ふと思いついたFate/zeroのネタ作品   作:ふふん

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桜は思い出す

 魂すら凍りそうな程の、悪寒がする。

 理由は全く思い浮かばない。

 空調は完璧だ。少なくとも桜の経験する中で、アーチャーが構築したここよりも快適な場所は記憶にない。現代最新機器を揃えている上に、人形が様子を見て室温を調整している。いや、空調だけではない。このビルには、市販されている最新鋭機器が、惜しみなく使われているのだ。これで、快適でない訳が無い。寒さを感じる理由もない筈だ。

 しかし、桜は部屋の隅で膝を抱えていた。がたがたと震える体は、臓硯の仕打ちを思い出した時に匹敵するかもしれない。

 こんな時、昔はどうしていたか思い出そうとして、諦めた。そもそも、昔は何も思うことなど無かったのだ。虫に嬲られようが、食まれようが、何があってもされるがまま。まるで人形の様だ。

 あれのようだった、と桜は視線を飛ばした。そこには、現代に似つかわしくないエプロンドレスを着た、金髪の美人。しかし、その視線は無機質で、桜を捕らえる視線も、その眼球に彼女は映っていない。アーチャーの取り出した、宝具の一つ。遠見の宝具が一番のお気に入りであれば、一番嫌いなのはあれだ。

 どこまでも完璧な人間の造形をしながら、人で無い何か。それは、心のどこかで間桐臓硯を連想させていた。あるいは、鏡を見ているようで、とても気に入らない。

 恐らく、昔はそんな感想を持つ事も無かっただろう。ある意味で、本物の人形よりもよほど人形らしかったのだから。全ての権利を――家族と家族でいる権利すら奪われ、蟲よりも価値の低かった少女。そもそも、自分のもの、などというものが存在しない。精神も肉体も、全て間桐の為に消費される。そんなものが、人形を嫌うというのは、酷く滑稽な話だ。今なら自嘲すらできそうだ、とすら思う。

 色々な事が、脳裏をよぎった。幾度も幾度も、蟲蔵に沈められた記憶。最初は、多分泣き叫んでいた。声が出なくなったのは、いつだったか。最後には、虫を感情では無く感覚でしか感じられなくなっていた。

 膝に顔を埋める。幸せだった頃の記憶など、何も思い出せないのに。こんな、思い出したくも無い事ばかりが繰り返される。

 それもこれも、全部悪寒のせいだ。

 この寒さは――蟲蔵に似ていたのだと思い出す。諦め始めてから、何も感じなくなるまでの短い間。確か、感じていたのはこんなものだった。

「アーチャー……」

 ふと、口から漏れる言葉。それが意味の無いものでは無く、誰かの名前であった事に、僅かに驚く。

 少なくとも、桜が間桐の家に居た頃は、誰かの名前が出たことはなかった。最初こそ、父や母、姉に何度も助けを求めたが、それが叶えられる事は無く。義理の家族になった間桐雁夜は、むしろ一緒に苦痛を受ける側の人間だった。

 苦しいときに、名前も呼ばない。呼んだところで、その人が助けてくれるわけでは無いと、分かっていたからだ。持てる希望が無い。だから、名前を呼ぶという事はしなかった。

 しかし、アーチャーだけは違った。苦痛で満たされていた蟲蔵、そこから初めて助けてくれた人。火の海に、それに焼かれて弾け悶える蟲。まるで人工的な地獄を作ったかのような光景の中で一人、黄金のように輝いていた人。恐らく、その光景を一生忘れることはないだろう。

 一緒に暮らしても、特別な何かがあった訳では無い。家に居ない時間も多かったし、居ても普通に食事を食べて、一緒に寝て。そんな事をしていただけ。しかし、それは昔に無くした――一番欲しかった普通の家族のようだった。

 今は、もう昔では無い。自分を助けてくれる人が居る。だから、縋るように名前だって呼べるのだ。

 それは良いことなのか、それとも悪いことなのか。弱さではあるのだろう。しかし、それを頼らないようにするには……桜は弱すぎて、アーチャーは優しすぎた。

(大丈夫……)

 念じながら、背筋を走る寒さに負けそうな自分を太鼓した。

 そう、大丈夫なのだ。相変わらず自分は弱く、何も成長できてはいない。だが、今は頼れる誰かがいるのだ。それさえあれば、少なくとも強がれる。

 そして。

 急に、鋼の骨組みを上から無理矢理押しつぶすような音が聞こえた。ギシギシギシ! と軋む音は、悲鳴にも似ている。

 何が起きたのかは分からない。だが、このまま座り込んでいるのだけは、絶対に良くない。それを確信して、桜は立ち上がった。部屋の中心、テーブル付近に待避して、とにかく何があってもいいようにと見回す。慣れぬ急激な運動に筋肉が付いていかず、倒れ込みそうになるのを堪えながら。

 音はどんどん大きくなり、比例して悪寒も増す。意味のない警戒を続けて、部屋の中を見回し、それに気がついた。アーチャーが以前語っていた、迎撃用宝具、それが全て出払っているのだ。

 宝具というものを、桜は正しく理解していない。ただ、それは一つでも桁違いの力を持っている……らしいという事は聞いていた。それが、全て迎撃に出ている? 聞いた話を信じるならば、サーヴァントでも出てこなければ、それだけの数は必要ないというのに。

 ただ事では無い、そして危険な事態である、それだけは分かった。しかし、それでどうすればいいかまでは分からない。この場にいた方がいいのか、それともすぐに逃げ出すべきか。

 鋼の軋む音は、ついに耳を塞ぎたくなる程になり。そして、急に止まった。悪寒は最大値を記録し続けているのに、音だけがぴたりと止まったのだ。

 恐ろしさしか感じない、気を抜けば口から悲鳴が漏れてしまいそうな静寂。それを破ったのは、窓が小さく軋む音だった。

「キ……」

 それは、桜が上げた声では無い。窓が揺れて立てた音でも無い。外から内側に通した、どこか聞き覚えのある声。

 桜は後ずさった。一歩後退すれば、二歩三歩とよろめく様に、窓から遠のいていく。

 一度下がってしまえば、あとは止めようもない足。それは、背後のドアにぶつかって、やっと停止した。それでも足だけは、なお後退しようと足掻く。

「キキキキキキキキ!」

 地獄の底から――あの炎に満たされた蔵の跡、そこから蘇ったかのような。

 もう間違えようも、誤魔化しようも無い。桜にとって、恐怖の象徴。間桐臓硯の声が、部屋の中に何よりも恐ろしく響き渡る。それを聞いただけで、動けなくなりそうな程に、足が震た。

 連続して窓ガラスが揺れ、ヒビがびっしりと生える。そして、ヒビの本数よりも多く、黒いものが張り付く。とてもよく見慣れた、色だけが違う、蟲。かつて、自分の体に巣くっていたもの。

「ドコヘ行クツモリジャ、桜アアアァァァァ……」

 ひび割れたような、人間性を失ったような、しかし桜を嬲る口調だけは変わらぬそれ。枯れたはずの涙があふれ出し、足の震えは全身に伝達する。忘れたと言うには恐ろしすぎて、昔と言うには新しすぎる。桜から、全てを奪い全てを支配した、間桐臓硯。間桐という家そのものの、怨霊。

 気付けば、桜は走り出していた。ドアを叩くように開いて、廊下に飛び出る。背後で窓ガラスの割れる音がしても、脇目もふらずに走り抜けた。恐らく人形が蟲と対峙しているが、あれだけの宝具を無力化した相手に、長くは持つまい。どれほど楽観的に見積もっても、分は無いだろう。その間に、可能な限り遠くへ逃げなくては。

 廊下を駆け抜け、階段を下り、外を走り抜ける。服を重ね着せず外出できないような冷気に、しかし桜は何も感じる余裕はなかった。いや、それ以前に、全身が外気よりも冷たくなっている。

 逃げ出せたのは――自分が逃げる行動に出れたのは、奇跡だった。少し前までは、抵抗するという発想自体が無かったはずだ。あったとしても、行動に移せなかったに違いない。なぜならば、その先に希望はないのだから。

 しかし、今は違う。逃げれば、きっとアーチャーが助けてくれる――間桐桜にとっての、無二のヒーロー。彼が居るからこそ、折れそうだった足は動いてくれたのだ。

『カカカカカカカカカカカ』

 数多の蟲の合掌。逃げ惑う桜をもてあそぶ笑い声。それを振り返りもせずに、少女は走り続けた。令呪という縁が示す、アーチャーのいる方向へ。

 

 

 

 全力で足を動かす。ただでさえ運動が得意だと言い難く、無茶な運動のために呼吸も荒れている。それでもアイリスフィールは、走ることをやめなかった。

 ライダーと、そのマスターに救われて少し。逃走に空を走った彼らは、しばらくして近くのビルに下りた。いや、下ろされたのはアイリスフィールだけで、他の二人は硬い表情のまま残っていたが。

 蟲の群れから離れられて、僅かに安堵していた。だが、それは自分を殺す相手が変わっただけかもしれないと思い出す。

 彼らが、何をどこまで知っているかは分からない。まだセイバーのマスターだと思っているのか、それとも違うと知られているのか。驚愕のしかたから見て、少なくとも、聖杯の運び手である事は知らなかった様だが。どうであったとしても、自分を生かす理由などないのだ。

 命の危機に瀕して冷静で居られたのは、まだマシな死に方だと思えたからだった。そこで刺されて死ぬのだとして。どう考えても、生きたまま虫の餌になって死ぬのよりはいい。

 ところが、彼らの選択は違った。殺すどころか、アイリスフィールを害そうという意識すら無い様に見えた。

 いくつかの事は、当然問い詰められたのだが。それも、セイバーや切嗣と言った、聖杯戦争に関係する事ではなく。専ら聖杯についてと、それから溢れた黒い何かについてだった。そして、その両方ともに、アイリスフィールが答えられることはない。彼女も、聖杯がどういうものかなど、詳しく知らないのだ。あの黒い泥については、存在すら初めて知った。

 問うだけ問われ、解放されるアイリスフィール。彼らの様子は、もう聖杯戦争どころではない、という風だった。

 この件についてだけは、アイリスフィールよりも詳しく知っている。逆に問いかけようとしたのだが、その時には既に、空の上。結局何も出来ずに、下唇を噛む。

 しかし、それで止まっている訳にはいかない。頭を働かせて、すぐに今自分がやるべき事を、導き出した。切嗣と合流し、見た情報を彼に渡す。あれが、自分たちの利になるにせよ、害になるにせよ。知っていなければ話にならない。

 まずはビルを下り(飛び降りるには高すぎたので、普通に階段から下りた。警備会社と契約している、セキュリティの高い会社だったので、無駄に苦労し、時間も浪費した)駆け出す。日中は車の数が多くとも、連続殺人事件があった後では、数はかなり控えめ。主要道ならばまだしも、町中を通る道はかなり大人しい。たまに渋滞を嫌ったトラックが走っていく程度だ。

 お粗末ながらも、地図は頭の中に入れてある。現在地さえ分かれば、いざという時のための合流地点も分かるのだ。

 それに、切嗣は確実に近づいてきているという確信がある。アイリスフィールの役割は、囮なのだ。いざという時――例えば、拉致されるような事態――に備えて、発信器が取り付けてある。それを使って、近くに来ている筈なのだ。それが、助けにでは無かったとしても。

 目的地は、倒壊した市民会館から大分遠い場所にした。あれによって、家に籠もっていた民間人が大分起きている。物騒な事件があった直後で、野次馬が集まるかは怪しいところだが……近くで合流すれば、誰かに見られる可能性がある。それが敵陣営だったら最悪だ。

 この騒ぎの影響が少ない場所。人影もなくて、他のマスターに発見されぬであろう地点。それを基準にしていたら、ずいぶん遠くまで走る羽目になっていた。

 やっと目的地に到着して、アイリスフィールはそのまま崩れ落ちた。限界まで疲労の溜まった足は、もう一歩も動かせそうにない。人生で一番運動した。ばくばくと鳴る心臓は、未だ引かぬ苦痛と相まって、酷い事になっている。

 全身から汗が噴き出て、ぬれた髪の毛が体に張り付く。心地の良い感覚では無いが、それを振り払う元気も無く、背後を見た。ぽつぽつと上がっているだけの光。市民会館は、火事が起きた訳でもなく、倒壊を視認する術は無い。だが、目を覚ましかけた街という、その影響は確実に出ていた。

 好ましくない状況だ。魔術師としても、聖杯戦争参加者としても。仕方なかったとしても、やはり口惜しさは残る。何より苦しいのが、聖杯を奪われたこと、そして聖杯から、あんなものが出てきたことだった。

 聖杯は、切嗣の願いを叶えるためにある。アイリスフィールにとっては、そういうものなのだ。

 しかし、願いを叶える根源の奇跡。それ自体が、あんなおぞましいもので、果たして正常に願いを叶えてくれるのだろうか?

 体が冷えてきたのは、不安のためか、それとも汗が冷えただけか。出来れば、後者であって欲しい。

 しばらくそうしていると、幾分呼吸が整ってくる。と言っても、足はまだ動かそうとは思えない。単純に落ち着いてきたというだけであり、だから行動できる、という訳では無い。まあ、それでも。地べたに座り込む行儀の悪さを感じて、どこか座われる場所を探そうか、そんな風に考えた時だった。

 けたたましいブレーキ音を響かせて、一台の車が急停止した。

 一言で言って、廃車寸前のそれ。窓ガラスはフロント以外失い、天井はめくれ上がり、トランクカバーもなく、中に何も入っていないケースを覗かせている。助手席のドアを開けて、顔を覗かせたのが夫で無ければ、警察辺りに通報していたかもしれない。

「アイリ!」

「切嗣!」

 絶叫に近い切嗣の声。アイリスフィールは、すぐに駆けだした。

 倒れ込むようにして、助手席に座る。それと同時に、身を乗り出していた切嗣がドアを閉め、車を急発進させた。急激なGに、体がシートに押しつけられる感触。

 自力で走っていた時などとは比べものにならないほど、急激に移り変わる景色。車と人間の違い以上に、切嗣がそれだけの速度で飛ばしているのだ。ずいぶんと聞き慣れた、エンジン音。それが、かつて無いほどの回転数をたたき出している。

 ちらちらと、頻繁に背後を確認している切嗣。不安に駆られながらも、問いかける。

「ねえ切嗣……舞弥さんと雁夜さんはどうしたの?」

「彼らは……」

 答えようとした切嗣は、しかしその先が続かない。彼が口ごもることなど、ありえないと言ってもいい。少なくとも、アイリスフィールはこれが初めてだった。いつもであれば、知るべき事では無いと誤魔化すか、すぐに回答するか。どちらでも無いというのは、それだけの異常だ。

 その異常を。アイリスフィールは、何となく理解した。

「……死んだのね」

「そうと決まってはいない。だが、生きてるとは言えない」

 煮え切らない言葉は、彼なりの優しさだったのだろう。何とも不器用なものだが。その優しさに、彼女は泣きたくなった。

 衛宮切嗣。久宇舞弥。間桐雁夜。アーサー王。そして、アイリスフィール・フォン・アインツベルン。よくも、これほど寿命が短そうなメンツが揃ったものだ。……そう、今まで誰も欠けなかったのが奇跡なのだ。

 切嗣は最愛の夫。人生経験の短い彼女には、計り知れない事が多い。逆に、人生のほぼ全てを彼との時間に費やしたアイリスフィールは、他の誰が分からない事も理解できる。舞弥は切嗣の道具だ何だと言いながらも、可愛い人だった。それが恋愛で無いとしても、切嗣に愛情を向けていたのだろう。だからこそ、アイリスフィールは舞弥と共鳴できた。セイバーは真面目であったが、それがいけなかったのだろう。彼女視点では、恐らく切嗣は駄目で弱い人間に映ったはずだ。騎士たらんという行動の裏には、少なからず切嗣に騎士という道を見せようとしていたのだろう、そう思う。まあ、多分に性もあるのだろうが。あとは雁夜。アイリスフィールという個人を理解しようとしていたが、それ以上に魔術師という肩書きを嫌っていた男。理解しようという意思と、拒否する嫌悪感。両方を常に感じていた。不謹慎だが、何となく学校に通っているような気がして、決して不快では無かった。嫌われるのも、雁夜個人も。

 そんな日々を思い出しながら、改めて思う。その日常が、とても好きだったのだと。そして、もう二度と戻ってこない。

 全て聖杯戦争のおかげで手に入れて、聖杯戦争のせいで失った。聖杯のせいで……理不尽でしかない感情が、あふれ出してくる。

 仮に、聖杯そのものにそれだけの価値が無かったとして、誰が引き返せると言うのか。こんなものに参加した全員が、退路などとっくに無くしていると言うのに。

「セイバーは……」

「……」

 それに対する答えは、沈黙。

 本当に、二人だけになってしまったのだ。理想を語る男、それを支えようとした女。最初の二人に。

 片方しか生きていないライトで闇を削りながら、曲がりくねった裏道を曲がる。とてもでは無いが、人目に付くような所を走れる車では無い。一発で通報されるだろう。

 誰も居ない道。そこで何を話した所で、誰が聞いているわけでも無い。走っている車の上ならばなおのこと。

「アイリ、君はどうやって逃げてこれたんだい? まだ生きてるとは思っていたけど、自力で脱出してこれた、とは思えないんだ……」

「自力で逃げられた訳じゃないわ。正直、もうダメだと思ったもの」

 説明をするために、思い出そうとして――脳裏に浮かぶ、蟲の化け物の笑い顔。溢れそうになる悲鳴を堪えながら、続けた。

「私が拉致された場所にいたのは、言峰綺礼と間桐臓硯だったわ」

「間桐臓硯だって……? そうか、奴ならば遠坂時臣を暗殺できる。いや、しかし今更参加するだけの動機があるのか?」

 しばらく、ぶつぶつと独り言を言いながら考え込む切嗣。いつものことだ。気にせず、言葉を続ける。

「言峰綺礼の方は、私を殺す気はなかったみたい。……いえ、眼中に無い、というのが一番正しかった気がするわ。何と言うか、人を殺さない理由があったのであって、私を殺さない理由は無かったと言うか。事実、その後に間桐臓硯が私を殺そうとした時、全く気にしていなかったし」

 喰おうとしていた、とは言えなかった。心のどこかで、その出来事を肯定できないでいる。あれは悪い夢だ。だからこそ、ただ殺されそうであった、という事実に入れ替えた。

 そして。

 今度口ごもるのは、アイリスフィールの番だった。絶対に、あってはならない事実。それを白状しなければならない。

「ごめんなさい切嗣……。彼らの目的は、私の中の聖杯だったの。それを、奪われてしまった」

「聖杯だって? どこでその事を……いや、そんなものを手に入れて、どうするつもりだ?」

 聖杯の在処は、それこそ教会の監督者にさえ伏せられていた事実だ。アインツベルンが用意する必要がある以上、彼女がそれを持っていていると思ってもおかしくはない。だが、それは彼女が持っているという確信を持てることとは、まるで違う。だれがどうすれば知ることが出来たかなど、それこそ予想も出来ない。

 そして、聖杯それ自体の使い方も。あれは、持っていて意味があるものではないのだ。どれほど所有権を主張し、縛り付けるようにして持っていたとしても。最終的には、必ず聖杯戦争の勝者に配られる。そういうものなのだ。もし、力を漏れ出させる事に成功し、それを上手く使えたとして。それで、最終的な勝者として認定されるかは微妙な所だ。

 アイリスフィールは、そう思っていた。あの時までは。

「切嗣、よく聞いてちょうだい」

「アイリ……?」

 太ももを握るようにして、俯くアイリスフィール。彼の顔を見て言うべきだ。しかし、どうしても切嗣の目を見られなかった。もし、その瞳から、自分への失望を感じてしまったら。もう二度と、立ち直れない。

 それでも、言わなければならない。ここで黙るのは、失望よりも恐ろしい、裏切りとなるのだから。

「聖杯は、言峰綺礼が持っていたわ。そして、彼らの暗躍を察知したライダーが現れたの。その介入で、私は無事だったんだけど。そ、その時……言峰綺礼が聖杯を使ったのよ。彼はアサシンを自害させて、聖杯の蓄積を増した。そして……、あの男が『アヴェンジャー』と呼んだサーヴァントが……聖杯から……溢れたわ……」

「聖……はい、から……? 馬鹿な、そんな事が……」

 あり得るはずは無い。あってはならない。なぜならば、聖杯とはこの世の何よりも純なるものの筈である。そうでなければ、鏡たり得ない。人の願いを映し出す、願望機にならないのだ。その中に、何かが入っていたら。それでは、それの願いこそが最優先されてしまうのだ。

 勝ち残った所で……衛宮切嗣の願いは叶わない。それは、他の全てを、人生の何もかも、それこそ愛する者までもを捧げた男に対して……。最後に残ったのが、これだと言うのか。

 小さな音。恐らく、切嗣がハンドルを強く握りしめた為に。それを確認する事は、アイリスフィールにはできなかった。

「……いや、まだだ。まだ――アーチャーは確実に、この事を知っていた。酒宴の時の言葉……対策があるはずだ。それに、今の魔力共有するだけのマスターなら、僕にも交渉の余地が……」

 それは、希望的観測の連続。現実味の酷く薄い、作戦ですらないもの。しかし、そんなものに縋らなければならないほど、真の意味で聖杯戦争の勝者となるには、遠い。

「アイリ……続きを、頼む」

 震えた声が、アイリスフィールの耳に届いた。声の小ささを思えば、それを聞き取れたのも奇跡だと思えるほど。

 努めて、何でも無い風を装いながら、彼女は言った。ここで折れてしまえば、もう何も言えなくなりそうな気がしたから。

「言峰綺礼は、監督者から奪ったであろう大量の令呪を持っていたわ。命令は、間桐臓硯を取り込め、というものだった。次の瞬間には、アヴェンジャーの中から、無限の黒い虫が溢れていたのよ」

「黒い蟲、だって?」

「何か心当たりがあるの?」

「ああ。多分、僕たちに襲いかかってきたのがそれだ。セイバーはサーヴァントの気配を感じると言っていたし、通常兵器は殆ど効果が無かった。知性も形もない水のような存在に、間桐臓硯を与えることで、ある程度上手く使えるようにしたんだな。あとは、サーヴァントに対して致命的な力がある、か」

「ええ、そうだと思う」

 ライダーの宝具、ヴィア・エクスプグナティオ。単純な威力であれば、今戦争最高の威力を持つであろう、エクスカリバーに次ぐ威力。

 あの大男は、持ちうる勝負勘に相応しく、確実に先制で宝具を放っていた。対して、言峰綺礼。いくらアヴェンジャーと間桐臓硯の融合に成功していたとしても、所詮は出始め。まだ数は少なく、圧倒されるほどとは思えなかった。逆に言えば、その程度の数でも、英霊に撤退を考えさせるほど、あれは危険なものだったのだ。

「それでアヴェンジャーから逃げた後、ライダー達は私を置いてどこかに行ったわ。たぶん、現場に戻ったんでしょうけど、私を相手にしてられないっていう風に。ああ、そう言えばアーチャーの名前が出ていたと思うわ」

「同盟、ではないだろうな。この件に関してのみの、限定的な協力関係と見るべきだ」

 言葉に、アイリは頷いた。疑う余地が無い。

 どこかと同盟を組む必要が出てきた場合、真っ先に拒否するのがライダーである。自由奔放すぎる彼は、同盟の意味を限りなく無意味にしてくれる。適度に距離を置いて、有事にのみ協力をする、というのであればまだしも。同じような感想を持っているはずのアーチャーが、そうしない訳が無い。

 他に、いくつか要点を話し合い。その内に、アイリスフィールは耐えきれなくなり、口を開く。

「ねえ、切嗣。私たちは……もう負けた。そういう事にして、諦めることはできないの? イリヤを取り返して……どこかで、三人で……」

 残酷な言葉だったであろう。自分で言っておいて、それがどれほど非道であるか。しかし、そんな希望に縋ってしまったのだ。負けた、という体の良い言い訳が用意されて。まだ引き返せると。

 そして、無残な希望に縋っているのは、切嗣も同じだった。アーチャーという可能性、アーチャーが示した可能性。それらと、彼の為に死んでいった人たち。全てが切嗣に膝を折るのを躊躇わせた。もしかしたら、絶望しかないのよりも、遙かに残酷に現実を写している。

「駄目だよ、アイリ。まだ、勝つ術はある。それに、言峰綺礼がそんなものを手に入れたなら、放置はできない。きっと……世界中が恐ろしいことになる」

「でも! ……それは、きっと、アーチャー達が何とかするのよ」

 泣きそうな声で、アイリスフィールは言った。

 分かっている。だから、切嗣も否定しない。感情のままに涙を流すアイリスフィールを、そっとしていた。

 誰かが、などと言って任せられなかったからこそ、衛宮切嗣は殺人機械になった。たかがサーヴァントを失った、仲間を喪った――その程度で、誰かに押しつけられるならば。どれほど楽だっただろう。

「それに、アイリ。もう僕たちに――いや、もしかしたら誰にも、退路なんてないんだ。進み続けるしかない、勝つしかない。ここで逃げても、その先にあるのは、多分別の絶望と地獄なんだろう。だから、僕にはもう、前に進むしか道は残されていない」

 そうやって、言い聞かせるように、切嗣は言った。アイリスフィールと、自分自身に。それほどに、痛ましい言葉。

 手の力を緩めて、眼前にかざした。彼のそれとは似ても似つかない、綺麗な手。何かで汚したことの無い、何を成したことも無い、役立たずの手。

 無力だ。

「切嗣、気をつけて。言峰綺礼は普通じゃないわ。どこがどう、と言う事はできないけど、とにかくまともじゃない。だから、気をつけて」

 今も、わかりきった助言にもならない言葉しか、伝える事ができない。

「ありがとう。奴には注意するよ」

 そんなものにすら、彼は優しかった。

 これだけ等ではなく。全てに対して優しく、心を痛める彼。

 車が停止する。周囲は見たことがある場所。第二の拠点になった、武家屋敷の正面。これで、終わりなのだ。

「ねえ、私に手伝える事はないの?」

 最後の、ささやかな抵抗。こと戦闘において、切嗣よりもアイリスフィールが正しかったことなど、一度として存在しない。それでも、彼女は聞いた。肯定して欲しかった。そして――せめて、一緒に死にたかった。

「待っていてくれ」

 彼の声は、決して肯定するものではない。しかし、否定するものでもない。

「必ず、帰るから」

「……うん」

 喜べばいいのか。悲しめばいいのか。人生が短く、その全てに切嗣がいる彼女に、それは分からない。ただ、頬を涙が伝った。

 少々歪んだドアを開いて、地面に立つ。足が震える。きっと、さっきまで走っていたせいだ。そうに違いない。それ以外の理由など、ある訳が無い。

 割れたガラス越しにある切嗣の顔は、まるで別人のよう。また一つ、彼の新しい顔を知った、と思いながら。その顔を、脳裏に焼き付けた。絶対に忘れぬように。

「行ってくるよ」

「はい、いってらっしゃい」

 短い、再開を願う別れの言葉。走り出す車。

 そして、アイリスフィールは、その後ろ姿をいつまでも眺め続けた。

 見えなくなっても、いつまでも。

 いつまでも。

 

 

 

 結局、自分はこの人の事をどう思っているのだろうか。

 魔術の名門出身である自分すら触ったことが無い、超高度な魔術礼装を調整しながら。ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリは、目の前の婚約者を見ながら考えた。

「つまり聖杯とは、英霊の座による座標指定と、圧倒的魔力で、その存在圧を根源表層近くまで掘り下げている。素晴らしいと思わないか、ソラウ!」

「ええ。英霊を召喚する際に、工程を逆算しているのね。強引な力業のようで、その実恐ろしく緻密だわ」

 研究をして、協力者がいるのであれば内容を語り合い。つまりは、いつもの時計塔での日常。まさか、聖杯戦争に来てまで、そんな事をするとは思わなかったが。まあ、目の前に魔術礼装の域を超えた――疑似魔法礼装と言ってもいい道具。その欠片が手元にあるのであれば、仕方あるまい。しかも、手元に宝具という一級の研究用礼装まである。この環境には、不覚にもソラウすら心が躍ったのだ。

 目指す方向が違うとは言え、魔法の足下を見ている。これに興奮しない魔術師はいなし、興奮しない者は魔術師では無い。

 聖杯が異常を来している原因、それを特定するのは、とても簡単だった。まあ、一度『開いて』しまえば、後は視認すらできるので、難しい事など何も無いが。

 問題は、これを引きはがす術式だ。ただ混ざっているだけなので、極端に言えば濾過してやれば良い。ただ、それが魔術に対して影響を与え合う上に、調査の結果分かった、相手がサーヴァントだと言う事実。これらの影響で、万全を幾重にも重ねる必要が出てきていた。

 それだけは、まあ、面倒ではある。

 しかし、聖杯戦争の成果という意味では、これで十分以上だ。なにせ、武勇や聖杯等よりも遙かに有意義な、魔法の足がかりを手に入れられたのだから。

 もっとも、それでケイネスが聖杯を辞退しようとしたら。どんな手段を使ってでも、止めるつもりだが。ソラウが欲しいのは、武勇でも聖杯でも、ましてや魔法の某でもない。ランサーという男ただ一人なのだ。

 彼に恋したという、何よりも確かな事実。だからこそ、分からない事がある。自分は目の前の男の事を、どう思っているのだろうか、など。

「ごめんなさいケイネス、ちょっと速度を落として。さすがに、貴方がその気になった速度にはついて行けないわ」

「む、すまない。魔法を前にして、少し自制心を欠いてたようだ。……これくらいで良いかい?」

「ええ、大丈夫よ」

 おもちゃを目の前にして、堪えきれないといった、まるで子供のような様子のケイネス。

 この男に魅力がないかと言われれば、まあ、あるのだろう。傲慢が服を着たような男だが、それが許されるだけの実績はある。世の中、実績も無いのに権利を要求する者が居ることを考えれば、遙かにマシだろう。ついでに言えば、自分に対しては情けないくらいの態度なので、気にする必要も無い。

 魔術の腕前は、名門と言うことを加味しても異常だ。単純に魔術師として、彼より上の者など数えるほどしかいない。これが戦闘というジャンルになると、大分遅れを取るのだが。だからこそ、ケイネスは武勇を欲したらしい。

 おおむね、優良物件だ。女性的な視点で見れば。

 ただし。それは残念ながら、ソラウという少女性が恋する理由にはならなかった。

(何でこの人じゃダメなのかしら……?)

 呪文を唱え、指先を滑らせながら、考える。高度な魔術行使ではあるが、補助が得意なソラウには慣れたもの。少なくとも、主導で聖杯の解析と、分離術式の構築をしているケイネスに比べれば、遙かに楽だ。余計な事を考えられる程度には。

 理由など、ばっさりと切り捨ててしまっていいのであれば。彼がケイネスだから駄目で、愛しの人がディルムッドだから良かった。それは分かっている。分かっているが、ケイネスも彼女にとっては、いい人であった筈だ。それなのに、イメージをしようとして、全然そういう光景が思い浮かばない。

「わ、私の顔に何かついているかね?」

「え? ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていて」

「そ、そうか。うん、まあ、ほどほどに」

 いつの間にか彼の顔を凝視していて、それに気づき顔を赤らめる。分かりやすく、惚れている反応。彼の優しさも、そこから出てきているのだろう事は分かる。

 実際、彼が研究に没頭している時は、とてもいい顔をしている。見惚れる、という程のものではないにしても。見ていて飽きる類いのものでもない。少なくとも、聖杯戦争などに参加して、思い通りに行かないことに、眉間の皺を刻み続けるよりはよほど健全だ。

 研究に最も適正があったのだから、そちらのみを追求していれば良かったのに。なぜ急に「聖杯戦争に参加する、君も近くで私の雄志を見ていてくれ」などと言い出したのか。武勇を求めるにしたって、もう少しマシな戦場があった気がするのだが。

 過去を思い出しつつ、答えの出ない考え事をして。ついでに言ってしまえば、答えを求めた訳でも無い、ただの疑問の連続。

 唐突に中断し、意義をなくた思考を放棄し。手持ちぶさたなのを、ランサーとの会話で埋めようとして、彼が今居ないのを思い出す。そうでもなければ、元々こんな詮無い思考などしていなかった。

(ランサーの様子は……大丈夫なようね)

 当たり前の事を、再確認。ソラウが余裕を持っていられる理由なので、それは当然だが。

 ランサーの今回の任務は、敵の探索。アーチャーが囮を勤める上に、相手は魔術師。対魔術師能力が全サーヴァント中トップのランサーには、これより安全な任務は無い。

 途中、アクシデントがあったが。囮らしくアーチャーが役に立ち、ランサーは安全だった。

 一時期は、かなりピンチだった様子だが。これも、アーチャーの状況。彼であれば、死のうが何をしようがどうでもいいので、いくらでもやってくれて構わない。ランサーが戦闘に入ったと聞いたときは、少しばかりひやりとしたが。それもどれほどもしない内に、終わっていた。

 なんにしろ、ランサーの「安全な任務」は続いており、未だ索敵と警戒中。アーチャーが敵を仕留めた代わりに負傷したので、帰ってくることもできないらしい。役立たずめ。

 そのおかげで、ソラウは魔術に集中していられる、とも言えるのだが。

 ランサーと出会ってから、久しくなかった余暇。いつの間にか、昔はもてあましていた暇の消費方法をも忘れていたようだ。

「順調だな。ソラウ、少し休憩しよう。今紅茶を煎れてる、待っていてくれ」

 次の題材を考えて居た所で、声がかかる。

 どうせやることが無いのならば、喋っていた方が暇はつぶせる。否定するだけの理由もなく、頷いた。

「メープルシロップはあったかしら?」

「ああ。持ってこよう」

 ケイネスはキッチンに消えてどれほどもせずに、戻ってきた。お湯も沸かせられないような、短い時間。しかし、彼が持つティーポットからは、しっかりと湯気が上がっている。

 完璧な状態に仕上がった紅茶を、口につける。ひと味足りないのは、まあ日本で完璧な葉を見つけるのは難しい。メープルシロップを入れて、風味を無理矢理誤魔化した。それ以外を考えれば、悪くない出来だ。いつでも紅茶の飲める環境とは、つまり常にお湯の沸いている環境だ。

 それだけではない。温度は常に一定で、暖炉の様子を確認する必要は無い。電話は、秘匿性はともかくとして、素早く連絡を取るのに優れている。全てが全て、そうではないのだが。何と言うか、

「便利よね」

「……ああ、便利だ」

 ソラウの呟きに、しかし否定の声は上がらなかった。

 科学を毛嫌いしている魔術師なのだ、否定の声の一つ上がってもおかしくないのに。しかし、帰ってきたのは消極的同意。それほど、否定しきれないものだった。科学に囲まれた、便利な生活と言うのは。

 部屋にあるものは、全てアーチャー主導で導入されたものだ。最初はケイネスが強く否定したし、ソラウも口に出さないが同じだった。だが、アーチャーの言葉「こんなものは手間を省いて時間を得るためのものだ。お前らの、魔術に使う時間を増やしてくれる。嫌なら使わなければいいだけだ」の元に、無理矢理入れられた。

 結果、その便利性に負けて、使用する事になっている。

「まあ、論理的なのだ。魔術に融合させる訳でも無い。手間を省いてくれるのであれば、それが下賎なものであれ、利用はすべきだろう」

 魔術師の見本のような男の。魔術師らしい言葉ではあった。後は、口元が悔しげに歪んで居なければ、完璧だったのだが。

「それでも、ケイネスがよくこれを認めたと思うわ」

「む……」

 ソラウは、何気なく言ったつもりだったのだが。少しばかり、皮肉っぽい響きになってしまっていた。ランサーの件でぶつかることが多く、それが出てしまったのだが。

 そんなつもりは無かった――しかし、どう言葉にすればいいか分からず。誤魔化すように、残った紅茶に口をつける。

「発展の成り立ちが違うのだから、それほど反目する必要もない、そう思っただけだ。聖杯の解析は限られた期間のみで、余計な時間を取っている暇は無い。利用できるものを利用しようと思っただけなんだ」

 普段よりやや早口で、まくし立てるように、ケイネス。

 そんな所も――どこもかしこも。普段はやり過ぎと言うくらいに気取っているのに、時折妙に子供っぽくなる。

 ……そうだった。ランサーが来る前は、確かいつも、こんな距離だった。ふと、感傷のように思い出す。ディルムッドが増えて、ソラウは恋をした。同時に、聖杯戦争という事もあり、かつての和やかな空気はなくなる。昔が恋しくなったわけでも、ましてや戻りたくなった訳でも無い。本当に、ただなんとなく思い出し――それが遠い昔のように感じた。それだけ。

 恋とは、おそらくはそういうものだ。そう断じながら、ソラウは気を取り直す。

 一杯目の紅茶を飲み終えて、しかしそれ以上飲もうという気にはなれず。目の前の婚約者に、声をかけた。

「ケイネス、私はもう大丈夫よ」

「む……そうかね? では続けよう」

(やっぱり)

 思った通りであった。立ち上がりながら思う。

 ケイネスは彼女に(大抵は失敗する)気遣いを、よくしていた。空気が読めるとは言い難い上に頻度が高いので、鬱陶しいか無意味なことが殆どなのだが。

 二人の間に、魔術師としての素養はそれほど差が無い。当然、刻印の分を除けば、という話になるが。実力ほど、才能に差は無いのだ。それを天と地ほど、大きなものにしているのは、間違いなく彼自身が努力をしたからである。

 それはともかく、二人にはプロとアマチュアほど、一流と二流ほど差がある。いくらケイネスが倍以上の容量と難易度で作業をしているからと言って、先にへばることはあり得ないのだ。おそらくは、ソラウの顔色を見ながら作業している。考え込んだのを、疲労と勘違いしたのだろう。

(優しい人ではあるのよね。付き合いも長いし)

 一度も、ときめく事はなかったが。

 聖杯の欠片を中心に添えた、小型神殿。さらに周囲にアーチャーの持っていた宝具と、水銀の矢が二本。正確には、ケイネス渾身の対聖杯用魔術礼装であり、聖杯の中身を分離する、単発式の砲弾でもある。

 もう完成は間近だ。手を伸ばし、呪文を唱え始めて――

「すまない、少し待ってくれ」

 魔術を発動しようとしていたケイネスがいきなり中断して、額に指を当てた。ロードとして立つときよりも、さらに鋭い目つき。

 ランサーからの念話だ。それも、ただ事では無い。それが分かったからこそ、ソラウは黙っていた。

 どれほどもせずに、深まる眉間の皺。そして、苛立たしげな舌打ちが響く。

 指が額から離れ、それでも険しい表情はそのままだった。ソラウの前では常に良い自分で居ようとするケイネスには珍しく、その様子を隠そうともしない。

「どうしたの? ずいぶん機嫌が悪そうだけど」

「ああ、すまないソラウ。どうやらどこかの馬鹿が、聖杯を使用したらしい」

「使用って……これを?」

 良いながら、ソラウは嫌悪と言うよりも、汚物を見るような目で聖杯を見た。

 聖杯の中身を初めて見たときの、ソラウの感想。それは、汚い、だった。魔術師的な、いや、神秘的な観点で見れば、それは間違っても存在してはいけないものだ。ケイネス曰く、人間の正の感情を反転させたもの。マイナス面の感情と動機を集めたと言うよりも、正しさへのカウンター、らしい。どう違うのか、彼女には分からなかったが。

 しかも、ケイネスが調べた結果によると、サーヴァントの精神を犯し、霊体を分解する力まであるのだとか。こんなものに、愛しのランサーが触れていたらと思うとぞっとする。

「ああ、それをだ」

「何を考えてるのかしら……?」

「アーチャー伝いに聞いたライダーの情報によると、下手人はアサシンの元マスター。落ちぶれた御三家も協力していたらしいが、すぐに裏切られて死亡したようだ。肝心の、アサシンのマスターはどこから用意したか、大量の令呪を使って聖杯を制御しているらしいが……聞いた限りではただの狂人だな。中途半端な魔術の知識と腕で、全く余計な事をしてくれる」

 こんなものを使用する人間は、確かにまともではありえない。

 意識的に、聖杯から目をそらしながら、ソラウは言った。

「今はどうなっているの?」

「現在はアーチャー、ランサー、ライダーが共同で南側の、海の方に押し込んでいる最中だ。火力的にはアーチャーが居るから問題ない様だが、何しろ数が多い。聖杯を破壊しようにも、アサシンのマスターが見つからないようだ。しばらくは現状維持になるだろう」

「でも、それじゃあランサーが……」

 彼を亡くしてしまうかも知れない。そんな不安に駆られ、左腕を強く握った。

 一瞬むっとして、声を荒らげそうになったケイネス。しかし、すぐに深呼吸をして落ち着き、極めて優しい声で言う。

「ソラウ、今我々に必要なことは、アサシンのマスターを見つけるか、素早く聖杯からあの汚物を分離することなんだ。マスターの発見は、汚物を押し込みながら、現場の方が頑張っている。なら、私たちがする事は、もう一つの解決方法を持って行くことだ。そうだろう?」

「……ええ、そうね」

 未だ不安が押し寄せる。だが、彼の言うことは正論だった。ソラウは小さく頷く。

 叫びたくなる心を押さえながら、無理矢理自分を納得させる。それに、その方がランサーの生存率が高いであろう――

 と。

 ソラウがそれに気づけたのは、全くの偶然だった。聖杯から目をそらした。その先が、たまたまそれらの進行方向だった。その程度の事。

「ケイネス上よ!」

 そして、咄嗟に声を上げられたのも、まったくの偶然だった。自分でも驚くほどの声量で、危険を促す。

 ケイネスは、即座に横に飛んで、身を転がした。普段――例えば、時計塔などであれば、それに反応できなかったであろう。しかし、聖杯戦争と言う、神経を尖らせる必要がある場所に数日滞在していた。その分だけ、普段よりも警戒心が高かったのだ。

 とにかく、近くに何があるかも確認せずに、全力で跳躍し。備え付けではない、美観に併せて買ったテーブルをなぎ倒して、そのまま一回転。

 彼が起き上がる前に、ソラウは天井から降ってきたそれを見た。数多の蟲。黒い、汚物を煮染めたように醜悪な、吐き気を催すそれ。

 感覚だけで分かる。こんなものが、二つとあるわけが無い。これは、聖杯の中身だ。

「馬鹿な! なぜそいつらがここに……いや、それ以前に、結界をどうやって抜けたと言うのだ!?」

 ケイネスが、頭を抱えながら絶叫した。

 奇襲に失敗したと悟った蟲は、ぞわりと、外から窓を破って、溢れてくる。どうやってここに来たのか。どうやって結界を抜けたのか。それは分からないが、しかし何を目的にしているかだけは分かった。

 部屋にある、一番小さい――しかし一番頑丈なテーブル。つい先ほどまで解析作業をしていたそれを、ケイネスの方に向けて、思い切り押し倒した。極小の神殿化空間は解除され、床に宝具と、作りかけの魔術礼装と、あと聖杯の欠片が転がる。

 一瞬、呆然としてたケイネス。しかしすぐに意図を理解して、床に散らばったそれらをかき集めた。

「ソラウ、飛んで!」

 聖杯の欠片を差し向けた事で、蟲に囲まれつつあり。響いた声に反応して、ソラウは飛び上がった。乱暴ではあったが、吹き上がる風は確かに彼女を抱えて、持ち上げる。そのまま、ケイネスの進行方向へと向かった。

 彼の正面は、壁であった。いや、壁があった場所だった。今では一人分のスペースを、楕円形に切り抜かれている。

 シングルアクションでの魔術行使。もしかしたら、ただのかけ声をも詠唱にしていたのかもしれない。二方向に、全く異なる魔術効果。それを難なくやって見せた。

 ケイネスに運ばれるまま、穴の開いた壁から飛び出る。着地も制御も、全てを彼に任せて、ソラウは魔力を集中した。

 たった今出てきた場所から、追いかけて蟲が溢れている。嫌悪に飲まれそうになり、魔力が乱れる――だがそれを、経験と膨大な魔力で、むりやり押さえつけた。指先にかかっているのは、数少ないソラウ専用の魔術礼装。そこに魔力を通せば、ケイネス程とは言わぬまでも、そこらの魔術師では対抗できない火力を放てる。

 可能な限りの魔力を注ぎ込んだ、渾身の一撃。魔力を刃の形に加工して、さらに風属性を添加。内部で高圧縮された空気は、小さく雷を発生させながら、高速で対象に着弾した。

 その威力は、家を横に両断して有り余る。少なくとも、蟲風情に防がれる事などありえないし、あってはならない。しかし、

「うそ! 魔術を吸収したの!?」

「密かに結界を抜けられたのは、それが理由か!」

 地面に着地し、二人は同時に走り始めた。もう彼らに、蟲の相手をしようという考えは無い。魔術を吸収できると言うのは、それだけで、魔術師が相手すべき存在ではない。

 しかし、蟲もただ追い立てていた訳ではなかった。逃げられた後のことまで考えていたか、それは分からない。ただ、外では、既に虫が山のように待機していた。

 ケイネスの、小さくうめく声。魔術が通用しない相手に、逃げ場が無い。

「くっ……ラン――!」

 令呪を消費し、ランサーを呼ぼうとしたのだろう。手から、膨大な魔力の反応を見せて。そして、彼の目が見開かれた。

 ソラウには、何があったのか分からない。ただ、驚愕したケイネスの顔が、自分の後ろを見ている。そして、驚愕は必死の形相となり、ソラウを捕まえようとしていた。

 ここで初めて、彼女にも悪寒が理解できた。背中から襲いかかるような、醜悪な魔力の気配。危険すぎるそれ。しかし、死の気配というには、あまりにも気が抜けていて、そう思い切れない。

 おそらくは、どちらかしか助からない。彼女の冷静な部分が、そう告げていた。もしかしたら、冷徹な部分だったのかもしれない。

 彼の犠牲で助かったら、まずは魔術礼装その他を持って、この場から逃げる。聖杯の欠片は、置いていってもいいかもしれない。そして、まずはランサーと再契約だ。後は、アーチャーなり何なりにでも任せておけば、聖杯戦争は勝手に終結するだろう。そして、自分は故郷へと帰れば良い。ランサーと一緒に。

 そんな事を考えて――

 ソラウは、ケイネスを押し飛ばした。

「……え?」

 呟いたのは、ケイネスだった。しかし、より驚いていたのは、ソラウだっただろう。

 彼女自身、なぜ自分がそんな事をしたのか、全く分からなかった。彼の事は嫌いではなく、悪い人だとも思っていない。ただ、何とも思ってないだけで。

 だから、自分の命を優先すべきだった。そして、ディルムッドと添い遂げて、幸せになるべきだった。身を焦がすような恋を知り、情熱に身を任せ、今までのような、無機質だった人生と別れを告げる。そうすれば、きっと幸福だっただろう。こんな所で、こんな死に方をすべきでは無い。やっと、幸せの足がかりを掴んだのだから。

 なのに。

 ソラウは、自分が死にたくないと考えるのと同じくらい。ランサーに恋い焦がれるのと同じくらい。ケイネスに、死んで欲しく無かったのだ。

(ああ、そうだったんだ……)

 妖精の囁きに似た、小さな音。それは、自分にしか届かない。確かな確信。

 何の事はない。難しい事も無い。当然だった。何よりも間違った選択こそが、彼女にとって、もっとも自然な選択だっただけ。

 ソラウは、恋をしたことはない。つまらない毎日。ただ、ドラマの隙間を縫うかのように、何事も無く過ぎていく毎日。感動など、感じられなかった。ただの日常、その連続。確かに、恋はなかった。

(けど……)

 またしても、囁き。今度は妖精などではなく、しっかりと自分の言葉の、自分の意思で。

(愛しては、いたのね。咄嗟に、命を賭けて、助けたい程度には)

 つまらないばかりだった毎日。しかし、そこには気付けばケイネスがいた。色んな思い出が、めまぐるしく過ぎていく。子供の頃から、今に近づくにつれて、彼との思い出が増えていった。どれもこれも、つまらなそうな顔の自分。しかし、それで許される空間であった。

 なんでもないものばかり。それが、とても懐かしくて、もう一度味わいたくて。しかし、もう届かない。彼と顔を合わせて、紅茶を楽しむことは、もうできない。

(どうしよう)

 指先が、彼の体から離れた。名残惜しく追っていたそれも、もう終わり。

 終わり際になって、こんな事に気がつくなんて。きっと、ソラウと言う女は、どうしようもない馬鹿だったのだろう。

 離れていくケイネスの顔は、子供の泣き顔のようだった。何度も、情けない顔を見たことがある。しかし、これほどまでに情けないのは初めてだ。こんな顔もするのだな、などと。最後に、新しい彼を見れたことに、感謝をすればいいのか。

 伸ばされる手。しかし、ソラウがそれを掴むことは無い。そんなことをすれば、二人とも死んでしまう。それだけは、絶対に許せなかった。

(こんな時、どんな言葉をかければいいのかしら?)

 生きて、とでも言えばいいのだろうか。それとも、他に気の利いた言葉でもあるのか? 分からない。こんな事ならば、彼ともっと話しておけばよかった。

 だから。

 ソラウは微笑んだ。

 令呪が発動し、ここに飛んでくるランサーに向かってでは無く。己の婚約者。恋してはいない。しかし、愛する人に向かって。

 愛していたと、伝えるために。

 

 

 

 いつから、彼女が好きだったのかは分からない。出会った瞬間、恋に落ちたのかも知れない。幾度も会っていた内かもしれない。どちらでもよく、どうでもいい事。

 事実は一つだった。そして、残酷だった。

 一度目、彼女を助けるために伸ばした手は、逆に彼女に助けられる事になった。そして、二度目に伸ばした手は、届かずに空を切る。

 どれほど伸ばしても、届かない手。蟲に飲まれていく彼女。そして、初めて見る――自分に向けられた、微笑み。

 サーヴァントの召喚は、遅すぎた。ソラウが飲み込まれるのも、ケイネスが絶望するのも。彼女を見捨てて、自分が逃げおおせるのにだけは、十分な時間だったというのに!

「やめろランサーぁぁぁぁ! 戻れ! もどれえええぇぇぇぇ!」

「っ! 申し訳ありません主よ!」

 ランサーに抱えられ、一瞬で遠のいていく地面。短い間ではあったが、家であり――なによりも、ソラウがいる場所。そうだ、そこにはまだ、ソラウがいる。彼女を置き去りにしているのだ。置いていけるわけなどない。やっと、彼女が自分に向かって微笑んでくれたと言うのに。

 押さえ込まれながら、ただ暴れ回った。遠くなる景色。愛した彼女がいる場所。

 そして、いつの間にか。何も見えなくなっていたケイネスは、どこかの屋上で膝をついていた。ただ、喪失に呆然としながら、いつここに着いたのかも分からずに。

 いつの間にか、床の上に転がっていた道具。宝具と、聖杯の欠片と、礼装。こんなもののために、彼女は死んだと言うのか。こんな自分のために、彼女は命をかけたのか?

「ランサー、貴様はなぜもっと速く来なかった! なぜソラウを守らなかったのだ!」

「……」

 ランサーは答えなかった。そして、目も合わせない。

 涙があふれ出る。何故だ、理不尽な世界に対しての怒り。彼女は、生きているべきだった。死ぬのであれば、自分が犠牲になるべきだったのに。

 止められない。何も。自分を自分で、制御できない。

 拳を握り、ランサーに振り下ろした。どすり、という鈍い感触。こんなもの、サーヴァントに効くわけが無い。そして、何の意味も無い。それでも、ケイネスはランサーを殴り続けた。型も何も無い、子供のように、ただ拳を突き出し続けるだけの行為。涙が溢れるのも、八つ当たりも、何も止まらない。どうすれば良いかなど、分かるはずが無い。

「お、お前が、遅かったから! 忠義を、誓うと、お前は、ソラウが、なぜ! 肝心な時に! あああぁぁぁ……」

 ケイネスの拳など、効いている訳が無い。サーヴァントに通常攻撃は効かず、仮に有効だとしても、鍛え上げた英雄に通用するはずが無い。意味が無いことなど、分かっているのだ。

 だから、痛ましい顔をして目をそらすのを、やめてくれ。

「お前が……お前が! 遅かったから! き……貴様が!」

 腕の感覚がなくなっていく。いや、無くなっているのは全ての感覚だ。自分が何をしているのか、もしかしたら、立っているのすら嘘にすら思える。何をしているのだろう。聖杯戦争に参加しているのか? 目の前の男はランサーか? ここはどこだ? 一番嘘のような事実が、自分が生きていることだというのに、何を信じれば、自分を信じられる?

 ランサーの胸に、拳を叩き付けながら……ケイネスは、ついに拳を上げることも出来なくなった。がたがたと震える体を小さくし、そのまま地面に倒れ、蹲る。

 握った手を、地面に叩き付ける小さな音。彼の泣き声は、それよりも小さく儚かった。

「なぜ私は……彼女を殺させてしまったのだ……」

 震える手を、握りしめたまま。力を抜こうとしても、それは堅く閉じたままだった。

 上から降ってくる、ランサーの言葉。

「申し訳ありません、ケイネス様……。私が、ふがいないばかりに」

「やめろぉ!」

 それは、怒りだったのだろうか。分からないが、ただ、激情ではあった。

 あふれ出たそれが、ケイネスを立ち上がらせる。目の前には、彼女が好きだといって止まなかった美丈夫。もう、己のサーヴァントに対する、嫉妬の感情はなかった。ただ、やるせなさが、どうしても止まってくれない。

「ソラウは私を庇って死んだ! 私を、庇ったんだ! 私は、庇われなければならなかった……。私が、弱かったばかりに……」

 両手で顔を抱える。そして、強く押さえ込んだ。こんな顔で、こんな意思で、どうして見せられようか。

「なあ、ランサー……。なぜ私は……こんなにも弱いのだ」

 帰ってくるはずもない答え。

 それが、騎士としての忠義らしいのか、ケイネスには分からない。だが、ランサーは一言も発すること無く、その場に立ち尽くしていた。嗚咽を漏らし続ける主を、待ち続けていた。

 やがて、ケイネスは腕を開く。一言で言って、酷い顔だ。涙で濡れた顔より何より、死期が間近にせまっている、そんな顔色。それでも、瞳にだけは、強い意志を宿している。

「ランサー、いくぞ」

 どこに行くのだ。ケイネスは自問する。これで、ソラウの所に、とでも言えたらどれほど楽だったであろうか。少なくとも、胸を突き刺す苦しみは考えなくて済む。そして――彼女に笑顔の理由を聞いてみて、答え次第で浮かれるのも良いし、嘆くのも良い。そして、いつものようにお茶でもするのだ。そんな都合の良い妄想をしていられる。

 けど、だめだ。もう少しだけは。

「はっ」

 小さな返事をして、ランサーが答えた。

 フェンス際にまで寄って、ケイネスは夜の街を見下ろす。そこは、市民会館に比較的近い場所らしく。僅かな光に、倒壊した巨大建築物の輪郭が見えた。そこには、あるいはその近くには。ソラウをこんな目に会わせた犯人が、必ずいる。

 それは、魔術師としての矜持であり、義務であった。しかし、その中に。

(君をこんな目に遭わせた事への、恨みくらい乗せてもいいだろう?)

 もう聞く者がいない言葉を、胸中で呟いた。誰にも、本人にすら看取られること無く、言葉は露と消えて。

「奴を倒す。そのための魔術礼装を作る時間を、全力で稼いでこい」

「承知しました、我が主ケイネス様。……今度こそ、この槍と命にかけて」

 ランサーが跳ねて、消えていくのを目にしながら。その向こうには、もうソラウが居ないことを自覚して。

 彼は再び、魔術礼装に魔術を撃ち込み始めた。ぼやけて見えぬ視界を、強引に働かせながら。強力に、完璧に。

 今度こそ、彼女のような犠牲を出さぬ為に。

 

 

 

「くそっ、どうすりゃいいんだ!」

 俺は叫びながら、目の前の波を睨み付ける。

 そう、波だ。あれはもう、蟲の群れなどという生易しいものではない。サーヴァント三体の努力で、人の少ない方に押し込んではいるものの。戦況は全く改善していなかった。

 一体一体の能力は、直に触れさえしなければ大したことは無い。まあ、数万、数十万という数が居て、一体が驚異でたまるかという話だが。問題は、拡散しすぎてて殲滅しきれず、いくらでも湧いて出てくる事。一匹でも放っておくと、勝手に増殖するのだ。そして、弱点である聖杯の所在が不明な事だった。

 ちなみに、この時点で聖杯で願いを叶える事は諦めている。生き汚い自覚のある俺だが、さすがに大量虐殺をしてまでそれを成そうとは思えない。

 まがりなりにも、天秤が釣り勝っている理由。それは、アンリマユ側が本腰を入れていないからだろう。

 詳しくは全く分からないのだが。今のアンリマユは、ただの水を間桐臓硯というホースで勢いをつけているような状態らしい。どちらの方が強力なのか、というのは、元のアンリマユを味わっていない俺には分からないが。少なくとも、使いやすくはなっているのだろう。上手く戦力を拡散して、少ない量で殲滅されていない、という点からも窺える。

 ただし、それでも欠点らしき部分はあるようで。どうも、サーヴァントの気配が一点に集中しているのだ。恐らくそれが、間桐臓硯本体なのだろう。

 相手が本腰を入れていない、と言った理由は、この点にある。一定以上の量を出すと、間桐臓硯の気配がはっきりしてしまうのだろう。つまり今の状態が、居場所を悟られないギリギリの量だという事だ。もう少し分かりやすくなっていてくれれば、エアをぶち込んでやったと言うのに。

 それに、一緒に戦っているサーヴァントも問題だった。

「ライダー! お前もう少し何とかなんないのかよ!」

「無茶を言うな。これは、余の天敵のような能力をもっているのだぞ」

 俺の絶叫に、涼しい声で、とまでは言わずとも、淡々と答えるライダー。ただし、表情には僅かに渋いものが混ざっていた。

 この、対聖杯臓硯という戦場で、一番役に立っていないのがライダーだった。縦横無尽に空を走ってはいるのだが、攻撃対象は漏れ出たものを削る程度でしかない。早い話、戦車で直接触れられないのだ。攻撃はあくまで、余波の雷撃のみで行っている。当然、魔力を調整して雷撃の量を増やす、くらいはしているのだが。それでは焼け石に水だ。

「戦車の攻撃方法は、触れて吹き飛ばす、なのだぞ。こんなもんに触れたら、一瞬で穴だらけになっちまうわい。貴様こそ、宝具をそんなに大盤振る舞いして大丈夫なのか?」

「俺の宝具は、想定した機能が停止した瞬間、あらかじめそのまま残しておくつもりでもなければ、勝手に戻ってくる。それこそ、一瞬で破壊されれば話は別だけどな」

「くぅ、流石は最古の王、ギルガメッシュ。良いもの持っておるわい。やはり余に下らぬか?」

 心底悔しそうに喉を鳴らす。ある意味、恐ろしく余裕がある男だ。

「何でもいいから後にしろ!」

「そいつを言質と取るぞ!」

「いやそれは違うだろ!」

 声を上げる気力もなくなって。俺の代わりに言ったのは、ウェイバーだ。あらゆる意味で、息の合った二人だ。当然皮肉である。

 そして、ライダーは戦車で走り、撃ち漏らしを中心に狩るのだが。やはり、火力に比べて殲滅量が少なすぎる。これならば、地面で走り回りながら戦っているランサーの方が、まだ力になっているくらいだ。実質的な火力が、飛行宝具で飛び回り宝具を降らせている俺だけになっている。

 仕方が無いと言ってしまえば、それまでなのだが。ライダーには、聖杯臓硯に有効な手立てが無い。戦車のような、大ざっぱで面積の広いもので接敵すれば、確かに一瞬で食い尽くされるだろう。王の軍勢であれば広域に渡って隔離してくれるが、その代わりにただの餌場と化す。

 これは、ランサーとライダーのスタンスが違う、というのも関係している。接近されても、卓越した技術と速度で何とかする自信のあるランサー。対して、接近されれば力押しでなんとかしなければならないライダー。どちらが優れている、という話では無い。質より数で来られれば、前者が有利だ、というだけの話だ。同時に、この場では致命的な問題でもある。

 そのランサーも、寸前まで戦っていたセイバーとの影響で、槍捌きに陰りが見える。事前に俺が治療をしたのだが、それでも完治とは言い難く。素人目に見ても、左が動いていなかった。

「こんな時に、セイバーがいればな……」

「無い物ねだりをしても仕方があるまい。それに、あやつとて無関係ではないのだ。気付けば応援に来る」

 分かってはいるのだが、それまでがもどかしすぎる。

 風王結界であれば、蟲の中に入り込む事も不可能ではないだろうに。そうすれば、聖杯化した臓硯の発見はともかく、言峰綺礼を見つけられる筈だ。エクスカリバーであれば、戦車のように、蟲に触れられる心配をする必要もない。

「ランサー! そっちは、と言うかケイネスの方はどうなってるんだ!」

 同じく空を飛んでいるライダーに比べて、距離の離れているランサー。彼に声が届くように、声を張り上げる。

「主からの伝言だ。「もう少しで礼装が出来上がる。それまでどうにかして耐えろ」との事だ」

「気軽に言ってくれて!」

 筋違いな怒りだ。むしろ、立場ではこちらが頼む側である。しかし、それだけ余裕が無いのだ。

 状況は互角か、ややこちらが有利な様に見える。しかし、この釣り合いが維持できる時間は、そう長くない。サーヴァントの戦闘持続時間は、マスターに依存するからだ。

 まだ限界は見えていない。しかし、それは俺のマスターが、通常に比べて遙かに多い魔力量を持っているからだ。この調子で進めば、魔力量が少なく、燃費が悪いサーヴァントを持つウェイバーから潰れる。そうなれば、蟲の取り逃がしが発生し始めてしまうだろう。

 市街地に抜けた臓硯が、どんな行動に出るのか。片っ端から人を食い尽くすのか、それともどこかに本体を潜ませるのか。想像できる行動の範囲が広すぎて、対応できない。そうなれば、いよいよ街ごと消し飛ばす事も、考える必要が出てくる。最後の手段としても、考えたくない行為。それでも、聖杯戦争に参加した者としての、義務ではあるのだろう。被害をここ以外に広げる訳にはいかない。

 とにかく、今取りうる手は全て取っているのだ。その上で、事態が進まない。いらだたしさに、舌打ちが漏れた。

「アーチャーよ、そう短気になるな。殺気立っておっても、状況は何も変わらぬぞ?」

「分かってはいるんだけどな……」

 自覚はあるのだ。たしなめられて、それを止められる訳が無い。

 この辺が、ただの一般人と英雄の差なのかも知れない。

「余らが押し込みきってしまえば、奴らとて本腰を入れざるをえん。ランサーのマスターが用意している、切り札が届いても同様よ。こんなものは長く続かん、必ずどこかで破綻する」

 それまで押しとどめるのが、我々の役割。全く持ってその通りだ。そう分かっていても、それで焦りが無くなるわけでは無い。

「しばらくはこのままか……」

「祈れ。言峰綺礼とやらが信じた神以外にな」

 気の利いた皮肉に、思わず笑みが漏れた。確かに、そんなものに祈れば、上手くいくものも上手くいかなくなる。

 いくらか余裕を取り戻せた。再度黒い蟲に集中して、広範囲に宝具の雨を降らせる。移動している分を含めれば、数キロという広範囲の戦線を、カバーしなければいけないのだ。集中力はあって足りない事は無い。既にいくつものクレーターが作られ、悲惨な姿になっている空き地。そこに黒い影が潜り込めば、戦場ですらありえないような高火力爆撃を降らせる。

 少なからず宝具が破壊される事も考慮していたが、今の所その心配はない。対魔力、対エーテル攻撃能力は高くとも、物理的な攻撃力は虫に毛が生えた程度。殆ど物質となっている宝具を、破壊する手段は無い様子だ。もしくは、あっても一つ二つ壊したところで意味が無いと割り切っているか。

 一度端まで飛び、飛行宝具をターンさせる。丁度、その時だった。北側、つまり背後から、太陽にも似た光が溢れたのは。

「あれは、恐らくセイバーの宝具だな」

「これがエクスカリバーなのか!?」

 ウェイバーは、純粋にエクスカリバーの発動に驚いた様子だが。俺とライダーは違う。

 ここからずいぶん離れた高台の道、そこで宝具が発動された。つまり、彼女らにも聖杯臓硯が攻撃を仕掛けた可能性が高い、という事だ。馬鹿な……思わず絶叫しそうになる。

「サーヴァント三人の目をかいくぐって、蟲を切り離したか? 分体とて、濃くはないが、サーヴァントの気配がするのだぞ。ただでさえ器用な真似ができなそうなあれに、そんなことが可能なのか?」

「もしくは、お前が離脱した僅かな隙に、ありったけの蟲を忍ばせておいたか……やってくれる、言峰綺礼に間桐臓硯」

 今度こそ、舌打ちを押さえられなかった。体が浮ついて、街に駆けつけそうになる。

「アーチャー、早まるなよ! これだけ吹き飛ばされて、なお数を用意できると言うことは、奴らは確実にここにいるのだ。我らが離脱して逃がしてしまえば、それこそ取り返しが付かなくなるぞ!」

「分かっているさ!」

 だから、こうして腰を浮かしただけで堪えているのだ。

 間桐臓硯、そして言峰綺礼。本編でも、凶悪な人間を上から数えるのであれば。誰に聞いても、必ず上位にいる二人。それが合わさると、これほど厄介だとは思わなかった。

「それにしても、余が策略でことごとく遅れを取るとは、やってくれる!」

 称賛半分、怒り半分に、ライダーが吠える。

 臓硯と綺礼、どちらが主導してやっているのかは分からないが。ことごとく、裏をかいてくる。こちらが立てておいた保険のおかげで、なんとか保っていたと言うのに。保険をかけた分すら、消えようとしていた。

 俺の、最大の間違い。間桐臓硯を、倒したか倒してないか分からぬ状態で、放置するべきではなかった。草の根をかき分けても探しだし、確実に仕留めておくべきだった。

「あ、主!? っ……すまん、ここは任せる!」

 返答する間もなく、ランサーは己の体を疾風に変えた。

 悪いことは重なる。しかし、それは運では無い。全て、彼らが企んだ事だ。

「押さえきれぬぞ!」

「仕方がない! ここでケイネスに死なれたら、切り札を失う事になる!」

 漏らした蟲は、街に進行するだろう。僅かな数でも、それがどれだけ拡大し、被害者を生み出すか。想像すらできない。

 背後では、またしても星の光が輝いていた。連続する光の意味は、考えるまでも無い。孤立したセイバーを倒してしまえば、聖杯の力はさらに強まる。それだけでも、バランスを崩すには十分だ。少なくとも、戦線が崩壊すれば。俺たちが守りを諦めて、聖杯の破壊をなし得るまで。果たして、この街に人は残っているだろうか。

 と、ここで急に、違和感に襲われる。俺は、何かを忘れているのではないだろうか? 何か分からない。ただ、それはとてつもなく重要で……

 そして、俺からは遠すぎる、しかし戦場から近すぎる場所に。ここ数日ですっかり見慣れた、少女の姿を見た。

「桜ぁ!」

 そうだ、マスターであるケイネスが襲われているのであれば、桜も同様に襲われていない筈がないのだ。

 ラインの繋がりは感じ、魔力も供給されている。しかし、それ以上は分からないのだ。桜との連絡手段は一方通行で、緊急時に使えるようなものではない。そもそも、拠点の守りを抜かれる事自体、想定していなかったのだ。大量の宝具で守られた要塞など、普通は攻略できない。数少ない例外が、出現してしまった。

 宝具を急降下し、必死に走っていた少女の体を抱える。それと、完全に同時だった。蟲から感じるサーヴァントの気配が増して、同時に数を十倍以上に膨れ上がらせたのは。

 飛行宝具が一瞬で飲み込まれ、魔力を吸い尽くす。機能を維持できなくなった宝具は、すぐさま王の財宝に収容された。今から別の飛行宝具を用意しても、間に合わない。すぐに食い尽くされるだろう。

 四方八方上下左右、あらゆる方向の区分を無視して、襲いかかる群れ。全方位に宝具を乱射して、片っ端から吹き飛ばす。それですら、小ささと数を生かして、宝具射出の隙間から接近してくる蟲。常に数万という虫が取り囲み、押し潰さんとする状況では、それもかなりの数になる。しかし、ギルガメッシュは道具の多さが売りなのだ。すぐに叩き潰してやろうとして……

「ひぃ――」

 胸元から響く、小さな悲鳴を聞いた。

 感情を失っていた少女と、同一人物だとは思えないほどに――恐怖に引きつった顔。そして、明らかに彼女を狙っている蟲。

 異空間から、武器を取り出そうとしていた手。それをとっさに引いて、かわりに桜を守るよう抱きかかえた。飛びかかる虫の殆どは、鎧に弾かれたのだが。数匹、鎧の隙間を縫って、体に齧り付いてきた。

「がっ、あ!」

 痛い、痛い、痛い! それ以外に何も考えられない。バーサーカーとの戦闘時に喰らったものなど、比べものにならない苦痛。ダメージで言えば、それでもバーサーカーに貰ったものの方が多い筈なのに。肉を分解しながら食われる感触が。なにより、間桐臓硯の人を苦しめる手腕が、何でもないダメージすら、強烈な痛みに強制変換される。

 痛みに脳の血管が千切れそうになりながら、蟲を掴んで握りつぶす。じんじんと響く右腕を自覚しながら、しかし桜を強く抱いた。

「ご……ごめんなさい……あ、ぁ……ごめん……なさい」

「っ、う……お前は何も悪くない。だから、何も心配するな」

 普通の子供のように泣きじゃくる桜をあやしながら、宝具展開の比率を変えた。

 攻撃用の宝具を減らして、防御用の宝具を多数展開する。火力の目減りは目を覆うほど。しかし、これで桜の安全はある程度維持できる。しかし――蟲に群がられている現状、ここから脱出する術がない。奴らの物量は、減った攻撃能力を上回られた。

 一人であれば、強引に抜け出ることも出来ただろう。しかし、桜を抱えたままそんな真似をしてみれば。撃ち漏らした蟲が、容赦なく彼女を食い殺すだろう。完全に手詰まりだ。

「ああ、くそったれ! それが目的かよ!」

 間桐桜は、魔力供給源としては優秀でも、マスターとしては三流だ。魔術支援が不可能で、令呪も使用不能。戦場に連れて行けば、確実に足手まといになる。

 だから、奴らはこう思ったはずだ。アーチャーは単独行動スキルがある。今マスターを殺した所で、他のより優秀なマスターと組まれては、より厄介になってしまう。ならば、足手まといになるマスターをわざと残し、サーヴァントの元へ向かわせてやれば。即座にマスターを殺すほど非情で無ければ、りっぱな枷になってくれるだろう、と。

 全く持ってその通りだ。俺は、何が何でも絶対に桜を見捨てられない。少し前までならばともかく。もう、ただの魔力供給源だなんて、そんなふうに彼女を見られないのだ。

「ごめん……なさい。ごめ……」

「大丈夫だ、何も心配いらない。謝る必要も、理由も無い。大丈夫だ」

 確証のない言葉。刻一刻と削られていく魔力。気休めで誤魔化すにも、限界が近い。

 状況を打破するならば、外の変化に期待するしか無いのに。その期待は、どう考えても勝算の低いものだった。

 いざとなれば、せめて、桜だけでも。自分が生き残る道筋を見失った俺は、ただ桜を守ったまま。終わりの時を、覚悟した。


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