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――――東の空は淡く白み始め、日の出を今か今かと待っている。数時間前まで空一面を覆っていた雪雲は遠くの空へと流れていき、このまま行けば快晴になるだろうことは想像に難しくなかった。
そんな空の下、ロックとレヴィは港に停泊している一隻の船舶の前に立っていた。マリアザレスカ号。ホテル・モスクワの所有する小型客船の皮を被った移動要塞である。扱いとしては貨客船に分類されるこの船舶だが、大国ロシアを裏側から牛耳るマフィアの所有船舶である。当然、只浮くだけの代物ではない。これ一隻で戦禍へと身を投じられるだけの武器弾薬が保管され、外壁には幾つもの銃口が埋め込まれている。敵が近付こうものなら容赦無く蜂の巣に出来るだけの武装が施されているのだ。
そんな完全武装が施されたマリア・ザレスカ号の船内に、まずはロックが足を踏み入れる。次いでレヴィもその後に続いた。
船内は異様な静けさに包まれていた。明け方とは言え、常時数人の見張りを配置しているバラライカの周囲にしては不気味な程に静かすぎる。ロックとレヴィの二人はその違和感に気が付いていた。
「レヴィ」
「ああ、姉御にしちゃあ警備が
ということは、今がその滅多な状況である可能性が高い。
ロックの頭に真っ先に浮かんできたのは、鷲峰組、ひいてはウェイバーとの徹底抗戦の下準備。既に行動に起こせる段階にまで進んでいるのだとすれば、時間は一刻の猶予も無い。
「……急ごう」
ロックは今一度気を引き締め、バラライカが居るはずの特別室へと向かった。
扉の前にまでやって来たロックは何度か深呼吸を繰り返し、意を決して扉をノックする。船内の静けさに反して、返事は直ぐに返って来た。
「入りなさい」
言われるがままロックは扉を開き、その後ろをレヴィも追従する。
室内には備え付けのデスクに着くバラライカと、その背後で直立不動を貫くボリスの姿があった。二人の様子は別段いつもと変わらない。しかしそれを嵐の前の静けさだと感じてしまう。杞憂であればそれで良い、だがそうでなければ。ロックは胸中に渦巻く不安を必死に押し留め、一歩前へ出る。
「昨晩は一体何処へ行っていたのかしらロック。油を売っている時間は無いのよ」
「……バラライカさん、俺は」
「ロック。質問しているのは私よ、先ずは私の質問に答えなさい」
有無を言わせぬその発言に、ロックは奥歯を噛み締めた。
「ヘイ、ヘイ。姉御、どうせそっちでもう調べはついてんだろ? だったら今更聞くようなことでもねえよ」
「私はロックの口から直接聞きたいのよ
レヴィの言葉も受け付けず、バラライカは真っ直ぐロックを見据える。切れ長の瞳に見つめられ、心臓を鷲掴みにでもされたかのような息苦しさを感じた。彼女はまだ何もしていない。だというのに、この暴力的なまでの威圧感。無意識のうちに頬を冷や汗が伝う。その汗を袖口で拭い、言葉を吟味しながら舌に乗せる。
「昨晩は鷲峰組の屋敷へ向かった後、ヒラノボウルへ向かいました」
「それは何故?」
「……鷲峰組の一人娘が、誘拐されたからです」
煙草を咥えたまま、バラライカは口を挟まない。続きを促されているのだと判断し、ロックは言葉を重ねていく。
「誘拐したのは同じ鷲峰組の男でした。銀さ……、鷲峰組若頭と一緒に鷲峰雪緒を奪還するため、レヴィと二人でヒラノボウルへ向かったんです」
「……成程。部下から受けた情報と相違無いようだ」
室内の空気が若干緩和する。それを感じ取ったロックが内心で安堵の息を漏らした。が、それも一瞬のこと。次いで彼女の口から出た言葉に、ロックは再び身を強ばらせる。
「ロック、その場に居たのはお前たちだけではないな」
「…………っ」
弛緩していた空気が瞬く間に張り詰める。
「ウェイバー。奴もその場にいただろう」
「…………」
「不可解、実に不可解だ。奴が香砂会を襲撃した件についてはこちらも把握している。間違ってもしくじることなど無い男だ、香砂会はあの時点で壊滅したと考えていい。なら、どうして奴はその場に居た? 鷲峰組と裏で繋がっていた訳でもない。肩入れする理由もない。なぁ、ロック」
煙草を灰皿に押し付け、バラライカは問い掛ける。
「お前が呼び寄せたのか? あの場に。奴が日本に居ることは既に知っていたようだしな」
背中にドッと嫌な汗が噴き出すのを自覚する。
バラライカは思い違いをしている。あの場にウェイバーが居合わせたことは全くの偶然であり、そこにロックの思惑は一切介在していない。何せ香砂会を壊滅させたことすら本人の口から告げられるまで知り得なかったのだ。ウェイバーの行動を誘導出来るだけの策があったわけでもない。昨夜の一件に彼が絡んできたことは、完全にロックの意思とは無関係のものであった。
しかし客観的にこの件を見た場合、その毛色はまた変わってくることにロックは気が付いた。
ウェイバーがグレイを引き連れてやって来たこと。ロックはその狙いが鷲峰雪緒の誘拐であるということを知っている。だが、バラライカ側からすればどうだろうか。そんな彼の狙いなど知らない彼女たちからすれば、まるで予め打ち合わせでもしていたかのように思うのではないだろうか。時間もほぼ同時、互いに日本に居ることは知っていた。そしてロックはバラライカが鷲峰雪緒を誘拐しようとしていることをも知っていた。少女を助けたいロックがその旨をウェイバーに話し、彼を動かしたのではないか。バラライカがそうした結論に辿り着いてもなんら不思議ではないことに、ロックは今になって気が付いたのだ。
研ぎ澄まされた刃のように張り詰めた空気の中、やけに自身の心音が大きく聞こえる。
恐らくはこの後の二、三の問答で行く末が決まる。昨夜は選択を間違えた。その時はレヴィが上手くフォローしてくれたが、今回もそれに期待するわけにはいかない。
決して間違えることの出来ない、外すことの出来ないギャンブルだ。下りることは許されず、ベットするのは多数の命。何人もの命が己の背に預けられている。それを感じて、ロックは小さく震えた。それは多大な恐怖と、ほんの少しの武者震いからくるものだった。
運以外のあらゆる事象を塗り潰し、僅かな隙間も逃さず埋めろ。そうして運だけが純粋に残った時、それは、最高の賭けとなる。
彼の所有する手札は僅かに二枚。その切り所を、ロックは慎重に吟味する。
「バラライカさん」
ゆっくりと、ロックは言った。
「俺は、思い違いをしていた」
バラライカの眉が怪訝そうに動く。何を言い出すのか、とでも言いたげな表情だ。
「俺には俺の信じる正義があって、バラライカさんやウェイバーさんも根っこの部分には己の信じる正義がある。そう思ってました。でも違うんだ、俺が今こうしてこの場に立っているのも、バラライカさんが鷲峰組を攻撃しようとしているのも、全ては自己満足でしかない」
「ほう?」
「ウェイバーさんに言われました。俺の考えは正しい、でも強くない。何をするにも強さが必要で、それが伴わない正義なんて薄っぺらいただの紛い物でしかない」
「そうね、他力本願で誰かを貶める。血溜まりの匂いが鼻につくわ」
「だから結局は、自分の自己満足でしかないんですよ」
頬杖をつき目を細めるバラライカに、ロックは言葉を重ねる。
「俺が鷲峰組の新組長を助けたいと思うのも、
「言いたいことがあるならハッキリ言うべきだわロック」
「ホテル・モスクワが暴れられるのは鷲峰組からの依頼という大義名分があったからだ。板東さんを殺し完全に敵対した今、それはもう無い」
「些細な問題ね。我々には我々の為すべき事がある」
ここだ。今、この瞬間。
ロックはたった二枚しか持たない手札の一枚を切る。
「ウェイバーさんと鷲峰組が正式に契約を交わしたと知ってもですか」
「なに?」
ここで初めて、バラライカの表情が明確に変化した。
この期を逃すまいと、ロックは捲し立てるように言い放つ。
「今ここで引鉄を引けばウェイバーさんと争うことになる。そうなれば血で血を洗うことになるのは明白だ。それでもアンタは地獄へ進むことを選ぶのか」
「……そうか。ウェイバーめ、始めからそのつもりで……」
バラライカの呟きは目と鼻の先に立つロックにすら聞き取れぬほど小さなものだった。この時のロックは当然ながら知らぬことだが、今この瞬間、バラライカの中でウェイバーの目的がはっきりと浮き彫りになった。香砂会に雇われ、それをわざわざ撃滅したことも、敢えてロックたちの前に姿を現すことでロックの行動を誘導したことも、そしてそれらの行動がやがて自身の耳に届くであろうことも。その全てはこの為の布石。
それを理解して、堪えきれないとばかりにバラライカはくつくつと笑いを漏らした。
「面白い、やってくれたなウェイバー。我々の行動まで掌握するつもりか」
「何を言って……」
「ロック、さっきの問いに答えてやろう。地獄へ進むか、愚問だな。板東を殺した夜にも言ったはずだ。私は地獄の釜でどこまで踊れるのか、それだけにしか興味が無いと」
外した。
ロックはまたもや選択を間違えた。板東と対峙した日のことは今でも鮮明に覚えている。忘れられる筈がない。その時確かに彼女はそう言っていた。バラライカにとって戦争こそが生きがいであり、暴力こそが至上であり、殲滅こそが至高なのだ。
それを知っていながら、ロックは安易な質問をぶつけてしまった。答えの分かりきった質問を投げてしまった。
彼は賭けに敗北した。またしても選択を間違えた――――訳では無かった。
ロックはその夜のことを覚えている。つまりは、こう返答されることを予め
ここまでは彼の予想に違うことなく進んでいる。一枚目のカードを切るタイミングは、間違ってはいなかった。この時点で彼は最初の賭けに勝利する。もしもこの段階で道を誤っていれば、今頃はバラライカに首を掴まれ地面に寝かされていたかもしれない。
最初に間違えたのがウェイバーの前で良かった、とロックは内心で自嘲する。
履き違えてはいけない。これはあくまでの己の欲求を満たす為だけの行いであり、それは決して他者に見返りを求められるようなものではないと。
それに気付かされたのはつい数時間前の事。今ならば分かる。あの時ウェイバーの言っていたことが。ああ、確かに。これはただのエゴでしかない。天国と地獄の境界に片足一本で立ち、そのどちらにも傾き得る緊張感。肌のひりつく純粋なギャンブルを心のどこかで楽しんでいる自分が居ることに、ロックはなんとなく気付いていた。
一つ目の関門は突破した。重要なのはここからだ。
ロックの目的はあくまでも鷲峰雪緒という少女を救うこと。それは今でも変わらない。但しそのためにはバラライカとウェイバーが睨み合うこの構図をどうにかしなくてはならない。破裂寸前の風船のようなこの現状を切り抜けるために必要なこと、それをロックは分かっていた。
「……今ここで戦うことにメリットはない。その事に気付いていますか」
「勘違いしてはいけないわロック。貴方はあくまで私の通訳、意見することを許してはいないのよ」
静かだが、しかし反抗することを許さぬ物言いにロックは冬だというのに額に汗を滲ませる。今目の前に居るのは大国ロシアを裏で牛耳る巨大マフィアの大幹部。普通であればおいそれと会話をすることすら許されない超大物だ。
それを承知で、ロックは尚も口を開く。
「……勘違いしてるのはアンタの方だ、バラライカさん」
ロックは呟き、拳を握る。
「さっきも言ったはずですよ、これは俺の自己満足でしかない。鷲峰の組長を助けようとアンタの前に立ってるのも、結局は自分の欲を満たす為でしかない。言ってしまえばこれは、そう趣味だ。根本のところはアンタと同じですよ」
「……趣味か。イイ面構えをするようになったじゃないか、ロック」
鋭い眼光はそのままに、バラライカは続けた。
「ならば止めてみろ。私が矛を収めるに足る理由と根拠をこの場で示せ。それが出来ないのであれば、我々はこの歩みを止めることはない」
温度を感じさせない冷たい瞳がロックを射抜く。気を抜いてしまえば瞬時に殺されるような錯覚を味わいながらロックは告げる。彼に残された最後の一枚の手札を切る。
「ICPOが動いています」
ICPO。国際刑事警察機構の略称である。
これは国際犯罪の防止を目的として組織された国際組織で、国際連合に次いで加盟国の多い組織だ。その名前から勘違いされがちであるが、この組織に属している人間が世界各地を奔走しているわけではなく、各国の主権に属しその国の人間が捜査を行っている。故に犯罪者の身柄を拘束するのはその国の警察であり、外交特権を所有する一部の特例を除いてICPOは身柄確保までの道筋を立てる事が多い。
その組織が動いているとロックは言う。
目的など言うまでもなく、バラライカを筆頭として日本に足を踏み入れたホテル・モスクワだ。
「ウェイバーさんが言ってました。警視庁に大きな動きがあったと。これは恐らく自分たちが派手に動き回ったからだとも」
思考を巡らせている様子のバラライカに一歩近付いてロックは言葉を重ねる。
「昨夜の事も既に大きな騒ぎになってる。ウェイバーさんの銃弾は日本じゃそう出回らないものだし、あそこまでの銃撃戦なんて普通じゃない。警察上層部は感付き始めてる。日本に留まらない、もっと大きな騒乱だと」
騒ぎが大きくなるのは本意ではないでしょう、そうロックは投げかけた。
「ウェイバーさんやアンタは国際指名手配されてるんでしょう。だったらこんな島国で手を拱いている場合じゃない、直ぐにでもココを発つべきだ」
「……成程、確かに一理ある話だ。それが
ドクンとロックの心臓が跳ねる。
確証があってバラライカがそう言ったのかは定かではない。しかし彼女の言葉はロックの内心を揺さぶるには十分だった。
それもそのはず、ロックの今のICPOがどうのといった話は、その全てが口から出任せを言っただけなのだから。警察上層部が慌ただしいというのも、ICPOが動いているというのも全て真っ赤な嘘。全てはバラライカの行動を制限させるための出任せだ。
但し、その全てが根拠のない話ではなかった。
ウェイバーの使用している弾丸が日本であまり流通していないものだというのは真実であるし、ボウリング場での一件が大きく取り沙汰されているのも事実だ。
嘘を突き通すにはひと握りの真実を混ぜておくこと、以前ウェイバーが言っていたことだった。
この嘘は突き通す。ロックは内心の焦燥を露程も表に出すことなく、至って平静に対応する。
「この場面で平然と嘘を付けるほど俺は肝が据わってない。なんせ実力を持たない小悪党なんでね」
「……ふ、ふはは」
ロックの言葉をそう受け取ったのか、沈黙を保ったままだったバラライカが不意に小さく笑いを漏らした。その笑いが何に対するものなのか、ロックには判断出来ない。
「良いわロック。貴方の無謀なギャンブルに免じて、今回だけは引下がることにしましょう」
それに、とバラライカはニヤリと口角を歪めて。
「今貴方が言ったこと、口から出任せのつもりだろうけどあながち間違ってもいないのよね」
「え……?」
「ICPOに出張られると面倒なのも事実だし、ウェイバーもロックのこの行動と私の対応も織り込み済みね。鷲峰なんて隠れ蓑使わなきゃ逃げられないほど追い詰められてもいないでしょうに」
「え、ちょ、それって……」
狼狽するロックを他所に、バラライカは席を立って。
「明日にはここを離れるわ。準備だけはしておきなさい」
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「これでよかったでしょうか」
「ん、上出来だ」
チャカ一派が起こした騒動により至るところが破損した鷲峰組屋敷の一室。なんとか被害を免れた奥の茶室に雪緒と銀次、その二人の正面に俺が腰を下ろしていた。因みにグレイは別室で眠りこけている。襲い来る睡魔には抗えなかったようだ。
東から昇る太陽の柔らかな日差しが障子を淡く照らしている。先程テレビで流れていた予報では、今日は一日青空が広がるそうだ。屋敷内の中庭、その日陰部分や一般道の路肩には溶け切らない雪が点在しているものの、陽が出ているだけでぐっと暖かく感じる。何も無ければ厳冬の最中の貴重な一日となったに違いない。何も無ければ、である。
昨夜の一件で、俺は香砂会から鷲峰組へと身を置く組織を乗り換えた。こうすることがこの一件を終結させる為に最善だと判断したからだ。
まず第一に鷲峰組と香砂会の諍い。これは俺とグレイ(主にグレイ)が香砂会を壊滅させたことで九割方終息している。香砂会系列の組は都内にまだ幾つか残されているものの、本家以上の戦力を保有しているとは考え難い。香砂政巳の死は既にその手の人間たちの耳には届いているだろうから、後は向こうの出方を見て対処するだけだ。
となると残る問題は鷲峰組が協力を依頼したホテル・モスクワ。あのウォーマニアックスであるバラライカにどう対応するか。それを今この場で話し合っているわけなのである。
「ウェイバーさんが仰る通りに都内の鷲峰組系列の事務所に連絡して、その全ての人たちをこの屋敷に招集しました。でも本当にこれだけであの人たちに対抗できるんでしょうか」
「対抗云々はともかく、君が望むように少しでも被害を減らそうとするならこれは必須事項だ。ホテル・モスクワは立ち塞がる全てを殲滅する。そこに例外は存在しない。俺が君と繋がったことは多分ロックたちから伝わってるだろう。となると向こうが最初に取る行動はこちらの周辺戦力を削ぐこと、つまりは系列事務所の襲撃だ」
「……岡島さんとはお知り合いなのでしょう? 貴方が私たちに雇われたと伝えていない可能性もあるのでは?」
「レヴィやロックのことは信頼も信用もしてるが、ソレとコレとは別問題だ。常に最悪を想定してないと戦場じゃ一瞬であの世逝きだよ」
バラライカのことだ。どうせ鷲峰や香砂の周辺に監視網を形成している。例えロックの口から漏れなかったとしても、俺の行動など筒抜けだろう。だがそれはこちらにも言えることだ、伊達にロアナプラで十年も銃口を突きつけ合ってはいない。ある程度の行動予測なら行えるくらいには、俺もバラライカの事を理解していた。全く誇れることではないけれども。
状況は芳しくないが、最悪という程でもない。まだ幾らか選択の余地が残されている分気も楽というものだ。
「集めた組員には現状説明を。ここはもう特一級の危険地帯だ。組に残り武器を取るか静かに去るかの意を計った方がいい」
「……分かりました」
言って雪緒は立ち上がり、静かに部屋から退出する。室内には俺と銀次の二人が残された。
しばし無言の時が流れる。
その静寂を切り裂いて口を開いたのは、銀次だった。
「……お前ェさん、一体何を考えてやがる?」
ボウリング場で斬りかかってきた時と全く同じ言葉を銀次は俺にぶつけてきた。サングラスの奥に光る瞳は、俺の一挙手一投足を見逃すまいとしているようだ。
何だかえらく警戒されているようである。それも無理のない事で、突然雪緒が俺を雇用すると言い出したのだ。何か入れ知恵でもしたのかと疑われているんだろう。忠義心の厚い銀次のこと、雪緒の様子が以前とは少しばかり異なっていることは既に気付いている。
「勘繰るなよ。別に大それた事を考えてるわけじゃない。メリットを提示した上で最善策を打ち出しただけだ」
「解せねェな。うちについたところで御宅にゃァメリットなんざ無ェだろう」
「親切心からの行動、って言って納得できねえか」
「馬鹿言いなせェ。アンタらみてえな人種は自分の利益が一番大事でしょうよ」
「違いない」
口先だけの言葉であると直ぐに看破されて、俺は苦笑を浮かべるほか無かった。
結局、銀次は俺のことを信用しきれていないのだ。それを言えば雪緒にも同じ事が言えるのだろうが、彼女に限って言えば毒を食らわば皿までといったスタンスである。俺という得体の知れない悪党に全てを任せるなど大博打以外の何物でもない。ここまで状況が逼迫していなければ、きっと選択肢にすら浮かばない道だ。死を待つしか無かった彼女の藁にも縋る思いを利用した俺の言えたことではないが、中々どうして肝が据わっている。
「お嬢が決めたことに異論はねェ。ただね、アンタの考えが読めねェんだ。今の鷲峰に付いたところで得られるモンなんざ高が知れてる。それよりも顔見知りのロシア連中ンとこ行ったほうが賢明だ」
「ま、俺だけが助かろうとするならそれが一番良いんだろうな」
しかし、それでは鷲峰雪緒は死ぬ。
今まで見てきた死の中の一つ。そう考えて見捨ててしまうことは簡単だ。正直俺の身の安全だけを考えるならそれが最善。バラライカと正面切ってやり合うなんてのは自殺行為にも等しい愚行であり、その危険性は過去何度にもわたって経験し理解していた。
だからこそ俺は鷲峰組に回った。ホテル・モスクワの残虐性を真に理解している故に、鷲峰雪緒がこのままでは死ぬと予想出来てしまったから。少し前までの俺は、それで構わないと思っていた。幼気な少女とは言え自ら裏の世界へ足を踏み入れたのだ。強要されたものでない以上、全ての行動は自己責任である。
しかし、昨日少女の言葉を受けて気が変わった。
鷲峰雪緒は自分でこの道を進むと決めた訳ではない。そう思い込もうと必死になってはいるが、周囲の環境がそうせざるを得なくさせていたのだ。自分で選んで歩いた道は、実は元より決められたレールの上だった。心の奥底ではそれを理解していながらもそれを受け入れられない少女をこのまま放っておくことは、俺の寝覚めを悪くするには十分なものだった。
「慈善事業でやってるわけじゃない。きっかり仕事分のお代はいただくさ。その方が分かり易いだろ」
「アンタみてェな鬼を飼い慣らすのはお嬢には荷が重いでしょうや」
「人聞きが悪いな。俺は人間だよ」
バラライカや張なんかと比べればまだまだ可愛げがあるってもんだ。アイツらと名目上肩を並べていることもよくよく考えれば信じ難いことだし。過ぎた評価はそろそろ身を滅ぼしかねないところまで来ているんじゃないだろうか。
「……まァ、一応の感謝はしてますよ。このままお嬢が苦しんでいるのを見るのは辛かった」
「お前が止めれば良かったんじゃないのか」
「お嬢の決めた事には従う。何があってもだ」
任侠者の考えていることなど俺には到底理解出来ない。
本当なら腕づくでも止めたい筈だ。まだ二十にも満たない少女が自ら進んで死地に進むその姿を目の当たりにして、この男が何も思わない訳が無い。
ああ、本当にあの少女とこの男は似ている。
自分の気持ちをただ押し殺し、それが組の為ならばと自らを犠牲にしようとしている所が特に。
「ま、その話はこの辺にしておこう。これからについてだが」
これ以上余計な詮索をするのも憚られたので、俺は話題を本題へと切り替える。
「バラライカのことだ。まず間違いなく国際担当が動き出したことには気が付いてる。だとすれば今までみたいに派手に動き回ることはないだろう」
「国際担当……?」
「ああ、ICPOが情報を流してる日本の警察のことだよ。コイツらがまた厄介でな、意外としつこいんだ」
「アンタ、そんな輩からも追われてるんですかい」
「誠に不本意ながらな。こっちにも色々と事情があるんだよ」
ホント、どうして俺が国際指名手配されなければならないのだ。テロだのハイジャックだのそんな悪事は一切働いていないというのに。まぁこの話は今は置いておこう。
「こいつらが出張ってくるとなると残された時間はそう多くない。そうだな、あと二、三日。早ければ明日にでもホテル・モスクワはこの地を離れる筈だ」
「つまりはそれまで持ち堪えることができればいいと」
「そういうことだ」
もしも此処がロシアの地であれば国際担当なんてホテル・モスクワは握り潰すことが出来ただろう。だが生憎とこの地は平和の国日本。マフィアだのなんだのといった武闘派にとっては生きづらい国だ。ロシアからの援護が望めない以上、バラライカも長居することはない。……と、思いたい。
この状況にも関わらず戦争ふっかけてくるような女ならもう俺にはどうすることも出来ないが、そこまで脳味噌がイッていないと信じたい。
「……御宅の作戦は分かった。確かにウチの組が生き残るにゃあどうしたってロシア人どもを追い払わなきゃァならねェ」
合理的だ、そう銀次は零す。
「……ただね、この世界じゃあ落とし前つけるってのも大事なんだ」
「そんなもん組の存続に比べれば些細なモンだろうが」
「アンタに言わせりゃ下らねェことかもしれやせん。でもね、侠に生き仁を貫くことが何よりも大事なあっしらにゃァ看過できねェもんなんで」
俺の正面に座り背筋を正す男の瞳には、その決意がありありと浮かんでいた。
「……鷲峰雪緒はお前の独断を許したりはしないだろう」
「だからこの事は内密に。他の連中にも手配は既に。刃を振り翳す覚悟のある人間だけを連れていきやす」
「俺がハイそうですかと見送るとでも思ってんのか?」
そんな言葉を受けて、銀次は小さく笑った。
まるで俺がそんな事をするわけがないとでも確信しているかのように。
「アンタはお嬢に雇われた人間だ。お嬢を守るのがお役目でしょうよ。それにね」
ゆっくりと立ち上がった銀次は、俺に背を向けて。
「……お嬢には
それだけを告げて、銀次は部屋から出て行った。その後ろ姿が死地へと赴く戦争兵のように見えてしまって、俺はどうしたものかと頭を掻く。
銀次とそれに続く何人かの組員たちはホテル・モスクワに特攻を仕掛ける気だ。板東の仇討ちという名目の元。放っておけばバラライカたちは勝手に目の前から消えるというのに、どうしてむざむざ死にに行くような真似をするのだろう。
きっとそれは極道者にしか分からない世界の話なんだろう。俺みたいな半端者には到底理解の及ばない部分の話なのだ。
「……ホント、どうしたもんかね」
銀次を止める理由は俺には無い。敬愛する雪緒にまで黙って行動を起こそうとしている銀次の覚悟は本物だ。極道者の考えなど理解できずとも男としての覚悟くらいは俺にも理解出来る。
それはきっと決死の覚悟だ。ホテル・モスクワの脅威は知っている筈、それに少人数で挑んだところで結果は目に見えている。
それでも戦わなければならないのだろう。忠義に生きる人間故に、敗北が濃厚だったとしても武器を手に取らなくてはならないのだ。
「不器用な男だよ、お前は」
一度は銃と刃を交えた間柄だ。
それと男の覚悟に免じて、この事は雪緒には黙っていよう。後で何を言われるかたまったものじゃないが、今回ばかりはこういう役回りなのだと納得する他なさそうだ。
52
「組織犯罪対策本部って何階?」
「えーっと、ご用件をお伺いしても?」
受付の女性は内心で動揺していた。今目の前で机に頬杖を突きそう尋ねてきた男は、ここがどういった場所なのか本当に理解しているのだろうかと勘繰ってしまう。ここは東京都千代田区に聳え立つ警察の頂点、警察庁である。組織犯罪対策本部などという単語が出てきたことから関係者だろうことは予想がつくものの、こんな単語はネットの海を漁れば幾らでも調べられるものだ。信頼には値しない。
まず服装がこの場にそぐわない。真っ赤なシャツに黒のスーツなどどこのホストだと思ってしまうのだ。しかもそれが外国人特有の雰囲気に見事に合っているものだから余計に。
そんな訝しげな視線を送ってくる女性に、男は胸ポケットをまさぐって縦長の手帳を取り出して見せる。手帳の中心には地球に刺さる剣と天秤をモチーフにしたマークが刻印されていた。
そのマークの正体に気が付き唖然とする女性に、男は柔かに微笑んでこう言った。
「インターポールのヨアンだ。ここ数日の足立区と渋谷区の事件について詳しく聞きたいんだけど」
日本編は次回完結。
以下要点
・ロック命懸けのギャンブル(かろうじて勝利)
・銀次ウェイバーに雪緒を任せる(自分は騒乱の中心地へ)
・とっつぁん登場(美形)
冒頭で船内の警備が薄かったのは原作同様鷲峰系列の事務所を襲撃するために人員を割いていたからです。
因みにそれはウェイバーに想定され組員を屋敷に避難させていたので空振りに終わりますが。