缶ビールを開けると、小気味の良い気泡の抜ける音と同時に泡が少しだけ飛び出した。
この金色のアルコールは疲れ切った身体を癒し潤す効果があるらしい。
口元に缶を近づけて、軽く一飲み。
ただ、今日のコイツは少しだけ苦味が強かった。
夕食も食べていないにも関わらず、腹はどこか重たく膨れ、煽り気味に開けたビールすら受け付けない。
仕事から帰った我が家はいつもより冷たく、明かりを点けても暗く思えた。
ーーー結衣たちとご飯行ってくるから。
このメッセージが送られてきたのは、俺が仕事を終え、帰り支度を始めた頃である。
ふと、先日の件が頭をよぎった。
ーー。
「……男…、か。…、いや、そう決まったわけじゃ…」
浮気だなんて信じたくないし認めたくもない。ただ、一度その仮定が頭に浮かぶと離れないのだ。
今日だって、本当に由比ヶ浜達と一緒に居るのか?本当は俺の知らない男と2人で。なんて考えてしまう。
だがしかし、ママと娘が2人で男に会いに行くわけがない。娘を連れて行ったってことは確かに由比ヶ浜や雪ノ下と会っているのだろう。
………。
いや待て。まさかもう、浮気相手が子持ちを容認していたりしたらーーー。
「…っ。な、何にせよ、こんな想像は無駄なだけだ。今は2人の帰りを待とう。そ、そ、そうだ、小町に電話だ」
えと、小町の電話番号電話番号っと…。
トゥルルルるる
トゥルルルるる
がちゃ。
『はいはーい。小町ですけど何かー?』
「お、おう。どうした?」
『えぇ!?お兄ちゃんがかけてきたんだよ!?』
「あー、そうか。うん、いやな…。どうよ?ん?」
『……何かあった?』
鋭い妹だ。
さすが小町。
俺のクールさを見破ってくるんだから褒めてあげちゃう。
「…おまえ、彼氏とはどうなの?」
『はぁ?なにそれ、お父さんみたいなこと聞かないでよねー』
「まぁ、俺は認めちゃいないし会わせてももらってねえけどさ。で、どうんなんだよ。彼氏とは」
『別に普通だよ普通ー。一緒に出かけるし、予定が無くても一緒にお茶するし。お兄ちゃんと優美子さんだってそうでしょ?』
確かに、小町の言う通りに俺たちも一緒に出掛けていたし、なんの用もなく会ってはつまらない話をしていた。
ほんの少し前の事だと思っていたが、あれも娘が生まれる前の事だと思うと月日の流れに焦りを感じる。
『てか、お兄ちゃんこそどうなのよ?』
「あ?」
『親子3人で仲良くしてるの?』
「まぁな。そこそこにはやってるよ」
『優美子さんとも仲良くしてる?』
「…?」
おかしな事を聞く。
親子3人で仲良くしていると答えたろうに。
俺の答えた3人に、もちろんアイツだって含まれてるんだから。
『……お兄ちゃんさ、親子も大切だけど、奥さんの事も大切しなくちゃだめだよ?』
「…おまえ何言ってんの?仲良くやってるって言ってるだろ?」
『わかってないなー』
「だから何を…」
『奉仕部の時と同じじゃん。3人でいることを大切にしすぎて、1人1人を良く見てない』
ーーーー。
あぁ、そういうことか。
それならば大丈夫。
俺は娘の事を誰よりも大切にしてるし愛している。
甘やかすなとは怒られるが、多少の事なら何だって許してしまえるくらいに大好きだ。
とーーー。
言い切れるにも関わらず。小町からの返事はどこかそっけなく冷たい一言だった。
『…やっぱりわかってないじゃん』
ーーーーーーー☆
ーーーけっこう話し込んじゃったから実家に泊まって明日帰る。
そのメッセージを受信したのは時計の短針が9を過ぎた頃だった。
「っ。……。むむむぅむむむぅぅぅ!!!」
帰ってこないのなら早めに教えておいてくれ!と一言伝えたい。
不安や不満が相まって、俺は思わず電話を掛けてしまう。
「……。あ、おい、今日はっ…!……今日は帰ってこないのか?」
電話が繋がったと同時に、少しばかり声音が強くなってしまったことに気がつく。
俺は一度、スマホから顔を離し息を吸い直してから再度喋り掛けた。
『んー。メッセージ送ったけど見てないの?』
「あ、いや…、見たけどさ…」
『この子が寝ちゃったから。ここからならそっちよりも実家の方が近いし』
電話の向こうで娘を抱いている姿が想像に容易い。
明確で納得のいく答えが返って来たというのに、俺の心に掛かった靄は晴れなかった。
だが、そんな靄すらも気にしない振りをして
「…そうか。お義父さん達によろしく言っといてくれ。…明日、車で迎えに行くよ」
『え、来てくれんの?』
迎えにくらい行くさ。
娘を連れて電車に乗るのも大変だろうし。
むしろお前のことが心配だし…。
「あぁ。行く。……10時くらいでいいよな?
『……ん。それくらいで。それじゃ、おやすみ』
なんとなく最後の会話に棘を感じた。
心配もした。電話もした。迎えに行くとも伝えた。
機嫌を損ねる要素がない。
つまり、俺が感じた棘は気のせい?
少し気にし過ぎてるだけだろう…。
そして俺は、自らを偽るように安心材料を並べた事にすら気が付かない。
気にしない振りなのか、本当に気が付いていなかったのか。
ビールの苦味が薄れたことで、なんの保証もない安心に身を委ねてしまうのだ。
.
…
……
………
………………
「ママー?パパに電話してたの?」
背中に担いだ娘が、寝ぼけた声で問いかけてくる。
配慮はしていたが、電話の声で起こしてしまったのだろう。
私は、少しばかり悪くなった機嫌を表に出さないよう、ゆっくりと問い掛けに答える。
「んー?誰だろうねー」
「む…。男…?」
「え?あ、いや…、男には違いないけど…。てか、あんた起きたなら降りろし。もう重いんですけど」
「構わんよ」
「…その話し方、パパに似てきたね」
「へへ」
嬉しいんだ…。
ほんのちょっと羨ましい。
娘に好かれるヒキオに。
それと、ヒキオが可愛がる娘に。
この年齢の女の子なら、パパに対して少なからず抵抗を覚えるものだと思っていた。
実際に私がそうであったように。
パパの隣をあるいたり、パパとメールをしたり、パパの話をしたり、私はそういうことを意味もなく毛嫌いしていたと思う。
だが、この子は違う。
なんだかんだとパパに引っ付き笑っているのだ。
さきほど聞いた話だと、どうやら先日も一緒に出掛けていたらしい。
……なんだし。
娘のことばっかり可愛がって…。
少しは……。
少しくらいは…
「……あーしのことも構えし…」
「…わかるわかる。それってジェラシーってやつでしょ?」
「ぅぇ!?」
「あたしも感じるわー。ジェラって唐突だよね?」
「あ、あんた、最近生まれたクセに分かったようなことを……」
「でもねママ」
「…?」
「ジェラシーは隠してても伝わらないんだよ?気付いてもらいたい事を隠すのは、ただ怠慢なのよ」
こ、コイツ……っ!?
なんか理屈っぽい所がホントにヒキオに似ていやがるしぃぃ!!!