とある日の昼休み。
「ねぇ、比企谷くん…」
トントンと、俺の肩を優しく叩く雪ノ下。
彼女は何か困ったように唇を尖らせ、不服ながらと露わにしながら俺の元を訪ねて来た。
そう、訪ねて来たのだ。
わざわざ2年F組の教室まで。
「……」
「…?」
なぜ教室に来た?と言う、俺の無言の圧力に、雪ノ下は察するどころか首を傾げて俺を見つめ返す。
この世界の雪ノ下は少しだけ頭が弱い。
それは数日前に戸塚の依頼を受けた際にも感じたことだ。
あの聡明さは影を潜め、ほんのりと無邪気さを見に纏う彼女。
恐らく、雪ノ下が来たことにより騒然となった教室内の空気すらこいつは感じ取っていないのだろう。
「…何だよ。用事があるなら部活の時に聞くぞ?」
「今じゃなきゃダメなの」
ムスッとした顔で、雪ノ下は片腕に抱えた巾着袋を俺の机に置いた。
その袋にお弁当が入っていることは容易に想像が付く。
「お弁当を作りすぎてしまったの。だから一緒に食べましょう」
その言葉に、教室内の喧騒は一層酷くなった。
三浦達と机を囲んでいた葉山は愕然と口を開け、まるで幽霊でも見るかのように雪ノ下を見つめる。
あの葉山といえ、やはり思春期の男子高校生なのだろう。
少しばかり長く生きる俺には、そんな葉山の狼狽振りすら可愛く思える。
…さて、何と答えれば正解なんだろうか。
幼かった頃の俺ならば直ぐに断り屁理屈を捏ねて教室を出て行った事だろう。
だが、なんとなく高校生の雪ノ下を無碍に扱うのは心が傷む。
「…お弁当、一緒に食べるか。手は洗ったか?飲み物くらいなら奢ってやるぞ?」
「手は既に除菌済みよ。あと飲み物も紅茶を持参しているわ」
「準備が良いな」
「ふふん」
鼻息荒く、俺と対面するように椅子を配置して座ると、雪ノ下は自慢気にお弁当の蓋を開けた。
「はい。紅茶。熱くないけど冷たくもないわ。つまり常温」
「お腹に優しいね」
「あ。お箸が一膳しかないわね…」
「いいよいいよ。行儀が少し悪いが俺は手掴みで食えるし」
「……」
色とりどりのおかずに、小さく丸められたおにぎり。
料理は相変わらず上手ずなんだな。と、俺は思わず微笑んでしまう。
「…あーん」
「…」
突然のあーん。
俺の微笑みは一気に凍結した。
…あ、あーん、だと…っ!?
あの雪ノ下が!?
た、確かに箸は一膳しかないし、手掴みは行儀悪いが…。
ゆ、ゆ、雪ノ下よ、あーんっておま…っ、ちょ、こ、高校生に照れてんなよ俺!
見かけは同じ高校生とはいえ、中身は立派な大人だぞ!?
童貞かよ!!
「…ゆ、雪ノ下…、それは何の真似だ?」
「あーんよ。貴方はあーんも知らないの?」
あーんよって…。
この行為の正式名称って『あーん』なの?
それって辞書にも載ってるのか?
…。
あぁ、でも何かコレ、懐かしいな…。
そういえば、付き合う以前の三浦とピクニックへ行った時に、木陰の下でこうして同じように照れたことがあったな…。
…なんだって、今時の若い娘はあーんをやりたがるのだろう。
こんなのただ恥ずかしくて、心がぴょんぴょんするだけじゃん。
「…あの、腕が痛いから早く食べて欲しいのだけれど」
「…あ、ああ。悪いな」
「はい。あーん」
と、雪ノ下のあーんに、俺があーんしようとした時。
その甘くて切ない空気に介入する1人の女生徒が声を荒げてこちらへ突撃してきた。
ドタバタドタと机を薙ぎ払い、彼女はチャームポイントの吊り目をこれでもかと言うくらいに吊り上げさせ、俺と雪ノ下の間に手を伸ばす。
ガシっ。
「な、何やってるし!!は、は、破廉恥だしーー!!!」
こ、古手川さん…!?ではなく三浦が、俺の口元に届きそうだった雪ノ下の手を止める。
「む?何をするの三浦さん」
「な、何をするのじゃないし!神聖な学び舎で、あんたは何を破廉恥な…っ。そ、そう言うのは大人になってからじゃないとダメなんだかんね!」
…あーんって大人じゃないとやっちゃダメなのか。
それは初めて知ったよ…。
そう関心を寄せつつ、俺は少しだけ安堵のため息を吐いて三浦に問いかける。
「落ち着けよ。それなら三浦、おまえ箸とか持ってないか?あいにく雪ノ下は一膳しか持ってきてないみたいでな」
「よし分かった待ってなバカ共!あーしはフォーク派だからスプーンを貸してやる!」
「スプーンかよ…。まぁいいけど」
「ま、まだ食うなよ!?あーしも一緒に食べるから!!」
そして、三浦はまたもやドタバタドタバタ自分の席へ戻っていった。
不服そうに頬を膨らませる雪ノ下から視線を逸らしながら、俺は何の意味もなく窓の外を見つめる。
どこか違う過去を繰り返すこの夢。
コレはいつになったら覚めるんだ?
.
…
……
………
で。
その日の放課後。
授業を終え、俺はいつものように奉仕部へ向かおうとしたのだが、学校本棟と部活棟を結ぶ渡り廊下の物陰に、
その影は明らかに俺を待ち伏せていて、いざ俺が表れよう物ならカバンに隠したナイフでぐさっ!…とはならず、頭に乗っけたお団子をヒョコリと覗かせ、その柔和な笑みで廊下を歩く俺の前に立ちはだかった。
「…あ、あの…」
「…由比ヶ浜」
「あ、良かった。…私の名前、覚えててくれたんだね」
当たり前だろ。
おまえの名前を忘れるはずがない。
それだけの時間を共に過ごし、俺の心に優しく入り込んでくれたのだから。
そんな彼女が、こちらの世界では奉仕部に居ない。
「…何か用か?」
「…う、うん…。あのさ、比企谷くんは…、優美子とどういう関係なの?」
この由比ヶ浜は、俺の事をヒッキーとは呼んでくれないみたいだ。
それが少し残念でもあり、切なくもあり。
そんな心情がバレぬよう、俺は自然を装い無難な返答をした。
「関係?…部活仲間だが?」
「…うそ。…だってあんな優美子、見たことないもん。雪ノ下さんだって…」
「俺がボッチだから気を使ってくれただけだろ。それよか、おまえはこんな所で何をしてたんだ?」
「ふえ!?あ、あははー、ちょっとお散歩?」
「散歩なら帰って犬と行ってやれよ」
「うん、そうだよね…」
そう言いながら、由比ヶ浜は小さく下を向く。
…サブレの話題を出しても事故の件に触れてこない。
隠してる様子も無いし…。
まさか、こっちの世界で俺が事故から助けた相手は由比ヶ浜じゃないのか?
それなら由比ヶ浜が部室に現れないつじつまも合うが…。
…1年前の事故について、小町に聞いても良く覚えてないとしか言わないし。
うろ覚えながら、総武高校の制服を着ていたことだけは確からしいのだが…。
「…部室、来るか?雪ノ下が美味しい紅茶を淹れてくれるぞ?」
「……」
下を向く彼女はモジモジと身体を揺らし、俺を数回見つめるや、またも恥ずかしそうに下を向く。
「…三浦とは、仲良くやれてるのか?」
と、口から溢れた過去の呟き。
あの頃みたいに、こいつは遠慮深く、他人から一歩を引いた関係で、硬い笑顔を貼り付けているのだろうか。なんて言うほんの少しの親心。
彼女は俺の言葉に一瞬、驚いたように目を見開くと、ふにゃっと頬を緩ませて、いつものような笑顔で口を開いた。
「うん、大切な友達だよ。……
「…?」
最後の方が聞き取れなかったが、どうやらこちらでも仲良くやれているらしい。
一度話せば積年の思いが蘇る。
あの部室で過ごした3人の記憶は、今もなお俺の胸に仕舞われていた。
それを無理やりにこじ開けようものだから、俺は少しばかりセンチメンタルになってしまう。
そっと、俺と由比ヶ浜の間に優しい風が吹き通った。
懐かしい青色の風。
俺はあの頃と同じように、今もただアホ毛を揺らしながら、由比ヶ浜が笑って話しかけてくれる事を待っている。
もう一度だけ、部室に来るかと由比ヶ浜に聞くも、彼女はゆっくり首を横に振り、下駄箱の方へと向かって歩き出した。
「またね、比企谷くん」
「…おう」