やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 作:鮑旭
その場の空気に、俺は異常な居心地の悪さを感じていた。
ALSとの会談場所に選ばれた店の一室だ。中央に長テーブルが配置してあるだけの簡素な部屋だったが、古艶を放つ木製のテーブルと椅子が部屋の雰囲気とマッチしていて、そこはかとない高級感がある。
部屋に置かれているのは10人掛けのテーブルだったが、今は俺を含めて2人のプレイヤーしかいなかった。ドアから向かって右手側、下座から2番目の席に腰かけている俺と、テーブルを挟んで対面の席に座る1人の女プレイヤー。
――雪ノ下雪乃。
リアルでの俺の数少ない知り合いだった。その関係を簡潔に言ってしまえば、同じ部活の部員である。会えば挨拶を交わし、部活中にはそれなりに会話もするが、お互いの連絡先などは知らない、その程度の関係。まあ俺も雪ノ下も自身の交友関係は壊滅的であるので、相対的に見ればそれなりに親しい関係であると言えなくもないかもしれない。
そんなリアルでの知人との再会という予想外の出来事に水を差された形となってしまったALSとの会談は、一時中断せざるを得なかった。そして事情を察したクラインやシンカーたちの気遣いにより、しばらく2人で話す時間を与えられたのだった。
だが、俺は正直雪ノ下と何を話したらいいのかわからなかった。俺たちがSAOに囚われる少し前、修学旅行や生徒会選挙を経て、俺たちの関係は歪なものに変わってしまっていたし、そしてそれは未だ解消されていないのだ。
そうした鬱屈した感情を抱えながらも、このままずっと黙り込んでいるわけにもいかなかったので、意を決した俺はようやく口を開いた。
「……お前がこんなコアなゲームやってるとは思わなかったぞ」
口をついて出たのはそんな当り障りのない言葉だった。しばしの沈黙の後、雪ノ下もそれに答える。
「姉さんに押し付けられたのよ。多分、私の家で母に隠れてやるつもりだったんでしょうね。母はこういったものが嫌いだから……。私自身もVR技術というものには少し興味があったから、姉さんが始める前に少しだけやるつもりだったのだけれど……」
「それで巻き込まれたわけか……」
雪ノ下の姉――雪ノ下陽乃には何度か会ったことがある。雪ノ下同様の完璧超人であるがそのパーソナリティは大きく異なり、人当たりのよい外面で意のままに他人を操る魔王のような人間だ。俺の印象では面白そうなことにはとりあえず首を突っ込んでみるような人だったし、SAOに手を出していても何ら不思議はなかった。
「あなたこそ、何故このゲームを? ナーヴギアとソフト一式を揃えられるほどの経済的余裕があなたにあるとは思えないし……どんな手口を使ったのかしら?」
訝し気な表情で雪ノ下がそう尋ね、俺はそれに渋面を作って答えた。
「人を犯罪者っぽく言うんじゃねぇよ。スカラシップで浮いた予備校代をちょろまかした分とか、色々あったんだよ」
「それも十分褒められた手段ではないのだけれど……」
雪ノ下はそう言って頭に手をやり、ため息をついた。
たわいないやり取りだったが、俺はそこに妙な安堵感を覚えていた。心の奥底にあるしこりは未だ解消されていないままだったが、半年以上の空白の時間が俺たちの関係を少しはましなものに変えてくれたのかもしれない。
そして少し気が楽になった俺は、さらに会話を続けた。
「それでお前、今ALSにいるのか?」
「ええ……でも、正確にはもうALSではないわ。大幅な方針転換に合わせてギルドの名称も変更されたの。Aincrad Leave Forces――ALF。日本語訳でアインクラッド解放軍よ」
「軍って……また厳つそうな……」
一瞬、鬼軍曹の恰好をした雪ノ下が頭を過った。はまり過ぎて怖い。
そんな妙な想像に頭を働かせていた俺に、今度は雪ノ下が尋ねる。
「比企谷君は……風林火山に居るのよね?」
「まあ色々成り行きでな」
「……お互い色々とあったみたいね」
感慨深げに雪ノ下は呟いた。紆余曲折を経て俺が風林火山に落ち着いたように、雪ノ下にも様々なことがあったんだろう。お互い進んで団体行動をとるような人間ではないし。
ひとまずお互いの現状を確認したところで、次いで俺はずっと気になっていたことを雪ノ下に尋ねた。
「……お前、この世界で他に知ってる奴とかに会ったか?」
その問いに、雪ノ下は間を置かず首を横に振った。
「いいえ。あなたに会ったのが初めてよ。まず私の周りにこういったゲームをやりそうな人間が居ないし……」
「そうか……」
材木座とかはすげーやってそうなイメージだが……悲しいかな、材木座は雪ノ下に「周りの人間」として認知されていないようだ。ちなみに材木座はβテスターには落選していたし、一般販売分も手に入らなかったと泣き言を言っていたのでSAOの中には居ないはずだ。
俺の質問の意図をどう解釈したのか、どこか遠くを見るような表情で雪ノ下が再び口を開いた。
「少なくとも、由比ヶ浜さんはこの事件には巻き込まれていないと思うわ」
「……まあ、あいつはこんなゲームやるような奴じゃねえよな」
そこで会話が途切れ、お互い視線を落として沈黙した。
――由比ヶ浜結衣。
3人目の奉仕部の部員であり、雪ノ下の唯一と言っていい友人だ。認めるのは少し癪だが、俺にとっても由比ヶ浜はそれなりに親しい知人と呼べるかもしれない。まあこれも俺の乏しい人間関係から相対的に見ての話ではあるが。
奉仕部の中で1人現実世界に残されたあいつは、今頃どうしているのだろうか。それを想像すると、妙に気持ちがざわついた。
「……奉仕部、なくなっちまったな」
胸中に沸いた暗い感情を振り切るように、俺は言葉を発していた。その言葉に深い意図はなかったのだが、何故か雪ノ下は驚いたような顔をして俺を見た。その視線に居心地の悪さを感じて、俺は再び口を開く。
「……なんだよ?」
「いえ……なんでもないわ」
珍しく少し戸惑った様子の雪ノ下は、言葉を濁すようにそう言って俺から視線を逸らした。そして少しの沈黙の後、何かを誤魔化すように口を開く。
「……それにしても、茅場晶彦もまだまだね。比企谷君の目の腐り具合が半分も再現出来ていないわ。いえ、この場合は茅場晶彦の想定の上をいったあなたを褒めるべきかしら」
「人に褒められてこんなに嬉しくないのって初めてだわ……」
こいつはどんな状況でも俺を罵倒しないと気が済まないのだろうか……。まあSAOに来てからも毎日のようにアスナに罵倒されてきた俺に隙はない。無問題だ。
そこまででとりあえず話すべきことは話し終わったので、そろそろクラインたちと合流するか、と俺が考えていたところに雪ノ下が「そう言えば」と口を開いた。
「あなたのプレイヤーネームは何というのかしら? こういったゲームの中で本名を呼び合うのはマナー違反なのでしょう?」
「あー、そうだったな。俺の名前はハチだ。お前は?」
SAOでは既に全プレイヤーが顔バレしているので本名なんぞ今更な気がしないでもないが、ゲーム内では未だにそう言った風潮が強かった。雪ノ下を名字以外で呼ぶのには少し抵抗があるが、一応俺たちもそれに倣うべきだろう。
そう考えて俺は口を開いたのだが、問い返された雪ノ下はそれに答えることもなく、目を丸くして固まっていた。しばらくしてからようやく気を取り直すと、次いで雪ノ下は何故か怒気を帯びた表情で口を開いた。
「……ハチ? あなたが?」
「いやぁ、まさかユキノさんが好きな『hachiという漢』の主人公が、実はリアルでの知人だったとは……何だか運命的なものを感じるね!」
先ほどALS、改めALFと風林火山の会談が再開されたのだが、開口一番シンカーはからかうようにそんなことを口にした。そうして満面の笑みを浮かべていたシンカーだったが、すぐに隣の席から氷のような視線が注がれる。
「シンカーさん、この男とそう言った勘繰りをされるのは非常に不愉快です。そもそも私はハチという登場人物に好意を抱いていたわけではなく単純に小説としてあの本を評価しているだけであって彼自身には全く魅力を感じることはありませんしあり得ません。まあこの世界では小説媒体の活字に触れること自体が少ないので日頃より少し過剰な反応をしてしまったことは否めませんがそもそも私は――」
「す、すまなかった。邪推だったね。忘れてくれ」
捲し立てる雪ノ下にシンカーが苦笑いを浮かべてそう答えると、雪ノ下もそれ以上追及することはなくため息をついた。そのやり取りを横目に見ていた俺も同じく嘆息する。
会談前にトウジが言っていた『hachiという漢』のファンである女プレイヤーというのは雪ノ下のことだったらしい。まああいつ本好きだし、トウジの言っていた通り作品自体を好いているんだろう。俺は読んでいないので詳しくは知らないのだが、人に聞いた話ではアマの作品にしてはそれなりに文章もしっかりしていて、ハードボイルドな作風で読み物としては中々面白いらしい。だから雪ノ下の発言にも他意はないはずだ。さっきからシンカーと同じく妙な勘繰りをしているであろうクラインが意味深にニヤニヤとこちらに視線を送っていたが、雪ノ下に限ってそんなことはありえないだろう。
「それじゃあとりあえず、改めて自己紹介でもしましょうか」
気を取り直したシンカーが場を取り仕切るようにそう言い、彼の促すままにALFの面々が自己紹介をしていった。雪ノ下のプレイヤーネームはユキノ、その隣に座る銀髪ポニーテールの女プレイヤーはユリエールというらしい。
つーか雪ノ下、下の名前そのまんまじゃねぇか……なるべく名前を呼ばないで済むようにしよう……。
「うちのギルドの実務を取り仕切っているのがユキノさんで、こちらのユリエールは僕の秘書のようなものです」
2人の自己紹介の後にシンカーがそう補足すると、続いてクラインが口を開いた。
「オレが風林火山のギルドマスター、クラインです。そっちのギルドとは色々ありましたけど、まあひとまず過去のことは水に流して、今日は今後のことを考えて話せたらいいと思ってます。よろしく」
珍しくクラインが真面目な口調で話していた。まあ本人に聞いた話ではリアルではサラリーマンらしいし、その辺りのオンオフの切り替えはしっかりしているんだろう。
……などと思って俺は密かに感心していたのだが、次いでクラインは妙なキメ顔を作ってALFの女性陣に視線を送った。
「あ、ちなみに自分24歳独身、ただいま彼女ぼしゅ――ぐぉっ!?」
隣に座るトウジに脇腹を殴られ、言葉を詰まらせるクライン。やはりクラインはクラインだったようだ。雪ノ下とユリエールからは、冷ややかな視線を送られている。
「場を弁えてくださいね、ギルマス?」
「わ、悪い……」
にっこりと笑いかけるトウジに、クラインは気圧されたように頷いていた。トウジは怒らせると怖いのだ。
その場の空気を変えるように咳払いをしてから、トウジが再び自己紹介を始めた。次に俺も適当にそれをすませると、続いてシンカーが全員の顔を見回しながら口を開く。
「さて、それじゃあ本題に入りましょうか。ユキノさん、お願い」
目配せを受けた雪ノ下が頷き、ストレージから数枚の紙を取り出して話し始めた。
「既にお話は聞いていると思いますが、今回の会談でALFから提案させていただくのは、中層以下のプレイヤーに対する支援活動についてそちらのギルドと提携を計りたいというものです。具体的な案はこちらの資料に目を通していただきたいのですが――」
そうして雪ノ下の進行の下、会談が始められたのだった。
会談は滞りなく進み、2時間弱の話し合いでALFと風林火山はいくつかの活動において協力関係を結ぶことが決定した。具体的な内容のすり合わせはまた後日ということになり、その日の会談はそこで終了したのだった。
会談場所を後にして通りに出ると、昼飯時だからか多くのプレイヤーたちが行きかっていた。始まりの街の北門と中央を結ぶこの大通りは攻略が進むにつれて飲食店などが充実してきていたので、第25層まで到達している今でも飯時にはここ利用するプレイヤーは多い。
ALFの面々と別れたクライン、トウジ、俺の3人はギルドホームへと帰るべくその大通りを南へと向かっていた。
「いやー、しかしハチにあんなに可愛い女友達がいたとはなぁ。羨ましい奴め!」
人ごみの中を3人で並んで歩いていると、真ん中のクラインがそう言って俺の肩に手を乗せた。身をよじってそれを拒絶しながら、俺は目も合わせずに口を開く。
「……別に、あいつとはそんなんじゃない。ただ同じ高校で、同じ部活の部員だったってだけだ」
口に出した声は、自分でも意外なほど苛立って聞こえた。別にクラインの態度が気に食わなかったわけではなく、ALFとの会談が始まってから……いや、ここで雪ノ下と再会してから、俺はずっともやもやとした気持ちを抱えていたのだ。それが何に対する苛立ちなのか、自分でも良くわからなかった。そのことも一層俺を苛立たせた。
「へー、ハチが部活ねぇ……。何か勝手に帰宅部をイメージしてたぜ。それで、その部活ってのは……ん? ハチ、どうした?」
俺の態度に何か不穏なものを察知したクラインがそう尋ねた。その横でトウジも訝しむような表情でこちらを伺っていたが、その2人の気遣いさえも今は煩わしく感じてしまう。
「……悪い、先帰るわ」
「え……? あ、おい、ハチ!」
このままでは無関係な2人に当たり散らしてしまいそうだった。そんなみっともない真似はしたくない。
後ろから呼びかけるクラインの声を無視し、俺は足早にその場から逃げだした。
◆
ALFのギルドホームも、風林火山と同じく第1層に存在する。
白い煉瓦造りのその建物は、SAO内最大ギルドALFの本拠ということもあってかなりの大きさだった。しかしそれでも1000人を優に超えるギルドメンバーが全員収まるはずもなく、幹部以外の多くのメンバーは本部とは別に各層に点在する寄宿舎のような所に住んでいる。
ギルドマスターのシンカーとその側近であるユリエールやユキノは当然本部住まいであるので、彼らは会談が終了するとすぐに第1層のギルドホームへと戻ってきていた。
帰還してすぐにシンカーの執務室へと集まり今後について話し合っていた彼らだったが、ようやくそれも終了し一息ついた頃、部屋の奥の椅子に腰かけていたシンカーが楽しそうに口を開いた。
「しかし面白い子だね、ハチ君は。歳の割りに随分と落ち着いているようだし」
そう言ったシンカーは木製の机に肘をつき、向かいのソファに座るユキノへと目線を送った。それにユキノは表情も変えずに答える。
「彼の場合は単に擦れて、斜に構えているだけだと思いますが」
「そう言うのは老成している、と言うんだよ」
棘のある言葉を放つユキノに、シンカーは諭すように言った。ユキノは何か言い返そうとしたが、再び口を開いたシンカーに遮られる。
「そしてそういう人間は往々にして、自分のことを顧みない」
そこまで無表情だったユキノも、その言葉には一瞬ハッとしたような顔をしてシンカーに目線を向けた。そしてシンカーは優しい声色で言葉を続ける。
「僕はあの本は読んでいないけど、噂はよく耳にするからね。かなり危なっかしいよ、彼は」
そこで息を継ぐように少し間を置き、シンカーは強い眼差しをユキノに向けた。
「ユキノさん。君が望むなら彼のところに行っても――」
「そういった勘繰りは不愉快だと言ったはずです」
怒気のこもった声で言葉を遮り、ユキノはシンカーを睨み付けた。対するシンカーは怯む様子もなく、真摯な表情でユキノを見つめている。そうしてしばらくお互いに視線をぶつけていたが、やがてユキノの方が耐えられなくなったように目を逸らし、ため息をついた。
「……仕事があるのでこれで失礼します」
そう言ってユキノは返事を待つことなくソファから立ち上がり、足早に執務室から出て行った。残されたシンカーは頭をかきながら自嘲するように顔を歪めている。
ユキノの対面のソファに腰かけていたユリエールはそれまで目の前の2人のやり取りを黙って見ているだけだったが、そうしてシンカーと2人きりになったところで呆れたようにため息をついた。
「無神経ですよ、シンカー。あの年頃の女の子はみんな繊細なんですから」
そう言って眉間に皺を寄せ、シンカーを見つめるユリエール。シンカーは曖昧に笑ってそれに応えていた。
「いやぁ、分かってはいるんだけど、どうにも歯痒くてね」
「気持ちはわかりますけど……私たちが口を出すようなことじゃありませんよ」
「まあ、そうなんだけどね……」
そう言って立ち上がったシンカーは、物思いに耽るように窓際に立って外を眺めた。
すれ違いや挫折も、1つの青春のあり方だろう。多くの人間はそういった過程を経て成長してゆき、いつかあの頃は青かったなと思い返すのだ。そこに部外者であるシンカーが口を出すのは、大きなお世話というものだろう。しかしそれを自覚しつつも、彼は口を出さずにはいられなかった。
若かりし頃の過ちだと、いつか笑って済ませられるのならいい。しかし命が掛かったこの世界では、言えなかった一言が、一生の後悔になることもあるのだ。
そんな自分の懸念がただの杞憂に終わることを祈りながら、シンカーは夕日に染まった空を見つめていた。
◆
友人を得たと言っても、そうそうぼっちというものの本質は変わらないものだった。
俺は今でもなるべく人との関わりは避けるようにしているし、1人で時間を過ごすためのベストプレイスを見つけていたりする。
第1層、西の外れ。なだらかな丘陵の続くフィールドにポツリと存在するテーブルマウンテンの上。柔らかな芝の敷き詰められたそこはセーフティゾーンになっていて、ここが今の俺にとってのベストプレイスだった。
この辺りには元々プレイヤーがあまり来ない上に、このテーブルマウンテンに登るためには体術スキルの壁走りを使う必要があるので、ここで人に会う可能性はほとんどない。そもそもここの存在を知っているプレイヤーが0に近いはずだ。俺は二月ほど前にキリトとほぼ同じタイミングで壁走りを習得したのだが、その時に2人で様々な場所を探索し、たまたまここを発見したのだった。
まあ1人になりたいのならギルドホームに用意された自室にでも籠ればいいのだが、そちらは度々クラインやキリトが押しかけてくるため、あまり落ち着かないのだ。今は、誰とも顔を合わせたくない。
そうして始まりの街から逃げるようにここへと訪れた俺は、夕日に赤く染まった景色の中地面に座り込み、1人考えていた。
――SAOに囚われ眠り続ける雪ノ下と、その身を案じ彼女の帰りを待つ由比ヶ浜。
ALFとの会談で雪ノ下に出会ってから、そんな光景が頭を過って離れなかった。
雪ノ下は無事だし、由比ヶ浜のことだって葉山や三浦や海老名さんたちがフォローしてくれているはずだ。今さら俺が気にかけたところで意味はない。何度そう自分に言い聞かせても、気持ちは晴れなかった。
何故これほどまでに胸中がざわつくのか。俺は何がしたいのか。何をすべきなのか。いくら考えても、答えは出なかった。そうして苛立ちだけが募っていく。
俺はそれを振り払うように頭を掻き毟り、ため息をついて瞑目した。
5分ほどそうしていただろうか。一陣の風が前髪を揺らすのを感じ、そこでようやく俺は目を開いた。そしてその瞬間、不意に何かが俺の頬に触れた。
「……熱ッ!?」
右頬に異常な熱さを感じ、俺は小さな悲鳴を上げて振り返った。
いつの間に現れたのか、そこに立っていたのは悪戯っぽい笑みを浮かべたキリトだった。
「会談お疲れさん。これ差し入れ」
呆気にとられている俺に何でもないようにそう言って、キリトは右手に持っていた茶色い包みを放りなげた。咄嗟にそれをキャッチすると、両手に温もりが伝わってくる。
「魚肉饅頭……」
包みの中の白い饅頭を確認し、俺は呟いた。確か第21層の露店で売っている奴だ。先ほどの熱の正体もこれだろう。
キリトは自分の分の饅頭を頬張りながら、俺の隣に腰かけた。
「いいところだよな、ここ。昼寝には最適だ」
キリトの言葉にようやく気を取り直した俺は、元の位置に座り直しつつそれに答える。
「……PKされても知らねぇぞ」
「大丈夫、大丈夫。索敵使ってれば滅多なことはないって」
饅頭片手に、キリトはそう言って楽しそうに笑っていた。
そんなキリトを見て、俺は小さくため息をついた。こいつの突然の登場に俺は毒気を抜かれ、先ほどまでの暗澹たる気持ちはどこかに行ってしまったようだった。
キリトは特に何を話すでもなく、黙々と持参した饅頭を食べていた。それを食べ終わると大きく伸びをして芝に寝転がり、ようやく俺に目を向ける。
「ん? 食べないのか?」
「……いや、食うよ」
そう言って、俺も饅頭に口をつけた。魚肉の淡白な味が口に広がり、魚の臭みを消すための香草の香りが鼻腔に抜ける。ゆっくりと咀嚼しそれを飲み込むと、体の内側から暖かくなっていくような気がした。
何故か、泣きそうになった。それを堪えながら、俺は黙々と饅頭を口へと運ぶ。何も聞かないキリトの態度がありがたかった。
それを食べ終えた俺は、大きくため息をついてキリトへと目を向けた。両手を頭の後ろで組みながら仰向けに寝転び、空を眺めている。
「……んで、何しに来たのお前?」
ようやく気持ちの落ち着いてきた俺がそう尋ねると、キリトは姿勢も変えずにそれに答えた。
「んー……俺もよくわからない」
「なんだよそれ……」
呆れた声を出した俺に向かってキリトは笑って口を開く。
「まあハチって1人で放っとくと何するかわかんないからさ」
「お前は俺の保護者かっつーの……」
俺はキリトから目線を逸らしながら悪態をついたが、胸中はよくわからない気持ちで満たされていた。
そうして訪れた再びの沈黙の中、俺は横目でキリトに視線を送る。暢気な顔をして寝転がるこいつに、俺は全てをぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。
――きっとこいつだけは、俺を裏切らない。
何を馬鹿な、と以前の俺だったら鼻で笑っただろう。自分に都合のいい幻想を抱き、それを他人に押し付けるなど、俺が最も忌むべき行為だったはずだ。何度も何度も失敗し、自分を戒めてきたのだから。
だが、こんな世界だったからだろうか……俺は自分の中に変化を感じていた。
極限状態の時にこそ人の本性は表れるものだ。俺はこの世界に来てから幾度となく仲間を見捨てて我先にと逃げるプレイヤーたちを見てきた。別に悪いことではない。己の命を懸けてまで、他人を助ける義理はないのだから。
しかし、キリトはどんな状況でも俺を見捨てなかった。俺がオレンジプレイヤーになった時も、迷宮でトラップにかかった時も、プレイヤーとトラブルになった時も、こいつは逡巡することさえしなかった。
きっとこの気持ちは幻想ではない。
こいつだけは、俺を裏切らない。
だから俺も、こいつにだけは誠実でいたかった。
「……高校の、部活の奴に会ったんだ」
いつしか、俺は漏らすように呟いていた。キリトは寝転んだまま目線だけこちらに向けている。
全てをキリトに話すことが正解なのかどうか、俺にはわからなかった。だが、こいつはきっとそれを望むだろう。だからこそわざわざこんなところまで俺を追いかけてきたのだ。
「俺と、そいつと、もう1人……3人だけの、よくわからん部活。3人目は、多分SAOの中には居ない」
俺がそこまで言うと、寝そべっていたキリトが上体を起こした。そして真剣な目をこちらに向ける。
「そっか……。ハチはその2人のこと、どう思ってるんだ?」
「……よく、わからん」
それが本心だった。俺にとって、あいつらがどんな存在なのか、自分でもよくわからない。
しかし俺のその返答にキリトは何故か納得がいったように頷いた。
「そっか。2人とも大事なんだな」
「……いや、お前俺の話聞いてた?」
「だってハチがそういう言い方する時って大体そういうことだし」
キリトは自信満々の顔でそんなよくわからない根拠を口にした。俺は呆れてため息をついたが、何故かその言葉を否定する気にはならなかった。
「じゃあまあ、早くゲームクリアして帰らないとな」
キリトはそう言って勢いよく立ち上がった。両手を上げて伸びをした後、服に付いた汚れを払い、次いで座っている俺を見下ろす。
「ハチ、1人で抱え込まないでくれ。今すぐじゃなくてもいい……いつか、俺たちを頼ってくれ。俺も、アスナも、クラインも、多分みんなそれを待ってるから」
そう言って、キリトは俺に右手を差し出した。
俺はその言葉に呆気にとられ、キリトの顔をまじまじと見返す。
「……お前、何なの? ジャンプ漫画の主人公なの? 言ってて恥ずかしくないか?」
「う、うるさいな! ハチの方が捻くれ過ぎなんだよ!」
そんなやり取りをしながらも、俺は差し出された手を取って立ち上がった。
西の空に目をやると、太陽はもうほとんど沈みかけていた。俺はそれを眺めながら、消え入るような声で呟く。
「まあ……ありがとな」
「……ああ」
状況は、何も変わっていない。だが、気持ちは随分と楽になっていた。
――そして俺はその日、1つの決心をした。
◆
ALFとの会談から3日が経った日の正午。
第24層、中心街テトラ。その一角に存在する喫茶店。俺はその中の二人掛けのテーブル席に着き、珈琲を啜りながら人を待っていた。
内装が艶のない暗色の木材で統一された店内はそれなりの広さがあるが、それに対して客はあまり多くなかった。珈琲や軽食の味は悪くないのでもっと人気があってもよさそうなものだが、恐らくは立地の問題だろう。
生粋のインドア派である俺が何故こんな穴場を知っていたかというと、アルゴから情報を買ったからだ。人と落ち着いて話せる店か何か知らないかとアルゴに聞いたところ、この喫茶店を紹介されたのだった。
持っていた珈琲カップを受け皿に戻し、俺は壁に掛けられた時計に目をやった。約束の時間まではまだ30分ほどある。
さすがに早く来過ぎたか……。そう思いながら再び珈琲カップに手を伸ばした時、入口の方から来客を告げる鈴の音が店内に響いた。
入口へと視線を向けた俺と目が合うと、そのプレイヤーはすぐにこちらに向かって歩いてきた。
「ごめんなさい、待たせちゃったかしら」
「いや、今来たところだ」
そんな付き合いたてのカップルのようなやり取りをしながら、俺は今日の待ち合わせの相手――アスナへと視線を送った。そして普段とは違うその格好に目を留めて、口を開く。
「お前、その服……」
「ど、どうかな? この前サチに頼んで作ってもらったんだけど……」
最近は攻略も一時的にストップしているからか、アスナはいつも着ている戦闘用の装備ではなくかなりカジュアルな格好をしていた。ピンク色をしたノースリーブの上に首元の開いたカーキ色のカットソーを重ね、その裾から少し除く程度の赤いミニスカートをはいている。黒いニーソックスにより形成された絶対領域が、かなり目の毒だった。
先日のサチもそうだったが、SAO内でも女プレイヤーは服装に対してかなり気を使っているらしい。まあさすがに圏外でそんな恰好をした奴は見たことなかったが、街中では割と現実世界と変わらない恰好をしている奴が多かった。
「……まあ、良く似合ってると思うぞ」
こういう時の対応は、小町から散々口を酸っぱくして教えられていたので、俺はマニュアル通りに答えた。まあ、事実似合っているし。
意外と素直な返事が返ってきたからか、アスナは少したじろいでいたが、すぐに「ありがと」と呟いて俺の対面の席に着いた。
「それにしても珍しいわね、ハチ君の方から私に連絡してくるなんて」
椅子に浅く腰かけたアスナはそう言ってこちらを見る。俺はそれから目を逸らしつつ答えた。
「いや、まあ何つーか……心境の変化つーか……」
「ふぅん」
俺の歯切れの悪い返事に適当に頷くと、アスナはテーブルの端にあったメニューに手を伸ばした。二つ折りのメニューを広げてそれを見るアスナに、今度は俺が声をかける。
「ここは俺が持つから、好きなもん注文してくれ。聞いた話だとケーキが中々旨いらしいぞ」
その俺の言葉に、アスナはぽかんと口を開けて唖然とした。しばらくすると、今度は訝し気な表情を俺に向ける。
「ホントにどうしたの……? 熱でもあるんじゃない……?」
「いや、お前俺のこと何だと思ってんの? ……今日は俺から誘ったんだし、さすがにそれくらいの甲斐性はあるぞ」
俺が眉間に皺を寄せてそう言うと、アスナは戸惑いながらも頷いた。
「そ、そうね。ありがとう、それじゃあ今回はお言葉に甘えさせてもらおうかしら……」
「おう、じゃんじゃん頼め」
「そんなには食べれないわよ……あ、すみませーん」
アスナはそう言って近くにいたNPCを呼び止めると、紅茶とシフォンケーキのセットを頼んだ。注文を受けたNPCはバックヤードへと下がり、すぐに戻ってくる。手に持ったお盆の上にはティーカップとケーキが乗せられていた。SAOの中では実際に料理などを作る必要がないので、どんなものを注文してもタイムラグなしですぐに届けてくれるのだ。
テーブルに注文の品を並べると、NPCは一礼して下がっていった。アスナはミルクも砂糖も入っていない紅茶に口をつけ、一息ついてから俺に視線を向ける。
「それで、私に話って何?」
「あー……いや、本題に入る前に1つ聞いておきたいんだが……」
俺は頭を掻きながらそう前置きをし、口を開く。
「お前さ、何でうちのギルド抜けたんだ?」
俺の問いにアスナは一瞬驚いたように眉を上げ、次いでばつの悪そうな顔をして目を逸らした。
以前、アスナは風林火山に所属していた時期があった。
元からキリトや俺と行動を共にすることが多かったので、それは自然な流れであったと言えたが、何故か第10層に到達した時点でアスナは突然風林火山から脱退したのだ。その後も他のギルドには所属していないようだった。
ギルドの脱退についてクラインやキリトは本人に何か聞いていたようで、特に引き止めることもせずに納得していたのだが、何故か俺には事情を説明しなかった。話さなかったということは何か理由があるのかもしれないが――ただ単にはぶられた訳ではないと思いたい――本題に入る前に、出来れば理由を聞いておきたかったのだ。
「まあ、答えたくないなら無理には聞かないが……」
一応俺はそう声をかけたが、しばらくの沈黙の後アスナはゆっくりと話し始めた。
「……あのままだと、私弱くなってしまいそうだったから……だから、皆と距離を置いたの」
俯いたまま、アスナは話を続ける。
「あそこに居たら、きっとハチ君に……キリト君やクラインさんに甘えてしまうから。それじゃあ駄目だと思ったの。そのままじゃ、いつまで経っても私は……」
そこまで言って、アスナは黙り込んでしまう。最後まで言葉を紡ぐことはしなかったが、俺はおおよそのことを察することが出来た。
つまり、あれだ。恐らくこいつは意識高い系の女子という奴なのだ。いつかの相模と同じだな。まあアスナはしっかり自立して頑張っている辺り雲泥の差なのだが。
そうして勝手に納得した俺は1人頷き、ようやく口を開いた。
「そうか……。それなら、多分、この話はそう悪いものじゃないと思うんだが……」
顔を上げたアスナが、小首を傾げて俺を見た。目線を泳がせつつ、俺は言葉を続ける。
「まあ、利害の一致というか……マクロ的な視点で見れば俺たちはゲームクリアっていう目的に対して共闘しているわけで、だからこれはひいてはお互いのためになる話というか何というか……いや、アスナがリスクにリターンが見合わないと思ったなら全然断ってくれても構わないんだが出来れば――」
「えっと、話が見えないんだけど……つまりどういうこと?」
言い訳がましく理由を並べていた俺の話を遮り、アスナが尋ねる。咄嗟にはそれに答えられず、俺は俯いてしまった。
今日は腹を括って来たはずなんだが……どうにもいざ話を切り出そうとするとブレーキがかかってしまう。しかし、逃げるわけにはいかなかった。
俺は胃が締め付けられるようなプレッシャーの中、ようやく意を決し、それを口にした。
「……頼みがあるんだ。アスナ、お前にしか頼めないことが」
俺の言葉にアスナは一瞬驚くように目を見開いた。
しかししばらくすると、何故か彼女は穏やかな笑みを浮かべたのだった。
◆
「静粛に! 何人か人数が足りないが、刻限になったので会議を始める!」
壇上に立っていたリンドが声を張り上げた。その声に集まっていたプレイヤーたちはすぐに静かになり、リンドに視線を向ける。
第25層の中心街にある、教会の講堂だった。攻略は停滞していたが、週に一度、現状を把握するためにここで会議が行われている。
まあ正直、今のところこの会議は意味をなしていない。キバオウの事件から既に4週間ほどが経ち、その間に会議は3回開催されたのだが有益な情報などは全く上がらず、ただ攻略が遅々として進まない現状を確認するだけで終わっていた。
攻略組の面子――特にリンドなどはギルドメンバーを増やして攻略組の戦力を増強しようと奔走しているようだったが、結果は芳しくないらしい。攻略組のプレイヤーたちの間では、もはや自然と中層のプレイヤーたちが強くなるのを待つしかないという空気が漂っていた。
それでも生真面目なリンドは会議を開き、他のプレイヤーたちもそれに惰性で従っていた。まああまり意味をなさない会議に辟易して欠席しているプレイヤーもちらほらいるのだが。
そういう俺の隣も、いつもそこに居たはずのプレイヤーが居なかった。
「アスナが来てないなんて珍しいな……。遅刻か?」
リンドの進行で話し合いが進む中、キリトが小声でそう話しかけてきた。
そう、今ここにはアスナが居ないのだ。その理由に俺は思い至ることがあったが、キリトには適当に頷き返しておいた。どうせすぐにわかることだ。
そう思い、俺は話し合われている内容に耳を傾けた。プレイヤーたちがリンドに促され、形だけの活動報告をしている。当然、目ぼしい情報は上がっていなかった。
恐らく、このままの状態が続けば第25層のボス攻略に向かうまではかなりの時間を要するだろう。俺の見込みでは1ヶ月以上……下手をすれば2ヶ月以上かかる。そして、ボスを撃破出来るかどうかはまた別問題だ。
「今日も進展はなしか……」
大方の話を終えた後、壇上に立つリンドがそう言って項垂れた。集まっているプレイヤーたちの間にも、微妙な沈黙が流れる。
「こんな調子で、ゲームクリアなんて出来るのかよ……」
沈黙の中、誰かがそう呟いた。それにつられるようにプレイヤーたちの間から次々に泣き言や不満が囁かれ、険悪な雰囲気が広がっていく。
それを見かねたリンドが顔を上げ、何事かを言おうとしたその時――講堂の扉が勢いよく開かれ、大きな音をたてた。
その音に、講堂に集まっていた全員のプレイヤーが驚いて振り返る。開け放たれた扉へと目をやると、物々しい雰囲気で十数人のプレイヤーたちが入って来ていた。その集団は装備を白と赤を基調とした鎧で統一しており、颯爽と歩くさまはまるで騎士団のように見えた。
呆気にとられるプレイヤーの中、白いマントを靡かせた赤い甲冑の男を先頭に、彼らは講堂の中央まで歩を進めた。石畳の床を叩く甲高い足音だけが講堂に響く。
先頭に立っていたのは壮年の男だった。赤い甲冑を身に纏ったその男と、傍らに控える女プレイヤーだけがその中から一歩前へと進み出る。
「会議中に失礼。少し遅れてしまったようだ」
言葉に反して全く悪びれた様子のないその男は、言いながら周りを見回した。その動作に、後頭部で束ねた灰色の長髪がゆっくりと揺れる。
「な、何だあんたらは……?」
突然の出来事に呆気にとられていたリンドが、ようやく口を開いた。訝しむように赤い甲冑の男を見た後、次いでその傍らに控える女プレイヤーへと視線を送った。
「アスナさん、どういうことか説明してくれ」
突如現れた正体不明の男の横に立っていたのは、アスナだった。彼女も周囲のプレイヤーと同様に白と赤を基調とした装備を着込んでいる。下衣装備がスカートなのが少し気になるが、今は置いておこう。装備が変わったからだろうか、アスナは普段とは違う雰囲気を纏っているように見えた。
彼女はリンドの質問に答えることはせず、傍らに立つ男に目線を送った。男はそれに答えるように頷き、仰々しく口を開く。
「私の名前はヒースクリフ」
そいつはマントを翻し、その場に居る全員に目を向けて宣言した。
「我らギルド《血盟騎士団》は、攻略組への参加を希望する」