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北斗杯の表彰式が始まり、対戦成績の発表が一位から順に表彰される中、一位の日本には新規スポンサーである佐為から表彰状と賞金の目録が手渡された。
北斗杯は日本の企業主催の大会であり、大会そのものも日本で開かれる。そのため自国が一位を取ればやはり嬉しいものだ。
大盤解説の会場にも一般客が、この三日間を戦い抜いた選手に拍手を送ろうと多くの人数がまだ残っている。
去年の日本対韓国戦が惜しかっただけに、今年の成績を喜ばない者は一人もいないだろう。
そして、ようやく各国団長からの挨拶が終わり、これで表彰式も終了というとき、一人元気に挙げられた手があった。
「はいはい!」
「え?進藤君?な、何かあるのかな?」
「うん!あるから喋らせて!」
突然のヒカルの言い出しに、司会者がどうしたものかと団長の緒方に助けを求め、視線を向ける。
しかし、
(塔矢先生の言っていた通り、何かする気か)
緒方は、隣から元気に挙げられるヒカルの手を、見てみぬ振りを決め込んでいるのか、腕を組んでそっぽを向いたまま司会者と全く視線を合わせようとしないのだ。
逆に司会者に助け舟を出す気はさらさらなく、司会者にヒカルのやりたいようにらやらせろと無言の圧力をかけているようにも取れる。
普通なら団長の緒方が一言なり嗜めるはずなのに、と戸惑いながら、その緒方が止めないのでは司会の自分が選手であるヒカルを無視するわけにはいかない。
「じゃあ、手短にね、進藤くん」
心配しつつマイクをヒカルに渡すも、その心の中では、ヒカルが絶対これから何か良からぬことをやらかすと警鐘が鳴っている。
表彰式の経過を見守っていた佐為も、ヒカルが何を考えているのか分からず、壇上を見守る。
そんな佐為を一瞥してから会場を見渡すと、似合わない神妙な顔つきでヒカルは切り出した。
「急にすいません。でもどうしても言いたいことがあって。それは……この場をお借りして、自分を今日まで指導し、導いてくれた人に感謝を伝えさせてください。」
「ぶっ!」
飲もうとしていたシャンパンが咽てしまい、佐為はわたわたとスーツのポケットからハンカチを取り出し口元を拭う。
(ヒカル!何を言う気、まさか!?やめてくださいよ!)
出来るものなら、今すぐにでもヒカルの口を押さえ、そのままヒカルを攫って会場から連れ出したかった。
けれど、そんなことが出来るわけもなく、ヒカルがマイクを持って嬉々と話すのを黙って聞くしか出来ない。
「その人は、俺にとって碁を教えてくれた師匠であり、とても大事な友人でもあります」
途端に会場にどよめきが起こる。アキラの師は今更言うまでもなく父親の行洋だ。社も関西棋院所属のプロ棋士がいる。二人に対してヒカルの師匠欄にはこれまで一度も記入はなかった。
「進藤を指導してきた人?そんな人いたのか?」
「さあ?でも進藤って確か師匠っていないはずだろ?」
会場のあちこちで起こるざわめきを眼下に、ヒカルは息を大きく吸い、用意していた言葉をマイクに通した。
「ネットのsaiって言えば分る人も少なくないと思います」
次にざわめいたのは一般客や碁に詳しくない関係者ではなかった。その会場にいた棋士たちが一斉にざわついたのだ。ネットのsaiを知らなくても、棋士たちがざわついたことに、客や関係者たちもネットのsaiとは誰なのかと騒ぎ始める。
「こいつは、やるねぇ進藤君」
楊海が鼻を鳴らす。せっかくの日本にまで足を運んだのだから、三位以外の土産があった方が、中国棋院に戻ったとき責められる声も少なくなる。
(ひぃ!それ以上はやめっ!)
佐為が心の中で懸命に叫ぶのも空しく、
「囲碁なんて全く知らなかった俺に、石の持ち方から今まで教えてくれたのは、そこにいる藤原佐為です」
ヒカルが壇上から指差した佐為に、会場全ての視線が集まった。
(ホントに言った……。どういうつもりなんですか、ヒカルの馬鹿……みんなの前で宣言して、これじゃ誤魔化すなんてとても出来ないですよ……)
これだけきっぱり公言したのを、佐為が今さら何を言っても無駄なのは分かっている。分かっていても、どうにか誤魔化せないかと考えてしまう。
「ありがと佐為。俺は佐為と出会わなかったら、こうして囲碁を打ってることは絶対無かったと思う。佐為と出会えたから、今の俺がここにいるんだ」
しみじみと感慨深く話すヒカルに、演説を聴く誰もが目頭を熱くさせていることだろう。しかし、佐為が目頭を押さえているのは、愛弟子の感謝の言葉に感極まっているからではなく、これから自身がsaiとバレて騒がれるだろうことへの頭痛で目頭を押さえているだけだ。
つい先日、ホテルの部屋に緒方が対局を対局を申込みに訪ねてきたときは自身がsaiではないというアリバイを言ったばかりだというのに、調べられたら佐為とsaiの矛盾は数えきれないほど出てくるだろう。
「だから、いいじゃん。矛盾とかさ、全部無視(シカト)すれば」
「え?」
先ほどまでの神妙な口調が嘘のように明るく言い放つ。
「だって佐為が強いのは事実だ。それだけは変わらない。佐為が負けるところなんて、俺は一度だって見たこと無い。お前は、誰よりも強い」
現役トップ棋士だった行洋にさえ、佐為は真剣勝負で勝ったのだ。
恐らくこの会場にいる誰より、佐為は強いとヒカルは確信している。
「色々詮索してくるヤツらなんて適当なこと言って誤魔化せばいいさ。佐為が強いのは紛れもない事実なんだ。俺も説明するのメンドクサイし。お前、口上手いから、そういうの得意だろ?」
ヒカルの言葉に、さすがに会場がどよめいた。
初めこそ今まで知られていない影の指導者に愛弟子が感謝の言葉を述べるという、中年年寄りが大好きな涙と拍手を誘う場面のはずだったのに、それがいつの間にか『適当に誤魔化す』で『メンドクサイ』に変わっている。
反対に会場のサイドで話を聞いていた行洋などは、あたかも今にも笑い出してしまいそうなのを懸命に堪えるかのように、口元を手のひらで押さえ斜め下を向いてしまっている。
昨日の夜は不謹慎にも佐為の怒る顔を一度くらい見てみたいと思ってしまったが、今の佐為の顔には負けるだろう。
「観念するんだな、佐為」
佐為の隣で事の成り行きを静観していた戸刈が、さらりと駄目押しする。
ここまで言われているのに、佐為が否定すれば、間違いなく大騒ぎになる。言い出したヒカルを含めてだ。故にこの騒ぎを穏便かつ和やかに締めくくるには、佐為が認めるのが最善なのだ。
佐為が用意していた最後の味方まで、ヒカルは簡単に味方に付けてしまう。
「全く……貴方という人は……」
困ったような、けれど込み上げる嬉しさが滲み出たような微笑で佐為は、壇上のヒカルを見やった。
「ありがとう、ヒカル」
佐為が自身をネットのsaiであることを公衆の面前で初めて認めた瞬間だった。
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「塔矢先生ともネット碁で対局されたというのは本当ですか?しかも藤原さんが対局に勝ったというのは?」
「もし本当なら藤原さんはプロ棋士ではないですよね?それらしい大会に出た記録もありませんし、藤原さんはどういった碁の勉強をされたんですか?」
ネットのsaiであることはもちろん、引退してもトップ棋士であり続ける行洋に真剣勝負で勝ったという佐為に、集まっていた棋士はもちろん記者たちが次々と質問を投げかける。
会場にいた行洋がsaiに負けていることを自ら認めたことで騒ぎは一層大きくなっていく。記者の中には記事には出来なくても行洋が引退する一因になっただろうsai vs toykoyoの対局を知っている者もいた。
噂だけはずっと数年前から今まで消えることなくあったのだ。
プロより強いアマがどこかにいる、と。
一見して何の根拠もないネットの噂だったが、強さだけが重視される囲碁で、その噂が広まるだけの根拠がなければ噂などあっという間に消えていただろう。
その正体不明の棋士が、感動的なヒカルの告白で明らかとなったのだから、記者が食いつかない筈がなかった。
「それはもちろん」
「もちろん?」
もったいぶった言い方をする佐為に、記者たちが鸚鵡返しに反芻する。
「本を読んだり詰め碁を解いたりしました」
途端に微妙な沈黙が流れる。
「……本読んで、詰め碁を解いただけ?」
「そうです」
さも当たり前とばかりに佐為は極上の笑みを称える。
「しょうがないじゃないですか、それで強くなれたんですから。ね、ヒカル」
「うん。しょうがない」
2人顔を合わせて悪戯っこのようにニンマリ笑む。
感動的な告白だった。これまで師匠がいないとされてきた棋士が、自らの師を明かし、礼を述べるという、絵に描いたような感動劇だ。
だが、感動劇と一緒に、強さについては適当に誤魔化すと公言したとおり、二人は適当なことしか言うつもりがないのだ。
「お父さんは藤原さんの強さの秘密をもちろんご存知なのですよね?」
会場の隅で様子を面白そうに眺めていた行洋の隣にアキラが立つ。
「大まかには」
「でも、教えてはくれないのですね」
「明らかにすべき秘密とそっとしておいた方がいい秘密がある。そしてこの場合、後者だと私は思う」
「卑怯な逃げ方だ」
間髪入れずアキラは行洋を非難する。
自身の父であり師ではあっても、3年前のsaiとの対局の時と同じく、これだけ騒がれておきながら黙り続ける行洋に文句の一つや二つ言いたくなる。
「……おかしなものだ」
「お父さん?」
少し拗ねたように非難したアキラに気を悪くするどころか、クスリと笑みを零す。
どこか嬉しそうな雰囲気にアキラは首を傾げた。
「少し前まで、プロ棋士であったときの私は外面を重視し過ぎていたのかもしれない。それもプロ棋士としてあるべき模範の姿であったと思うが。突き詰めるだけの囲碁から一歩後ろに下がって周りを見渡せば、こんなに心に余裕が出来るものなのだな」
神の一手を極めることを目標として碁を打つことは今も昔も変わらないが、中心から周囲を見渡すのではなく、一歩離れた場所から中心を見るのでは、見える景色は全く別物だ。
「プロ棋士をやめて言い訳が上手くなったとは思います」
上手く誤魔化されて納得出来ないアキラが、悔し紛れに言い残し、壇上の方へ行ってしまう。
壇上では変わらずヒカルと佐為が取材陣に囲まれている。
だが、言及を重ねられても、ヒカルと佐為の表情が曇ることはない。
明るい表情のままで受け答えを続けている様子からして、『適当に誤魔化し』ているのだろうと分かる。
あまりにも明け透けに誤魔化されて、記者たちは気が抜けたような乾いた笑いを零すしかなかった。