夜。
大会会場であるホテルラウンジのバーカウンターで酒を一人飲んでいる緒方の姿を見つけ、行洋は断りをいれず隣の席に座った。
「……塔矢、先生」
今最も会いたくない人物に会ってしまったかのような苦々しい表情になり、緒方は行洋から顔を背けた。
そんな緒方に苦笑一つして、
「ネットのsaiとて、悪戯に周りをからかって自身の正体を隠したいわけではないと私は思う。彼にも正体を表立って名乗ることが出来ない理由があるのだ。そこまでして守りたいものも」
「ああも隠れたい理由なんて、私にはさっぱりですね。それを一緒になって隠す周囲も」
言葉使いを最小限にして緒方はつっけんどんな態度を返す。
酒の場だ。多少なり師と弟子の関係が緩くなっても許されるだろう。
先ほどの言葉にはヒカルだけでなく行洋も含まれているのだが、やはりと思う。行洋がこうして緒方を気遣ってくるということは、はやり藤原佐為はネットのsaiなのだと改めて思う。
師である行洋だけがsaiと対局できて、自分は対局を受けてすらもらえない。その差に嫉妬を覚えずにはいられず、自身の師であっても今だけは顔を合わせたくなかった。
けれど、行洋はそんな緒方の心情を少なからず察しているだろうに、立ち去る気配はなく、
「だが、saiが何を守ろうとしているのかくらいは、緒方君も分かるだろう?」
「え?」
「だからと安易にそれに手を出せば、saiは怒るだろうからオススメはしないがね」
千年の時をかけ育てたヒカルに良からぬ手を出せば、佐為は烈火のごとく怒るだろう。
その光景を想像してしまい行洋は苦笑し肩を竦めた。
「私からは何も言えないし、どう動くこともできない。初めて対局した時、私は引退を賭け、saiは負ければ素性を明かすことが対局条件だった」
「会ったこともない相手に引退を賭けて対局したのですか?」
「だからこそだ。素性が知れずネット碁に隠れて打つだけの相手に、自分は決して負けないと思った。そしてプロ引退を賭けたからには、必ず勝って素性を明かさせるつもりだった」
淡々と行洋は当時のことを思いだすように話すが、実際いきなり行洋が4冠というタイトルを持った状態で引退した時は囲碁界全体に激震が走ったのだ。
関係者や親しい者は行洋の引退を引き留めようとしたし、棋戦のスポンサーからは棋院に何度も電話があり、直接経緯や今後のことを確認しにくる会社もあった。
それが公式戦ですらないネット碁で行われた一局が原因だと本人の口から聞かされて驚かないという方が無理だろう。
実際、噂は緒方も耳にしていた。行洋が引退したのがネット碁でアマに負けたからではないのか?と根も葉もない噂が流れたのは知っている。
しかし行洋とsaiの対局内容は紛れもない名局で、負けた一局だとしても決して恥じるような内容ではなく、ましてやそれが原因で引退するとは到底考えられなかった為気に流していた。
しかし本人の口から真相を聞かされ、しかも行洋は口約束を実行し、プロを引退した。素性を明かせばいいだけのsaiと違い、行洋は失うものが大きすぎる。
(ネット碁の対局で本当に引退するなんて………)
逆に考えれば、それだけの覚悟があったからこそあれだけの名局が生まれたのかもしれない。観戦していただけの自分ですら、常に画面から目が離せず気持ちが高揚し、終局してからも行洋に逆転の一手がないか探し続けた。
対して引退を賭けて対局に臨む行洋を退けたsaiも、自身の賭けるものが素性だけだったとしても生半可な心構えでは、行洋の一手に応える以前の話だったろう。
実際、行洋も病室でヒカルと交わしたsaiとの対局経緯を話すのは緒方が初めてである。公式対局でもないネット碁の一局を理由に引退すると言えば、血迷ったかと疑われ、saiへ余計な注目が集まるのは予想できた。
だからこそ引退の理由は全て一身上の都合ということにしたのだが、言葉を失っている緒方に
(自分の師がネット碁で引退するなど呆れられたかもしれんな)
と周囲には迷惑をかけてしまったが、当時の自分の判断を懐かしむ。
だが、今でも引退したことを後悔していないのだから致し方ない。
「けれど、saiがあれだけ懸命に守ろうとする相手が、一方的に守られているだけの現状に満足するだろうか?」
「塔矢先生?何を……?」
「きっと守られているだけで満足はしないと私は思う。彼はもう見守られているだけの子供ではなくなったのだから」
佐為と初めて対局したネット碁で、行洋は改めて思い知った。人はいくつになっても未熟で、成長に限界はないのだと。
ネットのsaiと打つことで、行洋は新しい自分を見つけ、日本の中で留まっていた目を世界に向けることが出来た。
ヒカルが佐為を失ったことで成長できたのなら、次は佐為の番だろう。成長したヒカルに、今度は佐為の方が素晴らしい何かを教えてもらう番だ。
「進藤君に明日楽しみにしてくれと言われた。彼が何を企んでいるのか、面白そうだ」
ロビーでヒカルと交わした会話を、ほんの少しだけ緒方にも伝える。
たっぷりの悪戯と希望を同じくらい瞳に映して輝かせていたヒカル。いくら佐為でもヒカル相手なら怒るに怒れないだろうと踏んでいる。
そう言った内心では、冷静さを崩したところのない佐為の怒った姿を一度くらい見てみたくもあるな、と行洋は他人事のように思った。
□
北斗杯、対局3日目当日。
団長と選手の4人で対局場入りしたヒカルが、ふいっと顔を横に振り向く。それに釣られるようにしてアキラも振り返れば『藤原佐為』という人物が、会場の一角で+スタッフ数人と打ち合わせをしている姿が視界に入り、顔を僅かに顰める。
(また『藤原佐為』なのか……彼が本当にネットのsaiなのか?でも、進藤と初めて碁会所で打った対局は……)
ヒカルが固執する『藤原佐為』がネットのsaiと完全に無関係とはアキラには、どうしても思えない。
ネットのsaiはもう一人のヒカルだと堅く訴える自分と、目の前でスポンサーとして現れた『藤原佐為』がネットのsaiだという自分。
二つの自分がアキラの中で衝突し、対局前だというのに迷いが大きくなる。
「アキラ君?」
神妙な顔つきになっているアキラに、対局カードを受付に申請してきた緒方が声をかけるも、すぐにその原因を見つけ、顔を上げた。
『藤原佐為』はこちらに気づかない様子で打ち合わせを続けているようだが、ヒカルはまだじっと見ているのだ。
「俺は佐為を裏切りたくない。それは今も、これからも変わらない。俺の大事な友人だ。でも、だからって佐為に守られているだけの自分も嫌なんだ。ずっとそこに在ると思っていたものが、何の前触れもなく急にいなくなる。あの時みたいな後悔は絶対するもんか!!」
唐突にヒカルが誰に言うでもなく毅然と言い出し、アキラと緒方はぎょっとする。
けれど、先日、廊下で会話したときと違い、すぐ傍に社とているというのに、ヒカルの瞳に迷いはなかった。
「塔矢!今日は絶対勝つぞ!」
呆気に取られているアキラに構うことなく、ヒカルはさっさと自分の席へ行ってしまう。
「誰にモノを言ってるんだ?言われなくとも、ボクは勝つ!」
意気込むヒカルに一歩遅れて、アキラも毅然と言い放ち自らの席へ向かう。
その後に一人残された社は
「だから、俺もいるっちゅーねん。いい加減にせえ。全くお前ら、俺を何回忘れる気や?俺だって今年は勝つ!」
北斗杯出場が決まったスポンサーの挨拶ではヒカルが号泣し出し、いざ合宿となれば、突然団長が倉田から緒方へ交代し、自分の知らないうちに勝手に周りは進んでいる。
自分だけ取り残されているような疎外感に、ぶつぶつと文句を垂れて社が席へ向かうその後ろで、緒方は場を忘れて爆笑した。
■
3日目の対戦カードは、大将戦が高永夏対塔矢アキラ、副将戦が林日煥対進藤ヒカル、三将戦が洪秀英対社清晴となった。
去年との違いは大将戦と副将戦の対戦相手がそれぞれ代わっただけだ。
『去年のように今年は進藤君を大将にしなかったんですね、緒方先生』
安太善が平静を装い、探りを入れてくる。去年の大番狂わせがあっただけに、今年もヒカルを永夏にぶつけてくるのではと疑っていたのだ。
最も高永夏はというと、実力で自身が韓国代表の大将となることを譲る性格ではないので、団長の安太善が頭ごなしに言ったところで、ハイソウデスカと頷くものでもなかったのだが。
大方の予想通りと言えばそこまでだが、緒方が何の魂胆もなしに、アキラを高永夏にぶつけ、ヒカルを副将に据えたとは思えなかった。
対して緒方はというと、韓国出場選手の実力から言って、韓国の出場カード順に今年も変わりがないと踏んでいた読み通りの対戦カードだ。
「去年は知りません。今の状態でのベストを選んだだけです」
『でも、一昨日の進藤君はすごかったじゃないですか?あの進藤君相手なら高永夏でも』
「アイツは極端に波がありますから、今日も一昨日と同じように確実に打てるなら大将にしてもよかった。その代わり、今年は本気で日本は狙わせてもらいますよ。一位」
余裕たっぷりに緒方は答える。もちろん昨晩のミーティングで、ヒカルは今年も高永夏と対戦したいと散々ごねていたのだが、緒方が適当な理由と、合宿で使ったハリセンも合わせて、上手く丸め込んだ。
勢いと無鉄砲さだけで勝負に勝てれば、こんなつまらないゲームはない。
去年のことは緒方も倉田からある程度聞いていたが、だからと緒方まで倉田に乗ってやる気はなかった。
自身が団長を務めるからには、本気で一位を狙わないでは勝負師が廃るというものだ。
昨日の夜まで、佐為に対局を断られて不満顔のしかめっ面で酒を煽っていたのは誰だっただろう?
二人のやり取りを目の前に、行洋はまだまだ若い部分が抜けきらない弟子に、黙したまま笑みを零した。
対局が始まると三つの盤上で序盤のうちから早くも戦いが始まり、大盤解説を今年も担当していた渡辺は、3つの盤面をそれぞれ解説するのに悪戦苦闘することになる。
(盤面三つとも、こんな序盤から戦い始めるなんて)
プロの対局を一般客に説明するのは、一つの盤面だけでも説明に苦労するし時間もかかる。それが三つもとなると、要所を全て解説するというわけにはいかなくなる。
それでも、打たれる一手が若い力がぶつかるどれも心躍るものなのだ。
渡辺は自身の休憩時間を削っても、懸命に対局の解説を続けた。
■
『どうしたんだ?三人とも、じゃなくて3つの盤面か……。タガが外れたというかなんというか、やっぱり永夏まで……』
中継画面を観戦しながら安太善は頭痛のする頭を抱えた。
高永夏の対戦相手が塔矢アキラだと分かり、去年ほどにはならないかと安堵したのは全くの無駄だった。無駄どころか、ここしばらく見ないほど、対局している全員が無茶とも取れる一手を次々打つのだ。
「えらくみんな好戦的だなぁ~」
中国チームが打っている対局ではないからか、高みの見物とばかりに楊海が楽観した感想を言っている。
「息子さん、えらく弾けてませんか?兄弟子の緒方先生から見てどうです?」
楊海に問われて無言を通す行洋の代わりに、緒方が口を開く。
「まだまだですよ、でも面白い。見ているこっちまで碁が打ちたくなる」
言葉の端々から、緒方も対局に刺激されていることが伝わってくる。
「一昨日の進藤君の対局に刺激されたか」
好戦的、それも確かに当てはまるだろう。
けれどその根底にあるのは、出場選手の『碁が打ちたい』という純粋な気持ちが爆発した現れのように行洋には感じられた。
佐為がヒカルと再び出会うことで、ヒカルが刺激され、その刺激がさらに北斗杯出場者たちに水面に落ちた波紋のように広がっていく。
この波紋は今回の北斗杯に留まらず、対戦した中国、韓国、日本、そして対局を観戦したり、棋譜を見るだろう台湾の棋士たちの心をも揺り動かす。
まだ見えない未来が様々と見えるようだった。
『ありませんっ……』
三つの対局で最後までかかった副将戦で、林日煥が自身の負けを宣言する。
「ありがとうございました」
対局の終了を宣言し、ヒカルはふう、と張り詰めた気を解いた。
最後まで黒と白の間で半目が揺れていた。
それを白のヒカルが制したのだ。
チーム戦いとしては、大将戦を高永夏が勝ち、三将戦を社が勝った。それにヒカルの勝利も合わせて日本チームの勝ちとなる。
凡その予想を裏切り、日本が一位になったことが決定した瞬間だった。
対局会場の壁際に立ち、選手たちに拍手を送っている佐為の姿を見つけると、初日の対局の時と同じように、佐為は満面の笑顔を向けてくる。心からのおめでとうと、全力を尽くした対局全てに敬意と賞賛をはらいながら。
(見てろよ、佐為)
俯き加減にヒカルの口角が斜めに上がり、ニンマリとする。
勝負は終わったというのに、ヒカルの目から光が消えることはない。