『お前は強いのか?』
不意に、声がした。
誰もいない、何もない世界で、誰かの声が響く。
「……?」
レ級が辺りを見回すも、暗い海には輝く星の絨毯があるだけ。他には何の気配もせず、空と海の狭間の闇夜のみ。思わず警戒してしまう、何かがいると思わせる空間に空気があった。
あったの、だが。恐怖を知ってはいてもそれが自分であり自身のことであるレ級にとって、恐怖の感情は警戒するものではなかった。酸素と同じく、あるのが当たり前。常に自身が撒き散らす、人の二酸化炭素。故に、不意に聞こえた声も、レ級にとって警戒や恐怖を感じるモノではなく、些細な疑問が生まれる程度の出来事だった。
こんな場所に、自分以外の存在がいるのかと、そんな素朴かつ不気味で重大な疑問に、レ級は首を傾げるだけ。
注意深く用心深くもなく視線を向け、空に、視線をずらし、海に、視線を流すも、狭間に、声の主と思われる存在は見当たらない。どんな闇夜でも見通すことが出来る、畏怖の象徴でもある青白い炎を瞳に宿すレ級。深海棲艦に多く見られる仄かな青い炎。
遠くを見て、先を見て、今を見て。
人外なる瞳には、しかし、何も映らない。
映らない、のに。
『お前は強いのか?』
また、声がする。少し野太く、威厳や威圧を含む声色。深さや重さを持つ声は、人で言うなら年齢を感じさせる渋みがあった。けれど、相変わらず姿は見当たらない。周囲に浮かぶのは残骸と化した装備の成れの果てと深海棲艦の死骸が一匹。まさか水面に反射する星々が語り掛けているなんてロマンチックな台詞をレ級が考えるはずもない。
声があるなら何かが居る、レ級は純粋に、現実的に結論を付けた。付けて、行動に移した。迅速に、速やかに――蹴り上げた。
艦載機を使うでもなく、魚雷を使用するでもなく、砲弾が火を吹くでもなく、レ級はただ蹴り上げた。片足を何もない空間に、海面に触れながら、蹴り飛ばす。
ばしゃりといった、水に足を付けてかき混ぜる時に出る音が、水を裂く音が聞こえた。
落雷のような轟音を、伴いながら。
水柱というより、軽く海が割れた。もちろん、旧約聖書に出て来るモーゼが起こした奇跡には遠く及ばないにしても、それを思い起こさせる、あり得ない現実を現実に起こした現象は驚嘆に値する。割れたと言っても衝撃派に近い、蹴り上げた風圧と衝撃で水を裂いただけだが、それでも、だ。
それでも、そんな常人離れの、化け物の所業はレ級にしか出来ない。
辺りにあったモノが吹き飛ぶ。兵器の残骸に深海棲艦の死骸。木端微塵となり、その姿は消し飛ぶ。粉々に、粉々に。
距離にして五メートルほど。文字にすれば大したことはないが、目の当りにすれば脅威を実感する。綺麗になった海を見て、声のしなくなった海を見て、レ級は無表情ながらもやや満足そうに、つまらなさそうに頷くと、踵を返し帰途へ。
『お前は弱い』
振り向いた身体が、上げた脚が、動かない表情が、止まる。
確かに誰もいなかった。
確かに何もいなかった。
はず、なのに。
確かに声が、そこにある。
だから、レ級は静かに振り返る。
声がした、背後に。
確実にない姿の確実にある声に対して、ただ一つの確実な感情を持ちながら。
レ級が向ければ絶望の意味と成る、殺意を持って振り返る。
『なんだ、帰らないのか』
と、振り返った先には、何もない。海面にも空間にもない。
けれど、声はあった。そして、姿もあった。
レ級にしては珍しく、瞳を大きくさせ、驚いた表情を浮かべる。
混乱に近い感情に、そんな感情その物に困惑しながらも、困惑を理解せずまた知らないレ級は、ただ固まることしかできなかった。
固まることしかできから、考えることも出来ない。思考に空白が生まれ、思考は真っ白になる。だからこそ、レ級は単純な質問を口にしていた。
素朴にして重大な、些細なことであり重要な、自身の事について。
「……オマエ、ダレダ?」
『見て解るだろう』
呆れたのか笑ったのか、呆れて笑ったのか、ソレはレ級の問いに対して、当たり前のように答える。
『お前の尻尾だ』
駆逐艦の頭部を持つレ級の尻尾は、鼻で笑いながらそう言った。