由比ヶ浜と小町がせっかくこの話題を終わらせようとしてるのに。たしかに平塚先生がいうことが一般論としては正しい。また、雪乃がいうことも法を厳守する上では正しい。どちらも正しいのに結果だけ見れば大きく違うのは、ルールの使い方というか、悪く言えばダブルスタンダードに陥ってしまうからだろう。ようは適材適所で、その場にあったほうを選択すればいいんだろうけど。

 ただ、今回ばかりは癪だけど、平塚先生が正しい。お酌だけに。……やべっ、平塚先生が酒を飲むのを付き合ってる影響で、つまらないすぎるダジャレがうつっちゃったじゃねえか。こっちは酒が飲めないのに毎回付き合っているというのに、あのねちっこいダジャレとか絡んでくるのとかどうにかなりませんかね。

 

「そうだな。せっかく由比ヶ浜の誕生日プレゼントとしてシャンパン用意したんだし、形だけでもお祝いしといたほうがいいんじゃねえの。グラスに酒ついだとしても、乾杯した後に平塚先生が責任もって処分してくださるだろうし」

 

 ・・・って、平塚先生を援護したのに、なにぽけっと突っ立ってるんですか。パスを送ったんだから、しっかりとゴール決めて下さいって。

俺の執拗な視線をようやく理解した平塚先生は、とってつけたようにたどたどしくシュートをうちにいった。

 

「そ、そうだぞ。乾杯だけでもやるべきだと思うぞ。それに今日の主役は由比ヶ浜だからな。二十歳になったお祝いとしてトンペリをわざわざ用意したんだろう? だったら今日の記念として由比ヶ浜はお酒を飲むべきだ」

 

 どうにか空振りにはならなかったようだけど、雪乃に向かって一直線って、キーパーの正面に蹴ってどうするんですか。

 雪乃は平塚先生の弁を飲み込み、しばし由比ヶ浜を見つめる。そしてちらりと俺の事を睨みつけてから由比ヶ浜に申し訳なさそうな笑顔を見せた。

 

「ごめんなさいね、由比ヶ浜さん」

 

「ううん、別にゆきのんが言ってる事正しいもん」

 

「それでもみんなが楽しいでいるのに、その空気を壊してしまったのは私のせいよ。だから謝らせてほしいわ。ごめんなさい由比ヶ浜さん。小町さんもごめんね」

 

「だからいいって、ほんとゆきのんが言ってる事もわかるから」

 

「許してくれるのかしら?」

 

 小さい子供のように恐る恐る見つめる様は、ほんと由比ヶ浜には弱いって事を印象付ける。そうでもないか。弱いというよりは怖いのだろう。ちょっとした事どころか大変な出来事だろうと由比ヶ浜は雪乃を受け入れるだろうに、それをわかっていても雪乃は失うのを怖がっているとさえ思えてしまう。

 二人は固い友情を築き上げてきたと思う。俺なんかには縁がない友情を雪乃は築き続けてきた。

だけど物は、硬く、強く、強固になっていくほど壊れるときはあっけなく砕け散る。それは形がないものであっても同様だろう。ちょっとしたひびが入り、そこから亀裂が走りだせば、硬く固まってしまった分再結合なんてできやしないで一気に砕け散ってしまう。

おそらく友情も同じなのだろうと、俺はなんとなく雪乃の顔を見て思ってしまった。

 

「許すも許さないも怒ってないから。ゆきのんはあたしたちのことを思って注意してくれただけでしょ。だったら怒ることなんて全くないよ」

 

「そうかもしれないけれど・・・・・・」

 

「もういいじゃん。ほら乾杯しよっ。それともあたしの誕生日お祝いしたくない、かな?」

 

 小首を傾げると顔にかかる髪が揺れ、視線を邪魔する。ただ、由比ヶ浜にはその髪の毛さえ視界には入っていないのだろう。

 

「いいえ、今日は由比ヶ浜さんの為に用意したのよ。お祝いしたいに決まってるじゃない」

 

「じゃあ決まりだね。・・・ねえゆきのん。お願いがあるんだけど、いいかな?」

 

「ええいいわ。水を差してしまったお詫びにはならないかもしれないけれど、私に出来る事なら何でも言ってくれて構わないわ」

 

「ううん、そんなに難しい事じゃないから大丈夫だって。んとね、乾杯の音頭をとってほしいんだ。せっかくゆきのんがプレゼントしてくれたんだから、やっぱりゆきのんが乾杯って最初に言ってほしいな。駄目かな?」

 

「いいえ、是非やらせていただくわ」

 

「じゃあ決まりだね」

 

 そうと決まれば小町のやつ行動が早いな。あいつもあいつなりにこの状況を見守っていたってことか。さすが俺の妹。

 

「さあさあみなさんシャンパン持ちましたね。さ、さ。雪乃さん。心に残る一言お願いしますね」

 

「心に響く言葉をおくれるかは自信がないのだけれど、そうね。由比ヶ浜さんの誕生日をお祝いしたい気持ちだけでも伝えたいわね。・・・これで由比ヶ浜さんが一番早く二十歳を迎えたという事なのよね。やはり成人を迎えるとなると責任を持った行動が必要になるわ」

 

 雪乃らしくちょっとお堅い出だしだけど、由比ヶ浜も喜んで聞いているみたいだし別にいいか。・・・ん? 携帯のバイブか? 

 俺は棚の上に置いてあった携帯が静かに震えているのを確認すると、静かに移動して携帯を手に取る。

メールみたいだし、後で確認すればいいか。俺に急ぎの用がある暇人なんていないだろうしな。

 

「ただ、当然の事なのだけれど、由比ヶ浜さんが一番の年上になるのよね」

 

 平塚先生は除くけどな、って心の中で突っ込みを入れたのは俺だけか。って、平塚先生睨まないでくださいよ。声に出していないのにどうして俺の周りの連中は俺の心の中がわかるんですか。

 

「そだね。でも、あまりそういう実感わかないけどね」

 

「たしかに数カ月程度の差は気にならないわね」

 

 俺は雪乃が一番上のお姉さんで、由比ヶ浜が一番下の妹って気がいつもしていたけどな。実際は雪乃が一番下で、俺が真ん中になって、そして由比ヶ浜が一番年上だもんな。これも口に出していないのに、どうして全員俺の事を睨むんですか。・・・・・・もう、心まで沈黙しておこうかな。

 

「今日二十歳を迎えたからといって、すぐには大人としての自覚を持つ事は出来ないでしょうけど、もしよかったら私と一緒にこれからも学んでいってほしいと思うわ。まだまだ未熟な私たちだけれど、こういうみんなが集まる機会をきっかけにお互いの存在をたしかめあっていきたいわ。そうやって年を重ねていけたら素敵ね・・・・・・来年も、その先もずっと。お誕生日おめでとう由比ヶ浜さん。乾杯」

 

 雪乃が由比ヶ浜に向けて小さくグラスを傾ける。柔らかく微笑むその様は、先ほどまで見せていたおどおどした感じが抜けきっていた。由比ヶ浜が見せる柔らかくも眩しいほどの笑顔につられたのだろう。

 きっと硬いだけの友情は弱い。けれど、それを包み込む柔らかい緩衝材があれば問題ないって気がしてしまう。その緩衝材が何かはわかれないけれど、今こうして由比ヶ浜をみていると、こいつの底抜けに明るい笑顔に俺も雪乃も救われてきたんだよなって、思わずにはいられなかった。

 俺が雪乃と正面から向かい合えたのも、俺達三人の関係が消滅していないのも、全てはとはいわないけど、必要不可欠なファクターであることは俺でも理解できる。

・・・・・・まあ、なんだ。きっと今の俺がいるのは俺だけのおかげではない。雪乃や由比ヶ浜、小町に平塚先生。他にもちょっとばかし関わってくる奴らがいてこその俺なのだろう。だから由比ヶ浜。こんな俺とつるんでくれてありがとよ。声に出しては言えないけど。・・・でも、これだけは声に出して言っても恥ずかしくはないはずの言葉を俺は由比ヶ浜に送る。

 

「由比ヶ浜、誕生日おめでとう」

 

 俺は恥ずかしい気持ちを押し殺して由比ヶ浜にしっかりと届く声で伝えた。

 その時ちらりと四人の顔がほころんだのは気のせいだろうか? もしかしてこの心の声までも読まれてはいないよね?

 俺は火照る頬を隠すように俯き、わざとらしく携帯の画面を確認する。一応さっきメールきてみたいだし、乾杯終わったからいいだろう。

 俺は画面をクリックしていき目的のメールを表示させる、そこには陽乃さんから短くて簡潔なメッセージが記されていた。

 

「誕生日会の後に連絡します」

 

 あまりにも簡潔なメールがどこか温かい現実とはかけ離れていて、俺は体温が下がっていくのを実感できた。

 

 

 

 

 

 楽しい誕生日会も終わりを迎える。楽しい時間を過ごした後こそ静けさが重い。ふだんから俺と雪乃はたくさん会話をするわけでもない。だから、部屋が静かなのはいつもと同じだった。

 それでも人の温もりが名残惜しいのは、由比ヶ浜や小町のおかげなんだろう。

 

「静かになったわね」

 

 誰に言うともなく、雪乃がつぶやく。おそらく自分自身に言い聞かせているのかもしれないと思ってしまった。

 

「そうだな。後片付けも手伝っていくって言ってたけど、あいつらと一緒にやる方が時間かかりそうだな」

 

「たしかにそうね。でも、人の善意は受け取っておくべきよ」

 

「まあな。でも、夜も遅い。あいつらを送っていけなかったのは、悪いことしたな」

 

「それにしても姉さんたら、なんの用かしら? 今日は由比ヶ浜さんの誕生日会だって知っていたはずなのに」

 

 俺もその点が気がかりだった。パーティーの終わりごろを見計らっての陽乃さんからの電話。それも雪乃にではなく、俺にだ。本来陽乃さんも誕生日会に来る予定だったのに、急用でキャンセルとなっていた。

 それが一転して、いきなりの電話であった。

 陽乃さんは人の迷惑を考えずにひっかきまわすことはあっても、人が楽しんでいる時間をぶち壊したりなどはしない。今日は由比ヶ浜の誕生日会があると知っているのだから、途中参加して、その後俺達と用とやらをすませば済んだはずだ。

 それなのに誕生日会の後にやってきて話があるなんて、警戒しないほうがおかしいほどだ。

 

「そうだな・・・・・・・。なんだろうな」

 

 重たい沈黙が室内を支配する。俺達はこれ以上詮索することもなく部屋の片づけを機械的に進めるしかなかった。

 考えれば考えるほど悪い方向へ思考が沈む。いい話だなんて到底思えない。だから、悪い話をあれこれ想像なんてしたくはないために、後片付けに集中することにした。

 

「悪いわね。誕生日会だったのに」

 

 部屋に上がった陽乃さんの第一声はこれだった。ちなみに、やってきた陽乃さんの姿の第一印象は、顔色が悪いで雪乃と一致しているはずだ。

 そして、悪い予感が的中したって俺も雪乃も感じ取ってしまうほどの焦燥感を漂わせていた。

 

「姉さん。体調が悪いのだったら、私たちが実家に行ったのに」

 

「いいの。私が巻き込んだわけだし、実家の方も慌ててて、ゆっくり話なんてできやしないだろうし」

 

 実家も慌ててる? 両親もこのことにタッチしているわけか。つまり、それだけの重要案件ってことかよ。

 

「とりあえず座ってください。なにか飲みますか?」

 

「水をもらえないかしら」

 

 今にもふらつきそうな雰囲気なのに、いつものひょうひょうとした威厳を保ったままソファに倒れるように座り込む。俺が差し出した水を一口飲むと、あろうことか、あの陽乃さんが頭を下げて謝罪してきた。

 

「ごめんなさい。あなたたちを巻き込んでしまって」

 

「お見合いの話でしたら、もう・・・・・・・・」

 

 俺の返事を聞いても、陽乃さんは頭をあげてはこない。俺はその頭を見続けながら、答えが見えぬ思考に没頭する事さえできないでいた。

 

「どうやら違うみたいね。だって、急に車を渡すんですもの。それも関係あるんじゃないかしら」

 

 頭を下げたまま動かない陽乃さんを見て、雪乃がぼそりとつぶやく。その声に反応して頭を上げた陽乃さんは、揺れ動く瞳を雪乃の瞳にぶつける。

 陽乃さんも覚悟をしてきたのだろう。だけど、覚悟してもしきれないほどの何かが陽乃さんを追い詰めていた。

 

「ええ。ストーカーの話はしたわね」

 

「覚えているわ。ただ、実際どのような被害を受けているかは聞かされてはいないけれど」

 

「雪乃ちゃんは気が付いていたかぁ」

 

 自嘲気味に笑う陽乃さんは、ほんとうに痛々しかった。

 全てが後手に回っている。陽乃さんが打ち出す手立てが全て、悪い方に悪い方へと進んでるとさえ思えてくる。俺は、雪乃が言うまでストーカー被害の内容までは気にはしていなかった。

 ストーカー被害といえば、跡をつけ回したり、盗撮くらいだろうか。漠然とあるストーカー被害を思い浮かべ、その程度だろうなと決めつけていた。

 

「今日は話してくれるのでしょう?」

 

「まいったわね、雪乃ちゃんには」

 

 陽乃さんは、手に持つ斜めに傾けたコップの水面を見つめていた。揺れ動く水面をゆっくりと落ち着かせ、話のタイミングを探っている。何度もコップの角度を変えるところをみると、タイミングがとれないらしい。揺れ動く陽乃さんの心は、落ち着くことなんてあるのだろうか。

 カチッと、テーブルにコップを置く音が小さく響く。陽乃さんは、最終的にはテーブルを使って強制的に揺れ動く水面を落ち着かせてしまった。

 雪乃は、その一連の動作をせかすわけでもいらだつのでもなく、黙って待ち続けていた。その表情からは、なにを考えているのかわからなかったが。

 

「跡をつけ回したり、盗撮くらいは今までもあったんだけど、ネットに写真がアップされるようになったの。たぶん、どこかに本命サイトがあって、そこからの転載だろうけど、プロバイダーとかには連絡入れて削除依頼はいれたわ。父も色々手をまわしてくれて入るけど、このくらいなら仕方ないかなって割り切ってはいたかな」

 

 ネットに出回った写真が独り歩きをして、どのような実害が起こるか想像できないわけでもないだろう。芸能人でもない一般の女性の写真にどのくらいの価値があるかは俺にはわからない。ひいき目なしで判断しても、陽乃さんはかなりの美人とはいえるだろうが、でも、それだけだろう。もちろん裸の写真ともなれば別だろうけど、そのような写真を撮られてしまっとは考えにくい。

 

「どのような写真かしら」

 

 うわっ。聞きにくい質問をストレートによく聞けるな。雪乃らしいっていったら雪乃らしいけど。

 雪乃のストレートすぎる質問に俺は驚きを隠せないでいた。一方で陽乃さんはその質問を予想していたのか、眉ひとつ動かさないで質問に答えようとしていた。  

 

「そうね。街で遊んでいるときの写真が多いわね。大学内のもあるけど、大学だとストーカー自身が特定されかねないから少ないわ」

 

「私に車で登下校するように仕向けたのは、ストーカーの対象が私も含まれるようになる可能性が出てきたからかしら」

 

「ええ・・・・・その通りよ」

 

 陽乃さんは苦々しそうに俯き加減でつぶやく。陽乃さんにとっても俺が想像していた中でも最も最悪の部類の状況に入ってしまう。最悪の展開を想像して対策しておけば、どのような展開になっても対応できるって豪語していた奴もいたけど、それは嘘だ。本当に最悪の展開に遭遇した時、いくら想像して対策を練っていたとしても平常心でなんかではいられやしない。

 

「具体的には?」

 

 毅然と背をまっすぐにのばした雪乃は凛々しくて、そしてなによりも美しかった。まっすぐと前だけを見て、なにがあろうが立ち向かっていく。だけど、膝の上で堅く握りしめた手が震えていることに俺は気が付いていた。

 今すぐ雪乃の手を握って、俺がついているって根拠もない安心感を与えるべきなのだろうか。いや、雪乃はそんなまやかしを求めてはいまい。

 それに、今一番つらいのは陽乃さんだ。その陽乃さんの前で凛々しい姿を見せているのは雪乃のせめてものなぐさめなのだろう。それを打ち壊すような俺の出しゃばりなんか雪乃は必要とはしていない。

 だから俺は黙って事の推移を見つめ、必要な時必要な発言をすればいい。

 

「今は一枚だけ。それも後ろの方に小さく写っているだけだけど、姉妹だってすぐにばれるでしょうね。大学もばれているわけだし、私たち姉妹が通っていることも有名でしょうから」

 

 陽乃さんの美貌もさることながら、その立ち振る舞いも目立ちすぎる。そして去年雪乃が入学してきたことで、大学は一時大騒ぎになったほどだ。

 ただ、雪乃は表に出るのを嫌がっていたし、講義が終わってもすぐに帰宅していたこともあって、騒ぎは徐々に終息していった。陰で陽乃さんの働きもあったのだろうけど。

 

「それがわかったのは、今日になってからということでいいのかしら?」

 

「そうよ」

 

 雪乃はなにをたしかめようとしてるんだ? 昨日と今日での違い? 車か!

 

「八幡に実家に来るように仕向けたのもストーカー対策だったのね。わざわざお見合いの話を持ち出して、ごく自然に八幡のやる気を引き出して実家におびき出したというわけね」

 

「ふぅ・・・・・・・・・・」

 

 陽乃さんの長い吐息は、正解を引き当てた証拠だろうか。昨日散々緊張しまくって、挙句の果てには醜い猿芝居までしたっていうのに、本丸は車を渡す為だけだったのか。どこまでシスコンなんだよ。雪乃の為に自分を傷つけて、それさえも当然のようにやってのけてしまう。

 

「比企谷君は何も疑いもなく踊ってくれたんだけどねぇ。雪乃ちゃんは気が付いていたのかしら?」

 

「いいえ。なにかあるかもとは思ってはいたけれど、わかったのはついさきほど姉さんの話を聞いてからよ」

 

「そっかぁ。だったら一芝居した甲斐があったかもね。ぎりぎりまで伏せておきたかったらか、私の作戦もひとまず成功かな」

 

「成功ではないでしょうに。失敗したからこそここにいるのだから」

 

 俺は思わず陽乃さんの言葉を否定する。否定せずにはいられなかった。

 

「さすがに痛いところをつくわね。嫌な子ね」

 

「あいにくそういう性分なので」

 

 無愛想に横槍を入れた俺に頬笑みさえ浮かべてくる。陽乃さんがどこまで先を読んでいるかわからなくなる。この頬笑みさえも計算なのだろうか。

 けれど、雪乃を想う気持ちだけは計算ではないはずだ。

 

「母は今回の件、どういう方針なのかしら?」

 

「選挙のこともあるし、内密にという方針は変わらないわ」

 

「そう・・・・・・・」

 

 選挙となると、党の方針や後援会など、俺の想像も及ばぬ複雑な関係があるのだろう。ましてや母体となる企業もあるわけだ。弱みを見せることはできないのだろう。

 わかってはいる。しかも、超ド級の親馬鹿だということさえも、両親に会って、痛い目にあって実感したほどに、あの両親は雪乃や陽乃さんのことを愛しているのを知っている。だけど、親である前に経営者なのだ。一人の親として行動するよりも経営者として従業員の人生を守らねばならない。

 よく正義のヒーローもののアニメで「一人の大切な人を守れないのに世界を守ることなんかできない」って、恋人と世界を天秤にかけて恋人を選ぶ自称ヒーローがいるが、そういうシーンを見るたびに胸糞悪くなる。お前何様だと言ってやりたい。世界が滅びたら、いくら恋人が助かってもどこで暮らしていくんだ。そもそも世界と恋人を天秤にかける時点で正義のヒーロー失格だろ。この主人公こそ世界を滅ぼす危険人物だ。

 まあ、お約束の展開に冷静な突っ込みを入れる時点でどうかしているが、親と経営者。親はやめることはできないが、経営者はやめることができる。ならば、経営者で居続けるのならば、従業員を守る義務が発生する。

 今回の件でいうならば、陽乃さんと企業を天秤にかけて企業をとっただけだ。家族としては心苦しいはず。もしかしたら、今までも何度もあったかもしれない。でも、最近こういう場面に遭遇するようになった俺にとっては、自称ヒーローと同じくらい胸糞悪い決断だって思わずにはいられなかった。

 

「それでどうするんですか? いつまでも後手後手に回って、今度は雪乃がターゲットになるのを待つんですか」

 

 感情が抑えきれない俺は、おもわず陽乃さんにあたってしまう。陽乃さんが雪乃を守ろうとしてきた事実を知っていながらも、どうしても感情を吐きだす先を安易に選んでしまう。

 

「それは!」

 

 陽乃さんも激情にまかせ立ち上がり、俺に食いかかる勢いで一歩踏み込む。それさえも演技ではと疑ってしまう俺は薄情だ。それと同時に頭が冷え切っていく自分がわかってくる。蚊帳の外にいる俺は、いつまでたっても第三者にすぎない。だからこそ冷静でいられる。

 もし雪乃がターゲットになって、俺が当事者になったとき、俺は陽乃さんを許せるのだろうか。いや、そんなことわかりきっている。

 

「とりあえず、今わかってる情報全てください。画像は転載らしいですけど、本命サイトは会員制サイトかなにかですかね。ストーカーの仲間内だけのサイトですと、素人だと手が出ないか。でも、誰かしらがそこから転載しているわけですし、一枚岩ってこともなく比較的緩い仲間関係っていうのが唯一の突破点でしょうけど」

 

 雪乃もうなずいてることから同意見らしい。険しい表情ながらも目は死んではいない。やはり雪乃も守りに入る気はないか。だったら話は早い。ストーカーの弱みを突いて、ぼろを出させるまで。

 

「これからは姉さんも一緒に行動してもらうわ。情報の共有もそうだけれど、もはや私のことを気にしている時期ではないでしょうし」

 

「雪乃ちゃん」

 

「送り迎えも八幡がしてくれるでしょうし、こういう時くらいこきつかえばいいわ」

 

「おいっ」

 

俺も送り迎えはするつもりだったけど、もう少し彼氏をいたわる発言を・・・・・・、まあ無理か。雪乃も腹が煮えくりかえるほど怒り狂ってる。陽乃さんでも両親へでもない。自分だけ隠しごとされていたことはかなしいけれど、それは雪乃を守るため。だから、おそらく怒りの対象は自分自身だろう。

 雪乃も陽乃さんや両親が苦手って口では言ってるけど、大切に思ってるしさ。ところで、ストーカーに対してはって聞きたいだろ?

 もちろん奴は死刑だから、雪乃が死人に感情など向けるはずもない。

 

 

 

 

 

 

 

6月19日火曜日

 

 

 

 陽乃さんのストーカー問題があろうと大学はある。陽乃さんは今までも大学院にはいつも通りに通っていたわけだし、並みの精神力ではないと感心してしまう。今日からは陽乃さんを迎えに行かないといけないので、帰りも送っていかなければならない。俺に出来ることなんか限られている。こんなことでよかったら俺を使い倒してもかまわない。

 ただ、俺としては雪乃と陽乃さんを一緒に行動させるのはどうかと考えている。だけど、陽乃さんと一緒の方がなにかと情報が入ってくるし、なによりも雪乃の攻撃的な性格もある。守っていないでこっちから攻撃してせん滅するのが信条のお人だ。多少は無理はしても短期決戦にもちこめれればいいと思っているに違いなかった。

 しかし、雪乃や陽乃さんの心情を思うとやりきれない思いでいっぱいだった。だから、由比ヶ浜の底抜けに明るい笑顔を見るとホッとしてしまう。こいつだけはいつもの日常。ちょっとトラブルを運んできてしまうけど、それさえも楽しい日常の一部だって思えてしまう。

 

「ヒッキーおはよう。あれ? なんか今日暗くない?」

 

「おはよう」

 

 こいつはいつもぬぼ~ってしているくせに、人の表情読む能力だけは侮れない。駐車場から大学まで道のり、ずっとストーカーがいないかって気を張っていたせいで、自然と今も険しい表情をしていたのかもしれなかった。さらに、昨夜も遅くまで陽乃さんから貰った情報を雪乃と共に分析したせいでさすがに眠い。

 

「遅くまで英語の補習講義の準備していたからな。そりゃあ疲れもするさ」

 

 本当は金曜日のうちに終わってたけど、由比ヶ浜にいらぬ心配させるべきではない。それに、由比ヶ浜はパッと見あほの子だけど、男にもてる。胸の大きさや人当たりの良さもプラス要素だけど、ルックスだっていいほうだ。だから、もしこいつまでストーカー騒動に巻き込まれたらと思うと、ぞっとするほど恐ろしかった。

 

「ごめんね、自分の勉強だって大変なのに手伝ってもらって。私の勉強も見てもらってるし、・・・・・ほんと、ごめん」

 

 由比ヶ浜はしゅんとしてしまい、自分の靴をじっと見つめる。そこになにかあるわけでもないのに、答えを探し出そうとする。そりゃあ俺の顔をみて考え事をしろなんて言うわけでもないが。

 

「気にするな。俺が好きでやってることだしな。今朝はちょっと疲れていただけで、愚痴っぽいこと言って悪かったな」

 

「ううん。私にできることがあったら、なんでも言ってね。・・・・・・・・・なんかヒッキー悩んでいそうだったし」

 

 はじけるように顔を上げ、俺に宣言する由比ヶ浜ではあったが、後半は自信なさげで、声も消え去りそうであった。ほんと、由比ヶ浜は人をよく見てるな。俺の些細な違いを見分けるだなんて。

 だからこそ俺はこいつの前では明るい表情でいなければならない。

 って、俺の明るい表情ってなんだ? ・・・・・・ああ、一つわかった。明るい俺は気持ち悪い。

 ま、ともかく、こいつの前では暗い顔だけはできないと、心の中で誓った。

 

「なにかあれば相談させてもらうよ。でも、今はお前の英語の方が心配だけどな」

 

「あぁ・・・・・」

 

 何故目をそらす。お前去年やったテキストと全く同じなのにできなかったとか?俺が疑いの目をむけると、じりっ、じりっと後ずさりする。・・・・・・まじかよ。

 

「正直に言ってくれ。どのくらいできてないんだ」

 

「えぇっとね・・・・・・・・」

 

「昨日わからないところは俺に質問してただろ。それでも駄目だったのか?」

 

「違うよ。違うって。全部訳すことはできたんだけど・・・・・・・」

 

「だけど? 怒らないから言ってみ」

 

「うん・・・・・・・」

 

 怒らないからという言葉ほど信用できない言葉はない。なにせ、たいていは正直に言ったところで怒られてしまう。だったら何故こんな言葉が存在するのか考えてしまうが、要は、とっとと話せ。これからもっと怒るんだから無駄な努力はするな。言わないでいて俺を焦らすと、もっと酷いことになるぞという強迫なのだろう。

 由比ヶ浜は俺の顔色を伺いながらも、ぽつりぽつりと話しだした。

 

「2か所だけ、どうしてもわからないところがあったの。一応ヒッキーにも質問したところなんだけど、家に帰ってみて自分の言葉で訳してみようとしたらできなくて。それで、去年のノート見ちゃいました。ごめんなさい!」

 

 由比ヶ浜は勢いよく全て打ち明けると、深々と頭を下げてる。お団子頭が揺れ動き、あっ、つむじみえるなぁって、どうしようもない感想を思い浮かべてしまう。

 はっきり言って拍子抜け。もっとすごい面倒事かと思ってたさ。たとえば、時間がなくて適当になってしまったとか、英語ばかりやって他の教科の勉強できなかったとか。だけど、こいつは律儀にも、俺の言いつけを守って去年のノートを見ないという約束を守ろうとした。たとえノートを見たとしても、俺に黙っていれば気がつかれないのにだ。

 こういう馬鹿正直なところがこいつの魅力なんだろうなと、つむじをまじまじと見ながら思ってしまった。

 と、まじめくさった感想を浮かべているのに、俺の視線は由比ヶ浜の首筋に這わせていく。シャツの襟から見える白い肌に視線が吸いこまれそうになる。もう少し角度を変えれば、奥の方までって・・・・・・・、邪な目線を這わせていると、急に由比ヶ浜が頭を上げるものだから、うろたえてしまう。

 

「約束やぶっちゃって、ごめんね」

 

 純粋すぎる眼差しが俺を射抜く。やっぱ俺も男だし。目の前に魅力的なご馳走あったら自然と目を向けてしまう・・・・・・・・。由比ヶ浜、ごめんなさい。

 

「いや、いいって。わからないままにしておくよりは、約束破ってでもしっかりと訳してきたほうが意味があるからな」

 

「でも!」

 

 いや、まあさ。下心があって、甘くなってるわけではない。ちゃんと意味がある。そりゃあ少しは下心をもってしまった反省の色も反映されてるけど。

 

「去年のノート見るなって言ったのは、去年のノートを最初から見てしまうと勉強の意味が薄まるからだ。それを釘さす為に言っただけなんだよ。むしろ、どうしてもわからないところがあったんなら、そこで去年のノートを使ったことは誉めるべきところだ」

 

「へ? そなの? だったら、最初から言ってよぉ」

 

 勉強で誉め慣れてないせいか、妙に腰をくねらせて照れてやがる。やめろって。そんな腰を強調されては、いくら雪乃によって訓練されているからといっても八幡アイがしっかりと目に焼き付けてしまうだろ。

 

「もうっ!」

 

「うっ」

 

 盛大な照れ隠しとして、おもいっきり背中を叩かれてしまったが、これはこれでよしとしよう。痛みによって邪な心は消え去ったし、気合も入ったわけだ。

 けっして雪乃への後ろめたさではないことは、強調しておく。

 さて、今日の勉強会もテンションが高かったのは由比ヶ浜一人だけだった。各自分担されている分の和訳はきちんとやってきてるところをみると、やる気はある。だけど、一度潰されたプライドは簡単には取り戻せてはいない。

 大学でズタボロならば、これから社会に出て、さらには世界出るってことになったらどうするつもりなんだ。上には上がいるのは当たり前。地方の高校でやっかいな優越感なんか植え付けられてしまっていては、これから成長していこうにも成長しきれやしないだろう。

 ま、プライドなんかこだわらないで、利益を追求していけば、おのずと自分の道が見えてくるんだろうけど。

 

「さてと、ここいらでちょっとお得な情報を伝えておく。これをどう使うかはお前たち次第だ」

 

 俺のお得情報とやらで教室はざわつく。灰色だった顔色が一瞬にしてカラフルに染め上がっていく。ほんの数秒前までは静まり返っていたのに現金なものだ。

 俺もお得な情報とやらがあるって言われたら、とりあえずは聞く。そして、そのまま忘れ去ってしまうところが経験の差だな。だって、世の中にはお得な情報とやらは存在しない。TVのグルメ番組で、美味しくない料理が存在しないくらい存在しない。

 たまには美味しくないってコメントも出せよ。いくらスポンサーとか利権問題があったとしても、どれもかれも美味しいっておかしいだろ。むしろまずいって意見をストレートにいう出演者がいるんなら、これからずっとその人のことを信じてしまうかもしれん。・・・・・・俺くらいになれば、その悪評までも裏を読んでしまうけどな。

 

「このDクラスは、ある意味ついている。運がいいんだ」

 

 さすがにDクラスで運がいいは、拒絶反応でるよな。教室を見渡せば、反応は各々違ってはいるが馬鹿にするなと訴えている。

 

「まあ、最後まで聞いてくれ。英語の講義っていうのは水曜日のDクラスから始まって、次にあるのはBクラスの金曜日の午後だ。そして、AクラスとCクラスにいたっては火曜日にある。そこで注目なのは、金曜日のBクラス。こいつらはAクラスほどではないけどそれなりに勉強ができるやつらが集まっているから、こいつらの授業ノートは出回りやすい。そりゃあ勉強できるやつらのノートは信用できるし、だれだって欲しいよな。Dクラスのやつらは喉から手が出るくらいほしいし、Aクラスであろうと予習が楽になるんなら欲しくなるのが人間ってものだ」

 

 ここまでいっきに話し続けてみたが、俺が言おうとしていることに気がついてる奴はほとんどいないみたいだった。一応いままで俺の教えを実践してきた由比ヶ浜はというと、・・・・・・わけがわからないみたいで、口をぽか~んと開けていやがる。

 こいつ、なにも考えないで生きているのかよ。散々こいつをこき使って・・・・・・・、いや、利用して?・・・・・・・、ギブ&テイクでやってきたというのに、それさえも忘れているとは。

 俺は由比ヶ浜への失望をこっそり振りはらうと、たんたんとした口調で説明を続けていった。

 

「つまりはだな、お前たちのノートが最新の授業ノートになるんだよ。一番最初にできあがるから一番需要がある。Bクラスのやつらだって、楽したいんだから、自分たちより前に講義をしているクラスがあるんなら、そいつらからノートを借りたいはずだ。でも、今まではお前たちがやる気がない態度で授業受けてたし、ノートの質も最悪だった。だから、Bクラスのやつらはお前たちのノートに見向きもしなかった。しかしだ、これからは違う。みんなで分担して全訳しているし、勉強会でチェックもしている。だから、今お前らが手にしているノートは、買い手がいるってことだ」

 

 ここまでいってやれば、ほとんどのやつらが理解できたみたいだ。若干ぽかんとしている奴もいるけど、実際やっていくうちに理解するだろう。

 さて、由比ヶ浜はというと、・・・・・・もういいや。諦めよう。

 

「情報は武器だ。最新の情報となれば、高値で売れる。それは大学生の社会であっても通用する。だったら、お前たちが持ってる商品使って、自分が欲しい情報と交換してこい。そうすれば、あらたに手にした情報も商品となって、さらなる情報が手に入る。お前ら、わかるよな。これは他の教科の情報が手に入るだけじゃない。過去のレポートや過去の試験問題だけが目的ではない。このトレードを通じて人脈が作れるっていうのが最終目的なんだよ。だいたいな、いったん情報の元締めになってしまえば、こいつに聞いてみればもしかしてなにかしら情報もってるかも?って人は思うんだよ。そうなれば自然と情報が集まってくるし、たとえ何もわからなくても人脈使って情報を解読していけばいいんだ。まあ、俺は人づきあいが苦手だから、そういった人脈作ったりするのはそこにいる由比ヶ浜に頼んで、自分はというと情報となる商品ばかり作ってたけどな」

 

 教室内の視線が由比ヶ浜に集まる。が、当の本人は何故注目されているかはわかってはいない。由比ヶ浜は俺の顔を見てなにかを感じ取ったのか、自分が誉められていると直感で感じ、えへんと胸を張る。

 まあ、間違ってはないんだけど、たぶん教室にいるやつらの評価はお前が思ってるのとは違うと思うぞ。

 

「お前らの中でも、サークルの先輩から去年のノートや過去レポートもらってるのいると思うけど、それを大々的にやっていく感じだ。まずはお前らが同じ講義受けている奴らでで集まって、英語みたいに勉強会作るところから始めるといいと思うぞ。あとは、せっかくDクラスで勉強会もしているんだし、ここでの繋がりも有効につかっていけよ。と、いうわけで、お得情報どうだった?」

 

 俺はあくどい笑みを浮かべる。にやっと、いやらしく、憎たらしく。ここは、うわっと皆ひくところだと思ってたのだが、何をとち狂ったのか由比ヶ浜以外の全員が、俺と同じく、あくどくにやりと笑う。

 もし、この教室を覗いた奴がいたとしたら、異様な光景を目にして逃げ出していただろう。昔平塚先生が俺には新興宗教の教祖の素質があるって冗談でいったけど、この光景をみたらもしかしてやってしまったのではと思ってしまうかもしれない。

 もちろん笑い話で済ますけど。

 というわけで、こいつらのやる気はもう大丈夫だろう。あとはプライドなんか忘れて、自分ができることをやっていくのを気がつくだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

6月20日 水曜日

 

 

 

 今日はDクラスの英語の授業がある。小テストの結果は明日聞くことになるけど、いきなりの大幅な点数アップは望めないだろう。いくらやる気と勉強方法がわかったとしても、それがすぐさま点数に結び付くわけではない。勉強っていうのは面倒なもので、日々の積み重ねがものをいう。

 さて、人さまの心配をする時間は俺にはあまりない。今は陽乃さんから預かったストーカー情報を分析しないといけない。これが目下の最重要案件だが、あまり芳しい成果はいまだ出てはいない。陽乃さんと登下校するようになったが、これもまたこれといった成果はでてはいない。

 ネットへの書き込みは続けられているが、一般サイトへの転載はあまり多くはない。せめて本命のサイトへアクセスできたのなら、多少は進展があるかもしれないが。

 陽乃さんが言っていた雪乃が写っている写真っていうのは、6月16日のか。実家から帰ってくる日の朝、コンビニ前の写真だけど、よくもまあ朝早くからストーカー行為なんてできるよなぁ。しかも、この日は深夜までやってるみたいだし、ある意味ご苦労なことで・・・・・・・。

 

6月16日 土曜日 6:22

実家近くのコンビニにてお買い物。画像もアップ。

今日もお美しい!

 

6月16日 土曜日 22:28

人気ラーメン店・総武家で夜食。友人と店に入るのを発見!

土曜の夜だというのに女と一緒とはw

 

6月16日 土曜日 22:56

一緒にラーメン食べたいお。

さすがです。お友達も美人! 

でも、年がちょっとw

画像もアップ。

 

6月16日 土曜日 23:43

ラーメン屋から、そのまま帰宅。

操は守られた。

 

 朝のコンビニは実家の近くだし、張り込みでもしてたのか?

 陽乃さんがよく行くコンビニくらいなら、すぐにでも割り出せるだろうし、行動パターンさえつかめればコンビニによく行く時間帯も予測くらいできるかもな。

 まあ、写真に雪乃も写ってはいるけど、これといってコメントも出ていない。転載だから、本命サイトでは話題になってる可能性もあるが、続報が出てこないうちはなんとも言えないな。

 それと、この日のは時間がとんで深夜のだけか。陽乃さんがうちに食事に来たけど、その時は車で送ってもらったみたいだし、さすがに車を追ってでまで来ることはできないのか? バイクとか用意しているかもしれないし、油断はできんな。

 それにしても、家での食事の後にラーメン食べに行ってたのかよ。きっと平塚先生の提案なんだろうけど・・・・・・・。

 総武家は大学に近いラーメン屋だし、行動パターンを読めなくても、もしかしたら偶然見つけ出したのかもしれないか。

 となると、ストーカーはうちの大学生なのだろうか?

 いや、決めつけるのはよくないな。大学の近くに住んでいるとか、仕事・バイトをしている可能性もあるし。

 ああっ! 可能性ばかりで、まったく手掛かりがつかめない。

 俺は深夜のラーメン屋の写真を苛立ち気にクリックする。映し出された画像は、照明がラーメン屋からの明りだけともあって、鮮明さが欠けている。ちょうど平塚先生は、のれんに隠れて顔は写ってはいなかった。

 平塚先生は不幸中の幸いってやつか。でも、「さすがです。お友達も美人! でも、年がちょっとw」なんて書き込みされているって知ったら、怒り狂うだろうな。たしかに年齢がちょっとだし。

 もしこの書き込み見せたら、身近で適当なストレス解消ツールとして、俺への被害が予測される。俺が殴られでもしたら、恨むからな、ストーカー君。

 ・・・・・・やはり情報が少なすぎる。いくらみても解決の糸口は見つからない。俺にできることなんて元々たかがしれていた。

 あの陽乃さんでさえお手上げなのだし・・・・・・・。正攻法でも奇策でもうまくいかないのだから、雪乃でも難しいか。

 いやまて、・・・・・・アプローチそのものが間違っているとしたら?

 

 

 

 

 

 

 

6月21日 木曜日

 

 

 

 騒々しい教室。嫌いではない。たとえ本を読んでいたとしても、極度に煩くなければ心地よいBGMへと変換される。もちろん静けさに包まれた自室で本に没頭するのも好きだし、カフェで時間をつぶしながらゆるやかに流れるBGMやとりとめもない会話を耳に流しながらの読書も好きだ。

 一見煩い教室での読書は集中力がそがれるかと思われるが、実際その通りなのだが、人としての本能、人が群れを作って生活するという根底が、俺も人である事を求めさせてしまう。ま、他人の会話なんて興味ないし、本にふけっていれば雑音なんてシャットアウトされてしまうだけなのかもしれないが・・・・・・。

 ただ、今日の騒音雑音は「他人の」会話ではなく、俺についても含まれる会話だったので無視などできなく、その会話に意識せざるを得なかった。

 こりゃあやられた。俺の第一印象はこれだけだった。

 俺の戸惑いをよそに、英語勉強会に集まっているDクラスの連中の気持ちの高まりはすさまじい。狭い教室から大音量の声が漏れ響き、不審に思った生徒がのぞきにまでくる。やつらの気持ちもわからなくもない。低空飛行していた小テストの成績が跳ね上がったのだから。俺も多少は上がりはすると思ってはいたけど、この上昇率は異常だ。軒並み8割以上はとっていた。

 

「ヒッキー、みんなすごいね。やればできるんだよ」

 由比ヶ浜自身は試験を受けていないというのに、自分のことのように喜んでいる。いつの間にかに仲好くなった女子生徒達と手を取り合い、飛び跳ねていた。

 悪くはない。むしろいい傾向なんだけど、俺が教える必要なんてあったのって、疑問を感じてしまう。たしかに試験範囲は事前に通告されているわけだし、そもそも腐ってもうちの大学に合格するだけの実力はあるのだから、潜在的には8割とれる実力はあることにはある。だけど・・・・・・、どう考えても俺の存在意義を疑いたくなってしまう。

 

「ヒッキーも一緒に喜びなよ。ヒッキーがみんなの気持ちに火をつけてくれたおかげだよ」

 

「俺はなにもやってねぇよ。勉強したのはこいつらだし。勉強なんていくら教えても、結局は本人が勉強しないと覚えないからな」

 

「むぅ~」

 

 喜びから一転、しかめっ面に。俺に詰め寄る由比ヶ浜に笑顔はない。

 

「こういうときくらい素直に喜ぼうよ。みんなヒッキーに感謝してるんだから」

 

「だから、俺は大したことはしてないんだって。少しははっぱかけて、勉強するように仕向けはしたけどな。それに、今回点数よくても、それを持続させる方が難しいし」

 

「もう、捻くれてるんだから。いい点数取ったときには素直に皆で喜んで次につなげるものなの」

 

 由比ヶ浜はくるりと俺に背を向けると、教室内に響きわたる声で問う。

 

「ねえ、みんなぁ! ヒッキーは、みんなが勉強したから点数よくなったっていってるけど、でも、そう仕向けてくれたのはヒッキーのおかげだよね?」

 

 沸き立っていた教室は、由比ヶ浜の突然の質問に静まり返り、声の発生源たる由比ヶ浜に視線が集まる。その由比ヶ浜はそのまま視線を背負ったまま俺に振りかえり、全ての視線を俺に向けさせた。

 おい、由比ヶ浜。俺を注目させてどうする。恩着せがましい発言なんてやめてくれ。本当に勉強を頑張ったのは本人のおかげで・・・・・・・、と思っていると、ひときわ強い歓声が沸き起こる。

 ヒッキー最高! 最初は胡散臭かったけど、ついてってよかったぜ。

 目は今も腐ってるけどな。由比ヶ浜さんがいなかったら、誰もついていかなかっただろ。

 それはいえてるな。比企谷さんのおかげっていうよりは、由比ヶ浜さんのおかげっしょ。

 そう、それ。由比ヶ浜さん最高!

 って、おい。俺への賛辞はほとんどないじゃないか。それでもいいけど、ちょっとは誉めろよ・・・・・・・・。まあ、なにはともあれ、こいつらがやる気になってくれてよかったか。

 

「ね? みんな感謝してるでしょ」

 

「そうだな」

 

 優しく微笑みかける由比ヶ浜に、俺は思わず顔をそらす。

 素直に喜ぶことなんてできてたら、ぼっちなんてやってないっつーの。・・・・・・・でも、たまには一緒に喜んでみてもいいかもしれないか。

 多少ひねくれながらも俺が素直に喜びに浸ろうとしたが、そんな感傷に浸っている隙を由比ヶ浜は作ってはくれなかった。

 

「それにしても、みんなすごい点数だよね」

 

「それはそうだろ」

 

「なんで?」

 

 ちょっとは自分で考えろって。前にちょろっとだけど話してもいるだろ。

 

「こいつらは大学では落ちこぼれてしまったけど、地元の高校じゃトップ集団だったんだよ。しかも、中学でも上位で、そのまま地元の上位高校に入学してるの。だけど、いくらエリート街道突っ走っていても、大学入って全国区になると一気に順位は下がっちまう。上には上がいるからな」

 

 ふぅんって、初めて聞いたって顔をして俺を見つめるなって。まじでこいつ、忘れてるだろ。

 

「でもな、もともとこいつらは勉強できる集団なんだよ。ちょっと前まではプライドへし折られて、落ち込んで、勉強する気にもならないでいたけどな」

 

「そっか。だったら、ヒッキーがプライドを取り戻してくれたんだね?」

 

「はぁ? んなことしてねぇよ。その逆だ。わずかに残ったプライドは、最後まで全部へし折ったんだよ」

 

「はあ?」

 

 わからないって顔してるな。こいつに関しては、勉強に関してのプライドなんて持ち合わせてないからしゃあないか。

 

「プライドが少しでも残っていたから、それが邪魔して勉強に集中できてなかったんだよ。いくら勉強してもトップにはなれない。なにせ上にいる連中の実力は天井がないからな。それでも今まで地元ではトップにいたプライドがくすぶってしまう。上の奴らにはどうやっても勝てない。社会人になってもそれは同じだし、しかも理不尽な要求さえ求められてしまう。しかし、それでも知恵を絞ってうまく乗り越えていかなきゃならないだろ」

 

「う~ん、なんとかくだけど、わかったかな」

 

 いや、わかってないはず。視線をわずかだけど、そらしたしな。もういいや。こいつには、じっくりと時間をかけて教えていくしかない。

 

「まあ、俺が今回したのは、役に立ちもしないプライドなんか捨てさせて、今いる環境で今できる手段を使ってのし上がっていく方法をちょろっと教えただけさ」

 

「そなんだ」

 

 ふぅ・・・、もういいよ、由比ヶ浜。わかってないの、わかったから。それにしても、過去の価値基準っていうのはやっかいだな。高校時代の自分が絶対だって、大学生になっても思ってしまう。価値なんて場所や時間によって変化するものだし、絶対変わらない価値なんか存在しやしない。しかも、同じ価値だとしても、見方によっては評価も変わる。価値なんて人が勝手に作り上げたものだし、先入観にしかならない。

 先入観? 価値基準? 自分が勝手に作り上げたもの・・・・・・・・。

 そうか! 俺が勝手にストーカー像を作り上げていたんだ。だから、今回のストーカーの犯人像が見えてこなかったんだ。

 そうか。そうだったんだ。となると、あのネットの転載、ちょっと変じゃないか。

 俺は今もなお沸き立つ室内をよそに、静かに思考を巡らせていた。

 時間は有限であり、取り戻すことはできない。いくら慎重に行動して、有意義な時間を過ごしたとしても、それは過去の事。未来は突然現在に現れ、人を混乱に陥らせる。されど、人に与えられている時間は平等だ。

 いくら有能なストーカーであろうとも、それは同じだ。陽乃さんもそうだが、ストーカーも自分の生活をしている。

 人が自分に与えられた時間で行動できることなど、限られているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

6月22日 金曜日

 

 

 

 陽乃さんの講義が終わるのを待って、俺達はマンションに向かっている。今回ばかりは由比ヶ浜の力も借りなければならない。車の後部座席に陽乃さんと由比ヶ浜をのせ、まっすぐマンションへと向かう。助手席に座る雪乃は、訝しげに俺を見つめていた。

 なにせ昨日の夜から何度詳細を説明してほしいと乞われても、明日みんながいるときに話すと断ってきたからだ。

だけど、由比ヶ浜が一緒じゃないと意味がない。そうしないと、雪乃のことだから全部自分一人でやると言い張るだろう。

 

「なんだよ。なにか顔についてるか?」

 

「ついてるわ」

 

 憮然と答える雪乃に、やれやれと首を振る。真っ直ぐに俺を見つめる瞳に曇りはない。一緒に過ごした時間が、その積み重ねが雪乃にプライドを持たせる。俺の隣にいるのは自分だと。それなのに、肝心なことを何も話さないでいられたら、傷つくのは当たり前か。

 でもな、雪乃。お前と同じように、俺も雪乃と一緒にいたんだよ。だから、お前がどういう行動をとりたいかだってわかっちまうんだよ。

 雪乃の潤んだ瞳を盗み見て、雪乃の手に自分のをそっと重ね、冷房で冷えた手が心地よかった。

 

「頼りにしてる」

 

「腐生菌が顔についてるわ」

 

 そう俺の言葉を無視してつぶやくと、顔を背け、窓の外を眺めだす。照れ隠しだってわかってはいるけど、俺はまだ死んでないから腐生菌は付いてないはずだ。微生物だし、もしかしたら付着するかもしれないが、最近は専門用語増えてきてません? あまりにも専門的すぎると、俺も突っ込み入れられないよ?

 俺は雪乃の手を暖めるようにギュッと握りしめてからハンドルに手を戻す。すると俺の手の軌跡を名残惜しそうに辿る視線を見つけ、俺は口元を綻ばせた。

 さすがにずっと雪乃の手を握ったまま運転などできやしない。もしできるのならば、映画のワンシーンみたいで様になってたかもしれないけど、現実なんてこんなものだ。二つの事に同じだけ集中するなんてできやしない。

現実は泥臭い。天才と謳われる頭がいい連中であっても、勉強しなければ脳みそは真っ白なまま。勉強しないでテストで好成績なんてとれやしない。小説で天才が高得点をとるシーンだけがクローズアップされるが、その裏にはコツコツと勉強しているシーンが隠されている。

 結果ばかりみてると、そいつがどうやって生きてきたなんか忘れてしまう。存外天才も泥臭く生きてるものかなと、雪乃をもう一度盗み見て、そう思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 リビングのソファーに各々が座ると、程度の差はあれど早く話せと顔が訴えている。なかでも雪乃からのプレッシャーで肌がひりついた。顔はいたって平静を装い、しかもみんなの紅茶までも普段通りに用意しているというのに、その漏れ出すオーラに声をかけようとする者はいなかった。

 まあ、待て。なんかすさまじいプレッシャー感じるんだけど、ここまで大げさな発表なんてないんだけどなぁ・・・・・・・・。ちょっと気がかりなところがあるから、みんなで話し合おうと思っただけでして。

あとは、雪乃が一人で背負いこませない為の予防策であるが。

 

「えっと、まあ、集まってくれてありがとうございます」

 

「そんな気持ちがこもっていない前置きはいいわ。早く本題に入ってくれないかしら」

 

 不機嫌度マックスの雪乃をこれ以上おあずけなんてできやしないか。

 雪乃は長い黒髪を一房掴むと、指先にくるくる巻きつける。そして、すすっと指から髪を滑り放すと肩にかかった髪を全て払いのける。一呼吸置き、俺の事を射殺すように一睨みすると、ソファーから立ちあがり、空席だった俺の隣にすっと座り込んだ。

 

「これって、ネットにアップされた発言よね。画像と行動記録以外になにかわかったのかしら?」

 

 俺の前にあるパソコン画面には、陽乃さんから渡されたストーカー情報の一つが映し出されている。雪乃の画像が映し出された日の陽乃さんの行動記録であり、俺が違和感を感じた日の記録でもある。

 雪乃が強引に話を進め出すと、陽乃さんも由比ヶ浜も近寄ってきて画面を覗き込み、話を加速させる。

 ただ、パソコン画面を覗き込んだとしても目新しい情報は一切ない。そもそも新情報なんて得られていないし、陽乃さんからも追加情報は回してもらっていなかった。

 だから、3人は互いに何かわかったかと目で問いあうが、何もわからないと返していた。

 

「なにか新しい情報でもあったの? だったら、そっちの方を見せて欲しいんだけど」

 

 考えてもわからない事があれば聞けばいいと繰り返し教え込んであった由比ヶ浜は、数秒だけうなってから俺に質問を投げかかる。すぐに聞いてこないところは進歩ってところだろう。一応は考えようとはしてるわけで、こんなところでも家庭教師の影響が出ているかと思うと、ちょっとばかし嬉しく思えてしまう。

 

「いんや。これであってる。見て欲しいのは6月16日の記録だ」

 

「画像でも解析したの?」

 

 どこにも新情報がないと確認したようで、陽乃さんも詰め寄ってきた。

 

「いいえ。画像解析するスキルもないですし、それができる友人もいませんよ」

 

「もったいぶらないで、早く話してよ」

 

「まあ、待て。今話すから」

 

 それにしても皆さま。お顔が近いです。二人掛けのソファーには当然のように雪乃と俺が座っているわけだが、陽乃さんはソファーの肘掛部分にかるくお尻をのせ、バランスをとるように俺の肩に寄りそって画面を見つめていた。由比ヶ浜は雪乃に詰めてもらってソファーに滑り込んできているが、そもそも二人掛けのソファーなわけで、俺の周辺の密度が甘く跳ね上がった。

 熱心に画面を見るのはわかりますけど、このままだと雪乃さまのお怒りが・・・・・・・・。目を横に流すと、雪乃も画面に集中している。ならば素早く要件を伝えて、今の状況から解放されなければ俺の命が危ういだろう。

 

「まず見て欲しいのは、22時28分の発言だ。土曜の夜だというのに女と一緒とはって言ってるだろ。これと他の3つの発言は、おそらく発言者が違う」

 

「は? なんで、そんなのわかるの?」

 

「ガハマちゃん。ちょっと黙ってて。比企谷君、続けて」

 

 あっ、陽乃さん、マジモードっすね。由比ヶ浜はかわいそうに委縮しているし。本来なら雪乃が由比ヶ浜をフォローするはずだが、今回ばかりは雪乃も由比ヶ浜をかまってやる余裕がなかった。

 俺もいちいち由比ヶ浜の相手してる暇もないけど、あとでお前でもわかるように説明してやるから、今は我慢してくれよと、心で一瞬だけ侘びといて忘れることにした。

 

「えっと・・・・・・、2つ目の発言の女と一緒では、ちょっと馬鹿にしている感じがするんですよ。でも4つ目だと、操は守られた、って男と一緒じゃないことに安堵している。つまり、仮に2つ目の発言者が4つ目の発言をするんなら、土曜日なのに、男っ気なしに、悲しく一人で帰宅って感じの内容になると思えたんだ。まあ、ネットだし、コロコロ発言傾向が変わるかもしれないですけどね。・・・俺も強引すぎる説明だとは感じてはいますよ」

 

「そうね。2つ目と4つ目が確実に違う発言者という証明にはならないわね。でも、ストーカーが一人ではないかもしれしないという点に気がついたのは大きな成果ね」

 

 雪乃は俺の成果をたたえるが、鋭い視線だけは画面から剥がさないでいた。おそらく既成概念を取り除いて、情報の再確認をしているのだろう。

 

「そうなんだよ。俺達はストーカーが一人だと思い込んでいた。いくら陽乃さんの行動パターンを読んで先回りしたとしても、突発的な行動なんて先読みできない。だけど、それさえもネットにアップされている。だから俺は、陽乃さんに近い関係の人の中に、スケジュール情報を流しているやつがいるんじゃないかって考えてる。それにな、他の日のコメント日時見てくれよ。こんなにも頻繁に、しかも早朝から深夜まである。こいつにも自分の生活ってものもあるわけだし、協力者がいなければ実行不可能だろうよ」

 

「それじゃあ、味方の中に敵がいるってこと?」

 

 由比ヶ浜の疑問は当然の結論だ。情報を流しているって事は裏切り行為に違いない。

 

「そうとは限らないけどな。本人が気がつかないうちに話してしまってるってこともあるしさ。あと、情報を流してしまってるやつが女だって可能性もある」

 

「ストーカーなんだし、男なんじゃないの?」

 

「今説明しただろ。うまく誘導されてスケジュールを他人に話すだけなんだから、それだったら男だろうと女だろうが関係ない」

 

「そっか。その人はストーカーとは直接関係があるわけじゃないもんね」

 

「いいえ。この際ストーカーへの先入観は全て捨てようか。ストーカーに女性の協力者がいないだなんて、あり得ないことではないし」

 

「・・・・・・そうですね」

 

 陽乃さんの冷徹な宣言に俺はおののく。俺も陽乃さんと同じ事を考えてはいた。しかし、いざそれを口にするとなると、無限に広がっていく猜疑心に引き裂かれそうになってしまっていた。先入観を捨てるって事は、味方も捨てることと同義であり、すべての関係がスタート地点に強制送還されることに他ならなかった。

 

「でも、女性だったらストーカーの片棒なんて担ごうなんて思わないんじゃないかな。だって、自分がされたら嫌じゃん」

 

 たしかにな。由比ヶ浜の言うことは一理ある。だけれど、それがそのまま他人に当てはまるとはいえない。

 

「たしかに女性一般からすれば、ストーカーに協力なんかできないだろうよ。むしろ、毛嫌いして、即座に警察に通報すると思う。だけどだ。世の中には変わりものなんて山ほどいる。ストーカー自体は嫌っていても、メリットがあったり、報酬があったりで協力しようと思う女だって出てきてもおかしくないだろうよ。そもそも由比ヶ浜の理屈からすると、犯罪者が一人もいなくなるだろ? 自分が被害者にならない為には、自分が犯罪者にならなければいい。みんながそうすれば犯罪者になろうとする奴がいなくなる。でも、実際の世の中には溢れるほど犯罪者がいる。そいつらは自分の利益だけの為に行動しているだろうよ。人の為、誰かの為に犯罪行為に走ってしまったとしても、最終的には、犯罪のスタート地点としては、自分の自己満足の為なんだけどな。あと、捕まってない連中も数に入れたら、とんでもない数字になると思うぞ」

 

「そうね。現に姉さんが被害にあっているのだし、全ての可能性を排除しないで考えるべきなのかもしれないわ」

 

 雪乃からは悲壮感が漂っていた。陽乃さんも同じく重く沈んでいる。由比ヶ浜に関しては、重く受け取って入るが、二人ほどの深刻さはない。

 二人は気が付いているのだろう。全ての可能性を排除しないという意味を。それは、友人を疑うってことを意味する。

今まで隣にいた友人を疑いの目を持って接せねばならない。ましてや、意図的ではないにせよ、今回はスケジュールを流してしまっている友人がいるはずである。

 その情報の供給源をストーカーから切り離さなければ、ずっと陽乃さんはつきまとわれる。

 

「平塚先生と総武家に行ったのって偶然なんですよね? それにしてもよくラーメンなんて食べられましたね。うちでもけっこう食べていましたよね」

 

「あのときは急に静ちゃんに誘われて行っただけよ。私はあまり食べられないって言ったのに、食べ残したら自分が食べるって言い張って・・・・・・。私に気を使ってくれたんだろうけど、ちょっとね」

 

 俺はげんなりとその光景を思い浮かべてしまい、胃が重くなる幻覚に恐れれる。なにせ今まで何度も実際に見てきた光景だ。ラーメンを食べて、その後は俺は飲まないけどビール飲むのに付き合わされ、そして、しめにもう一度ラーメン屋に行ってしまう。

 あの男を虜にできるはずのメリハリがあるスタイル。俺でさえ平塚先生のスタイルの良さだけは認めている。暴飲暴食をしていながらも、それを維持できるなんて誰も信じやしないと思う。もし由比ヶ浜辺りが平塚先生の食生活を知ったら、マジでへこむレベルだ。

 

「つまり突発的な行動だったわけか。それなのにストーカーが陽乃さんを見つけ出すなんて、ある意味すさまじいな。何人くらいでやれば見つけ出せるんだ? 逆に考えると、それだけの大人数でやってたとしたら、目立つはずだよな。・・・・・・まあ、そんな大人数が追っかけやってたと想像すると、なんか怖いけど」

 

俺のは言いすぎではあるが、あり得なくもない想像に各々苦笑いを洩らす。

陽乃さんはアイドルじゃないんだぞ。アイドルなんかの追っかけなら大挙して追いかけまわしているのが想像できるが、一般人相手にそれやるか?

 

「その日、平塚先生とはどのような話をしたのかしら?」

 

 たしかその日はうちでストーカーの話も出ていたはず。主な話は陽乃さんのお見合いだったけど、平塚先生の意見でも聞きたいのか?

 

「えっとねえ・・・・・・、ラーメンの話ばかりだったと思うな。美味しいラーメン屋だとしても、それだけでは商売がなりたたないとか、仕入コストや店舗の位置、人の流れ、リピーター、ネットでの情報とか、聞いているこっちの方が恥ずかしくなるくらい熱く語っちゃってね。ほんと教師やめてラーメン屋オープンできるんじゃないかって勢いだったかな」

 

 ああ、なんとなくわかる。総武家の立ち退きに関連しているんだろう。

 

「そう・・・・・・・」

 

 聞いて納得したのか、雪乃の瞳からは興味が失う。それを見た陽乃さんも、今までのことを再確認でもしているのか思考の没頭する。由比ヶ浜だけは、ぼけぼけっと相変わらずだが。

 

「ねえ、もし情報が漏れているんだとしたらさ、嘘の情報も混ぜたらどうかな? ほら、映画とかでよくあるでしょ。嘘の情報も混ぜて、その嘘の情報にひっかかって、犯人がのこのこやってくるってやつ」

 

 重苦しい空気に耐えかねて苦し紛れの意見を述べた由比ヶ浜ではあったが、たまにはいいことを言う。10回言ったとしたら、1回くらいの確率の成功だけど、今回は感謝しないとな。

 

「それはやってみる価値はありそうね」

 

「でも、だれが洩らしているか検討もつかないし、難しくないかな」

 

 あくまで慎重な陽乃さんの気持ちもわかる。

 なにせ、嘘情報をこれから友人に自分がばらまくのだから。自由気ままで、まわりをひっかきまわす陽乃さんであっても、友人を疑い、悪意の情報を流すとなれば後ろめたいはずだ。

 苦痛に満ちた陽乃さんは心配して見つめている雪乃と目が合うと、儚い笑顔を浮かべ決意を固めた。友人と妹。この二つを天秤にかけた場合、圧倒的に雪乃を大事にするだろう。だからといって、友人が大切でないわけではない。優先順位の差はあれど、どちらも陽乃さんのなかの日常の一部で切り離せやしない現実であった。

 

「私のスケジュールを知ってるのは、院で同じの4人かな。一緒に遊びに行ったりもするし、大学にいるときはたいてい一緒だしね」

 

「その中に男性は何人いるのかしら」

 

「3人」

 

「その3人って、今までストーカー捕まえるの手伝ってもらってたのと同じメンツじゃないんですか?」

 

「よくわかったわね」

 

 俺の指摘に陽乃さんは驚きを見せる。まあ、身近な人に手伝ってもらうのは鉄則だろうし、大学の時の友人は卒業して、今は社会人で忙しいしな。

 

「だったら、なおさら犯人じゃないんじゃない? ストーカー捕まえるのを手伝ってもらってたのに、スケジュールを洩らすなんてしないと思うんだけど」

 

「だから、さっきも言っただろ。うまく誘導されて、ぽろっと言ってしまうこともあるってさ」

 

「そうかもしれないけど、今もストーカーに迷惑していて、そのストーカーも捕まっていないんだし、用心してるんじゃないかなぁ?」

 

「それは・・・・・・・」

 

「由比ヶ浜さんの意見にも一理あるわね」

 

「でしょ、でしょ」

 

 雪乃という大きな援軍に喜びいっぱいの笑顔を振りまく由比ヶ浜。由比ヶ浜に痛いところをつかれるとは、俺も落ちぶれたものだ。

 

「ガハマちゃんの意見ももっともだけど、ここは友人3人に絞ってやってみましょう。もしその3人が関係ないのなら、それはそれで信頼できる協力者が手に入るのだし」

 

 それは陽乃さんの嘘いつわりのない本心であった。友人を疑いたくない。もし疑うのだったら、一刻も早く無実を証明したい。

 

「では、残りの一人の女性はどうするのかしら? その人にも嘘情報を混ぜたほうがいいのかしらね?」

 

「今回は3人だけでいいんじゃないか? 4人にもなると嘘情報をさばききれなくなる。こっちの弱点といえば、人が少ないことだからな。人が多ければ大規模に嘘情報を流して、犯人かどうかを確認してけるけど、今はちまちま潰していくしかないだろうよ」

 

「じゃあ、それでいこっか」

 

「そうなると、あらかじめスケジュールを調整して、嘘情報につられてくる犯人を確認しやすいようにしなくてはいけないわね」

 

「その辺は、雪乃と陽乃さんの二人に任せる。そういう細かい調整は、俺や由比ヶ浜には無理だからな」

 

「わかったわ」

 

「でも、3人にそれぞれ嘘情報教えるんでしょ? その3人がスケジュールをお互い確認し合ったりしたらやばくない? だって、みんな違うスケジュール教えられてるんだから、変に思わないかな?」

 

「その辺はうまくやるわ。ストーカーのことは知っているんだし、一応あなただけにはスケジュール教えておくから、いざっていうときにはお願いねって感じで言っておけば大丈夫でしょ」

 

「そっか。それなら大丈夫だね」

 

 って、それで納得するのかよ。まあ、陽乃さんみたいな美人の頼み事だったら、世の男性はころっと信じてお願いをきいちゃいそうだけどよ。

 

「ねえ、ねえ、ヒッキー。私も何か手伝えることない?」

 

 俺の袖口を軽く掴み、下から俺を見つめてくる。足りないおつむを持ちながらも、こいつなりに心配している。

 

「お前にも頼みたいことはある」

 

「ほんとっ」

 

 一つ高い声の返事に、思わずのけぞってしまう。それさえも嬉しそうに見つめる由比ヶ浜は

無邪気に髪を揺らし、さらさらと髪を波打たせていた。

 

「俺と陽乃さんが一緒にいるところを遠くから見て、不審人物がいないか確認してほしい。それと、俺達の行動を記録しておくことかな」

 

「うん、わかった」

 

「お前一人だと危険だから、監視するときは雪乃と常に一緒な。なにがあっても単独行動は禁止」

 

「ヒッキーは陽乃さんの護衛ってこと?」

 

「そうだよ。ストーカーをおびき寄せるにせよ、陽乃さん一人でやらせるわけにはいかないだろ」

 

「それはそうかもしれないけど、彼氏?・・・・だと勘違いされないかな」

 

「それは・・・・・・・」

 

「それは大丈夫よ。多少ストーカーに刺激を与えたほうが動きがわかりやすいでしょうしね。私一人の方が、かえって発見しにくいと思うわ」

 

「まあ、それも一理あるな。でも、なにかあってもやばいから俺は陽乃さんの側にいるよ」

 

「そだね。相手はどんな人かわからないし」

 

「雪乃もわかったな」

 

「ええ、わかったわ」

 

 雪乃は不満を押し殺して、短く返事をした。

 やっぱりな。雪乃のことだから、一人で行動すると思っていた。だからこそ由比ヶ浜がいるときに全て話すことにしたんだから。

 俺は雪乃への抑止力がうまく機能したことに、かすかに笑みを浮かべてしまう。陽乃さんと目が合うと、陽乃さんも笑みを浮かべていた。

 やはり陽乃さんも雪乃の行動を心配してたってわけか。

 俺達の笑みは膨らみ、もはや声を殺すことなどできやしなかった。一度決壊した笑みは爆発し、暗い室内に反響する。訳がわからずぽかんと見ていた由比ヶ浜も、俺達につられて笑いだす。さすがに雪乃までは笑いにのってはきやしなかったが、俺達の笑いが収まるまで優しく見守っていた。

 いつ以来だろうか。こんなにも笑えたのは。辛い時の笑顔は人に前向きにさせる。自分が辛い時にへらへら笑っている奴がいたら、一発ぶん殴りたくなるけど、みんなと笑いあう笑顔なら、それは別物だ。

 

 

 

 

 

 

 

6月24日 日曜日

 

 

 

 これからデートである。待ち合わせ場所での最初の笑顔ほど格別なものはない。期待を胸にしまいこみ、身なりを確かめる。鏡に映る俺はいたって平凡。それなりのルックスはあるつもりだが、これからデートをする相手を思うとなにぶんパワー不足を否めなかった。

 

「はいズイカ。昨日チャージしておいたわ。どうせあなたのことだから、あまり入っていないのでしょ」

 

 これからデートだというのに、自分の彼女に他の女とのデートの準備を手伝ってもらうというシュール過ぎる体験をしつつ身なりを整えていく。普段以上に身だしなみをチェックされ、数度の変更を経て雪乃が満足する出来に仕上がったというのに、どうして不機嫌なのだろうか。

 理由はわかる。わかるのだけれど、だったらそこまで服装に力を入れなければいいと思うのだが、その辺は彼女としての意地なのだろうか。

 

「悪いな。帰ってきたら金払うよ」

 

 財布に万札入ってるけど、帰って来たときにも諭吉さん無事かな? これからも使いそうだし、心もとないな。やっぱバイトすっかな。

 

「別にいいのよ。必要経費だと思って使ってちょうだい。姉さんのボディーガードをしにいくだけなのだから」

 

 俺に詰め寄る雪乃の視線は冷たい。いちおうデートということなのに、雪乃の中ではデートではなくお仕事ということで収まったらしい。

 

「ありがたく使わせてもらうよ。・・・・・・なあ?」

 

「何かしら」

 

 俺の呼びかけに対し、棘がある返事が返ってくる。

 しかも、顔つきもさらにきつい。昨夜は雪乃も納得してなかったか?

 

「あのな、昨日のデート・・・」

 

「ボディーガードのお仕事ね」

 

 あくまでデートとは言わせないのかよ。

 俺は心の中でこっそりとため息をつく。

 気苦労が絶えない。陽乃さんのことがメインだけど、それが俺の生活すべてではない。俺の中心は雪乃であって、それでも時と場合によっては一時的に優先順位が入れ替わってしまう。雪乃が絶対だっていう根底は揺るがないことは雪乃も知っているはずなのに、今回動いてるのも間接的には雪乃のためなのよ、と叫びたかった。

しかも、雪乃にまで被害が及びそうだというのに。

 

「えっと・・・、昨日のボディーガードって、雪乃と由比ヶ浜が作ったプランだろ?」

 

「そうね。主に由比ヶ浜さんの意見が中心だわ。私の意見は参考程度かしら」

 

 本屋がデートプランに入っていたのは、確実に雪乃の意見だろうけどな。由比ヶ浜が、わざわざ本屋をデートプランにいれるとは考えられん。

 それでも漫画喫茶ならありえるか? ペアシートとかよさそうだよなぁ。今度雪乃と・・・・・・・・。

 

「何をニヤついているのかしら? そんなに姉さんとのデート・・・・いえ、ボディーガードが楽しみなのかしらね?」

 

「違うって。本屋が入っていたのがいかにも雪乃らしいなって思ってな。由比ヶ浜なら漫画喫茶だろうし、でも、雪乃と漫画喫茶でペアシートもいいかなって」

 

 あぁ、なに言っちゃってるの、俺? ぺらぺらぺらぺらご丁寧に欲望を全部ゲロっちゃってるよ。

 

「私と? ペアシートとは、どういうものなのかしら?」

 

 雪乃が知らないのも無理ないか。漫画喫茶なんて無縁だろうしな。

 

「個室に二人掛けのソファーがあって、そこで二人で漫画読んだり、ネットしたりするんだよ。俺もペアシートなんて使ったことないから、ネットで見た情報くらいしか知らんけどな」

 

「それだったら、自宅でもできるのではないかしら? ほら、そこに座りなさい」

 

 雪乃が指差す先には、皮張りの二人掛けのソファーがあった。漫画喫茶のソファーとは比べ物にならないほどの上等の品だ。

 それなのに庶民代表の俺が普段から席を二つ占領して寝転がって本を読むのが日課になりつつある。そして、途中から雪乃が割り込んできて、二人で読書タイム。

 って、おい。俺達って、いつも漫画喫茶のペアシートを体験してるのか?

 俺は雪乃に言われるがままソファーに座る。するとすぐさま雪乃が俺の左横に腕をからませ座ってきた。雪乃の重みがソファーに加わり、俺の重心が雪乃側へと引っ張られる。いつもと同じはずなのに、漫画喫茶というシチュエーションを意識してしまい、なにか照れくさい。

 俺を見つめる雪乃の頬もやや赤いのも同じ理由だろうか。

 

「これでいいのかしら? これだったら、わざわざ漫画喫茶に行かなくてもいいのではないかしら? それとも、漫画喫茶には特別な事でもあるのかしらね?」

 

「とくにはないと思うぞ。せいぜい漫画がたくさんあるくらいか。あとは、ジュース飲み放題とか」

 

「それだったら、なおさら行く必要がないじゃない。それとも、私の紅茶よりも、漫画喫茶のジュース飲み放題の方が魅力的なのかしら?」

 

 すぅっと目を細める雪乃に身を引いてしまう。しかし、ソファーという限られた空間。俺が逃げてもその分俺の方にソファーが沈み込み、雪乃もそのまま俺についてきてしまう。

 

「そんなことないって。雪乃の紅茶が一番だから。それに、漫画喫茶だと衝立の向こうには人がいるから落ち着かないかもな」

 

「それもそうね」

 

 俺の方に沈みかけていたソファーを雪乃の方に押し返す。体が軽い雪乃は、あっという間に押し倒されてソファーに沈みこんでしまった。

 

「あっ・・・・・・・」

 

 小さな吐息が俺の耳に届く。軽く身じろいで抵抗するそぶりはみせるが、それは照れ隠しに過ぎないってわかっている。だって、目だけはずっと俺を求め続けている。だから、俺の体も雪乃に加わり、さらに雪乃は沈んでいく。

 

「こんなに色っぽい声は、隣の客には聴かせられないな」

 

「だったら、ふさいでしまえばいいじゃない」

 

 あくまで主導権は渡しませんってか。

 挑発的な瞳が俺を誘惑する。

 

「そうだな・・・・・・・。でも、俺達には漫画喫茶は似合わないかもな」

 

「それは私も同じ意見だわ」

 

 俺は雪乃の唇を覆い尽くす。しっかりとふさいだはずなのに、かよわい声が漏れ出してしまう。雪乃がときたま洩らす喉の音さえも、はっきりと耳が拾ってきてしまうようだ。

 もうそろそろ出かけないと行けない時間か。でも、もう少しだけ目の前にいる雪乃を最優先事項に位置させておいても陽乃さんも文句はいうまい。

 時計を横目に、あと3分を3回繰り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 千葉駅前。日曜ともあって行き交う人も多い。

 すでに雪乃は由比ヶ浜と合流して、俺達の事を遠くから監視しているはずだ。でも、こんだけ人が多いとストーカーなんて見つかるか疑問ではあった。

 地道にやるしかないんだろうけど・・・。と、これからの長い道のりにすでに疲れそうになるが、人ごみの中からでも視線が吸いこまれてしまう陽乃さんを発見する。まだ距離があるのに人の目を引きつけるオーラ。陽乃さんとすれ違う人がいれば、振りかえりまではしないまでも目で陽乃さんを追ってしまう。

 その陽乃さんも俺に気がついたらしく、俺に向かって大きく手を振ってくる。

 やばくない? 目立つことが目的だが、それでもちょっと視線が痛い。主に隠れているはずの雪乃の視線が俺の心を抉った。

 なにせ陽乃さんが手を振ってくるから俺も返事をせねばと思い、小さく手を振ってしまえば、陽乃さんの相手が俺だと公言することになる。すなわち、陽乃さんを目で追っていた男連中、女連中も結構いたが、そいつらの視線も陽乃さんの視線の先にいる俺に集まってしまうわけで・・・・・・・。

 

「こっち、こっち。はちま~ん」

 

 歩み寄ろうとする脚を止めた俺に、俺が陽乃さんを探してると思ったのだろうか。大きな声で俺を呼ぶ。でも、さっき手を振り返したでしょっていう視線はすでにがん無視されている。

 俺が立ち止まったのは周囲からの視線が痛かったからであり、陽乃さんを探してではない。陽乃さんもそれくらいわかっているはずなのに、・・・・・あんた、わざとだろ! これ以上の公開羞恥プレイはご勘弁を。

俺は足早に陽乃さんに近寄っていくと、有無を言わさずその手を握りしめる。そして、そのままその場を離れようとしたのだが、がくんと俺の腕が引っ張り返された。

 え? 振りかえった先には、にっこりとほほ笑みかける陽乃さんが一人。不意をつかれた俺は、腕から力が抜け落ちた。するとすぐさま陽乃さんに引っ張り返され、公衆の面前だというのに、二人は抱き合う形になってしまう。

 

「陽乃さん?」

 

 俺は陽乃さんの耳元に口を寄せ問いかけると、陽乃さんも俺にだけ聞こえる大きさの声で囁きかえしてきた。

 

「ストーカーに見せつけるのが目的なのに、いきなりここから去ろうだなんてなにを考えているのかしら」

 

「そうかもしれませんけど、やり過ぎはよくないですよ」

 

「そうかしら? それでも待ち合わせ場所でいきなり恋人の手をとって、そのまま行こうとするよりは恋人らしくみえると思うわよ」

 

「はぁ・・・。そうですかね。わかりましたよ。わかりましたから、少し離れていただけませんか」

 

「照れちゃって、このこの」

 

 陽乃さんは俺を肘で小突きながら離れていく。すっといなくなった温もりに、いささか不謹慎な寂しさを感じてしまう。

 雪乃とは違う女性の感触。それに体は正直に反応してしまう。こんなことが今日一日繰り返されては体がもたないかもしれない。ここはひとつ釘を打っておくかと陽乃さんを見やると、あの陽乃さんがいつもの捉えどころがない感じを装ってはいるが照れている。視線はせわしなく揺れ動き、偶然俺の視線と交わると息を飲んでそらしてしまう。

 こうまでして陽乃さんがデレてしまうとはある意味貴重だけれども、こわ~い視線も投げかけられているわけで、俺は新鮮な体験を素直に享受できないでいた。

 その視線の主は、きっと雪乃のはず・・・・・・。

 はぁ・・・、この姉妹。存外似たもの姉妹なのかもしれないと、ふと笑みが漏れてしまった。

 

 

 

 

 

 陽乃さんが俺を引き連れていった場所は、予想に反して駅前のデパートであった。予想に反してとはいったが、今日のデートプランは既に立案され、雪乃たちも当然知っている。

 まあ、言葉のあやってやつだが、予想に反しているのには違いない。ショッピングなら、駅ビルやハルコあたりかなとあたりをつけていた。初めて出会った場所もららほーとだし、デパートとは少し意外ではあった。

 

「そうかな? 最近ではユニグロのテナントも入っているし、安い価格帯のも多いんじゃないかな。それに、別館は若者がメインの構成だし、デパート、イコール、値段が高いは成立しないと思うわよ」

 

「そうなんですか。俺はあまり利用しないんで、知らなかったです」

 

「ふぅ~ん。雪乃ちゃんとは来たりしないの?」

 

 どこか探りをいれるような雰囲気に、自然と身を堅くする。しかも、俺の小さな変化さえも見逃すまいと覗き込んでくるので、その表情におもわずどきりとしてしまう。

 

「ここのデパートはきたことないですね。隣の方は何度かありますけど」

 

「やっぱりそうなのね」

 

 なにか一人納得した顔に、今度は俺の方が陽乃さんの顔を覗き込んでしまう。雪乃の事ということもあるが、一人納得して完結されては気になってしまう。そりゃあ陽乃さんの思考なんてわかりもしないし、わかったとしてもさらなる深みにはまって迷走してしまいそうだけど、どこか知っておかなければならない気がした。

 

「なにかあるんですか?」

 

「ん? ん~・・・・・・・、これといった大した出来事ではないけど、ここのデパートは母がよく利用するのよ。雪乃ちゃんが高校に入ってからはあまりないけど、それまでは家族で来ていたものよ。といっても、母があれこれ指示をして買い物をしていくだけなんだけどね。私たち姉妹は母のマネキンって感じかしら」

 

陽乃さんは笑って話してはいるが、雪乃にとっては笑い話ではないのだろう。あの女帝、愛情の注ぎ方がいささか特殊だから、愛情を注がれる方にとっては苦痛なのかもしれない。

 

「そうなんですか。それは災難というか・・・・・はは」

 

「私はそれなりに楽しかったけど、雪乃ちゃんは、ね」

 

 陽乃さんの苦虫をつぶすような表情に、俺の予想は正しかったと審判が下る。

 そういや比較的安い商品や若者向けの商品が別館にあるって言ってたな。ここは本館だし、どこに行くんだ?

このまま昇っていくと、たしかロブトか。それなら雑貨でも見るのかな?

 と、予想に反して陽乃さんはロブトの手前の階でエスカレーターを降り、俺の手を引っ張って行った。

 ここ?

 フロアを見渡すと、食器、キッチン道具、寝具など、俺には無縁の高級そうな商品がひしめき合っている。とくに食器。見るからに高そうだ。できることならば近づきたくない。

 だって、ちょっと触ってしまって落として割ったりしたら大変だ。俺が買うようなコップと比べたら、少なくとも桁が2つは違うはず。なかには桁3つというのもあるかもしれないまさしく危険地帯だ。

 本能が入ったら危ないと警告を激しく発する。小さな子供なんて連れてきたら、親はひやひやものだろうな。まあ、ここに子供を連れて買い物に来る親だったら、仮に弁償するにせよ大した金額とは思わないかもしれないけど・・・・・・・・。

 

「こっちよ」

 

 俺の手を握り、引き連れていく先には、・・・・・・・・光り輝く包丁が。

 ねえ、陽乃さん。雪乃から包丁エピソードをお聞きになられたのでしょうか? もしそうだったら、悪い冗談ですよね。なんかいや~な汗が背中を這いずりまわっていますよぉ。

 

「これこれ。このぺティーナイフ見たかったの。ヅインセルマックスのMD67とM66。ネットで色々調べはしたんだけど、包丁だし、実際触ってみないと手になじむかわからないでしょ」

 

 目をらんらんと輝かせ、包丁を見つめるその姿。まさに子供がおもちゃを見る姿そのものだった。ただ、陽乃さんの目の前にあるのは包丁で、ちょっと特殊かもしれない。

 仮に家庭的な女の子で、料理が好きだとしよう。包丁は使うし、使い慣れてもいる。愛用の包丁もあることだろう。しかしだ。陽乃さんの目の輝かせ方は異常だ。まさにコレクターが品定めする猛禽類の目と同類だった。

 

「あっ、すみませ~ん。これとこれ、触ってみてもいいですか」

 

 俺のいくぶん失礼な感想をよそに、陽乃さんは自分の欲求をみたしていく。物静かな店員がショーケースの鍵を開け、包丁を2本取り出すと、じっと見つめてから赤い柄の包丁を握りしめる。何度か握り方を変えてみてから一つ頷き、今度は黒い柄の包丁を同じように確かめる。再び赤い方を握ると、今度はじっくりと握り具合を確かめているようだった。

 陽乃さんが包丁を見ているとき、俺はというと、雪乃には悪いが真剣に包丁を確かめる陽乃さんに見惚れてしまっていた。その真摯な姿勢がいつもの陽乃さんからかけ離れていて、別人のように感じてしまう。背筋を伸ばし、両足を適度に開いたその姿はまさしくキッチンに立つその姿であり、凛と引き締まった横顔にはかすかな笑みと凄味が備わっていた。

 この包丁を初めて見た時も子供のような目をしていて、これも別人のように感じたが、もしかしたらこれが本来の陽乃さんの姿なのかもしれない。そう思うと、ますます陽乃さんを知りたいと思ってしまう。

 今までの雲を掴むような曖昧な存在ではなく、今まさにそこに実在する陽乃さん。誰かの理想を形作った存在よりも、今の陽乃さんの方が数段魅力的であった。

 

「ごめんねぇ。いきなり自分の買い物しちゃって」

 

「別にいいですよ。欲しいものが手に入ってよかったですね。結局赤い方を選びましたけど、柄の色以外に何が違うんですか? 俺が見ても値段と色くらいしか区別ができないんで。値段を見ると、赤いほうが一万円も高いんですよね。見た目はほぼ同じだし、なんか騙されてません?」

 

「比企谷君にはそう見えるかぁ・・・」

 

「ええ、まあ」

 

「安心して。私もそうだから」

 

「えっ? だったら安い黒い方でいいじゃないですか?」

 

 見た目は全く同じような包丁。包丁を握るところが赤いところと黒いところが違うとしか判別できない。しかも、なんだこの値段設定。安い黒い方であっても二万を超えている。高い方なんて三万超えだぞ。たしかにショーケースに大事そうに飾られているわけで、商品棚に吊るされている包丁とは身分が違うんだろうけど。

 

「刃が違うみたいなのよ。素人の私が使っても違いなんてわからないでしょうね。値段が違うのは、その刃の構造のせいなのかしら。でも、どちらの刃も堅い分、包丁を研ぐのも大変みたいなのよ。頻繁に研ぐわけでもないし、ま、いっかなって感じね」

 

「そんなに使いにくい包丁でしたら、もっと簡単に使える包丁にすればいいんじゃないですか?」

 

「そうねぇ。家にあるのはミゾノUX10でそろえられているんだけど、ミゾノのは値段が手頃の割には品質はいいのよね。しかも研ぎやすいし、使い勝手を考えたらミゾノを選ぶわね」

 

「だったらなんでそれ買ったんです?」

 

 だれもが抱く疑問だろう。使い勝手がいい包丁が自宅にあるのなら、わざわざ値段が高い包丁を買う必要がない。

 

「だって、かっこいいでしょこの包丁。まず、見た目にびびっときたのよ!」

 

 自信満々に宣言するその姿に、いささか肩をすかされる思いを感じた。もっと理詰めな理由があると思いきや、見た目とは。

 

「はぁ・・・・・・・」

 

「別にいいでしょ。料理が私の唯一の趣味なんだから、ちょっとくらいこだわっても」

 

 意外な告白に、俺は面を喰らう。告白した陽乃さんのほうも、ちょっと頬を膨らませて拗ねながらも、なんだか照れくさそうにもじもじしていた。

 

「いや、悪くないですよ。料理が趣味だなんて、家庭的なんすね」

 

「ううん。全く家庭的ではないとおもうよ」

 

「え? だって料理好きなんですよね?」

 

「そうだけど?」

 

「それならば、家庭的っていえるんじゃないですか?」

 

「ああ、なるほどね。そういう観点から見たら家庭的かもしれないけど、私の場合は家庭的からは程遠い存在だと思うよ。だって、誰かの為に作ったことなんてないんだもの」

 

「はい?」

 

「言葉の意味そのものよ」

 

「雪乃や両親の為に作ったことってないんですか?」

 

「作りはしてるけど、誰かの為にっていうのはないかなぁ、たぶん。それは作った料理を美味しいっていって食べてくれるのを見るとうれしいけど、そんなのは結果にすぎないかな。私は料理を作る過程が好きであって、極論を言えば食べてくれる相手なんて全く興味がないの。これって、料理の精神論の基本みたいのが欠落しているかんじだけど、仕方ないのよね。だって、興味ないんだし」

 

 ある意味衝撃的な告白のはずであるのに、陽乃さんは全く悲壮じみていない。逆に、自分の考えの何が悪いんだって悪態をつくほどでもある。

 

「その点雪乃ちゃんは料理が趣味ってわけでもないけど、比企谷君の為に料理作ってるわけだし、家庭的って言えるんじゃないかしら」

 

「そうかもしれないですね。あの・・・・・・・」

 

「なにかな?」

 

「彼氏に作ってあげたいとか、思ったこともないんですか?」

 

「ないわね。それに彼氏は今までいたことないから、彼氏候補ね。それと、みんなが集まったときなんかに手分けして料理したりしたことはあるかな。でも、それは役割分担だし、誰かの為に作るっていうのとは違うんじゃないかな」

 

 陽乃さんは全く悲しむ姿を見せない。むしろ堂々と無表情に、かつ淡々と事実を並べていく。悲壮感にくれているのはむしろ俺の方で、悲しんでいるのも俺だけだった。

 何がそうさせるって? そんなの簡単だ。目の前いる表情を失った少女を憐れんでいた。

 憐れんでいるというと、ちょっと語弊があるかもしれないが、俺は初めて陽乃さんを守ってあげたいと思ってしまった。ストーカーの話を聞いた時も、どこか自分は他人様であった。

きっと最後には陽乃さんがなんとかしてくれる。陽乃さんなら大丈夫だと、無責任なたかをくくっていたのである。けれども、今存在しているむき出しの陽乃さんの無防備さ。ちょっと風が吹けば吹き飛ばされそうであるのに、当の本人はそれに無自覚だ。

 危うい。とてつもなくあやうい存在。

 だれかが守らないといけない。しかし、だれも近寄らない。誰も肩を並べられない。かたくなにそれを拒んできた陽乃さんには、友達はたくさんいるかもしれないが、一緒に肩を並べて歩んで行く存在が、著しく欠損していたのである。

 

「紅茶もね、今では雪乃ちゃんの足もとにも及ばないけど、昔は私が紅茶を淹れていたのよ」

 

「え? まじっすか?」

 

「まじっすよ」

 

 首を少し傾け、笑いを堪えながら挑発的な視線を突き付けてくる。その様があまりにもおかしく、あまりにも無邪気でどぎまぎしてしまう。どこか作りものの笑顔だったその顔が、いつの間にかに年相応の笑顔にすり変わる。

 いや、雪乃よりも幼く感じてしまう。姉妹共に感情をうまく表現するのが苦手だが、それでも雪乃は自分を作ったりはしない。一方、陽乃さんは自分を演じなければならない境遇であったが、それに気がつく奴なんて少なかっただろう。それは、もともとの基本スペックがずば抜けていたことも起因するが、どこか現実離れしたひょうひょうとした性格を演じてしまったために、だれもがあり得るかもしれないと思えてしまっていた。

たとえば、高校の後輩だった一色いろは。彼女のように相手によって態度を変えたり、人受けがいい性格を演じていたのならば、誰かしら気が付いたかもしれない。

 だが、雪ノ下陽乃はぶれない。彼女は常に自分が演じる雪ノ下陽乃であり続ける。どこか胡散臭く、人によっては苦手意識を持ってしまう人物であろうが、演じきってしまえば彼女は雪ノ下陽乃であり続けてしまうのだ。

しかし、その雪ノ下陽乃が今、崩れ去ろうとしていた。それは一瞬の出来事かもしれないが、目の前にいる陽乃さんは、今まで見たどの雪ノ下陽乃にも該当しなかった。

 

「あれ? どうしたの? きょとんとして」

 

 視線を外せなくなってしまった。

 陽乃さんを、その笑顔を見逃すまいと、脳裏に焼きつけようとしてしまっていた。

 

「いや、なんか意外だったので」

 

「そう? だってそうじゃない? 私が料理が趣味だから、紅茶にだって色々挑戦することだってあるわけなじゃない。それで雪乃ちゃんが紅茶好きになって、自分で淹れるようになったとしても不思議ではないでしょ?」

 

 陽乃さんは俺の言葉の意味を取り違えていた。正直助かった。俺の本心をこの人に知られたらと思うと、あとあと怖い目にあいそうだ。だから俺は陽乃さんの間違いにのることにする。

 

「そう言われれば、そうかもしれないですね」

 

「そうでしょ? でも私はそれほどは紅茶に興味持てなかったから、すぐに雪乃ちゃんに抜かれちゃったな。それに、コーヒーも好きで、どっちかというとコーヒーにはまってた期間の方が長いかもしれないわね」

 

「それも意外ですね」

 

「別に飽きっぽいわけでもないのよ。それなりにできるようになると、限界もわかってきちゃうのよね。諦めがよすぎるともいうけど」

 

 そう言いきると、表情を曇らせる。どこか困ったように笑顔を作り上げる。ただそれもすぐに霧散して、再構築しなければならなかった。どこか壊れたおもちゃのようにぎくしゃくした表情に悲しみを覚えてしまう。

この人は何度諦めてきたのだろうか。この人は何度自分を偽ってきたのだろうか。そして、何度自分を嫌いになったのだろうか。

 その答えは聞くことはできない。なにせ、俺にはその資格がない。もし聞く資格があるとしたら、それこそ陽乃さんを全て受け入れた彼氏しかいないだろう。そんな人物、このままだと現れやしないだろうけど、陽乃さんの隣に現れることを願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 陽乃さんが目当ての包丁を購入してからは、俺達は隣の鍋コーナーやフライパンなどを見て回った。店内は余裕を持った陳列を心がけていて、一つ一つの商品を強調させている。その分商品の種類が減りはするものの、そこは選ばれたものがおかれているわけで、どの商品を見ても目を奪われてしまっていた。ただ、俺にとっては副次的と言いますか、別の意味でゆったりとしたスペースはありがたかった。

 とにかくどの皿やグラスを見ても値段の桁が違う。商品に触るのはむろん見るだけでも神経を使ってしまう。また、雪乃が使ってる道具を見つけるたびに、めっちゃたけーじゃねえかって顔を青く染めていた。

 道具を大事に使っている雪乃がいるわけだから、俺も大事に使ってるけど、それでもこんなに高いとは。これからはもっと大事にしないとな。

手が震えないといいけど・・・・・・・・。

 

「このグラスなんて、夏にぴったしだと思わない?」

 

 陽乃さんの白くほっそりした指が差す先の鮮やかな朱色と藍色のペアグラスを見入る。細やかにカットされたそのグラスは製作者の息吹をまとい、芸術作品にまで昇華していた。吸いこまれるような光の芸術におもわず手で触れてしまいそうになるが、グラスの前に鎮座している価格表をみて体が硬直する。

 たっけーー! なにこれ? 実家で使っていた百均の俺のコップだと何個買えるんだよ。一生分のコップ買えちゃうだろ。

 もし、手を止めることができずにグラスに触れてしまって、もし、間違いを犯してグラスを割ってしまったらと思うと、背中から嫌な汗を噴き出しはじめてしまった。

 

「どうしたの、固まっちゃって。比企谷君も気にいってくれたのかな。それとももしかして、値段見て委縮しちゃったかな?」

 

「そりゃあびびりますよ。ここいらに展示している食器って、全部似たような値段設定ですよね? 地雷原じゃないですか。危なっかしくてゆっくりと見てられないですよ」

 

「そうかな? でも、綺麗なグラスを見ているとほっとしないかなぁ? 比企谷君も見いってたでしょ」

 

よく俺を観察していることで。見るだけはただだしな。

 

「そうですけど、値段が値段なんで。それに、俺は一般家庭の人間なんですよ。こんなにも高い食器なんてそもそも無縁なんです」

 

「でも、雪乃ちゃんちにある食器も、似たようなものだと思うけど」

 

「・・・・・・すみません。ちょっと向こうで休んでいていいですか。少し動悸がして。ちょっとばかし落ち着かないとやばいみたいで」

 

 やっぱりうちの食器って高かったのか。なにか実家の食器とは違う高貴さを感じるとは思っていたけど、雪乃の趣味くらいとしか思わなかった。そりゃ高いよな。いいものじゃないと、シンプルでありながらもにじみ出る優雅さなんてもちえないだろう。

 ほんと、今まで一枚も割っていなくてよかった。

 

「いいわよ。私はもうちょっと見てから行くから、エスカレーターの側のソファーにでも座っててよ」

 

「ありがとうございます」

 

 俺は用心深く食器売り場から抜け出ると、言い忘れていたことを思いだし振りかえる。振り返った先にいた陽乃さんは、食器には目を向けずに俺の事を観察していたようで、振り向いた瞬間に目があってしまい、どぎまぎしてしまった。

 

「なにかあったら声かけてくださいね。念のためにソファーには行かずにここで待ってます。ここなら安全だろうし」

 

 食器売り場から抜け出せば、怖いものはない。一応デートではあるが、その前に俺はボディーガードでもあるわけなのだ。

 

「まじめねえ」

 

「違いますよ。怖がりなだけです」

 

「そっか。案外私たちって似ているのかもね」

 

 そう小さくつぶやくと、陽乃さんは食器に意識を移した。

 似ているか・・・・・。怖がりっつっても、俺と陽乃さんとでは決定的に違いがあるんじゃないか。俺のは、失うのが怖いから、失わないように先回りして予防策を張り巡らす。仮にもし失ったとしても、そうなった場合を想定して、心の準備までしておく。

 しかし、陽乃さんの場合は根底の思想がスタートから違っていた。陽乃さんは、失うのが怖いから、最初から手にしようとしない。自分の手に入っていなければ、失うことも、失って悲しむこともありえない。

 だから、同じ怖がりだとしても、スタート地点から決定的に異なってしまっている。どちらの考え方が正しいとかメリットがでかいとかそういうのは問題ではない。これは人格形成の一端であり、人そのものである。だから、いまさら簡単には変わらないだろうし、意識して無理やり変えたとしても、それは精神のバランスを崩すだけだろう。

 

「すんません。ちょっとトイレ行ってきます。すぐ戻ってきますけど、いざってときは・・・・・・・」

 

「うん。大丈夫よ。人もいるし」

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 少し気持ちを切り替えよう。二人の間合いをリセットすべく俺は一度この場を離れることにした。今日俺は陽乃さんに深入りしすぎたかもしれない。あの仮面を脱ぎ去った無邪気の笑顔に魅了されてしまったのかもしれないと思えていた。

 トイレから戻ると、陽乃さんの手には新たに紙袋が追加されていた。

 となると、あの馬鹿高い食器のどれかしらを買ったという可能性が高いわけか。包丁ならば壊れる心配は少ないだろうが、俺なんかが食器が入った紙袋を持って、もし壊してしまったらと思うと、気軽に荷物を持ちますよと声をかけにくい。

さて、どうしたものか・・・・・・・。

 

「あら、軽い包丁はもってくれても、こっちの方はもってくれないのかしら?」

 

 と、意地が悪い顔をニヤつかせる。どうせ俺が警戒している理由も陽乃さんはしっかりとわかっているんだろう。

 だったらそれにのるまでよ。もし壊れたとしたら、土下座してひたすら謝るまで。

 

「それも持ちますよ」

 

 俺に荷物を預けると、陽乃さんは俺の腕をとり、他の売り場へと進んで行こうとする。陽乃さんからふわっと生じる甘い香りが俺の鼻をくすぐり、意識が一瞬陽乃さんだけに向けられてしまう。するとまあ、ぶつかりはしないが陳列棚に膝をぶつけそうになるわけで。

 

「笑わないでくださいよ」

 

「笑ってないわよ」

 

「その顔のどこが笑ってないって言えるんですかね」

 

「この顔?」

 

「ええ、その顔ですよ」

 

「可愛らしくも可憐な顔が笑っているとでも君は言うのかな?」

 

「可愛いとも可憐とも言っていませんが、笑っているとは言いましたよ」

 

 たしかに可愛いし、可憐でもある。だけど、その可愛くて可憐な顔で意地が悪い笑みを浮かべないでくださいよ。どっと疲れますから。

 

「つれないね、君は。雪乃ちゃん相手でもいつもそうなのかな?」

 

「どうでしょうね? ただ、歯が浮くような甘い言葉を言うのは似合わないと思っていますよ」

 

「それもそうね。比企谷君が甘い言葉を耳元で囁いたら、いくら私でも恋に落ちちゃうかもしれないし、やめておいた方がいいわよ」

 

「でしょうね」

 

 苦笑いしか浮かばないじゃねえか。たしかに俺には似合わないけどさ。

 しかし、その場のノリというものは怖いもので。俺は腕に絡まっている陽乃さんをさらに引き寄せると、かがみこむように陽乃さんの耳元に口を寄せ、そっと囁いてしまった。

 

「綺麗に整った顔できつい冗談を言われますとダメージがでかいですけど、でも、愛くるしい顔で振り回されるんなら、その魅力的な笑顔を見続けるのも悪くはないですよ」

 

 陽乃さんの脚が止まり、息を飲む音を聞きつけて、俺ははっと顔をあげる。

 何言ってんだよ俺。一歩後ろにいる陽乃さんの顔を確かめる勇気がちょっとばかし足りないようだ。だったら逃げるっているてもあるが、今腕は拘束されているわけで。

 

「えっと・・・・・・」

 

 沈黙だけはやめてください。俺がまいた種だけど、謝りますから沈黙だけはご勘弁を。

 

「い、言うようになった、わね」

 

「そうですね」

 

「えぇ・・・えっと、その、行こうか」

 

「はい」

 

 俺の横を過ぎ去るときにちらりと覗きこんだ横顔は、はっきりと確認できたわけではないが、少しばかりピンク色に染まっていたような気もした。それが店内の照明の成果は確認できてはいない。

 俺は今回ばかりは何も言わずに、陽乃さんに引っ張られるままその後に続く事だけに集中した。

 

 昼食を取り終えると、階下の雑貨屋に移り、またしても料理グッズを見て回った。幸運な事に今度は俺も楽しめる価格帯であったので、気兼ねなく手にとれる。まあ、片手には高級食器が入っているわけだから、ぶつけないようにしなければならないのが難点だった。

 さらに難点なことといえば、もう片方の腕に絡まる陽乃さんの手だろうか。一度は荷物を持ってるから手を離したほうがいいのではと聞いてみたが、デートをしてストーカーをおびき寄せるのには必要と反論された。

 たしかにその通りなのだが、遠くの方から痛い視線が突き刺さってくるのが大変気がかりであった。心当たりはあるが、家に帰った後まで問題を先送りするしかないのが困った事ではあるんだけど。

 

「さてと、私ばかりが楽しんでもしょうがないから、今度は比企谷君が好きそうなものを見に行きましょうか」

 

「別に面白かったですよ」

 

「そうかな? 午前中に食器を見ていたときなんて、青ざめていたわよ」

 

「それは高級品には縁がなかったからですよ。ここなら身近なグッズばかりですし、掃除グッズなんて、割と楽しめましたよ」

 

「変わってるわね。掃除好きなの?」

 

「掃除が好きってわけではないですけど、なんかすっごく綺麗になりそうで使ってみたくなりません? あと、デザインがいい日用品なんて部屋に飾ってみたくなりますよ」

 

「あぁ、雪乃ちゃんに調教されちゃったんだ。しっかりと主夫しちゃってるのね」

 

 陽乃さんは面白くなさそうにつぶやく。腕に絡まっている手に力が入り、陽乃さんの方に少し引き寄せられた。

 その愛らしく拗ねた顔色が普段とは違う素の陽乃さんらしく思えてしまう。やはり自分が好きな物を見て回っている時くらいは無防備になってしまうのだろう。

 

「どうしちゃったの、ぼぉっとして?」

 

「いや、素の陽乃さんをはじめてみたなって思ってしまいまして」

 

 急な質問に動揺して馬鹿正直に答えてしまう。こんなこと言ったら何を言われるかわかったものじゃないだろ。雪乃もからめてしばらくおもちゃにされるかもしれないと、身構えてしまった。

 

「なぁにかっこいいこと言っちゃってるの。この・・・・このこの」

 

 俺の腕に手をからめたまま、陽乃さんの腕をそのまま押し付けてくる。ただ、その表情はいつもの陽乃スマイル。完璧すぎるほどの笑顔に、俺は笑えないでいた。

 思い返してみれば、包丁、食器、料理グッズなどを見ているときの陽乃さんの笑顔を今まで見てきたどの陽乃さんとも該当しない。今見せているような隙がない笑顔ではなく、人を温かくする笑顔だった。この人をもっと知りたくなってしまう好奇心に満ちた子供っぽい笑顔だった。

 だから、今目の前にいる陽乃さんは、いつも俺の前にいる陽乃さんなのだけれど、どこか胡散臭く、どこか絵にかいたような品のよさを作り上げられていて薄気味悪かった。

 

 

 

 

 

「どうかしら? コーヒー飲みながら本を選ぶのって」

 

「いいですね。気になる本を椅子に座って選べるのがいいです」

 

 コーヒーのスパイシーな香りが立ち込める中、本屋に併設されているカフェで本を選びながら休憩をしている。陽乃さんは1冊、俺は3冊ほど気になる本を持ち込み、本の中身を確かめていた。

 最近多いな、こういったカフェ併設の本屋。でも、中には併設ではないけれど、フードコートが隣にあったり、さらにはゲームセンターまで隣に作られちゃってる本屋もあるから静かに本を選びたい俺にとっては最低な本屋も存在する。

 コーヒーの香りではなく、脂っぽいジャンクフードの臭いが充満し、馬鹿高い音量のゲームのBGMが流れ着く。本って本来静かに読むものでしょって文句も言いたいところだが、立地もよくてたまに使うことはあっても目当ての本を買ったら即座に退散していたので、いつも文句は口の中で飲みこむことにしていた。

 

「でも、いいんですか?」

 

「ん、なにが?」

 

「人目がつく場所で恋人のふりして歩き回らなくて」

 

「ああ、それ。別に大丈夫じゃないかな。いくら歩き回っても人が多すぎたらこっちが見つけられないし、少なすぎても相手が警戒するだろうしね。だったら、好きなところを行ったほうが有意義でしょ」

 

「それはそうですけど」

 

「でもねえ、昨日のデートプランは傑作だったわね」

 

 陽乃さんは笑いを隠そうともせず豪快に笑う。コーヒーをいれる音と本のページをめくる音くらいしか聞こえてこなかった店内に笑い声がこだまするのだから、いやでも注目を集めてしまう。だから、すぐさまひんしゅくをかってしまうのは当然である。

 俺は何度も頭を軽く下げて謝罪をするが、当の本人の陽乃さんといえばそんな非難も素知らぬ顔で、俺のことをみて楽しんでさえいた。

 

「何が楽しいんですか」

 

「うーん・・・・・・、色々かな」

 

「色々ですか。それならしょうがないですかね」

 

もうなにがって聞くのは諦めた。聞いたら負けだよ、きっと。

 

「映画見て、食事して、ショッピング。で、本屋でまったりして、最後に食事し、バイバイ。本屋は雪乃ちゃんの意見だろうけど、たぶん他は由比ヶ浜ちゃんのデートプランよね。まさしく絵にかいたようなデートプラン。かわいいわね、ガハマちゃんって」

 

 昨日俺と陽乃さんがまわったデートコースか。雪乃と由比ヶ浜がプランを立てるってはりきっていたけど、映画館でどうやってストーカーを見つけるんだ? 暗闇の中で人探しなんか難しいだろうし、映画館なんて意味ないだろ。

 ま、由比ヶ浜のことだ。なにも考えてなくて、ただたんにデートっぽいからプランにいれただけだろうけど。

 

「いかにも由比ヶ浜らしいですね」

 

「そうね」

 

「ちょっと聞きたかったんですけど、なんで俺が彼氏役なんですか? ボディーガードはやるっていいましたけど、別に彼氏役じゃなくても他の適当な役でよかったんじゃないですか。荷物持ちとか」

 

 今さらすぎる質問に陽乃さんは目を丸くする。驚いたのはほんの一瞬で、今は目を細めて俺をじっくり観察してくる。この視線。このぞくりとする感触。雪乃にはないぞっとする瞳。こればっかりは陽乃さんがあの女帝の娘だと強く感じさせられてしまう。

 身構えたって無駄だ。いくら見を小さくしてやり過ごそうとしても、きっとどこまでも追い詰めて丸裸にされてしまう気さえしてしまった。

 

「そうかしら。ストーカーを揺さぶる為にも彼氏の方が都合がいいと思うわ」

 

「俺が彼氏役だと不自然だと思いますよ。それでも俺に彼氏役をやらせる意味があるんですか?」

 

「なんでだと思う?」

 

 質問に質問で返すのって反則ですよね。やられた方はちょっとむっとするんですよ。そんなこと知ってるはずなのに、しかもわからないから聞いているんだからさ。

 でも、俺は大学生になったし、大人になりつつあるわけだ。ここはジェントルマンとして、大人の対応をみせるかな。

 

「俺と雪乃が付き合っているのは大学では有名ですよね。だから、俺と陽乃さんがデートなんかしても不審がられるだけではないでしょうか」

 

「そうかしら。そう考えているのなら、それは勘違いよ」

 

「そうですかね」

 

 さすがにこれにはジェントルマンの俺でもむっとしてしまう。

 俺と雪乃が恋人なのは周知の事実だし、それはいくら陽乃さんでも変えようがない。だったらなにが勘違いだというのだ。

 

「私は今まで恋人を作ってこなかったのよ。一応これでもたくさんの求愛を受けてきたけど、全て断ってきたの」

 

「ええ、知っていますよ」

 

「だから、その私が急に恋人なんか作ったりしたら不自然でしょ」

 

「考えてみれば、そうかもしれないですね。かえってストーカー対策だって思われるかもしれませんね」

 

「でしょう。でもね、比企谷君。その雪ノ下陽乃でも、この人だったらあり得るっていう恋人が一人だけいるのよ」

 

「そ・・・うですか」

 

 嫌な予感しかしない。聞かない方がいいって全身が拒絶反応を示している。

 

「そうなのよ。雪乃ちゃんの恋人だったら私の恋人になりうるのよ。だって、あの雪ノ下陽乃なのよ。妹に恋人なんかできたら、ちょっかい出すに決まってるじゃない」

 

「決まらないでください。自重してください。やっかいごとを放り込まないでください」

 

「でも、ありうる選択肢だと比企谷君も認めてくれるでしょ? ううん、その顔は認めているっていう顔をしているぞ」

 

「わかりましたよ。降参です。認めたくはないですけど、あり得るから怖いですね」

 

 マジで怖いって。もし雪乃が聞いていたらと思うと背筋が凍る。今は本屋周辺を見回ってるってメールが来ていたから大丈夫だとは思うが、恐ろしいことをいう人だよ、まったく。

 

「ね。比企谷君が思うんなら、周りだって思ってくれるはずでしょ」

 

「俺を基準にするのは賛成できかねますが、おそらく周りの人間も陽乃さんならあり得るなって思ってくれるはずですよ」

 

「でしょ、でしょ」

 

 面白そうに言ってはいるけど、事の重大さをわかっているのか? 下手したら姉妹で大げんか物だぞ。しかも、核の撃ち合いレベルの・・・・・・。

 

「でも、なるべく大学内で噂にならないようにしてくださいよ」

 

「そんなのわかってるから、大丈夫だって」

 

その大丈夫が一番信用ならないんですよ。

 

「そんなに眉間にしわを寄せないの」

 

「誰のせいだと思ってるんですか」

 

「それはあなた自身のせいでしょ。いくら私に原因があったとしても、それをどう受け止めるかは比企谷君次第なんだし」

 

「そういわれると反論しかねますけど、論点のすり替えじゃないですか」

 

「やっぱりいつまでたっても捻くれてはいるのね」

 

「ほっといて下さい」

 

「は~い。・・・・さてと、そろそろ行きますか」

 

「もう少しゆっくりしていくんじゃなかったんですか?」

 

「私が別に気にしないけど。比企谷君は気にするんじゃないかな?」

 

 そういうと、陽乃さんはゆっくりと店内を見渡す。そう、コーヒーを入れる音と本をめくる音しかしていなかった店内はいつしか騒々しくなっていた。

 いくら顔を寄せ合ってひそひそ声で話していても、声は店内で振動し、不快な音となって響き渡る。今俺達の周りには不機嫌そうに俺達を見つめる目が複数存在していた。

 

「はぁ・・・・・・・。行きましょうか」

 

「行こっか」

 

 俺は陽乃さんに腕を引っ張られながらあとに続いた。

 もうこの人。どこまで計算してやってるんだがわからないけど、俺で遊ぶのは勘弁してください。

俺のため息に陽乃さんは笑顔で返事を返してきた。

 

 

 

 

 

 その後俺達は地下でコーヒー豆とロールケーキを購入すると、雪ノ下邸に向かう為にタクシーに乗り込んだ。本来の予定ではレストランに行くはずだったのだが、急遽陽乃さんの要望で変更となる。

 一応実家に行くことは、大学院の3人の友人のうちで安達さんだけに教えておいた嘘情報だったが、まあいっかという軽い気持ちで陽乃さんが提案してきた。俺も特に問題ないと反論はしなかってけど、あとをついてくる雪乃たちにとっては迷惑きわまりないだろう。メールで予定変更のお知らせと謝罪を送ったが、すぐさま盛大なお怒りメールがかえってきたのがその証拠だ。

 家に帰ったらもう一度雪乃に誤っておくことにしよう。由比ヶ浜に対しては明日に持ち越しでいいとして、今は目の前の陽乃さんに意識をむけた。だって、目を離すとなにをしでかすかわかったものじゃないから、目をはなせやしないでしょ。

 タクシーが家に着くころには日は沈み、閑静な住宅街はさらに物静かな雰囲気を醸し出す。街灯の光が道を照らし、家々から漏れ出る明りがほのかな光を提供する。喧騒に満ち溢れた駅前から緩やかな時間を提供する空間へと帰宅した。

 タクシーから降りると涼しげな風が頬を撫でる。日が暮れたことで気温も下がってはいるが、それ以上に街と人が生み出す熱気がないことが一番の要因なのだろう。

 

「今日は意外と楽しめちゃったわね」

 

「それはよかったですね。まあ俺もけっこう楽しかったですよ」

 

 嘘ではない。本音でそう思えた。政略結婚にストーカー。やっかいな出来事が目の前にあり、陽乃さんのストレスも蓄積されているはずだった。

 たとえストーカーをおびき寄せる為の疑似デートであっても、陽乃さんが楽しめたのならば、良い副作用を得られてほんとうによかったと思えた。

 

「来週も行くと思いますし、今度も陽乃さんが行きたいば・・・・・・・」

 

 俺の前を歩いていたはずの陽乃さんが立ち止まり、俺の腕に手をからめ身を寄せてくる。それは昼間のデパートと同じ感触であるはずなのに、なにかが違う。もっとこう切羽詰まって、今にも取り乱してしまいそうな感じであった。

 

「陽乃さん?」

 

 不審に思い陽乃さんの顔を覗き込もうとするが、暗くてよく見えない。ただ、かすかにふるえているような感じが硬直したその体から伝わってきた。

 震えている? なんでだ?

 俺はなにかあるのかと辺りを見渡そうとすると、突然強い力に身を押し出され住宅の塀の隙間へと押し込まれてしまった。一瞬のことでなにがなんだかわからず、説明を求めようと陽乃さんの顔に顔を寄せると、真剣な声色で警告された。そっと、俺だけが聞こえる声で、かつ、逃げだしたいのを抑え込もうとする声で。

 

「きょろきょろ見ないで。ストーカーが見てる。たぶんここなら抱き合ってるようにしか見えないわ」

 

 低く抑えられた声が事の重大さを助長する。陽乃さん自身が、自分で自分を落ち着かせようと演じてはいるみたいだが、うまく機能しているかは疑問だ。おそらくうまくいってないとさえ思えてしまう。

 それが、俺をかえって冷静にさせてくれた。

 

「このままだとやばいですね。雪乃達も俺達のあとを追ってタクシーできますから。携帯で連絡できますか?」

 

「私は無理ね。鞄に入ってるから、この位置で鞄を漁ったら不審に思われてしまうわね」

 

「俺の携帯は背中のバッグに入ってますから、荷物も持ってるので難しいですね。・・・・・陽乃さん、取ってもらえますか?」

 

「わかったわ。・・・・・・・・雪乃ちゃん、ごめんね」

 

 なにがごめんなんだ? 疑問に思ったその答えはすぐに陽乃さんの行動で証明される。陽乃さんの両腕が俺の背中にまわされ、周りから見れば激しく抱き合っているカップルにしか見えないだろう。

 住宅街でなにをやってるんだかという思いもあるが、デートの終わりに抱擁を交わすカップルならば自然かもしれない。だけど、不謹慎ながらも雪乃とは違う甘い香りに魅了されていた。

 どこか子供っぽさを感じるのが意外だけれど、今日一日の陽乃さんを見てきた俺には納得できる感想でもあった。って、臭いフェチではないことははっきりさせたい。そもそも女の香りなんて嗅ぐ機会が限定されている。

雪乃しかいないわけだし、今陽乃さんが胸の中にいるのだってイレギュラーな出来事であるわけで・・・・・・・。

 そうこう不謹慎な考察を展開させていると、陽乃さんは俺のバッグから携帯を取り出していた。すると、携帯を俺の胸に押し当てて、陽乃さんの耳とで携帯を挟み込んだ。

 

「荷物を地面に下ろして、私がしゃべっているのを見えなくしてくれないかしら? もしかしたら私が確認できていないところにもストーカーがいるかもしれないから」

 

 俺は返事の代りに荷物を地面に置き、ぎゅっと陽乃さんを抱き寄せる。俺の方からは道がよく見えるからストーカーも見えるかなと思いもしたが、抱きしめ合うカップルの男の方が、彼女そっちのけできょろきょろしたらそれこそ不自然だと思い、ストーカー探索は思いとどめた。

 陽乃さんは俺が抱きしめるのを確認すると、素早く電話し、雪乃達は間一髪で難を逃れる。道の向こうから照らし出されるまばゆい光は、おそらくタクシーのライトだろう。しばらくすると目の前をタクシーが通過する。

 一瞬だけど、由比ヶ浜が心配そうに窓にへばりついていたのが見えた。まあ、これで雪乃と由比ヶ浜がストーカーと鉢合わせになることはないか。

 だけど、俺達はどうすっかな・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 とりあえずだが雪乃達の危機は去った。さて、俺達はどうしたものか。このまま家に行ってもいいのだろうか。ただそうなると、俺もそこでさよならっていうのもちょっとばかし怖い。

 俺が思案に暮れていると、胸の中でむずむずと動く物体がぴょこりと顔をあげてきた。

 

「雪乃ちゃん達にはこのまま馬場君と千田君に伝えてあったデート予定地に行ってもらったわ。たぶんストーカーはいないと思うけど、一応確かめておく必要はあると思うの。もちろんなにかあったら逃げるように忠告はしておいたわ。でも、あっちの方は人も多い場所だし、大丈夫だと思うけどね。そもそも実家の前にストーカーが張り込む可能性は最初から高いから、一概に安達君から情報が漏れているとは断定できないのが痛いわね。あぁっでも、雪乃ちゃん達が馬場君と千田君のところを確認して、ストーカーがいなければ安達君の可能性が高まるか。そうなると、時間と人手を考えれば安達君を集中的にマークしたほうがよさそうね」

 

 饒舌すぎる陽乃さんに、俺は心配を覚える。さすがにちょっとばかし喋りすぎだ。どうみても恐怖を紛らわせるために喋り続けているようにしか見えない。げんに、耳から離した携帯を握る手は、携帯と共に俺の胸あたりの服ごと堅く握りしめている。また、背中にまわされているもう一方の手も同じように俺の服を強く掴みながら震えていた。

 いくら背伸びをしてもかなわないと思っていた雪ノ下陽乃がか弱い少女になっていた。どこにでもいる大学生で、夜道に浮かび上がる不審人物に恐怖し、恐怖におののいていたのだ。

 守りたい。守ってあげたい。人間として、男として、当たり前の感情かもしれないけど、そんな建前は関係ない。俺が陽乃さんを守る。それだけだ。今は俺しかいないっていうのもあるけれど、頼ってきてくれているなら、こういうときくらいは根性見せねばならないでしょ。

 そう思うと根拠がない自信がみなぎってきてしまい、普段なら絶対にできない行動をしてしまうわけで・・・・・・。

 俺は陽乃さんを抱く腕の力を強め、顔を陽乃さんの耳元までもっていき、努めて冷静を装って告げた。

 

「とりあえず家の中に入りましょう。家の中までは追ってこないと思いますよ。家の中に入ってきたらその時点で警察呼べますしね。それに、ご両親もいますから大丈夫ですよ」

 

「ごめんなさい。安達君に伝えた通り、本当に両親はいないの。帰っては来るけど、10時頃になってしまうと思うわ」

 

 思わぬ誤算に計画が狂う。嘘って、なんなんだよ。たしか両親がいるって話だったじゃないですか。それじゃあれか。家に誰もいないのわかってて、それでも俺を家に招いたってことか。なにか意図が・・・・・、あるわけないか。

 深く考えても答えは出ないだろう。だって、陽乃さんだし。

 と、思わぬ誤算の副作用によって俺の気持ちはわずかだが軽くなる。

 

「それでも家の方が安全ですよ。さ、行きましょう。このままひっついていても怪しくはないでしょうけど、さすがにずっとこのままっていうわけにはいきませんからね」

 

「きゃっ。・・・・・・うん、そうだね」

 

 可愛い声で、しかも聞いた事もない愛らしい悲鳴をあげるものだから、おもわず俺も驚きの声をあげそうになる。陽乃さんは今頃になって俺と抱き合っていることを意識してしまったようだ。

 陽乃さんの体は普段感じている以上に小さくてか弱い。雪乃と一部の部分を除いては、けっして本人には言えないが、とても似ているはずだ。それなのに弱々しく震えているその体は、どうしても雪乃よりも小さく感じられた。

 悲鳴と共に俺から離れようとしたが、俺がきつく抱きしめている為に逃げることはできない。俺も意識しないようにしてはいるが、陽乃さんが意識するほどに俺のほうも益々意識してしまう。こんな陽乃さん、きっと陽乃さんを知っている人間全員、俺以外は信じやしないだろう。

 だって、かわいすぎる。

 きゅんってなって、おもわず抱きしめる力を強くしてしまっていた。

 

「少し痛いわ・・・」

 

「すみません」

 

「すみませんって謝っているわりには力を緩めてくれないのね」

 

「すみません」

 

「だから、口で謝ってるだけで体は離してくれないじゃない」

 

「あっ、すみま・・・、いえ、離します」

 

「もう・・・・・・、さてと、ここにいるわけにもいかないし、早く行きましょう」

 

 金縛りが解けた俺は地面に置いている荷物を拾い上げると、もう片方の手でしっかりと陽乃さんの手を握りしめ、陽乃さんを片手に家へと歩み出す。

 あまりにも手を握るのが自然の成り行きに思えて、手を握ってから自分の大胆さに気がついてしまう。急激に跳ね上がる鼓動は収まる事を知らずに加速を繰り返す。きっと手のひらは汗だくだろうが、そんなこと気にしている余裕すらなかった。

 とりあえず引き返すことができないところまで来た俺は、そっと視線を下げて雰囲気を壊さない程度に周囲を観察する。頭上から降り注ぐ街灯の光がほのかに陽乃さんの顔を映し出したが、頬を赤く染め上げ、ストーカーに見張られてる状況には不釣り合いなほどはにかんでいるのは、幻想だとは思えない。

 これが本当のデートならば、最高のデートの締めに繋がっていたとも思えるが、事実はその真逆である事がこの上なくシュールではある。けれど、俺の中でこみあげてくる想いは、自虐に満ちた笑いではなかった。

 

 

 

 

 

 家の中に入ると安心してしまい、どっと力が抜け落ちる。それにストーカーもさすがに家の中までは入ってくることはなかった。普段なら緊張感が増す一歩目なのに、こんなにも安心感がみなぎってくるとは意外すぎる。たしかに緊急事態なのだから当然なんだけど。

 肩や腰から力が抜け、手にぶら下がっていた荷物は滑るように床に難着陸し、俺達そのものはそのまま靴も脱がずに寝転がってしまう。気配は二人分しかない。そう思えるとようやく乾いた笑みがこみあげてくる。もう一つの息遣いが気になって顔を横を向けると、陽乃さんの顔が目の前に迫っていた。

 当然ながら陽乃さんも俺と同じように床に寝転がっている。こういう状況だと、見つめ合う二人が笑いだしたり、いい感じの雰囲気になってキスなんかしたりするんだろうけど、そんな甘い状態にはならなかった。

 ただ陽乃さんは俺を見つめたまま瞬きを数回して、じっと俺の顔を見つめている。真っ黒に澄んだその瞳は俺だけを見つめていて、その存在を排除さえしている気がした。

 しかし、その表情からは何を考えているかは読みとれない。俺の方もどう反応していいかわからず、ずっと陽乃さんを見つめていた。

 ・・・・・・これって、あれか? ほんとうにべたなシチュエーションってやつ、ではないよな。

 さて、どうしたものか。とりあえず状況確認だな。

 

「さすがに中までは侵入してきませんでしたね」

 

 よし、よくやった俺。声は裏返ってないはず。

 

「そうね。もしなにかアクションをみせるんだったら、今まで何もない方がふしぎじゃないかな」

 

「そうですか? でも今回は俺がいましたし」

 

「そっか。そうよね。一応恋人が一緒にいるってことになってたのよね」

 

「そうですよ。今思えばけっこうやばい状況だったんじゃないですか」

 

「そうかもね。でも、家の中まで来てくれてもよかったのに」

 

「怖い事言わないでくださいよ」

 

「だって、もし中まで来てくれたら契約してある警備会社の警備員がきてくれるじゃない」

 

「それでもやばいですって」

 

 そういや門のところに警備会社のシールが貼ってあったし、防犯カメラも設置されてるよな。

 

「どうして? だって捕まえてくれるのよ」

 

「はぁ・・・・・・。陽乃さん」

 

「なにかしら?」

 

「やっぱりまだ気が動転して冷静じゃないんですね」

 

「たしかに本調子ではないけど思考は鈍ってないわよ」

 

「いやいや、だいぶ思考力が低下してますって。だって、警報が作動しても警備員が来るまで何分かかると思っているんですか? しかもストーカーが一人だという保証はありませんよ。それに相手が武器を持っていたらどうするんです。武器を持っていたら、たとえ相手が一人でも俺一人では陽乃さんを守れません」

 

「・・・ごめん」

 

「いいんですよ。俺の方も今も緊張しまくっていて、まともに思考できない状況ですから。

さてと、外にいたストーカーに見覚えはありますか?」

 

「うぅ~ん。こっちを見つめていたのはわかったんだけど、顔までは」

 

 だだっ広い玄関ホールは、その天井も高く、声が天井で反響していく。クリスタルで作られた照明は温かな光を降り注ぎ、加速されていた俺達の時間をゆっくりとゆっくりと減速させていく。きらびらやかに、そして威厳もそなえた玄関は、玄関が本来持つ原始的な効能を発揮し、その堅くでかい玄関扉によって下界での脅威を排除してくれていた。

 

「そうですか。では、ストーカーではない可能性はどうですか? ただ人が来たから警戒したとか。ほら、住宅街って暗いですし、足跡が聞こえてくるだけでも警戒するじゃないですか」

 

「それはないと思うわ。ずっと私たちを観察していたし、あんな人目が付きにくい場所で隠れるようにしていたから」

 

「だとすれば、ストーカーの可能性が高いですね」

 

「そうね」

 

「他にもストーカーはいましたか?」

 

「それはわからなかったかな。視線に対して過敏になってたせいもあるけど、他にも視線を感じる程度しかわからなかったわ」

 

「それなら、とりあえず雪乃からの連絡を待ちましょうか。外にはストーカーが見張っているから、今日はもう外出はできませんよ」

 

「ええ、比企谷君もしばらくゆっくりしていってね。食事もまだでしょ」

 

「そう言われてみればお腹すきましたね」

 

「でしょ? 私もすっごく疲れてお腹すいちゃった。だから今日は、比企谷君の為に精一杯腕をふるって作ってあげるから、楽しみにしていてね」

 

「ありがとうございます」

 

 陽乃さんは俺の顔を見て満足気に頷くと、勢いよく立ちあがろうとする。・・・・・・が、失敗する。

 それもそのはず。俺と陽乃さんの手は、繋がれたままなのだから。今でも硬く結ばれた手は体温を交換して、人の温もりを提供しあっていた。

 だから、この手を離さなければ一人で立ち上がることは当然ながらできない。

 

「きゃっ」

 

 バランスを崩した陽乃さんは、俺の上に覆いかぶさるように落下する。軽い衝撃が走り、柔らかい感触が俺を満たす。

 きゃしゃな陽乃さん一人くらいは問題ない。目の前には先ほど以上に接近している陽乃さんの顔があった。その距離、数センチ。呼吸をする息遣いさえ聞こえてくるこの距離に、俺達は向かい合っていた。

 色々とまずい。

 もう映画だったら、このままキスしちゃえよって感じだけど、現実はそうもいかない。なにせ後のことを考えると非常に怖いから。

 

「ごめんなさい」

 

「大丈夫ですよ。陽乃さんの方は痛めたところとか、ありませんか」

 

「うん、大丈夫だと思う」

 

「そうですか」

 

「うん、そう」

 

「そっか」

 

「そうだよ」

 

「・・・・・・」

 

「ふふ・・・」

 

 この状況。どう収拾付ければいいんだよ。

 陽乃さんの方もこけたことがよっぽど恥ずかしかったのか、顔が真っ赤だ。耳まで赤く染め上げた陽乃さんは、これはこれで貴重な一場面ではあるが、悠長に楽しんでいるわけにもいかない。

 とにかくここから脱出せねばと、本能が囁く。

 

「とりあえずですね、俺の上からどいてくれると助かります」

 

「ごめんなさい」

 

 そういうと、今度は手を離したのを確認してから、俺から離れていく。

 

「でも、比企谷君。女の子に重いなんて言っちゃ駄目だよ」

 

「言ってないじゃないですか。どいてくださいとは言いましたけど」

 

「それは間接的には重いって言ってるのと同義だから」

 

「じゃあ、なんて言えばいいんですか?」

 

 おそらく俺の中の日本語では、そんな都合がいい言葉は存在しない。たとえあったとしても、陽乃さんから却下宣言されてしまうだろう。

 

「そこは男の子なんだから、黙って女の子がどくのを待つか、そっと女の子を抱きかかえて立つくらいの事をしないとね」

 

「それって、言う言葉がないのと同じじゃないですか」

 

「私は言葉があるとは一言も言ってないけど?」

 

「それはそうかもしれないですけど」

 

「ほら、男の子なんだから、細かいことは気にしない。それよりも、私が腕によりをかけて比企谷君の為だけに料理作ってあげるんだから楽しみにしていなさい」

 

 そう高らかに宣言すると、家の奥へと一人進んでいってしまった。俺も遅れまいと靴を脱ぐと、後に続く。

 おっとその前に靴を並べておかねば。やればできる子なのよ、俺。こういうところで雪乃のしつけがオートで発動してしまう。ま、小町あたりからすれば、うまく調教されたねって、にたにた喜ぶだけだろうけど。・・・・・・うん、八幡はよい子。

 そういえば陽乃さんって、誰かの為に料理したことないって言ってなかったか?

 そうなると、陽乃さんの初めての相手が俺になるってことだろうか。俺は陽乃さんの後姿を追いながら、陽乃さんが口にした言葉を再度再生させるのであった。

 

 

 

 

 

 おもりを体に貯め込んだ俺は、どっと椅子に腰を下ろした後はとくにやることもなく、陽乃さんが料理している姿を眺めていた。

 料理が趣味というだけあって、その手際はいい。華麗に舞い、的確に包丁でさばいていく。この前一緒に料理したけど、その時よりも断然テキパキと動いている。あの時は使い慣れた台所ではなかったし、なによりも俺に合わせてくれていたのかもしれない。自分のホームを存分になく発揮している姿に目を奪われる。

 そう考えると、陽乃さんの実力は俺の想像を遥か上をいく腕前なのかもしれなかった。

 

「そんなに熱心に見つめられちゃうと、照れちゃうんだけど」

 

 俺は自分の姿を指摘され、恥ずかしさのあまり急ぎ視線を外す。椅子を派手に鳴らさずにすんだのがせめてもの救いだった。

 

「すんません」

 

「別に見ていてもいいわよ。見られるのが嫌っていうわけでもないんだけど、そんなにも熱心に見られるとね・・・・・・。でも、見られるのも悪くはないか、な」

 

「そっすか」

 

 許可が下り、視線を戻すと、陽乃さんはすいすいと大根の皮をむいていた。

 

「今日買ってきた包丁ではないんですね」

 

 今使っている包丁はミゾノの包丁だろうか? 黒い柄の包丁は、買ってきたものでも、店で見ていたものとは明らかに違った。それにきれい保たれてはいるが、大切に使いこまれている雰囲気を纏っていた。

 そういえば実家の包丁はミゾノだって言ってたよな。

 

「ええ。使い慣れた包丁の方がいいかなって。だって、せっかく比企谷君の為に料理しているのに、初めて使う包丁使ったらうまくできないかもしれないでしょ」

 

「そんなものですかね。陽乃さんだったら100円の包丁でも性能以上に使いこなしてしまいそうですけどね」

 

「それは過大評価しすぎ。私だって道具に頼る部分もあるのよ。でも今日のは、気分の問題かもね」

 

 そう無邪気に笑いながら言うと、再び料理にへと没頭していった。

 陽乃さんくらいの腕があれば、今日買ってきた包丁であっても満足する出来になるはずだ。100円の包丁でもなく数万円もする包丁なのだから、そのポテンシャルは悪くはないどころかいいに決まっている。

 それでも使い慣れた包丁を使うあたりは、気分の問題かもしれないけれど、真剣に料理に向き合う姿は尊敬に値した。

 俺には人に誇れるような趣味はない。陽乃さんは人に自分の料理を誉めてもらいたいわけでもないだろうが、真摯にむきあえる趣味があることは羨ましくもある。俺は本をたくさん読むが、雪乃ほどではない。読書が趣味かと問われれば、それはどうかなと疑問に感じさえするだろう。

 そう考えると、俺には趣味なんてあるのだろうか? しかも最近では読書さえも大学の勉強に追われ、本を読む時間が減ってきている。俺も趣味といえるものを作るべきかなと、陽乃さんをまじまじと見つめながら物思いにふけっていると、携帯の電子音が俺を現実に引き戻した。

 

「もしもし」

 

「そちらは大丈夫だったかしら?」

 

 電子信号となった記号を澄んだ声に再変換させた心地よい声が俺の耳を震わせる。いつもよりも若干口調が堅いのは緊張しているからだろう。けれど雪乃は努めて冷静を装った口調を徹し、波打つ心を静まらそうとしていた。

 それに、きっと由比ヶ浜も気が気でなくて、雪乃の携帯に耳を傾けているに違いない。

 

「こっちは雪乃達のタクシーが行ったのを見届けた後、すぐに家に入ったよ。もしかしたら今も外にいるかもしれないけど、確認はできていない。家の中からだと見えない位置にいるみたいだからさ」

 

「そう」

 

 短く答える雪乃の返事であっても、緊張が解けていくのがよくわかる。きっと雪乃達もここに残りたかったに違いないだろう。

 

「そっちの方はどうだった? ストーカーは見つかったか?」

 

「馬場さんと千田さんに教えたレストランに行ってみたのだけれど、ストーカーらしき人物はいなかったわ。もちろん私たちにはわからなかった可能性は捨てきれないのだけれど、怪しい人物はいなかったと思うわ」

 

「そっか。だとすれば今後は安達さんを中心に探っていく方向で再調整していったほうがいいかもな」

 

「そうね。もともと判断材料が乏しいのだから、優先順位をはっきりさせて行動したほうが効率的でしょうね」

 

「俺はもう少しここに残るから、由比ヶ浜の事頼むな。雪乃もタクシーで帰って、家に着いたら電話してくれると助かる」

 

「ええ。家に着いたらちゃんと電話して、八幡の心配を取り除いてあげるわね」

 

「まあ、・・・・な。タクシーでマンションの前までいっても、エントランスまで多少は距離あるんだから、気をつけろよ」

 

「わかってるわ。本当に心配症ね」

 

「彼氏だからな」

 

「あっ・・・、そうまじめに返されてしまうと、反応に困るのだけれど」

 

「俺の方も素直に照れられると反応に困るっつ~か・・・・・・・」

 

「あなたが言いだしたのだから、責任とりなさい」

 

「責任つっても・・・・・・」

 

「まあいいわ。姉さんを頼むわね」

 

「ああ、わかった」

 

「それじゃあ、家に着いたら電話するわね」

 

 電話は終了し、通話時間が表示されていた画面も黒く画面が消えていく。感傷に浸ってしまいそうになると、頭上の方から嫌なプレッシャーが隠そうともせずに垂れ流される。

 ふっと顔をあげると、目の前には、その距離10センチの所で陽乃さんがニヤニヤと俺を見つめている。 

 これは関わってはいけない。なにか一言でもしゃべってしまっても餌食にされてしまう。俺はゆっくりと携帯に視線を戻し、特に用があるわけでもないのに携帯をいじりだす。そもそも雪乃はメールを送ってはこない。メールなんてうつ時間があるなら声を聞かせてくれといつも言っているほどだし。

 それでもしばらく要もなく携帯をいじってから陽乃さんの様子を盗み見たが、陽乃さんの姿は消えていた。どうやらすでに俺への関心は薄れたらしく、料理にいそしんでいる。だいぶ仕上がってきたみたいで、食欲を誘う香りが部屋を包み込んでいる。

 携帯を意味もなくいじるのも飽きた俺は、再び陽乃さんの料理姿に夢中になっていた。そんな俺の姿に気が付いた陽乃さんは、満足そうに一つ頷くと、料理をまた一品仕上げたのであった。

 そういえば、雪乃に家には両親がいないって言うの忘れたな。まあ、いっか。雪乃が家に着いたら電話するって約束してあるから、その時に伝えれば。

 俺はこのとき軽い気持ちで事を見ていたが、家に着いた雪乃に事情を説明したらとんでもなく激怒されたのは、また別のお話だ。雪乃が今すぐ実家に来るというのをなだめるのに、30分で済んだことは奇跡とも言えた。

 

「さ、食べましょう」

 

 テーブルに展開されている食事は純和食であった。

 イタリアとかフランスあたりの料理名さえ口が回らないような皿が出されると勝手に思いこんでいた。しかし、目の前にあるのは、ぶりの照り焼き、ホウレンソウの和え物、大根と鶏肉の煮物、ごま豆腐、豆腐の味噌汁、それと、煮豆や漬物などだ。

 派手な振る舞いの陽乃さんにしては、地味すぎるメニューともいえる。俺の意外だという気持ちも露骨に表情に出ていたらしく、陽乃さんはそれを指摘してくる。

 

「ちょっと美味しくなさそうかな・・・」

 

 若干不安そうな様子に、愛らしささえ感じてしまう。

 

「そんなことありませんよ。洋食かなって思っていたのが和食だったので、驚いていただけです」

 

「えっ、洋食がよかったの? だったら最初に言ってくれればよかったのに」

 

と、心底残念そうに呟くものだから、俺もフォローに奔走してしまう。

 

「いえいえ、違いますって。ただなんとなく、陽乃さんのイメージだと洋食を作るのかなって思っていただけです」

 

「そう? 私は洋食も和食も両方好きだけど、比企谷君は和食の方が好みかなって思っただけよ。だから、今日は和食作ったんだけど、洋食がよかったのなら、今度作ってあげるわね」

 

「あ、はい。ありがとうございます」

 

 俺のフォローも少しは効果があり、陽乃さんもほっと胸を撫でおろす。俺の方もほっと一息つけ、どうにか食事にたどりつけそうだった。

 

「うん。じゃあ、たべよっか」

 

「はい。いただきます」

 

「はい、召し上がれ」

 

 陽乃さんがしげしげと見つめる中、俺は箸を伸ばす。

 まずは、汁物からと。うん、美味い。次は、ブリと。・・・・・これも美味い。箸が止まらず、次々に箸を口に運ぶ。

 俺は料理研究家でもないし、ダシがどうのとかわからないけど、とにかく美味しかった。目立った特徴があるわけでもないが、基本がしっかりしていて、その基本の水準が高い分、すさまじく美味い。美味い、美味いと同じ感想しか出てこない自分が嘆かわしく思えてくるが、美味しいものを美味しいと言って何が悪い。

 雪乃の料理の腕も相当なものであったが、それは素人が店をやれると思えるレベルだ。陽乃さんに関しては、プロの料理人としてやっても、繁盛店を生み出せるんじゃないかと思えるレベルであった。

 さすがは料理が趣味というだけの事はある。料理に夢中になる中、視線を感じ顔を上げると、心配そうに見つめる陽乃さんがいた。

 

「どう・・・・かな?」

 

 まずい、忘れていた。せっかくもてなしてくれているのに、なにも感想も言わないとは失礼すぎる。早くなにか気がきいた感想を言わないと・・・・・・。

 

「美味いです。すっごく美味くて、料理の感想言うの忘れていました。すみません、心配させてしまって」

 

 ああ、なにやってんだか。やはり語彙が貧弱な俺って、美味いしか言えないのね。

 それでも俺の気持ちは伝わったらしく、陽乃さんはほんわかと柔らかい頬笑みを浮かべ、自分もようやく箸を取り、食事を始めた。

 

 

 

 

 

 食事を終えた俺達は二人で洗い物を済ませた。料理中も使わなくなった鍋類を順次洗っていたので、あっという間に荒いものはなくなる。そうなるとやることもなくなり、少し気まずい。

 ときたま外の様子を伺うが、何も手掛かりが見つかるわけもなく手持無沙汰に陥る。

 今日はデートっつーことで本も持ってきてないし、どうするかな。一人本を読んで陽乃さんをほったらかしというのも気まずいし、悩むところだ。

 

「ねえ、比企谷君」

 

「はい、なんでしょう」

 

 陽乃さんから何か話題を振ってくれるのは、ありがたい。この波のらせてもらいます。

 

「まだ両親が帰ってくるまで時間あるし、私汗かいちゃったから、さっぱりしたいのよね。だから、お風呂に入ってもいいかな」

 

「ああ、いいですよ。俺はここで外の様子を見張っていますから」

 

「それなんだけど、悪いけど、バスルームの側で待っててくれないかな?」

 

「はい?」

 

 なにを言ってるか、八幡、わからないなぁ。あれ? 日本語が少し、変?

 

「ほら、外にはストーカーいるみたいだし、ちょっと怖いでしょ。だから、声が届く範囲にいてくれると、助かるかなぁって」

 

「それくらいなら・・・・・・・・」

 

 このビッグウェーブのれませんでした。のったと思ったら転倒して、溺れそうです。

 やばいっしょ、この状況。もし両親が早く帰ってでもしたら、言い訳できない気も。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

「はい」

 

 俺は反論できるわけもなく、陽乃さんの後をついていくことしかできなかった。まあ、結論を言うと、何もなかった。湯上りの陽乃さんが妙に艶っぽくて心臓が跳ね上がったけど、それくらいは想定内だ。

 なにもないことは当たり前だし、何かある方が異常だ。

 

「ねえ、比企谷君もお風呂入っていく?」

 

「いや、俺はいいですよ。もうすぐご両親も帰ってくるはずですし」

 

「そう?」

 

 そう短くつぶやくと、俺が座っているソファーに割り込んでくる。湯上りでほんのり上気したその肌が俺に押し付けられ、先ほどまで纏っていた服以上に薄い生地がその本来の素肌をよりはっきりと連想させてしまう。

 

「ねえ、雪乃ちゃんと二人でいるときって、なにしてるの?」

 

 近いですって。しかも、パジャマではないようだけど、薄着すぎます。そりゃあお風呂入ったわけだから、こてこてに着込む必要もないけど、俺がいることも少しは念頭にいれてくださいよ。

 

「なにしてるかって聞かれましても、たいていは勉強していますよ」

 

「勉強以外では?」

 

「本読んでます」

 

「他には?」

 

「一緒に掃除したり、料理したりとかですかね。あとはロードバイクにのって気分転換に体を動かす程度ですかね。」

 

 思い返してみると、大したことやってないな。それで満足しちゃってる俺も俺だけど、今度雪乃にも聞いてみるかな。

 

「他は?」

 

「それくらいですかね。あとは食材買いに行ったり、本を見に行ったりかな」

 

「ふぅ~ん」

 

 既に関心は薄れたのか、今度は俺の腕にちょっかいをかけてきた。薄い布地がほぼダイレクトに陽乃さんの感触を伝えてくる。雪乃とは違う甘い感触に、酔い潰れそうになってしまう。

 シャンプーが違うのかなと、どうしようないことを考えるが、意識をそらすには効果が薄すぎた。ここは強く出て追い払おうとも思いもしたが、バスルームの側に俺を置いておくことを考慮すると、やはり陽乃さんであってもストーカーに恐怖心を抱いているのだろう。

 それをむげに追い払っては、なんのためのボディーガードだ。なるべく意識を外へ向けて、部屋を見回していると、時計の針が10時を指していた。

 

「もうすぐ帰ってきますね。だったら、俺はそろそろ帰りますよ。お義父さんは問題ないと思いますけど、お義母さんは俺がいると嫌がりそうですから」

 

 なるべくなら、俺も女帝にはお会いしたくない。きっと汚物を見る目で見下してくるだろうし、風呂上がりの陽乃さんを見て誤解されたくもない。

 俺はソファから立ちあがろうとするが、ふいに背中を引っ張られ、ソファーへと引き戻されてしまった。

 

「陽乃さん?」

 

 そこには俺の服を掴む陽乃さんがいた。しっかりと布地を握りしめ、その手はほんのりと赤く染め上がってもいる。そして目元にはうっすらと涙を浮かべ、心細そうに唇を震わせていた。

 

「えっと・・・、ご両親が帰ってくるまで帰らない方がいいですかね?」

 

 陽乃さんは返事の代りにこくんと深く頷くと、そのまま頭を俺の胸に押し付けてくる。

 ぐりぐりと何度も押し付けられはしたが、いやらしい気持ちは沸き上がらなかった。頭を撫でてあげると、さらに強く頭を押し付けてくるものだから、なんだか可愛らしく思えて、さらに強く撫でてしまう。

 何度も繰り返されるいたちごっこにしびれを切らしたのは陽乃さんのほうで・・・・・・。

 

「もうっ! せっかくブローしたのに、髪ぐちゃぐちゃじゃない」

 

 髪を手ぐしで整えながら不平の訴えてくるが、特段怒ってるわけでもないようだ。むしろ甘えているといってもよかった。あの雪ノ下陽乃に甘えられているという、意外すぎる衝撃もあったが、俺の心を満たしていたのは、この人を守りたい。

 その決意が大半を占めていた。

 

 

 

 

 

 

 

6月26日 火曜日

 

 

 

 日曜日のストーカー騒動のとき、陽乃さんの両親が帰ってきたのは11時近かった。予定よりも遅い帰宅ではあったが、陽乃さん曰くいつも通りらしい。仕事がある事を伝えるのが目的であって、その仕事がどのくらいの時間がかかるかなど問題にはならない。つまりは、日曜日に仕事であると伝えられたら、それは月曜日の朝ならば会う事が可能であると伝えられるのと同義であった。

 一方で、こまめに自分の予定を伝えるべく訓練を受けている、調教ではけっしてない、俺は、雪乃に遅くなるむねを再度伝えたので問題はない。雪乃も陽乃さんのことを心配しており、帰宅時間が遅くなる事を咎める事はなかった。

 俺としては帰りが遅くなるよりも、むしろ深夜遅くまで俺がいることに女帝がどう反応するかの方を気に病んだが、結果は俺の杞憂に終わった。なにせ勢いよく玄関の扉を開けて陽乃さんの名を呼びかけたときの女帝は、まさしく母親の顔であり、陽乃さんを守っていた俺に悪態などつく余裕など持ち合わせてはいなかった。

 そして悪態どころかむしろ感謝しまくりで、今日は泊まっていけとまで言う始末だった。俺としては幻を見ている気分である。また、本当にいっときの幻であり、翌朝になったら不機嫌な女帝と対面するんではないかというろくでもない妄想までしてしまう。人の感謝に対して酷い想像だが、今までの恐怖も考慮してほしいとお願いしたところだ。

 ただ、宿泊に関しては、雪乃を一人にすることはできないと丁重にお断りした。それでもタクシー代は受け取ってほしいと言われ、これは断ることもできず、心の中で二日連続のデートでお金ないし、夜も遅いしと律儀に言い訳をしながら受け取ることにした。

 女帝のすぐ後に帰ってきた親父さんも、自分が自由に動けない身であることを謝罪され、娘をよろしく頼むと頭を下げられてしまう。頼まれるまでもなく守ってあげたいと思ってはいたが、素直に自分にできる限りの事はしますと伝えるだけで済ませた。

 そしてストーカー騒動から一夜明けた月曜の朝。陽乃さんを車で迎えに行ったが、俺も雪乃も、そして、陽乃さんも平素を装いはしていても表情は終日堅かった。それは、さらに一日たった火曜日であっても同じである。

 しかし、それでも日常は止まらない。俺達の事情なんて関係なしに時間は進んでいく。今日も朝から英語の勉強会があり、俺を頼ってきてくれる奴らの為に精一杯の講義をしなければならなかった。

 

「じゃあ、時間も来たことだし、今日はここまでな。明日の英語の授業もこの調子で頑張ってくれよ。では、解散」

 

 勉強会の終わりを宣言すると、みんな思い思いに席から離れて行く。一応個別質問の時間も考慮して終わらせているので、数人は今も教室に残っていた。

 その生徒たちの対応も終わり、由比ヶ浜を探すと、女子生徒達との話に盛り上がっている。そろそろ授業の時間だし、由比ヶ浜のおしゃべりタイムを終わらせて教室に向かうとするかと考え、由比ヶ浜に近づく。

 すると、どういうわけか由比ヶ浜は眉間にしわを寄せて、下級生達の話を聞いていた。

 もしや喧嘩か? そう危惧すると、進む足も自然と速くなる。

 

「どうしたんだよ、おっかない顔をして」

 

 俺の声に反応し、由比ヶ浜と女子生徒二人が振り返る。由比ヶ浜はやはり怒っているような感じであるが、他の二人の女子生徒はむしろ困り果てて弱っているような表情を浮かべていた。

 

「ヒッキー、やっぱり陽乃さんに付きまとってるストーカーの噂は、大学でも広がってるみたいだよ」

 

「そうなのか?」

 

 俺が女子生徒の方に確認を取ると、二人とも「うんうん」と首を縦に振る。

 なるほど。由比ヶ浜は二人からストーカーの話を聞いて怒っていたわけか。でも、お前は既に知ってるだろ。しかも、日曜日にニアミスしているわけだし、いまさら怒るのもどうかと思うぞ。たしかに他人から現実を告げられるのは自分で理解しているよりも辛いけどよ。

 

「比企谷さんって、2年の雪ノ下雪乃さんの彼氏さんですよね?」

 

 えっと、名前なんだっけ? 茶色に染めた活発そうなショートボブを揺らし、ネコを彷彿させる瞳は期待に満ち溢れている。そのネコっぽい雰囲気に、綺麗にとかされた髪をわしゃっと撫でまわしたくなったことは心のうちにしまっておこう。これも雪乃のネコ好きの影響かね。

 ただ、勉強会の時の質問も、今の半分くらいのやる気をもってほしいなんて思ってないからねっ。でも、女って恋愛関係だと目の色が違うな。

 まあ、今は名前がわからない事をどうにかしないといけないか。やっぱ失礼にあたるし、勉強会の士気にも影響するわけだが、どうしても頭文字すら出てこねねぇ。とりあえず話を合わせておくべきか。

 

「ああ、そうだ」

 

 俺達が付き合ってることは有名だし、隠すことはなにもない。隠したほうが不自然だしな。

 

「ね、楓ちゃん。言った通りでしょ」

 

 おっ、楓って名前なのか。純日本っぽい名前なのに、見た目はふわふわっとした印象で笑顔が似合ういまどきの女子大生ってところか。

 

「うん葵の言う通りだったね。でも比企谷さんって、あの雪ノ下先輩とつきあってるだなんて、実はすごい人だったんですね」

 

「その言い方は比企谷さんに失礼だよ」

 

「ごめんなさい」

 

 楓に葵って、純和風コンビだったのね。しかも、最初に質問してきた楓がアクセルで、それとたしなめた葵の方がブレーキ役か。でも、この葵って子も、楓と同じく純和風って感じではないんだよな。当然のように髪は茶に染めて、セミロングの髪はくるくるっと毛先にかけて大きなウェーブを作り上げている。

 二人とも愛らしい顔立ちなのでその髪型が似合っているから別にいいか。

 まあ、いい。由比ヶ浜が二人増えたと考えておけば問題ないだろ。

 

「俺がすごいかどうかはわからないけど、雪乃はある意味すごいかもな」

 

 俺が雪乃と言ったせいで、それだけでも二人は何やらきゃっきゃっと盛り上がりながら飛び跳ねてやがる。その熱い視線と鬱陶しい所熱に引き気味になりそうだが、とりあえず今回だけは耐えられそうだ。これで由比ヶ浜まで加わったら逃げ出すだろうが。

 まあ、俺がすごいんじゃなくて雪乃がすごいから俺の方も有名になってしまったわけで俺はいたって平凡なんだよ。

 勝手に一通り盛り上がって、勝手にクールダウンしたのか、二人は恐る恐る俺を観察しながら言葉を選ぶ。

 

「あの・・・・・・、今、雪ノ下先輩姉妹って、ストーカー被害にあっているんですよね」

 

 由比ヶ浜が肯定しちゃってるし、噂もしっているわけで、ここは肯定するしかないか。否定しても、あまりいい選択だとは思えないけど。

 

「あぁ、そうだ。だから、二人が何か困ってる場面に遭遇したら、俺に連絡してくれると助かる。だけど、お前ら二人が首を突っ込むことはないからな。ストーカーに逆切れされたりなんかしたら危ないし」

 

「はい、何かありましたら、すぐに連絡します。それに、なにか困ったことがあったら、いつでも言ってください」

 

 だから、その元気過ぎる返事が心配なんだって。ここはブレーキ役の葵が止める場面でしょ。

 

「それはありがたい申し出だけど、女の子には危ないからさ」

 

「大丈夫です。一人で行動なんてしませんから」

 

 おいおい。ブレーキ役がアクセル踏んでどうする。

 

「そうですよ。ストーカーなんて、女の敵です」

 

 二人とも興奮気味に詰め寄ってくるものだから、俺の方がうろたえてしまう。

 おい由比ヶ浜。黙って見てるだけならちょっとは助けろよ。

 俺の隣にぽかんと口を開けて突っ立てる由比ヶ浜は、ぼけぼけっとしているだけで役に立たないでいた。

 

「そうはいってもな。ストーカーは思ってる以上に危険なんだよ」

 

「わかってますって。私の友達にもストーカー被害にあってた子がいたんですよ。そのストーカーは危ないストーカーになる前に話し合いで片付いてよかったんですけど、あんな奴ら、頭に乗せる前にやっつけておかないといけないんです」

 

「それに、私達だけがお手伝いするわけではありませんから、比企谷さんが思っているよりも安全だと思いますよ」

 

「え?」

 

「Dクラスのみんなに相談しましたら、みなさん手伝いたいって言ってましたから。だからDクラス一同全員比企谷さんの味方なんですよ。ストーカーの噂聞いて、なにかできないかなって皆で話し合っていたんです。それに、口ではいろいろと比企谷さんのことよりも結衣さんのことを持ちあげていますが、本心としては大変感謝しているんです」

 

「それはありがたいことだけど、勉強に関してはきっかけを作ったにすぎない。でも、手伝ってくれるのは助かる」

 

「はい、ですから、なにかあったら何でも言ってください。大学内はもちろん大学の外でも目を光らせるようにしておきますから」

 

「本当にありがとうな」

 

 俺は深々と頭をさげ、その俺の姿を見て、由比ヶ浜までもが頭を下げた。

 こんなに嬉しいことなんてない。たしかにこいつらが英語のテストの点が上がったときは嬉しかったけど、それは俺の力ではないと確信している。もともとこいつらが持っていた実力が発揮できるようにちょっと背中を押したに過ぎない。

 でも、その背中を押した行為に対して、こんなにも親身になってお返しをしてくれるとは思いもできないでいた

 

「ありがとね、二人とも。でも、本当に危ないから気をつけてよね」

 

「はい!」

 

「わかってます」

 

 由比ヶ浜は既にDクラス全員とメアドの交換をしていたらしく、俺に全員分のアドレスを伝えてくる。どうやら既に全員から俺にアドレスを渡すことは了承されているみたいだ。これでいつでも連絡できるわけだが、寂しかった俺のアドレス帳に一気に十数人分のデータが書き加えられるとはなんか感慨深く感じてしまう。

 ちょっと見慣れない量のアドレスの数に、小町なんかが見たら驚くだろうなとほくそ笑む。

 携帯画面に夢中になっていると、今日に生温かい視線を三つ感じてしまったので、俺は慌てて姿勢を正し、いたって冷静なふりをする。

 

「そうだ。二人が聞いた噂って、どこから流れてきかわかるか? 俺達のところにはまだ噂が流れて来てないからさ」

 

「うん。私も初めて聞いたな。ヒッキー、あたしもあとで友達に聞いてみるね」

 

「ああ、頼む」

 

「私たちは経済学部なんですけど、1年の経済学部の方にはまだ噂は流れてきてはないんですよ。私たちもこの勉強会で初めて聞いたものだし」

 

「うん、私も噂を教えてもらって驚いちゃったな」

 

「じゃあ、Dクラスでは誰が噂を持ちこんだんだ?」

 

「えっとぉ、工学部の湯川さんだったよね」

 

「うん、そうだったね。工学部では結構有名な噂らしいです」

 

 となると、やはり陽乃さんも雪乃も工学部ってことだから、噂が出てくるのも工学部であってるってことか。いやまて。思いこみは駄目だ。先入観は事態を悪化させる。ここは慎重に行くべきか。

 

「それって大学院から? それとも大学?」

 

「湯川さんの話によれば、大学の2年生からきた噂ですよ。一学年上の先輩ともあって、3年や4年の先輩がたよりも話をしやすいですからね」

 

 二年の工学部って、・・・おい、雪乃。お前んとこから噂出てるんじゃないか。いくら人づきあいが薄いといっても、自分の噂くらい気にしておけって。まあ、あいつは自分がどういわれているなんて気にしないだろうけどさ。

 

「大学院のほうはどうだ? 大学院のほうも騒いでないか?」

 

「どうでしょうね? 私達は比企谷さんと同じ経済学部ですし、そもそも工学部の大学院生との繋がりなんてありませんよ。それは経済学部の院生であっても同じことです」

 

「そっか。悪かったな」

 

「でも、湯川さんに今度聞いておきますね。そうだ。湯川さんのメアドも知ってるのですから、直接聞いてみてはどうですか?」

 

 この葵嬢。名前とは裏腹に見かけ通りになんとも高いハードルを要求なさる。勉強会で顔を合わせているはずだけど、湯川なんて名前は記憶の片隅にしかない。たぶん顔を見ればわかるだろうが、そんな相手に俺がメール? ありえないだろ。

 

「うん、わかった。あとであたしのほうからメールしてみるね」

 

 お、ナイス由比ヶ浜。さすが俺のぼっち度をわかってらっしゃる。

俺達は、そろそろ朝の講義が始まるので、手短に別れのあいさつをすると

各々の教室へと向かった。

 

「なあ由比ヶ浜」

 

「ん、なに?」

 

 小首を傾げて振りかえる由比ヶ浜に、俺は目をそらし、頭をかきながら尋ねることにした。ま、知らない事に罪はない。ただ知らないままにしておくことが罪なんだ、と一応言い訳だけはしていたが。

 

「さっきの湯川さんって、どんなやつ?」

 

「あれ? ヒッキー、湯川さん知らないの? ・・・・・・って、ヒッキー、それは湯川さんに酷いんじゃないかな」

 

 あれ? あの由比ヶ浜さんが頬を膨らませて怒ってらっしゃる。経験上ここは素直に謝るのが手っ取り早いな。となれば、素直に謝るに限る。

 

「すまん。ほんとうにわからん」

 

「ほんとに?」

 

 あれ? その驚きよう覚えていないといけないほどの重要人物? いくら頭をひねろうが出てこないんだけど、これって由比ヶ浜のおつむぐらいヤバイ状況だな。

 

「すまん」

 

「はぁ・・・、だからね、いつもプリントとか集めたり配布したりとかで手伝ってくれているじゃん。しかも座っている席も一番前だから、ヒッキーの目の前にいるんだよ。それなのに覚えてない?」

 

 ん? んん~・・・。あっ、あのメガネの。

 

「ようやく思いだしたみたいだね」

 

「まあな」

 

 たしか由比ヶ浜に連れられてDクラスに行った時、委員長みたいに挨拶やらプリントなんかを集めていた真面目そうに見える女子生徒だ。ただそれだけだったら顔までは覚えている自信がない。俺が覚えていられていたのは、その印象的な目のおかげであった。

 薄茶色い色素の瞳は、儚げな顔立ちによく似合っており、目の色さえ黒ならば日本人形のように整っている顔立ちであった。一応髪型も背中のあたりでばっさりと切りそろえられているのも日本人形っぽかったし。ただ、こうまでして俺に目の印象を覚えさせているのは瞳の色だけでなく、楕円のメガネの奥に隠されている幅広の二重まぶただろう。日本人でよくある奥二重ではなく、外国人でよくみかける、あの派手な二重だ。その派手な瞳と日本人らしい顔立ちのミスマッチがどうも俺の脳に書きこまれていたらしい。

 そして昼食時、由比ヶ浜が派手で地味な湯川さんに連絡し、なおかつ陽乃さんにも確認したのだが、大学院の方ではまったく噂にはなってはいなかった。さすがに陽乃さんの友人関係は噂ではなく事実を知ってはいたが、噂そのものは聞いた事もないとのこと。

 どういうことだ?

 ストーカーを受けている陽乃さんがいる大学院で噂にもならず、ストーカー被害をまだ受けていない雪乃がいる工学部2年から噂が流れてくるなんて。

 奇妙すぎる現象に、俺は首を捻ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

6月28日 木曜日

 

 

 

 いいこともあれば、あまり良くないこともあるのが日常である。その二つの事象をうまくバランスを取って生活していかねばならないけど、それでも望む結果が得られないことにはいらだちを募らせてしまう。

 

「英語の補習講義。みんなの成績が順調に上がっているみたいでよかったわね」

 

「うん。テストを受けている本人達が一番驚いてるんだから、すごいよね」

 

 雪乃の誉め言葉を言葉の意味通りに受け取る由比ヶ浜は、我が事のように喜びを隠せないでいた。一方捻くれ代表の俺はと言うと、斜め横からしか言葉を受け取れないでいたが。

 

「あれは、元からあいつらに学力があったんだよ。そのあたりが由比ヶ浜とは違うんだしな」

 

「その言われよう、なんだか釈然としないんだけど」

 

「はぁ・・・、八幡ももう少しオブラードに包んだ言い方を学んだ方がいいわね。たとえそれが事実だとしても、言いようによっては受け取り手の印象も変わるものよ」

 

「気をつけるよ」

 

「なんかだか、ゆきのんの方もきつくない?」

 

「そうかしら? 私は事実を言っただけよ」

 

「お前も大概だな」

 

 首を傾げてわかりませんって顔をしても、実はわかってるんだろ。たしかにオブラードに包んだ発言はしているが、毒が漏れ出ていてはオブラードも形無しだな。

 

「ま、いっか。でも、ヒッキーが教えた物々交換で英語の全訳使ってトレードして、他の授業のレポートとかも充実してきたって、みんな喜んでるよ。なんか勉強会始めた時とは全然違って、皆生き生きしてるし」

 

「俺が教えなくてもサークルやってる連中からレポートなんかはまわってくるから、定期試験間際になったら嫌でも自分たちで集めるようになったと思うぞ」

 

「ヒッキーは謙遜しなくたっていいんだよ。もしかしたらヒッキーの言う通りかもしれないけど、でも、それは試験間際でしょ。それだと普段の授業では役に立たないし、試験間際だと忙しくて十分な試験対策もできないままだったかもしれないじゃん」

 

「まあ、どうなってたかなんて、その時にならないとわからないけどな・・・・」

 

「素直じゃないんだから」

 

 英語勉強会の進捗状況を報告し合うのならば、それは微笑ましい場面だったであろう。Dクラスの連中も、英語だけでなく、他の教科の方も本来の学力に見合う成果を取り戻しつつある。繰り返すようだが、俺はちょっと奴らの背中を押しただけだ。

 しかし、世の中には思い通りに事が進まないことが山ほどある。現に、うかない顔をしたまま俺達を見つめる陽乃さんがその筆頭であろう。

 

「ところで陽乃さん。安達さんの方はなにか動きありましたか?」

 

「ううん、なにも」

 

「今週は安達さんに絞って情報を流して放課後デートとかしてみましたけど、特段めぼしい動きは出てこないし、ネットの方も同様。まったくストーカーの足取りが掴めないのは痛いですよね」

 

「そうなのよねぇ・・・・・・・。だれか一人くらい見覚えがあるストーカーがいれば、そこから探りを入れられるんだけど」

 

「姉さんがストーカーだと思わないだけで、実はストーカーだったという事はないかしら」

 

「それもあるかもしれないけど、その線から調べるのはさすがに難しいわ」

 

 たしかに、意外な人物がストーカーでしたっていう事はあるかもしれない。だけど、その可能性を潰すとなると、全ての人間が捜査対象になってしまって収拾がつかないどころか、疑心暗鬼に陥って、日常生活さえもままならなくなるだろう。

 要は、マンパワーが足りないのが根本たる敗因だ。

 情報操作してストーカーを釣りだしたとしても、人が大勢いる街中から奴らを探し出すだなんて、俺達4人でこなすには明らかに人手不足であった。

 

「やっぱ、人手が足りないな」

 

「そうね。でも、今は信頼できる人手を確保する為に、姉さんの友達から潔白を証明しているんじゃない。だから、今の状況をのりきれば・・・・・」

 

 雪乃の言い分は、正論だ。潔癖すぎるほどの正論である。

 だけど、ほんとうに彼らの潔白を証明できるのだろうか?

 今相手をしているストーカーは、手掛かりを得ることさえできない難敵である。陽乃さんでさえ手が出ないよな相手をしてるのに、俺らが勝手に潔白を証明してもいいのだろうか。ただ、これを言いだしてしまうと、先ほどの疑心暗鬼ではないけど、先には進めなくなる。どこかしらで妥協点を決めて仲間を募るしかなかった。

 

「だったら、Dクラスのみんなに応援頼もうよ。だって、みんな手伝いたいって言ってくれてるんだよ」

 

「それはありがたいことだけれど・・・・・・」

 

 そろそろ限界かもな。雪乃だって人手が足りないのをわかっている。由比ヶ浜の提案も、できることなら受け入れたいはずだ。

 完璧な潔白じゃなくても、とりあえずの安心材料さえあれば、きっと雪乃は由比ヶ浜の提案に乗ってくれるはずである。

 

「あの、陽乃さん。今回のストーカー被害って、3月からでしたよね」

 

「そうねえ・・・・・・。たぶん3月上旬だったかしら。もうちょっと前から視線くらいは感じていたと思うけど。それと、友達に頼んでストーカーを探し出したのは3月下旬だったわ」

 

「そうですか・・・・・・・」

 

「それを今再確認して、どうするつもりかしら」

 

「妥協点の線引きですよ」

 

「妥協点?」

 

 この言葉だけで理解できるやつなんて限られてる。ただ、ここにはその特異な才能を持つ人物が二人もそろっているから、ここでは由比ヶ浜が例外人物に数えられちまうのは仕方がなかった。

 

「比企谷君はDクラスのみんなに手伝ってもらおうって言ってるのよ」

 

「だったら、最初からそう言えばいいじゃん」

 

「これから言うつもりだったんだよ。Dクラスの奴らが入学してくる前からストーカー被害があったのだから、一応Dクラスの中にストーカーがいる可能性は低いと考えたんだ。なにせ大学に入学する前だから、陽乃さんとの接点が限りなく少なくなるからな」

 

「でも、危険が伴うことだから、安易に助けてもらうのもどうかとは思うわ」

 

「絶対安全ってわけでもないから、その辺の判断は各自の判断に任せるしかないけど、俺達にできることは、行動指針作って、なるべく危険にさらされないようにブレーキかけるくらいだろうな」

 

「ゆきのん、行動・・・指針?・・・・作ってくれるよね?」

 

 由比ヶ浜は目をうるうるさせながら雪乃の両手を掴み、迫り寄る。

 これで勝負あっただな。雪乃は由比ヶ浜に弱いし、断れないだろう。

 

「作る必要はないわ」

 

「ゆきのん?」

 

 由比ヶ浜ほどではないが、雪乃の意外な解答に面食らう。

 だって、由比ヶ浜の頼みだし、それに、雪乃もそろそろ人的面での限界はわかってるはずだ。

 

「雪乃ちゃんって、比企谷君の影響受けまくってるわね」

 

 声の主の真意を探るべく視線を向けると、陽乃さんは面白そうににやついていた。そしてそれを雪乃は嫌そうな顔をして見返している。

 

「姉さんほど意地が悪いわけではないわ」

 

「そう?」

 

 由比ヶ浜は一人おいてけぼりを喰らい、二人の顔を何度も往復する。

 陽乃さんの横やりで、俺の方はなんとなぁくだけど状況を把握できるようになったが、雪乃も意地が悪い。俺の影響だって言うけれど、Dクラスの奴らじゃないけど、これも元々雪乃が隠し持ってた性格の一つ・・・・・・だと思います・・・、って、睨むなよ。

 

「ねえ、ヒッキーどういうこと?」

 

 俺のそでを引っ張り、由比ヶ浜は説明を求めてくる。雪乃も陽乃さんも説明してくれないから、俺の方に来たか。

 

「雪乃は、いずれはDクラスの奴らとかに頼むことになるだろうと思って、あらかじめ行動指針を作っていたんだよ。だから作る必要がないって言ったんだ」

 

「えぇ・・・・・。だったら初めからそういえばいいじゃん。やっぱ、ゆきのん。ヒッキーと暮らすようになって意地悪になったんだよ」

 

「俺のせいじゃないって」

 

「絶対、ぜぇ~ったい、ヒッキーの影響だよ」

 

「由比ヶ浜さん。私は意地悪になった覚えはないのだけれど。むしろ、由比ヶ浜さんが私の話を最後まできかなかったことが原因だと思うわ」

 

「まだそんなこというかなぁ・・・。うん。やっぱゆきのんはヒッキー2号だ」

 

「それはやめろ」

 

「私も怒ることがあるのよ」

 

「えぇ~。かっこよくない?」

 

「そのセンス、改めたほうがいいわよ」

 

「はい、は~いっ。じゃあ、じゃあ、私が2号さんになるね」

 

「姉さん・・・・・・・・」

 

 陽乃さんがいう2号さんは、意味深すぎて危ないだろ。

 雪乃も陽乃さんの発言に反応して、睨みつけている。その陽乃さんの方は素知らぬ顔をして、由比ヶ浜の相手を始めてしまう。

 俺は危なすぎる姉妹対決を横目に、深いため息をつく。でも、心地よいため息に、心が少しばかり軽くなっていくのを感じ取ることができた。重たい空気だったはずなのに、いつの間にやら明るい兆しが覗き始めたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

6月31日 日曜日

 

 

 

 俺と陽乃さんは今、ストーカーのうちの一人の自宅前に来ていた。

 事の次第を簡単に説明すると、Dクラスの奴らは全員快く引き受けてくれた。そのかいもあり、昨日俺と陽乃さんがデートをして、ストーカーをおびき寄せたのだが、驚くことに3人もストーカーらしき人物を見つけ出し、顔写真まで隠し撮りしてくれた。

 他にも数人怪しい人物がいたらしいが、こちらの方は写真は撮れてはいない。もしかしたら、顔写真取れた奴らも怪しいだけでストーカーではないかもしれないが、一人だけは限りなく黒に近い人物が紛れ込んでいた。

 そいつの名は、石川。以前陽乃さんにストーカー行為をしていた奴で、陽乃さんとの楽しい話し合いによってストーキングをやめることになった。陽乃さん曰く、小心者で、二度とストーカーなんかやらないはず、とのこと。

 だから、石川が再びストーカーになったことに陽乃さんは大変不審がっていた。陽乃さんの迫力にその場だけは反省した態度をした可能性もあるけど、雪乃の心をえぐるような精神攻撃を受けた経験がたくさんある俺としては、やはり陽乃さんの意見に賛成で、どうして石川が再びストーキングを再開したのか謎に思えてしまっていた。まあ、これもこれから本人に直接聞けばわかるってものだ。

 そういや、どうしてストーカー達は陽乃さんに接触してこないのだろうか?

 ストーカーに詳しいわけではないが、見てるだけで満足なのだろうか?

 ネットに情報上げている時点で危ない連中だけど、例の噂の出所が大学の2年といい、謎が多すぎる。

 陽乃さんは以前楽しい話し合いをしたときに手に入れた石川の住所を確認し、インターフォンを押す。モダンなアパートの2階に一人で住んでいる大学生らしい。俺達が通う大学の近くにある私立大に通っているので、もしかしたら偶然陽乃さんを見つけてストーカー心を再燃でもしたかもしれない。

 やはりそれも本人から事情を聞けば解決するか。

 外から様子を伺ったが、石川は部屋にいるはずだ。TVがついていたし、人がいる様子も伺える。俺はもしもの為の逃走経路や、隠れて様子を見守っている雪乃達を確認をしていると

部屋の扉が開き、TVの音が漏れ出てくる。

 そして、不機嫌そうな顔を作る石川が顔を見せた。しかし、俺の事も知っているみたいで、俺を見るや否や扉を勢いよく締めようとする。

 

「あら? わざわざ私が会いに来てあげたのに、残念なことするのね」

 

 扉が閉まろうとする勢いも気にもせずに扉をがしっと止めた陽乃さんは、扉の陰から底意地が悪い死神のような顔を石川に見せつける。

 陽乃さん・・・・・・・。その登場の仕方って、悪役ですから。しかも、その顔。悪魔そのものです。

 俺はこのあと行われるはずの楽しい話し合いが早く終わることを祈った。

 だって、俺に対してではないけど、すぐ横でずたぼろにされていくだろう石川を見ているのだって、俺の精神を抉っていくだろ?

 目の前にいたはずの石川は、陽乃さんの顔を見るやその姿は忽然と消えうせる。

 そして、どこに行ったかというと俺達の足元にで膝を抱えてうずくまっていた。小さく丸まった背中は見かけ以上に小さく見せ、激しく震える体はその震えの原因たる人物を想像できるだけに同情さえしてしまいそうだ。

 

「ちょ、ちょっと顔をあげてよ」

 

「すみませんっ」

 

 陽乃さんの声にびくりと大きく体を震わせると、地面にすりつけていた額をこすりつけながら肩を上下に揺さぶらせる。

 いや、まあ、陽乃さん、どんだけトラウマ植え付けたんだよと、もうすでに少々かわいそうに思えてきてしまった。なにせ陽乃さん見た瞬間に条件反射的に土下座だもんな。ここまで怖がってるんなら、ストーカーなんかしなければいいのに。

 

「玄関先で話すようなことでもないし、中に入れてくれないかしら?」

 

 石川の行動を見ても姿勢を崩さない陽乃さんは事務的に用件を伝え、警戒を解かないでいる。そして、ほんのわずかな異変さえも見逃さないという気迫さえ伺えた。

 

「はっ、はいっ」

 

 地面に向かって大きく返事をすると、腕の反動を使って立ち上がり、玄関のドアを抑えて陽乃さんが中に入りやすいように誘導する。陽乃さんは石川の顔を一瞥すると、一つ頷いてから誘導に従い部屋の中へと勝手に入っていく。

 俺もついていかないわけにはいかなく勝手に入らせてもらうが、石川は特に気にしていない様子だ。

 靴を脱ぐときにちらりと石川を観察すると、俺より背は低く、いわゆる中肉中背って感じで、これといった特徴もない男であった。着ているものは部屋着らしいTシャツにハーフパンツ。小ざっぱりとしたモノトーンの服装は、清潔感さえ感じ取れる。身だしなみというか短く刈られた髪は、その清潔感をより一層引き立てていさえいた。

 また、玄関周りも綺麗に片付いており、部屋の中の方も綺麗そうだ。ゴミが散らかってなどいなく、本棚に並べられている学校のテキストやノートなどがなんらかの法則をもって整然と並べられてさえいた。

 つまりは、清潔感があり、見た目も暑苦しくない。人によっては綺麗好きではなくて潔癖症とまで過大評価しそうではあるが、雪乃ならこれくらいの清潔感は常識の範囲以内であろうか。

 まっ、その清潔感が漂う男は今脂汗をだらだら流しながら小刻みに震えているけど。こうなるとずいぶんみすぼらしく見えてしまう。

 逆を言えば、石川の印象はどこにでもいるまじめな大学生だった。

 

「早く来なさい」

 

 容赦ない叱責が石川を襲う。部屋の奥で勝手にソファーに腰をかけている陽乃さんは、時間が惜しいわけでもないのに石川をせかしたてる。その石川も、陽乃さんの声に反応して駆け足で部屋の中に戻ってくるんだから、どんな楽しい話し合いだったか想像がつかない。

 おそらく俺が最初に想像したレベルが初級って感じなのだろう。そう推測すると、冷房の設定温度以上の冷風が俺の肌を撫でていった。

 

「今すぐ行きますっ」

 

「私が来た理由、わかるわよね」

 

「はいっ」

 

 石川は自分の部屋だというのに、部屋の隅で正座までしていた。背筋を伸ばし、顎を軽くひき、まっすぐと陽乃さんを見つめている。

 俺はふと躾が厳しい昔の日本の風景を思い浮かべてしまう。厳格な父が小さい子供にものさしかなんかをもって、少しでも姿勢が崩れればびしっと叩くような、古き日本の家庭風景。

 目の前に展開している光景は、厳格な父でも小さな子供でもない。オブラードを何重にも包んだ言い方をすれば女王様と下僕がいいところだ。たしかに女王様に忠実なところはあってそうだから、ますますこいつがストーカーを再開した理由がわからなくなった。

 

「じゃあ、私が理解できように全て話しなさい」

 

「はいっ」

 

 そう威勢よく返事をすると、デスクトップパソコンのモニターに一通のメールを表示させる。

 

「これは?」

 

「はいっ。これは僕宛てに送られてきた陽乃SFC入会案内です」

 

「は?」

 

 えぇ~と、SFC? KOSFCじゃなくて陽乃SFC? って、なんの略だ? そもそも意味なんてあるんだろうか。いやいや、本人たちにとっては重要な意味を含ませるのが普通だし、でも、ストーカーに主義主張なんてあるのか?

 深く考えようとするほど泥沼にはまっていき、考えがまとまらない。そもそもストーカーの思考なんてわかりっこないんだから仕方がないったらないののかもしれない。 だから俺は、おもわず間の抜けた言葉を発してしまう。

 陽乃さんはちらりと俺のほうに視線を向けたが、どうやら陽乃さんも俺と似たようなことを考えてしまったらしい。つまりは、理解不能・・・・・・。

 

「SFCってなにかしら?」

 

「はいっ。SFCとは、S(そっと見つめる)、F(ファン)、C(クラブ)の略称です」

 

「そ、そう・・・・・・・」

 

 陽乃さんでさえ唖然としている。

 深く考えた事自体がばからしくなってしまった。FとCなんて普通すぎるだろ。意味があるのはSだけか? でも、そっと見つめるってなんなんだよ。

 つまり、そっと見つめているから誰も陽乃さんに接触してこなかったってことか? あと、Sは、「ストーカー」と「そっと見つめる」の頭文字をかけたダジャレかなって思ってしまったことは黙っておこう。

 たぶん、陽乃さんの凍える瞳で叩き潰されるだけだろうし・・・・・・。

 だとしても、誰だよ。こんな馬鹿げたファンクラブの会長さんは。あと、一応だれがSFCって命名したか、ちょっとだけ興味があるかも。

 

「はいっ。でも、僕はSFCのサイトを見ることはあっても、活動そのものはしていません」

 

「でも、昨日私の事つけ回していたでしょ? ちゃんと確認が取れているし、それでも白を切るんなら証拠写真を見せてあげてもいいわ」

 

「違いますっ! 僕はサイトの情報を使ってストーカーの方を逆監視していたんです。僕は陽乃さんの教えに従ってストーカー行為をしていた自分を恥、もう絶対に踏み入れないと誓ったんです。だからストーカー行為を恥じる事はあっても、ストーカー行為をする事はありません。それに、陽乃さんの教え通りに自分の殻に閉じこもることはしませんし、そして今自分にできることをするって決めたんです。だから、ストーカー行為なんかしていません」

 

 石川は身を乗り出し、汗を散らせながら懸命に訴えかけてくる。正座が崩れた事に気がつくと、いそいそときっちり背筋を伸ばして正座をし、陽乃さんを見つめるその瞳には影は見えなかった。

 その必死な形相から推測すると石川の主張は真実なんだろうけど、いまやストーカーというよりは下僕のような気もしなくはない。陽乃さんの教えって、いったいどんな楽しい話し合いしたんだよっ。聞いてみたいような気もするけど、聞いたら後に戻れない気もするからやめておこう。きっと聞いたら人生観が変わる。いい意味でならいいんだけど、きっと悪い意味での変化が大きそうだ。

 

「私の家を張り込んだりはしていないのね?」

 

 陽乃さんは無表情に近い笑顔で石川を観察する。明らかに作り笑いだってわかるくらい寒々しい笑顔。

 俺は、怒ったりヒステリックになってもいいような場面でさえも笑顔を作り上げてしまう陽乃さんに、おもわず手をさし伸べたくなってしまう。感情を押し殺し、どんな場面であってもひょうひょうとしてしまうその仮面に悲しみさえ覚えてしまった。

 だって、辛すぎるだろ。感情さえも隠し偽って、求められている自分を演じている。小さい時からの習慣なんだろうけど、あまりにも過酷な幼少期に思えてしまう。きっと陽乃さん本人は自分を憐れんだりはしない。憐れむのは他人の勝手だって、突き放すことさえやってのけてしまうだろう。

 憐れみなど受け入れはしないし、憐れまれることも望まない。この前陽乃さんが雪乃の昔話をしてくれるって言っていたが、今は無性に陽乃さんの昔話を聞いてみたい自分がいた。

 

「はいっ。陽乃さんに誓ってそのようなことはいたしておりません」

 

「わかったわ。でも、今すぐ石川君を信じてあげられないことは、わかってるわよね」

 

「はいっ」

 

「よろしい。じゃあ、一応あなたを信じてあげるから、話を続けてちょうだい」

 

「はいっ。SFCのメンバーは会長が集めてきた陽乃さん信仰者たちで構成されています。どこから集めてきたのかはわからなかったのですが、最近わかってきたのは、以前陽乃さんのストーカーをしていて、一度はやめた人が多いということです」

 

「それは直接聞いてみたの? それともなにかそういった発言があったとかかしら」

 

「いいえ。横のつながりはほとんどありません。陽乃さんの情報をサイトにあげて共有したり、写真をアップするだけです。僕が以前ストーカーをしていた人物だと気が付いたのは、張り込みをしてわかったことです。僕がストーカーをしていたときにも、僕と同じようにストーカー行為をしている人がいることに付いていましたから。たぶん向こうも僕に気がついていたと思います」

 

「具体的には何人?」

 

「そうですね。名前はわかりませんが3人です。あと4人ほどいますけど、こちらの方は初めてみる顔でした」

 

 すげぇ・・・。元ストーカーすげぇ。スパイかよ。もう探偵とかやっちゃったらいいんじゃないの?

 それとも、この石川って人がすごすぎるのか?

 

「そう・・・・・。じゃあ、会長って人はどんな人?」

 

「おそらくSFCの入会メールを送ってきた人物だと思うのですが、顔を見たことはありません。ですから、ストーカー行為をやっていたとしても、僕には誰が会長なのかはわかりません。でも、今までの発言からすると、陽乃さんに近しい人物かと思われます。普通の人では、そうですね、ただの同じ大学院の生徒だというだけでは知らないようなスケジュールなど公開していましたから」

 

 これでますます安達経由で情報が漏れたという疑惑が強くなってきてしまう。もしかしたら安達がSFC会長っていうことさえあり得てしまう。陽乃さんの友人が、ましてや今までストーカー撃退に力を貸してくれていた安達が会長とは考えたくもない推測である。

 陽乃さんもそのことに気が付き、石川への問いかけが中断してしまう。石川も陽乃さんの表情がこわばっていくのを感じ取ったようで、だまって陽乃さんを待ち続けているようでもあった。

 そして、陽乃さんは石川の気遣いに気がつく事もなく一人ため息に近い息を洩らすと、毅然とした態度を再起動させる。 

 

「そう・・・・・・。そもそもその会長はどうやって石川君のメールアドレスを手に入れたのかしら? いくら情報がお金で買える時代になったしても、手に入れたい情報が簡単に手に入るとは思えないわ」

 

「そればっかりはわからないです。それに、元ストーカーをピンポイントで集める事ができることも不思議だとは思っていました」

 

「そっかぁ。他には情報ある?」

 

 空気が変わる。陽乃さんを覆っていたぴんと張り詰めていた雰囲気が霧散する。いや、集中はしている。それにいまだ石川への警戒を解いたわけではない。でも、なにか達観とした雰囲気というか、ふっきれたというか・・・・・・、俺流に捻くれた言い方をすれば、諦めてしまったという事ができてしまう。

 この人はどこにいってしまったのだろうか。今までそこにいた陽乃さんが、急に遠くに行ってしまったような荒涼感さえ漂ってきてしまう。

 

「すみません。あとは実際にサイトを見ていただくことくらいしか・・・・・」

 

「ううん、ありがと。じゃあ、見せてくれない?」

 

「はいっ」

 

 石川君はPCを操作し、SFCのHPを表示させる。俺も陽乃さんの後ろから顔を出し覗き込んでみるが、意外とシンプルな作りのサイトであった。トップページにはIDとパスワード入力欄のみが表示され、サイト名はない。

 ログインすると、陽乃さんのスケジュールとそれに基づくストーカー記録が表示される。あとは陽乃さんの写真がまとめられていた。

 ストーカー達のコメントも陽乃さんの様子に対する報告しかなく、石川が言っていたようにストーカー谷の横のつながりを匂わす発言は見受けられなかった。

 

「知っているストーカーが3人いるらしいけど、それって陽乃さんが直接見れば、名前とかわかるんじゃないんですか?」

 

「うぅ~ん。それはちょっと難しいかな。会長って人が誰だかわからないし、私が石川君と一緒に行動したら怪しまれるでしょ。それに、石川君が遠くから見て、私に電話で教えてくれたとしても、私がストーカーを凝視だなんてしたら、向こうも気がついてしまうでしょうね。私が以前関わったストーカーの写真を持っていればよかったんけど」

 

「僕の方こそ望遠カメラを持っていれば」

 

「いや、あなたも怪しい行動は控えていてよかったんじゃないですか。なにせ向こうは何人いるかわからないし、もし捕まったりなんかしたら危ないからな。それに、向こうにこちらの事を気がつかれていないっていうのがなによりのアドバンテージだ」

 

「そうね。石川君も無茶な行動はしないでね」

 

「はいっ」

 

 まじで石川感動しちゃってるな。憧れの存在に心配してもらって嬉しそうだ。でも、陽乃さんの裏の顔とまではいかないまでも、雪乃からしてみればちょっかいをしかけてくるはた迷惑な姉にすぎないんだろうけど、人の評価ってわからないものだな。

 

「SFCのサイトだけど、毎日データを転送してくれないかしら。私が直接ログインして確かめたほうがいいんだけど、向こうに私がログインしているって気がつかれる恐れがあるのよね。・・・・・・比企谷君」

 

 そう言うと陽乃さんは俺に視線を向け、そして石川君のほうに視線を投げかける。

 あぁ・・・、俺のメアドを石川に教えろってことね。一応事前に捨てアドを用意してきたけど、本当に必要になるとは。

 もしかして、陽乃さんは石川のことを信じていたのか?

 俺は石川といそいそとメアドの交換をする。いやいや最近メアドが急激に増えてないか。これってある意味リア充の仲間入りか? ただ、あまり嬉しくない増え方なのがリア充っぽくないけど。それに、元ストーカーとメアド交換なんてシュールすぎるだろ。

 しかも、元ストーカーの家で、他のストーカーに関する対策をしている。人生ってわからないものだなと、しみじみと感じてしまう。変な繋がりを持ってしまったものだな、まったくな。

 ん?・・・・・・繋がり?

 SFC。そっと見守るから、横の繋がりは必要ない。むしろ誰かが捕まったりでもしても、そいつだけ切り捨てることができて好都合。でも、会長って、どこから元ストーカーとか、現役ストーカーを集めてくるんだ?

 それこそ石川じゃないけど、ストーカーしているのを観察でもしてたのか?

 SFC入会メールを送ってくるってことは、相手のメアドも知っていなければならない。ならばメアドの入手経路から探りを入れてみてもいいが、素人の俺になにができる。

 俺なんか初めから知っている人からさえ聞くこともできないぞ。

 ・・・・・・・初めから知っている?

 

「あの、陽乃さん。石川の住所を知ってるのって、陽乃さん以外では誰がいるんですか?」

 

「え? 石川君を見つけ出すのに協力してもらった友達はみんな知ってるはずよ」

 

「ということは、安達さんも知ってるってことですよね?」

 

「・・・・・・まあね。そういうことになっちゃうわね」

 

「おそらく」

 

 陽乃さんも完全に諦めたようだ。俺がとどめを刺してしまった。今までは可能性がとても高いのままであった選択肢を、俺のせいで最警戒人物にまで押し上げてしまった。

 ・・・・・・俺のせいで。

 元ストーカー達の連絡先を知っていて、なおかつ陽乃さんのスケジュールを知っている人物。あまりにもお約束の展開で、あまりにもお粗末な犯人だった。今回安達・馬場・千田の中で嘘情報でふるいをかけてしまっているから、安達がSFC会長にもっとも近い人物といえる。

 こんな推理なんか穴だらけだって言われてしまうだろう。世に出回っている探偵小説であるのならば、三流以下の推理だと評価が下されるはずだ。でも、これはリアルであって、小説ではない。

 可能性が高いものからふるいにかけ、そこから地道にハズレを潰していって、泥にまみれながら当たりを見つけ出す。けっしてスマートな方法ではないかもしれないけど、俺は小説の名探偵ではない。

 どこにでもいる大学生であって、手がかりから突然犯人がひらめくわけでもない。だから、ぐだぐだに走り回って、穴だらけの迷推理を繰り返して、そこからどうにか犯人にたどり着いたとしても、問題を解決できるのならその過程はなんだっていいとさえ思っている。

 ようは、陽乃さんと雪乃が笑顔になればいい。

 石川にも一通り俺の推理を披露すると、安達への憤りは激しかった。自分がストーカーだったという負い目はあろうが、陽乃さんに協力していた安達が今度はストーカーだなんて許せはしないのだろう。

 

「明日、放課後にでも問い詰めますか?」

 

「うぅ~ん。ちょっと待ってね。考えをまとめるから」

 

 腕を組み、渋い顔をして天井を見つめたり床を見つめたりする。迷いが感じられるその雰囲気に、俺は不安さえ覚えてしまう。

 何を迷っているのだろうか?  既に犯人は見つかったのだから、やるべきことは一つじゃないか。たとえ証拠が足りなくとも、犯人への牽制にはありえるはず。

 俺の不満をよそに、陽乃さんはさらにしかめっ面になって唸るばかり。俺と石川は陽乃さんが納得する答えを探し出すまで見守ることにした。

 

「うん、決めた」

 

 十数分後、ようやく出た解答は俺の予想を裏切るものであった。

 

「安達君にはまだ何も言わないわ」

 

「どうしてです? 犯人が分かったんですよ」

 

 俺は納得ができない。こう言っちゃ悪いが、今や陽乃さんだけでなく、雪乃だって危うい立場に陥りそうである。だから、解決できるのならば、一刻も早く解決すべきだ。

 

「まだ証拠がないでしょ」

 

「元ストーカーの僕の証言では信用ありませんよね」

 

 石川は自嘲気味につぶやく。

 そりゃ信じない奴もいるだろうけど、証拠能力がないわけでもない。げんに、陽乃さんを助ける為に行動だってしてるんだ。過去を悔い改め、再出発している人物をののしるやつがいるんなら、俺が・・・・・。

 

「そうじゃないのよ」

 

 俺が石川を励まそうと口を開く瞬間、陽乃さんの言葉が俺を思いとどめさせる。

 

「そうじゃないの。大学院って大学と違って学生の数が極端に少ないのよ。ほとんどの生徒が顔見知りって感じね。だから、人間関係を壊すんなら誰も文句が言えない証拠が欲しいの。だって、私たちが手にしている証拠って、私達の推理も含まれているでしょ。それだと決定打に欠けるわ」

 

「そうかもしれないですけど・・・相手の行動に制限を加えることぐらいはできますよ。もしかしたらストーカー行為を自粛するかもしれない。もともとストーカーを捕まえることが目的ではないんですから、ストーカー行為が終わるんならそれでもいいじゃないですか」

 

 陽乃さんならば、多少強引にでも事を進めると思っていた。だけど、下した結論は捜査続行。安達を問い詰めることはしない。由比ヶ浜じゃないけど、陽乃さんも人間関係のバランスを良く見ているとは驚きだ。

 存外、人をよく観察しているからこそ大胆な行動もできるのかもしれないと思ってしまった。

 たしかにまわりの反応も無視して独断行動ばかりしていたら、ただの痛い子だもんな。

 

「でも、私もただ黙ってる気はないわ。やるなら徹底的に叩き潰してやるんだから。私と、私の大切な人たちを傷つけようとした報いは受けてもらうわ」

 

 そう冷淡につぶやくさまはまさに悪役。エアコンで涼しいとさえ感じられる温度が寒いとまで感じ取れるくらいまで急激に冷え込む。陽乃さんを女神のごとく崇拝していた石川でさえ表情を堅くし、震えおののくありさまだった。

 俺も背中に嫌な汗が流れ落ち、ぞっと身震いをする。冷たい空気が雰囲気を重くし、俺達二人は石のようにかたまって吹雪がやむのを待つしかなかった。

 

 

 


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