Encounter-佐為の目覚め-   作:鈴木_

5 / 16
05

聞きたいことはたくさんあった。

しかし『サイ』と呼んだ人物にしがみつき、わんわん泣き続けるヒカルをただ黙って見ているしかできない歯がゆさに、アキラは奥歯をかみ締めぐっと堪えた。

 

(この男がネットのsai!)

 

ヒカルの言った『サイ』がほぼ間違いなくネットのsai本人なのだと、アキラには確信できた。

そうでなければ、ヒカルがこれほど取り乱しなどしない。

ネット碁にたった一局saiが現れただけで気をとられ、危うく北斗杯予選で落選しそうになるのだ。

ヒカルの心中でネットのsaiが、どれだけ大きく占めるのか、安易に伺い知れる。

 

「なんや進藤のやつ、新しいスポンサーさんと知り合いやったんか」

 

何も知らず、能天気に聞こえる社の呟きに、半ば八つ当たり同然にアキラが噛み付く。

 

「知り合い、どころじゃないッ!!」

 

声を押し殺しながらも、込上げる怒りのまま乱暴に言い捨てたアキラに、社がビクリと驚いてしまう。

まさかsai本人が、こうも堂々と自分たちの目の前に現れると誰が予想できただろう。

あれほどネットの中に隠れ続け、正体をヒカル以外の誰にも知られることのなかったsaiが、北斗杯の新しいスポンサーとして名乗りを上げてきた。

 

つい先日ネットに現れた事といい、こうして姿を現したことといい、何を企んでいるのかと疑わずにはいられない。しばらくしてヒカルがようやく落ち着き始めた頃合を見計らい、成り行きを見守っていた渡辺が

 

「進藤君は藤原さんと知り合いだったのかな?」

 

「え、あっ、その、知り合いって、いうか」

 

涙の跡を袖で拭いながら、ヒカルはどう答えたらいいのか、しどろもどろに戸惑っていると、それに答えたのは佐為だった。

 

「とても親しい友人です。しばらく離れていて会うことが出来なかったので、連絡もなくいきなり私が現れて、ヒカルも驚いたのでしょう」

 

ですよね、と賛同を求めてきた佐為にヒカルはつられるようにして頷く。

 

「そうだったのですか」

 

「藤原佐為と申します。今度の北斗杯ではよろしくお願いします」

 

「棋士の渡辺です。こちらこそよろしくお願いします」

 

渡辺と佐為が大人の対応で、和やかに挨拶を交わす。

その様子を睨みつけていたのはアキラだ。

一見して親しい友人と感動の再会の場面に見えるそれも、アキラから見れば茶番にしか見えない。

 

「北斗杯で出場することになりました塔矢アキラです」

 

渡辺から紹介される前に、自ら前に出てアキラは自己紹介を述べる。

 

「塔矢アキラプロですね。お名前は聞き及んでおります。日本の若手棋士ナンバーワンのホープなのだとか。大会では是非頑張ってください」

 

「失礼ですが、手を見せていただいてよろしいでしょうか?」

 

「オイっ!塔矢?」

 

突然何を言い出すのかと社が口を挟んだが、

 

「手ですか?構いませんよ。どうぞ」

 

アキラのやぶからぼうな言い出しにも、佐為は快くアキラの方へ手を差し出す。

了承をもらったアキラはその手をとり、佐為の指先を確認する。ヒカルと初めて会った頃、ヒカルの指先を確認した時とおなじように。

しかし碁石をはさむときにどうしてもなってしまう爪の磨り減りやタコなどの、碁打ちならば必ず見られる痕跡が佐為の指には全く全く見当たらない。

綺麗な指だ。

 

これが『サイ』と名乗った人物でなければ、アキラも考え過ぎかと流していたかもしれない。

しかしヒカルと初めて会った頃、アキラがヒカルの指先を確かめたときも、ヒカルは碁を打ってきたとはとても思えない綺麗な指をしていたのだ。

二人の相似がアキラの頭の中で重なる。

 

「もうよろしいですか?」

 

「はい、ありがとうございました……」

 

遠慮がちに手を差し引く佐為に、

 

「これからボクと一局打ちませんか?」

 

「お前、何言ってんねん!いきなり手ぇ見せろとか言ったかと思えば、次は一局打とうとかスポンサーさんに失礼やろが!いい加減にせぇや!」

 

「塔矢君!」

 

社に続くようにして流石に渡辺もこれ以上は失礼だとアキラを嗜めた。

ヒカルが知り合いだったことは当然驚いたが、普段なら礼儀正しく、大人への対応も慣れているアキラの突然の態度に、渡辺もどうかしたのかと戸惑う。

 

「失礼しました、藤原さん。塔矢くんも北斗杯の出場者が全員決まったばかりで少しばかり興奮しているのでしょう。普段ならこういったことは」

 

すぐに詫びてきた渡辺に、佐為は首を横に振り、

 

「すいません。プロの方に誘われてとても光栄ですが、私は碁を打たないのです」

 

この言葉に驚いたのは言われたアキラより隣にいたヒカルだった。ぎょっとして目を見開き、驚き佐為を見上げる。

 

(佐為のやつ、何言ってるんだ?)

 

佐為が何を考えてそんなことを言っているのか、ヒカルにはさっぱり分からない。

碁を打たない佐為などヒカルには到底信じられなかった。

どんなときも碁一筋に神の一手を極めることだけを願っていたのに。

 

「全くですか?これまで碁を打たれた経験は?」とアキラ。

 

「石を持ったことすら一度もありません」

 

「インターネット碁も?」

 

「ええ」

 

淡々と微笑をたたえてアキラの問いに受け答えする佐為をじっと見守りながら、奇妙な違和感がヒカルの中に湧き上がってくる。

 

(佐為、だよな?)

 

突然ヒカルの前に現れたこともそうだが、幽霊だった3年前と違い、目の前の佐為は平安時代の直衣ではなく現代のスーツを着こなし、体に触れることができ、なによりアキラたちと会話をしている。

佐為が自分以外の誰かと会話をしている。

初めてみる光景だからだろうか。

ヒカルは目の前の佐為に違和感を覚えた。

 

「塔矢君そこまでにしなさい。いくらなんでもこれ以上は私も見過ごせない。どうしたんだね?いつもの塔矢君らしくない」

 

目上の渡辺に諭され、アキラもこれ以上の追求ができなくなる。

 

「本当に失礼致しました」

 

渡辺が頭を深く下げ、アキラの非礼を詫びる。それにならい、アキラも頭を下げた。

 

「突然、申し訳ありませんでした」

 

「いえ私ならば本当に気にしていませんので、お気になさらないでください。そちらは社くんですよね、今年も北斗杯出場を決めたのですね。おめでとうございます」

 

「あ、どうも。がんばります……」

 

急に佐為から話を振られ、ワンテンポ遅れて社も挨拶を返す。

それから確認を取るように佐為は渡辺に話を切り出す。

 

「渡辺先生、これからヒカル、進藤くんは何か手続きなどの予定があるのでしょうか?」

 

「いえ、対局は終わりましたのでとくには」

 

「では、少し進藤君をお借りしますね。久しぶりに会えたので、色々と話をしたいのです」

 

「それは構いませんよ。じゃあ、ゆっくりしておいで進藤君」

 

渡辺は佐為の申し出を快く了承し、ヒカルに行っておいでと笑顔で背中を押す。

渡辺に佐為の申し出を断る理由はどこにもない。

ご機嫌取りと受け取られるかもしれないが、ついさっき失礼をしてしまったスポンサー相手ならば、尚更ヒカルに頑張ってもらい機嫌をとってもらいたいのが渡辺の正直な気持ちだ。

 

「あ、ハイ……」

 

ヒカルが頷くも、渡辺に抑えられたアキラの視線は、ヒカルを着いていけば射殺さんとばかりに睨みつけている。

 

(後できっと佐為とどういう関係なのかって、すんげー顔で問い詰めてくるんだろうな………)

 

考えた途端に、ヒカルは胸倉掴んで詰め寄ってくるアキラを想像してしまい、気分がイッキに滅入ってしまった。

 

「行きましょう、ヒカル」

 

「ちょっ、待てよ佐為!」

 

グイと腕を引っ張られヒカルは慌てて佐為を追う。

すぐに佐為は手を離したが、そのままさっさと棋院を出て行こうとするので、ヒカルはただ佐為の後をついて行くしかない。

その佐為がようやく歩く足を止めたのは棋院を出て少し歩いてからだった。

 

「ここまで来れば大丈夫でしょうか。どこか落ち着いて話が出来るところにでも行きませんか?ラーメンは話している間に麺が延びてしまうので無しの方向で」

 

クルリとヒカルを振り返った佐為は、先ほど棋院で渡辺とアキラに向けていたような事務的で淡々とした雰囲気ではなく、言葉使いは丁寧なままだが表情はにこやかだ。

 

「……俺んち、行く?」

 

なんとなくヒカルは自分の家を挙げてみた。ゆっくり話しが出来るところが咄嗟に思いつかなかったこともあるが、佐為と二人でゆっくりすることが出来た場所として、ヒカルは自分の部屋が真っ先に思い浮かんだ。

 

「行きます!」

 

ぱっと表情を明るくさせ佐為も同意した。

 

 

 

 

棋院から家までの電車の乗り換えと駅からの道順なら、ヒカルが今更説明する必要はなかった。

むしろ再び会えることが出来た佐為をぼーっと見ていて駅を乗り過ごそうとしたヒカルを、佐為が急かすようにして電車を乗り継いだ。

久しぶりにやってきた進藤家に、佐為は初めて靴を脱いで家に上がる。

 

「お母さん!ちょっと友達と部屋で話してるから!」

 

「あら、ヒカル早かったのね」

 

居間にひょこりと顔だけ覗かせた息子に、午後も対局があると聞いていた美津子は、どうせまた検討が長引いて帰ってくるのは夜だろうと思っていた。

それがまだ夕方のうちに帰ってきたことを珍しく思いながら、ヒカルが連れてきたのだろう友達に挨拶をと思い振り向いてぎょっとした。

 

「藤原佐為と申します。すいません。こんな時間に。もう少し早く来れればよかったのですが」

 

「い、いえいえ。そんなお気になさらず、どうぞゆっくりしていってください」

 

友達を連れてきたと言うヒカルに、美津子はてっきりおなじプロ棋士で同年代の和谷か以前訪ねてきた伊角かと思ったのだ。

しかし、礼儀正しく名乗ってきたヒカルの友人はというと、仕立ての良いスーツを着込み、長い髪と整った容姿、行動が粗雑でバタバタしているヒカルとは正反対に優雅でスマートな仕草。

 

何より三十路前と思われる年齢。ヒカルと友人になるようなどんな接点あったのかと、どうせ囲碁関係だろうと分かりつつ、今更ながらに息子の友人関係に頭痛を覚える。

 

「佐為早く――!」

 

さっさと二階に上がってしまったらしいヒカルの急かす声に、佐為はもう一度美津子に頭を下げてから階段を上る。

 

「母さん、お茶とかいいからほっといて――!」

 

「ヒカル!お客様に失礼ですよ!」

 

「私のことなら本当にお気になさらないでください。飲み物とお菓子でしたら、来る途中にコンビニで買ってきましたので」

 

右手に持っていたビニール袋を持ち上げ佐為が美津子に見せると、すまなそうに美津子は佐為に謝り、再度ゆっくりしていってくださいと頭を下げた。

 

「ヒカル、お母上に何て言いようですか?少しは大人になったかと思っていれば、全然子供のままではないですか」

 

部屋に入ってコンビニ袋を置くなり、お小言を落とし始めた佐為に、ベッドに腰をかけていたヒカルは辟易とした顔になったが、すぐに表情はゆるみ佐為を見上げた。

ヒカルに呼応するように佐為も、しかめっ面が解かれてクスクス笑い始める。そしてヒカルの部屋の真中に置かれている碁盤に佐為はしゃがみ手を伸ばす。

 

「懐かしいですね」

 

「ほんとにな。ずっとこんな風に一緒にいたよな、俺たち」

 

自分にとりついた幽霊と毎日碁を打ち、他愛ない会話をして、たまに喧嘩して、ずっと、ずっといつまでも、ヒカルが死ぬ瞬間までそんな日々が続いていくのだと信じて微塵も疑わなかった。

 

「佐為、なんで俺の前から消えたんだ?」

 

口調を改めてヒカルは尋ねる。

ずっと聞きたかった問いかけだ。突然、何も言わずに消えてしまった佐為に、ヒカルは何度も問い続けていた。

ヒカルの真摯な問いかけに佐為も居住まいをただし、ヒカルに向き合うと、話すことが出来なかった真実を静かに語り始めた。

 

「幽霊のまま一千年の時を永らえたのは、ヒカル、あなたに私と塔矢行洋との一局を見せるためであったと悟ったからです。神はヒカルにあの一局を見せるために、幽霊の私を一千年間、現世にとどまらせた」

 

「塔矢先生と佐為の一局?あの一局が理由でお前が消えなきゃいけなかったのか?」

 

「消えねばならなかった、のではありません。それが幽霊だった私の役目だったのです。江戸の頃、虎次郎が私のために身を尽くしてくれたように、私はヒカルのためにあった。そのための、遠い道のりだったのです」

 

「だからってあんな急にっ……一言もなくいきなり消えるとか……俺、お前のことすごく探した。心当たり全部探して、あと因島まで行ったんだ。でもお前は、どこにもいなかった。俺が佐為に打たせなかったから、佐為は落胆して俺の前から消えたんだって、思った」

 

切々と佐為がいなくなってからのことを語るヒカルを、佐為はじっと聞いていた。

佐為が虎次郎と別れたときは、虎次郎がコレラの病にかかったことで、幾分別れが訪れるその日が前々から分かっていた。

けれどヒカルとの別れは、別れの言葉も伝えられないほど、神の采配は残酷で本当に唐突だったのだ。

 

突然、一人にされたヒカルの心中はいかばかりだったことだろう。どんなに佐為の意思一つではどうしようもなかったこととはいえ、子供を一人にさせてしまった事実は変らない。

それを思うと、佐為もまた胸を締め付けられる思いになる。

 

「ヒカルの前から私が姿を消して、私が再びヒカルを思い出したのは、2ヶ月ほど前になります。偶然見た対局中継に映し出されたヒカル見て、私は思い出しました」

 

「思い出した?俺のこと、忘れていたのか?ていうか、大体お前のその生身の体だって」

 

「私は確かに藤原佐為ですが、2ヶ月前までヒカルの知る藤原佐為ではありませんでした。囲碁とは全く無縁に生きてきて、それなりの大学を出て、仕事をして……そんな生活をしていたのです」

 

「どういう意味だ?もっと分かりやすく言ってくれよ」

 

佐為の説明が分からないとヒカルは首を捻る。

これについては佐為も確証があるわけではないので断言することは出来ない。

だから、ヒカルにも分かりやすいようにと一つ一つの言葉をゆっくり選びながら説明する。

 

「恐らく、これは私の勝手な推測なのですが、藤原佐為は平安時代に一度自殺したときに、幽霊になった部分と、輪廻転生を繰り返す部分の二つに分かれたのだと思うのです。幽霊になった藤原佐為はヒカルも知っているように、幽霊のまま一千年の時を現世に留まり神の一手を求め続けた。そしてもう一人の輪廻転生の輪に戻った藤原佐為は、こうして再び生まれ変わり肉体を得てごく普通の生活をしていた」

 

「うーん……分かったような、分からないような……」

 

両腕を胸の前で組み、頭を捻るヒカルに、『分からないなら分からないままで構いませんから、とにかく一度話を全部聞いてください』と苦笑し、佐為は話を続ける。

 

「二つに分かれた藤原佐為が一つに戻った最大要因は、やはり幽霊だった藤原佐為が己の役割を悟り成仏したことでしょう。そして生身の体を持ち、現世で生きてきた藤原佐為がヒカルを見つけたことで、一つに戻ることが出来たのではないかと、私は考えたんです」

 

「2カ月前に幽霊だったこと思い出してたんなら、何で思い出して直ぐに俺に会いに来なかったんだ?」

 

「会いたい気持ちはもちろんありました。でも……同じくらいヒカルに会うのが私は怖かった」

 

「俺に会うのが怖い?どうして?俺が怒ると思ったのかよ」

 

「幽霊だった頃の記憶を思い出してしばらく、私は混乱しました。生身の人間として生きてきた藤原佐為は、囲碁とは全く無縁の人生を送っていたのです。それがいきなり幽霊になっても神の一手を追い求めていた藤原佐為という二つの記憶が混ざり、人格がごちゃまぜになって自分自身が分らなくなっていたんです。自分は本当は何者なのだろうと。でも結局はヒカルに会いたい気持ちの方が強くて、こうして会いに来てしまったんですけどね」

 

あは、と無邪気な笑顔を向けてくる佐為に、ヒカルも毒気抜かれたように脱力してしまい、そのままベッドに仰向けに倒れてしまった。

 

(よかった。俺が佐為に打たせなかったから、佐為は消えたわけじゃなかったんだ)

 

再びヒカルが碁を打つようになっても、ずっと胸の奥底でわだかまり続けた悩みがすぅと消えていく。

と、悩みが一つ消えてしまえば、別の悩みが沸いてくるもので、ヒカルは仰向けにベッドに倒れていた体をガバッと起き上がらせ

 

「佐為、お前さ、ちょっと前にネット碁した?」

 

「しましたよ。ヒカル気づいてくれてたんですね、よかった」

 

これまた簡単に認め、胸の前で両手をパチンと合わせ佐為は喜ぶ。

 

「よかったじゃねえよ!聞いた瞬間、どうせ偽者のsaiだろってたかくくってたのに、和谷から見せられた棋譜はお前だったんだぞ?どんだけ俺が驚いたかと!」

 

通りでsaiのアカウントのパスワードを知っていたはずだとヒカルも納得できた。

ネットのsaiのアカウントパスワードはヒカルと佐為しか知らないのだ。テレビでたまに言っている個人情報流出とかなんとかいう問題で、saiのアカウント情報が漏れてしまったのかとさえヒカルは考えたのに、当の本人は至って気楽だ。

 

「幽霊だった頃の記憶が戻ったのはいいんですけれど、果たしてそれが本当の記憶なのか急に不安になって、本当の記憶ならば一度も石に触れたことがない私でもそれなりに強いはずだろうと思ってですね、試しに一局打ってみたんです」

 

「しかも俺が佐為の名前で登録したアカウントでわざわざな……」

 

「そのお陰でヒカルも私のことに気づくことが出来たじゃないですか~」

 

悪びれることなく笑い飛ばす佐為に、それは屁理屈だと咄嗟に言いそうになったが、指摘するのも馬鹿みたいに思えて、ヒカルはクスリと笑うだけに留まった。

 

「記憶戻って、これからどうすんの?お前もプロになるのか?」

 

佐為の実力があれば、プロになることくらい簡単だろう。けれど、昼間、アキラに『自分は碁を打たない』と言っていた佐為の言葉が過ぎる。

 

「なりませんよ。こうして面と向って碁盤を挟み碁を打つのはヒカルとだけで、あとはネット碁しかするつもりはありません」

 

佐為はサラッとプロになることを否定する。

思わぬ佐為の答えに、思わずヒカルは前のめりになってその理由を問う。

 

「え?何で?」

 

「ありえないからです。考えてもみてください。碁石を持ったのも一ヶ月足らずの人間が仮にタイトルホルダーを打ち負かしたら大変な騒ぎになるでしょう?」

 

「そりゃあそうだけど……、せっかく自分の体があって、自分で碁が打てるようになったのに……」

 

佐為の問いかけにそう答えたものの、ヒカルは佐為の実力をこのまま隠し通し続けるのが勿体無いと思いつつ、それ以上強く言うことができなかった。

ヒカル自身、初めてアキラと対局したとき、プロ棋士並みの実力を持ったアキラを打ち負かしたことで、ちょっとした騒ぎになった経験があるからだ。

ヒカルの時はまだアキラはプロ棋士になっておらず、佐為をアキラとそれ以上対局させなかったことで、騒ぎが広がることはなかった。

 

しかし、佐為の言うとおり、碁をはじめて間もない人間がタイトルホルダーを負かしたらヒカルの比どころの騒ぎでは済まないだろう。

アマがプロに勝つどころの話ではない。

佐為は『仮に』と前置きしたが、その実力は実際にタイトルホルダーを打ち負かすだけの実力が十分あるのだ。

 

「そんな顔しないでください」

 

落ち込んでしまったヒカルを佐為は気遣う。

 

「だって……」

 

「何も碁を打たないと言っているわけではありません。プロでなくても、ネット碁だって碁は打てる。3年前とは違い、今の私にはこの身があるのですから。それだけでも奇跡と思い感謝しなくては」

 

どんなに強くても、石を持てず碁が打てなかった頃と違い、体がある今ならヒカルを通さず自分ひとりで石を持ち、碁が打てるのだ。

 

「ですから、ヒカルは私が碁を打たないということにしてください。単に気があった友人と。それ以上何か言われたら適当にはぐらかすか、どうしても誤魔化せないときは、言いたくないとでも言って堂々とシラを切り通してください」

 

今後のことについて冷静に計画を立て話す佐為を黙って見つめていたヒカルが、ポツリと独り言に近い呟きをこぼす。

 

「佐為、なんか変わったな。俺の知ってる佐為は、碁が全てって感じだったのに」

 

そんなヒカルに佐為は、どう言ったものかと迷いつつ、佐為自身が思う本当の気持ちを正直に伝えた。

 

「……生身の人間として生きる以上、私にも生活がありますからね。碁ばかりで生きてはいけないのが現実です。それに、……碁と全く関わらずに現世を生きて来た藤原佐為としての人格も、幽霊だった藤原佐為と同じくらいあるのです。その二つが今の私を創る。それではダメでしょうか?ヒカルは幽霊だった藤原佐為しか必要ありませんか?」

 

恐れを滲ませ問われた内容に、ヒカルはそれこそが佐為が最も恐れ、そのために自分に会うことを躊躇ったのだと今分かった。

ヒカルは幽霊だった藤原佐為しか知らない。

 

そこにいくら幽霊だった藤原佐為の記憶を持つ自分が現れても、3年前とは異なる関係と、今目の前にいる現実の佐為の人格をヒカルが受け入れることが出来ないのではないかと、ヒカルに拒否された時のことを恐れたのだ。

ヒカルは俯きふるふると首を横に振り

 

「ううん。俺のほうこそごめん。そうだよな。佐為だってこれまで生身で生きてきた人生があるんだから、少しくらい前と性格変ってて当然だよな。生身なら食事とか生活とかいろいろすることがあって、囲碁ばっかり打ってるわけにはいかないんだし」

 

自分の浅はかな言葉がまた佐為を傷つけてしまったとヒカルは素直に謝る。

 

そして、今の佐為が、二年前までの佐為と違ってしまっていることを承知した上で、

 

「佐為が佐為なら、それでいいよ。俺にまたこうして会いに来てくれた。それだけで十分だ」

 

「ありがとう、ヒカル」

 

ヒカルの返事に、佐為が目に見えてほっとしたように胸をなでおろし微笑む。

それを見たヒカルがさっそくと、

 

「じゃあさ、俺以外の誰かとでも、ネット碁なら打つんだろ。だったら塔矢先生ともまた打てるじゃん!先生、病院でもすごく佐為と打ちたがってた!俺とネットのsaiの関係を今でもずっと秘密にしてくれてるんだし、今度塔矢先生に対局の連絡取ってみるか?きっと先生喜ぶと思うぜ?」

 

日本のプロこそ行洋は辞めてしまったが、今でも中国リーグのチームと契約し、世界の第一線で行洋は戦っている。

その行洋と佐為の対局なら、またすごい対局になるとヒカルは瞳を輝かせる。

 

「それでしたら、すでに直接会ってお話もしてますよ」

 

「へ?」

 

もしかしたら、これが今日一番、ヒカルを驚かせたかもしれない。

 

「塔矢先生とはすでに直接お会いして、私がヒカルの前に現れ噂になっても何も行動しないよう話をつけてあります」

 

「塔矢先生ともう会ってたのか?俺とこうして会うより前に?」

 

「だって、ネットのsaiと同じ名前の私がヒカルの前に現れたら、余計な詮索をしてくる輩が出てくることが十分考えられますからね。特にアキラと緒方は私とヒカルの関係を疑ってます。その上で私たちの繋がりを唯一知っている塔矢先生にも誰かしらより話が伝わるでしょう。そのとき下手に塔矢先生が動いて、私たちの関係をこれ以上他者に知られるわけにはいきませんから、先手を打ったまでです」

 

だから安心してください、と締めくくった佐為に、ヒカルは以前との違いをさまざまと見た気がした。

3年前までなら何にも触れることが出来ない幽霊でヒカルを通さない限り佐為自ら行動するということが出来なかったが、生身の体があるとここまで先読みしてしっかり行動するタイプだったかと、半分感心、残り半分呆れの境地だ。

 

佐為のこの様子ではアキラと緒方がどんなに策を弄そうとも、すべて佐為の思惑の範疇で転がされていてもおかしくない。

 

「だったら次の対局の日程も、塔矢先生と決めてきたのか?いつだ?」

 

話の流れ的に、ヒカルは深く考えず尋ねてみただけだったのだが、

 

「ええ、対局は明日の午前十時から前回と同じネット碁で。持ち時間三時間の白コミ六目半の互戦を約束してます」

 

話している間にすっかり更けてしまった春の夜空に、ヒカルの絶叫が木霊した。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。