やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第3話 叱咤

 病院での一幕の後、俺たちが向かったのはキリトの自宅だった。

 キリトの漕ぐ自転車の荷台で揺られること30分強。到着したのはうちよりも一回り大きい戸建だった。話には聞いていたが、やはりキリトはいいところの坊ちゃんだったようだ。当然のように広い庭付きで、離れには小さめではあるが剣道場があった。

 キリト曰く「土地と道場は爺ちゃんの頃のものだから、別にうちが金持ちってわけじゃないよ」とのことである。その余裕のある態度が余計に金持ちっぽい。

 そうしてキリトを冷やかしているうちに、俺は道場の中へと案内されたのだった。

 

「ほら」

「うおっ……!?」

 

 道場の奥から顔を出したキリトが、何かを放り投げた。驚きつつもとっさにそれを掴み取り、手元に視線を落とす。

 

「……なんだこれ?」

「競技用の薙刀だよ。長さは1番長い奴選んどいた。それでもちょっと短いけど、使えないことはないだろ?」

「薙刀ってお前……」

「リハビリがてらハチとやれたらいいと思ってさ。用意しといたんだ」

 

 自前の道場でリハビリがてらに立合いとか、やっぱり金持ちは考えることが違うな。

 俺は呆れ半分、感心半分でため息をついたが、せっかく用意してもらったのだから使わなければ勿体ない。何故突然こんなことを言い出したのかは定かではないが、キリトとの稽古自体はSAOでは半ば日常化していたことであり、今更(いや)はなかった。病院で溜まった陰鬱な気分を晴らすのにも、ここで体を動かすのは悪くないとも思えた。

 そうして頭を切り替えて、軽く薙刀を振ってみる。長さは悪くない。SAOでは直槍ばかり使っていたせいで反りのある穂先には違和感があるが、稽古では実際に刃筋を立てて使わなければいけないわけでもないし問題はないだろう。柄は少し細く感じるが、取り回しに難があるほどでもなかった。ただ、問題を上げるとすれば。

 

「……軽いな。重心が手元に近いから余計にそう感じる」

「ははっ。俺も竹刀握った時に同じようなこと言ったよ」

「まあほんとに重い武器持っても使いこなせないだろうけど」

 

 SAO時代の感覚通りに重い武器を全力で振り回したりすれば、一発で身体を壊すだろう。2年以上という長い時間を仮想世界で過ごしてきた俺たちには、身体を動かそうとする感覚と、実際にそれに応える身体のスペックとの間に、大きな齟齬(そご)がある。

 簡単に言えば、意識に身体が追いついて来ないのだ。息子の運動会で久しぶりに走った父親がアキレス腱を切るようなものである。違うか。

 

一本先取(初撃決着モード)でいいよな。防具のない箇所への攻撃は禁止。脛当(すねあ)て用意しといたから足への攻撃はありだ」

「足アリね……。かなり俺に有利なルールじゃないか?」

 

 剣道三倍段という言葉がある。剣で槍に対抗するためには、相手の三倍の段位が必要であるという意味の言葉だ。現代日本に段位のある槍術など残っていないから最早形骸化した言葉ではあるが、当然槍の有利性がなくなったわけではない。出足を狙いやすい槍からすれば、この勝負はかなり有利なはずだ。

 SAOではバトルにおけるバランスを取るためにリーチが短い武器種ほど何かしらの優遇措置が取られていたが、それでも尚、対人戦において長柄武器はそれなりに有利だった。

 

「ハチは相当ブランクがあるだろ? 俺はここで素振りとかもしてるし、ちょうどいいハンデだよ」

 

 俺を挑発するようにそう言って、キリトはにやりと笑った。

 まあそんな安い挑発にいきり立つほど青くはない。というか実際、しばらく槍になんて触っていなかったし、元よりPvPの戦績はキリトに軍配があがる。ここはありがたくハンデを受け取っておくことにしよう。

 入念なウォーミングアップの後、キリトに教えて貰いながら防具を装着する。そうして準備を終え、互いに獲物を構えて向かい合うと、もはやどこか懐かしく思えるような戦いの緊張感が場を支配した。

 道場の前、通り過ぎる車の音。小窓に差す陽の光。素足から伝わる板敷の冷たさ。そんなものをどこか遠くに感じながら、槍を低く構える。

 対峙するキリトは半身になって二刀を構えている。左の竹刀はこちらを牽制するように低く前に突き出し、右の竹刀は中段で身体の後ろである。スタンスは広く、低い。どっしりと構えて俺の出方を窺うつもりのようだ。

 二刀流とは本来防御に偏重した戦法である。ソードスキルという例外を除けば、剣速、剣圧ともに両手で扱う一刀には及ばない。故に手数で相手の攻撃を凌ぎ、カウンターを狙うのが定石である。ステータスによる補正もなく、ソードスキルという決め手に欠ける今、キリトもこの定石から大きく外れることはないはずだ。

 

「いつでもいいぜ」

「ああ」

 

 頷いて、1つ息をついた。

 戦う前に考え過ぎてしまうのは、俺の悪い癖だ。結局のところ勝負は単純。遠間からキリトを仕留められるか、否か。間合いを潰されればキリトに軍配があがるだろう。

 ごちゃごちゃとした思考を振り払い、ゆっくりと前に出る。キリトは動かない。互いの間合いがぶつかろうかという瞬間、一歩踏み出した。

 竹刀を弾き上げながら、突きを放つ。喉。肉薄したが、キリトは持ち直した左の竹刀で刺突を逸らし、回避した。引き際、抜き胴と見せかけて(すね)を狙うが、キリトは器用に手首を返し、再び左の竹刀でこれを防いだ。

 

 全て、左だけで防がれた。完全に動きを読まれているということだ。舌打ちしながら、弧を描くように足を運ぶ。揺さぶりを掛けるつもりで何度か仕掛けたが、キリトは冷静に、一合、二合とこれを捌いた。

 三度、同じような攻防が続いた。キリトからも何度か仕掛けてきたが、深く踏み込んで来ることはない。出足を狙われることを警戒しているのだろう。

 

 すぐに、息が上がってきた。薙刀を持つ腕も重い。まだ数度打ち合っただけである。自分の貧弱さを情けなく思ったが、現実ではこんなものだろうとも思った。

 キリトは俺の踏み込みを待っているのだろう。そして、それを食い破るつもりでいる。乗ってやろう。ふと、そう思った。どのみち、このままでは体力がもたない。

 三合、斬り結んだ。足。斬り払うと見せかけ、深く踏み込む。左の竹刀は下がったままだ。突き上げた穂先が、キリトの喉に迫った。届く。そう思ったが、握りしめた薙刀は虚しく空を切った。

 右の竹刀で刺突を滑らせると同時、キリトは前に出ていた。視線が合う。防具で顔はよく見えなかったが、不敵に笑ったのがわかった。

 

「貰ったッ」

 

 穂先を滑らせた竹刀が、翻り、眼前に迫る。受けられるかどうか、際どい。考える前に体は動いていたが、しかし結果から言えばそれは徒労に終わったのだった。

 竹刀を振り下ろそうとしていたキリトが「い゛ッ……」と奇声を上げてピタリとその動きを止めたのである。フェイントか何かと警戒し、俺は咄嗟に後ずさって距離を取る。しかしそんな俺をよそに、妙な体勢で息を詰まらせていたキリトはやがてゆっくりと膝を折り、その場にうずくまってしまったのだった。

 隙だらけの体勢である。もはや警戒する必要もないのは明確だった。俺は大きく息を吐いて、ピクピクと震えるキリトを見下ろす。もうオチは読めていたが、一応声をかけた。

 

「おい、どした?」

「つ、つった……!」

「……」

 

 久しぶりの俺たちの真剣勝負は、こうして情けない幕引きとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

「もう、どうすればこんなところつるのよ」

「いや、ちょっと熱くなりすぎて……」

 

 道場横。桐ヶ谷家自宅。庭先にせり出した縁側でうつ伏せになり、少女に背中をさすられるキリトの姿があった。

 少女はキリトの妹のようだった。試合後、身動きの取れなくなったキリトに肩を貸してここまで移動した後、家に居たらしい彼女に介抱を任せたのだった。

 妹の存在については、SAO時代に話だけは聞いたことがあった。本当の兄妹ではないという話だったが、何処となくキリトと雰囲気が似ている。綺麗に切り揃えられたショートカットの黒髪に、利発な印象を受ける大きな瞳。着ている制服は多分中学校のものだと思われるが、その胸元を押し上げる2つの双丘は恐ろしいほどのボリュームであった。

 

 ……え? これで本当に中学生? しかも美少女の義妹とか、それなんてエロゲ?

 そんな下世話な思考を働かせる俺を諌めるように、庭先を冷たい風が通り抜ける。俺もキリトも防具を脱いだだけの道着姿だったが、運動後の火照った体には心地良かった。

 

「湿布とかあったよな?」

「つった時は冷やさない方がいいの。だから湿布も駄目。温めて、軽くストレッチするくらいがいいよ」

 

 そう言うキリト妹の傍らには学生鞄と竹刀袋が置いてあった。妹も剣道をやってるのか。まあ家に道場があるくらいだしな。ぼうっとそんなことを考えていた俺に、キリト妹が振り返って視線を寄越す。

 

「初めまして、妹の直葉(すぐは)です。比企谷さんですよね? 兄からお話は伺ってます」

「ああ……ども」

「比企谷さんも剣道やるんですか?」

「いや、俺はなんというか……」

「あ、薙刀……ですか? 珍しいですね」

 

 俺の右手に目をやって、キリト妹はそう呟いた。その時になって初めて、俺はまだ自分が薙刀を握りしめていたことに気付いた。キリトをここまで運ぶ時に、無意識に手に取ってしまったらしい。

 SAO時代の癖である。当時、外を歩く時は常に武装していたために、現実世界に帰ってきた今でも外では武器を持っていないと落ち着かないのだ。最近になって少し改善されてきたのだが、キリトと矛を交えて当時の感覚に戻ってしまったのかもしれない。

 こんなものを持ってうろつく人間など完全に不審者だが、幸いキリト妹は気にした様子もなく頷いていた。

 

「ハチのは薙刀って言うより、アインクラッド流槍術ってところかな」

「あいん……? お兄ちゃん、もしかしてまた頭打った?」

「またってなんだよ。またって」

「だってお兄ちゃん、最近変なことばっかり言うじゃない」

 

 軽口を交わし合う兄妹の関係は、それなりに良好に見える。以前キリトに聞いた話では義理の兄妹ということもあり、少し微妙な関係になっていたそうだが、SAOから帰還してから多少は改善されたようである。

 

「あ、もうこんな時間!」

 

 腕時計を確認したキリト妹が、そう言って立ち上がった。学生鞄と竹刀袋を手に取ってこちらに頭を下げる。

 

「すみません、今日これから学校に行かなきゃいけなくて、これで失礼します。比企谷さんはゆっくりしていって下さい」

「ああ、いや、お構いなく」

「お兄ちゃん、台所の下の棚にお茶菓子あるからね。じゃあ、行ってきまーす」

「おう。車に気を付けろよ」

 

 うつ伏せになったまま、キリトが手を振る。去ってゆくキリト妹の背中に目を向けながら、俺は呟くように言葉を溢した。

 

「出来た妹だな……」

「ああ、全くだ。あれで剣道の腕も凄いぞ。全中ベストエイトだってさ。この前模擬戦したらボコボコにされたよ」

「マジかよ」

 

 全中という言葉にあまり馴染みはないが、察するに中学校の全国大会のことだろう。それのベストエイトともなれば地元ではちょっとした有名人だ。

 

「ふう……。ようやく良くなってきた」

 

 言って、キリトが体を起こした。体の調子を確かめるように肩や首を回しながら、言葉を続ける。

 

「やっぱり課題は身体(フィジカル)だな。体力(スタミナ)は多少ついてきたけど、筋力(ストレングス)が全然足りてない」

STR(ストレングス)ってお前、ゲームじゃねえんだから……。つーか、なんだ? 本格的に剣道やんのか?」

「そういう訳じゃないけど……。リハビリで筋トレするにしても、他に目的があった方がハリがあるだろ?」

「まあ、そうだな」

 

 最近は軽いストレッチ程度しかこなしていない俺は、気のない返事を返した。キリトの方は退院してからもしっかりとリハビリを続けているらしい。SAO被害者はスポーツジムなどに通う際に国から補助金が出るので、やる気がある人間はその辺りを上手く活用しているようだった。ちなみに俺もジムには行くだけ行ってみたが、しっかりと三日坊主で終わっている。

 

「その薙刀、ハチにやるよ。家で素振りにでも使ってくれ」

「は? いや、貰う理由がないし。俺は養われる気はあっても施しを受ける気は――」

「そういうところ、ホント変わらないなハチは。良いから受け取れよ。俺が持ってても使わないし」

 

 言葉を遮られ、俺は右手に持った薙刀に目を落とす。キリトが使わないというのは本当だろうし、こいつから物を貰うこと自体にそれほど抵抗があるわけではなかった。

 だが薙刀(これ)を貰って、俺はどうするべきなんだろうか。

 

「それに今日は不完全燃焼だったしな。お互い鍛え直して、またやろうぜ」

「鍛え直して、ね……」

「なんだよ。今日ので満足だっていうのか?」

「いや、そういう訳じゃねえけど……。もう、戦う理由もないだろ」

 

 薙刀に目をやったまま、呟くように言った。深く考えて口にした言葉ではなかったが、その言葉は自分でも意外なほどストンと腑に落ちた。

 そうだ。戦う理由もなく、戦うべき敵も見えないこの状況で、俺は武器を手にして何をすればいいのか。ただ己を鍛えるためだけに修練を積むことが出来るほど、俺はストイックな人間ではない。

 

「戦う理由ならある」

 

 固く、意志を感じさせる言葉だった。ハッとして顔を上げると、キリトの真っ直ぐな瞳と目が合った。

 

「アスナを、助けたくないのか?」

 

 その言葉に、息が詰まった。キリトの迷いのない瞳。見つめていると、まるで不甲斐ない自分自身を突きつけられているような気分になった。耐えきれずに目を逸らし、言い訳をするように言葉を漏らす。

 

「いや、助けるって、お前……」

「このままじゃアスナ、本当に俺たちの手の届かないところに行っちゃうぞ」

「それは……仕方ないだろ。俺が口出せるようなことじゃない」

「ハチ……いつまでそうやっていじけてるつもりだ。アスナの最後の言葉、忘れたわけじゃないだろう」

 

 最後の言葉――乱れた栗色の髪。薄く開かれた2つの瞳。薄紅色の唇からこぼれ落ちた、力ない言葉。

 脳裏に過ったそれを、咄嗟に振り払った。

 

「……あんなのは、気の迷いだろ。勘違いだよ。そもそもあり得ねえだろ。あいつが、俺を、なんて……」

 

 動悸が抑えられず、手にした薙刀を強く握った。俯いたまま、俺はぼそぼそと言葉を並べ立てる。

 

「だいたい、馬鹿なんだあいつは。熱に浮かされてたんだ。だって、割に合わないだろ。ヘマした俺なんか庇って……」

「ハチ、お前」

「初めから全部間違ってたんだ。見ただろ、あいつん()。住む世界が違ったんだ。それを俺は、勘違いして、舞い上がって……。あいつも、俺も、馬鹿だ。俺なんか、あの時、茅場の手で――」

「もういい」

 

 いつの間にか目の前に立っていたキリトが言葉を遮った。苛立ちを伴った口調。強く握られた拳。顔を見なくとも、キリトが本気で怒っていることがわかった。

 

「お前の言いたいことはよくわかった。……歯ァ、食いしばれッ」

 

 頬が、熱い。最初に感じたのはそれだけだった。気付けば俺は固く握っていたはずの薙刀も取り落とし、庭先の地面に無様に倒れていた。口の中に血の味が広がる。キリトに殴られたのだと理解したのは、一拍後のことだった。

 

「住む世界が違う? 気の迷い? ふざけんなッ!! あの時のアスナの言葉が……命懸けの、あいつの言葉が! お前は信じられないっていうのか!」

 

 キリトの鋭い言葉が降りかかる。その言葉が、俺の心の中の何かを揺さぶった。不意に胸の内からこぼれ出しそうになるそれを、俺は必死に押しとどめる。しかしそんなことなど構うことなく、キリトは俺を引き起こすようにして胸倉を掴み、言葉を続けた。

 

「いい加減目を覚ませよ! いつまで腑抜けてるつもりなんだ! そんなんじゃ、本当にアスナを失うことになるぞ! それでいいのか!?」

「――うるせえ!」

 

 気付けば、叫んでいた。衝動のままに拳を握り、キリトに打ち付ける。キリトは俺を掴んでいた手を放し数歩後ずさったが、その瞳はまっすぐ俺に向けられたままだ。その姿に苛立ちを覚え、俺は痛いほど握りしめた拳を何度も何度も打ち付けた。しかしキリトは避けることすらせず、黙って全てを受け止め、ただひたすらに俺を見据えていた。

 

「知ったような口ばっかききやがって! 俺だって分かってる! 分かってるんだよそんなことは!」

 

 追い詰められ、癇癪(かんしゃく)を起した子供のように喚き散らした。血を吐きながら、ため込んでいた感情を爆発させる。

 

「でも……あの時の、アスナの言葉を受け止めて……このままあいつが帰ってこなかったら、俺は……俺は……!!」

 

 いつの間にか流れた涙が、頬を濡らしていた。それを拭うことすらせず、俺はやがて(すが)りつくようにキリトの胸倉を掴んだ。

 

「俺はどうすればいい……! キリト、俺は、どうすれば……」

 

 胸にあるのはもはや恐怖と後悔だけだった。目の前で凶刃に倒れる彼女の姿が、腕の中砕け散ってゆく彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

「何も……何も出来なかったんだ。あの時、俺は……俺だけが……」

 

 キリトは、システムの壁を打ち破って茅場晶彦を討った。

 アスナは、システムの(いまし)めを振り切って俺を救った。

 俺は、ただ見ていただけだ。システムに抗うことも出来ず、凶刃に倒れる彼女を、黙って見ていただけだ。

 英雄なんかじゃない。俺は、何も出来なかった。何の価値もない男だ。

 せめて、あの場で茅場晶彦の手に掛かって死ぬべきだった。死ぬべき場所で死ぬことも出来ず、生き残ってしまった俺は、ただの(うつ)けだ。

 

「……やっぱりあの時のこと、ずっと後悔してたんだな」

 

 そう呟いたキリトの言葉からは、もう怒りは感じられなかった。キリトから身を離し、俺は糸が切れたように冷たい地面へと膝を付く。

 現実世界へと帰還し、アスナの現状を知ってからずっと抱えていた感情。その全てを吐き出した。もう溢れ出る感情を留めることは出来ない。俺は人目も(はばか)らず、嗚咽(おえつ)を漏らした。

 

「なあハチ……俺だって、怖いよ」

 

 どれだけの間そうしていただろうか。不意に響いたキリトの弱々しい声に、俺は現実へと引き戻された。流れ落ちた涙が、地面に小さく染みを作っている。

 

「アスナのゲームオーバーは、未帰還者たちとは関係ない……俺も口ではそんなこと言っといてさ、ひとりになると考えるんだ。あの時、俺があと少し早く駆け付けていれば……アスナを助けられていれば、今こんな状況にはなっていなかったんじゃないかって……」

 

 現実世界に帰還してから、初めて聞くキリトの弱音だった。まるで不安などないように振る舞い、心の弱い俺を隣で励まし続けてくれたキリト。だが、そんなこいつにも後悔はあったのだ。

 当たり前だ。あの戦いは、俺ひとりで戦っていたわけではないのだから。

 

「もしも次、もう一度しくじったら、今度こそ本当にアスナを失うことになるかもしれない。考えただけで、身が竦む。ハチも、そうだろ」

 

 キリトの言葉に、俺は同意を示すように深く項垂れた。もう一度同じ失敗を繰り返すようなことがあれば、俺はもう耐えられないだろう。

 

「でも、だからって……お前はそこで諦められるのか」

 

 弱々しかったキリトの言葉が、不意に熱を持った。ゆっくりと顔を上げて、俺の前に膝を付くキリトを見上げる。滲んだ視界の中で、キリトは真っ直ぐに俺を見つめていた。

 

「アスナは、お前にとってその程度の存在だったのか?」

 

 小さく、庭先を冷たい風が吹く。キリトに打たれた頬が、キリトに打ち付けた拳が、ジンジンと熱を持った気がした。

 

「何度だって立ち上がれよ! ずっとそうやって戦ってきただろう、俺たちは! あの世界で戦い続けた俺たちの時間を、嘘にしないでくれ……!」

 

 キリトの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 その瞬間、過ったのは、かつての記憶。鋼鉄の浮遊城(アインクラッド)で戦い続けた2年間。挫折や衝突を繰り返し、時には立ち止まり、それでも前に進み続けたあの時間。

 いや、違う。キリトは今もまだ進み続けているのだ。そして、俺が再び立ち上がるのを待ってくれている。

 

「……ソードアート・オンラインは、まだ終わってない。俺たちは、まだ何も失っちゃいない」

 

 目の前に、手が差し伸べられた。見慣れない、しかし、よく知った手だ。この手が、あの世界で幾度も俺を救い上げてくれた。

 

「助けるぞ、ハチ。アスナを、俺たちの手で」

 

 返事は、出来なかった。今のキリトを前にして、安い言葉を口にしたくはなかった。

 あの時の絶望を、忘れることなど出来ない。砕け散ってゆく彼女の身体。消えてゆく温もり。思い出せば、心が折れそうになる。けどそれでも、こいつが一緒に戦ってくれるのなら、俺は――。

 道着の袖で、涙を拭った。鼻を啜って、顔を上げる。目の前にあったのは、かつての相棒《黒の剣士》キリトの姿だった。

 無言で、その手を取る。力強い手に支えられながら、俺はゆっくりと立ち上がった。


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