「閉じよ、閉じよ、閉じよ、閉じよ……っと」
魔道書に書かれた通りに唱えながら、彼は爪先を用いて図形を描く。
陣を描く塗料は赤黒く、只でさえ異様な図形は暗闇の中で不気味さを醸し出していた。
「繰り返す度に四度……あれ、五度?」
髪を明るい色に染めた青年は、ページの内容と先ほどの詠唱との違いを比べ、首を傾げる。
彼は改めて先ほどの詠唱を五度繰り返し、これで問題ないと、床の図形を指差した。
青年はふと視線を、真っ暗な部屋の中で唯一の光源であるテレビへ向ける。
現在流されているのはニュース番組。今テレビに映っている女性ニュースキャスターが読み上げているのは、最近巷で噂の連続殺人事件だ。
その内容を聞きながら、彼は目の前にあるソファの背へと凭れかかる。
「ちょっとハメを外し過ぎたかなー?」
青年がソファに凭れた拍子に、腰掛けていた男性がバランスを崩す。
受身も何もとらずに崩れ落ちた男。その後頭部には孔が空き、そこから中身が覗き見えていた。恐怖で見開かれた虚ろな眼球は、同じく亡くなった妻の姿を映している。
青年――――雨生龍之介は、今ニュースに出た連続殺人鬼その人だった。
死とは何かを求める芸術家気質の彼は、最近マンネリズムを覚えて、少しばかり趣向を変えていたのだ。
現在行っているのは儀式殺人。家の蔵にあった魔道書らしきものに書かれた内容を用いて、今の惨劇を生み出していた。
けど、これは今回で最後にしよう。魔方陣を描くのだから、些か目立つ。
そう思いながらなんとなく、テーブルの上に置かれた本に手を伸ばし、それをパラパラと捲ってみる。
その本はアメリカ発祥の娯楽小説だ。ジャンルはコズミック・ホラー。宇宙からやってきた人外による恐怖を描いたものだが、龍之介としてはあまり面白みを感じない。リアルな死を感じ取れないからだろう。
少し読んだものの、途中で飽きた。後ろへとぞんざいに投げられた本は、そのページを開いたまま魔方陣の上に落ちる。当然ページに血が付着するが、龍之介が知ったことではない。
再び視線を動かし、龍之介は縛って転がした少年に意識を向ける。
「悪魔って、本当にいると思うかい? ぼうや」
軽薄な笑みを浮かべながら語りかけると、縛られた少年がビクリと身を震わせた。
問いかけに答えはない。ガムテープで口を塞いでいるから、呻くくらいしか出来ないだろう。涙はとうに枯れ果てて、失禁してズボンは濡れていた。
そんな少年の様子に唇を吊り上げながら、龍之介は語る。
「俺って巷ではさ、悪魔って言われてるんだよねー。でもそれってさぁ、もし本当に悪魔がいたら、ちょっとばかし失礼な話だよね? そこんとこすっきりしなくてさぁ」
だから、男は素朴な疑問を口にする。
「チーッス! 雨生龍之介は悪魔であります! ……なぁんて、名乗っちゃって良いのかなーって」
どこかおどけた口調で言う、龍之介。
世間からすれば、彼の所業は悪魔でしかない。
だがしかし、龍之介は人間だ。母の胎から生まれて、母乳を与えられて育った、赤い血の流れる人間だ。
そんな自分が悪魔などと名乗るのは、本物の悪魔に対して失礼ではないだろうか?
「そしたら、こんなもの見つけちゃってさ」
笑いながら見せるのは、蔵にあった魔道書。
「ウチの土蔵にあった……古文書?みたいなもんなんだけど、どーもウチのご先祖、悪魔を呼び出す研究をしていたらしいんだよねー」
これが、儀式殺人の切っ掛けだ。
「そしたらさ、本物の悪魔がいるか、試してみるしかないじゃん?」
子供のような無邪気な笑みで、彼は言う。
そして、続ける。
「でも、もし万が一、本物の悪魔が出てきたら……なんの準備もなくただ茶飲み話だけ、ってのもマヌケな話だよねぇ」
龍之介は身動きの取れない少年に、語る。
「だからさ、ぼうや」
顔の前に手の置いて、ちょっとした頼み事をするように、
「もし本当の悪魔が出てきたら、一つ殺されてみてくれない?」
少年の死を、望んだ。
彼の言葉に目を見開いた少年は、塞がれた口で喚き、身動きの取れない体で懸命に暴れ始める。
そんな彼の様子が面白かったのか。龍之介は爆笑し、笑い声を上げた。
「はーっはははははははっ!! 悪魔に殺されるって、どんな気分なんだろうねぇ! 貴重な体験――――痛っ」
笑っていた龍之介は、唐突な痛みに顔をしかめる。
一体何かと思いながら痛む箇所――――右手の甲に視線を向ける。
「…………なんだ、これ?」
しばし見つめた後、口から出たのは訝しげな声と言葉。
見つめる先には刺青のようなものがあった。暗闇でも分かる程赤々とした、血のような色合いの刻印。先ほどまで存在しなかった絡みあう三匹の蛇。それはまるで、最初からそこにあったかのように己を主張している。
刻印のデザインは、龍之介の美的センスに合っていた。中々COOLな紋章に満足する。
その瞬間、魔方陣から光が迸り、それが血生臭い部屋を満たした。
閉鎖された空間を、風が吹き荒れる。血で描かれた魔方陣は美しく妖艶な色を放ち、魔方陣の上に置かれた本から千切れたページが舞った。
「我は這い寄る混沌」
荒れ狂う風の中で、幼く高い声が明瞭に聞こえた。
「あるいは、月に吠ゆるもの」
次に聞こえたのは、しわがれた低い声だ。
「燃える三眼、暗きもの、貌のない黒きスフィンクス――――」
喋るたびに、声の色と質が変わる。
数人の人間が喋っているかのような、しかしひとりで喋っているとなんとなく分かる不思議な声。
その中で唯一変わっていないのは、その声が笑っていることだろうか。
「我は貌なきゆえに千の貌を持ち、狂気と混乱をもたらす使者」
風は止み、光は消えた。
それと共にするように現れたのは――――三つの目と黒い翼を持つもの。
闇の中で浮かび上がるような、七色の輝きを放つ透き通った長髪。対照的に肌は黒く、この世のものとは思えない程秀麗な貌に酷薄な笑みを浮かべている。
額にもあった常闇の目を芸術的な指先が撫でて閉ざせば、その下の眼窩に嵌った両の目だけが龍之介を見つめる。
左右で色を違う、宝石のような瞳。
血より濃く色鮮やかな真紅を放つ左目と、
夜闇に揺らぐ水面がごとく昏く蒼い右目。
あまりにも正反対にして同質の、悪逆と冒涜の色を宿した眼球を向けて、
「問おう――――我、この外なる神ナイアーラトテップをキャスターのクラスにて召喚せしは、汝なりや?」
左頬の紋章を歪めて嗤いながら、男でも女でもない邪神は問うた。