目的の港町に到着して、女がまず抱いた印象は”血生臭い”であった。
自身が住んでいた中国の片田舎にも似たような貧困街は存在したが、この地はそれを遥かに上回る殺伐とした雰囲気を滲ませている。誰も彼もが肌身離さず凶器の類を所持し、安っぽい看板が乱立する通りには男たちの罵声が飛び交う。
嗚呼、最悪だ。
いくら仕事とは言え、こんな東南アジアの港町で何日も過ごさなければならないことを思うと早くも気が滅入る。
意を決して足を踏み出し、目的地である指定の酒場へと向かう。ガラガラと引かれるスーツケースの車輪の音も、そこいらのチンピラの騒ぎ声で掻き消される。女はその喧騒に思わず顔を顰め、次いでポケットからコピーされた地図を取り出した。
幸いなことにこの街はそれほど入り組んだ作りはしていないらしく、何本か通りを抜ければ目的地は視界に入ってくるようだ。
「イエローフラッグ、ね」
女は酒場の名を中国語でポツリと呟く。
事前に聞いた情報によればこの街でもかなり有名な部類の酒場であるらしい。何を以てして有名なのかは不明だが。
高級な酒をいくつも揃えているのか、はたまた美人な女を並べているのか。
そんな他愛の無い事を考えながら歩いていたからか、女は前方に立つ複数の男たちの存在に気付くのが遅れた。
「よォ姉ちゃん。ここらじゃ見ねェ顔だな」
アロハシャツを着た恰幅のいい黒人のロン毛が、女の行く手を遮ってそう声を掛けた。
その声でようやく男たちの存在に気が付いた女は、ハッと地図から顔を上げる。そこには気味の悪い笑みを浮かべた三人の男の姿。
女を取り囲むように位置を移すと、ずいっと顔を寄せて。
「随分と重そうなケースを引き摺ってるじゃねえか。俺らが持ってってやろうか?」
「結構。急いでるの、そこを通してもらえるかしら」
毅然とした態度を崩さず、男たちの間を通り抜けようと一歩を踏み出した女であったが、その肩を男の手が押し留める。たたらを踏んでその場に留まることとなった女は、目の前の男をキッと睨み付けた。
「おー怖っ」
「気が強い女は嫌いじゃねえぜ」
「おいおい今日はそういうんじゃねェだろ」
内輪で会話を始める男たちを尚も睨みながら、どうにかしてこの場を切り抜けられないか考える。
手荷物を渡すわけにはいかない。持ってきたPCには重要なデータがいくつも眠っている。万が一失ってしまえば、これからの仕事に支障をきたすというレベルでは済まされない。
「さて、じゃあ姉ちゃん。痛い目見たくなかったらさっさと金目のモノ出してくれ。こんな所で冷たくなりたくはないだろう?」
黒人の大男はそう言うと、懐から刃渡り十五センチ程のナイフを取り出した。その切っ先をそっと女の首筋へ突き付ける。
刃物が出たことで、女の身体が一気に強張る。首に添えられたナイフがあと数センチ押し付けられてしまえば。
ドッ、と恐怖が押し寄せる。慌てて周囲に視線を巡らせるも、助けてくれそうな素振りを見せる人間はいない。それどころか関わり合いになりたくないとばかりに視線を逸らし、早足にその場を離れる人間たちばかりである。
「俺としちゃ別に殺したって構わないんだぜ、それから荷物を奪えばいいだけだからよ」
その言葉が止めとなった。命あっての物種、ここで無残な屍を晒すくらいなら。
女は俯いて下唇を強く噛み締め、徐々にスーツケースを握る力を緩めていく。
その様子を認めた男たちは、一層笑みを深くした。
油断しきった男たちは、故に気が付かなかった。
どこからどう見てもこの街の人間ではない女が一人で歩いていた場面に出会して、重要な事を見落としていた。
一体どうして、周囲の人間たちは我関せずを貫いていたのか。
ロアナプラの住人の中でも一介のチンピラに過ぎない男たちが、美味そうなカモに喰い付くのを放置していたのか。横取りしようと思えば出来た筈である。少なくとも、この街にはそんな思考の野蛮人どもが吐いて捨てる程のさばっている。
では何故そうはならなかったのか。
答えは女の風貌にあった。
――――黒だった。染物ではない、おそらくは地毛であろう黒髪だった。
加えてその人相である。東洋の人間であることを窺わせる顔立ちと、理知的な印象を抱かせる細身の眼鏡。
黒髪、女、眼鏡。
この三つが揃う女に碌な奴はいない、というのがこの街では共通認識となりつつあった。原因は言わずもがな、どこぞのメイドと任侠娘である。
さらに言えば、これらが揃う人間は十中八九あの男と繋がっているということもあった。
ロアナプラで敵対はおろか近づくことすら躊躇う国籍不明、本名不詳の男。
件のその男は、いつの間にか男たち三人の背後に立っていた。
「困るな、面倒事を起こされるのは好きじゃないんだ」
「…………っ!!?」
決して声を張り上げた訳ではないというのに、その男の声はいやによく響いた。
声がした方へ振り返り、次いでその存在に気付いた男たちの顔から、即座に表情が抜け落ちる。
女は突然の事態に状況を飲み込めないのか、口を半開きにして現れた男を見つめていた。
中国人ではない。東アジア圏の人間は中国、韓国、日本それぞれの顔立ちを見分けることがある程度可能だ。女が見た限り、日本人に最も近い印象を受けた。
グレーのジャケットを羽織ったその男は、三人の男たちを順番に見て、それから女へと視線を移した。
「怪我は?」
「い、いえ……」
「それは良かった」
その男は簡潔にそれだけ言うと、改めて三人を見据える。
「俺も暇じゃないんだが」
「ま、待ってくれ! いや待ってください! アンタの知り合いだったなんて知らなかったんだ!」
「命だけは、命だけは!」
男は一つ息を吐いた。
「……仕事が控えてる。深紅のジャケットを仕立てるつもりは無いが、俺の気が変わらん内に消えることを勧める」
ジャケットの内側へと手を伸ばす男を前に、三人はこの世の終わりと言わんばかりの表情を浮かべたが、告げられた言葉と取り出された煙草を見て猛ダッシュ。女の横を走り抜け、暗い路地裏へと消えていった。
取り残された女はそんな目の前の光景をどこか他人事のように眺めながら、美味そうに煙草を吸う男をぼんやりと見つめていた。
その視線に気づいた男は、煙をゆっくりと吐き出して。
「ようこそお嬢さん、ロアナプラへ」
5
「……くたばってただと? ザミドの野郎が?」
「ええ、マルタでクルーズ中に
イタリアンマフィア、コーサ・ノストラ。
ロアナプラに建つ支部のオフィスに戻って早々聞かされたのは、面倒な臭いを漂わせた事故報告だった。ロニーは舌を打って革張りの椅子に腰を下ろす。
「その情報の出処は」
「ヤードですボス、
ロニーの表情があからさまに苛立ちを見せる。
「面倒な事をしてくれやがってあの魚糞野郎が、ヤードの動きはどうなってる」
「今の所不幸な海難事故として処理されているようです。その背景までは手が伸びていません」
「オーケー、あの口座に辿り着かれる前にさっさと本題を片付けちまった方がいい」
言って、ロニーはオフィスの隅で転がされている血達磨へと視線を向けた。
既に虫の息の血袋と化した男は、しかしロニーの視線がこちらへ向いていることに気付いて力の限り声を振り絞った。
「俺が、俺が悪がっだ……! 権利書の場所も教える……!」
周囲を高級そうなスーツを着込んだ男たちに囲まれたその男は、血反吐を吐きながらも懇願する。
「頼むロニー、助げてぐれ……」
「チッ、」
そんな男を見下ろすロニーの瞳は、目の前の人間を人間として見ていなかった。
囲んでいた構成員たちをジロリと睨み、苛立たし気に舌を打つ。
「いつまで遊んでいやがる、ホームパーティはとっくにお開きの時間だ」
「しかしボス、サミーは権利書の在処を」
「いいんだよクソッタレ。ザミドがくたばった以上、もう
その言葉が引鉄となり、室内に数発の発砲音が轟く。
組織に盾突いた愚か者は始末した。しかし、ロニーの顔色は晴れない。彼にはまだ解決しなければならない厄介事が残されているからだ。それも、
「それでだ、カミッロ。行方は分かったのか」
「それが、分からねェんですボス。ザミドの野郎は慎重だ。そう足の付く動きをするような奴じゃない。安全な場所へ移してるはずなんですが……」
「それが問題だろォが」
部下からの報告を遮って、ロニーは拳を握り締める。
「例のブツがザミドだけが知ってるその安全な場所とやらにあるとしてだ、一体どこのどいつがそれを掘り出せるってんだ?」
「……ッ」
「ドン・モンテヴェルティもこの件に関しちゃ神経を尖らせてる。アルバニア人たちは期限を切ってきやがった」
「……黙らせますか?」
馬鹿野郎が、と部下を一蹴。
「俺たちはロシア人じゃねえ、そんな力づくってわけにもいかねェよ。それにだ」
そこで一度言葉を切って、ロニーは静かに口を開いた。
「ウェイバーが勘付いていやがる」
「そんな、まさか!?」
途端室内に広がる動揺を、ロニーは視線だけで黙らせた。
「今日の連絡会で奴は釘を刺してきやがった。『洗濯機』なんて単語、何の意味も無く出てくるわけが無ェ」
他の夜会連中には気付かれることがないよう、裏で完璧な根回しをしてきたはずだ。
事実張やバラライカはコーサ・ノストラがアルバニア・マフィアと繋がりを持ったことには気付いていないだろう。そのように動いてきたし、ロニー自身細心の注意を払ってきた。
だが、あの男は気付いた。
洗濯機、と口にした以上こちらが何をしているのかまで把握しているのだろう。
「……奴はこの街の均衡が崩れるのを嫌う、自分の事は棚上げしていやがるがな。こうなった以上猶予は無ェ。帳簿を弄れる人間を探し出せ、今すぐにだ」
6
「私知ってるわ、こういうのを日本じゃ一石二鳥って言うんでしょう?」
「いや、そんなポジティブな状況じゃないような気が……」
「じゃあ盆と正月がいっぺんに来たってやつかい?」
「馬鹿野郎そんな目出度い状況に見えるか? 俺には二発の核弾頭にしか見えねえぞ」
それはもう、言いたい放題であった。
イエローフラッグへと足を踏み入れた途端にこの言われようである。流石におっさんの心も傷つく。いやまあ、実際は微塵も気にしてはいないのだが。慣れとは恐ろしいものである。
僅かに苦笑を漏らして、後ろを付いてきた女とともにいつものカウンターへと向かう。相変わらず静かな店だ。外の喧騒とは打って変わって、グレイたちの話声しか聞こえない。
「悪いなグレイ、待ったか」
「大丈夫よおじさん。お兄さんがお話相手になってくれたの」
「そうか、悪いなロック。子守りを押し付けちまった」
言いながらグレイの隣に着き、バオにウイスキーを注文。予め用意していたのか、すぐに足元から新品のボトルが取り出されテーブルへと置かれた。
「用意がいいな」
「いい加減オメエの好みも分かるってもんだ。全く嬉しくねえがな」
「同感だ」
おっさんに俺の好みを把握されても微塵も嬉しくない。
「さて」
くるりと回転式の席を半回転。これまで俺の後ろにくっついていた女へと向き直る。
ちらりと横目で見れば、いつだかのインド女も件の女へと視線を向けていた。というかベニーとやたら距離が近いような気がする。まあ、今はそれは置いておくとしてだ。
「ここいらじゃ見ない顔だから声を掛けたわけだが、俺も別に慈善事業を営んでいる訳じゃない。ここに来た理由くらいは教えてもらえるか」
尤も、と付け加えて。
「そこのインド女が居る時点で大体の察しは付くが」
嘘である。
大体も糞も一ミリも繋がりなどあるか分からない。ロアナプラ流おっさんジョークである。ここでロックあたりに「違いますよやだなあウェイバーさん」、なんて突っ込んでもらって黒髪女の緊張を解いてやろうと思ったのだ。何やらチンピラに絡まれてからずっと表情が硬かったようだし、怖い思いをしたのだろう。人生経験だけは無駄に豊富なおっさんなりの気遣いである。
「……相変わらず気持ち悪いくらいの洞察力だこと。ダーリン、あいつにこの事言ったりしてない?」
「あー、チョコパイ。ウェイバーに関しちゃ勘繰るだけ無駄だ。彼と頭脳戦なんてしたら数分で電子レンジに放り込まれた生卵みたいになる」
おい、ボケにボケ被せるなよ。ロックもそんな顔するな。
「……先ほどは助けていただきありがとうございました、ミスター」
律儀に礼を述べる彼女に、気にするなと手を振る。
尚も硬い表情を崩さない彼女は一度小さく息を吐いて、インド女(そういやジェーンとか言う名前だったか)へと向きを直して。
「では、改めてご挨拶を。
「はあいスピアちゃん。アタシのことは知ってると思うから、こっちの自己紹介は省略させてもらうわ」
軽い調子でそう述べるジェーンに、馮は真剣な表情を崩さないまま。
「この地を訪れた目的はただ一つ。是非、私を貴方のグループのメンバーに」
「何だお前、まだ偽札作りなんてやってるのか」
「失礼ね、アタシだって同じ轍を二度踏んだりしないわよ」
俺が零した言葉に即座に反応するジェーン。
何やら徒党を組んで動いているようだが、流石に以前のような馬鹿はしていないらしい。一度痛い目を見て反省したのか、口先だけでまだ似たようなことをしているかは分からないが。
と、いうかだ。
「
一口分残っていたウイスキーを喉に流し込み、空き瓶をバオへ返却。視線をロックへ向ける。幾許か逡巡する素振りを見せたロックだったが、どうやら部外者が聞いても問題はないと判断したらしい。俺への信頼なのか不用心なのか判断が難しいところだが、一先ず席を立つ必要は無さそうである。
「いえ、そこまで内密な話でもないですし構わないですよ。それに今更だ、筒抜けになっているのに隠そうとする意味も無い」
「同感だ。それにいざという時もウェイバーが居れば安心だしね」
「俺はお前らの用心棒じゃねェぞ。そういうのはレヴィやダッチの役目だ」
そう、レヴィと言えばだ。先ほどから姿が見えないのが気になる。聞けば先刻までグレイと口喧嘩をしていたというし、どこで油を売っているんだか。
「ああ、レヴィなら別件です。ジョアンナに呼び出されていつものクラブに」
「ジョアンナ、というと代役か用心棒だな」
レヴィと馴染みのある金髪の女を思い浮かべてそう口にする。
ラチャダ・ストリートにある風俗バーで働いているジョアンナは、度々ショーのピンチヒッターや迷惑な客の掃除をレヴィに依頼している。この時間帯に呼び出すということは、今回もそのどちらかなのだろう。
あの店はローワンが経営していることもあってかなりハードな見世物が売りだ。一度足を運んだことがあるが、どうもああいう雰囲気は好きになれない。
「ねえねえおじさん。犬のお姉さんが居るその場所、私も行ってみたいわ」
「お前にはまだ早ェ」
バオに注文しておいたアイスミルクをグレイの前に置きながら即答。ぶー垂れても連れて行かんぞ。そういうのはもっと大人になってからだ。
と、話が逸れた。
「私としても人手が多いに越したことはないわ。でもねスピアちゃん、こっちの仕事は足が付きやすい」
いい? とジェーンは馮を見つめる。
「アンタは知らないかもしれないけれど、この街には危険がいっぱい。それこそ一歩踏み違えれば一瞬で地獄行きよ」
どの口が言うんだ、とは思っても口には出さなかった。
「……ええ、先の一件で認識しています」
「それは結構。いいかしら、アタシらとしてはね、アンタが単なるスクリプト・キディだった場合を危惧しているわけ」
「…………」
「というわけで一つ、簡単な仕事をしてもらうわ。なぁにアンタの言う経歴が本物なら造作もない筈よ。それをクリアできれば晴れてアタシのチームに迎える。どう?」
「ええ。それで構いません」
ジェーンは恐らく気付いていない。
馮がチラリと俺を一瞥したことを。
彼女とて馬鹿ではない、ということを。
7
「君はツいてるな」
イエローフラッグを後にした馮は、仕事場として利用すべくラグーン商会のドックを訪れていた。ベニーとジェーンは別件だというので、ロック一人が付添人である。
扉を開けて室内へ入り、空調のスイッチを入れる。小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出すロックのその言葉に、馮は片方の眉を顰めた。
「ツいてる? 逆じゃないかしら。到着早々追剥に会ったのよ?」
「普通の人間ならそこで荷物を剥がれるか殺されるかだ。でも君はここぞというタイミングでジョーカーを引いた。相当な強運の持ち主だ」
冷えた缶ビールの一本を馮へと手渡して、ロックは笑う。
「……そう、やっぱり只者じゃないのね。あの人」
気の良い音を立てて開けた缶ビールを一口呷ると、馮はそう呟いた。その言葉を聞いたロックは僅かに口元を緩ませて、彼女と同じように缶ビールを大きく呷る。
「教えてくれないかしら、あの人のこと」
「……それが君の仕事に関係あるのか?」
いくら知己の間柄とは言え、ホイホイと他人の情報を流すものではない。
その辺りの事はロックもしっかりと認識していた。いたずらに寿命を縮めるような愚を犯したくはないのだ。
「無いわ。直接的には何も」
「余計な詮索はこの街じゃ御法度だ。肝に銘じておくといい」
ネクタイを外してシャツのボタンを二つ程外し、ロックは馮へとそう言葉を投げた。
「貴方、親切なのね」
想定の外からの言葉だった。
ロックは目を丸くし、それからソファに腰掛ける彼女へと顔を向ける。
当人はいたずらが成功した子供のような笑みを浮かべていた。
「だってそうでしょう? こんな女にご丁寧に忠告してくれるんですもの」
「……よしてくれ。そんなんじゃない」
性分じゃないと眉を顰め、ロックはビールの残りを一息に飲み干す。
それに合わせるように、馮も残りを流し込んだ。
「女の勘」
空になった缶を潰して、ポツリと呟く。
「あの人が私の今後を左右する、そんな気がした」
「…………」
「笑うかしら?」
その問いにロックは一瞬呆け、それから口角を吊り上げた。
「……いいや、良い勘をしてる」
8
「怪しいですね」
事務所へと帰宅し、事のあらましを聞かせた雪緒の第一声はにべもないものだった。
「グレイはどう思う?」
革張りのソファに寝転がって天井を見上げていたグレイへと声を掛ける。雪緒とは違い、グレイは実際に馮本人を目の当たりにしている。裏の匂いは感じなかったが、この少女にはいったい彼女はどのように映っただろうか。
「嘘は言っていなかったと思うわ。でもホントの事も言っていない、そんな感じかしら」
あまり興味をそそられなかったのか、グレイは天井を見上げたまま素っ気なく答えた。
いや、というより風俗バーへの興味が勝っているだけだなこれは。帰り道もやたらとその話をしてきたし。この年頃の子供は何にでも興味を示すものだから扱いに困るのだ。何度も言うがあんな刺激の強い場所へは連れていかんぞ。ただでさえグレイは何本か頭のネジがぶっ飛んでいるというのに。
などと考えながら雪緒が淹れてきたコーヒーを受け取り、酔い覚ましに口に含む。
グレイにはココアを渡してソファに着いた雪緒は、尚も馮の事が気にかかるらしい。
「話を聞く限り、ジェーンさんの居るチームに参加することが目的のようですけど」
「そう言っていたな。事前にコンタクトは取っていたようだ」
「インターネット上で繋がれるのに、直接顔を合わせるメリットってありますか?」
顎に指を添え、雪緒は思考を巡らせているようだ。銀縁の眼鏡がきらりと光って名探偵の思考シーンのようである。
雪緒の言う事も尤もではある。
距離の離れた相手とも連絡の取れるインターネットで通じ合ったというのに、そのメリットを破棄しているようにも見える。十中八九この街を指定したのはジェーンなのだろうが、彼女にとってもトラウマになり得るこの街を態々指定した理由が分からない。いやまぁ、ベニーとの逢瀬に丁度良かった、という理由は多少なりともあるのだろうが。
……何だか急に考えるのが阿呆らしくなってきたな。
「いえ、ウェイバーさんが助けたんですから、それなりの理由があるんだとは思いますけど……どうせ教えてはくれないし……」
思考を早々に放棄した俺とは対照的に、雪緒は未だ思考の海に沈んでいた。
無意識なのか横で寝転んでいたグレイを膝の上に引き寄せ、その頬をこねくり回している。なんとか逃れようと身体をくねらせるグレイだが、雪緒の拘束から逃れることは出来ないようだ。
「……あ、そういえばウェイバーさん。明日、忘れてないですよね?」
「買い物だろ。覚えてるよ」
「なら良かったです。グレイちゃんも一緒に行きましょうね?」
「ひゃかっふぁふぁ」
流石に洗濯機が壊れたことを忘れる程ボケてはいない。
夜会でも連中に話してしまうくらいだからな、そういえばロニーの野郎はイタリア製がオススメだとか吐かしていたが、ロアナプラにも卸しているのだろうか。
……明日良いものがなければ、今度会ったときに聞いてみるか。
9
喧騒渦巻く中心街から幾許か離れ、人も明かりもまばらな路地の一角。
おんぼろモーテルや廃ビルなどの遮蔽物で月明かりすら届かないその路地に、真っ黒なコートを纏った大男の姿があった。その隣にはもう一人、やせ型の男の姿。
辺りに二人以外の人気は無く、不気味な程の静寂に満ちている。
「……これが消したいっていう女かい」
男から手渡された一枚の写真に視線を落とし男、ブレン”ザ・ブラック・デス”は問い掛ける。
写真を渡した男は一つ頷き、
「ああ。馮亦菲という。この女を可及的速やかに処理してもらいたい」
「速やかに、か。余程お困りと見えるな」
「……やってくれるな?」
受け取った写真を懐へと仕舞い、ブレンは一つ息を吐く。
「丁度手頃なのが居る。ソイツらを向かわせよう。腕に関しちゃ文句なしの四人だ」
だが、とブレンは依頼人を見据えて。
「あの男が出張ってきた場合、俺たちは問答無用で撤退する」
「あの男……? そいつはいったい誰のことだ?」
依頼人である男は困惑した。
今目の前に立つ男は、この街で暗躍する殺人代行組合、その総元締である。
彼に依頼した仕事の達成率は99%以上であると聞き及んでいる。悪徳の都と言われるこの街でも随一の殺し屋だ。そんな彼が、たったひとりの男を前に戦うことすらせず敗走を決め込もうとしている。
冗談を言っている風には見えない。声のトーンと彼から発せられる雰囲気からもそれは察することが出来た。
故に依頼人の男は口を開く。
そこまで警戒する男とは、一体誰なのか。
「…………奴の名は」
10
「ウェイバーめ、やってくれる」
三合会タイ支部。
部下からの報告を受けた張は、先の会合を思い返しボヤかずにはいられなかった。
同じ室内に控えていた腹心、彪は要領を得ないのか怪訝そうに張を見つめている。
そんな腹心の様子を気にも留めず、張は大きな溜息を吐き出す。
「何事です?」
「何事、ね。ああ、そうだな。アイツにとっちゃあこれが通常運転だ。可もなく不可もなく、こっちの都合はお構いなく」
部下から受けた報告の内容は、ウェイバーが見慣れない東洋人と行動を共にしていたというもの。
つい数時間ほど前行っていた会合の話題を、まさか忘れているわけではないだろうに。
"中国軍がこの辺りを嗅ぎ回っている。"
あの場で、張は確かにそう言ったのだ。
ウェイバーが連れていた女が中国人ではない可能性もある。
だが、タイミングが良すぎやしないか。
こうなってくるとウェイバーの会合での一挙手一投足が気にかかる。あの場で、ウェイバーは何をしていた。何を話していた。
「洗濯機」
唐突に出てきた単語だった。会合の場で咄嗟にその意味を吟味したが、ついぞ真意に辿り着くことはできなかった単語である。何かの暗喩であろうことは想像がつく。が、それが具体的に何を指しているのかが掴めない。
「この間みたいな綱渡りは御免だぞ、ったく」
それは、諦観を多分に含んだ言葉だった。
宵闇は薄っすらと溶けていき、水平線の彼方から徐々に空が白み始める。
――――数多の思惑を混ぜ込んで、ドス黒く変貌を遂げた一日が始まる。
三か月以内だからセーフ()
■以下要点
レヴィ「オラもっといい声で鳴きやがれ!」
ローワン「ぶひいィィ!!」