5.しんえんアーチ(前)
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:13
東四局0本場
【南家】片岡 優希 : 1900
【西家】須賀 京太郎: 4700
【北家】宮永 照 :85400
【東家】石戸 月子 : 8000
意識が沈澱していく。石戸月子の精神の表層に、いま、言語的な思考は浮かんでいない。最前の和了もまた、明確な根拠に基づく仕掛けではなかった。両立直・チャンタ・一益口を見切り、照の劈頭を叩いて得た2巡目和了だったが、その内実は紙一重である。ただ身体が鳴くべきだといった。だから月子は鳴いた。思考はほとんど用をなしておらず、感覚が和了に手を届かせた数十秒だった。
(目眩が止まない)
月子は『運』を感覚的に捉える少女である。その実感は誰とも分け合うことはできないし、それが事実であると証明する術もない。運の多寡は、やはり結果でしか論じ得ない。
つまり、月子が
(吐気が止まない)
月子は瞑目する。
目を閉じた瞬間、彼女が持つ前後左右上下の見当識はあっさり散じた。血が頭から下がったときのように、月子の身体はつかの間、重力のくびきから解き放たれる。『月子』は希薄になる。精神が希釈され、広がり、卓上へ感覚の糸を伸ばす。今しがた内部に落とし込まれた東三局7本場の牌の群れが、音を立てて洗われているのが『月子』にはわかる。34種136枚の牌が踊り、廻る。ユリア樹脂性の牌の内部に固められた磁石と、自動卓に組み込まれている磁石の磁力が引かれ合う。牌は卓内の機構に吸い込まれ、回転し、整えられて積みなおされていく。
都合5局を経た牌に、この場に座る四人以外の残滓はかすかだ。片岡が触れた牌、京太郎が触れた牌、照が触れた牌、そして月子が触れた牌。あるいは複数の指が触れた牌(逆に、ほんのわずかだがだれにも触れられていない牌もある。照の和了が早すぎるせいだった)。けれども問題になる程度ではない。
人には運がある。場には運がある。ものにさえも運はある。それは色素のようなものである。他の干渉を受け、ときには自分の色さえ変える。しかし、人が、場が、ものが固定された状況においてはそうではない。運は固着する。それが『流れ』になる。『流れ』は山、手牌、そして摸打に現れる。それを月子はつぶさに捉えることができる。
――後先を顧みなければ、手を加えることさえできる。
どころか、そもそも、月子に宿ったものの本質は
捏造した幸福を、わざとらしい不幸の温床にするのが月子のちからだった。
たとえば、月子は物心ついたころ、近所の寺で産気づいた野良猫の世話をしたことがある。野良猫は可愛らしい子猫を四匹産んだ。月子はやはり動物だろうと他の生き物に触れることを避けていたが、小動物のわかりやすい愛嬌はそれなりに彼女を虜にした。月子は足しげく猫の親子のもとへ足を運んだ。なけなしの小遣いをはたいてそれとなく餌を恵んだりもした。彼女にしてみれば単純な善意の所産に過ぎない行為だった。生まれつき自分の
そして二ヵ月後には皆、どうしようもない不運のせいで死んだ。
たとえば、月子の母は、過労とストレスで病み、疲れていた。それこそ別れた夫に頼ることを余儀なくされるほど追い詰められていた。月子と母の家族仲は、結局良好とはいえないものだったが、それでも月子は母が嫌いではなかった。少なくとも死んで欲しいとは思っていなかった。だから月子は、細心の注意を払って、遠まわしに、ゆっくりと、そうとわからぬ程度に母の周囲の運気を改善させることにした。直接母の運勢に手を加えれば、あの猫たちのように何かしら良くないことがその身に起きる可能性がある。それを警戒して、月子は一つ一つ地歩を固めるように環境に手を加えた。何かが起きたとしても、その矛先が母に向くことが決してないよう、慎重を期した。数カ月がかりの仕事だった――やがて母は奇跡的に体調を回復させた。苦労が実ったと、月子は人知れず達成感に酔った。
そして母は心を壊した。
(頭痛が止まない)
あの夏の日の麻雀スクールで、絶好調だった自分が無意識的に行ったガン牌を月子は想起する。あのとき、彼女は指紋をしるしに牌の見分けを行ったと考えていた。そしてその当て推量は、あながち外れてもいなかった。ただし月子がガン付けしていたのは目に見えるしるしではない。牌のそれぞれが持つ『運』のコントラストを見極めていたのである。
何しろあの場には、異常な運を持つ池田華菜がいた。『流れ』に不自然な偏りを仕込む南浦数絵がいた。ここ一番でおかしな歪みを生じさせる花田煌がいた。そして、驚くほどに何もない須賀京太郎がいた。つまり、期せずして月子が見分けやすい場が成立していたのである。月子のガン付けは、際立った性質を持たない打ち手だけで構成される場では機能しない。また条件を満たしていたとしても、二回や三回半荘を打った程度では場の『流れ』も固着しない。ようするに短期戦では、何ら意味を持たない異能である。
ただし、今日この場には宮永照がいる。
照は、月子の感覚においては人間ではない。その存在感で皓々と場を照らし支配する彼女は、現象に近い。照は自分のルールに基づき牌を求め、そして彼女を愛する牌は容易に求めに応じる。裏目や捩れはそこにない。照が打つ場には、本来麻雀にあるべき歪みが極めて少ない。
宮永照は強すぎる光である。
だからこそ月子は仕掛けを打ちやすい。
(悪寒が止まない)
腹の底で、月子が生来抱える不快感の塊が鎌首をもたげる。
彼女が存在を始めた瞬間――母の胎内で名前さえ持っていなかった時分に
(動悸が止まない)
開門まで自動的に行う全自動卓のうえに、東四局0本場の山がせり上がる。月子は浅く速く呼吸を連ねる。耳の裏側を流れていく血液が立てる音に彼女は耳を済ませる。唾液を何度も喉へ送り込む。目を開く。すると景色が回転して見える。
(焦点が定まらない)
対面に須賀京太郎がいる。かれの表情に変化はない。勝敗は麻雀に興じる誰にとっても常のことだ。手ひどい負けの百や二百を、誰しも経験している。信じがたい不調や出来すぎな幸運に、誰しも覚えがある。かれはそれを知っている。だからそういうものだと思っている。それは全く正常な感想である。同じ状況が十度続けば異常を悟るかもしれない。そして宮永照は同じ状況を何度でも再現できる。そのときかれが何を思うのか、本音を言えば、月子は少しだけ興味がある。
下家に片岡優希がいる。表情は冴えない。集中力は途切れている。なまじ感性が鋭いだけに、京太郎よりもよほど正確に照の脅威を捉えている。けれども場はまだ東場で、だから彼女の『流れ』は終わっていない。片岡にその気がなくても牌は寄る。それは照の和了が何度続いても変わらない。照の領域と片岡の領域は、いまのところ共存に矛盾が生じるものではない。
上家に宮永照がいる。背筋を伸ばし、目の前の対局に心を向けている。連荘を断ち切られた彼女に何ら動揺は見出せない。
照を見た『
照を見た『
その感想は、いずれも正しく、いずれも誤っている。
定まらない視界で、月子は各人の手牌を視る。
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
配牌
月子 :{八九⑦⑦⑨333345北北北}
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
配牌
片岡 :{■二■七七■九①⑧■46■}
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
配牌
京太郎:{三三■七九③■12■南西■}
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
配牌
照 :{四四五六六④⑥56678北}
じゅうぶん以上に、よく視えた。
ただし、山は視えないままである。月子自身がここ数ヶ月で解明したこのガン牌の理屈に沿えば決して視えないものではないはずだが、それでも視えたことはない。元より不可思議な現象だから、万事説明がつくとは月子も思っていないが、何となく、山や王牌が
(牌は視えてる。貴女の運も翳ってる。わたしはわたしの運を使い切る。この一局で弾切れになるけれど――これでようやく、少しは戦える)
彼女は思う。
(勝負よ、宮永さん――)
――何をしたところで敵わないことは、もちろんわかっている。
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
配牌
月子:{八九⑦⑦⑨333345北北北
打:{⑨}
初巡、
山に{七萬}が生きていても、面前では決して自摸和了できないという
精神が、鑢に掛けられるように、刻一刻と消耗して行く。
月子は血眼になって他家の手牌を透かし見る。悪化する体調は、歯を食いしばって耐える。それでもあと数分も持たないであろうことを、月子は感覚的に理解した。
(
霞む目の裏側に、宮永照の顔を焼き付ける。その顔が少しでも歪む未来を想像して、月子は口元を引きつらせた。
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
1巡目
片岡:{一二二七七八九①⑧⑨46白} ツモ:{9}
(ようやくおねーさんの親が終わったじぇ……)
{打:白}
苦い顔で、片岡は牌を打つ。心は倦んでいる。この対局を続けることに、彼女は意義を見出せない。東場はじきに終わる。南場になればますます勝ち目は薄くなる。片岡の負けん気は十分に強いが、ここで息を吹き返すことの至難さが判らないほど不屈ではない。
(悔しいけど、悔しいけど――もう終わったほうがいい。だって、苦しいし……つまんない――)
こんなときもある。それが麻雀である。大敗を次に引きずらない切り替えの早さを、彼女は生来的に備えている。
(でも――終わって、それで、どーするんだろ)
けれども問題は、対面の少女に、自分が勝つ光景がどうしても想像できない点にある。
(また、このひとと、打つのか――?)
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
1巡目
京太郎:{三三五七九③⑥12東南西中} ツモ:{⑤}
(まいったな)
と、京太郎は思う。
(手の打ちようがねえぞ、これは)
八万点の差を、覆す方法が思い浮かばない。役満を直撃しても差せないとなれば、事実上親で連荘を重ねるしかない手はない。けれどもこの面子でそれをすることの難しさを、かれはじゅうぶん知っている。
(ツイてるだけなのか? それとも、
右手に見える照の横顔は涼しげである。平然と本場を重ね、それが途切れたところで何の痛痒も感じていない。泰然という言葉を少女の形に押し込めたような風情だった。
胸の内には空虚な風が吹いている。かれにとっては馴染みの無力感である。尽くすだけの手を尽くして、届かないことなど世には五万と転がっている。越えられない壁は厳然と、しかもいたるところに存在している。月子の言が正しいのならば、照はそうした壁の一つだ。
(――でもおれは、麻雀にそんな壁は、ないと思うんだ)
それが事実でも幻想でも、かれには関係がない。照がどういった存在だったとしても、かれに影響を与えることはない。京太郎の世界は内側で閉じている。石戸月子が京太郎の姿勢を案じるのは、京太郎の麻雀への入れ込みが健全なものであるという誤認があるためだった。
(それにしても、なんかやってんのかアイツ)
照とは対照的に顔色が悪い対面の月子へ、京太郎は視線を移す。血色が完全に顔から失せて、青白い頬は死体を連想させるほどだった。眼球は険しい光を宿して、自分の手元や河ではなく、他家の手牌の背に向いている。
この土壇場で、古式ゆかしい理牌読みを試みている、というわけではなさそうだった。それにしてはあまりに目の色が必死で、視線が露骨である。理牌読みは気取られた時点で意味をなさないどころかリスクさえ孕む。確実性にも乏しい。
となると、他人の牌を凝視する理由など一つしかない。
(もしかして、ガン牌か――?)
{打:南}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
1巡目
照 :{四四五六六④⑥56678北} ツモ:{三}
山から牌を自摸った照は、右手の{三萬}を二秒きっかり眺め、次いで、浮き牌の{北}に目を落とす。手牌は横に伸びたがっている。{北}に縦を引ける気配はない。山にいる様子もない。残す意味は欠片もない。
だからこそ彼女は、そこに作為を感じた。
前局の{一萬}がまさしくそうだった。
(………)
打:{⑥}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
2巡目
月子:{八九⑦⑦333345北北北} ツモ:{一}
打:{一萬}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
2巡目
片岡:{一二二七七八九①⑧⑨469} ツモ:{1}
打:{4}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
2巡目
京太郎:{三三五七九③⑤⑥12東西中} ツモ:{發}
{打:東}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
2巡目
照 :{三四四五六六④56678北} ツモ:{8}
打:{④}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
3巡目
月子:{八九⑦⑦333345北北北} ツモ:{東}
{打:東}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
3巡目
片岡:{一二二七七八九①⑧⑨169} ツモ:{8}
打:{6}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
3巡目
京太郎:{三三五七九③⑤⑥12西發中} ツモ:{發}
{打:中}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
3巡目
照 :{三四四五六六566788北} ツモ:{⑤}
「――――」
打:{⑤}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16
(アヤが――ついた)
上家の面子被りに、月子は確かな手ごたえを感じた。照は間違いなく月子の『仕掛け』に気づいている。詳細まではわからずとも、前局の不自然な被弾は照に警戒心を植え付けたはずである。だからこそ手の内で露骨な孤立牌である{北}を打たずにいる。手順に則り真っ直ぐに和了へ向かって劈頭で{北}を打っていれば、照の牌姿はこの巡目で、
{三四五六六④⑤⑥56788}
となっていた。どうとでも和了に向かえる牌姿である。ふたたび照の連続和了の皮切りとなったことは想像に難くない。
そして、さすがに月子も翻牌のバックも期待できない牌姿から役無しの大明槓を仕掛ける心算はなかった(嶺上に最後の{七萬}が埋まっていれば話は別だが、嶺上牌はガン付けできなかった)。つまり、照の警戒は杞憂である。
(それを防げただけでも大きい……)
異様に冷えた心地のする首筋に触れながら、月子は山へようよう手を伸ばす。摸打を繰り返すだけでも注意が必要だった。無理が祟り、気を抜くと吐瀉しかねないほど体調が悪化している。
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
4巡目
月子:{八九⑦⑦333345北北北} ツモ:{6}
(出来すぎの自摸――)
苦笑を浮かべる余力もない月子は、有効牌を引き寄せる感覚に、少しだけ浸る。
打:{九萬}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
4巡目
片岡:{一二二七七八九①⑧⑨189} ツモ:{三}
(牌が集まってくる)
消沈した意気に、自摸った{三萬}が眩しく感じる。片岡は遣る瀬無い気持ちになる。牌の気まぐれに振り回されている自分が、どうにも可笑しく感じられて仕方がなかった。
(まだ、いけるのか?)
自問したところで、答えはないに決まっている。
(でも――まだ、東場だじぇ)
勝てないまでも、一矢を報いることはできる。
打:{二萬}
熾火を胸に宿して、片岡はつよく牌を打った。
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16
(
場況と手元を比べて見て、京太郎は嘆息した。
(向かっていける手牌じゃねえ)
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
4巡目
京太郎:{三三五七九③⑤⑥12西發發} ツモ:{西}
打:{③}
(手を狭めても、廻せる形に仕上げる――)
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
4巡目
照 :{三四四五六六566788北} ツモ:{9}
打:{8}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17
(ヨレまくってるわね、宮永さん――そんな経験、どれだけある? せいぜい、堪能して頂戴)
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
5巡目
月子:{八⑦⑦3333456北北北} ツモ:{⑧}
({⑧}――)
引いた牌を盲牌して、月子はつと河へ目をやった。
河:{⑨一東九}
憔悴に塗れた瞳に、皮肉の色が浮かぶ。
(ズルして運がよくなっても、わたしが下手なら、裏目もある、か)
打:{⑧}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
5巡目
片岡:{一二三七七八九①⑧⑨189} ツモ:{八}
自摸った牌に、片岡は熱を感じた。過去にない感触だった。向聴の変わらない{八萬}引きが、一辺に目路が開けたような感覚を伴っていた。
(なんだろう、コレ)
打:{1}
(――追い風みたいだじぇ)
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
5巡目
京太郎:{三三五七九⑤⑥12西西發發} ツモ:{南}
{打:南}
他方、京太郎は苦しい体勢であった。自風の{西}か{發}を叩かねば、和了への見通しも立たない。ただし叩いたところで急所が残る。足が速い他家に抗するには、良形が最低条件である。
(
疑念と共に、辺{3}の塔子を見やる。場を一頻り眺めると、京太郎は軽く息衝いた。
(――ここは手仕舞いだ)
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
5巡目
照 :{三四四五六六566789北} ツモ:{③}
打:{③}
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17
(なんて自摸してるのよ……)
上家が河に並べた筒子の中張牌を、月子は苦笑と共に見送る。こうなってくると、照が頑なに抑えている{北}が気になった。月子自身は感知し得ない嶺上を照は見通しており、そこに月子の和了が埋まっているのかもしれない。そんな気分にさえなってくる。
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
5巡目
月子:{八⑦⑦3333456北北北} ツモ:{六}
(結局{七萬}待ちかぁ)
憔悴に濁った瞳を一度伏せて、月子は口角を吊った。この愚形と心中する覚悟を固めたのである。形は歪でも、それは照の洞察に対するある種の信頼だった。
仮に嶺上に最後の{七萬}が埋まっていたとして、いまここで{3}を暗槓することはできない。最低でも6000オール、槓ドラが乗ればさらに上もありうる――つまり対局が終了してしまう。けれども、仮に役満を自摸和了ったところで照を捲くることはできない。仮に和了るのであれば、照から出和了るしかないのである。
そして肝心の照はというと、非効率としかいいようがない迂回を迷わず実行し続けている。{北}だけは切るまいという堅牢な意思を表明し続けている。
(たぶん、きっと――)
奇妙な確信と共に、月子は{6}を手から抜いた。
打:{6}
同卓してまだ一時間足らず――けれども月子は、照が自らの麻雀暦において指折りの打ち手だと確信していた。成長性まで見込めば、過去どころか未来を含んでも照以上の相手と見えることはないかもしれないとまで思った。こんな片田舎の、牧歌的な小学校で出会える手合いではとてもない。照との遭遇は月子にとって何ら益するものはなかったが、それも心持次第だった。
(わたしが)と、月子は思った。(これからも
いつしか、京太郎を案じる心情よりも、照に対するある種の反骨精神が月子の思考を占めつつあった。肉体と精神の不調が彼女から暖色の感情を削ぎ落としていた。対人関係の処方が改善されようとも、月子は本質的に利己的な人間である。追い詰められれば攻撃的な側面が主張を強め始める。
真っ当なやり方では、照に勝てないことはわかっている。
だからといって、尻尾を巻いて白旗を振ることは、石戸月子の流儀にない。
「ふゥ――」
嘔吐の衝動を深く細い呼吸で逃がしながら、月子は頭上に灯る黄色い電球を見つめる。震える手を握る。京太郎を見る。年下で異性の友人は、相も変わらず麻雀に夢中だ。意外に聡いかれは、おそらく月子の変調に気づいているが、それを口に出したりはしない。月子が気遣いを嫌うことを知っているからだ。
(あなたみたいに、須賀くん――わたしもちょっと、打ってみようかと、思うわ)
止まらない額の冷や汗を親指で拭うと、月子は目前の対局に没頭した。
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:22
その後の東四局は、奇妙なほど平穏で、動きがなかった。拍子のように摸打が繰り返され、誰の仕掛けも発声もないまま、ただ巡目だけが進行した。
月子は照を強く意識し続け、照は聴牌を見送ってまで{北}を抱え続けた。互いに互いの牌勢を過敏に察するがゆえの膠着が生まれた。
その中で打牌が目だったのは片岡である。序盤から聴牌気配の濃い月子の河には目もくれず、ひたすらに中張牌を切り続け、老頭牌がこぼれたと見えた13巡目、彼女は何の迷いもなく、
「――立直」
と、いった。
その発声を受けて、月子は嘆息する。
照は無表情で、手に止め続けた{北}に触れた。
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:23
東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 裏ドラ:{北}(ドラ表示牌:(西})
14巡目
片岡:{七七八八九①①⑦⑧⑨789} ツモ:{九}
「ツモ……」
どこか疲労の滲んだ――東一局とは全く様変わりした形相で、片岡は和了を宣言した。
「4000・8000!」
▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:23
東四局0本場
【南家】片岡 優希 : 1900→17900(+16000)
【西家】須賀 京太郎: 4700→ 700(- 4000)
【北家】宮永 照 :85400→81400(- 4000)
【東家】石戸 月子 : 8000→ 0(- 8000)
「立直も……掛けられなくなったわね、お互い」
億劫さを隠そうともせず、月子は京太郎に語りかけた。京太郎は肩を竦め、無言のまま月子を見返した。瞳に気遣う色があった。月子もまた、声には出さずにその気遣いを跳ね除けた。
そして、重たい右手を引きずるようにして、嶺上牌とふたつの槓ドラを彼女は捲り――
嶺上牌:{七}
槓ドラ1:{3}(ドラ表示牌:{2})
槓ドラ2:{北}(ドラ表示牌:{西})
(――なるほど。手筋次第で、届いたんだ)
と、納得したように頷いた。
「そう、いえば……、ちゃんと、決めてなかったわね。大明槓の
途切れがちに呟いて、月子は照を見やる。照は特段何の反応も見せなかった。静かに、次局の開始を待っている。
「南入だ」
と、京太郎がぽつりと呟いた。
「そうね、――?」
月子は長く吐息した。
――とたん、背中にこれまでとは種類の違う悪寒を感じた。
何かに、
思わず振り向きたくなる衝動を、月子はじっと堪えた。振り向いたところでそこに何も存在しないことはわかりきっていたからだ。
何をされたかはともかく、誰が仕掛けたかは自明だった。
(ようやく、ちょっとその気になったってところ?)
すまし顔で座り続ける最年長の少女を、月子は凶悪な眼差しで見つめた。
(――でも、もう遅い)
2012/11/14:ご指摘いただいた多牌を修正
2013/2/19:牌画像変換