やはり雪ノ下雪乃にはかなわない   作:黒猫withかずさ派

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プロローグ

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

 

 

『やはり雪ノ下雪乃にはかなわない~プロローグ』

 

 

 

 

 

 海浜幕張駅にほど近い臨海部の高層マンションの一室。俺には不釣り合いすぎる住居である。大学の友達(仮)に言ったところで、その名前だけ知っている知人達は、俺がこのマンションに彼女と住んでいるって言っても信じやしないだろう。むしろ、その学部の人間は俺のことを痛い人と認識するまでである。それもそのはず、ここは雪ノ下が高校時代から居を構えているマンションだから当たり前って言ったら当たり前だ。俺がここに越してきたのが約半年前。雪ノ下と付き合いだして約2年だから、順調に交際を進められているのだろう。他人がどう思っていようが気にはしていないが、今の俺達の関係に満足している。ただ、俺がここに引っ越してきたと言えるのかは疑問が残る。なにせ・・・・・・・・。

 

「あぁ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの部屋、今家族の書庫になってるから。今日引っ越し業者来るから、一応荷物チェックしておいてね」

 

「なぬ・・・・?!」

 

 雪ノ下の家で連日レポートの追い込みをし、久しぶりに帰ってきた住人に対する仕打ちとは思えない我が妹小町の兄への対応。最近雪ノ下とばかり一緒にいるせいで、小町とのコミュニケーション不足になっていることは事実だったが、ここまで悪化していようとは。お兄ちゃんとしては、寂しい。アイスをパクつきながら、ちょっとコンビニに行ってきてね程度の軽いお願いにショックを隠せなかった。

 たしかに、俺も含め本好き家族である。居間に置かれている本棚も窮屈になって、あちこちに分散して片付けられているのは確かだ。だからといって、息子の部屋を無断で書庫にするとは・・・・。

 かつて自分の城だった部屋に駆け上がっていくと、衣類などは段ボールに梱包され、きれいに並べられてあった本も紐で結わかれていた。唯一助かった事と言えば、Hな本を所有していなかったことだろうか。一般の本とは別に、丁寧に紐で結わかれたHな本が目立つ所に鎮座していたらこのまま海に沈んでいったと思う。まあ、雪ノ下が遊びに来た時に見つかり、一斉検挙されて以来、その類のものは所持していないから問題ないのだが。

 

 

 

 さて、そんなこんなで、毎日のように入り浸り、半同棲状態だった雪ノ下のマンションに引っ越すことになった。雪ノ下に事情を説明したところ、雪ノ下には既に小町から相談を受けており、引っ越しの日時さえ知ってたという。

 

「なんで教えてくれなかったんだよ? 今朝、朝食とっているときに教えてくれてもよかったじゃないか」

 

 携帯に向けて文句を垂れても、いたって冷静な声が返ってくるだけで。

 

「別に今と代わり映えしないんじゃないかしら? 現に、私の部屋で寝泊りすることが多いのだから。それに使っていない部屋があれば有効活用すべきよ」

 

「それはそうだけど・・・・・・」

 

 最近では俺の(へ)理屈は全く通用しない。由比ヶ浜曰く、もうすっかり尻に敷かれてるね、だそうだ。俺も認めちゃってるところがあるから、仕方がない。

 

「それでも一言くらいいってくれてもいいだろ? 色々準備ってやつがあるんだから」

 

「ごめんなさい。あなたをびっくりさせたかったから・・・・・・」

 

 しおらしい声に俺の勢いは衰えていく。さすがにその声は反則ですよ、雪ノ下さん。

 

「わかったよ。だけどさ、引っ越し手伝ってくれよ」

 

「ええ。帰りを待ってるわ」

 

「片付けもあるし、なるべく早く帰る」

 

 微妙に裏返ってしまった声を抑えつつ、震えてしまう手も抑えこもうと両手で携帯を握りしめる。「帰る」という言葉に反応せざるを得ない。俺が帰る家は、実家ではなく、雪ノ下のところだと宣言されてしまったから。

 これが携帯でよかった。こんな真っ赤にして身悶えている姿なんて、雪ノ下にも見せられない。でも、声で伝わってしまってるんだろうけど・・・・・・。

 とまあ、かくかくしかじかというわけで、実家を追い出されてしまった。

 

 

 

 

 

 朝食というには、さすがに遅すぎる時間。遅くまでやっていたレポートを終わらせ、ベッドに潜り込んだのは午前3時頃。雪ノ下は既に寝ていたので、起こさないように気を付けたが、

睡魔には勝てず、勢いよくベッドにダイブして、そのまま寝てしまった。

 朝起きてみると、横に寝ていた雪ノ下はいない。しっかりとタオルケットがかけられていたので、雪ノ下がかけてくれたのだろう。おそらく夜中、俺がベッドに潜り込んだ後、かけてくれたのだと思う。いくら俺が起こさないようにしても、起きてしまうので、一度聞いたことがあった。

 

「雪ノ下って寝る時神経質なの?」

 

「そんなことはないと思うのだけど?」

 

 首を軽く傾げ、俺のことをじっと見つめるそして、なにかを確かめながら続ける。

 

「私が神経質だったら、あなたとなんて一緒に寝ることなんてできないでしょ?」

 

「それって、俺の歯ぎしりやいびきがうるさいってこと?」

 

 たしかに、自分の歯ぎしりやいびきは気がつかない。もしかしたら、雪ノ下に多大な迷惑をかけていたのかもしれなかった。

 

「それは大丈夫よ。ただ・・・・・」

 

「ただ、なんだよ?」

 

 俺を見つめていた視線をすっとそらし、歯切れ悪くつぶやく。

 

「寝言がね・・・・・・」

 

 雪ノ下は自分の腕で自分を抱くようにして俯いてしまう。雪ノ下の顔が、はっきりわからない分怖い。俺って、夜中何を言ってるんだろ?大学生にもなって、中二病発言だけは避けたい。小町関連だったら、雪ノ下も俺が小町ラブだってわかってるんだから、あきらめがつく。

 しかし、俯きながらも、腰をくねらし始めた雪ノ下を見ると、これ以上追及したら自爆せねばならない事態とみうけられる。ならば・・・・・・。

 

「ごめん。・・・・・あまりひどい内容だったら、蹴り飛ばして止めてくれていいから」

 

「・・・・・その、嫌な内容ってわけでもないのよ」

 

「そうか? 雪ノ下が我慢できるっていうなら、それで・・・・・・」

 

「ええ、そうね」

 

 雪ノ下らしくもないあとに残る返事しか返ってこなかった。この時の俺に平常心なんか期待できない状況だったが、よく雪ノ下を観察したら、頬を上気させているのに気がついたかもしれないがそんなことは無理なことだった。

 まあ、俺がその寝言を雪ノ下から聞きだしていたら、はずかしさのあまり窓から飛び出していたのは確実だったはず。寝言で、酒の勢いに任せても言えないような愛のささやきを毎晩してるなんて俺が知ることなんてないだろうけど。

 

 

 

 

 

 寝室からリビングに向かうと、容赦なく太陽が自己主張してくる。徹夜明けの俺には、きつすぎる洗礼だ。あくびをかみ殺していると、片手にコーヒーカップを持ってやってくる雪ノ下に昨夜の無礼を詫びとくことにした。

 

「昨日は悪かったな。また起こしちゃったみたいで」

 

「おはよう。・・・・・はい、コーヒー」

 

 俺にとっては、太陽以上に眩しい笑顔で朝の挨拶をしてくれれるが、ひいき目を差し引いても、それだけの価値はあるはずだ。しかし、誰にもやらんけど。と、一人悦に浸ってるが、昨夜の無礼はまったく気にしていないのか、俺にコーヒーカップを差し出す。雪ノ下が入れてくれる紅茶も好きだが、寝ぼけた頭にはコーヒーがよく効く。脳を活性化させる香りを肺に満たす。

 

「コーヒーありがと。それとおはよう」

 

 俺がコーヒーを受け取ると、キッチンに戻り、朝食の準備をしてくれているらしい。それにしても、俺が顔を洗いに行く音とききつけ、絶妙なタイミングでコーヒーを差し出してくれるだなんて、末恐ろしいお人。

 

「タオルケットかけてくれてありがとな」

 

「どういたしまして」

 

「それと、起こして悪かったな」

 

「・・・・・・・・・・」

 

 やはり、このことだけは受け入れてくれないらしい。ふくれっつらの雪ノ下が、これ以上言うなと意思表示している。これ以上言っても、雪ノ下を怒らせるだけだし、心の中で感謝しておくとしよう。

 

「もうすぐ朝食の準備が終わるから座ってて」

 

「ありがと」

 

 テーブルに着く前に、リビングのローテーブルを見ると、ノートパソコンと資料が広げられている。どうやら雪ノ下もレポートなのだろう。俺と同じようにレポートに追われているのに、遅くまで寝ていたことに罪悪感を感じてしまう。

 

「悪かったな」

 

「もう、いいって言ってるじゃない」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

 どうやら、昨夜起こしてしまったことの謝罪がまだ続いていると勘違いさせてしまったらしい。眉間にしわが寄りつつある雪ノ下をなだめるために、あわてて訂正する。

 

「雪ノ下もレポートあるんだろ。それなのに、食事の準備まかせてしまってさ」

 

「それも気にしてないから」

 

 あきれ顔でトーストが載った皿をテーブルに並べる。どうやら、これさえもNG事項のようだ。雪ノ下が俺にたくさんのことをしてくれるのは、正直うれしい。だけれども、それが当然だとは思いたくない。

 ぬるま湯につかって、自分が気がつかないうちに腐っていくのだけは避けたかった。そして、なによりも腐ってしまった俺を雪ノ下に見せたくない。

 

「わかったよ。・・・・・でも、感謝していることだけは覚えておいてくれよ」

 

「そういうことなら、受け取っておくわ」

 

 なんとか納得してくれた雪ノ下を眺めつつ、ちょっと苦いコーヒーを喉に流し込んだ。

 

 

 

 

 

 食事中、気にはしないようにしていたのだが、俺の目の前に座って食事をする俺をずっと見つめる視線に問い合わせることにした。

 

「なあ、どうしたんだ? なんか変か俺?」

 

「どうして?」

 

「どうしてって。お前が食事中、俺をずっと睨んでるから。睨んでるっていうよりは、なにか思い悩んでる?」

 

 それでどうにか理解したらしく。

 

「そんなことないわ」

 

 話を終わらせたいのか、コーヒーカップを両手で持ち、中身ももう残ってないだろうカップの中を見つめる。いつもの雪ノ下なら、話をそらしたい内容があれば、俺が気がつかないように誘導しているはず。それなのに、今日の雪ノ下の態度は不自然すぎる。

 

「なにかありますっていう顔してるぞ。そんな顔していると、かえって聞きたくなる」

 

「・・・・・・・・・」

 

 俯いたまま考え込むが、しばらくすると、なにか決意した顔つきで切りだそうとする。

 

「あの・・・・・、だからその」

 

「・・・・・・?」

 

 あの雪ノ下がこうもまで歯切れが悪いとは。そんな弱々しい態度を見ると、悪い予感しかできない。ざわつく心をなだめる。イラついた態度を見せて、かえって恐縮させないようなるべく真摯な態度で接しようとする。

 

「そんなに言いにくいことなのか?」

 

「そんなことはないのだけれども」

 

 

 こんな風なやり取りを何度も繰り返して、辛抱強く待ったが、俺も大人になり切れている訳もなく・・・・・・。

 

「はっきり言ってくれ。そんな態度とってたら、なにかありますって言ってるようなものだ」

 

「そうじゃないのよ。・・・・・そんなんじゃ」

 

 雪ノ下の煮え切れない態度に、ある最悪の事態が脳裏に浮上してくる。これだったら、あの雪ノ下であっても言い出しにくいだろう。こういうことは、俺の方から言うべきなんだろうな。

 

「俺、このマンションから出て行くよ。やっぱり他人と暮らすとストレスたまるよな。気を使わせてしまって、すまん」

 

 深々と頭を下げて、今までの迷惑を謝罪した。夜中起こしてしまうことの謝罪も受け入れないでいたのも、なんとか我慢しようとしてたんだろう。俺に不満をぶつけたら、かえってぎくしゃくしてしまうもんな。

 そうと分かれば、俺の方が全面的に悪いんだし、いさぎよく・・・・・・・・、

 って、

 痛い、痛いって、

 マジで痛いです、雪ノ下さん。

 皮膚に爪が食い込んでいき、鈍い痛みが脳に突き刺さる。痛みで反射的に上を向くと、俺の左腕を力いっぱい掴む雪ノ下の姿が目の前にあった。顔からは血の気が引き、普段から白いと思っていた顔が、青白くなっている。おもいっきりパニくった俺は、雪ノ下と向き合おうと体の向きを変える。あろうことに、今度は右腕さえも掴めれ、自由を奪われてしまった。

 

「ゆ・・・・雪ノ下・・・・さん?」

 

 目に涙をためた雪ノ下の顔が目の前に迫っている。歯を食いしばり、なんとか涙があふれ出すのを抑えようとしていたようだが、それも決壊してしまった。

 

「そんなことあるわけないじゃない!」

 

 あまりの迫力に、重心が後ろに下がり椅子からずり落ちようとなるが、俺が逃げようとしたと勘違いした雪ノ下が、さらに腕を掴む手に力を込める。腕の皮膚が裂け、血が爪にしみわたっていく。鈍い痛みが広がっていく中、雪ノ下の必死な視線から目をそらすことができない。嘘をついているようでも、俺をいたわっての発言でもなさそうだ。

 

「わかったから、とりあえず手を離してくれないか」

 

 俺の訴えでようやく理解したのか、爪についた血を見て正気に戻ってようだ。

 

「ごめんなさい。傷の手当てをするわ」

 

「そんなことは、あとでいい」

 

 俺の傷はあとでも大丈夫だ。だけど、目の前にいる雪ノ下の傷は今すぐ癒しておきたい。

 

「そんなことではないでしょ?」

 

「そんなことだ。それよりも、ちゃんと話してくれないか? なにをそんなに悩んでいたんだ?」

 

「あなたが別れ話をきりだすから」

 

「それは雪ノ下の様子がいつもと違って、なにか言いにくそうにしてたから。もしかして、別れ話かなって」

 

「そんなことあるわけないじゃない。私と一緒に暮らしているのに、そんなことも分からないくらい脳が腐ってしまっての?」

 

「だったらなんだよ?」

 

 どうやら別れ話ではないらしい。それならば、俺の脳みそくらいいくらでも腐らせてやってもいいくらいだ。

 

「・・・・・・・・・」

 

 ここまできてもぐずつく雪ノ下につい大きな声を出してしまう。

 

「はっきりしてくれ!」

 

 突然発せられた大声にびくりと肩を震わせる雪ノ下。それを見て、悪いと思いながらも、今度ばかりはひけない。

 

「頼むよ」

 

 雪ノ下が俺の顔をみて、ついに観念してくれたのか、小さくため息をついてから、語りだしてくれた。

 

「この前由比ヶ浜さんと二人で食事に行った時、言われたの」

 

 そこで一呼吸して、さらに言うべきかもう一度考え直そうとしたみたいだが、俺の顔をみて話を再開させる。

 

「比企谷君って、・・・・・・あいかわらず変わらないって」

 

「そりゃあ、大学に行ったからって、俺のアイデンティティが変わるわけじゃないんだから、しかたないだろ。そのくらい雪ノ下だってわかってるだろ?」

 

「そうじゃないの。・・・・・・そうじゃないのよ」

 

「だったらなんなんだよ?」

 

 いくら理解しようとしても、なにを言ってるか分からなかった。たしかに、今非常にパニクってる。だけど、今雪ノ下が言ってる言葉の意味くらいは判断できる自信がある。

 

「恋人になってからもう2年くらいたつのに、いまだに名前で呼び合わないのは変だって、由比ヶ浜さんが言うの」

 

 こんなときに不謹慎だが、妙に拗ねた感じの雪ノ下が色っぽく感じてしまう。恥じらいを帯びた艶っぽさと、上気した頬がなんともたまらない。しかし、ここで飛びついては、男の威厳っていうのが・・・・・、って、もうそんなのないって雪ノ下にはばれてるけど。

 

「そんなの人それぞれでいいんじゃねーの。自分がいいたいように言うのが一番だって。変にかしこまって言おうとすると、今みたいになっちまうし」

 

「それはそうなのだけれど」

 

「それじゃあれか? 由比ヶ浜が雪ノ下にも「ヒッキー」って呼ぶように決めたら、「ヒッキー」っていうのか?」

 

「そんなこと言ってないわ。・・・・私だって、その」

 

 どうやら理屈ではないらしい。普段ならお互い理屈(屁理屈)の応酬だが、やはり雪ノ下も女の子だったらしい。まあ、雪ノ下の女の部分を見せられてしまうと、こっちとしては何もできない骨向きになってしまうのは秘密だ。きっと、かろうじて? ばれてないはず。

 

「俺は好きなんだけどな。「雪ノ下」って呼ぶの」

 

 いつものようにぶっきらぼうだけど、俺の真意が伝わるように。あまり真剣にいっちまうと、俺の方が緊張しちまう。

 

「雪ノ下は嫌なのか? 俺は、雪ノ下に「比企谷くん」って呼ばれると、なんか安心しちまうんだよ。それに、なんだその。お前にはなんて呼ばれようとうれしいっつーか」

 

 やばい、やばすぎる。このままじゃ、俺の方がデレちまう。

 

「あなたらしいわね」

 

 雪ノ下を見ると、どうやら落ち着きを取り戻したらしい。いつもの冷静沈着がモットーを表紙にしたようなつらかまえ。

 

「だったら、・・・・・私の言いたいように呼ぶわね」

 

「それでいいだろ」

 

 雪ノ下が小さく深呼吸する。そして、俺の方にあらたまってむきあうと、こっちの方が緊張してしまった。

 

「はぁ~・・・・、は・・・・」

 

 携帯の呼び出し音が室内に響き渡る。この音は、雪ノ下の方だ。ナイスタイミング!

 これで、この雰囲気を打破してくれると助かるんだけど。なにかほっとしたような、残念なような顔つきの雪ノ下は、ひとつため息をつくといつもの雪ノ下に戻り、携帯に応対した。

 

「もしもし?」

 

 どうやら由比ヶ浜からの連絡らしい。いつも空気を読んでくれる貴重な存在だけど、こんときまで空気読んじゃうって大学生になってレベルが上がったに違いない。そうこう無駄な妄想にふけっていると、電話は終わったらしい。

 

「ちょっと由比ヶ浜さんのところへ行ってくるわ」

 

「どうかしたのか?」

 

「今度のテストで使うノートを貸す約束してたのだけど、けっこう大変らしく、今からやらないと難しいみたいなの」

 

 俺と由比ヶ浜は学部が同じだが、雪ノ下だけは学部が違う。それでも、外国語の授業だけは雪ノ下と同じにするあたりテストのことを考えていると疑ってしまう。ちなみに俺も同じドイツ語だが、テスト勉強で雪ノ下に頼むあたりあざとい。ふだんの講義では、さんざん俺に頼りまくってるくせに。ちょっとジェラシーを感じちまうじゃないか。

 

 

 

 

 

 部屋にノートを取りに行き、出かける準備をしている雪ノ下を横目に自分が使った食器くらいはと洗い物をしていると、すぐに雪ノ下は準備できたらしい。

 

「もう行けるのか?」

 

「ええ。それと、ノートだけっていうわけにもいかないだろうから、帰るの遅くなるかもしれないわ」

 

「りょーかい」

 

「一応連絡だけはするから」

 

「わかったよ。由比ヶ浜をびしばし鍛えてやってくれよ、雪乃」

 

「私が力を貸すのだから、テストで平均点くらい取れるくらいにはなってもらうわ」

 

 そう言って鞄を肩にかけ、玄関に向かおうとした雪ノ下であったが・・・・。

 いきなり立ち止まり、せっかく肩にかけた鞄をすとんと床に落とす。その後ろ姿を見てしまうと、自分の頬をかみしめ、笑いをこらえるしかない。きっと意地悪く、ニヤニヤしてしまってるんだろうけど。

 

「比企谷くん。今なんて?」

 

 こちらを振り向かない雪ノ下に丁寧に教えてあげよう。

 

「由比ヶ浜を鍛えてやってくれか?」

 

「それじゃないわ」

 

「じゃあ、びしばしと鍛えてくれ?」

 

 わかってるが、どうしても虐めてしまいたくなってしまう。

 肩を震わせる雪ノ下に、愛らしさを感じてしまうのは、俺にSッ気があるからではないはず。あれだ、好きな子に意地悪したくなるってやつだと思う。

 

「あなた、わかってて言ってるんでしょ」

 

 ついに我慢できなくなった雪ノ下は、こちらを振り向き、俺を睨めつける。

 その表情に、どきりとしてしまった快感は、言わないでおく方が賢明なようだ。それよりも、これ以上ひっぱると、あとが怖い。いや、まじで喧嘩だけはしたらいけないって、心に決めている。あの精神を削られるような攻撃は、雪ノ下家の秘儀だと思うよ。

 

「悪かった」

 

「もう一度言ってくれないかしら」

 

 おずおずと俺の胸に手を伸ばし、手のひらを押しあててくる。そして、俺は、そのいじけた可愛い顔を喜ばせるために雪乃が望んでいる言葉をささやくしかない。

 

「悪かったな、雪乃。ちょっとからかいすぎた」

 

「今回のところは許してあげるわ。だけど、八幡のせいで由比ヶ浜さんは少し待っててもらうことになってしまったわね」

 

「それは仕方ないな」

 

 今度は手のひらだけでなく、雪乃の体ごと俺に預けてくる。

 それをそっと抱きしめてやると、可愛い吐息を洩らす。小さな体がすっぽり収まってるのを感じていると、昼間っからなにやってんのかなって考えてしまう俺がいるけど、まあ、俺だから仕方ないか。

 

「ほんと、八幡のせいよ。・・・・ねえ、もう一度呼んでくれないかしら」

 

「俺も雪乃に八幡って言われると、すっごくうれしいよ」

 

 由比ヶ浜には悪いが、30分以上は雪乃のリクエストにこたえ続けた。

 たまにはそんな休日もいいじゃないかと思ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、ヒッキー。ここ教えてよ」

 

「まずは自分で考えてから聞けよ」

 

 由比ヶ浜がいつものように俺に助けを求めてくる。

 少しは自分でやってからにしろといいつつも、素直に教えるあたり甘い。この傾向は、大学に入学してから、さらに強くなったと思う。大学受験の時は、俺と雪乃が二人がかりで勉強を見てやっていたが、今は雪乃だけが学部が違う。

 その結果、必然的にも俺が由比ヶ浜の面倒を見る時間が増える。教養課程ならば雪乃と同じ講義もあるにはあるが、3年になり専門課程になれば、ほぼ皆無になってしまうだろう。

 

「さすがヒッキー。愛してるぅ」

 

 どこまで本気か疑う発言、いや、全く心がこもっていない告白だが、若干の感謝の気持ちくらいは入ってると信じて受け取っておくとしよう。

 

「由比ヶ浜さん。私の彼氏に愛の告白なんて、やめていただけないかしら。この男のことだから、真に受けて、あなたを襲ってしまう恐れがあるわ。さすがに私も性犯罪者の彼女をやっていく自信がないわ」

 

 雪ノ下のやや芝居がかった「よ・よ・よ」と崩れ落ちる姿は、なかなか様になってるなと感心してしまった。しかし、

 

「そんなの真に受けねーよ。ぼっちマイスターを舐めて貰っちゃ困る。これでも女の子が気もないのにしちまう男を惑わす言動には耐性があるんでね」

 

「あまり嬉しくない耐性ね」

 

「ははは・・・」

 

「ほれ。無駄口叩いてないで、先すすめるぞ」

 

「無駄口叩いてるのは、ヒッキーとゆきのんじゃない」

 

 由比ヶ浜の非難を無視して、さっさと終わらせるべく説明を始める。無駄口が面倒なんではない。これ以上やったら、雪乃に潰されるから逃げたまでだ。戦略的撤退。負け戦は、しないに限る。

 こんな軽口や、雪乃がいれてくれた紅茶の飲みつつ、適度にストレスのガス抜きをこなしながら朝からテストにむけてのお勉強をしていた。主に、由比ヶ浜の為だが。

 

 ピピピピピ  ピピピピピ ピピピピピ ・・・・・・・

 

 雪乃の携帯着信音が室内に鳴り響く。雪乃は、勉強の邪魔をしてしまったと、申し訳なさそうに慌てて電話にでて、そのまま廊下に行ってしまった。

 

「ゆきのんになんか気を使わせちゃったなぁ」

 

「気にするな。雪乃も気にしてない」

 

「よくわかってるんだね」

 

「そうかな? 一緒に住んでても、まだまだたくさん分からないことだらけだぞ。お前のことだって大学じゃ一緒にいるけど、何考えてるか分からないし」

 

「ヒッキーには私の気持ちなんてわからないよ」

 

 由比ヶ浜は、俯きながらも、ノートではないどこか遠くを見つめている気がした。

 

「さ、ここも教えて」

 

「だからちょっとは考えろよ」

 

 今日も由比ヶ浜に救われる。俺は、由比ヶ浜の誘導にのって、演じていけばいい。俺達の微妙な距離感を保っていられるのも、由比ヶ浜が常に空気を読んで距離感をはかってくれているからなんだろう。

 だけど、それも最近の由比ヶ浜の行動からは、理解できない行動も出てきたことも事実であり、俺は、あまりそれを考えたくなかった。

 悪い癖だ。根本的解決を先延ばしにして、うやむやにしてしまう悪い癖がまだ抜けきれないでいる。

 

「八幡。悪いのだけど、この前行った文具店の地図もってないかしら? 姉さんも行ってみたいって言ってるのよ。八幡もってたでしょ?」

 

 廊下から戻ってきた雪乃がたずねてきた。どうやら陽乃さんからみたいだ。品ぞろえもよく、海外からの輸入文具も多数取り揃えている店とあって、見ているだけでも飽きさせない文具店であった。先日デートがてら行ってみたが、なかなかのもので、いくつか買って来たものもある。

 

「ああ、携帯にまだ地図データ残ってるはず。陽乃さんにメール送っといてくれよ」

 

 そう言って、雪乃に自分の携帯を渡す。

 

「じゃあ、姉さんに送っておくわ」

 

 雪乃は、俺の携帯を操作し、地図を送る準備をはじめた。そんな光景を見て、昔を思い出すように、由比ヶ浜がぽつりとつぶやく。

 

「私がヒッキーのアドレス聞いた時も、こんなだったよね。平気で自分の携帯渡してくるんだもん。プライバシーとか気にしないのかって、驚いたなぁ」

 

「ああ? 俺にだってプライバシーくらいあったぞ。個人情報保護。知られない権利。一人でいる権利。プライバシー保護。そういった権利があるって、昔は本気で思っていたさ」

 

「じゃあ、今はないの?」

 

「ない」

 

「そんな断言しなくても」

 

 俺の切実な叫びに、由比ヶ浜が、若干? いや、おもいっきり引いてしまった。

 

「聞き捨てならない台詞ね」

 

「雪乃?」

 

 身を凍らすような声に、心臓が止まりかける。俺の首を絞めるのでもなく、ただ俺の肩に雪乃が手を置いただけなのに、息苦しくなってきた。

 

「別に八幡が好きなようにしてくれてもいいのよ。でも、私は八幡がどんなことに興味があるのかって気になるだけ。それくらい彼女に教えてくれてもいいわよね」

 

 雪乃の顔が近づいてきて、もう10センチも離れていない。空調が効いていて、快適な温度設定のはずなのに、汗が止まらなかった。息も苦しい。本能が逃げろと訴え続けているのに、雪乃の視線から逃れることができなかった。それもそのはず、俺の経験則が、逃げたら確実に殺されるって断定しているんだから。これは思い出したくもない黒歴史。俺だけじゃない。雪乃にとっても黒歴史に違いない。今日は、そんな苦くも甘い思い出を語ってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっとコーヒーいれてくるわ。雪ノ下は?」

 

「お願いするわ」

 

 いつものごとく、大学が終わったら俺と雪ノ下は一緒に仲良くお勉強。今日は俺の部屋だが、雪ノ下のマンションの比率の方が圧倒的に高い。その方が二人っきりになれるので俺としてはうれしいが、雪ノ下は俺の部屋にも来たがるので、数回に一回は俺の部屋に来る。

 勉強が好きっていうわけでもないが、俺達が付き合うことで成績が下がったなんて思われるのが嫌だった。俺の成績なんて気にしてないけど、雪ノ下の成績が下がるのだけは我慢ならない。こいつが実家にどんな思いをしているかわからないし、詳しい話もしてくれてない。

 だけど、付け入るすきを作るわけにはいかない。これだけはわかる。俺達が付き合っていくには、乗り越えなきゃいけない障害があるってことくらいアウトローの俺でも理解できていた。

 

「砂糖とミルクは?」

 

「お願いするわ」

 

「りょ~かい」

 

 キッチンに行き、素早くコーヒーを用意する。雪ノ下の好みの甘さも熟知しており、砂糖とミルクの量にも迷いがない。甘いものも欲しくなるだろうから、菓子類も少し拝借した。

 

「ほれ」

 

 カップを雪ノ下の邪魔にならない位置に置くが、雪ノ下はノートパソコンから目を離さなかった。おかしい。何かが変だ。そう思いつつも、ローテーブルの自分の席につこうとしたが、雪ノ下が座っている席こそが自分の席だった。ならば、雪ノ下が見ているノートパソコンは必然的に俺のパソコンっていうことになるわけで・・・・・・。

 

「雪ノ下さん。どうして俺のパソコン使ってるんでしょうか?」

 

 小さな刺激でさえも爆発させてしまうような雪ノ下を恐る恐る声をかけ、その液晶画面を覗き込む。

 

「高尚な趣味をお持ちのようね。逝ってくだされば、よかったのに」

 

 字が違う。絶対あの世に逝けっていう意味で言ってるだろ。

 

「俺も男の子っていうことで・・・・・」

 

 激しく目が泳ぐ俺を許すわけもなく、息の根を止めるためにモリを撃ち込まれる。

 

「比企谷君もこういう卑猥な画像に興味があったわけね」

 

 画面に映されていたのは、俺が集めたエロ画像と動画。しっかりとフォルダの奥深くに隠してあったはずなのに。ちょっと目を離した隙にどうやって?

 

「事態が呑み込めてないみたいだから、教えてさしあげるわ」

 

 雪ノ下が肩にかかった髪を払うが、それが仕草が美しいなんて思っている余裕もなく。

 

「勝手にあなたのパソコンを使ったことは謝るわ。でも、いつもお互い使ってるでしょ?」

 

「別にそれについては怒っちゃいねぇよ」

 

「そうね」

 

 携帯もそうだが、パソコンであっても気にせずそのまま貸してしまう。さすがに雪ノ下の携帯を無断で使うってことはないが、検索やネットを見るために雪ノ下のパソコンを無断で使うことは多い。しかし、それも雪ノ下は了承済みで、とやかく言うこともない。

 だが、俺が気兼ねなく貸しているのは、持ち運び用に使っているパソコンであり、自宅に置きっぱなしのパソコンではない。自宅のには、雪ノ下には絶対見られてはいけない秘蔵のコレクションがあるわけで・・・。

 油断していた。今日は自宅だから、そのまま自宅のパソコンを使っちまった。慣れっていうものは、まじこえ~な。

 

「私のパソコンフリーズしちゃったから、再起動するまでの間、ちょっとだけ借りようと思っただけなのよ。そうしたら、履歴に怪しいアドレスがあったから、ちょっとね。」

 

 そこから秘蔵ファイルまで見つけ出すなんて、どんな処理速度だよ。ユキペディアさんは、どこまで知りつくしているんですか。

 

「なにか申し開きがあるのなら、聞くけど?」

 

 笑顔が怖い。下等生物を見下す冷徹な目をしてるし・・・・・・。

 

「なにもありません」

 

 素直に全面降伏するしかない。無駄なあがきはかえって傷を増やすだけだ。白旗を振りつつ、ゆっくり退却していくしかない。退却できればいいけど。

 

「なら、説明してくれるかしら?」

 

 俺は隣に座れと手で招かれるので、素直に座る。彼女と仲良く?Hな画像を見るという奇妙な展開になってしまった。ラノベとかで、そういうシーンを読むんなら笑っていられるけど、実際自分が体験するとなると、まじで死にたい。

 

「なにを説明すれば、いいんでしょうか?」

 

「こういった下着を着た女の人が多いのだけれど、これは比企谷くんの趣味かしら?」

 

 たしかにきわどくカットされた刺激的な下着が多い。ガーターベルトに、どこを隠しているかわからないのやら、俺が実際目にすることなんてないような下着の数々が画面に映し出されていた。

 

「男の子だし、色々見てみたいかなって・・・」

 

「それは聞いたわ」

 

 すぐ横にある雪乃の目が、これ以上手を煩わすなと語っている。横目で睨みつける視線が、部屋の温度を10度は下げているはず。

 

「別にいいのよ。あなたがこういういかがわしい画像を見ても。ただね、私の彼氏がどういった趣味嗜好をお持ちなのか知っておく必要があると、強く感じるの。だから、この下着のどういうところが魅力的なのか語っていただきましょうか。」

 

「はひ・・・」

 

 その後、俺は、夜遅くまで食事抜きで自分が集めたエロ画像を一つ一つ何故保存したのか、どこが気にいったかなど、尋問に答えるまま詳細に説明していった。そして、一日で全て終わるわけもなく、俺のノートパソコンは証拠物件として雪ノ下が持ち帰える。また、俺の部屋の捜索もその日のうちに行われ、素直に提出したエロ雑誌も押収物として、雪ノ下が持ち帰った。

 もし、彼女に自分の趣味嗜好を事細かに語ったことがやつがいるんなら名乗り出てほしい。この消えないだろうトラウマを癒す参考したい。

 まあ、そんなわけで、俺の黒歴史はこんなものだ。

 ただ、この話には続きがある。雪ノ下は、どういうわけか、俺の趣味嗜好にそったきわどい下着を着たりしてくれるようになったのは、嬉しい誤算だった。

 きっと雪ノ下のことだから、負けず嫌いもあっての対抗心なんだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日後、今日もいつものように雪ノ下のマンションでお勉強だ。今は雪ノ下が紅茶をいれてくれるとのことで、休憩中。パソコンであてもなく適当にメールやらニュースやらを覗いてると間違えて迷惑メールをクリックしていまった。

 そうすると、突然ブラウザが立ち上がり、半脱ぎの女子高生の姿が映し出される。後ろから足音が聞こえることからして、雪ノ下が戻ってきたようだ。心臓が絞りとられるような汗が噴き出してきた。俺は急いでブラウザを閉じ、迷惑メールを消去することで証拠隠滅を図る。

 雪ノ下がテーブルまで戻ってくる数秒で気持ちを再起動し、何もないように対応できたと思う。雪ノ下のその後の様子も普通だったし、問題ないと思ってた。

 あの夜までは・・・・・。

 

「ねえ、比企谷君。どうかしら?」

 

「どうって、どうしたんだよ?」

 

「似合ってない? さすがに高校を卒業した人間が高校の制服を着ても似合わないわよね。」

 

「似合ってるけどさぁ・・・・。ついこの間まで制服を着た雪ノ下を毎日見てたんだし、違和感なんてない。」

 

 どこからひっぱりだしてきたのか、高校の制服を身につけている雪ノ下が目の前にいる。しかも、俺に見せつけるかの如く、回ったり、スカートの裾を少し持ち上げたりとファッションショーを始める始末。

 

「だったらいいのだけれど」

 

 そう言って、迫ってくる雪ノ下に逆らえるはずもなく、俺はベッドに押し倒された。

 

 

 

 

 

 翌朝、雪ノ下が朝食を作ってくれているのを横目に昨夜の出来事を検証していた。

 たしかに今まで、俺の秘蔵コレクションにあった嗜好にそった誘惑はあった。でも、俺には女子高生関連の嗜好はなく、そういった画像・動画はなかったはず。ここにあるのは持ち出し用で、エロ関連なんて入ってないし、自宅のも雪ノ下が全て消去してしまったが、なにかヒントはないかとパソコンをいじっていると、履歴に一つだけかすかに見覚えがあるHPが表示されている。

 これか。この前の迷惑メールのやつが履歴に残ってて、それを雪ノ下がみたっていうわけか。でも、雪ノ下のやつ、何も言ってこないしなぁ。どう対処していいか迷ったが、一つ罠を仕掛けておくことにした。俺の秘蔵コレクションにはないエロ関連をわざと入れておき、しばらく雪ノ下の出方をみればいい。

 まずは、まだ持ってるかわからないけど、体操服あたりにしておくか。そういうわけで、俺の実験が始まった。

 数日後の夜。俺の予想は的中し、体操服姿の雪ノ下がいたことはご想像に任せよう。その後は、ちょっとずつ、慎重に。しかも、雪ノ下が引かない程度に・・・、と、徐々にエスカレートしていくわけだが、その後なにがあったかは秘密だ。

 

 

 

 

 

 そして、ある日の午後。

 さすがにSMはなぁ・・・・。今日も、雪ノ下になにを着てもらおうかと作戦を立てていると、音もなく雪ノ下が背中から抱きついてきた。

 

「ふぅ~ん。比企谷君って、こういうのが趣味だったのね」

 

「これは・・・・、いつから見てた?」

 

「なにか独り言をいいながらエッチな画像を見てるところからかしら?」

 

「それって、最初からってことじゃ?」

 

「あたながこの前着させた猫耳あたりから知ってたわ。でも、あなたが気がつくまで、どうしようかしらって思って。」

 

 今日のことだけではなく、ずっと以前からのことも全部ご存じのようで。ここは、土下座して謝るしかない。そう思い、雪ノ下の腕を振りほどこうとしたが、力が込められた腕からは逃げられることはなかった。

 

「どこに逃げるつもりかしら?」

 

「どこへって。土下座して謝ろうかと」

 

「そんな謝罪はいらないわ。言ったわよね。あなたがどんな趣味嗜好があってもかまわないって。だから、私に分かるように教えてくれないかしら」

 

「その手に持っているのは、なんでしょうか?」

 

「ロープよ。だって、縛られてた方が気持ちがわかるかと思って。さ、手を後ろに回してくれないかしら? あなたの手を縛れないじゃない」

 

 俺は雪ノ下に拘束され、正座のまま足がしびれようが翌朝まで説教を受け続けた。その後、お互いコスプレにはまってしまったことは秘密にしておく。

 ま、これが雪乃の黒歴史ってわけだ。

 それ以来、俺はそういったたぐいのものは見向きもしなくなった。しかも、拒絶反応まで出るまでである。間違って迷惑メールを開いたときは、すぐさま雪乃に報告するようになったのはけっして雪ノ下が怖いからじゃないってことは信じてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

6月8日 金曜日

 

 

 

 6月になり、雨の日が多くなると、必然的に自転車での通学はできなくなる。俺一人ならば、カッパを着て突っ切ってもかまわないが、雪乃が一緒だとそうもいかない。風邪をひかれるのも嫌だし、・・・・・雨で雪乃の服が透けるのは、もっと嫌だった。

 最近、というか雪乃と付き合いだしたときからうっすら自覚してたが、俺は存外独占欲が強いようだ。もともとそこに存在しているだけで注目を集めてしまう雪乃だったが、いやらしい目をした男どもの前に晒されるのだけは許せない。そんな小さすぎる俺を見せない為にも、そういうハプニングを未然に防ぐ努力だけは、やめることができなかった。

 雪乃にだけは、絶対に知られたくない秘密だ。たぶん、いや、高確率で知られてるんだろうけど・・・・・。

 小雨が降る中、俺は雪乃と二人、傘をさし、駅に向かう。カッパを着て、無邪気に母親にまとわりついていた子供が横を走り抜ける。雨の中、無邪気にはしゃぐ気持ちにはどうしても共感できないでいた。傘をさした分、若干いつもより二人の距離がひらいてしまっていることにいらだちを覚えるのも、きっと連日の雨のせいだけではないはずだ。

 

「こう毎日雨降られると嫌になるな」

 

「そう? 私は、こうして二人で歩きながら駅に向かうのも悪くないと思うわ。自転車で行くのも楽しいのだけれど、話しながらゆっくり歩くのも、有意義な時間じゃない?」

 

 首をかしげ、傘の下から覗き込む姿が、あまりにも絵になってしまい見惚れてしまう。雨でしっとりとした髪が頬に張り付くのさえ、妙に艶っぽく感じられた。

 

「そうだな。・・・・たまには歩くのもいいかもしれない」

 

 自分の意見を即座に撤回するあたり、小町の言葉は真実味を帯びていると思えた。

 小町曰く、

「最近のお兄ちゃんは、雪乃さんにデレすぎ。見ているこっちの方が恥ずかしくなっちゃう」

とのこと。

 自分でもその自覚はある。顔が赤くなってしまったのは隠せないが、せめてもの意地で言葉ぐらいは平静さを装おうとしたが、かえって声が裏返ってしまう。そんな俺を見透かしてしまっている雪乃に恥じらいを感じていたが、今では、それさえも心地いい空間になってしまっていた。

 

「そうでしょ?  ・・・・・・でも、最近コミュニケーション不足じゃないかしら?」

 

 雪乃は、一呼吸あけてから、どきりとする話を切り出してきた。あまりにも平凡で、あまりにも倦怠期を迎えたカップルの台詞に俺は強く反発してしまう。

 

「そんなことねーよ! 俺は、今のこうした何気ない会話でさえ新鮮で、喜びを感じている。最近、レポートで話をする時間が減ってきているけど、それは仕方がないっつーか。でも、俺は、朝食の時とか、わずかな時間時でも雪乃と話す時間があると思うと、すっげーうれしくて、レポートも頑張ってしまうっていうか。それが、レポートに時間食ってしまう悪循環になってるかもしれねぇけど・・・・・・」

 

 あせりもあってか、言葉がまとまらない。強引に一気に巻くしあげ、必死の弁明を繰り広げる俺を見て、雪乃は優しく微笑みかけてくる。

 

「そんなに私といると楽しい?」

 

「楽しいよ」

 

 ばつが悪くて、つい顔を背けてしまう。そんな俺を見かねた雪乃は、傘を閉じ、俺の傘に入ってきた。雪乃は、俺が傘をさしている腕に腕をからめると邪魔になるのではと思案していた為そっと俺の腕に手を触れてきただけだったが、そのまま遠慮がちに腕をからめてくる。

 

「私も楽しいわ。こんなに喜びを感じることなんて、今までなかったわ。でも、最近ちょっと物理的接触によるコミュニケーションが不足がちだと思うのだけれど」

 

「雪乃?」

 

「だから、駅までこうしていきましょう」

 

 俺は雪乃を見ることができない。まっすぐ前を向き、傘をいつもより深めにさして歩き続ける。下から俺を覗き込む雪乃には、俺が顔を赤くしているのが丸見えだけど、それでも、にやけてしまう顔を直接見せることだけはできなかった。残ってたレポートを思い出し、できる限り迅速に終わらせる計画を立てようとしたが、それは後回しにすることにした。

 今は、雪乃を感じていたいから。

 

 

 

 

 

 雨が強くなっていくのを眺めつつ、ここ最近乗っているいつもの電車を雪乃と待っている。通勤ラッシュが終わり、一息できるこの時間。朝の講義にはぎりぎりであったが、人ごみにもまれるよりはましだ。

 

「早く梅雨明けねーかな。こう雨ばっかりだと腐っちまう」

 

「そうね。八幡の場合、このままだと腐り落ちてしまうわね」

 

「既に腐ってる前提ですか」

 

「ええそうよ。でも、私もあなたとなら、このまま腐り落ちていってもいいって最近思うようになったわ。」

 

「それは・・・・・、まあ、あれだな。腐らないように努力します」

 

「ええ、そうしてくれると助かるわ」

 

 朝から体温が上昇する発言だけはやめてほしい。こう蒸し暑くて不快なのに、雪乃に振り回されて汗が滝のように流れてしまう。

 

「汗すごいわね」

 

「誰のせいだと思ってるんだよ」

 

 恨みがましげな視線で抗議すると、できの悪い弟を甲斐甲斐しくも世話をする姉のごとくバッグからハンカチを探し出そうとしていた。傘が邪魔になって、うまく探しだせないでいると、ホームに電車が入ってくる。雪乃はバッグの中に意識が集中しているせいで、電車から降りてくる客に気がつかないでいた。

 

「雪乃」

 

 電車のドアが開き、中から客が降りてくる。降りてくる客の邪魔にならないように、雪乃の肩を掴み、抱き寄せた。不意をつかれた雪乃は、足をもつらせ、俺に体重を預ける形になってしまった。雪乃の小さな体が俺の中にいると思うだけでドキドキするのに、雪乃のつややかな髪から漂う香りにも意識が奪われる。雪乃が俺を見上げて、恥ずかしそうに非難の目を送っていたようだがそんなのに気がつく余裕なんてあるわけない。

 

「助けてくれたのは嬉しいのだけれど、いつまで抱きしめているつもりかしら?」

 

「すまん!」

 

 俺は慌てて雪乃を離したが、周りにいる客の視線を十分すぎるほど集めてしまい、雪乃は俺を置いて電車に乗り込んでしまう。一人残された俺は、嫉妬と羨望の視線をありがたく頂戴していた。

 もう、慣れっこよ。

 雪乃の後を追い、隣の吊皮にだらしなく垂れ下がる。しかし、きつい視線を感じ、反射的に背筋を伸ばしてしまう。二人でいるときは、それこそ腐りきって二人で溶けあうほどであっても雪乃は文句を言ってはこないが、人前では、姿勢など、こまごまと注意を受けてしまう。そのことをそれとなく、なんでかって聞いてみたところ、

 

「こういう躾っていうか行儀作法というのは、普段からの行いが大事だと思うのよ。だから、俺が外で行儀が悪いのは、普段から俺を甘やかしている雪ノ下が悪い」

 

「あなたは、私と二人っきりの時も型にはまった作法を重要視した堅苦しい時間を過ごしたいの? もちろん常日頃の行いは大切だわ。でも、息抜きというか、二人だけの時間は、そういった作法とか外での自分を忘れたいというか・・・・・」

 

「そうだな。・・・・なるべく気をつける」

  

「あなたは自分がどう思われようが気にしていないみたいだけれど、私は、・・・・・自慢の彼氏って見せびらかしたい訳じゃないのよ。その・・・・・、あなたが必要以上に見くびられた存在として認識されるのが許せないの。だって、あなたはあなた自身が思っている以上に素晴らしい人なのに。」

 

 って、恥ずかしがりながらも、堂々と告白されてしまった。

 これを聞いてしまっては、男としては、彼女の願いを叶えたいっ。なんというか、まあ、今みたいにパニクってなかったら、たいていはお行儀よくするようになったと思う。

 たぶん、・・・・少しは改善したはずよ?

 

「さっきは悪かったな」

 

「いいのよ。私の方こそ助けてくれてありがとう」

 

 雪乃は、もうなにも気にしていないようで、俺は胸をなでおろす。ほっとして、落ち着いたのもつかの間、汗で湿った髪が額にへばりつき、うっとうしいので髪をかきあげるが、頭から未だ流れ落ちる汗が不快だった。

 

「八幡、こちらを向きなさい」

 

 バッグから、ようやく見つめ出したハンカチを手にしていた。

 

「いいよ」

 

 これ以上雪乃に接近を許してしまうと、さらに汗が出るんではと危惧した俺は雪乃の申し出を断ろうとした。

 

「冷房効いているのだから、このままだと風邪をひいてしまうわ。それとも私に看病してほしくてわざとやってるのかしら?」

 

「そんな面倒なことしねーよ」

 

「だったら、おとなしくしなさい」

 

「よろしくお願いします」

 

 俺は、素直に雪乃に汗をぬぐってもらうが、甲斐甲斐しく世話をしてくれる雪乃を夢中で目で追ってしまった。頬笑みを浮かべる雪乃があまりにもかわいすぎて、今すぐ抱きしめたかったが、周りからの視線に気が付き自重した。周りからのひがみの視線はうっとうしいが、こういうとき気持ちを立て直すことができるので便利つったら便利かもしれない。

 どぎまぎしながらも幸福な時間に浸っていたが、それもすぐに終わってしまう。名残惜しいが、放課後まで我慢するしかないか。しかし、

 

「明日から実家の用事で家を空けるのだけれど、八幡一人で大丈夫かしら?」

 

 そう。雪乃の言う通り、明日から一週間ほど雪乃は実家の用事で実家に戻ってしまう。俺達が一緒に暮らすようになってから、いや、付き合いだしてからでも、一週間も会わないでいたときなんかなかった。

 でも、俺達のわがままを聞いてくれている雪乃の両親のためだ。地元有名企業を経営していて、しかも議員もやってるとなるとその家族も色々忙しいらしい。今までは、姉・陽乃が主だって出ていたが、大学生となった雪乃が呼ばれることも増えてきている。それでも、陽乃が手をまわしてくれているおかげで、雪乃の負担は軽減されていた。

 だから、こういうときくらいは雪乃を実家に帰してあげなくてはっていう思いもある。寂しくないなんて、嘘になるが。夜になったら、絶対雪乃の枕を抱きしめて、ぐるぐる転げまわる自信もある。だけど、心配せずに行って来いなんて、すぐにばれる嘘を言う気もない。

 

「生活していく分には問題ないだろ。ただ、雪乃がいなくて、すっげー寂しいだけだ。だから、一人で大丈夫じゃないけど、行って来いよ」

 

 捻くれていて、矛盾だらけの言葉を送ることにした。

 

「あなたらしいわね」

 

 呆れた顔をして、俺を覗きこむ雪乃が俺に腕をからめてくる。湿った服がからみ合うのは本来不快なはずなのに、雪乃となら全くそんなことない。湿った服が雪乃の腕のラインを強調され、見慣れた腕なのに見てはいけないものを見てしまった気さえしてしまう。

 

「それならば少し充電しておきましょう。それと悪い虫がつかないようにしっかりと私の臭いを刷りつけないと」

 

 冗談とも本気ともとれる表情に、どう反応すればいいか困る。たまに見せるこういう子供っぽい顔も好きだが、こういうときに限って本気の場合が多いというのは、やはり雪乃なりの照れ隠しなんだろう。

 

「俺になんか悪い虫寄ってくるわけねーよ。そういうのは、葉山みたいなリア充イケメン君くらいにしか必要ない」

 

「私もそう思うわ」

 

「だろ?」

 

「一人を除いてだけれども」

 

「ん?」

 

 雪乃の声が小さく聞き取れなかったため聞き返したが、雪乃は俺の問いを無視して話を続けた。

 

「こうやって群衆の前で見せつけておけば、もし八幡がやましいことをしてもすぐに噂になって、私の耳に入るでしょ?」

 

「なんだよ、それ? そんなに俺って信用ない?」

 

「八幡のこと、信用してるわ。でも、念のために・・・。私って、嫉妬深い? 嫌いになった?」

 

「そんなことねーよ。嫌いになんかならねーし、雪乃が嫉妬深いと感じてしまうくらい俺のことを想ってくれるんなら光栄なことだ」

 

 今にも消え去りそうな雪乃を安心させるために、電車の中だっていうのに我ながらくさいセリフを言ってしまった。後悔はしていない。雪乃の不安を払しょくするためだ。そのためだったら、このくらい・・・・。

 後で一人になったときに、身悶えまくって頭を床に打ち付けまくる程度で済むはずだ。その後、一週間くらいは後遺症も残るけど。

 

「八幡、ありがとう。・・・・・・好きになってくれて」

 

 俺にしか届かないような小さな声だったが、今度はしっかり俺の耳に届いた。雪乃の温もりを感じつつ、目的地までのわずかな時間を堪能する。何度も何度も頭の中で雪乃の囁きが繰り返された為、顔が緩みきる。顔が緩んでいたことを雪乃に指摘されたのは、改札口を出てからであった。

 

 

 

 

 

 

 

6月11日 月曜日

 

 

 

 普段学食に通い慣れていない俺は、席を確保するのでさえ神経をとがらせてしまう。こういう場所では、リア充の仲良し集団がお気に入りの席といっていつも同じ場所を確保するやつらがいる。うちの大学くらい大きければ、ごった返しの学食でそんなことできるとは思えないけど万が一ということも考えて、隅の方でこっそりと食事をとることにした。

 いつもの昼食といえば、雪乃と待ち合わせをして、空き教室や天気のいい時だったら中庭などで、雪乃お手製のお弁当を二人で食べるのが日課だった。だから、こうやって学食に来ることは珍しいことで、不安も感じるが、ちょっとだけ楽しみでもある。味に関しては、そこそこ美味しかったという印象が残っていた。雪乃の料理と比べれば、大したことがないが、味というよりは、いかにも大学の学食という雰囲気が味わえることに興奮を覚えていた。

 

「あっ、ヒッキー!」

 

 どんより曇った梅雨の天候とは裏腹に、もう夏が到来してしまった由比ヶ浜の底抜けに明るい声が学食に響く。うちの大学も、そこらの学食と同じように静まり返ってるわけではない。むしろ人が多い分うるさいんじゃないかって思える。しかし、そんな中でも、由比ヶ浜の声は騒音を突き抜けてまっすぐ俺まで届いた。

 俺を見つけた由比ヶ浜は、トレーを持って人の間を持ち前の人懐っこさでてこてことすり抜けてくる。波打つコップの水面を見てハラハラしたが、当の本人はトレーの上の状態などお構いなしだったので、注意の一つでもしてやろうと思った。しかし、昼食の前にお小言なんか聞いてしまうと、味がまずくなるし、言う方の俺も気まずい。だから、お小言は口の中の唐揚げと共に飲み込んだ。

 

「ヒッキーが学食だなんて、めずらしいね」

 

 由比ヶ浜は、空いている俺の隣の席にごく自然に座る。教室では、俺が由比ヶ浜の面倒を見ていることもあって、由比ヶ浜が隣の席に座ることなんて当たり前の光景になってしまっている。だから、最初こそ教室内で噂にもなったりしたが、由比ヶ浜の人気と人当たりの良さもあって、今では特になにか言われたりすることもなくなっていた。

 だけど、学食では別だ。俺が目立ってしまっているのは、雪乃といつも一緒にいるからであるが、その俺がいつもはいない学食で独りで食べているとなると、いやでも注目を集めてしまう。しかも、今は由比ヶ浜という雪乃に引けを取らない注目を集める存在が俺の隣に座っってる。

 どんな噂話をされるかと思うと冷や汗が出てしまう。今まさに同じテーブルのやつらが聴き耳を立てているんじゃないかって自信過剰の猜疑心に悩まされてしまった。俺一人が問題になるんなら、どうってこともないが、雪乃と由比ヶ浜が必然的に巻き込まれるとなると、心中穏やかではいられなかった。

 

「うっす。どうしたんだ? お前の方こそ珍しいな」

 

「ゆきのんは・・・・・、って、実家の用事でいないんだっけ」

 

「そうだよ。だから、学食に食べに来てんだ。久しぶりの学食だけど、結構いけるな、うちの学食。」

 

 見てからしてボリューム満点の唐揚げ定食。肉を与えておけば大丈夫でしょ的発想は安直すぎるがお金はないがボリュームとお肉が食べたい大学生には的確すぎる食事だ。しかも、材料費も考えれば学食からしても使いやすいメニューなんだろう。一つ注文があるとすれば、脂っ毛が少ない胸肉ではなく、ジューシーなもも肉を作って欲しいところだった。まあ、低価格で大学生を満足する量を提供しなけりゃいけないんだしもも肉は高嶺の花なんだろうな。

 

「うん、まあ、そだね。でも、毎日だと、飽きちゃうかなぁ」

 

 由比ヶ浜のメニューは、俺とは違い日替わりランチだったと思う。野菜と肉が両方取ることができる中華丼。肉ばっかりの唐揚げ定食では、人目が気になる女子大生は敬遠するんだろうか?だったら、野菜も取れる中華丼は女子大生にうってつけのメニューなのかなと、自称学食研究家を気取ってみたりする。

 

「そうかもな」

 

「だから、たまに自分で作ってくることもあるんだよ」

 

 俺が由比ヶ浜の壊滅的な料理センスを思いだしてしまったことが顔に出てしまったようで、由比ヶ浜は、すぐさま抗議の視線を叩きつけてきた。

 

「私だって、料理するようになったんだから。だから、少しずつだけど上達してるし。さすがにゆきのんみたいにはできないけど・・・・」

 

 雪乃と自分とを比べることで落ち込む由比ヶ浜であったが、そもそも比べる相手が悪い。俺も料理をする方だが、いくら上達したとしてもあいつに追いつけるとは思えなかった。人には得手不得手があるから、自分にあった長所を伸ばせばいいと思うが、それでもやはり高すぎる山はうらやましく思ってしまうのも人のサガなんだろう。

 

「まあ、なんだ。今度食べさせてくれよ。上達したんだろ?」

 

「うん!」

 

 こうやって由比ヶ浜のフォローなんかするなんて、昔の俺だったらありえないことだった。これでも俺は、短所の方も少しは改善できているってことなのかもしれない。長所と短所。どちらも改善していくことが必要だと思うけど、俺は、人の本質なんか簡単には変えることはできないって、身をもって知っていた。

 

 

 

 

 

「ごちそーさん」

 

 俺は由比ヶ浜より先に食べ始めていたこともあって、食べ終わってしまった。だからといって、由比ヶ浜を置いていこうなんて思ってなかったのだが。

 

「もう少しで食べ終わるから、ちょっとだけ待ってて」

 

「別にゆっくりでいいよ。ゆっくり食えって。それに、次の講義一緒だろ。食べ終わるまで待ってるから、気にするな。」

 

「うん。じゃあ、慌てないで食べるね」

 

 由比ヶ浜は、再び一つ一つ味わいながら食べ始めた。俺は、ぬるくなったお茶をずずっとすすりながら、由比ヶ浜を横目で観察する。微妙に気まずい。食べ終わり、何もやることがなくなると妙に手持無沙汰になってしまって落ち着かない。

 雪乃となら、意識なんかしないのに。これが、俺と雪乃と由比ヶ浜の間に出来てしまった距離の差なのだろうか。普段なにも感じることもなく積み重ねてきた俺達の距離が気がついたときにはどうしようもなくなってしまっていて、それに絶望する日がくるのかもしれない。雪乃も由比ヶ浜も、きっと気がついてしまっているはずだ。俺達はどこで道をたがえてしまったんだろう。

 

「なあ、お前がいつもつるんで昼食べている連中はどうしたんだ?」

 

 俺は、気持ちを切り替えようとして、他愛もない話題を振ろうとした。しかし、すぐさまその話題の選択が間違っていたことに気がつく。

 

「ん?」

 

 箸をくわえるのは、やめなさい。ちょっと、かなりかわいい仕草だけど、雪乃がいたら説教ものだぞ。そんな心配事などつゆ知らず、由比ヶ浜は俺の質問に答えた。

 

「なんか独り寂しく食べているヒッキー見つけちゃったから一緒に食べようかなって。食券買ってるとき席を見まわしていたら、ヒッキー独りなのに目立ってるんだもん。だから、皆に断って、こっちきちゃった。」

 

「あぁ? そんなに目立ってたか?」

 

「そうだよ」

 

 笑いながら話す由比ヶ浜を見て、俺はどんな顔をしているのだろうか。

 俺は知っている。由比ヶ浜は、俺を見つけたからここに来たわけではないって知っている。由比ヶ浜といつもつるんでいる連中は、俺が学食に来る途中に外にでも食べに行こうとしてるのか、こことは逆方向に歩いていっている。だから、由比ヶ浜がここに来るには、最初から俺に会う意思を持ってなければ出会うことなんてできやしないんだ。だからといって、俺はそれを指摘しない。指摘できない。

 あぁ、なんでこんな話題ふっちまったのかな。と、俺が選択ミスを嘆いていると、由比ヶ浜は自分から別の話題を振ってくれた。俺は嬉々としてそれに乗っかろうとしたが、それも間違いだったって後で気がつく。

 

「あのね、ヒッキー」

 

「ん? どうした?」

 

 箸を置き、胸のあたりで両手を合わせてもじもじしていたが、俺の返事を聞くと、まっすぐ俺を見て要件を伝えてくる。

 

「昨日から、ゆきのん実家に戻ってるでしょ。ヒッキーは食事どうしてるのかなって思って」

 

 俺の顔のちょっとした変化さえ見逃すまいと、じっと見つめてくる。そんなに見つめられてしまうと照れしまうものだが、場所が場所だけに、周囲からの視線の方が気になってしまった。

 

「食事って? 今日から弁当ないから、こうして学食で食ってるだろ」

 

「それは見ればわかるよ。じゃあさ、朝とか夜はどうしてるの?」

 

「朝は、パンとかサラダを適当に食べるくらいかな。ま、そのくらいはできる」

 

「サラダって、いばっていうほどの料理じゃないし」

 

「そうだけどよ。朝は色々忙しいんだよ。それに、それくらいで十分だ」

 

「そうだけどさぁ・・・・。じゃあ、夜は?」

 

「夜? 昨日はラーメン食べに行ったな」

 

 どうも今日の由比ヶ浜はくいついてくる。その理由も分かっているけど、だからといって、邪険にはできない。だから、いつものように、のらりくらりとかわすしかない。

 

「今夜は?」

 

「今夜? まだ決めてねぇけど」

 

 しかし、今日の由比ヶ浜のくいつきは、想定以上だった。

 

「決まってないんなら、作ってあげようか?」

 

「いや、それは悪いだろ」

 

「そんなのぜんぜん。それにヒッキー、さっきさ、私が料理上達したか見てくれるっていたじゃない。食べさせてくれって言ってくれたよね?」

 

「そんなこと言ったか?」

 

 口は災いのもとだな。どこか油断していたところがあったのは認めるけど、由比ヶ浜がこうも理屈も絡めて迫ってくるなんて読み違えていた。

 

「言ったよ! 私が料理少しずつだけど上達したって話したときに」

 

 由比ヶ浜が興奮気味に言うものだから、周囲も声の大きさに驚いてこっちを見ている奴も少なくない。このまま話を引き延ばすのも良作じゃねぇな。

 

「そうだったな。たしかに今度食べさせてくれて言ったな」

 

「だったら、食べてくれるよね?」

 

「そ・・それは・・・・」

 

 俺が目をそらそうとしても、俺の前に顔を移動させて追っかけてくる。本当にこのままだと、シャレにならないくらい目立ってしまう。それだけは、勘弁してほしい。

 

「むぅ~・・・・・」

 

「わかったよ。今度食べさせてくれ。だけど、今夜は駄目だ」

 

「なんで?」

 

「雪乃がいないのに、由比ヶ浜を一人部屋に上げるわけにはいかないだろ?」

 

 こんなこと言うのは卑怯だってわかってる。だけど、今日の由比ヶ浜は、雪乃の名前を出さないとひいてくれないだろう。

 

「・・・・そだね」

 

 中腰に立っていた由比ヶ浜は、自分の席に身を沈め、肩を落とす。

 

「だ・・・」

 

 由比ヶ浜は、俺の言葉は遮って、今度こそはと新たな提案を打ち出してくる。

 

「だったら、明日。明日のお昼お弁当作ってくるね。これだったら、問題ないでしょ?」

 

 ここまで言われたら、俺は折れるしかないかもしれない。

 

「ね!」

 

 由比ヶ浜の顔が迫ってくる迫力に押されて、ついに俺は由比ヶ浜の提案を承認した。その後、由比ヶ浜は嬉々して残りの中華丼を平らげ、一緒に午後の講義に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

6月12日 火曜日

 

 

 

 翌日の昼、俺と由比ヶ浜は、午前の講義が終わると弁当を食べるために空き教室に向かった。いくつか空き教室をチェックしてあったが、その中でも比較的人が少なく、なおかつ雪乃と普段使っていない教室を選択した。やましい気持ちが全くないって否定できない。やましいというよりは、後ろめたいんだろう。

 

「ねえ、ヒッキー。そんな難しい顔しないでよ。友達のために、お弁当作ってきただけだよ」

 

「それもそうだな。遠慮せずに、いただくとするよ。いただきます」

 

「召し上がれ~」

 

 由比ヶ浜が自慢するほどの成果はあったと思う。若干不揃いなところがあるけど、見た目も悪くないし、味も申し分ない。不器用ながらも、日々の努力が見受けられた。

 

「どう・・・かなぁ?」

 

「ああ、うまいぞ。初めてお前のクッキー食べた時からしたら信じられないほど進歩してる」

 

「クッキーを基準にされると、誉められたのかよくわからないんだけど」

 

「お世辞抜きでうまいって」

 

「ほんとに? よかったぁ・・・・」

 

 由比ヶ浜は、心底ほっとした様子だった。そんな由比ヶ浜をみていると、こっちまで嬉しい気持ちになってしまう。駄目な子ほどかわいいってやつだ。

 

「この卵焼き自信作なんだ。最初は焦がしちゃったり、フライパンにくっついて、うまく巻けなかったりしたんだけど、今はうまくできるようになったんだよ。」

 

 由比ヶ浜がはしゃぎながら自慢するように、うまそうな卵焼きである。うっすら焦げ目がつきながらもふっくらしていて、いかにも食欲を掻き立てる。

 

「そんなにいうんなら、食べてみっか」

 

「うん。食べてみて。・・・・・・はい、あ~ん」

 

「え?」

 

「え?じゃないよ。だから、あ~ん」

 

 由比ヶ浜が、箸で卵焼きをつまみ、俺に食べさせようと目の前に卵焼きを運んでくる。

 

「自信作なんだから、食べて、食べて。」

 

「それくらい自分で食べられるから・・・」

 

「むぅ~・・・・・」

 

 上目遣いで迫ってくるあたり、雪乃とは違った魅力があった。忠犬のようにまっすぐな瞳で見つめられてしまうと、思わず頭をなでたくなってしまう。由比ヶ浜の昨日からの様子から見ても、ここで引くことはないんだろう。俺がどうしようか迷っていると、しびれを切らしかけた由比ヶ浜は、さらに卵焼きを俺に近付けてくる。

 雪乃に限らず由比ヶ浜も、自分の魅力をうまく発揮する方法を知ってるんじゃないかって疑ってしまうことがある。こうまでして由比ヶ浜の魅力を発揮されると、あらがうこともできず、目の前の卵焼きを食べてしまった。

 

「うん。うまいな。絶妙な甘さ加減だ」

 

「ヒッキーは、甘いほうが好きかなって思って。じゃあじゃあ、こっちも食べてみてよ」

 

 人間、一回悪事を働いてしまうと、2回目、3回目となるにつれて罪悪感を感じなくなっちまう。このときの俺も例外ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

どんよりと曇った空は重く、今にも雨が降り出しそうだった。傷心を演出する為に雨の中をわざわざ傘もささず突き進む真似なんてしたくない。そんなのドラマや小説だけで十分だ。こんな暗い気持ちの中、雨に降られもしたら最悪すぎる。たとえ、自転車をこいでいるときは気持ちが良くても、玄関に一歩踏み入れた時正気に戻ってしまう。誰もタオルを持ってきてくれないのに、どうやってびしょぬれの中、タオルを取りに行けばいいのかって思い悩むことになるはずだ。

水滴が床に残ろうが部屋に入っていけばいいっていうかもしれないけど、雪乃の心までも汚してしまう気がして嫌だった。

 

「もう少しもってくれよ」

 

俺は、誰に聞いてもらいたいわけでもないのに、一人愚痴る。

大学の門を出て、信号が青に変わるのを確認すると、強くペダルと踏み込んだ。その後は、全速力で駆け抜けている。信号が見えたら、タイミングよく青信号に当たるよう速度を調整する。俺は、止まることを拒否していた。ペダルをこぐのをやめ、赤信号を眺める数秒であっても意識がペダルから離れてしまえば、きっと由比ヶ浜の笑顔を思い出してしまうから。

 はにかんだ笑顔で弁当を差し出す姿を思い出してしまう。

 もう少しもってくれ?

 なにがもってほしいのだろうか?

 天気なのか?

 それとも、自分の心なのだろうか?

 俺は、何も考えない為に、ペダルを全力で踏み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 幸いマンションについても雨が降ってくることはなかった。天気予報通り、夜から降り出すのかもしれない。玄関のドアを開け、ふらふらとリビングのソファに倒れこむ。脚の方から忘れていた疲労感が駆けあがってくる。喉も乾き、水が飲みたかったが、キッチンに行くのでさえおっくうであった。

 頭の中を空っぽにして、余計なことを考える余裕さえなくしてしまえば、昼間の由比ヶ浜との昼食など、大したことがないように思えた。実際、雪乃と3人で弁当を持ち寄って食べたこともあったし、見るからに危険な由比ヶ浜お手製のおかずを由比ヶ浜に無理やり口に放り込まれたこともあった。

 なにか馬鹿らしくなり、乾いた笑いが漏れる。

 そんなの虚言だ!

 本当は、自覚している。雪乃は、俺が由比ヶ浜と常に一緒の講義に出ていることを快く思っていない。さらに、俺が由比ヶ浜の勉強の面倒までみていることに嫉妬している。大学では、雪乃ではなく、由比ヶ浜と付き合ってるのではないかと噂されているのを、雪乃は大声で否定したいってわかっている。

 だけど、雪乃にそれを全部心の奥にしまい込ませてるのは、俺のせいだってわかってた。

 どうして俺は弱くなった?

 俺は、なにがあっても独りで生きてきたんじゃないのかよ。なのに、どうして何もできなくなった?

 

 

 

 

 

 

 

 うす暗い室内に、淡い光が点灯する。気がつくと、手には携帯電話を握りしめ、発信ボタンを押していた。発信先は、もちろん雪乃だった。慌てて終了ボタンを押そうとしたのだが、既に遅い。

 

「もしもし?」

 

「うっ・・・ぃぉ」

 

「八幡?」

 

 喉が渇ききっていたことを忘れていた。軽い脱水症状を起こしていて、声を出すことができない。代わりにしゃがれた空気を吐く音のみがし、雪乃を困惑させる。

 

「ぁ・・う」

 

「八幡!? なにかあったの? ねえ?」

 

 雪乃の切羽詰まった声が聞こえてくる。今にも泣きだしそうな声に変っていくのが分かり、聞いている自分の方が申し訳なくて泣きそうだった。

 俺は、勢いよく立ちあがるが、視界がぶれる。脳に酸素が足りず、立ちくらみを起こしたらしい。脱水症状と立ちくらみ、最悪すぎるタイミングだ。片膝をつき倒れることは避けられたが、弾むように携帯が転がる。足をふらつかせながらも携帯を拾うが、どうにか電話は切れていなかった。

 脚の悲鳴を脳から切り離して冷蔵庫に駆け寄る。携帯を落とした時の音も、慌てた足音さえ携帯のマイクが拾ってしまう。しかも、途中何度か脚に力が入らないせいで、もつれて倒れそうにもなり、そのたびに鈍い大きな音を携帯のマイクに拾わせてしまった。

 携帯からは、雪乃がすすり泣く声が聞こえてくる。今すぐ声を出して雪乃を安心させたかった。焦る気持ちを抑えつつ、大きな音をたてないよう携帯をそっとテーブルに置く。そして、冷蔵庫を勢いよく開け、ミネラルウォーターのペットボトルと取り出す。焦る気持ちと、べたついた汗のせいで、うまくキャップがまわならない。携帯を横目で見ると、静かな室内に、かすかに雪乃の悲鳴が漏れているのがわかった。

 どうにかキャップを開けたボトルを勢いよくのどに流し込む。ここで蒸せ返したりでもしたら、さらにロスタイムをかせいでしまうので、なるべく慎重に喉を潤した。全て飲み干し、ダンっと力を込めてテーブルにペットボトルを置く。すぐさま携帯を手に取り、声を出す頃には、せっかくひいていた汗が再び頭から大量に流れていた。

 

「雪乃!」

 

「はち・・まん?」

 

 涙声が痛々しく聞こえてくるが、とにかく誤解を解くことを最優先にした。

 

「すまない、雪乃。電話かけたのはいいが、喉がからからで声が出なかった。まじで心配掛けてごめん」

 

「え・・・・・・・・・。 ほんとに?」

 

「嘘ついてどうするんだよ」

 

「それはそうだけれど・・・・。本当に大丈夫なの?もしかして、だれかに言わされてるとかないわよね?」

 

 なかなか信じてくれない雪乃であったが、仮に俺が雪乃の立場だといたら雪乃と同じ反応をしていたと思う。なにせ、自分で電話しておきながら、意味不明な行動をしてるのだから疑うなっていう方が無理がある。

 

「そんな大事件に巻き込まれてないって。」

 

「あなたに何かあったと思うに決まってるじゃない! うぅ・・・・・ひっく・・・・」

 

 ぐずつきながらも会話を成立することができていたが、とうとう雪乃の緊張の糸が切れてしまった。あれこれ雪乃をなだめる言葉をかけるが、一向に収まる気配がない。

 TV電話への切り替えをまじめに考え始めたころ、雪乃の方で変化があった。

 

「ちょっと待っててくれないかしら? すぐに戻るから・・・」

 

 そう俺に告げると、携帯のスピーカーからは、かすかに雪乃と誰かが話す声が聞こえてきた。実家の用事で行ってるから、近くに家族がいるかもしれない。そう考えると、非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。電話口で雪乃が泣きながらとり乱している姿を親が見たらどう思うかなんて俺でさえ想像できる。

 

(何も問題ないわ。・・・・・・・・・・ええ、八幡から。・・・・・・・・・・・だから、私の勘違いだったのよ。・・・・そうよ。八幡が電話してきたものの、なにか向こうで・・・・・・・わかったから。・・・・・・そうするわ。その時はお願いするから)

 

 やはり誰か家族がいたらしく、余計な心配をさせてしまった。

 冷や汗が吹き出し、ペットボトル1本を全て飲んだばかりなのに、喉が渇く。たまらず冷蔵庫からもう一本取り出し、口に含む。今度はドジを踏むこともなくキャップをあけることができた。半分くらい飲んだところで、雪乃が電話に戻ってきた。

 

「ごめんなさい、八幡。待たせちゃって」

 

「いや、こっちこそ心配掛けさせてしまって、なんか悪いな」

 

「でも、そんな状態になっても電話してきてくれるだなんて、少し嬉しいわ。さて、本来なら夜電話する約束だったのに、今電話してきたということは、なにかあったのね」

 

 さっきまで散々泣いていたはずなのに、この切り替えよう恐れ入る。名探偵雪乃が登場する前に全てげろった方が身のためだと、俺の直感がささやく。いつものように心をじわじわ削っていって、丸裸になった心にとどめの一発をぶち込んでくるだけなら、喜んで受け入れよう。

 まあ、後遺症が残る恐れが高いから、なるべくなら避けたいところだけど。

 しかし、今回は雪乃を泣かせてしまったというのが痛い。自分の中での問題なら、自分一人で抱え込めば済む問題だけど、雪乃まで巻き込むとなるとそうもいかない。考えるまでもなく、俺が独りで生きていく力が減退してしまったのは、雪乃と向き合うようになってからだ。

 だったら、俺は・・・・。

 

「まずは、謝罪からさせてくれ。心配掛けて悪かった」

 

 俺は、電話だというのに頭を下げる。漫画とかでこういうシーンを見るが、本当にやるやつがいるなんてって、変に感動を覚えてしまったが、今はそれどころではない。まじめな話、雪乃が目の前にいたら、土下座してたんだろうと思う。最近価値が暴落しまくっている俺の土下座だけど、誠意だけは尽くしたかった。

 

「謝罪はもういいわ。私の方もとり乱して、ごめんなさい」

 

「それは、いいものみられたっつーか。俺のことで、あんなに泣き乱れてくれるなんて、愛されてるのを再確認できたっていうか、・・・・ごちそうさまっす」

 

「それは、もういいわ。ちゃかさないで、正直に話しなさい」

 

 正直に話してるつもりなんだけどなぁ。たぶん雪乃も俺の本音だと気が付いているはずだし、ちゃかすなと突っぱねはしたが雪乃が照れているのは電話でも分かってしまうほどだった。

 

「声が出なかったのは、大学から全速力で帰ってきたのが原因だ。そのせいで軽い脱水症状を起こしたらしい」

 

「そこまでマゾだったとは、気がつかなかったわ」

 

「そんな趣味ねぇから。疲れ果てて、水を飲みに行くのも面倒だったんだよ」

 

「それでも、電話かけてくれたのは、なぜかしら?」

 

 一番話さなければならない話題に切りこんでくる。

 そして、雪乃の空気が変わるのが肌で分かった。緊張をほぐそうと飲みかけのペットボトルをとろうとしたが、手を伸ばしたところで取るのをやめた。たとえ喉を潤したところで、うまく声を出せるとは思えない。だったら、今の気持ちをあるがままに吐き出したほうが得策だとさえ感じられた。

 

「今日・・・・・・・・・・・、由比ヶ浜と弁当を食べたんだ。昨日、由比ヶ浜が弁当作ってくるって約束してさ」

 

「そう」

 

 雪乃は短く、そう答えただけだった。

 おもいっきりののしられた方がましだ。その方が雪乃に精神的余裕があるって読みとることができるから。だけど、一言だけって。こんなにも重い一言なんて、味わったことがなかった。

 いや、一回だけあるか。その時は、今とは真逆のシチュエーションだったけど・・・・・。

 

「それでさ、卵焼きうまくできたっていうものだから、それから・・・・、それで、あ~んって由比ヶ浜に食べさせてもらって。そんな感じです。・・・・はい」

 

 なに言ってんだよ、俺!

 正直すぎるだろ。ここまで詳細に話してどうしろって言うんだ。雪乃だって聞きたくない内容だろうし。つーか、雪乃が誰か知らない男にこんなことしたら、多分自殺してるんだろうな。

 って、なに言ってるんだよ。駄目だ。頭の中がごちゃまぜで、言いたいことがまとまらん。

 だけど、俺がやられたら嫌なことを雪乃にしてしまったってことだけは理解できた。自分がやられたら嫌なことを、雪乃にしてしまうなんて最低だ。

   

「雪乃。実家に行く前に、散々不安な思いはさせないって誓っておきながら、それをやぶって、ごめんなさい」

 

 もう一度、目の前にいない雪乃に向かって頭を下げる。

 

「もういいわ。八幡が何が言いたくて、何を思って自暴自棄な行動していたか、だいたい想像できたから。でも、・・・・・・・本当に反省してる?」

 

「反省してます」

 

「もうしない?」

 

「もうしません。」

 

「今すぐ謝りに来てっていったら、来てくれる?」

 

「行きます」

 

「今、新宿のホテルにいるのよ」

 

「たとえ海外にいたって、謝りに行く」

 

「そんなお金ないくせに」

 

 雪乃の声に安堵が混ざってくる。いつもの会話が俺達を癒す。雪乃の声が俺を癒すように、俺の声が雪乃を癒していく。

 

「小町に頼んで借りるさ」

 

「ご両親では、ないのね」

 

「俺が親に直接頼んでも、貸してくれないつっーの」

 

「相変わらず、信頼されてないのね」

 

「信頼されてるから、放任されてんだよ」

 

「それは、放任されてるから、相手にされてないと考えるべきではないかしら」

 

「それは違う。相手にしなくてもいいくらいできた息子って取るべきだ」

 

「あなたって、どこまで楽観的思考をしてるのかしら・・・・。これだから、ほっとけないのよ。」

 

 俺は雪乃を守るって宣言したのに、逆に守ってもらう存在になってしまってるのではないだろうか。弱くなった俺に、存在価値があるかって疑ってしまう。

 だから、俺は、雪乃に質問してしまった。

 

「なあ、雪乃」

 

「なにかしら?」

 

 俺の空気を察した雪乃の声も鋭さがにじみ出す。

 

「俺って、弱くなったよな。独りで生きていけるって思ってたけど、最近は、そんなこと全然ない。」

 

「弱いって、いけないことかしら?」

 

「お前を守るって、雪乃の両親の前で宣言しておきながら、今の俺は情けない姿をみせてるからさ・・・・・。」

 

「そんなの傲慢だわ。私は、あなたに守られるだけの存在になんて、なるつもりはないわ。」

 

「雪乃?」

 

「私の両親の前で、堂々と言い放つあなたを見て、どんなに心強いと思ったか想像したことある? あの姉を巻き込んで、しかも利用までして両親に会おうとしたあなたを見て、頼もしいと思わないわけないじゃない。」

 

 俺は忘れていた。学校では、完全無欠で冷血女の雪ノ下雪乃でさえ弱い存在であるって、

忘れてしまっていた。自分の弱さばかり気にして、他人の弱さから目を背けてて、どうやって雪乃を守るっていうんだ。守る対象を見てなくては、守るものも守れやしない。

 

 

「だから八幡。私の前では、弱くてもいいのよ。」

 

 

 俺の頬に涙がこぼれ落ちる。

 雪乃に許されたから泣いたわけではない。

 雪乃に認められていることに、心がうたれた。

 

「遠慮なくそうさせてもうらうよ。」

 

「ええ、そうしてくれると、私もうれしいわ」

 

 俺は、雪乃を守るために自分の弱さを受け入れた。雪乃を守るためだったら、どんなこともやる覚悟はある。だけど、雪乃を守る力、イコール、独りで生きる力、ではないんだと思う。同じように大きな力だけど、ベクトルが違っている。

 俺は、独りで生きていく力が消失したことを嘆くことなんかしない。その力がなくなったことで、雪乃と歩いていく力が手に入るのならば、喜んで独りを捨てよう。

 だから、俺は強くなれる。

 

 

 

 

 

 俺は床に座り、冷蔵庫に背を預けながら電話を続けていた。

 お互い電話を切ることなんて眼中になかったのかもしれない。電気をつけずにいたせいで、室内は暗くなってきている。窓の外を見ると、雨が降り出していた。だけど、今は耳と口さえ使えれば問題ない。暗くなってぼんやりとしかみえない目の前の食器棚より、ここにいない雪乃の姿のほうがはっきりと脳が姿を描写させてくれていた。

 

「今さらなのだけれど、一つ八幡に謝らないといけないことがあるわ。」

 

「あらたまって言われると、なんか怖いな。」

 

「昨日、由比ヶ浜さんから電話があったの。」

 

 相槌くらい打とうとしたが、脳が反応できない。雪乃も、俺が押し黙ってしまったことを理解したみたいで、話を続けた。

 

「日が暮れてすぐくらいだったかしら。明日あなたにお弁当作ってもいいかってお願いされたわ。」

 

 絶句とは、こういうことなんだなって初めて実感できた。言葉を発すことができないどころか、言葉になってない声さえ出すことができなかった。

 できることといえば、雪乃の言葉を理解するのみ。その言葉を理解する為に、体を動かす全神経を言葉の理解のみに接続したっていうほうがわかりやすいかもしれない。

 一つ分かったことといえば、驚いた。シンプルすぎる判断だけど、これが一番しっくりくる。

 

「八幡? 八幡聞いてる?」

 

「あ・・・あぁ。聞いてる、と思う」

 

 どのくらい脳以外の活動を停止していたか判断できないが、雪乃が心配するくらいには止まっていたらしい。

 

「ごめんなさい」

 

「いや、いいよ。なんていうか、これで由比ヶ浜の行動も理解できたっていうか」

 

「それは、私も怒っているのよ。八幡に食べさせてあげるなんて、聞いてなかったのだから」

 

「あれは、俺も由比ヶ浜も悪ノリみなたいな感じもあったから、あまり由比ヶ浜を責めないで欲しい」

 

「別に由比ヶ浜さんを責めたりしないわ」

 

「助かるよ」

 

 一気に頭からつま先までの力が抜ける。

 ずるずると背もたれにしていた冷蔵庫から滑り落ち、台所の床に仰向けに転がった。頭だけが冷蔵庫に引っかかり座りが悪かったので、ごろんと横に回転する。そして、見上げた天井が、こんなにも高く感じられたのは初めてだった。

 これは、いつも同じ視点で、なおかつ俺視点でしか見てない俺への罰なんじゃないかって思えたけど、あいつらの考えなんて今後も分かることなんて、できないんだろうなと思い、嬉しくなった。

 もし、わかるっていうのならば、それこそ傲慢だ。

 

「ねえ、本当に聞いてる? こんなことになるなんて、思いもしなくて」

 

「聞いてるって。雪乃を責めたりなんかしない。むしろ、いい経験だったんじゃないかって思えてもくる」

 

「そう?」

 

「そうだよ。・・・・・・悪い、ちょっと疲れたけど、雪乃の声がききたいんだ。なんでもいいから話してくれないか?」

 

 瞼が重い。体の力が入らない。脳で言葉を理解する為に接続されていた全神経は、もとの神経に再接続されず、そのままスリープモードに移行しちまったのではないかとさえ思える。

 

「なんでもいいって言われても。なにかテーマくらい指定してくれないと困るわ」

 

「・・・・そうだなぁ」

 

 普段使わない脳細胞まで総動員してしまったつけがここで現れてきてしまったようだ。だんだんと意識が遠のくのがわかる。雪乃の声が耳に気持ち良く響く。

 

「・・・・・会いたいよ、雪乃」

 

 目に映るうす暗い天井が暗闇に変わっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、いつもの寝室の天井どころか、知らない天井でさえない。目に映るのは、俺を心配そうに見つめる雪乃の顔だった。そもそも雪乃は東京のホテルにいる訳だから、ここにいるはずもない。ならば夢であると結論付けたのだが、腰のあたりが重い。

 それもそのはず。雪乃が俺の腰のあたりにまたがって、両手を俺の両耳辺りについて

俺を覗き込んできている。長くつややかな髪が俺の頬を撫でるせいで、こそばゆい。雪乃が普段使っているシャンプーの香りではないのは、ホテルのを使ってるせいだろうか。五感が一つ一つ脳に再接続されるたびに、夢であることを打ち消していく。視覚と触覚、それに嗅覚での確認はとれたから、あとは、味覚と聴覚か。

 と、とんでもない論理を展開するも、夢なら仕方がないと自己完結をする。とりあえず味覚のために、キスでもしておくか。

 ・・・・・・・って、顔を近づけていくと、おもいっきり雪乃に突き飛ばされた。

 

「ぐあっ!」

 

 受け身も取れず、背中と頭をに床衝突させる。頭が軽くバウンドし、脳が揺さぶられる。激しい音とともに、やっぱり夢じゃなかったと分かったことに喜びを覚えた

 ・・・・・なんてこともなく、罵声を上げるのがせいぜいだった。

 

「なにすんだよ!」

 

「なにすんだよは、こっちのセリフよ。キッチンで失神しているのかと思えば、いきなりキスだなんて」

 

 未だにキスで頬を染めるって、どんだけ純情なんだよって、感心している場合でもなく、とにかく現状が把握できないでいた。やけに痛い頭をさすりながら、雪乃に説明を求めた。

 

「お前は、失神している人がいたら、馬乗りになるのか?」

 

「そんなの八幡限定に決まってるじゃない」

 

「それは、まあ・・・、光栄なことだなって、そうじゃないだろ。なんでここにいるんだよ?」

 

 俺の発言に驚きを見せた雪乃の顔が、驚きから呆れへ。呆れから頬笑みへと変化していった。

 しかし、この頬笑みが邪悪な頬笑みではなかったら、心から感謝していたのに。あまりにも空々しい頬笑みに、恐怖さえ感じてしまう。

 

「ゆ~きの、さん?」

 

「あなたが会いたいって言ったのよ。それさえも覚えていないのかしら?」

 

 あぁ、なんか言ったかもしれない。でも、言ってないような気もするが、雪乃が言ったというのならば、言ったのだろう。手に震えが来てしまうのは、未だに痛い頭のせいではないはずだ。

 原因は、きっと目の前の・・・・・、

 

「かすかに覚えてる・・・・かも?」

 

「どれだけ大変な思いをして、ここまで来たとお考えでしょうか」

 

 俺を問い詰めようと徐々に間を詰めてくる。近づけば近づくほど、形のよい唇に目を奪われる。やっぱりキスしてぇなあと不謹慎なことを考えてしまう。

 だから、あえて意識を会話に集中させた。

 

「陽乃さんが助けてくれたのか?」

 

「ええ、そうよ。あなたから電話が来た時、姉さんが側にいたのよ。それで、いざって時は力になるって。でも、とんでもなく大きな借りを作ってしまったわ。どうしてくれるのよ」

 

 心の底から嫌そうな顔をみせる。

 俺も借りを作っておくのだけは、勘弁したい。あとあとが怖すぎるって。

 

「どうもこうも・・・・。俺の方からも礼をしとくとしか」

 

「それは当然よ」

 

「さいですか」

 

「来たら来たらで、どこにもいないし。キッチンで倒れているなんて、思いもしなかったわ」

 

「動く気力すら残ってなかったんだよ」

 

 今思い返しても、とんでもなくはた迷惑で、それでも、こんなにもためになった日はないかもしれない。

 

「それに、汗臭いわ」

 

「しょうがねぇだろ。汗だくで帰ってきて、そのままなんだから」

 

「でも、あなたの顔を見て、ほっとしたわ」

 

「俺も、雪乃の顔を見て安心した。・・・・なあ雪乃?」

 

 俺はもう一度雪乃を呼び掛ける。やっぱり会話でなんかで、意識を背けることなんてできやしなかった。

 

「なにかしら」

 

「やっぱ、キスしていい?」

 

 雪乃は、返事すらしてくれなかった。

 いや、返事をする必要がないというべきなんだろう。これで五感全てで雪乃を確認できたから。

 

 

 

 

 

 キッチンの床の人から、バスルームの住人に格上げされた俺は、汗を洗い流すべく体を洗っている。疲労困憊で空腹状態といえども、薄汚れた俺には餌はなく、体を綺麗にすべく洗浄中だった。

 雪乃はといえば、俺の汗で汚した床やソファーを掃除した後、遅い夕食を作ってくれている。時刻はなんと午後9時すぎ。大学の講義が終わったのが午後4時。それから5時間以上も経っていたのだが、いまいち時間の感覚がずれたままだった。

 バスルームを後にし、キッチンに向かうと揚げ物を揚げている匂いがしてくる。揚げ物独特の食欲を掻き立てる香りが、俺の脚をせかしたててきた。

 冷蔵庫には、それほど多くの食材が残ってはいなかったはず。それなのに、俺の純粋な食欲を掻き立てるのは、雪乃の料理の腕もあるがそこに雪乃がいるからなのだろう。

 

「うまそうな匂いだな」

 

「私が留守にしてから、一回も買いものに行ってないみたいね。八幡が自分が食べたいものをスーパーで見て決めるからって言って、私に買い置きさせなかったけれど、それは失敗だって今更ながら後悔してるわ。それにしても、食材が少なすぎて、苦労したわ」

 

「スーパーで、その日食べたいものを考えるのも、料理を楽しむ基本だろ? それに、家にあるものから食べるのも、節約って奴だ。食材を無駄にしないっていうのが、もったいない精神の第一歩だしな」

 

「あなたがいうと、怠け者の精神に聞こえてしまうのは、人柄のせいかしら」

 

 雪乃は、額をおさえ、首を振る。

 

「それよりも、すっげー腹減ってるんだよ。早く食べようぜ」

 

 馬鹿なことを言ったら、まじめな答えが返ってくる。言葉をかけ合わなくてもできてしまう意思が通じ合う行動。普段意識しないことこそ、一番大切なことだって気づかせてくれる。

 さっそく自分の席に座ろうとしたのだが、俺の席の隣に雪乃の食事も用意されている。もともと4人掛けテーブルなのだから、雪乃が隣に座ること自体は問題ない。おかしいところがあるとしたら、それは、普段雪乃が座っている席は俺の正面であるっていうことだ。

 だから、目の前ではなく、横に座るとなると変な感じになってしまう。もちろん、由比ヶ浜と一緒の時なら、雪乃は俺の隣に座るが、普段からの習慣が壊されてしまうと、変にそわそわしてしまった。

 それでも俺は席に着き、さっそく食事をとることにした。なによりも空腹の我慢が限界に来ている。雪乃もご飯をよそった茶碗を2膳持ってきて、席に座る。

 

「じゃあ、いただきます」

 

「いただきます」

 

 手を合わせ、早速食べようとする。

 が、箸がない。

 隣の雪乃を見ると、雪乃の箸はあるみたいだった。俺の分だけ何故?って、思いもしたが、ここは深く考えもせず、箸を取りに行こうと腰を浮かす。

 

「八幡の箸なら、ここにあるわ」

 

 振り向くと、雪乃が「雪乃の箸」を俺にかかげる。

 雪乃じゃないが俺も首を傾げ、はてなマークいっぱいの目でその箸を見つめる。といっても、箸を見たくらいで答えが導き出せるわけでなく、答えを知っているはずの雪乃に解答を質問することにした。

 

「それって、雪乃の箸だろ?」

 

 俺の箸より一回り小さいえんじ色の夫婦箸。小町が引っ越し祝い(同棲祝いともいう)にプレゼントしてくれた品物だ。

 俺の箸は黒い箸だから、雪乃が間違える訳もない。しかも、箸はそれ一膳しか見当たらない。

 

「ええ、そうよ。・・・・でも、今日は八幡の箸でもあるのよ」

 

 にっこりとほほ笑み宣言する雪乃に対して、俺に拒否権などあるわけもなかった。

 なんとなぁくだが、雪乃がしたいことが見えてくる。わかっちゃいるけど、はじめから意識してやるとなるとこっぱずかしくなる。でも、やらないわけにはいかないんだろうなぁ・・・・・。

 俺が押し黙っていると、それは拒絶だと受け取った雪乃は、みるみるうちに

切なげな顔色に染まっていった。しょんぼりと肩を落とす雪乃を見るのは忍びない。

 

「そのアジフライから食べたいかな」

 

 こっぱずかしさをゴミ箱に捨て、羞恥心のあまり上ずる声を無理やり抑え込む。結局、恥ずかしさなんてなくなるわけもなく、顔が上気する。

 俺がリクエストをすると、雪乃は、ぱっと笑顔に戻り、いそいそとアジフライを小皿に運び、ソースをかける。

 

「ちょっと熱いかもしれないわね」

 

 雪乃が「ふぅ~、ふぅ~」と息で冷まそうとする姿が、甲斐甲斐しすぎる。由比ヶ浜への対抗心がないといったら嘘になると思うけど、それでも、俺に対しての愛情に起因していることだけは誰にも否定させない。

 今日の自分の行動を省みると、雪乃の愛情に胡坐をかくのは最低だと思うが、今だけは素直に受け取っておこう。

 雪乃が差し出すアジフライを一口噛むと、肉厚でふっくらしたアジの脂がしみだしてくる。ちょっとだけまだ熱いが、我慢できないほどではなかった。もう一口食べようとするが、目の前からアジフライは消えていた。

 

「新鮮で美味しそうなアジを買った時に、パン粉をつけて冷凍したものだけれど、なかなか美味しいわね」

 

 横を見ると、俺が食べたアジフライをそのまま雪乃がほむほむと食している。

 微笑ましい食事の光景だと思うけど、このペースで行くのか・・・・・?

 これは長い夕食になるんだろうなと、覚悟を決めた。

 

 

 

 さすがに雪乃に全て食べさせてもらう経験などあろうわけもなく、最初はぎくしゃくしてしまい、食事のスピードはなかなか上がらなかった。だからといってせかすこともなく、緩やかな時間を楽しんだ。

 

「ねえ、八幡」

 

 和やかな食卓に、いつもよりやや低い声で呼ばれ、怪訝に思ってしまう。

 雪乃は、食卓に上っていながら、本日唯一一度も箸が運ばれていない卵焼きを見つめていた。すっかり冷めてしまってはいるが、それはそれでふっくらとした美味しそうな卵焼きであった。小町からレクチャーを受け、みごと俺好みに調整された一品でもある。

 

「ん? なんだ」

 

 おそらく由比ヶ浜が俺に食べさせた最初のおかずだからなのだろう。別に卵焼きだけを食べさせてもらったわけではないが、それでも、きっかけになった品だけあって、雪乃にとっても特別になってしまう。

 だから、俺も覚悟を決めていた。

 

「卵焼きも食べるわよね?」

 

「ああ、頼むよ」

 

 雪乃は、迷いなく卵焼きを一つ箸で掴むと、雪乃自身の口に卵焼きを運ぶ。

 

「へ?」

 

 間抜けな声が部屋に響く。きっと声だけでなく、俺の顔も間抜けな顔になっていると思う。なにせ、雪乃の行動を見て、甘ったるい戦慄を覚えたのだから。

 

「んっ」

 

 唇に挟んだ卵焼きを食べろと、顎を少し上げて突き出してくる。雪乃の視線が俺を離さない。

 これって、王様ゲームのノリじゃないの?って思えたが、そもそも王様ゲーム自体をやったことがないことに気がつく。一度くらい合コンに参加してみてぇなぁとどうしようもないことを考えてしまった。行ってどうこうしたいとかあるわけじゃないけど、どんなものかって体験ぐらいはしてみたいかも。いやいや、つい先ほど雪乃が嫌がることをしないって、堅く誓ったのに・・・・・、って、やべぇ・・・・。現実を認識するのに思考が追い付かず、妄想に走ってしまった。

 由比ヶ浜の時は、人がいない空き教室ということもあったが、人が来る可能性があった。だから、なにかとセーブされているところもあった。しかし、今は雪乃と二人だけの密室。雪乃が欲望をおさえることなどするわけもなく・・・・・。

 震える卵焼きを見つめ、俺は腹をくくって雪乃の唇を食べる・・・、もとい、卵焼きを食べる決意をした。

 

「むぅ~」

 

 煮え切らない俺を見て、非難の声をあげてくるが、俺は、その非難の声ごと口に含んだ。俺好みの甘い卵焼きの風味が口の中に広がる。俺にどこかの美食家のような表現ができればいいのだが、さいわいそんな才能は持ち合わせてはいない。

 だから、一言で表現するのならば、今までで一番甘い卵焼きだった。

 雪乃がぼ~っと俺を見つめているのを尻目に、卵焼きを飲み込む。放心状態の雪乃をどうしようかと悩んだが、これ以上の食事は危険だと判断した。

 気分を入れ替えるためにお茶でも入れようと席をたつ。急須に茶葉をいれ、お湯を入れながら雪乃の様子を見たが、未だ呆けた顔をしている。うっすらと頬を桜色に上気して艶っぽい。

 邪念を捨てようとするも、あふれ出たお湯が指にかかり強制的に邪念が消え去る。

 お茶を二つ用意したが、雪乃は今も夢の中である。俺は、雪乃を眺めながら今日一日の反省をすることに決めた。

 お茶をいくら飲んでも、甘い卵焼きの味は消えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

6月13日 水曜日

 

 

 

 朝の5時。

 本来なら日が昇り、辺りが明るくなってきている時刻ではあるが、雨が降っているために、まだ暗い。雪乃は、朝になったら戻るとの約束で俺に会いに来てくれていた。だから、こんなにも早い時間だというのに、出かける準備をしている。

 

「ありがとな、雪乃」

 

「寝ていてもよかったのに」

 

「寝て起きた時に雪乃がいないっていう方が、今の俺には精神的にくるっていうかな・・・・」

 

 朝っぱらから恥ずかしいセリフを吐き散らかしているって自覚してるけど、今日くらいデレまくってやろう。

 

「そう素直になられるのも、なんとなく怖いわね」

 

「年がら年中ってわけじゃないから、気にするな」

 

「そうね。そろそろ迎えが来ているから、行くわね」

 

「ああ、気をつけてな」

 

「あなたこそ。今夜には千葉の実家に戻ってくる予定だから」

 

「わかってるよ。だけど、昨日みたいなことにはならないと思うから安心しろ」

 

「そう願うわね。悪いのだけど、その傘取ってくれないかしら」

 

 雪乃が俺の後ろに立てかけてある傘を指差す。俺は、2本あるうちの一本を掴みあげ、雪乃に差し出した。

 

「ほれ」

 

「それではないわ」

 

 雪乃が指差しているのは、雪乃の薄水色の傘ではなく、隣にあった俺の平凡で黒い傘であった。

 

「俺の傘?」

 

「ええ。私も今日くらいは素直に我儘になるわ」

 

「それはかまわねぇけど」

 

「その代わり、八幡は私の傘をさして大学に行ってね」

 

 今日は雨だなんて嘘だ。ここに太陽が昇っている、なんて我ながらくさいセリフが脳裏に浮かんでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 雨は夕方になるにつれ激しさを増していくらしい。今はパラパラと申し訳程度に降っているくらいだったが、八幡の元へ出かけるころに、ちょうど激しい雨に当たるかもしれない。

 静けさが降り注ぐ中、広々としたリビングには雪乃と陽乃しかいなかった。両親は、千葉に戻って来たばかりというのに、二人そろって地元取引先の挨拶に向かっていた。

 おそらく帰宅するのも夜中になるのだろう。だから、陽乃のサポートもあって、両親がいない間だけでも八幡の元へ行ける。

 雪乃は、両親が嫌いというわけではなかったが、今は両親がいなくてほっとしている。今はゆっくりと八幡のことだけを考えていたい。そう強く願っていた。だから、ピアノを弾いてさえいれば、姉が話しかけてこないと考えてみたが、そんな甘い姉ではなかった。

 

「雪乃ちゃんがピアノ弾いてるのを見るの、久しぶりね」

 

「そう思うのならば、邪魔をしないでほしいのだけれど」

 

 雪乃は、非難の視線と共に厭味を送ってみたが、陽乃は歯牙にも掛けずに話を続ける。

 

「昨日、比企谷君なんともなくてよかったわね」

 

「ええ、本当に、はた迷惑な男ね」

 

「その割には雪乃ちゃん、うれしそうね」

 

 雪乃は、驚き、顔に手をあてて確かめてみるが、そんなことをしてもわかるわけもない。陽乃を見ると、意地悪そうにニヤニヤしているだけだった。なんともないという風を装ってピアノを再開したが、調子がくるってリズムにのれないでいる。

 陽乃が飽きるまでは無理なんだろうと、雪乃は、ため息を漏らした。

 

「借りはしっかり返すわ。今すぐっていうわけにはいかないけれど、そのうちに」

 

「別に私が好きでやったんだから、気にする必要なんてないのに」

 

「姉さんに借りを作っておくなんて、気持ちが悪いだけだから、早く返したいのよ」

 

「だったら、返してくれないほうが、私にとっては好都合かも」

 

 陽乃の口角が上がり、悪役っぽい笑みを浮かべるが、それでも様になってるから嫌になる。雪乃は、もう一度ため息をついたところで、ピアノのリズムが戻ってきていた。

 またしても陽乃の手のひらの上で転がされていたらしい。

 

「なんか雪乃ちゃんのピアノ、変わったわね」

 

「そうかしら? 最近弾いてなかったから、下手になったのかもしれないわね」

 

「そんなことはないと思うけど。テクニックがどうかっていうんじゃなくて演奏者自身の感性っていうのかな。わたしは、以前の雪乃ちゃんも好きだったけど、今の方がもっと好きよ」

 

「珍しく意見があったわね。私も、今の自分の方が好きよ」

 

 初めて姉の年相応の笑顔を見たのかもしれない。

 もしかしたら、姉へのコンプレックスから、偏った見方のせいで姉の笑顔を見逃していただけかもしれないが、今はこうして姉の笑顔を素直に受け入れられた。

 

「ねえ、雪乃ちゃん」

 

「なにかしら?」

 

 ピアノの音色が弾み出す。八幡には悪いけれど、雪乃は、もう少し陽乃と話してみたいと思えてしまった。

 

「比企谷君を大事にしなさい。私も応援してるから」

 

「ありがとう、姉さん」

 

「私は、もう覚悟を決めちゃったから、雪乃ちゃんだけは幸せになってね」

 

 さらりと言うセリフでもないだろうに、陽乃はためらいもなくつぶやく。雪乃は、覚悟ではなく諦めではないかと思いもしただが、陽乃が言うのならば覚悟なのだろうと、訂正はしなかった。

 雪乃は、今度こそ生まれて初めての陽乃の表情を目撃する。いつも自信たっぷりの姉が、心細くて今にも泣き出しそうな年下の女の子にみえた。

 単調なピアノの音色が、寒々としたただ広いだけのリビングに鳴り響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 降ったりやんだり、豪雨になったりと忙しい雨雲は、今日も雨を降らせている。

 湿った空気は気分を重くするが、今朝は違う。雪乃と会えたからって現金すぎるだろと、自分でも思う。だけど、それでもかまわない。雨が降ってることに感謝するなんて。

いまさらながら、雨の中を無邪気に走り抜けていった子供に共感できるとは思いもしなかった。

マンションのエントランスの扉を開けると、マンションの入り口を覆う木々の間から、雨粒が落ちてくる。手にしていた薄水色の雪乃の傘を丁寧に広げる。軽く傘を握り、歩き出すと、雨粒をはじく傘の音色が聞こえてくる。

雪乃も同じ音を聞いたのかなって、柄にもなく詩人気どりをしてしまい苦笑いをしてしまう。でも、マンションの出口を向かって階段を下りるにつれ、やっぱり雪乃に互いの傘を使った時の気持ちを共有してみたいって思ってしまった。

 

 

 

 大学の教室に入ると、先に来ていた由比ヶ浜がいつもの席に座っている。後ろの席に座っている友人たちと、たわいのない朝の会話でも繰り広げているのだろう。俺に気がついた友人の一人が俺の方に視線を送ると、由比ヶ浜は、すぐさまその場の空気を察知して、振り向き、俺に手を振ってくる。

 由比ヶ浜の顔が一瞬強張り、下を向いたときはドキッとしたが、顔を上げた時の顔はいつもの由比ヶ浜だった。俺は、挨拶代わりに軽く手を上げ、もう片方の手では、雪乃の傘を握り直し、いつもの通り由比ヶ浜の隣の席に向かう。

 

「よう。早いな」

 

「おはよう、ヒッキー」

 

 お互い昨日のことを意識するなっていう方が無理があるが、普段通りに挨拶してくれて安堵する。それは由比ヶ浜も同じようで、教室に入ったときに俺が見た緊張した面持ちが嘘のように消え去っていた。今思うと、昨日雪乃が救ってくれなかったら、どんなひどい惨状になっていたか知れたものではない。

 もし気持ちの整理ができないままであったならば、俺が挙動不審な雰囲気を作り出して、その雰囲気にきっと由比ヶ浜はのまれてしまうことだろう。そしておそらく、この教室にいる奴ら全員が気がつくほどの気まずさに教室が支配されていたんだと思えた。

 

「今日の小テストの勉強してきたか?」

 

「え? 聞いてないけど」

 

「ああ、嘘だからな」

 

「はぁ?! ヒッキー朝からひどくない?」

 

「普段から勉強していれば、驚くことなんかないんだよ。まあ、なんだ。ちょっとテンション上げようかなって思ってさ」

 

「自分のテンション上げるために、人を驚かすなんて、ヒッキーひどすぎるし」

 

 由比ヶ浜がプンスカ怒っているのを見て、安心した。由比ヶ浜も本気で怒ってるわけでなく、笑いも混ざっているけど、そんなことに安心したわけではない。

 由比ヶ浜も女だ。俺が雪乃の傘を持ってきたのを目ざとく見つけ、わずかながらの動揺を見せていた。だからこそ俺は、由比ヶ浜を試す発言なんかしてしまう。こんな悪知恵ばっかり働かしていることに、成長してねぇなって自嘲してしまった。

 

「でも、来週は小テストあるから、その対策はやってるんだろ?」

 

「え~・・・・・・。」

 

「目をそらすなよ」

 

 こいつマジで勉強してねぇのかよ。

 悪知恵もこんな形で役に立つとは、捨てたものじゃねぇなって、自己フォローなんて決めてみたりするが、今までどおりの関係を続けられて心が弾んだ。

 

「でも、でもぉ・・・・、ヒッキーはなんだかんだ言っても助けてくれるよね?」

 

 犬っころみたいな目で俺を見るな。耳を伏せて、尻尾を緩やかにふっているのが見えちまう。マジで犬属性ありそうだから、今度首輪買ってプレゼントしたら喜ぶかなって幻想を重ねて見つめていると、現実の由比ヶ浜が両手で俺を揺さぶってきた。

 

「ねえ、聞いてるぅ? ただで助けてくれなんて言わないからさ。ほら、今日もお弁当作ってきたんだよ」

 

 鞄を広げ、俺に弁当を見せてくる。ちょうど2つ弁当が重ねられているところをみると、下にある大きいほうが俺の方か。

 

「大丈夫だって。たとえ弁当がなくたって、教えてやるから、そうくっつくな、暑苦しい」

 

 邪険に払うのは俺の照れ隠しだ。由比ヶ浜が弁当を作ってきても気持ちがぶれない。やはり雪乃の存在が俺の中でまた大きくなっているって自覚できた瞬間でもあった。

 

 

 

 

 

 早朝からの講義を2コマこなし、ようやく昼食タイムがやってきた。雨が降っていることもあって、外に食べに行くやつらもいつもより少ないと思える。コンビニ弁当やら、家から持ってきた弁当を持ってくるもの、大学で売られている弁当やらと、外に出て食べようなんて考える酔狂な者は多くはなかった。

 雨が降ると、学食に行くのさえ億劫になるのか?

 たしかに、傘さして学食行くのも面倒っていったら面倒だけど、梅雨のせいで皆怠惰になってないか・・・・・。自分のことを棚に上げ、人間観察をしていると、横からお声がかかる。

 

「さ、お弁当にしよっ」

 

「今日もだなんて、わるいな」

 

「そんなのぜんぜん。好きでやってることなんだし」

 

 由比ヶ浜は、胸の前でかわいく両手を振り否定する。

 若干声が大きかったとことが気にはなったが、雨が降っているせいか教室で食べる奴も多く、由比ヶ浜の声はかき消される。俺達は、今日は昨日とは違い、次の授業の教室で食べようとしていた。

 だから、俺達のことを知っている奴らばかりだし、俺と由比ヶ浜が一緒に食事をしていても、いつもの由比ヶ浜の世話の延長線上くらいにしか思わないだろう・・・・と、思う。

 こんなことだったら、昨日も同じようにすればよかったと自分の浅知恵を呪ったが、起きてしまったことをどうこう文句を言っても仕方がない。

もし、出来事を改変できるのならば、世界は混沌に満ちちまうんだろうと思う。皆が各々望んだ世界を作れちまうなんて、夢みたいな世界だと思えるけど、そんなの夢以前にカオスすぎる。誰の望みであっても独善的だし、それを世界に具現化しちまったら、どうやって他人の理想とすり合わせるんだろうなって考えてしまう。

 俺の独善と由比ヶ浜の希望を両立することなんて、できやしないのが分かりやすい具体例だろう。

 

「はい、お茶」

 

「お、サンキュー。でも、こんな蒸し暑い日にホットだなんて、渋いな」

 

 水筒からコップに入れたお茶は湯気がかすかに立ち昇り、熱そうだ。実際、薄いプラスチックの容器から、熱が手に伝わり、危うくコップを落としそうにもなった。

 

「暑い日に熱い飲み物を飲むのがいいんだよ」

 

「じゃあ、今度お礼として、真夏のくそ暑い日に、ホットのお汁粉プレゼントしてやるよ」

 

「うん、ありがとう。絶対だよ」

 

「へ?」

 

 俺としては、「そんなのいらないしぃ」って切り返してくるのだとばかり思っていた。だから、我ながらなかなかの傑作の間抜け面を披露してしまう。

 

「ヒッキー変な顔ぉ」

 

「笑うなよ」

 

 してやったりと、無邪気に笑う由比ヶ浜。俺も由比ヶ浜につられて笑ってしまう。

 昨日のお弁当タイムも、背徳感があっても、それはそれで楽しい時間ではあった。でも、俺はそんな計算して作られた時間よりも、今みたいな何も考えてない時間の方が好きだ。なによりほっとする。そして、由比ヶ浜には、無邪気に笑っている方が似合っていた。

 

「じゃあさ、ちゃんと真夏のあっつい日に、ホットのお汁粉買ってね」

 

「いいぞ。しっかり飲めよ」

 

「一緒に買いに行って、私がしっかり飲み終わるまで見ていてくれる?」

 

 首を傾げ、俺を試すように覗き込んでくる。湿気を含んだ髪が、いつも以上に揺れ動いていた。

 

「見ていてやるって。冷めてから飲むなんてのはNGだからな」

 

「ちゃんとホットで飲むし。・・・・・でも、真夏の炎天下の中、ホットのお汁粉探すのは大変そうだね。その時は、ホットのお茶じゃなくて、キンキンに冷えた麦茶用意してくるから」

 

「は?」

 

 ようやく自分の愚かさに気がつく。

 誰が好き好んで真夏のくそ暑い日にホットのお汁粉なんか飲むんだよ。飲料メーカーも馬鹿じゃない。真夏にホットお汁粉なんて売るわけない。コンビニであってもないだろうな。だったら、どこに買いに行けばいいっていうんだ。

 つまりは、そういうことなんだろう。ホットのお汁粉が見つかるまで、俺と由比ヶ浜は、永遠とお散歩デートをするってことになるわけで・・・・・。

 目の前には白い歯を見せ、してやったりの笑顔を見せる由比ヶ浜がいた。

 どうにか額に手をやり冷静さを装おうとしてみるが、うまくいかない。やっぱり、さっきの由比ヶ浜への賛辞は撤回だ。なにが無邪気だよ。計算しまくってるじゃねぇか。

 

「ヒッキー大丈夫?」

 

「なにが大丈夫だ! 俺をはめやがって」

 

「なんのこと? ヒッキーがお汁粉奢ってくれるって自分で言い始めたんじゃない」

 

「そうだけどよ・・・・」

 

 もういいや。こいつらには、かわなねえよ。

 由比ヶ浜が下を向いて、自虐的に笑っているんじゃないんならいいか。

 

「約束だからね」

 

「わ~たよ」

 

「んじゃ、お弁当食べよう」

 

 いそいそと弁当を広げていくが、最初はデジャブではないかって疑ってしまった。今日は昨日の続きで、今も昨日のままで。

 って、なんだよこれ。

 

「ガハマさん?」

 

「なぁに?」

 

「昨日と全く同じ弁当のように見えるんだけど」

 

「仕方ないし。まだ料理は勉強中なの。だから、できるものも限られて・・・・」

 

 せっかく作ってきてくれた由比ヶ浜を責めるなんて馬鹿げている。

 よく見れば、昨日よりも不揃いさがない。同じものを作るしかないといっても、手抜きなんかしていないんだろう。むしろ昨日以上に気合を入れているのが見てとれる。

 

「ほら、それに今日はフリカケも用意してきたんだよ」

 

 俺の目の前にフリカケを突き出す。わからないこともない。由比ヶ浜なりに、味の違いを演出しようとしたんだろう。由比ヶ浜の奮闘が目に浮かんできてしまい、笑いがこみあげてきてしまった。

 

「なにか笑うようなことあったかなぁ」

 

「なにもねぇよ。さあ、食おうぜ」

 

「うん!」

 

 とりあえず、卵焼きを最初に食べることにした。もちろん自分で食べたことは伝えたおこう。怖かったんじゃないってということは信じてほしい。

 

ブブブ  ブブブ  ブブブ ・・・・・・

 

 突然の携帯の振動で反射的にびくりと肩を震わせてしまう。俺に電話してくる奴なんて、雪乃、小町、そして、目の前にいる由比ヶ浜くらいである。

 平塚先生や材木座はたいていメールだし、そもそも小町や由比ヶ浜であっても、メールの割合が高い。となると、必然的に電話の主は絞られてしまうわけで・・・・・。

 箸で掴んでいた卵焼きを弁当箱に戻し、恐る恐る携帯を確認する。

 予想的中。

 つっても、外れる可能性が極めて低い予想だけど。別に悪いことをしていないのに、なぜか手が震えてしまう。由比ヶ浜の視線をなるべく視界の外に追い出し、受話ボタンを押した。

 

「おう、どうした?」

 

「ちょうど今は昼休みだと思って電話してみたの。それで、今日の夕方少し時間ができたの。だから、八幡が予定を埋める前に抑えておこうと思って」

 

「別に俺のスケジュールは、年がら年中白紙だよ」

 

 俺にスケジュール帳なんてものは、必要ない。基本、いや、必然的に雪乃が管理していると断言してもいい。

 だから、自信を持ってスケジュールは白紙だと言える。

 

「それはわかってるのだけれど」

 

「だったら確認するなよ。俺のスケジュールなんて、雪乃中心なんだから」

 

 探り探り言葉を選んでいた雪乃の声が詰まる。顔が見えないのは残念だけど、なんとなくだが雪乃の顔が目に浮かんだ。それを分かっていながら言ってしまう自分が憎らしい。ついニヤニヤしちまう。

 

「わ・・わかっていたけれど、一応確認しておこうと」

 

「むぅ~・・・・・」

 

 つい雪乃と二人っきりで話しているって錯覚してしまう。隣に由比ヶ浜がいるってことさえも忘れていた。

 むくれる由比ヶ浜を再度視界の外に追いやり、意識を電話に戻した。

 

「で、だ。そっちの用事は大丈夫なのか? 昨日みたいに無理しないでくれよ」

 

 俺は自分の事よりも雪乃の方を気にしてしまう。いつだって雪乃は、俺の為に無自覚なまま無理を通してしまうから、せめて無理をしていることぐらいは気が付いていたい。どうせ俺がセーブしろと言っても聞きはしないのだから、せめて雪乃への負担だけは軽くしたかった。

 

「昨日のことも無理はしていないわ。私がしたいからしたことなのだから。それで、今日のことなのだけれど、6時前くらいには戻れると思うの。だから、八幡も6時前には家にいてほしいわ」

 

「わぁたよ。そんな約束しなくても、ほぼ確実に家にいると思うけど、約束通り家にいることにするよ」

 

「それもそうね」

 

 確実に家にいると分かっていながらの確認って、なんかおかしくないか?

 

「それで、明日も朝早くに出るのか?」

 

「ごめんなさい。今日は夜には戻らないといけないの。別に朝戻ってもスケジュール的には問題ないと思うのだけれど、母がね・・・・・。両親が出かけていて、夜まで戻らないの。だから、姉さんに手伝ってもらって、少しの間だけね」

 

「そっか」

 

 女帝健在ってところか。

 せっかく雪乃が実家に戻ったというのに、俺のせいで雪乃がちょくちょく俺の元に戻るのは好ましく思わないのだろう。これ以上心証を悪くするのも得策とは思えないし、素直に雪乃を帰すべきだな。

 

「気にするな。雪乃が帰ってきてくれるだけで、すっごく感謝してる。そうだな・・・、今回の事が済んだら一度雪乃の実家に挨拶に行くか。文句を言いながらも同棲を許してくれてるわけだし、最初だけ頭下げて、あとは知らんぷりはよくないだろうしさ」

 

「ほんとに?」

 

 雪乃の声が弾む。声もいつもより一段高く上がってることからも大変喜んでくれているとみえる。雪乃の実家との関係をうまく構築していくのは地道な労力が必要だ。

 だから、なにかしらの機会があるたびにポイントを稼がねば。

 

「嘘言ってどうする。お前のかーちゃん、すげーこえぇし、角が生えてくるたびにへし折っておく必要があるんだよ。しかも、その角の除去作業も命がけだし、ましてや、ほっとくと手に負えなくなるからな」

 

「その言い方どうかと思うのだけれど、的確な言葉過ぎて反論できないわ」

 

「陽乃さんもその血を強く継いでるよな。雪乃も・・・・」

 

「なにかしら?」

 

「・・・・・・なんでもありません」

 

 口は災いのもとだって、何度反省すればいいんだ。冷やかな笑顔を浮かべる雪乃がリアルすぎるほど目に浮かぶ。

 

「それで、・・・・・その」

 

「どうした?」

 

「そのね。八幡は昼食は、・・・・・もうとったの?」

 

「今食べてるところだよ」

 

「邪魔してしまって、ごめんさない」

 

「別にいいよ」

 

 わかっていた。雪乃がこの時間にかけてきたことも、携帯に雪乃の表示がされた瞬間理解できていたことだ。そもそも、俺の時間割を知っている雪乃ならば、授業の合間であっても電話できる。仮に、休み時間が長い昼休みだからという理由であっても、それならば、メールで済むはずだ。

 と、結論出したいところだったが、肝心なところで論理破綻か。雪乃はメールよりも電話での連絡をしたがる。俺がメールで要件を伝えようとしても、なるべくならば電話のほうがいいらしい。電話だと、雪乃が電話に出られるか気になってしまうが、「電話に出られないなら電話に出ないから、そんなこと気にしなくていい」って堅く宣言されてしまっている。だから、電話をかける頻度が増してきているわけで。

 

 

 まあ、なんだ。愛されちゃってるなぁってのろけてみたところ、小町からは、うざいからもういらないって白目を向けられてしまった。

 

「雪乃お義姉さんって、見かけによらず束縛するよね。クールビューティーって、まさに雪乃お義姉さんって思ってたけど、人はみかけによらないものだね。ま、そこがお兄ちゃんには魅力なのかもしれないけど」

 

 うんうんって、頷きながら恋愛評論家小町がコラムを発表してきた。たしかに、当たっているところがないわけじゃないと思うけど、小町がいうほど束縛があるとは思えないでいた。

 

「雪乃は雪乃だよ。見かけがどうあろうと、雪乃であることには違いはない。それと、お前の「お義姉さん」は、意味深すぎるからやめろ」

 

「はいはい、ごちそ~さまです」

 

ってなわけで、俺は雪乃にかまってもらえている。

無関心ほどひどい仕打ちはないから、いいんだよ。

 

 

 さて、話が脱線してしまったが、雪乃が昼食の時間を狙って電話してきたこと。それはつまり、由比ヶ浜なのだろう。

 ならば、自然に、そして、わざとらしく俺から話を切り出してあげるべきだ。

 

「今、由比ヶ浜が作ってくれた弁当食べてるところだよ。昨日よりもうまくできてて、びっくりだ」

 

「そう・・・・・」

 

「雪乃が弁当作れないから、わざわざ由比ヶ浜が作るって手を上げたんだ。雪乃も由比ヶ浜に一言礼を言っておくか?」

 

 我ながらわざとらしすぎると思ったけど、俺の能力じゃこれが限度ってものだ。

 でも、雪乃が由比ヶ浜と話をする機会ができるのならば俺のアシストなどグダグダでもかまわないはず。ようは、雪乃がそれにのってくれるかどうかってことで。

 

「そうね。由比ヶ浜さんに代わってもえるかしら」

 

「まってろ」

 

 由比ヶ浜に携帯を差し出す。急に話がふられた由比ヶ浜は困惑気味だったが、お前が聴き耳立ててたのは分かってるんだよ。

 

「ほら、雪乃が代わってくれだってさ」

 

「ゆきのんが? うん」

 

 由比ヶ浜は、おどおどと携帯を受け取ったが、覚悟を決めたのか、空元気を超える元気な声で電話に応じた。

 

「ゆきのん、ヒッキーったらひどいんだよ。昨日と同じメニューだからって、文句を言うんだよ」

 

「それって、昨日と全く同じメニューなのかしら」

 

「そうだけど?」

 

 由比ヶ浜があどけない声で返事をする。

 雪乃の声は拾えないが、いつもの百合百合しい会話はできているみたいで胸をなでおろす。俺の泥にまみれたアシストも役に立ったみたいだ。

 

「それは、さすがに八幡の気持ちもわかるわね」

 

「えぇ~。でもでも、今日はフリカケ付きだよ」

 

 そんなの違いのうちに入らねぇよと、心の中で突っ込みを入れてしまった。会話の外の人間に突っ込みを入れさせるとは、さすがガハマさん。

 

「それは違いには入らないわ。卵焼き一つにしても、ノリを巻いたり、ホウレンソウやチーズをいれたりするだけで印象も大きく変わってくるのよ」

 

「そんなこといったって、そんな高等技術まだ持ってないよ」

 

「頭痛がしてきたわね。由比ヶ浜さんのお母様の食事を頂いたことがあったけれど、とても上手だという印象だったわ」

 

「ありがと。今度お母さんに言っておくね」

 

「ええ、ありがとう。そうではなくて、お母様の食事を毎日食べているのだから、必然的に由比ヶ浜さんもいろんな料理を見てきたはずよ。だから、今まで食べてきた料理を参考に作ってみることが可能だと思うのだけれど」

 

「そっか。うん、そうだよね。明日のお弁当でチャレンジしてみるね」

 

 明日のお弁当という言葉を聞き、俺の視線が鋭くなる。由比ヶ浜には気がつかれていないはずだが、意識しないで済む言葉ではない。雪乃がいない日数を考えれば、少なくともあと2回弁当があると推測できる。

 それが悪いっていうわけじゃないけど、色々考えてしまうわけで。

 あと雪乃、由比ヶ浜を煽るのはやめていただきたい。実験弁当を食べるのは、雪乃ではなく俺だっていうことを忘れないでほしい。基礎ができるからって、応用ができるとは限らない。ましてや由比ヶ浜だ。危険すぎるだろ・・・・・。

 

「そうね、頑張ってね、由比ヶ浜さん」

 

「うん、頑張る。それでね、ゆきのん」

 

「なにかしら?」

 

 由比ヶ浜は俺を一目見ると、俺に背を向け体を丸めこむ。そして、小さな声で何かつぶやいたようだった。きっと俺には聞かれたくない内容なのだろう。

  

「ゆきのん、ありがとね」

 

「何のことかしら?」

 

「ううん、いいの。言いたかっただけだから」

 

「そう?」

 

「うん、そう」

 

「今度、3人でお弁当を持ちあって食べるのもいいわね」

 

「うん! ゆきのんにも、私が作ったお弁当食べさせてあげるね」

 

「楽しみにしているわ」

 

「そろそろヒッキーに代わるね。なんか、寂しそうにしてるし」

 

 由比ヶ浜は、話が終わったらしく、俺に携帯を返してきた。何を雪乃と話したかわからないけど、由比ヶ浜の晴々とした笑顔を見ればうまくいったって確信できた。

 

「もしもし?」

 

「由比ヶ浜さんのお弁当、しっかりと味わうのよ」

 

「そうだな。楽しんで食べられそうだよ」

 

「それはよかったわね」

 

 雪乃の明るい声を聞けたことで、確信から確定に格上げされた。世間様の梅雨はまだあけないけど、俺達には夏がきたみたいだ。眩しすぎる笑顔が二つ、俺に降り注いでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 東京ではヒョウが降ったらしいが、千葉では豪雨のみのようだった。俺は、激しく降り注ぐ雨を仰ぎ、もう少し雨が弱くなるのを待とうか思い悩む。近年多くなったゲリラ豪雨の一環なのだろうか。俺のほかにも空を見上げ、教室に戻っていくものも少なくない。中にはその場でスマホをいじくっている奴もいるが、この雨の中を突っ切ようとする者は多くなかった。

 

「ヒッキーどうする?」

 

「どうするもなにも、こう雨が強いとな」

 

 隣に立ち止まっている由比ヶ浜も、駅までの道のりをどうしようか検討している多数派の一人だった。ただ、俺とは違い、空を見上げることはせず、さっきから仕切りなしに携帯を操作していることからすると、いつもつるんでいる連中と、これから遊びに行く予定でも立てているのだろうか。

 遊びに行く予定よりも、来週の小テストの心配しろよといいたいところだが、この後雪乃との約束があるから、自ら望んでまで面倒事を作りたくもない。これを面倒事の先延ばしと人は定義している。

 しかし、俺にも言い分ってものがあるんだよ。今から由比ヶ浜に勉強を教えようが教えまいが、小テスト後に由比ヶ浜に勉強を教える未来だけはほぼ確実にやってくる。ただ、勉強を見てあげた場合の未来の方がテストの結果のみにおいては由比ヶ浜はテストの点を喜んでいるだろうが。だったら雪乃あたりなんかは、今教えておけば後で教える労力が減るのではと冷静な突っ込みをいれるだろうが、これもまたほぼ確実な未来として、それはあり得ないと俺は断言する。今勉強を見ても、今勉強を見ないとしても、小テスト後に教える内容は、ほぼ確実に同じ容量だろう。由比ヶ浜の学力から逆算すれば、そう結論がでた。

 だから、許せ、由比ヶ浜。今回もいつもと同じように、試験直前にギリギリ8割くらいはとれるようにしてやるから。試験なんてものは、満点をとろうとするから余計なストレスをためちまう。そもそも98点も100点満点も大した差はない。さすがに2点差で合否を分けるのならば大問題だが、大学の試験ごときでは、そのような心配をする必要もない。だから、最初から満点をとることを諦めて、9割くらいとれるように勉強すれば、覚える量も減って、ストレスも軽減でき、なおかつ95点くらいはとれるようになる。

 ようはテストなんて、採点する際必ず必要なキーワードを洩らさなければいいわけだから、それを中心に覚えちまって、あとは何となく文章をでっち上げれば、それなりの解答ができあがるわけだ。

 だけど、このことを雪乃に言ったら、雪乃が頭を抱えていたのをよく覚えている。

 

「勉強をする方法理論は正しいのだけれど、その勉強をする姿勢ともいうのかしら。あなたを見ていると、楽をしたいと考えている落後者に見えてしまうのはなぜかしら」

 

「楽をしたいというところは、間違っちゃいねぇよ。勉強をするにせよ、無駄を省いてエレガントにやるべきだ」

 

「あなたがエレガントかの議論は置いておきましょう。無駄を省くという意見には賛成ね。由比ヶ浜さんの勉強を見ていて思うのだけれど、勉強をしていても、勉強以外にも意識が向けれらてしまうのは、大きなロスね」

 

「そういうなって。あれでも一生懸命頑張ってるんだからさ。それに、あいつが俺達と同じ大学に受かったことを考えれば、やればできる子なんだよ、きっと」

 

 雪乃は、由比ヶ浜の姿を想像したのだろうか。小さく微笑ましいため息をつく。

 俺に対する雪乃のため息が、心底呆れてのため息だとすれば、由比ヶ浜に対するため息は、慈愛に満ち溢れ、かわいいわが子を思うため息だった。

 こんなにも差別をされてしまうと嫉妬してしまいそうだが、いつも雪乃を独り占めしているんだ。これくらいの差は、由比ヶ浜にくれてやろう。と、小物すぎる勝者の余裕を見せたものだった。

 

「由比ヶ浜さんも普段から大学受験の時の半分くらいは、勉強してくれないかしらね」

 

「そんなの本人に言えよ」

 

「言ってるわよ」

 

「そうか・・・・」

 

 お受験ママ姿の雪乃が由比ヶ浜を叱ってる姿が目に浮かんでしまう。雪乃のお受験ママ。はまりすぎてるだろ。雪乃の子なら、自分で勉強して、手がかからないだろうけど。

 だからこそ、今、由比ヶ浜でお受験ママやってるのかなと、馬鹿な妄想をして下衆な笑顔を浮かべてしまっていた。

 

「自分の彼氏に言うのはどうかと思うのだけれど、その笑い方やめた方がいいわよ」

 

「お、おぅ」

 

 俺にも、温かい思いやりがあるお受験ママモードで注意してほしいな・・・・と、無謀な願望を思い浮かべるが、すぐさま頭から抹消する。

 

「普段の授業は、しっかり聞いているのよね?」

 

「聞いていると思うぞ。授業の後、毎回その日の重要事項をまとめさせてるし」

 

「意外と八幡も、しっかりと由比ヶ浜さんの面倒を見ているのね」

 

「勉強なんて、普段からの積み重ねだし、授業中寝てるんなら、試験のためにも授業中に勉強したほうが得だろ? なにを好き好んで放課後の自由時間に余計な勉強せにゃならん」

 

「損得で勉強するのかはともかく・・・・。さきほどから、あなたの勉強論を聞いていると、本当に頭が痛くなるわ」

 

 雪乃は、眉間を親指と人差し指でつまみ、頭を振る。しかも、長い長い呆れ果てたため息もセットで。

 

「そんなこというけどな、俺は、これでも一年次末の学部順位では主席とったんだぞ」

 

「私も主席だったわ」

 

「まあ、そうだけどよ」

 

 お勉強デートってわけでもないが、毎日自宅で二人で勉強しているんだから、成績もよくなるのは当然といえよう。雪乃に関しては、それ以前の問題だろうけど、雪乃と肩を並べたとは言えないが、少しだけど自分を誇らしく思えていた。

 さて、由比ヶ浜のお勉強問題は置いておいて、今は目の前の雨だ。

 

「ごめんねヒッキー。みんな雨が弱くなるまで、空き教室で待つんだって。だから・・・」

 

「行って来いよ。どうせ最初から駅まで一緒に行くだけだったしな」

 

「うん、じゃあ、また明日ね」

 

「また明日な」

 

 由比ヶ浜は、携帯を握りしめ教室に戻ろうとする。俺は、由比ヶ浜が抱えるいつもと違う一回り大きい鞄を見つめ、もう一声、声をかける決心をした。

 

「由比ヶ浜!」

 

 由比ヶ浜は、俺の呼びとめる声に反応し、お団子頭を揺らしながら振り返る。何故呼びとめられたかわからないという顔つきで、俺を見つめてくる。

 

「あのさ」

 

「なにかな?」

 

「そのあれだ」

 

「あれじゃわからないよ」

 

 呼びとめたものの、俺がしどろもどろな様子の俺を見て、由比ヶ浜は笑みを浮かべる。別に俺の態度がおかしくて笑っているのではないと思う。いうならば、女の勘ってやつで自然と笑みが浮かんでしまったんじゃないかと、数少ない俺の経験がそう判断を下した。

 

「今日の弁当ありがとな。すっげぇ美味しかった。それだけだ」

 

「うん、・・・・・そっか。美味しかったか。明日もヒッキーが満足するお弁当作ってくるから、楽しみにしててね」

 

 俺の経験則も捨てたものじゃないかもしれない。満面の笑みを浮かべる由比ヶ浜を見て、そう感じてしまった。

 いや、俺じゃなくても気がつくほど、あからさまなのかもしれないけど。

 

「お、おう」

 

「じゃぁあ、今度こそまた明日」

 

「また明日な」

 

 華麗にターンを決めた由比ヶ浜は、揺れるバッグを小脇に抱え、軽快に人の波を擦りぬけていく。湿った床をきゅっきゅと打ち鳴らしながら進んで行く。由比ヶ浜は一度振り返り、大きく手を振ってきたので、俺は軽く手を振り返してやる。

 そして、由比ヶ浜の姿が完全に見えなくなったところで、俺は薄水色の傘をさし、さっきより強くなった雨の中を歩き始めた。

 

 しかし、数歩も歩かないうちに俺は大きく後悔する。

 あっ、やっぱもう少し待ってからの方がよかったかも。勢いで行くもんじゃないな。あぁあ、靴下までびしょ濡れだな、これ。

 

 

 

 

 

 電車が海浜幕張駅に着くと、幾分雨は弱まってきていた。やっぱり少し雨が弱まるのを待てばよかったって、さきほどよりは幾分軽い後悔をするが大学で一人時間つぶすよりはましかって強引に納得しておく。

 俺は、不快で重く湿った靴を嫌な音を立てながら家路につく。マンションと駅の間にあるバカでかい公園を横目に、足を進めていた。今度晴れた時に、雪乃を誘って公園を散策するものいいかなって頭によぎる。でも、梅雨が明けたら、くそ暑いし、歩くだけでもかったるいかも・・・。それなら、マンションエントランス側の木々が茂って、心地よい風を運んでくる日陰のベンチでのんびりするほうがいいか。

 と、すぐさま省エネ思考が発生するが、この前雪乃と公園を突っ切ったときの

ことを思いだし、自然と顔がにやけた。

 

 

 

 俺達が住んでいるマンションは、おしゃれなマンション街に位置するともあって、若い夫婦に人気がある。メインストリートは、石畳をイメージしているようで、日本を感じさせない。といっても、原則駐車違反がないエリアなので日本車が止まりまくっていて、景観は、ぶち壊されてはいる。たまにくる駐車監視員が、交差点から5メートル以内だったかそのくらいの範囲で駐車している車を取り締まってるのをみると、もっと他のとこを取り締まれよと突っ込みをいれたくなる。時たまいる交差点付近の車を取り締まっても、非効率すぎるだろうに。

 とまあ、愚痴を述べたいんじゃなくて、若い夫婦が多いってことだった。若い夫婦がいるってことは、小さい子供もいるってことで。公園には子供連れの親子が遊んでいるのが見える。

 雨が降っている今日は、閑散としている公園だが、晴れた休日となれば子供の声があちらこちらから聞こえてくる。あの日、晴れた日の公園を、雪乃と共に歩いた時も、そうであった。

 

「すげーな。全速力でダイブしていったぞ。ありゃ泣くかな」

 

 何が楽しいかわからない遊びをしている子供を眺めつつ、俺と雪乃は公園の歩道を手をつなぎながらのんびりと歩み進める。

 そこいらにいる若い夫婦からすれば、俺達二人も若い夫婦にカウントされるのかもしれない。もしカウントされるんなら、光栄だけど、照れくさくもある。

 

「子供って、何を考えているかわからなくて苦手だったわ。休日、本を買いに出かけるたびにここを通ると、得体のしれない物体が走り回っていて不気味だったわ」

 

「お前、それ声に出したことないよな?」

 

 近くに人がいなくてよかった。もしいたら、厳しい視線を叩きつけられた挙句、子供を抱えて逃げていってるだろう。

 

「私は、あなたと違って、想像上の友達なんていないわ」

 

「俺もエア友達なんかいねえよ」

 

「いつも独りごとのようで、でも、誰かに話しかけてるみたいに話をしていたから、私には見えない存在がいるのかと疑っていたのよ。一応幽霊とか見えないものは信じないことにしているのだけれど、もしあなたには見えているのなら、考えを改めなければいけないって真剣に悩んでいたわ」

 

「なんだよそれ? たまに独りごと言う癖はあるかもしれないけど、エア友達なんかいないからな。そんな友達がいる方がこえぇよ」

 

「そう?」

 

 雪乃は、肩にかかっていた長くしなやかな髪を手で払い、冗談とも真剣ともとれる表情をみせる。

 

「そうだよ。ったく・・・」

 

 俺をからかうのに満足した雪乃は、見てるこっちも笑みがこぼれ出る笑顔を向ける。だから、俺は、常に雪乃に真剣に向き合うしかない。頑張る方向が間違ってるだろって、突っ込みを入れたい時もあるが、純粋なまでにひたむきに俺を見つめる雪乃から、目が離せないでいた。

 

「で、だ。さっき子供は苦手だったって言ってたけど、「だった」ってことは、今は違うのか?」

 

「どうかしら?」

 

 俺を試すような視線を向ける。瞳の奥を覗き込む雪乃の視線から逃れることができなかった。

 

「どうだと思う?」

 

「人並みに、よくある答えで、自分の子供だったら可愛いってやつか?」

 

「たとえ自分の子供であっても、親の思い通りには育たないわ。そうでしょ?」

 

 その通りだ。俺が好き勝手やっていられるのは、親がある程度の信頼と放任を決め込んでいるからであるが、雪乃の場合は違っていた。

 俺とは真逆の拘束。その拘束から逃れて現在に至るわけだが、親だろうが家族だろうが自分でない時点で他人であることには変わりがない。

 

「そうだな。親のエゴや期待ってもんがあるかもしれないからな」

 

「そんな親の傲慢に付き合わされる子供は、たまったものじゃないわ」

 

「雪乃は、両親が嫌いなのか?」

 

「嫌いというのとは違うわね。そうね・・・・、苦手というのかしら。距離感がうまく取れないのに、いきなり有無を言わさず急接近されて、勝手に決められてしまったら、子供としては、たまったものではないわね」

 

 たしかに、あの女帝ならそうだろう。俺も得意なタイプではないし、できれば近づきたくない存在でもある。

 

「親っていっても、色々いるからな。だけど、雪乃がああいう母親みたくなるってわけでもないだろ? それに、それだけ毛嫌いしてるんだ。ああいうタイプにはならないんじゃないか?」

 

「娘だからこそ心配しているのよ。人は、育った環境の影響を簡単には捨て去ることができないわ」

 

 俺達は、気がつけば、立ち止まっていた。手をつなぎ、向かい合っているのだから、他人から見ればじゃれあってるように見えるかもしれない。しかし、休日の公園で、しかも、子供が無邪気に遊んでいる側で話すべき内容ではない。

 幸いなことに、近くに人はいない。子供たちは、広場の中心で遊んでいるし、親たちもベンチに座ったり、子供と遊んでいるので、歩道にたたずむ俺達の会話を聞かれる心配はなさそうだ。

 太陽を背に立つ雪乃の顔が暗くみえるのは、逆光のせいだけとは思えなかった。

 

「育った環境っていうんなら、高校も育った環境だろ。俺も雪乃の環境の一部だし、由比ヶ浜だってそうだろ?」

 

「そうね。でも、人間、簡単には変われないわ」

 

 人は変わるとこができるなんて言っても、気休めになんかにもならないだろうし、ましてや、俺が変えてやるなんて無責任なことも言えない。

 俺に今できることといえば、俺を見つめる雪乃から目を離さないことだけだった。

 広場から、ボールが転がってくる。近くのベンチにぶつかり、軽い音を響かせ止まる。急に割り込んできた物音に反応し、ボールに目を向けた。俺の視線につられ、雪乃もボールに意識が向かった。

 雪乃の後ろ方から、子供がトコトコとボールを追って走ってきている。ボールを拾ってあげようと動き出そうとしたが、雪乃の方が早かった。雪乃は、ボールを拾い上げると、子供に歩み寄る。子供の前まで行くと、子供の目線に腰をかがめて両手でボールを受け渡そうとした。

 

「はい、ボール」

 

「ありがと」

 

 あどけない笑顔でお礼を言われた雪乃は、なんとも嬉しそうな笑顔を浮かべる。由比ヶ浜に見せる温かく、ホッとするような柔らかい笑顔ではあったが、それ以上に母性を感じさせる包み込まれるような優しさがそこにはあった。

 

「なあ、雪乃」

 

 まだ子供の後姿を追っている雪乃に俺は問いかける。

 

「なにかしら?」

 

「子供なんて、欲しくなったときに考えればいいんじゃねぇか。それに、俺達まだ大学生だし、結婚だってまだしてないんだしさ。そのうち、子供に関する考え方も変わってくるかもしれねぇだろ」

 

 ついさっき、無責任なことは言わないって誓ったばかりだというのに、その場のノリっていうのは恐ろしい。だけど、なにもしないでいられる問題でもない。踏み込むなら今なのかもしれなかった。

 

「あなたは、何を言っているの? いつ私が子供が欲しくないっていったかしら?」

 

「は?」

 

 立ち上がり、凛とした表情を浮かべる雪乃には、迷いなどなかった。対照的に、俺は間抜けな顔をさらしているのだろう。

 

「私は、八幡との子供だったら欲しいって言ってるのよ」

 

 頬を赤く染め上げた雪乃は、顔を隠すように俺の腕に絡みつく。

 

「だから、あなたもさっき言ったじゃない。自分の子供だったらって。私とあなたとの間の子供だったら、可愛いに決まってるじゃない」

 

 毅然と断言する雪乃に反論などする隙もなく、ただただ俺はついさっきまで自問自答し続けた労力を嘆くだけだった。

 

「そうね、理想としては、大学を卒業して、社会人になって、社会経験を積んでからがいいわね。仕事を覚えて、これから仕事を楽しめる時期かもしれないのだけれど、年齢を考えれば早い方がいいわよね。二人は子供がほしいけれど、子供と一緒に過ごす時間を確保する為には仕事の方もうまく回していかないといけないわね」

 

 結婚どころか、プロポーズもまだなんだけど、俺も雪乃の人生設計に組み込まれて

いることは嬉しく思える。

 たしかに、これから先のことなんて真っ白だ。頭ん中で描くような未来なんて、そうそう実現するものじゃない。だけど、その時いつも俺の隣にいる人物くらいは実現させてみせよう。

 

「なにをニヤニヤしてるの? 気持ちが悪いわ」

 

 俺の隣にいつも寄り添う彼女に、俺はこう言い返してやった。   

 

「案外親馬鹿なんだな」

 

 一瞬目を見開き、驚きをみせる雪乃だったが、すぐさま反撃ののろしをあげる。俺を映し出す瞳が、なにを馬鹿なことを言ってるのって、訴えかけてくる。

 

「知らなかった?」

 

 俺が知るわけなんてない。雪ノ下雪乃の人生設計だって、子供に見せる温かい頬笑みだって知らなかったんだ。ずっと俺の側にいるものだから、知らないことなんて少なくなってきていると思っていた。それなのに、今日は俺の知らない雪ノ下雪乃ばかりだ。

 俺を挑発する瞳に完敗を宣言する代わりに、俺は肩を抱き寄せた。

 海風が、潮の香りを運んでくる。温かい日差しが俺達を照らすなか、数年後、3人で目の前の広場で遊んでるのかもって夢想する。緩やかな時の流れを甘受しつつも、「人は、育った環境の影響を簡単には捨て去ることができないわ」という言葉が頭から離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

6月13日 水曜日

 

 

 

 俺は自宅玄関に着くと、今朝玄関に用意しておいたタオルで顔を拭く。じめじめした湿気と、雨の中の強行軍で浮かび出た汗をぬぐいさることでやっと一息つくことができた。

 あぁ、でも、雪乃が来るまで時間はあるし、どうしよっかな。といっても、あと1時間くらいか。と、シンプルだけど落ち着きがあるクラシカルな置き時計を見て、ひとりごちる。

 どうも雪乃と会えると思うと、落ち着かない。いつもみたいに勉強しても、集中力を欠きそうで無意味だ。だったら、少し掃除でもしてから風呂でも入るか。汗や雨やらでびとびとだし、何かやってないと落ち着かないだろうから、ちょうどいいと結論付けると、俺は濡れた服を着替えるべく、洗面所に向かった。。

 

 

 

 5時50分を過ぎたころで、インターホンのベルが訪問者を告げる。俺が応答すると、訪問者確認用画面には雪乃が映っている。俺は、すぐさま雪乃を迎え入れた。

 

「何をやってるのかしら?」

 

 雪乃は室内に入るなり、ただ今の挨拶もなしに、訝しげな瞳で俺の姿を上から下へと確認していく。

 

「何やってるように見える?」

 

 俺は、本気で雪乃に質問したわけではない。こんなワンクッション入れる為だけの質問など雪乃には通じないってわかっているのに、後ろめたさがある俺は、わかっていても言葉にしてしまう。これがかえって雪乃の機嫌を悪化させるとわかっていてもだ。

 

「質問しているのは、私の方なのだけれども」

 

 予想通りの機嫌の悪い顔つきで、なおかつ、予想以上に呆れ果てた声色で俺に返事を返してきた。たしかに俺の姿を見れば、そう言いたくなる気持ちがわかる。

 俺の姿というよりは、部屋というべきか・・・・・・。

 

「部屋のお掃除?」

 

「6時には帰ってくるって言ったわよね。なのに、どうして大掃除してるのよ」

 

 雪乃の指摘通り、普通の掃除をしている部屋ではない。年末の家庭でやっているような大掃除をしている部屋だとしか見えなかった。あとは、引っ越しをしている最中とも言えなくはないかと考えてみたが、部屋の家具などが減っていないので、とりあえず引っ越しの選択肢は抹消した。

 雪乃が呆れるのもよくわかる。雪乃と約束をしているのに、大掃除だもんな。でも、一度始めちゃうとやめられなくなってしまうときもあるわけで、今日は掃除スイッチが入ってしまっていた。

 

「すまん。なんか妙に汚れが気になってしまって」

 

「もういいわ。あとは私が片付けておくから、シャワーを浴びてきなさい。汗をかきっぱなしだと、風邪を引いてしまうわ」

 

「悪いな。適当に片づけておくだけでいいからな。後の掃除は、また気が向いたときにするからさ」

 

「気が向いたらではなく、定期的にやってくれるとうれしいのだけれど」

 

「・・・・・・・・・・はい」

 

 俺はすごすごとバスルームに潜っていくしかない。しかし、バスルームに入っていく前にもう一度雪乃の姿を確認すると、やはり雪乃だけに任せ事はできなかった。

 

「やっぱり片付けるの手伝うよ」

 

「なら、早くしなさい」

 

 俺は雪乃の声に引き寄せられて、リビングへと戻っていく。その後は、的確な指示を出す雪乃の命に従ってリビングを元のように直していくと、それほど時間もかからずに復元作業は終了した。

 部屋を元に戻した俺は、超特急で汗を流し、先日出したばかりの扇風機とドライヤーで髪を乾かす。リビングに戻ると、雪乃はキッチンにおり、静かに冷蔵庫の中身を確認していた。

 

「片付けありがとうな」

 

「ねえ八幡・・・・・・・・・・」

 

 雪乃は、俺のお礼の言葉を聞かなかった事にすると、感情が消えた声色で俺を呼ぶ。部屋の温度が10度は下がった気がして、シャワーで火照った体をぶるっと体を震わせた。冷気が冷蔵庫から漏れているけど、それだけじゃ10度は下がらない。うちの冷蔵庫が特別性ってことなら納得できるけど、せいぜい雪ノ下家御用達の高級冷蔵庫止まりのはずだった。

 

「何でしょうか?」

 

「昨日も気になってたのだけれど、冷蔵庫の中身がまるっきり空よね。これで、どうやって食事をするのかしら」

 

 冷蔵庫だけでなく、冷凍庫さえもほぼ空の状態であった。昨夜雪乃が料理を作ってくれたこともあって、残り少なかった食材もほど使い切ってしまっている。だから、残っているものといえば・・・・・・。

 

「ほら、その本わさび。戸塚からのお土産なんだぜ。だから、それ使って何か食べようと思ってたんだよ。マグロとかタイとかさ」

 

 雪乃は冷蔵庫の中をのぞいているだけで、俺の方には振りかってこなかった。その背中を見ていると、自然と謝罪の言葉を口にしたくなる衝動にかられるが、なかなか声にはできない。一応心の中でごめんなさいと謝罪したが、その効果は全くなく、さらに室温が20度下がった気がする。

 冷蔵庫がなくても、夏場でも雪乃がいれば冷蔵庫いらない気もするするが、そんなこと言ったら氷漬けにされちまう。そして、振り返った雪乃の視線は、凍えるように冷たいまま俺に突き刺さった。

 まあ、俺もあんな苦しすぎる言い訳されても信じやしないだろうけど、もう少しいたわりっていうのも・・・・、だから、ごめんって。なんで俺の思考を読めるんだよ。

 

「もういいの?」

 

 なにが?って聞きたいところだけど、たぶん脳内屁理屈のことなのだろう。

 

「ごめんなさい。本当は、下のスーパーで冷凍のピザとNYチーズケーキ買うつもりでした。一応ピザは冷凍でも3種類あるし、あと3日はいけるかなと」

 

 雪乃は、俺の献立を聞いて、呆れる呆れる。引くくらい呆れてやがる。

 でも、冷凍ピザっていっても、侮るなかれ。美味しいし、なによりもお手軽だ。それに、NYチーズケーキも値段の割に、濃厚で美味しいときた。それに、雪乃も好きだったはずなのに。

 

「ねぇ、八幡」

 

 雪乃が俺の腕に軽く触れただけなのに、霜やけができたんじゃないかってくらい冷たくて熱い。頬笑みながらも、じわじわと指に力を入れていくのは、やめていただけないでしょうか。きっと俺の腕には、真っ赤な雪乃の手形ができてるぞ。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「私がそんなだらけきった食事、許すと思う?」

 

「たまに食べる分にはいいんじゃねぇか?ジャンクフードも、たまに無性に食べたくなるときがあるだろ?」

 

「そうね。私もそういうときってあるわ。・・・でもね、八幡」

 

 いつっ! さらにぎゅっと指に力を入れやがった。

 これ以上雪乃の逆鱗に触れるのはやばい。目が本気だ・・・・・・。人を殺せる目をしている。

 

「ごめんなさい。羽目を外しすぎました」

 

「そのようね。たまに食べる分にはいいわよね」

 

「だろ?」

 

 雪乃にほんのわずかでも同意してもらって、瞬間的に気がでかくなってしまう。しかし・・・。

 

「でも、あなたの場合、私がいない間ずっとが「たまに」になってしまう気がするわ」

 

 と、カウンターを喰らい、俺の精神は崖下に突き落とされてしまう。自業自得だけど、容赦がない。でも、そんな俺の取り扱いに優れている雪乃は、ため息とともに室温をマイナスからプラスへと戻してくれた。

 雪乃の手も俺の腕から放してくれるが、その握っていた跡として赤く染め上がりは・・・・してはいない。その代わりとして、爪の跡と共に血がにじみでていた。

 

「さてと、行きましょうか」

 

 雪乃は、エコバッグを二つ手にとると、玄関に向かおうとする。唐突すぎる雪乃の宣言に、俺は戸惑うしかなかった。

 

「どこ行くんだよ?」

 

「見てわからない?」

 

 雪乃は手に持っていたエコバッグを顔の高さまで持ち上げると、今までよりは遥に温かくなった目を俺に向けていた。

 

「下のスーパー?」

 

「そうよ。時間もあまりないし、早く行きましょう」

 

「わかったよ。それはそうと、エコバッグ、2つも必要か?」

 

 雪乃は首を軽く振り、馬鹿な子供を優しく諭すごとく説明してくる。

 

「八幡。あなたが買い物に行っていないから、冷蔵庫がほぼ空なのよ。私が今日みたいに帰ってこれればいいのだけれど、おそらく無理でしょうね。だから、あと数日間、八幡が飢えず、しかも、栄養バランスが取れた楽しい食事が採れるようにと、今から買い物に行かなければならないの。おそらく、数日分の食料になるだろうから、エコバッグも2つ必要だと思うわ」

 

 なんか由比ヶ浜じゃないけど、雪乃が由比ヶ浜の勉強をみるときの教育ママモードになってないか? 今は勉強ではないが、似た感じの印象を感じずにはいられなかった。

 俺が脳内で、雪乃が由比ヶ浜に向ける瞳と、自分の今の現状を重ね合わせる作業をしていると、小町の指摘をふいに思いだしてしまう。

 ・・・あぁ、そういえば、小町もなんかそんなことを言ってた気もした。

 

「雪乃さんのお兄ちゃんを見る目が、だんだんとお母さんの目になってきてる気がするんだけど、なにか心当たりない?」

 

「あるわけないだろ。俺も大学生になったわけだし、子供みたいに手はかからんよ。それに、俺は子供のころから手がかからない子供だっただろ?」

 

「それは・・・・・、えっと」

 

 小町は歯切れ悪く、そっぽを向く。

 それと、わざとらしく頬をかくのもやめろ。

 

「意見は、幅広く募集しているから、遠慮しないで言っていいぞ」

 

 だから俺は、憮然とした態度をひた隠しにして、極めて冷静な口調で問いかけた。

 

「それはね、お兄ちゃん。お父さんの放任主義のせいのような気もするような、しないような・・・・・」

 

「それって、俺がなんでも自分でやってるから、親がそれほど面倒見る必要がなかったってことだろ」

 

「それはぁ、そうだね。お兄ちゃんがそういうんならそうなんだよ。お兄ちゃんがそう思ってるんなら、それでいいいよ」

 

 小町は相変わらず歯切れの悪い言葉しか述べなかった。しかも目が泳いでもいる。

 おい、小町。なんか失礼なこと考えてるだろ。そもそもあの親は放任主義の名を借りての小町一極集中の愛情を注いでるのは、わかってるんだよ。だけど、俺はお兄ちゃんだし、小町がかわいいから許してんの。

 

「なんか含みがあるいいようだな」

 

「そう? ああ、お兄ちゃんのせいで、話がそれちゃったじゃない」

 

 小町は、しれっとした顔で、都合が悪い話は打ち切りやがった。

 

「それでね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは親の愛情が、若干少なく育ったんだんだと思うんです。別にそれが悪いってことでも、うちの両親が悪いわけでもないです。ただ、お兄ちゃんが一人で育ってしまうものだから、親も手をかけなかっただけなのです。そのせいで、お兄ちゃんは、今になって親の愛情を求めるようになったんじゃないかって、小町は分析しました」

 

 小町は、びしっと敬礼しているけど、ここは、学者っぽく決めるところだろ。なんで軍隊なんだよって、突っ込み入れたほうがいいのか?

 まあ、いっか。面倒だし。と、俺も小町をみならって、面倒事は速やかに打ち切った。

 

「別に親の愛情なんて、今さら求めてねえよ」

 

「そうかなぁ・・・。お兄ちゃんも雪乃さんも、いろいろとギャップがありすぎて小町の観察眼がにぶっちゃったのかなぁ・・・・・」

 

 とまあ、小町が変なことを言うから、変な意識しちまうじゃないか。言われてみれば、少しあってるのか? 雪乃は、なんだかんだ文句を言っても、面倒見がいいところがあるし、由比ヶ浜に対しても同じことが言える。

 見た目はクールでも、もともと母性本能が強かったのか?

 

「なにをじろじろ見ているの? そんな舐めるように見られると恥ずかしいわ」

 

 俺が考え事に夢中になっていたために、雪乃から嬉しそうに苦情が寄せられてしまった。

 

「ちげぇよ。欲望丸出しで見つめてないから」

 

「そうかしら?」

 

「そうなんだよ」

 

「では、何を考えてみていたのかしら?」

 

「それはだな・・・・・」

 

 正直に言えるかよ。雪乃に子供扱いされて喜んでるんじゃないかって言えるわけがない。俺にママって言わせたいのか? ・・・・・そういや、雪乃はどっちなんだろう。

 

「雪乃って、どっちなのかなってさ。ほら、子供生まれたら、子供にお母さんって呼ばせたいのか、それともママなのかなってさ。ちょっと気になったんだよ」

 

 俺は、とっさに思いついた疑問を、本来考えていた内容とすり替えて雪乃に提示することにした。

 

「きゅ、急に、・・・・・・急に何て事を言い出すのかしら。セクハラで訴えられてもおかしくないレベルよ」

 

 雪乃は顔を隠すように後ろを向き、そそくさと出かける準備を加速させる。そんなにおかしな質問だっただろうか?

 

「そこまで露骨に嫌がる質問でもなかっただろ。でも、雪乃が嫌がるんなら、聞いて悪かったな」

 

 俺は、今の話はこれでお終いという意思表示として、雪乃に遅れないようにと出かける準備を始める。財布と携帯くらいしか必要なものはないから、すぐさま準備は終わるけど。

 俺は、玄関に向かう雪乃の後ろについていくが、急に立ち止まる雪乃の背中に危うくぶつかりそうになった。

 

「おっと、急に止まるなよ」

 

 振り向いた雪乃は、俺の顔を見て、恥ずかしそうに語りかけてきた。

 

「私は、ママって呼んでもらいたいわね。でも、子供が大きくなったら自由に呼んでもらって構わないわ。ママでもお母さんでもどちらでもいいと思うの」

 

 そう早口で言いたいことだけど伝えると、すぐさま玄関に向かって歩み出す。

 なんだよ。雪乃なりに人生設計あるじゃないか。雪乃ママか。似合ってるじゃねえの。そうなると俺はパパか?

 雪乃の人生設計に自分のを重ね合わせ、幸福のおすそ分けを貰っていると、雪乃は既に玄関で靴を履き終えていた。

 

「八幡。おいていくわよ。早くしなさい」

 

「今行くよ」

 

 あわてて未来への思考を停止させると、急ぎ玄関に向かう。雪乃は、俺を軽く睨みつけるが、すぐさま俺の靴を用意し、靴べらを渡してくれる。俺は、照れくさそうに靴を強引に履くと、そのまま玄関のドアを開けて外に出ていった。

 そういえば、まだ雨降ってるのかな?雨降ってるんなら、傘が必要か。

 俺は傘を取りに戻ろうと振り返ると、俺を優しく微笑む雪乃がいた。その手には、傘が2本握られている。

 やはり小町の言う通り、俺の雪乃お母さんって感じの一面もあるかもなと、噴き出しそうな笑みを押し戻した。

 

 

 

 

 

 ひとしきり激しく降った雨は弱まり、傘が雨粒を弾く音も聞こえなくなっている。雨はマンションのエントランスを囲う木々に遮られ、葉に溜まった雨粒が時たま傘を弾くときの音の方が大きいくらいだ。傘からの庇護を抜け、エントランスをくぐると、雨音は完全に遮断され、静けさが訪れる。木の枝だけでなく、厚い雲のせいで太陽が沈んだかさえわからない。エントランスホールに設置されている照明の光が、俺の影を作り出す。湿気をふんだんに含んだ空気が俺の気持ちをより重くし、額に浮かぶ汗が、これからの困難を暗示していた。

 俺の手に食い込んだエコバッグが、血のめぐりを阻害して、指先を青白く変色させる。さらに、肩にかけた方のエコバッグなど、とうに肩の痛さなど吹き飛ばしていて、しびれと熱が充満させてしまっていた。マンションとスーパーまでは、たった200メートルしか距離がないのに、破壊力抜群の重量であった。

 マンションのエントランスから緩やかな階段を下り、マンション街の入り口を出れば、すぐ目の前にある近所のスーパー。某有名スーパーの高級店バージョンらしい店舗ということもあって、品質はいいが値段の方はほんのわずかだけお高い。貧乏症で、実際でもブルジョアではない俺は、少し歩くが幕張に本社がある流通最大手のスーパーの方に行ってしまいそうだが、雪乃の影響でマンションに近接しているスーパーに通うようになっていた。

 雪乃に言わせれば大手大型スーパーは、ただでかいだけで普段買い物をする分には疲れるだけだそうだ。たしかに品数も多く、商品を見るだけでも楽しめる。しかし、体力が心もとない雪乃にとっては、不便でしかないのだろう。ましてや、マンションの隣にもスーパーがあるわけなのだから、好き好んで遠くまで行くとは思えなかった。

 といっても、近々この近接するスーパーもその流通最大手連合と経営統合されるわけだから、勝ち組はどこまでいっても勝ち組なんだなと、儚い思いも抱いたりもする。弱者は強者の庇護のもとにしか生きていけない、世知辛い世の中だ。普段使っているスーパーまでも、強者に従うところをみると、悪いわけではないけど、俺の人生も似たようなものなんだなと思うところもある。

 なんて、雨粒を見て詩人ぶってたり学者ぶったりしてみたものの、尋常じゃない買い物の量に俺の体は悲鳴をあげている。

 雪乃はといえば、スーパーの出口で荷物を一つ持ってくれるのかなって淡い期待を持ったが、手にとってくれたのは俺の黒い傘のみだった。雪乃は、黒い傘をひろげ、俺に入れとうながす。だから、雪乃は傘をさしてはくれたが、荷物は俺が最後まで全部持つことになったわけで。

 まあ、雪乃が持つっていっても、持たせやしなかったけど、せめて買う量を半分くらいにして欲しかった。部屋に着いた時には、体力はほぼ尽きかけていた。

 まじでなにに使うんだよっていうレベルの食材の量が目の前に広げられている。空になりかけていた冷蔵庫が、一瞬にして溢れかえってしまいそうだった。しかし、雪乃は食材を冷蔵庫に入れることもなく、さっそく料理にとりかかろうとしていた。

 

「なあ、夕食作ってくれるにしても、量多すぎじゃねえの?」

 

「あなたが全部食べると言うのならば、食べても構わないのだけれど、そうなると、もう一度買い物に行かなければならなくなるわね」

 

「はぁ・・・?」

 

 どうも要領を得ない。たくさん作ったとしても、食べきれなければ捨てるだけなのに。

 

「私は3日後に帰ってくるのよ。だから、今から食べる分を加えて・・・・・・昼食は由比ヶ浜さんが作ってくるでしょうから、少なくとも7食分は必要ってことになるわ。だから、今作っておいて、冷蔵なり冷凍して、食べるときにレンジで温めれば食べられるようにしておこうと思うの」

 

「そこまでしてもらわなくても、自分で作れるから大丈夫・・・・・」

 

 ではなかった。主に俺の命が!

 鋭く光る雪乃の眼光が、俺の生命の危険を感じさせる。逆らえば殺されると、俺の第6感が激しく訴えかけてくる。

 

「雪乃の料理じゃないと、食べたって気がしないんだよなぁ。食べ慣れた味じゃないと、不安っていうか、満足できなくてだな。だから、雪乃が作り置きしてくれるっていうんなら、大賛成だ」

 

「そう?」

 

 雪乃の細められた眼光から漏れる光は、まだ俺のことを疑っている。注意深く俺の言動を観察し、わずかな嘘さえも見逃すまいとしていた。

 

「て・・手伝うよ。雪乃一人でやるとしたら時間かかるだろ。それに、一緒にやったほうが早いし、それに、なによりも二人の方が楽しいしさ」

 

 雪乃の閉じられた目からは、雪乃の裁定は読みとれない。ようやく血のめぐりがよくなってきた俺の指先は、震えていた。雪乃が次に発する言葉に注目すべく、雪乃の口元に意識が向かう。手の震えを抑えようと手を握りしめると、しっとりと汗がにじんでいた。

 

「まっ、いいとしましょうか。八幡は手を洗ってきてちょうだい」

 

 開かれた瞳には、邪気は消え去り、優しさのみが残されていた。ほっとした俺は、手洗いをして、雪乃のサポートに入ろうとする。が、気持ちの緩みが落とし穴にいなざわれ・・・・・。

 

「あぁ、食事は6食分でいいや、金曜日は、平塚先生とラーメン食べに行く約束してるからさ」

 

 俺が連絡事項を言い終えると、突然冷たい感触が俺の首に絡みつく。顔を動かすと、右手で包丁を持った雪乃の左手が俺の首を軽く触れていた。

 けっして俺を刺そうと包丁を持っているわけではない・・・・はず。

 ほら、まな板には、さっき買った魚のパックが置かれている。だから、俺じゃなくて、魚をさばくために包丁をもってるんだよ。

 ね?

 だよね?

 お願いします!

 

「いつそんな約束をしたのかしら?」

 

 雪乃からせっかく消え去った邪気が、瞳に戻ってきやがった。やばいだろ!

 赤黒い血が包丁から滴り落ち、怪しく鈍い光がきらめかせる。無機質であるはずの包丁が、脈を打ち、まるで血を求めるがごとく宙をさまよっていた。このまま俺にさし向けられてしまえば、包丁の刃は、すぅっと俺の体内に沈み込み、心赴くまま俺の血を貪り尽くすのだろう。

 緊張が体を駆け巡り、体が硬直する。だけど、思考の停止は死を意味する。

 動け、俺の脳。ありったけの残存エネルギーを脳に回し、かろうじて声を絞り出した。

 

「とりあえず、包丁置かないか」

 

 なんつー平凡な台詞・・・・。俺に残ってたエネルギーの陳腐なこと。これほど自分に落胆したことはない。

 もう目の前の死を受け入れるしかないのか・・・・・。

 

「なにをおびえているの。包丁であなたを刺すわけないわ。それとも、なにか後ろめたいことでもあるのかしら」

 

 怪しく光る眼光に、俺は即座に反応しようした。しかし、雪乃の乾いた笑顔が、俺の次の言葉を紡ぐのを躊躇させるが、立ち止まったら死ぬと自分を奮い立たせる。そして、滑りだした言葉を一気に吐き続けた。

 

「めっそうもない。後ろめたいことなんか一つもないって。平塚先生とラーメン食べる約束したのだって、たまたまこの前の日曜日の夜、ラーメン食べに行ったら偶然出くわしただけだし。で、土曜まで雪乃がいないって言ったら、金曜日もラーメン食べに行こうって話になったんだよ。ほら、平塚先生にはお世話になってるし、平塚先生も未だに独りだし、一緒に食べたって罰は当たらないだろ」

 

 日曜日に平塚先生と出くわしたのは、本当に偶然だった。しかし、平塚先生とラーメンを食べに行くことは、わりと多いといえる。身近の大人で、しかも、自分の目線までおりてきてくれる大人なんて貴重だ。

 すべてを包み隠さず話せるってわけでもないけど、考えていることを言葉にできる相手がいるっていうことは心強かった。別に雪乃に隠したいってわけでもないけど、なにか照れくさくもある。

 

「それはそうなのだけれど・・・・、平塚先生なら、ぎりぎりOKかしらね」

 

「おまえなぁ、平塚先生は、いつも俺達の心配してるんだぞ。俺だけじゃなくて、雪乃ともたまには食事したいって言ってるほどだし」

 

「え?」

 

「え?ってなぁ。どれだけ俺達が高校の時世話になったと思ってるんだよ。ふつうは卒業したら、恩返しすべきなのに、未だに心配されてんだぞ」

 

「そういう先生だったわね。ごめんなさい。変にやきもち焼いてしまって」

 

 雪乃は、本気で反省してるのか、しゅんってしていて、一回り小さく見える。俺は、そぉっと首を掴んでいた雪乃の左手を握り、右手の包丁もまな板の上に戻す。そして、俺と雪乃の位置を入れ替えて、まな板を背にし、雪乃を抱きしめる。

 けっして雪乃から包丁を遠ざけたわけではないので、あしからず。

 

「俺は雪乃から愛されてるって感じられてうれしいけどさ。でもよ、包丁握ってるときだけは、勘弁してくれよ」

 

「別に八幡を刺したりなんか、しないわよ。もし刺すとしたら、相手の女の方だから、安心してね」

 

 って、にっこりと笑いながら言い切りやがった! 

 俺の顔は、引きつってるはず。うまく顔の表情が作れず、言葉さえも出ないでいた。

 

「ちょっと本気にしないでよ。冗談よ、冗談。ねえ八幡? 聞いてるの? 嘘よ、嘘」

 

 俺の腕の中で雪乃が慌てふためき、うろたえている。俺を見上げる顔は明らかに狼狽していた。

 雪乃の取り乱しようからすると、まじで冗談だと判断できるが、冗談に聞こえないところが怖い・・・・・。

 

「そうだよな。冗談だよな。ふだん雪乃は冗談言わないから、一瞬信じちまったじゃないか」

 

「いくらなんでもやっていいことと、いけないことの分別は付くわ。でも、八幡に捨てられても、相手の女性を恨んだり、八幡を呪ったりなんかしないから、安心してね」

 

 雪乃は、悲しそうにつぶやく。俺を見上げる雪乃の瞳には、薄っすらと涙の膜が出来上がっている。俺の隣に雪乃以外の女がいるなんて想像なんかできないが、俺としては、雪乃がそんな発言すること自体が辛かった。

 

「ちょっと、なんで八幡が泣いてるのよ」

 

「え? 泣いてなんかいないと思うけど」

 

 俺は右目を覆うように顔を触れる。手には、はっきりと涙の感触が伝わってきた。

 

「ごめんなさい。脅かしすぎたわね。包丁なんか使うなんて悪趣味だったわ」

 

 雪乃は、申し訳なさそうに、こうべを垂れ、俺の胸にその額をこすりつける。

 そうじゃないんだ。たしかに、包丁に関しては本気っぽい感じはしていたけど、冗談だって分かっていたさ。俺の方も悪ノリして、雪乃に調子をあわせたりもした。だけどさ、俺が雪乃を捨てるだって?

 そんなこと、冗談だとしても、雪乃に言ってほしくはなかった。

 

「なあ、雪乃。俺には、雪乃しかいないんだよ。だから、もしもの話もありえないんだ。だからさ、そんなかなしい冗談言うなよ」

 

 やばい! 最近涙腺壊れてないか? 涙があふれ出て、止まらねえ。

 きょとんとして、俺を見つめていた雪乃は、なにがそんなに嬉しいのか、喜びいっぱいの顔で俺の頭を撫でまくるしまつ。そして、そのまま俺の頭を雪乃の小さな胸で抱きしめて、幸せそうにいつまでも頭を撫でていた。

 

 

 

 

『プロローグ』 閉幕

『はるのん狂想曲編』 開幕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原作ラストシーン予想

 

 

 

 奉仕部を通して嫌な事も関わりたくもない面倒事も体験してきた。

 人は醜く、うちに心の闇を隠している。それでも人は群れを作り、協調して騙し合い、そして自分と周りをごまかしながらうまくやってきている。世の中の多くの人間はそうしているが、だからといって全員がそうする必要がないんじゃないかって、本気で思ってしまった。

 雪ノ下は人に媚びない。

 自分にだけは決して嘘をつかない。

 それを俺は、一年以上彼女をそばで見て評価したものだ。

 俺と彼女は似ていない。それでも一緒にいることで安らぎを感じてしまうのは、どこか通ずるところがあるからだって、そう感じてしまう。

 彼女は今も、昨日と同じように窓辺の席に座り文庫本に目を落としていた。

 明日も同じ光景がみられる保証なんてない。人の心は、日常は常に変化しているのだから。

 だったら俺は。……今、目にしている光景を、この先も手にすべき為には。

 

「なぁ、雪ノ下」

 

「なにかしら?」

 

 風でなびいていた黒髪を手で押さえ、首を傾げて俺を覗き込むその姿に俺は息を飲む。

 きっと明日同じ光景を見られなくとも俺は今のこの瞬間を忘れない。脳に深く刻み込まれたこの一瞬を、数年後もそのまま脳に刻み込まれているはずだ。

 でも俺は、……俺はそれだけでは満足なんてできやしない。

 

「なぁ、雪ノ下。俺と友」

 

「ごめんなさい。それは無理」

 

「えーまだ最後まで言ってないのにー」

 

「最後まで言う必要はないわ。だって私はあなたの事を既に友達だと認識しているのだから」

 

 三度目の正直。

 それが今回あてはまるかは疑問が残る。なにせ一度たりとも最後まで言わせてもらえてないもんな。

 けれど人はこうも言う。

 二度ある事は三度ある。

 だったら三度目の正直ってなんなんだよって文句を言いたいところだが、今日はいいか。

 でも、こう言っておくか。

 二度ある事は三度ある。けれど、二度失敗したからってそこで三度目を諦めてしまっては三度目での成功を一生目にする事は出来ない。

 普通一度駄目なら二度目にトライする根性がある奴なんて少ないだろう。

 でも、二度駄目だとしても三度目もトライできる根性があるのなら、そんなにも求める心がある奴なら、神様もご褒美をくれるかもしれないって考えたっていいとせえ思えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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