オーストラリアの気候は日本と真逆と考えていい。
一番気温が低いのが七月であり、一番気温が高いのが一月辺りだ。とは言え、六月から八月まで続く冬でも、半袖で過ごすことはできる。熱帯の気候に属するケアンズは、乾季と雨季の二つの季節がある。そこからやや北の位置になる、距離的にはさほど離れてはいない電車で数駅分の距離になるマッカンズビーチも同様の気候と考えていいだろう。
季節は六月、深海棲艦と人類側の何度目かの大規模戦争が終了し、また夏に起こるであろう、日本時間での話だが、戦に向けてお互い備蓄や訓練、英気を養う期間。
見える景色はなだらかな真っ白い砂浜、木陰を作る垂れたヤシの木。
ホロウェイズビーチとマッカンズビーチの間に流れるバー川の自然。
岩の塊がゴロゴロと腰辺りまで積み上げられ、また柵でもって区切られた小さな砂浜。観光客は圧巻の光景を求めて綺麗なビーチまで足を運ぶので来ず、地元の人間も人のいない場所に来る理由もなく、寂れたとは似合わないながらも、人の気配が薄れた砂浜。
そこに、彼――艦長はいた。
一週間に一度、何の用もないけれど数時間、こうして人のいないビーチから海を眺めるのが日課になっていた。彼の奥さんは定年後の過し方にしてはつまらないと悪態を吐くが、そんなものじゃないと反論しても無駄だと解っているから何も言わない。
そんなものじゃないのだ、これは。
彼は人として、軍人として、間違ったことをした。
どれくらい前になるか、敵対勢力であるモノを、ここで発見、邂逅した。軍人ならば拘束するなり殺害するなり、何らかのアクションを起こさなければいけなかったのだが、しなかった。しなかったと言うより、出来なかった。出来るはずもなかった。
相手は人類共通の敵、深海棲艦。しかも当時日本が定めた敵対信号の表別にて、唯一にして最大、いろは級の『レ級』だったのだ。今でこそ普通の艦種ではなく、姫級や鬼級といった通常の艦からでは逸脱した存在も確認されているが、それにしてもレ級という存在は際立っていた。人類だけでなく、人類以上に前線で戦う艦娘達から、目を付けられていた。
一人にして最大、艦隊なる一人。
限られた攻撃手段を確立し究め極めるスペシャリスト達の中で、艦娘と深海棲艦の中で、ただ一人、ただの一人、全ての攻撃を搭載したオールマイティ。
スペシャリストが秀才の行き着く先ならば、
オールマイティは天才の過ぎ去る先だろう。
もし二年程前にレ級が多数存在し、人類を攻め込んで来ていたのなら、この戦争はこんなにも長く続いてはいない。あっさりと、すんなりと、人類は敗北していただろう。どんなに奮戦奮闘しても、兵力の差ではなく、兵器の差でもなく、兵の差で負けていた。
だが、それも今は昔の話だ。
新たな戦闘手法が次々と発見、というより古来のやり方を習得していく艦娘。
人類も艦娘を用いらずとも効果のある深海棲艦を撃滅できる航空艦隊の発足。
新たな兵器に、強大な兵器。
それらによって、過去の亡霊は消し去られた。
あっさりと、すんなりと。
ガサリと持っていた袋に手を突っ込み、ドーナッツを取り出す艦長。一口齧る。
何を考えているのか、何か感慨を持っているのか。
その表情は、長年連れ添った奥方にもわからないだろう。
天才が秀才に敗れた。
その報を聞いた時、彼の部下達はガッツポーズを決め、また今大規模作戦でも航空隊が目を見張る戦果を挙げていた報告を聞き、歓喜していた。
もはや深海棲艦など怖くはなく、地球という星でまた、人類が頂点に立つ時が戻ったのだと。
人類に天才はいないのかもしれない。
だが、秀才が負けるのは決まったことではない。
努力し尽力し労力を惜しみなく注ぎ込めば、結果は必ず生まれるのだと。
深海棲艦も新たな艦種、姫や鬼を誕生させ攻めてきているが、それでも対抗できる。
その証明が、つい先日のレ級撃滅の報告である。
過去の敵は過去となった。
脅威は過ぎ去り、新たな敵とのイタチごっこが始まる。
また一つ、ドーナッツを取り出し食べる。
人類が歩みを止めることはない。
個々の人間が止めたとしても、種族として止まるというのは在り得ない。
だから人は未だに戦い続け、勝利に喜ぶ。
ドーナッツを袋から取り出した。
生態系の頂点に立つ人類。
個の力が及ばずとも、人は集団となって力を得る。
一人一人が弱くても関係ないのだ。
関係ない。
無関係。
そう――
関係なかったのだ――
彼女には、生態系に組する者たちの論理など、関係なかったのだ。
何もない、太陽を跳ね返す海が、一角、艦長の正面だけせり上がる。
水柱と言うほど盛大ではなく、さりとて水が跳ねたと言うほど小さくはない。
確かに確実に、海には人影が生まれていた。
真っ黒のレインコートを纏い、胸元をはだけリュックサックらしき物を背負う人影。海水で全身をずぶ濡れにしているが、気にかけている様子はない。むしろ、水浴びを楽しむ子供のような空気さえ感じる。だが子供が遊んでいると微笑むには、少々、いやだいぶ問題となる点があった。その人影の腰の後ろには、太い尻尾のようなものが生えていた。尻尾の先端には深海棲艦と呼ばれる謎の存在、その一種である駆逐艦を思わせる機械獣の頭部に似たモノがついている。衣服は汚れて煤けており、見える肌には痛々しい傷跡が見えた。同時に、その傷跡らしきモノが見え、回復していることも窺える。
そいつの名前を知っている。
そいつの存在を知っている。
艦長は、そいつが何だか知っていた。
そして同時に、そいつがここに居てはいけないことも知っていて、そして同時に、そいつがここに来るだろうことも知っていた。
以前来た時は、疲れたと言っていた。
だからもし、もしもの話だ。
もし疲れたらここに来るのなら、秀才が天才を倒しきれていなかったのなら。
ここに来るのは、彼女らしいと思ったのだ。
だから恐れられたのだ。
だから拒まれたのだ。
死んでも死なない、殺しても殺せない、戦においてこの世の何よりも秀でた才を持つ、スペシャリストではないオールマイティのエキスパート。
「お嬢ちゃん、ここは一般人立ち入り禁止だよ」
そう言って、艦長は持っていたドーナッツを放る。人影は軽くジャンプして、口でキャッチした。犬か、と小声で突っ込む艦長。
ガツガツとではなく、もぐもぐと味わって食べる人影。
その人影を見て、見ながら、艦長は思う。決して微笑まず、愛しくも思わないように心を固めながら。
生態系において、人類は頂点に立てる力を持っている。だからこそ深海棲艦相手でも対等に戦ってきた。
深海棲艦が持つ淡き炎、青や黄、赤といった区分で強さが違うらしいが、それらの炎を纏う、色を持つモノとも戦えてきた。
結局は生態系である。同じステージでの椅子の取り合いだ。
戦いとはそうやって始まり、そうやって起こる。
だから――――だから。
青でも赤でも黄でもない、深海棲艦ならば瞳などに纏うはずの炎をまったく発せず、まるで人間のような空気を纏いながらも、決して人ではない容姿と存在感を併せ持つ人影とは、どうすればいいのだろう。
生態系に合わない、生態系に存在するはずのない異端相手に、戦いとは成立するのだろうか。
そんなことを考えながら、恐怖と本当に僅かな、ほんの少しの安堵を交えて、艦長は声をかける。
果たして、彼の思惑が正しいのか正しくないのか、知っている彼女なのか知らない彼女なのか。
確かめる為に、確かめるように。
それはまた、人類の新しい戦のように。
「……お嬢ちゃん、名前を聞かせてもらえないかね」
「忘れちゃったノ?」
そんな、既知の発言。
そして、以前よりも流暢な声。
明らかに感情が生きている、人のような声色で。
「私は戦艦レ級、負けちゃって疲れてるノー。ちょっと一休みしてもっかい行くヨー」
屈託のない笑顔で、そう言った。
戦争は終わらない。
~終~