萬子:一~九
索子:1~9
筒子:①~⑨
風牌:東南西北
三元牌:白發中
赤牌:[]内表記 (例):[五][5][⑤]
副露:()表記 (チー例):(2)13 (ポン例):⑤([⑤])[⑤]
0.すこしむかし
0.すこしむかし
気がつけば生まれていた。たいていの人間は、そんなふうに自分のルーツを処理できる。それは幸福なことだと須賀京太郎は考える。たとえば母親の胎の暗さ、羊水の温さ、産道の狭さや頭蓋骨の軋みを感得したとき、胎児は何を思うだろう。
彼は想像を巡らせる。
夜、布団の中で幼い手足をたたみ、背を縮ませて、できるかぎり呼吸も顰めて、京太郎はからだの内側で鳴り響く音楽に耳を済ませる。血流や筋肉が立てる音にとらわれて、殺しても殺しきれない鼓動が刻むリズムの正確さに内向していく。ちく、たく、と小さな心臓は絶え間なく鳴り続ける。ちく、たく、と打たれる拍子は意識を入れ子のように閉じこみ始める。
(おれはどこから来たんだろう)
ありきたりでつまらない。陳腐で使い古されている。脈拍と思考の淵で須賀京太郎はそんな自問を繰り返す。生まれて以来彼はずっとその命題に直面している。彼は長野県に住まうただの小学生でしかない。それ以外の何者でもない。けれども、他の誰も認めず、知らない事実が彼をしじゅう苛んでいる。
須賀京太郎はここにいない。
その自認が呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
とはいえ、この世に生を享けたその日から、今に至るまでの十年程度の時間を、彼はそれなりに正しくおぼえている。なんならいくらか諳んじることもできる。周囲はいざ、彼すらその不条理な認知の由来は知らない。ただ結論だけがそこにある。キリンの首みたいに唐突さが前もって用意されており、だから、世の誰も京太郎の居心地の悪さに気づくことはない。彼だけが自分の中にある太虚を知っている。
世界の誰もが自明の理として処理するその事実が、京太郎を永の年月捉えて放さない。その思い込みはほとんど偏執的で、若干狂気に傾斜していることには彼も自覚的だった。ものごころついた時から自意識に敏感だった京太郎は、だからもちろん違和感を口に出したりはしなかった。
感情の赴くままに動き、体力の枯渇とともに一日を終える。そんな小児の日常のまにまで、京太郎はしばしば、なんともいえない不安にとらわれる。
たとえばある日、乗用車を運転する母の横顔を見て、突然その女を見知らぬ人のように感じることがあった。
たいがい、その手の衝動は脈絡もなくやってきた。予告もなく乱暴に肩を叩き、大きな腕で首根っこを掴み、これでもかというほど頭を揺さぶってくる。すると思考は突然澄み渡る。小児特有の無秩序さは忽然と消える。彼は須賀京太郎という存在がはらむ矛盾を数え始める。先のおのれの起源に関する疑問からそれは始まり、まるで眠りから醒めたように(もしくは夢に醒めたように)、自分を含めた全てがうそ臭く思えてくる。
(須賀京太郎)
と彼はそんなとき何度も呟く。与えられた自分の名前は常に空々しく聞こえる。声も、容姿も、思考も、日々の全てが、須賀京太郎というフィルタを通して視える世界のあらゆるものが、銀幕の光景のように現実味がない。
目に映るものに新鮮味がないわけではない。彩りを美しいと思えないわけではない。ただどうしようもなく隔たりを感じるだけだ。家族の愛も、料理の味も、傷の痛みも、全ては淡く仄かに感じた。
子供らしい語彙に照らして、そんな自分を喩える存在を京太郎はもう見つけていた。
(おれは幽霊だ)と彼は結論付けた。
ほかに考えようがなかった。
おそらく、自分はとっくに死んでおり、今こうして呼吸をしているのは何かの間違いでしかなく、いずれこの間違いが正されて、世界から自分は綺麗さっぱりいなくなる。
そうに決まっている。
思考がいつも通りに帰結すると、京太郎はようやく少しばかり落ち着くことができる。布団の中で眠ろうという気持ちになれる。面倒な性分だった。瞼を閉じ呼吸を静めて、幽かな希望を頼りに眠りに落ちる。彼は夜毎こんな願いを掛けている。
――どうか、明日には、世界が正しいかたちになっていますように。
△
音が聴こえる。
牌が卓を打つ音色だ。
それは馴染んだノイズだった。局が閉じる。牌が乱れる。山を積む。一幢を取る。繰り返す。跳牌する。
運命の旋廻が始まる。
遊戯がはじまる。
△
長い夜をようやく超えて、うつろな朝がやって来た。
いつも見たいと思うのは母の夢だった。一年前に心身を病んで、自分の首に手をかけた母の顔を、心から思い出したいと感じている。なぜならそれが最後に見た母の姿だからだ。
けれども、実際にはもう夢にも母の面影を見ることはない。
そもそも眠ることもなくなったからだ。
夜通し身じろぎもせず目を閉じていた石戸月子は、今まさに起きたといった風情で背を伸ばす。急な運動に血流が加速すると、こめかみが脈打って一瞬、目が眩んだ。壁に触れていた背筋も軋みを上げて、関節が軽い音を鳴らす。
左手に置いた時計を確認すると、時刻は朝の五時十五分を回ったところだ。
居間に目線を転じれば、視界には卓袱台を囲む四人の男と麻雀牌、そしてその周囲で雑魚寝する四人の男女が見える。彼らの周囲には、乾された酒類とつまみの包装、吸殻が山と詰まれた灰皿に、適当に千円札の束がねじ込まれた小箱等が散乱していた。
多彩なようで決して変わり映えしない朝の幕開けに、月子は鼻を鳴らす。今年で十一歳になる石戸月子の朝は、一年半前から同じような情景を繰り返していた。
16畳のリビングはそれなりに広いが、大人八人に子供一人が入れば手狭に感じる。跳ねた後ろ髪を押さえて目をこする彼女を、気にするものは部屋にいなかった。月子も今さら、自宅に這入り込んだ他人を気にはしない。気にしたところで何もできないからだ。
月子が朝を迎えてすぐに取る行動は、だいたいの人間がそうであるようにルーティン化されている。まず、起きた拍子で膝から落ちた毛布を畳み、腰と壁に挟んでいたクッションに重ねてクロゼットにしまいこむ。それから髪と寝巻きに染み込んだ煙草とアルコールのにおいに辟易する。嘆息とともに放り出された足を跨いで居間を横切り、無言のまま浴室へ向かう。
廊下から脱衣所へ滑り込むと、鍵のないドアの前に空の衣類かごを置き、洗濯機にパジャマと下着を放り込み、着古されてくたびれた着替えを用意した。
万が一にも他人とニアミスしないよう手早く身体の洗浄を終える必要がある。
月子の父親に招かれた男たちの視線に、漠然とした危機感を覚え始めたのはここ最近のことだ。比較的早熟な彼女は、好奇心が半分方を占める男たちの性的な関心をそれなりに正確に察知していたし、「かなりまずい」ものだとも感じていた。
月子は十一歳にしてはいくらか発育が良く、手足が長く、顔立ちも大人びていた。中学生を自称しても通じるかもしれない。いまやその個性は彼女にとって不幸の呼び水でしかないが、だからといって現実的な不安に対処しないわけにもいかない。
可能であれば風呂も家の外で済ませたいところだが、小学生の懐事情で銭湯通いは難しい。事情を話せるような友人も彼女にはいない。それどころかクラスでは消極的ないじめを受ける立場でさえある。
家にも、学校にも、安らげる場所がない。
母と兄がこの家からいなくなって以来、心から落ち着けた覚えがない。
(まずい)
月子にはネガティブな要素を数え上げる癖がある。悪いことを認めて前向きになろうとしているのだと月子自身は思っているが、実際は現状を客観的に見て「自分」と「現実」を切り離そうとする防衛反応でしかない。
頭から湯を浴びながら、月子は身体の内側に重いものが溜まりつつあることを自覚する。時折、彼女は呼吸にも難儀することがある。学校へ向かう道すがら、帰宅が迫った授業中、家のトイレで息を殺して用を済ますとき、発作的に大声を上げて全てをなげうちたい気分になることがある。動悸が激しくめまいも止まないそんなとき、彼女はひたすら心の中で呪文を唱える。
(いつかおわる。だから大丈夫。いつかおわる。だから大丈夫。がまんできる……)
繰り返すうちに、自動的な手足は全身の洗浄を終えていた。タオルで髪の水気をていねいにふき取りながら、月子は浴室から脱衣所へ抜ける。
唐突に、扉が開かれた。
「おお」
父親だった。やや腫れた目が瞬かれて、肢体から雫を垂らす娘を茫洋と眺めている。
「風呂か。早いな」
無遠慮な目線に晒されて、全裸の月子はもじもじした。
夜通しの遊びには参加せず自室にいたようで、常は鋭い男の表情に眠気の名残がほの見える。三十路を回ったばかりの彼は、遠見には雰囲気に険のある長身の美男子でしかない。俳優といっても通るかもしれない。けれども、内実は月子の家庭と母の人生を狂わせた極道でしかない。
父の名は新城直道という。姓が月子と異なる理由は、彼がそもそも月子の母とは籍も入れていないためだ。ただし認知はされている。明確に月子や兄とこの男のつながりを示すものは、だから実は戸籍のみだった。それでも、月子の顔は家族の誰よりこの男に似ていた。
麻雀も、兄ともども新城に教わった。
それは月子の気分を悪くするだけの縁だ。
とはいえ、いまの月子は扶養の身である。パトロンの機嫌を損ねて得るものはない。
わずかばかりの愛想を搾り出して、朝の挨拶を繰り出した。
「おっはー」
新城の眼差しがうろんなものになった。
満面の訝りを聞き違いと捉えて、月子は再度のトライを決めた。清水の舞台から飛び降りる心地である。色々な意味で後戻りはできない。
胸元にバスタオルを入念に巻きつけ、しわぶきを落とし喉の調子を整え、両手でピースサインを決めた。
「おっはー」
「……」
返答は黙殺だった。
これが何日ぶりかの親子の会話である。
月子は引きつった目顔を逸らして、項垂れた。
立ち尽くす娘を置いて、父は洗面所で顔を洗い始める。髪を乾かすドライヤーがそこにある以上月子も出て行くわけには行かず、手早く身体を拭うと服を着込んだ。所在無く新城の身支度が終わるのを待っていると、鼻腔を嗅ぎ慣れない香りがくすぐった。
女のにおい、と月子は思った。
その直感を裏付けるように、三番目の人物が脱衣所に現れた。
月子は絶句した。
素肌に上着を雑に羽織った、しどけないかっこうの女である。恐らくは父の情婦というやつだと月子は思った。ただ問題はそんなところではなく、女の身長にあった。男性の中でも背が高い新城と、ほぼ同じ上背である。180センチに届くかもしれない。
見上げる位置にある頭から、少しだけ媚態を引きずった瞳が月子を捉えている。ふうん、と鼻を鳴らすと、女が新城に問いかけた。
「この子が先輩の娘さんですか?」
女性としては低音の、掠れた声音だった。月子には、女の声が持つ響きが甘やかに聞こえる。きっとこの女はふだんこんな声で喋ったりしないにちがいない、と月子は思った。反射的に「いやらしい」と感じた。
「そうだよ。顔、似てンだろ」
「確かに」
しげしげと月子の顔を眺めると、女は納得したふうに何度も頷いた。なるほど、これは確かに親子だ、と呟いた。
月子はそのセリフだけで女に嫌悪感を抱いた。自覚しているコンプレックスを明け透けに指摘されては、いい気分にはなれない。
わかりやすく顔をしかめる月子に頓着を見せず、女は快活な調子で名乗りを上げた。
「私は
「……はじめまして」
「何歳? 小6くらいだっけ?」
「今年11歳になります。5年生です。あの」月子はやや挑戦的に春金を見つめ返した。「わたしに何か用ですか」
春金はやや鼻白む。意外そうに眉根を寄せて、微笑み混じりに問い返した。
「なんでそう思う?」
「そんな気がしたので」
「なるほど。いいカンをしている」春金はしきりに頷いた。「面構えもいい。姿勢もいい。クールそうな雰囲気もなかなかいい。好きになれそうだよ、君のこと」
前触れのない激賞を、月子は端的に気持ち悪いと思った。
「ありがとうございます」
「仏頂面でよくいうなあ。いいよいいよ。子供が腹芸なんかしないでよ」
吹き出す春金だが、言うほど年かさではない。年齢は精々二十歳そこそこに見えた。
「お察しの通り、私は君に用がある。月子さん、朝ごはんはもう食べたかしら?」
「朝は食欲が無いので、いつも食べてないです」
「それは育ち盛りによくないな。よかったら、お姉さんと朝ごはんに繰り出そうか」
結構です、と喉をつきかけた言葉を月子は危ういところで飲み込んだ。
彼女は自分に愛嬌が不足していることを自覚している。中途半端な利発さは境遇への不満と不安と諦念に結びついて、しかしそれを隠すだけの器用さを備えていない。それが大人にどう見られるかも理解しておきながら、矯正を試みるほど安定を望んでもいない。石戸月子は年上、とりわけ同性にとっては「かわいげのない子供」そのものである。
そんな小生意気な小学生である月子だが、彼女にもおのが心に牢記しているルールがあった。
養われている身である以上、自分を扶養する人間には無意味な反抗はしない。
「とりあえず」と彼女は言った。口元に作る微笑みには自信があった。「髪、乾かしてからでいいですか」
春金はつまらなげに唇を曲げた。
「その笑顔、君には似合わないね」
「すみません」
反射的に月子の口を衝いて出たのは謝罪の台詞だった。ほとんど思考を介さず舌が紡いだ言葉だった。言葉を発してから、月子は顔を引きつらせた。
月子は元々、気位の高い少女である。いわゆる直感に非常に優れ、勉強も運動も人後に落ちた記憶はない。強きに随うのが子供の処世であれば、月子はそれと無縁だった(そしてだからこそ、今苦境に立たされている)。そんな彼女だから、母と兄と暮らしていた時分は、周囲の人々を下に見ているところもあった。高慢で鼻持ちならない子供。それが石戸月子が11歳までに築き上げたパーソナリティである。
そしてそれは、今や見る影もない。
朽ちる寸前だった。
「すみません」歯を食いしばりながら、月子は謝罪を繰り返した。
春金が眉根を寄せる。彼女は顔を強張らせて、視線を月子から新城へと移した。
「やっぱり、せんぱいには、父親は向いてないですよ」
「知ってるよ」
新城の応答は簡素この上なかった。
月子と春金の注意に晒されて、彼は居心地の悪い様子を全く見せない。洗顔を終えてタオルで顔から水気を払うその仕草は洗練されている。ただの立ち居振る舞いで周囲の口を噤ませる雰囲気を、新城は全身から発している。彼自身は寡黙で、特段暴力的なわけでもない。ただどうしようもなく日常から浮いてしまう男だった。同居が始まり一年以上経つが、月子は結局、新城に対していわゆる親子の実感を持てずにいる。
娘の心境を知ってか知らずか、新城はあくびをかみ殺しながら懐をまさぐり始める。左手で折り目のついた紙幣をつかみ出すと、それを月子へぞんざいに押し付けた。
身を硬くした月子は機械的な所作でその一万円札を受け取り、うかがう様に目線を上げた。感情の薄い新城の瞳は凪いだままで、鬱屈を抱え込む月子を映している。
おもむろに新城の口が開かれた。
「それで、なんか、あれだ、喰ってこい」
「どんだけ不器用なんですか」春金が思わずといった様子で口を挟んだ。
「うるせえよ」
気だるげに洗面所から退散する男の背を見送って、春金が深くため息をつく。月子さん、と優しい声音で彼女はいった。
「行こうか」
月子は無表情のまま頷いた。
△
「お父さんって、どんな人なんですか」
「……」
月子が発した台詞に、春金が目を瞬いた。メニューを開く手が止まり、切れ長の瞳がまじまじと月子を見つめ返す。
平日の六時半を回ったばかりのファミリーレストランに居る客はまばらだった。学生と思しき夜勤明けのウエイターの顔には疲労が張り付いていて、訪う客を迎える声に張りがない。疲れている点については少しだけ居る他の客も同様で、自分たち以外の客に意識を向けるものなどいそうになかった。だから、月子の質問も気兼ねないものになる。
「よかったら、教えて欲しいんですけど」
「ふむむ」
数秒、春金は目線を漂わせた。答えあぐねるというより月子の意図を吟味している風だった。長い指がテーブルを軽く叩くと、コップの表面に結露した水滴がゆっくりと落ち始める。その動きを見届けてから、ようやく春金は口を開いた。
「うーん、ごめん。もうちょっと具体的に、何が聞きたいのか教えてくれる? どんな人って聞かれても、君が見たとおり、感じたとおりの人としか答えられないかな」
「はっきり言ったほうがいいですか? 私あの人があまり好きじゃないんです。だから好きになれそうな材料があれば、それをください」
月子は口早に言い切った。春金の反応を待つ余裕はなかった。目線を下に落として、汗ばむ両手でスカートの裾を強く握る。
いってしまった、と思わないでもなかった。けれども言わずにはいられなかった。時機や相手を選んでいたわけではない。いよいよ限界だと感じた瞬間から、いつ吐露してもおかしくはなかった。
「材料ね。たとえばどんなものかな。どんな話を聞いたらお父さんを好きになれる?」
月子の予想に反して、反問する春金の声色は平静だった。ただその事実に安堵するほどの余裕が月子にはない。彼女の器は目の前の現実を処理するだけで手一杯だった。
「たとえば、どうして、私を、引き取ったのか、とか」
「親子だからでしょ?」
春金の声は何を今さらと言わんばかりだった。
「そうはいったって、でも、何年もまともに会ってなかったんですよ?」
「君こそ」と呆れを満面に滲ませて春金はいった。「きょう会ったばかりの他人の私にそんな質問をしてる。そっちのほうがどうしてって感じだけどね。私に聞けて、お父さんに聞けないなんておかしいでしょう。もう一緒に暮らして何ヶ月とかになるんでしょ。……そんなに怖いの?」
「怖いですよ!」思わず月子の声は高くなった。すぐに彼女はトーンを抑えた。「……だって、やくざなんでしょ」
「似たようなものではある。で、それが理由なの? それだけ?」
月子は頷く。春金の見透かす目から逃れるように身じろいだ。
「でもさあ、そんなの、私だって同じなんだけど。君の家に来る連中で『そうでない』ヤツなんか一人もいないでしょ。堅気かどうかなんて、本当に君、気にしてるの? 私にはそう思えないんだけどな」
「私の何がわかるっていうんですか」
「わっかんねー」急に声色を変えて即答した春金が、くすりと笑みをこぼした。「あ、ごめん。今の知り合いの真似。けっこう似てるって評判なんだ」
「……もう、いいです」
「すねないでよ。ゴメンっていってるじゃん」春金はどこまでも軽い調子だった。「まあ、あれだねえ。若いころは色々とあるっていうけど、悩ましいことも行動に移してみたら意外とすんなり解決するかもだよ。君は結局、何をどうしたいのさ。お父さんと仲良くしたいの? チンピラ連中の家への出入りをやめて欲しいの? あの家とは関わりを断って施設に入りたいの? それとも、お母さんとお兄さんとまた暮らしたいの?」
「最後のはありえないですけど」
そこだけははっきりと否定して、月子は顔を引き締めた。
この日初めて、春金の顔を真正面から強く見つめた。
「私、自立したい。一人でも生きていけるようになりたい。誰にも頼りたくない」
「なるほど」春金は頷いた。「ちょっとわかった。要するにこういうことかな。君は一人で立てるようになりたい。でも現実的にはそれができない。あの家で、ろくでもない連中が夜毎出入りする様を見送りながら肩身を狭くするしかない。なにしろ君には負い目がある。引き取られたという負い目、養われているという負い目、自分はとても弱いという負い目がある。だから君のプライドはもろもろのことについてお父さんに意見することを自分に許さない」
「そう、なのかな」月子は曖昧に頷いた。たぶん、その通りなのだろうと思った。
「なるほど、なるほど」
春金はようやく得たりと微笑んだ。
それからいった。
「バカじゃねーの」
月子は絶句する。
折りよくウエイターがブレンドコーヒーとフレッシュオレンジジュースを配膳した。春金はカップの縁に口をつけ、湯気の立つ琥珀色の液体を飲み込んで、くわえた煙草に手際よく着火する。
さらに続けた。
「ガキが何いきがってんだ。ワガママくらい言え。自分の弱さくらい利用しろ。本当に女か、君は」
こんなとき、相手が誰であろうと、萎縮よりも反感が先に立つのが石戸月子という少女である。沸騰する意識に任せて、月子は目前の女を睨みつける。
春金は唇をゆがめて笑っていた。表情に悪意は見えない。純粋に下らないと思っているのがそれでわかった。とたん、怒りよりも羞恥が月子の意識を支配し始める。自分はそんなに恥ずかしいのか、と月子は考えた。そんな心算はなかった。
今度は赤面して俯いた月子を眺めて、春金は満悦のようだった。
「とはいえ、性分ていうものがあるよね。顔はそっくりなのに、性格はやっぱり育ちなのかねえ」感慨を込めて春金がいった。「……意地悪言って悪かったね。最初の質問に戻ろうか。君のお父さんはね、優しくない人だよ。自分勝手で、我侭で、強くて、怖い。大きな岩のような人だと思う」
その表現は、実にすんなり月子の胸に落ちた。大きな岩。だとすれば、柔弱で線の細い母と、最終的には合わなかったことも頷ける。
月子の母は、元々鹿児島の出である。月子が一度も訪れたことのない母方の実家は神職らしく、母は小中高と滅菌されたような山奥で育った。そのまま一生を過ごすのが常の世界で、何の因果か流れの旅打ちを自称する破落戸同然の父に出会ったらしい。信じがたいことに母はそんな父に一目惚れで恋に落ちた。そのまま父の旅に同行し、行き着いた長野でつかの間の蜜月を過ごした。
そこで終わっていれば、ドラマティックな話で済んだだろう。
しかし、月子と兄が生まれ、物心ついたころには、もう母と父の関係は終わっていた。原因は月子にはわからない。父が悪かったのだろうとは思うものの、母に咎がないと言い切れるほど、今の月子は無知ではない。
父と切れた時点で実家に戻るをよしとしなかったのは、母なりの矜持だったのだろう(他に頼るものなどない子持ちの女が実家に援助を申し出なかった理由としては、確かに馬鹿馬鹿しいと月子も思う)。結果的にその選択は悪果を産んだが、月子は安易に母の判断を責める気にはなれない。母の心境を慮れるほどの機微は彼女にまだ具わっていなかったが、美しい顔に疲労を刻んで自分たちを養った母を否定したくなかった。
「春金さんは、おとうさんと、仲良いんですか」
「私は結婚したいと思ってる」
すんなりと衝撃的な事実を明かした春金は、「ふられたけどね」と言って笑った。人生で初めて直面する事態に、月子は呆然とするほかない。
「そ、そうですか」
「子供のころから好きだったんだよねえ」若干目元を赤らめる春金は、六尺豊かの長身に反して存外子供っぽく見えた。「だから正直、君らのお母さんの事、ちょっと恨んだりもした」
「そんなに昔から知り合いだったんだ」
てっきり近ごろ新城と親密になったものとばかり思っていた月子は、意外な事実に驚いた。春金と父の付き合いは月子とのそれよりも長いということになる。
「そうなのよ。馴れ初めは私が小六のころ、雀荘でね、ビンタ五十万の担保に処女を……」そこまで話しかけて、我に返ったように春金はかぶりを振った。「ま、そんな話はどうでもいいか」
「ちょっと今の前半の話すごい気になる」
「ま、そんな話はどうでもいいから」笑ってごまかすのが大人の処世だった。「月子さん。石戸月子さん――おねいさんはね、お父さんから、実は君のことをお願いされているのだよ」
「……はい?」
問い返した月子の顔を覗き込んで、春金清は含めるようにこういった。
「私のウチの子にならない?」
△
小雨がけぶり、霧が立つ。早朝の山は高みに雲をまとわせて、尾根の輪郭は霞んでいる。鼻をつく草のにおいを肺にまで取り込んで、少年は一歩一歩踏みしめるように道を歩く。息は弾み、身体を湿らせるのも朝露ばかりではない。
先方を往く女性は六十近い齢を感じさせない健脚で、軟弱な少年の足では着いて行くだけでも一苦労だった。このうえ今日連れて行かれるという神社は長い長い階段のうえにあるのだという。考えるだけでも気が滅入りそうだった。
だが、気になることがあった。
「あの、」
先行する老人を呼び止めかけて、呼び名に迷う。血縁上、彼女は祖母に当たる。だが出会ったのはつい二ヶ月前で、それからまともな会話を出来た憶えもない。母の葬儀を済ませ、今日から彼女が自分の保護者になるという事実を一方的に告げられただけで、いまだに少年は祖母の名前すら知らない。ここ一ヶ月、少年は「分家筋」だという親切な家の老夫婦(姓は薄墨といった)の元で厄介になっており、祖母と顔を合わせるのはまだ二度目だった。
世話になった夫婦の話では、自分には年が近い従姉もいるという。ただ親類とは離れて暮らしているらしく、こちらとは面識すらない。
その面通しを行うため、この日は旭が昇りかけた頃から山登りめいたことに励んでいる。だが向かう先が神宮と聞いて、少年の胸には不安が差した。
振り向いた祖母の厳しげな面差しに恐縮しながら、少年は気がかりを問うた。
「ぼく、喪中なんですけど」
「……? それは私もでしょう」
「あ」
そういえばそうだった。先だって亡くなった母は、目の前の女性の娘なのである。間抜けな質問をしたことに今さら気づいて、少年は赤面した。そんな様を見て、祖母は薄く微笑んだ。
「安心なさい。忌明けは済んでいます。鳥居はくぐれませんが、穢れは祓いました」それにしても、と祖母は感心した。「よく気がつきましたね。あの子に……母親に教わっていたのですか?」
「ええと、はい」
懐かしむような祖母の顔つきに、少年は咄嗟に嘘をついた。が、すぐに撤回した。
「いえ、すいません。嘘をつきました。母さんはあまり昔のことを話してはくれませんでした。自分で調べたんです」
「そう。……ありがとう。気を遣ってくれて」
「いえ」
はるかに年上の人に礼を言われて、少年は反応に困る。悪い気はしないものの、ただただ対処に迷うのだ。結局おざなりに頷いて、道中は黙々と歩くだけになった。
通りを行き、橋を渡り、いよいよ山麓に近づいた。山に近づくにつれ空気は清涼なものに変わり、不思議と汗も引いた。目的地と思しき神宮の入り口のすぐ近くには、大きな岩のオブジェが見える。
そしてその傍に、二人の少女が立っていた。
「まあ、姫様」
祖母が驚いたように言葉を漏らした。
それ以上に度肝を抜かれたのは少年である。
(姫様!?)
この現代日本で、素面でそう呼ばれる存在がいるとは思いもよらなかった。聞き間違いかとも思ったが、祖母の目線はまっすぐ少女の片割れに向かっている。名前が「ヒメ」なのかもしれないが、それにしても年嵩の存在に「様」付けで呼ばれる女の子など、少年の常識外に住む生き物である。
「お待ちしておりました、祖母上様」
二人居る少女のうちの片方が、一歩足を踏み出して少年と祖母を向かえた。目元が垂れていかにも気優しそうな、年上のお姉さんといった風情の少女である。祖母から少年へと移った目線は、なぜか好奇心らしきものできらきらと輝いている。
嫌な予感を憶えて恐々としながら歩みを進める少年だったが、彼の視線はすぐにもう一人の少女に釘付けになった。
「はじめまして。こよみくん。石戸霞で」
「寝てるし!」
「す、よ」
何か話しかけていた少女をさえぎる形で、少年は叫んだ。
指まで差した。
髪をおさげにして箒を持った少女が、直立したまま眠っていた。
目を閉じているだけかと思いきや、鼻提灯まで膨らませている。
こんなステレオタイプな居眠りなど見たことがない。
少年の注視に晒され、ちょうちんが縮む。
膨らむ。
縮んで、膨らみ、そして弾けた。
「あっ」
「えっ」
ぱっと面を上げた居眠り少女と、少年の目線が交わった。
少女の顔立ちは、可憐といって差し支えない。ただ少年の脳裏には弾けた鼻提灯が焼きついて離れない。居眠り少女が、少年の中で「ないな」と分類された瞬間だった。
「ど、どうもすいません。ねていました……」ごしごしと顔を袖でぬぐって、居眠り少女が深々と頭を下げた。
「これはどうもご丁寧に」少年も慌てて頭を下げた。
「じ、神代小蒔ともうします」
「石戸、霞です」ずずいっと横からもう片方が割り込んだ。
(石戸――)
同じ苗字である。どうやら霞が自分の従姉らしいと、実感がまったく伴わない知識と現実を照合させて、少年はもう一度頭を下げた。
「はじめまして。石戸
2012/9/1:誤字修正
2012/9/10:ご指摘頂いた修正漏れを再修正
2012/10/2:誤記・表現修正