比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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――っざけんなッ!!

 Side??? ――とある千葉の人気のない公園。

 

 

――…………わたし、バカみたいじゃないですかぁ。

 

 新垣あやせは、そう自嘲するように、曇天を仰ぎながら、覆った腕の間から涙を流した。

 

 それを、誰よりも近くで、彼女は聞き届けた。彼女だけが聞いた、彼女だけに見せた――

 

『………その気持ちは、きっと、世界で一番、私が分かるわ』

 

 彼女だけが、理解出来る涙だった。

 

 抱き締める。包み込む。

 

 彼女は、涙と共に、初恋を卒業していく新垣あやせを、守るように包み込んだ。

 

 ああ、この子は弱い。

 彼女――五更瑠璃は、己の胸の中に抱く、年下のか弱い少女を思う。

 

 危ない子だとは思っていた。危うい子だとも、分かっていた。

 

 だけど、きっと、それだけじゃない。この子はそんなものじゃない。

 

 新垣あやせという少女。

 

 生真面目で、堅物で、初心(うぶ)で、ちょっと病んでいて、思い込みが激しくて、京介好みの美人で、そして、そして――

 

『……………………』

 

 ………あの兄妹は、知っているのだろうか? 分かっているのだろうか? 気付いているのだろうか? ――見ていて、いたんだろうか?

 

 黒猫(じぶん)ですら気付くようなことを。

 

 五更瑠璃というコミュ障の少女ですら、気付いていないと、気付けるようなことを。

 

 この――新垣あやせという少女を。

 

『………それでもね。私は、あの兄妹の気持ちも……分かるの。………分かりたいと、思ってしまうのよ』

 

 分かりたいと願うこと。それは、向き合うということ。逃げないということ。相手を――見るということ。

 

 あの人の素敵なところを。その人の駄目なところを。

 

 理想のあの人じゃない。自分の中の、その人じゃない。

 ありのままの彼を。どうしようもない彼女を。

 

 見る――ということ。見つける――ということ。

 

(……………先輩…………桐乃……………あなた達は、知っているのかしら? 知っていたのかしら? ………この子は………………新垣あやせという少女は、こんなにも――)

 

 黒猫は、自身の胸の中で、子供のように泣きじゃくるあやせの髪を撫でる。

 

 涙と共に、嗚咽と共に、その心の中の何かを溶かしていく少女を――卒業していくこの子を、優しく、慈しむように撫でる。

 

 黒猫は、目を瞑りながら、ゆっくりと語り掛ける。

 

 せめて彼女が、頑張ったこの子が、安らかに――解放(そつぎょう)してくれることを祈って。

 

『それでも、これだけは忘れないで。あなたの恋は、決して誰にも劣ってなんかいない。……その恋を()()()()()()()()()、あなたの想いが、他の誰かのそれよりも()()()()ということでは、()()()()()()。……それは、私が誰よりも知っている。もしも、そんな戯言を抜かす輩がいたら、私が呪い殺してあげるわ』

 

 

――だから、もういいのよ。

 

 

 この言葉に、あやせは更に強く泣きじゃくった。

 

 黒猫は、そんなあやせの髪を撫でながら――

 

『…………』

 

 ただ、祈った。

 

 どうか、この子に――この優しく、真面目で、純粋で……とても脆く、危うい愛しき戦友に。

 

 精一杯の、幸あれと。

 

(………この子は、私と違って……………まだ、抜け出せるのだから)

 

 黒猫は、微笑む――自嘲するように。

 

 彼女は知っている。

 

 

 恋とは麻薬だ。

 

 その味を知ってしまったら、そう容易くは抜け出せない。

 

 

 巣食う。棲み付くのだ。

 

 どれだけ洗い流そうとしても、吐き出そうとしても、心の何処かに――誰にも触れさせない、触れさせたくない、致命的な傷として。

 

 

 残るのだ。刻まれるのだ。

 

 いつまでも、過去として、遺るのだ。

 

 

 それは、まるで呪いのようで。

 

 

『……………………』

 

 だから、せめて渾身の言霊を贈ろう。

 

 この愛しき戦友が――自分とは違い、まだあの兄妹から抜け出せるこの子が、どんな呪いにも負けないように。

 

 

 新垣あやせという少女が、今度こそ――

 

 

――恋なんかに、負けないように。

 

 

 そう、あらゆる恋を否定せし闇猫が、聖戦を戦い抜いた戦友に言霊を贈った――――

 

 

 

 

 

――――その、数時間後。

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

「はは――――ははは――――はははは――はは―――ははは――」

 

 

 

                「ははは――――――はは――ははははははは――ははは」

 

 

 

  「ははははは――はは―――――はははは―――ははは―――はははは―――は――はは」

 

 

 

           「ははははははははははは――――はは―――ははははは――――は―はははは―――ははははははははは――――ははははははははは――――ははは―――はははは――はは――はははは――は」

 

 

 

 彼女は――思った。

 

 

 アレは――あの子だ。

 

 

 彼女は――思った。

 

 

 これは――――呪いだ。

 

 

 

「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 

 

 

 

 笑う。堕天使は嗤う。

 

 くるくると笑う。緋色に己を染め上げて。

 

 

 笑う。笑う。真っ赤な堕天使は嗤う。

 

 

 幸せそうに笑う。壊れたように嗤う。

 

 

 恐ろしく――美しく。 

 

 

 ()()ると。()()ると。

 

 

 泣いているように――わらう。

 

 

 ()()ると。()()ると。

 

 

 ()()ると。()()ると。

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideあやせ――路線の出口近くの吹き抜け空間

 

「なんでっ!! こんなことに、なってんだよ――――〝あやせ”っ!!」

 

 かつて、自分に想いを伝えてくれた少女に。

 かつて、自分が想いに応えてやれなかった少女に。

 

 叫び放った京介の声は、緋色の堕天使に微笑みを向けさせた。

 

 天使のような、真っ赤な笑みを――向けられる。

 

「あ、お兄さん。お久しぶりです! お元気でしたか?」

 

 あやせは、これまで京介が見たこともないような、輝く満面の笑顔でそう言った。

 

 だが、かつて京介が天使(エンジェル)と称したその端正な美しい顔に、まるで血化粧のように返り血を付着させ、それを拭おうともしていない状態での笑顔は、京介達に凍えるような恐怖と、そしてどうしようもない程の悲しみしか与えなかった。

 

「…………あやせぇ」

 

 真っ赤なあやせに、桐乃は泣きながらそう呟く。

 その声が聞こえたのか、あやせは桐乃に目を移し、再びにこっ! と輝く笑顔で言った。

 

「桐乃! なんだか凄く久し振りに会ったみたいな気がするよ! ふふ、毎日学校で会ってるのにね!」

 

 その笑顔を見て、緋色の笑顔を突き付けられて、桐乃は何も言えず、ただ悲しそうに顔を伏せた。

 

 あれほど見たかった、あやせの心からの笑顔。あの日から、ずっと自分には、あの困ったような、悲しそうな苦笑しか、見せてくれなかったから。

 

(……でも、これは…………こんなのって……)

 

 遂に桐乃は、両手で顔を覆ってしまう。

 

 京介はそんな桐乃を見て、険しく、そして悲しそうな顔であやせを睨み付けた。

 

「ん? 桐乃? どうかしたの?」

「――ッ!」 

 

 だが、あやせはそんな桐乃を見て、純粋な疑問顔で首を傾げる。

 

 京介は、あやせにこれ以上桐乃に言葉を掛けさせないとばかりに問い詰めた。

 

「おい、あやせ! お前、どうしてこんなところにいる!?」

 

 この問いは、本来、京介が一番ぶつけたかった質問ではない。

 しかし、京介には言えなかった。

 

――お前が……()ったのか?

 

 これは、あやせが()ったのか? この地獄は、あやせが創り出したのか?

 

 その、人間の死体は、あやせが――

 

「決まってるじゃないですか? わたしが、もう死んでるからですよ」

 

 しかし、そんな葛藤は、そんな疑問は、あやせのその言葉に吹き飛んだ。

 

「――――え?」

 

 ただ衝撃だけが伝わる台詞に、顔を両手で覆っていた桐乃もあやせを見上げる。

 黒猫も、瀬菜も、呆然と言葉を失った。

 

 京介は震える声で、あやせに問い返す。

 

「――な、なに、言ってんだ? あやせは……お前は……今、ここに――」

「いいえ、死にましたよ。もう、死んでますよ。だから、わたしは、ここにいるんです。正確には、わたしはこの人に殺されました」

 

 そう言ってあやせは長い右脚を振り上げ、容赦なく真下に振り下ろす。

 自分の足元に転がる死体を踏み潰す――桐乃達に、真っ赤な笑顔を向けながら。

 

 グチャッ! と生々しく響くその音に、思わず京介達は顔を泣きそうに顰める。

 

 状況的に、明らかにあやせが殺したであろう、死体。

 その死体の人物に、あやせは殺された――だから、此処にいる。

 

 戦場にいる――地獄にいる。

 

 訳が分からない。だが、訳が分からないからこそ、あやせが嘘を吐いているとは思えない。

 

 勿論、理解することも、信じることも出来ない。それでも、この何もかもが荒唐無稽な、ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃな地獄で、それは有り得ない事実ではないように思えた。思えてしまった。

 

 そして、何より、こちらを純真な、まるで何かから解放されたかのように綺麗な笑顔で語るあやせの言葉は、何一つ間違っていないように思えてしまう。

 

 全てを正直に、全てを曝け出しているかのような、そんなあやせの、禍々しい言葉に――

 

「――ちげぇ……っ」

 

 京介は苦々しく、そう呟いた。そう吐き捨てた。

 

 違う。違う。違うっ!

 こんなのが、こんなのがあやせなはずがない。あの新垣あやせが、こんなに間違っているわけがない。

 

 京介は、そして桐乃は、俯き、歯を食い縛り、頭を振りながら、必死に目の前の現実を、目の前の新垣あやせを受け入れまいとしているようだった。

 

 対して、黒猫は、そんなあやせを見て、あんなあやせを見て――

 

「……………………」

 

――ただ哀れむように、ただただ悲しむように、唇を噛み締めて、それでも、何も言わずに、何も言えずに、目の前の新垣あやせを見つめ続けていた。

 

 あやせは、京介の呟きに、きょとんとした顔で問い返す。

 

「違う? 何がです?」

 

 京介は顔を上げて、願うように、そうなんだろうと縋るように、そんなあやせに向かって怒声を浴びせる。

 

「こんなの――こんなの違うだろう!! お前は優しくて! 真面目で! 潔癖症で融通が利かなくて!! それでも誰より友達想いで!! こんなこと……絶対にこんなこと、出来る奴じゃなかっただろうが!!」

 

 京介の魂を吐き出すような言葉に勇気づけられたかのように、桐乃も京介の言葉に続く。

 

「そうよ! あやせは――あの子は絶対にこんなことはしない! 絶対に出来ない!! あたしの親友は、アンタみたいに気持ち悪い奴じゃない! アンタは別人! あやせの偽物よ! 返して! あたしの親友を返しなさいよ!!」

 

 それは、かつて、いつか誰かが言った言葉に酷似していて、そして――

 

 

 

「――っざけんなッ!!」

 

 

 

――かつて親友にぶつけた言葉に、桐乃は今、その親友からぶつけ返された。

 

 ひっ、と桐乃が息を呑む。黒猫も、瀬菜も、そして京介も恐怖に呑み込まれた。

 

 天使のようにニコニコと笑っていた、堕天使のように不気味に微笑んでいたあやせの形相が、阿修羅の面が入れ替わったかのようにがらりと憤怒に変わり、それに応じて噴き出した莫大な殺意の瀑布が、委細容赦なく桐乃達を呑み込んだ。

 

 鬼のような形相のあやせは、桐乃に、京介に向けて、狂ったように全開で吐き出す。

 

 何かを――己の中の、ずっとずっと奥から引っ張り出すかのように、今はもう壊れてしまった魂を、今はもう失くしてしまった命を、削りながら吐き出しているかのように、何かを、痛々しく。

 

「それを……それをよりにもよって、あなたたちが言うの? わたしを切り捨てたくせに! わたしを捨てたくせに!! あなたたちが言う新垣あやせを!! あなたたちが見てた新垣あやせを!! あなたは選ばなかったじゃないですか!! あなたたちは切り捨てたじゃないですか!! それなのに……それなのにそれなのにそれなのに!! あなたたちが……あなたたちがそれを言うのか!!! っざけんなッッ!!!」

 

 あやせはあの日以来、初めて京介達に心の叫びをぶつけた。

 

 フラれた女の恨み言を、嫉妬を、憤怒を、殺意に乗せて京介達にぶつけた。

 

 醜く、痛々しく、全身全霊で喚く。

 

「……………ッッ!!」

 

 京介は強く、強く唇を噛み締めるも、それでもあやせに言葉を返そうと口を開く。

 

 あの日、誓ったから。自分は、あやせを振って、黒猫を振って、加奈子を振って、櫻井を振って、麻奈美を振って――桐乃を、妹を、実妹を選んだ、あの日から。

 

 この選択の業――その全てを、受け止めると、誓ったから。

 

 当然の罵倒を、当然の嫉妬を、当然の恨み言を、当然の憎まれ言を――だったら、殺意だって、受け止めてみせる。

 

「――っ! あやせ!! 俺は――」

「お兄さん、あの日、言いましたよね?」

 

 だが、あやせは京介の言葉を待たず、冷たい瞳で、殺意の篭った眼差しで、見下すように睨み付けながら、更に言い募る。

 

「――桐乃のオタク趣味を、わたしがどうしても受け入れられなかった時、桐乃がわたしにオタク趣味を隠してたことに対して、それはわたしと仲違いしたくないからだって。どうして親友なのに、そんなことも分かってやれないんだって」

「…………ああ」

「じゃあ、桐乃は? お兄さんは? わたしのことを、本当に分かっていたんですか?」

 

 そう言ってあやせは、その殺意の篭った視線をぐるんっ! と桐乃に向ける。

 桐乃はビクッと肩を震わせ、怯える瞳で、そのあやせの視線を――逸らさずに、受け止めた。

 

「桐乃。あなた、あの時、わたしに言ったよね。桐乃に色んな理想を押し付けて、オタク趣味なんて持ってるわけないって、そんなのありえないって言うわたしに、はっきりと――それは、勘違いだって。それでも、そんなわたしを認めろって、そう言ったよね。……なら、桐乃は?」

「…………え?」

 

 あやせは、そこで憤怒の形相を再び一変させて、慈愛の籠った、女神のような優しい表情で言う。

 

「桐乃は、こんなわたしの“一面”を、受け入れてくれないの?」

 

 桐乃は、絶句する。京介も、そのあやせの言葉に何も言えない。

 

 それでも、あやせは尚も、優しく言った。

 

 

「それとも――こんなわたしは、桐乃にとって、“偽物”?」

 

 

 その時、あやせの背後で、ゆっくりと何かが起き上がった。

 

 それはグチャグチャに蹂躙され、人間としての面影を残していない、只の無残な死体だった。

 

 その死体が、何故か一人でに起き上がり、そして――

 

「あ――「危ないッ! 逃げなさいッ!!」

 

 京介が声を発するよりも早く、あやせに危機を知らせたのは黒猫だった。

 

 だが、その黒猫が叫ぶのとほぼ同時に、あやせは動き出していた。

 

 背後に向かって振り向きざまに、死体の頭部に向かってハイキックを放つ。

 

 その蹴りは容易く奴の頭部を破壊して、一撃の元に瞬時に撃破した。

 

 ドボォッ!! という、耳に、脳にこびりつくその異音に、そしてあやせが人型のそれを何の躊躇もなく蹴り殺したことにショックを受け、立ち尽くす京介達。

 

 あやせはそんな彼等に背を向け、その突然動き出して、そして再び動かなくなった死体の背中を――突き破るようにして現れた、“巨大な蠅”を見て忌々しげに舌打ちをする。

 

「………本当に、ゴミみたいにしぶとい変態ですね」

 

 一体、いつの間に入り込んでいたのか。あの蠅は人体の中に侵入できるらしい。

 通りで、あの時、必要以上に悪寒がした筈だと、あやせは遅まきながら納得し、そしてあんなものに体内に入り込まれていたらと考えるだけでと、再び大きく舌打ちをする。

 

 その蠅は、一目散に京介達に向かって飛んで行こうとした。

 体の乗っ取りを図るのか、それとも再び人質に取ろうというのか。しばらくあのストーカー男の死体内に隠れていたのは、あやせと京介達の関係を探っていたが故らしい。

 

「浅はかですね。死んでください」

 

 だが、あやせはそれを許さなかった。

 

 あやせはガンツソードを伸ばして、空飛ぶ蠅に斬りかかった。

 その太刀筋は、迷いが全くなかった分、これまでのそれよりも遥かに鋭い一閃だった。

 

 その一刀は、蠅を斬り殺すには至らなかったが、蠅の羽を切断することには成功したようで、蠅は惨めに地面に落下し、バウンドする。

 

 京介達は、あやせのその苛烈な戦いぶりに、やはり呆けて見入ることしか出来なかった。

 

「………あ……………や……せ……」

 

 その時、ようやく京介は、あやせの身に纏っている漆黒の全身スーツが、あの時、自分達を結果的には救ってくれた、化け物の如き強さを誇る槍を持った美女のそれと同じものだと気が付いた。

 

 一体、あやせは、自分が――自分達が知らない間に、どんなことに巻き込まれてしまっていたのだろう。

 

 新垣あやせは、一体どうなってしまって、これからどうなってしまうのだろうか。

 

 彼女は、目の前の戦士は、本当に、自分達の知っている新垣あやせなのだろうか。

 

 自分達は、新垣あやせの、何を知っていて、何を――知らなかったのだろうか。

 

 あやせは地面に転がる蠅に向かって悠然と歩み寄る。

 蠅は、必死になって、その姿をゴキ、ゴキゴキと変形させた。

 

 それをあやせは冷たい眼差しで眺め、むしろうろちょろしないのならば好都合とばかりに剣をゆっくりと振り上げると――

 

「――あ!」

 

 誰かが、そんな声を上げる。

 

 化野という吸血鬼が、この窮地で選択した変身は、蠅でも、象でもなく――あやせが見知った姿だった。

 

「……お、俺?」

 

 その姿は、紛れもなく、高坂京介――そのものだった。

 

「は、はっは! どうだ!? これでお前は――」

 

 ザバッッ!! と、あやせは剣を振り下ろした。

 

「………え?」

 

 そして再び、誰かが呟く。

 

 だが、あやせはそれらに全く取り合うこともなく、躊躇うこともなく、振り上げた剣をそのまま全力で振り下ろしたのだった。一度も動きを止めることもせず、何の葛藤もなく、初恋の人の、大好きだった人の姿をした化野に対し、迷うことも、怒ることも、動揺することもなかった。

 

 ただ粛々と、冷酷に殺害しようとした。殺害を実行した。

 

「ま、待て――お願い! 待って! あやせ!」

 

 化野は必死にあやせから逃げながら、地面を這うように無様に逃げながら、再び、必死に身体を変形させる――変身する。

 

 まず、真っ先に顔を変形させた。京介のそれから――あやせの親友、桐乃の顔に。

 

 化野は、桐乃の顔で、桐乃の声で、あやせに向かって懇願する。命乞いをする。

 

「お願い、あやせ! あたしをたす――」

 

 あやせは、その顔を、親友の顔を、縦一文字で一刀両断した。

 

 高坂桐乃の可愛らしい顔が真ん中から裂け、勢いよく鮮血が噴き出す。

 

 そのまま続いて胴体を切り裂き、今度こそ確実な絶命を図った。

 

「――な、んで……」

「黙れ」

 

 あやせはその首――桐乃の顔の首を、剣を横に振って跳ね飛ばす。

 

「この変態。死ね」

 

 そして、噴水のように血を噴き出す死体を一瞥して、その新鮮な返り血を浴びた姿で、京介達の方を振り返る。

 

 目に見えて怯えて絶句する彼等に、恐怖に染まった眼差しを向けてくる彼女等に、あやせは笑い、そして言った。

 

「お兄さん……わたしは、あの時、お兄さんに告白しました」

 

 あやせは、フラれた彼に、その男に選ばれた実妹で親友の彼女に、恋敵だった戦友の彼女に、殆ど関わりがない彼女に、自分がフラれた、あの日、あの時のことを、血に塗れながら微笑みと共に語る。

 

「生まれて初めての恋でした。生まれて初めての告白でした。そして――生まれて初めての、失恋でした」

「…………ああ」

 

 京介は、神妙に、重く、しっかりと頷いた。

 

「初めて会った時から気になってました。あなたはシスコンで、変態で、ロリコンで、その上ドMで……会う度にセクハラばかりして……わたしを怒らせましたね」

「…………ああ」

 

 京介は頷く。桐乃も、黒猫も、何も言わない。

 

 あやせの静かな独白は――愛ではない、何かの告白は、まだ続いているから。

 

「それでもあなたは……いつだってお人好しで、お節介で……鈍くて理不尽で優しくて、いつもいつもわたしを惑わせました……優しい嘘で、わたしを守ってくれたお兄さん……何度も何度も幻滅したけど、その度に見直して……わたしは――」

 

 

「――そんなあなたのことが、大好きになりました」

 

 

 そのあやせの言葉に、桐乃も、黒猫も、何も言えなかった。

 

 そして、京介も――

 

 

「――――ああ」

 

 

 逃げずに、受け止める――たった、それだけのことしか、出来なかった。

 

 

 そしてあやせは、つぅ、と。

 

 一筋の、涙を流す。

 

 

「――――っっ!!」

 

 京介達が驚いたその時、あやせは、声を震わせながら、必死に笑みを作ろうとしている表情で、言う。

 

「……でも、今ではもう……分かりません……っ」

 

 あやせは口元を笑みの形のままで、瞳から、壊れたダムのように涙を滔々と溢れさせながら、京介に言う。

 

「……わたしは、本当にあなたのことが好きだったんでしょうか? ……本当のあなたを、わたしは見ていたんでしょうか? 見ることが出来ていたんでしょうか? ……わたしは、本当のあなたを……好きになれていたのかな? ……お兄さん…………桐乃ぉ……」

 

 京介は、桐乃は、そのあやせの言葉に対し、口を小さく開き、あやせの名前を呟くことしか出来ない。何も、言えない。

 

 気が付いたら、二人とも、瞳から涙を溢れさせていた。

 

 そして、あやせは、更に言い募る。

 声を震わせ、涙を流し、大好きだった筈の二人に――縋るように、問い掛ける。

 

「お兄さん……あなたは……本当のわたしを……本物のわたしを……見てくれてましたか? 見抜いて、くれていましたか? ……本当のわたしを見て……本物のわたしを見て……わたしのことを…………フッてくれましたか?」

「――――ッッ! …………あやせッ! ……俺は……ッ」

 

 何か言わなくてはならない。京介はそう強く感じる。

 

 この子の想いを受け止めなければ。それがどんなものであれ、自分はあの日、何があってもそうすると、こんな自分を想ってくれた彼女達に、そして自分に誓ったんだ。

 

 でも、言葉が出てこない。何も出てこない。そんな自分が――心の底から許せなかった。

 

「……お兄さん……桐乃」

 

 あやせは、儚く――まるで自嘲するように。

 

 両手を広げ、真っ赤な自分を見せつけるように――真っ赤に笑って、言った。

 

 

「……どうして……こうなっちゃたのかな?」

 

 

 京介と桐乃が息を呑み、何かを叫ぼうと口を開いた――その時。

 

 

 

 あやせの頭頂部に、空から、高い屋根を貫いて降り注いだ光線が照射された。

 

 

 

「――――ッッ!!」

 

 絶句する京介達に、あやせは何かを理解したように俯き、そして――この地獄で初めて出会ってしまった時の、邂逅した時の、あの恐ろしい天使のように可憐で、あの堕天使のように酷薄な笑みを浮かべる。

 

「それじゃあ、皆さん、お先に失礼しますね!」

 

 何が何だか分からない京介に、彼女は目を合わせ、ニコッと言った。

 

 

「さよなら、お兄さん。あなたのことなんか、大嫌いです」

 

 

 京介は息を呑み、目を見開き「――あやせッ! あやせ! あやせ!!」と叫ぶ。

 桐乃も瞳に涙を浮かべて「あやせ! あやせ!!」と絶叫するが、既に決別するかのように背中を向けているあやせは、まるで反応を示さなかった。

 

 やがて、光線はあやせの身体を消失させ始めた。

 

 そこで遂に、高坂兄妹はあやせに向かって駆け出す。

 

 そんな中、黒猫は、ポツリと、何かを押し殺しながら呟いた。

 

「……あなた……それで――」

 

 

――幸せに、なれるの?

 

 

 その呟きが聞こえたかどうかは分からないが、彼女に背中を向けていたあやせは、口元を笑みに変え――再び、涙を一筋、静かに流した。

 

 そして、京介と桐乃の手が届く前に――あやせの姿は、完全に消えた。

 

 桐乃はその場にしゃがみ込み、「……あやせぇ……っ」と何かを抱き締めるように、声を押し殺すようにして泣いた。

 

 京介は、そんな桐乃を見て、あんなあやせを見て、歯を食い縛り、拳を握り締め、あやせを何処かへと連れ去った光線が降り注いだ天井を仰いで、激昂するように叫んだ。

 

 

「ちくしょうぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 

 

 その叫びは、地獄に染み入るように響き渡るが、誰にも届かず、何も起こせなかった。

 




新垣あやせは、真っ赤な呪いにその身を染める。
狂る狂ると、狂る狂ると。狂る狂ると、狂る狂ると……

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