悪徳の都に浸かる   作:晃甫

45 / 55
045 誰にでも平等に、朝陽は昇る

 79

 

 

 

 其処にその男が居ることを、一体誰が予測出来ただろう。

 今この時、この瞬間。まるで全てを見透かしていたかのようなタイミングで現れたその男は、全くの無表情のままコンテナ街を抜け、港の中心部へと歩いてくる。

 レヴィとロベルタが正に衝突せんとしている、戦場のど真ん中に向かってである。そこらの通りを歩くように平然と、一定のペースで二人の間を横切らんと歩みを進めている。

 

 ロベルタは当然のことながら、レヴィも既に臨戦態勢に入っている。故に指を掛けた引鉄は、ほぼ反射的に引かれていた。

 正面から接近するロベルタと、彼女を視界から覆い隠すようにして現れた男に向かって、数発の弾丸が当人の意思とは無関係に発射される。

 

 レヴィの頬を一筋の汗が伝った。それは紛れもなく、冷や汗だった。

 敬愛と尊敬を向ける男へ銃口を突き付け、剰え発砲してしまった。

 

 ――――からではない。

 

 何らかの意図があってこの戦場へと乗り込んできた男の邪魔をしてしまったと、直感的に悟ったからだ。

 数時間前、レヴィは面と向かって言われていた。二人を連れて港へ向かえと、そこでガルシアと合流しろと。

 

 指示された内容は、ガルシアと合流しろという部分まで。そこから先は、レヴィの仕事内容には含まれていない。想定していなかったという事はない。ウェイバーは敢えて(・・・)言わなかったのだ。ロベルタとの戦闘はお前の仕事ではないと、言外に伝えていたのである。

 そしてこのタイミングで図ったように現れた。

 それはつまり、そういうこと(・・・・・・)なのだろう。

 

 猟犬の相手は、ウェイバーがするつもりなのだ。

 

 瞬きすら許されない時間の狭間で、レヴィは確かにウェイバーと視線が交錯したのを認識した。

 

『ここから先は、俺の仕事だ』

 

 直後。レヴィの放った弾丸はウェイバーが放った弾丸の直撃を受けてその進路を大きく歪めた。

 いつ発砲したのか認識すらままならない程の早撃ち。くるくると気軽に銃を回すウェイバーはいつ狙いを定めたのか、超至近距離の弾丸を弾いてみせた。相手が撃ってから合わせていたのでは到底間に合わない。恐らくウェイバーは、ロベルタとの衝突を視界に捉えた瞬間にリボルバーの引鉄を引いていたのだ。

 その状態のまま間に割って入り、発砲のタイミングを意図的に合わせてこの戦場を硬直させた。

 

 ウェイバーがこの場に現れた。

 そう認識してからのレヴィの動きは迅速だった。

 即座にウェイバーから距離を取り、ドックの入口にまで後退する。

 

「いい判断だレヴィ。ガルシアの安否確認は終えてるな?」

「ああ、今しがた双子メイドが二階へ運んでいった」

 

 その報告を受けて、ウェイバーは僅かに口角を緩めた。

 依頼主の安否を優先させるのは当然のこと、何せ死なれては報酬が貰えない。慈善事業をしているわけではないのだから、今更言うまでもないだろうが。

 何を考えているのか、ウェイバーはロベルタと向き合ったまま動かない。動けない、のではない。動かないのだ。先程の乱入で場の主導権はウェイバーが掴んでいる。ウェイバーの正面に立つロベルタも、憎々し気な表情を浮かべるもののその場から動こうとしない。

 動けば即座に撃たれる。そう感じているのだろう。

 先程までとは打って変わって、静寂がその場を支配していた。

 

「……何処まで、」

「あ?」

 

 そんな静寂の中、そんな言葉を零したのはロベルタだった。

 

「何処まで、私の邪魔をすれば気が済むのですかッ!!」

 

 激しい慟哭。

 ウェイバーは黙ったまま、微動だにしない。

 

「邪魔をするな、私の、邪魔を、するなッ!!」

 

 喉を引き裂かんばかりの絶叫と共に、ロベルタは手持ちの拳銃を投げ捨て、空いた手を背中へと伸ばす。

 瞬時に構えたソレは、今の時代から考えれば骨董品と言われても仕方のない代物。

 だが単純な構造であるが故に、サボットさえあればどんな弾丸でも発射することが可能な銃。

 ――――マスケット。

 

 閃光が弾けた。

 

 

 

 80

 

 

 

「……ん、んん」

 

 霞がかった視界を何度か瞬きすることで明瞭にしていく。

 真っ先に飛び込んできたのは安っぽい蛍光灯が取り付けられた天井。そして見覚えのある三人の少女たちだった。

 

「ファビオラ。それに、マナとルナ……」

「若様……! ご無事で本当に良かった……! 私の不注意で危険に晒してしまい、申し訳ございません!」

 

 横になっていたソファから身体を起こすや否やそう頭を下げるファビオラに、ガルシアは静かに首を横に振った。

 

「あれは僕が悪いんだ、ファビオラ。君の言いつけを守っていたつもりだったけど、甘かった」

 

 やや表情を曇らせるガルシアへ、次いで双子が声を掛けた。

 

「若様、ご無事で何より」

「切り傷が何箇所かありましたが、何かございましたか」

「ん? ああ、いや。紐無しバンジーをちょっとね……」

 

 言葉の真意を測りかねた二人は首を傾げているが、ガルシアは思い出したくない記憶なのかそれ以上この話を続けることはしなかった。

 代わって話題に上がったのは、ラブレス家にとっての本題。

 

「ファビオラ。ロベルタは、今どこに……?」

「外を見てごらん」

 

 口を開こうとしたファビオラに代わって告げたのは、ロックだった。

 彼は冷蔵庫から取り出したサンミゲルを呷って、ガルシアの目の前まで距離を詰める。

 未だソファに座ったままのガルシアと目線を合わせるため、中腰になってロックは告げた。

 

「君が求めたものが、そこにはある」

 

 ハッとして、ガルシアは勢いよく立ち上がり窓の外を見やる。

 やや薄暗い空の下で、二人の怪物が鉛玉を喰い合っていた。

 

「あれは……」

「見えるかい、ガルシア君。彼女こそ君が探してやまなかった人物だ」

 

 ガルシアは愕然とした。

 これまでの彼女は見る影もなく、そこに居たのは返り血に染まった殺戮人形(キリングマシーン)。遠目からは分からないが、身体のあちこちを損傷しているのだろう。返り血だけではない己の血も垂れ流しにしている。ロベルタの血が、コンクリートの地面を彩っていた。少量ではない。このままでは失血死の可能性も否めない程の量だ。

 

「ロベ……」

「いけません若様!」

 

 反射的に外へ出ようとしたガルシアの腕を、ファビオラが掴んで引き止める。

 

「どうして止めるんだファビオラ!」

「婦長様は正気を失っています! そんな状態の婦長様の元へ、若様をお連れするわけにはいきません!!」

 

 ファビオラの叫びは、この場に居る女中全員の総意だった。マナもルナも、ガルシアが外へ出ることのないよう扉の前に直立している。

 彼女たちとてガルシアの気持ちは痛いほどに理解できる。ロベルタをただ取り戻すためだけに海を渡ってきたのである。生半可な覚悟でないことくらい承知の上だ。しかし、それでも。今の状態のロベルタとガルシアを直接会わせるわけにはいかない。理性を失ったロベルタがガルシアに牙を突き立てる可能性が払拭されない限りは。

 

「ロベルタを救えるのは僕たち家族だけだっ、そうだろう!?」

「若様ッ、それでも!」

 

 どちらも譲らない押し問答。

 そこに割って入る声があった。

 

「――――行かせてあげなよ」

 

 空になったアルミ缶を潰して、ロックは簡潔にそう言った。

 

「男が女の元へ行きたいと言っているんだ。主人の男気は立てるものだと思うけどね」

「ですが!」

 

 声を荒げるファビオラに、ロックはやれやれと首を横に振る。まるで聞き分けのない子供を見るような目でファビオラを見つめて。

 

「彼だけだ」

「……何を、」

 

 言っているのか。そう二の句を継ごうとして、しかしそれよりもロックが言葉を投げる方が早かった。

 

「彼だけが、この場を丸く収めることができる」

 

 胸ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。一息に吸い込んでから、ロックはゆっくりと煙を上へ吐き出した。

 

「俺は一度賭けに失敗した。だが君は生きていて、彼女もまた生きている。手筈は全てウェイバーさんが整えてくれた。後はその一点、ピンポイントにベットするだけだ」

「ギャンブルのつもりですかセニョール・ロック。この事態を、人の命を、チップにして楽しんでいるとでも!?」

「少し違う。きっとあの人はこうなることをかなり初期の段階から読んでいた。だからこそのあの電話、そして現在の状況。ガルシア君を連れてきた理由は、そこにある」

 

 人差指と中指で煙草を挟み、水平に腕を持ち上げる。

 ロックの瞳が、明け始めた空とは対照的に暗く沈んでいく。

 

「次は外さない」

 

 ロックの発言が、ファビオラは我慢ならなかった。

 

「冗談じゃない! 私たちはアンタの駒じゃない! 思い通りに動かせると思うな!」

「ならどうする? このまま君たちの家族がウェイバーさんに殺されるのをただ見てるつもりか? 祈るだけで事が解決するのなら、イエス様はさぞ暇を持て余してるんだろうね」

「それは……ッ!」

「君たちはこの街の脅威を正確には把握していないみたいだから教えておく。うちのガンマンより、ホテル・モスクワより気をつけなくちゃいけないのは、あの人だ」

 

 ロックの言葉に思う所があるのか、双子のメイドはやや俯いて手持ちの槍をきゅっと握った。その様子を見て、ファビオラは下唇を噛む。

 いけない。このままでは、ガルシアが外へと飛び出してしまう。ロックの言葉を真に受けてはいけない。見た目はいくらかまともであっても、やはりこの悪徳の街の人間だ。人の死をなんとも思っていない。そんな男の口車に乗せられてはいけない。

 

「ファビオラ」

 

 必死に思考を巡らせる少女の耳に、ひどく優しい声が届いた。

 ふと見れば、ガルシアの腕を掴むファビオラの手に、そっと手が重ねられている。

 

「ありがとう、ファビオラ。僕のことを心配してくれて」

「若、様……」

「僕は行くよ。これはきっと、僕にしかできないことだから」

 

 その表情は、少年が浮かべるにはあまりに重く、美しいものだった。

 死を覚悟した者にしか、出来ない笑みだ。

 そんな表情を間近で見てしまってはもう、彼を止めることなど出来はしなかった。ずるずると、力が抜けたかのようにファビオラは床にへたり込む。

 

「ガルシア君」

 

 言いながら、ロックは黒い塊を放り投げた。

 

「持っていくといい。無いよりは役に立つ筈だ」

 

 ガルシアは投げ渡された黒い塊に視線を落とす。たった一発の弾丸で命を容易くむしり取る、その兵器を数秒見つめて。

 

「……これは、お返しします。これを使ってしまえば、僕は貴方たちと同じ(・・・・・・・)になってしまう」

「そうかい。じゃあ、健闘を祈るよ。祈る神とやらが居るのなら」

 

 ガルシアはもう、口を開かなかった。

 ロックに背を向け、扉の前に立つ双子の脇を抜け、ドアノブに手を掛ける。

 そして少年は一人、戦禍へとその身を投じた。

 

 その後ろ姿が遠くへと消えていくことが恐ろしくて、ファビオラは己の身体に力を込めた。

 彼を一人にしてはいけない。その使命感だけで立ち上がり、少女もまた外へと飛び出していく。

 

 ロックはただ、その光景を愉しそうに眺めていた。

 

 

 

 81

 

 

 

 誰か助けてください死んでしまいます。

 そんな言葉を、声を大にして叫びたい気分だった。

 どうして遊撃隊の連中から逃げ続けた結果ロベルタの前に出ることになるのか。俺は方向音痴ではなかった筈である。背後から追手の気配を感じたのでヤケクソ気味にレヴィとの間に割って入ったが、やっちまった感がすごい。

 程なくすればグレイやロットンもこの場に到着するだろう。先陣切って闇雲に走り回った結果がこれなのだから笑えない。

 

 年代物のマスケットと刃渡り三十センチ程のナイフを振り回すロベルタと適当に距離を取りつつ様子を窺う。身体の至るところから出血しているロベルタだが、アドレナリンが全開なのか然して痛がる素振りはない。薬でもキメて痛覚がぶっ飛んでいるのだろうか。だとしたら腕や脚の一本吹き飛ばしたところで止まらないだろう。さて、どうしたものか。

 

「あら?」

 

 なんて考え事をしていると、起爆剤がさらに一つ追加された。言わずもがな、グレイである。

 

「あらあら、うふふ。やけにじぐざぐと走り回っていると思ったら、こういうことだったのねおじさん」

 

 何も言っていないのに勝手に納得したらしいグレイは、にっこりと笑みを浮かべたままロベルタに向かってBARを掃射した。

 おい危ないだろうが、俺まで掃射範囲にばっちり入ってるぞ。

 

「こんなのに当たるおじさんじゃないでしょう?」

「お前は俺をなんだと思ってるんだ」

 

 当たれば痛いし、死ぬぞ。

 人の目で追いきれない速度の弾丸を避けるなんて芸当、早々出来るもんじゃない。

 

「後ろの兵隊さんたちも到着したわ。サングラスのお兄さんが何発かイイのを貰っていたけど、鎖帷子のおかげでピンピンしてるわよ」

「いや、お前の後ろで顔面蒼白になってるぞロットン」

 

 脇腹を押さえながらひょっこりと顔を出したロットンが、やや覚束無い足取りで港へと入ってきた。出血らしきものは少ないが、被弾の衝撃でやられてしまったのか、顔面蒼白といった面持ちである。

 まぁあの遊撃隊を相手にしながら致命傷を避けているだけでも大したものだが。

 戦力としては頭数に入れられそうにないロットンを一瞥して、グレイは水平線へと視線を移した。

 数時間前までは光源のない夜空が広がっていたというのに、いつの間にか海の向こう側は仄かに白みを帯び始めている。

 

「ねえおじさん、あとどれくらい(・・・・・)かしら」

 

 ふむ。どのくらいときたか。

 陽が昇るまでの時間は正確には分からないが、恐らくはあと十分もすれば太陽の頭が見えるだろう。ロアナプラの日の出は思いの外早い。時期がもう少しズレていれば、この時間帯でも太陽の三分の一程が顔を出していることもあるくらいだ。

 俺はロベルタを視線で制したまま、徐に口を開く。

 

「そうだな、十分てところだ」

「そう。なら、それまではこのダンスパーティを楽しみましょうか」

 

 抱えていたBARを構え直し、グレイは艶やかに微笑んだ。

 ちらりとロットンの現れた方へ視線を向ければ、遊撃隊の面々がこの戦場へと雪崩込んで来るのが飛び込んできた。いよいよ以て乱戦模様だ。フレンドリーファイアにだけは気を付けるとしよう。

 

「背中は任せる」

「っ、ええ、ええ。任せて頂戴。絶対に、その背中を傷付けさせたりはしないわ」

 

 何やらぶるりと身体を震わせたグレイは俺の背後へと回り込む。

 準備万端な様子の少女を視界の端に捉えつつ、俺も両の手に握った銀のリボルバーを構える。

 張からの連絡は未だ無いが、そう長くはないはずだ。用意周到なあの男のこと、既に船と渡航ルートの確保は終えている筈。であれば俺の携帯が鳴るのも時間の問題だ。あとはこの混沌を掻き混ぜたような空間で、五体満足で生き残るだけである。いや、それが一番難しそうなんだけれども。

 

「ああ、久しいな」

 

 ここまで死を身近に感じることも、めっきり少なくなった。出来れば金輪際感じたくはない感覚であるが。ともかく。

 こういった場面で最も重要なのは相手にその動揺を悟らせぬことだ。このレベルの人間たちを相手取る際には、その一瞬の動揺が命取りとなる。だからこそ、俺は表情に一切のマイナス感情を示さない。寧ろ逆だ。猛っていると相手に思わせるように、内心とは裏腹に口角を吊り上げて見せる。

 

「精々、足掻くとしよう」

 

 一段落としたトーンで呟く。

 狙いなんて碌に定めない無茶苦茶な腕のひと振りと共に、左右計十二発の弾丸が発射される。

 やはりというか、それらの弾丸はロベルタ、遊撃隊の連中には命中しなかった。だがそれは俺にとって想定内だ。射撃センスが壊滅的な俺の弾丸なぞ、止まっている的にだって命中するか怪しいところである。

 故に弾丸の行方など然して気にせず、懐から取り出した弾丸を素早く込め直す。リボルバーは握ったまま、親指とグリップで弾丸を掴み、即座にリロード。そのまま間髪置かずに発砲。全弾撃ち終わってから再発砲まで凡そ二秒。練習の賜物だ。

 

 相手に応戦の隙を与えない。戦闘に於いて重要なのは攻撃することではなく、攻撃をさせないことだ。

 下手な鉄砲もなんとやら、ほぼ間断無く撃ち続けることで何発かは相手に命中する。俺一人だけなら何処かで弾切れを起こしたろうが、今回は後ろにグレイがいる。更にその後ろにはラグーン商会のドック。ストックは十分と言えた。

 

 このまま膠着状態が続けば理想だが、相手は百戦錬磨の遊撃隊と理性の吹き飛んだ獣。そう上手くはいくまい。

 俺の放つ弾丸を人間とは思えない反射神経で回避し続けるロベルタと、隊列を組んでじわじわと距離を詰めてくる遊撃隊を両の目で確り捉えつつ、リボルバーから鉛玉を吐き出し続ける。

 流石にこの人数差は埋まらないようで、遊撃隊から無数の銃弾が飛来する。銃口がこちらを向いた瞬間には身を屈め、積み上げられたドラム缶の影に飛び込んだ。数瞬遅れて甲高い衝突音が響き渡る。

 

「この人数差は如何ともし難いな。物量差で押し潰されそうだ」

「そんな愉しそうな表情で言われても説得力が無いわおじさん」

 

 失礼な。これは表情を取り繕っているだけだ。誰がこんな鉛玉の食い合いを愉しむものか。

 ドラム缶の陰から発砲を続けるが、積み立てられたドラム缶は次々と吹き飛ばされていく。障害物として使えそうなものが徐々に減少していき、やや焦燥に駆られて周囲に視線を飛ばした。

 

「……ん?」

 

 ドック二階の扉が開き、室内から金髪の少年が飛び出すのが見えた。その少年の後を追うようにして、小さな少女もほぼ同時に外へと出てくる。

 

「あらあら」

「おいおい、正気か?」

 

 ファビオラはともかく、ガルシアは戦争のど素人だ。しかも見る限り武装はしていない、完全な丸腰。殺してくださいと看板を引っさげているようなものだ。

 

「……レヴィが嗾けでもしたか。いや、」

 

 或いはロックが、とも思ったが流石にその線は無いか。あの日本人はやや悪党に憧憬を抱いている部分はあるが普通の日本人だ。根が善人なのである。そんな男がガルシアを送り出すような真似はすまい。

 

「どうするの、おじさん」

 

 俺の真横でBARを掃射するグレイが問い掛ける。

 今の状態のロベルタと彼を対面させるのは余りにも危険だ。一方的に虐殺されるなんて展開になりかねない。加えてホテル・モスクワが出張ってきているこの戦況だ。いや、これは俺が敢えて引き連れてきたような構図になってしまったが、他意はなかったと明言しておく。こんなカオスにするつもりは無かったのだ。

 

「…………チッ」

 

 無意識的に舌打ちをして、ドラム缶の陰から飛び出そうとする。

 その瞬間だった。

 

 俺のポケットに仕舞い込んでいた、携帯電話が鳴り響いた。

 

 

 

 82

 

 

 

 戦場に現れたその少年の存在を、ロベルタは驚愕と疑念を以て出迎えた。

 最初に浮かんだのは驚愕。何故、どうして。敬愛するラブレス家当主が、こんなタイの辺境の街に居るのか。次いで湧いたのが疑念。これは服用した薬が見せている幻覚なのではないか。そうでなければ、彼がこの場にいることの説明がつかない。

 先程まで飛び交っていた銃弾の嵐は、いつの間にか止んでいる。

 そこだけが静止したような空間に、少年が入り込んできた。

 

「ロベルタッ!」

 

 ガルシアの言葉に、ロベルタの肩が僅かに震える。

 少年はロベルタと五メートル程の距離で足を止め、ひどく優しい声音で続けた。

 

「やっと追い付いたよ。本当に、やっとだ」

「若、様……」

 

 少年は内から湧き上がる衝動を必死に堪えこの場に立つ。その横に並ぶファビオラは、顔に緊張が表れている。

 

「……私にはもう、貴方が本当にそこにいるのかもわからない。フフ、あの日から、ずっとそう」

 

 ねえ、若様。

 ロベルタはこれまでとは異なる口調で、正面に立つ少年を見つめながら。

 

「これが終われば、あのお屋敷に帰れます。あの、カナイマの咲く、ラブレスのお屋敷に……」

「ロベルタ」

 

 彼女の言葉を、ガルシアは強い口調で遮った。

 

「僕たちは今、復讐という名の螺旋に囚われている。君はそれを、破壊しようとしてくれていたんだね」

 

 君はとても、優しいから。

 右の拳を力いっぱいに握り締めて、ガルシアはロベルタに語り掛ける。

 

「君の過ちを正すことはできる。そして君が望むように命じることも。でもね」

 

 その場に立つ少年は、最早これまで泣いて喚くだけの子供ではなかった。

 そのことを隣に立つファビオラは、そして正面に立つロベルタは。痛いほどに感じた。

 

「――――その一切が、どうでもいいことなんだ」

 

 少年が何を口にしたのか、ロベルタは一瞬理解が出来なかった。言葉の意味を理解するのに数秒をかけ、やがてロベルタはわなわなと口を震わせる。

 

「……どうして。どうでもいい筈ないでしょう!? 貴方のお父様が殺された! 私たちの暮らしが奪われた! どうでもいい筈ない! 許せる筈がないでしょう!!」

「確かに父が殺されたことに対して何も感じないなんてことはないさ。悲しいし、今でも憤りは感じてるよ」

「それが当然の感情です! だから、ですから! お願いですから! 私にただ一言仰ってください! 『誅せよ』と! そうすれば、私は……ッ!!」

「ロベルタ」

 

 もう一度、少年は彼女の名を呼ぶ。

 

「君が屋敷から居なくなって、今こうして再び会うまで、何を言おうかずっと考えていたよ」

 

 一歩。ガルシアはロベルタへと踏み出す。

 

「この街に蔓延する血の臭いがどうしようもなく僕を不安にさせるんだよ。君がもし、その中に身を堕としてしまったらと、気が気じゃなかった」

 

 更に一歩。ロベルタとの距離が縮まる。

 ロベルタは何かを言いたそうに表情を歪めるが、言葉が口を突くことはなかった。その間も、ガルシアはゆっくりと彼女の元へと歩み寄っていく。

 

「でも、安心したよ。君はまだ、僕を心配してくれていた。だとすれば、君ならこの血膿が匂うこの舞踏を終わりに出来る」

 

 だから、ねえ。

 二人の距離は、数十センチにまで縮まっていた。

 手を伸ばせば届く距離に、求めていたものがある。

 

 ガルシアに、躊躇はなかった。

 何も持っていない両の手を広げ、そのまま彼女を抱き寄せる。

 

「……ッ!!?」

 

 突然の行為に顔を強ばらせるロベルタの耳元で、ガルシアは優しく、しかし芯の通った声で言った。

 

「君の罪が消えることはない。それは僕の痛みも同じことだ。だからロベルタ、これからは君の背負ったものを一緒に背負うよ。これまで君がしてくれたように、僕は君の支えになる。それを伝えたかった。それだけを伝えるために、僕はこうしてやって来たんだ」

 

 

 

 83

 

 

 

「よォウェイバー、まだ生きてるとは驚きだな」

『勝手に殺すなよ張。確かに生きた心地はしなかったがな』

「ハッ、なに言ってやがる。どうせギラギラ笑って迎え撃ってたんだろうが」

 

 通話口の向こうから聞こえてくる恨めしげな声に、張はくつくつと笑いを漏らした。

 あの男のことだ、恐らくこちらの連絡のタイミングまで予測していたに違いない。聞けば敢えてラグーン商会のドックにまで出たというではないか。

 確かにあの場にガルシアが居るということが分かっているのだからその場で合流させるのが最も合理的だ。だがその後ろには遊撃隊、そして正気を失った猟犬が居る。その二つを分断せずに相手取ってしまうとは、つくづく規格外だと思わざるを得ない。

 

(まあホテル・モスクワがウェイバーっつう餌に食いついてくれたお蔭で、こちらはスムーズに仕事を遂行できたわけだが)

 

 もともとグレイフォックス襲撃群(コマンドグループ)の目的は「黄金の三角地帯」でシュエ・ヤンの身柄を確保することだ。

 だがそれは三合会としては面白い話ではない。あの場所で製造されている麻薬は、三合会と強い結びつきがあるからだ。

 故に、このグレイフォックスが三合会に助けを求めるという構図に持ち込めたことは僥倖だった。目先の脅威はロベルタだ。その危険因子を放っておくわけにはいかなかった。故に張はグレイフォックスの送り先をフィリピンを経由しアメリカ本国とすることで、済し崩し的に彼らの任務を放棄、失敗へと誘導した。

 

『遊撃隊の銃撃が止んだのはお前の仕業か?』

 

 ウェイバーの声に、張の思考が戻ってくる。

 

「ああ、こちらの仕事は完了した。楽しいパーティは終わりだとな」

 

 街の存続よりも己の欲望を優先するきらいのある女だが、今宵の闘争は満足のいくものであったらしい。受話器越しの声のトーンがやや高かったのを、張は聞き逃さなかった。

 

『そうか。ガルシアとロベルタについてはダッチに任せることにした。足がつくと面倒だから幾らか経由することにはなるだろうが、そこは仕方ないだろうな』

 

 聞きながら、張は水平線から昇る朝陽に視線を移す。

 海から流れるやや塩気を含んだ風に吹かれ、彼は静かに微笑んだ。

 

 

 

 84

 

 

 

『ちょ、それ大丈夫なわけ!?』

 

 現状報告を終えた途端に飛んできたのは、心配とも説教とも取れるそんな言葉だった。

 

「大丈夫なわけあるか、こっちはドテッ腹に鉛玉二発食らってんだぞ」

『アンタの心配してんじゃないわよ。S級首獲りに独断で海渡った挙句A級首まで討ち漏らしたことの皺寄せがこっちにくることを心配してんの!』

「あ、そっちね」

 

 昇る朝陽を見ながら路地の外壁に背を預け、ヨアンは苦笑を漏らした。

 幸いにして弾丸は貫通しているが、逆を言えばそれだけだ。血は今も止まることなく流れ続け、激痛が全身を絶え間なく襲う。

 

「ま、収穫はあった。あの野郎の尻尾こそ掴めなかったが、足跡は確かにあった。この街に間違いなく、奴はいる」

『S級首一人にご執心だねぇアンタも。まぁあんなことされれば無理もないんだろうけど』

「今回は一旦そっちに戻ることにする。報告書は飛行機ン中で纏めるわ」

『はいはい。治療は必要? 必要なら部屋取っておくけど』

「いらねェ」

『言うと思った』

 

 通話を切って、男は笑う。

 この街に来て良かったと、心底思う。

 会いたくて会いたくて仕方がないあの男の影を、ようやく踏むことができたような気がした。

 

 

 

 85

 

 

 

 夜明けを告げる太陽が水平線の向こうからゆっくりと昇ってくる。柔らかな光を受け、礼拝堂のステンドグラスが煌びやかに輝き始める。差し込む光に色が付き、なんとも幻想的な雰囲気が室内を満たした。

 そんな礼拝堂の中で、修道服を来た女は両足を前の席に乗せて煙草の煙を燻らせていた。

 

 彼女の背後で扉が開く音がして、外から褐色肌の男が入ってくる。

 

「終わったみたいですよ姐さん」

「……姐さんって呼ぶなって言ってんだろリコ」

 

 リコと呼ばれた男は爽やかに笑い、彼女の横に腰を下ろした。

 

「姐さんの狙い通りってやつですかね。米軍は任務放棄で帰国。三合会と繋がりの深い麻薬製造プラントは無傷で、ラブレス家の人間も死者無し。おまけにホテル・モスクワとあのウェイバーを前線に引っ張り出して情勢の不安定化を誘った。いったいどんだけ儲けてんだか」

「リコ」

 

 尚も言葉を続けようとしたリコの言葉を打ち切って、エダは煙草の先を突きつける。

 

「うちらのお仕事、金言その一は?」

「他人の便器を覗かない」

「そういうこった。わかったらさっさとシスターに報告してきな」

 

 へいへい、と腰を上げるリコを横目で見ながら、エダは短くなった煙草を灰皿へと押し付ける。

 

「……ああ、それから、あたしゃ暫く此処を空ける。夜会連中には目を光らせときな」 

 

 

 

 87

 

 

 

 早朝の市街地を抜けて事務所に辿り着くと、いつから待っていたのか、雪緒が玄関先で出迎えてくれた。

 

「お帰りなさい」

 

 微笑みながら両手を差し出す彼女にコートとホルスタを預け、デスクの椅子にどっかりと腰を落とした。

 

「ああ、疲れた」

「ねえねえおじさん。私は今日頑張ったと思うの」

「あー、そうだな」

 

 一晩極限の緊張感の中に居たからか、その疲れが今になってどっと出てきた。あれか、歳には勝てないということなのか。いや待て俺はまだ三十代。後半だとしても三十代だ、まだ加齢臭を漂わせるには早いんじゃないか。

 などとどうでもいい思考を巡らせていたからか、グレイが何事かを膝の上で呟いているがよく聞き取れない。というかナチュラルに俺の膝に乗ってくんなよ。流石に重いぞ。言ったら撃たれるんだろうけど。

 

「汗もかいちゃったし。だからねおじさん、一緒にシャワーを浴びましょう?」

「馬鹿か」

「ご褒美があってもいいと思うの。ほら私、今日頑張ったのだし」

「雪緒ー、ちょっとこいつに説教してくんない?」

 

 あんな命のやり取りをしたばかりだというのに、どこまでもグレイはマイペースだった。どこかで育て方を間違えてやしないだろうか。ああ、どっちかつうと最初からだわ。

 尚も膝の上でぶーぶー言うグレイが雪緒に引きずられていくのを見送る。やがてやって来た眠気に身体を預け、俺は幾ばくかの微睡みの後、瞼を閉じる。

 ブラインドの隙間から僅かに入ってくる陽の光の暖かさに包まれながら、しばしの眠りにつくのだった。

 

 

 

 悪徳の都に、陽が昇る。

 平穏とは程遠い男の二度目の人生は、まだ終わらない。

 

 

 

 

 




「悪徳の都に浸かる」、これにて本編完結。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。