やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第51話 終局

 目潰しに、音爆弾。今日のために用意した全ての手段を用いて、戦った。

 戦況は悪くない。蛍光玉と煙幕のコンボほどの効果は得られなかったが、少しずつ茅場のHPを削ることには成功していた。

 だが、用意した小細工はもう全て打ち尽くしてしまった。

 

 ――おかしい。

 

 約束の時間は、もうとっくに過ぎているはずだ。時計を確認する余裕などなかったが、戦いが始まってから体感でもう15分以上は経っている。とうにキリトが来ていていい時間のはずである。

 

「どうかしたのかね? 何か気になることでも?」

 

 訝しむ俺の様子が伝わってしまったのか、対峙を続ける茅場がそう口にした。そんなに顔に出してしまったのかと自分を諌めながら、俺は首を振る。

 

「別に、お前が気にすることじゃない」

「ふふっ。……いや、済まない。意地の悪い質問をしてしまったな」

 

 意味深な言葉を口にする茅場に、俺は眉をひそめる。その意図を探ろうとする間もなく、茅場はさらに言葉を続けた。

 

「キリト君は来ないよ」

「……何の話だ?」

 

 動揺を顔に出さなかった自分のことを、褒めてやりたかった。しかし無慈悲にも、茅場は全てを見透かしたような表情でこちらを見つめている。

 

「あくまで惚けると言うならそれもいいがね。残念ながらこれは単なる鎌かけではない。申し訳ないが、この付近に登録されていた回廊結晶は無効化させて貰ったよ。この部屋にも、システム的防壁を張らせて貰った。つまりキリト君は、この部屋に入ることは出来ないということだ」

 

 茅場の話に耳を傾けながら、俺は脱力して大きく息を吐いた。キリトの奇襲は、悟られていたのだ。

 不思議と、何故とは思わなかった。茅場の言葉に最初こそ内心取り乱したが、しかし冷静になってみればむしろ当然のことのように思われた。茅場ならばナーヴギアを通してキリトの脳波をモニタリング出来る。それだけではキリトの仮病を見抜けないにしても、あいつが日中ギルドホームの一室で活発に動いていることには気付くだろう。

 

「さすがに私も君たち2人を同時に相手取るのは分が悪いからね。これくらいの自己防衛は許してくれ給え。さて、どうするハチ君。降参するかね。先の条件では死んだ方の負けということだったが……まあ、負けを認めるというなら命は取らないよ。私としては不本意な結果ではあるが、牙の折れた相手を甚振る趣味はない」

「……随分優しいんだな」

「私は常に、自分の心の赴くままに行動しているだけさ」

 

 茅場の言葉に、嘘はないだろう。自然とそう思えた。

 そもそも茅場はやろうと思えばいつでも俺を殺せるのだ。ナーヴギアに仕掛けられた機能で、俺の脳を破壊すれば済む。少なくとも奴の目的は誰かを殺すことではない。

 ここで白旗を上げれば、ひとまず命を繋ぐことはできるだろう。

 

「頼みの綱であるキリト君には期待できない。しかし、私のHPは既に半分以上削られている。ゲームのクリアはもはや目前だ。どうする? このチャンス、ふいにするかね?」

 

 その茅場の問いかけは、悪魔の囁きのように思えた。

 

 不測の事態に陥った場合、事前の取り決めでは降伏する手筈になっていた。だが、茅場の言う通り、このデスゲームのクリアは目前だ。俺は、このチャンスを逃すのか。

 真正面から戦って、俺が茅場晶彦を倒せる確率は低い。だがここで白旗を上げて生き延びたとしても、ヒースクリフという戦力を失った攻略組が今後アインクラッドの最上階まで辿り着けるかどうかはわからない。つまり、ここで退いても僅かばかり命を繋ぐだけの結果になりかねない。

 しかし、どうしても1人で茅場に勝つビジョンが持てなかった。ここで無駄死にをするよりは、僅かでも後に希望を残した方が良いかもしれない。だが現実世界での俺たちの肉体のことを考えれば、ここで決着を付けなければ……いや、それでも――。

 

 リスクを承知で押し切るか、否か。正解のない問いに、眩暈がしてくる。

 俺は、どうすればいい。

 

 ――ハチ……やれるか?

 

 葛藤が最高潮に達した瞬間、頭に過ったのはかつてのキリトの声だった。

 ああ、そうだ。あの時もそうだった。第1層フロアボス攻略。押すべきか退くべきか、思い惑う俺を導いたのはキリトだった。

 総指揮であるディアベルが死ぬという絶望的な状況の中、あいつだけが諦めていなかった。あの時、瞳の奥に強い意志を灯したキリトを見た瞬間、俺は思ったのだ。

 こいつはきっと、1人でも戦うのだろう、と。

 

「俺は……俺は、逃げない」

 

 知らず、呟いていた。心の中にあった迷いは、いつの間にか霧散していた。

 あいつならきっと諦めない。いや、実際今も諦めていないだろう。おそらく、キリトはこの場へと向かっているはずだ。

 ならば、俺が今ここで諦めるわけにはいかなかった。

 

 その答えが意外だったのか、茅場は少し驚いたように声を上げる。

 

「ほう。君ならばここで退くと思っていたが……まだ何か策があるのかね?」

「さあ、どうだかな」

 

 もはや策などないが、少しでも警戒してくれるのなら儲けものである。俺ははったりをかますつもりで曖昧に答えておいた。

 ここからが、本当の勝負だ。俺か茅場、どちらかが死ぬまで止まることは許されない。決死の覚悟を以って、俺は槍を構え直した。

 

「駄目よッ、ハチ君!!」

 

 最後の戦いに臨もうとする俺を、その声が引き止めた。

 槍を構えたまま、声の主に目を向ける。麻痺によって地面に蹲ったままのアスナが、そこにいた。目が合った彼女は悲痛な表情で、半ば叫ぶように声を上げる。

 

「あなた、言ってたじゃない! 奇襲が失敗したら諦めるって! 自分ひとりじゃ団長には勝てないからって!!」

「……可能性は、ゼロじゃない。このチャンスは逃せない」

「でも、だからって……!!」

 

 語気が、弱く萎んでゆく。しかし、それでもアスナはなおも食い下がった。

 

「そうやって、ハチ君ばっかり1人でどんどん先に行っちゃって……私は、いつも置いてけぼり……。そんなの、もう嫌なの……!」

 

 アスナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はそれを隠すように顔を伏せ、言葉を続けた。

 

「お願い……お願いよッ……! もしハチ君が死んじゃったら、私……!!」

「……悪い。けど、死ぬつもりはない」

 

 懇願するアスナに、俺はただそう返した。彼女の言葉に思うところがないわけじゃない。それでも、ここで退くことは出来ない。

 もはや引き止められないと悟ったのだろう。アスナはそれきり項垂れて、黙り込んでしまった。

 

「別れの挨拶は済んだかね?」

「お前こそ、言い遺すことがあれば聞いてやるぞ」

 

 強気な俺の言葉がお気に召したようで、茅場は肩を揺らしながらくつくつと笑った。やがてひとつ息を吐くと、茅場はゆっくりと剣を構えて俺に向けた。

 

「さて、では私たちの最後の戦いを始めようか」

 

 静かに息を吐きながら、槍を低く構えた。

 茅場だけを見据えて、全神経を尖らせる。集中と共に意識が深く沈んでゆき、やがてふと体が軽くなった。死域に至ったのである。

 

 これが、俺の切り札だ。この世界で培った全てを、今お前にぶつけてやる。

 駆け出すと同時に俺は《無限槍》を発動し、盾を構える茅場晶彦へと躍りかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街中を、フィールドを、迷宮区を、キリトは全力で駆け抜けた。

 アルゴから受け取った地図(マップ)データのお蔭で、迷うことはない。ほぼ最短だと思われるルートを、キリトは走っていた。

 それでもモブとの遭遇は避けられない。しかし今、律儀に敵と戦っている余裕があるはずもなく、ダメージを受けることも厭わずにキリトは襲い掛かるモブを無視して走り続けた。

 

 約束の時間から、どれだけ経ったのか。ハチは、今どうしているのか。生きているのか。自分は間に合うのか。間に合ったとして、ハチと茅場の戦いに介入することが出来るのか。

 そんな雑念を、振り切って走った。どれだけ考えたところで、立ち止まるという選択肢はなかった。

 

 ふと気付けば、HPは半分を切っていた。煩わしく思いながらも、キリトはポーチからヒールクリスタルを出してHPを回復する。ここで死んでしまっては元も子もない。

 

 そんな強行軍を続けながら、キリトはようやく目的地の近くまで辿り着いた。ボス部屋近くの、大きなセーフティゾーン。索敵スキルが、大勢のプレイヤーの存在を感知した。更に歩を進めれば、かすかな剣戟の音と共に闘争の気配が伝わってくる。

 

 ――間に合った。

 

 状況に光明を見出したキリトは、知らずに笑みを浮かべた。しかし、浮ついた自分をすぐに諌める。重要なのはここからである。

 走り続ける足を止めず、背中の鞘から2本の愛剣を抜き放った。茅場晶彦を倒す。その覚悟を決めて、キリトは走る勢いそのままに、ハチが待つであろうセーフティゾーンへと飛び込もうとした。しかしその瞬間、目に見えぬ何かがキリトの進行を阻んだ。

 

「――がッ!?」

 

 突然の衝撃に、何が起こったのか理解出来なかった。呻き声と共に、固く手に握っていたはずの愛剣たちを取り落としてしまう。

 硬く冷たい地面に転がりながら、やや遅れて何かにぶつかったのだと理解したキリトは、己の行く手を阻んだ存在を確認しようと顔を上げた。瞬間、目に入った文字の羅列に、息を飲む。

 

 《Immortal Object》

 

 システム的に破壊不能であるという事実を告げる、そのテキスト。それが、通路の虚空に浮かんでいた。

 立ち上がったキリトは、恐る恐る前方に手を伸ばした。やがて指先に、何か硬いものが触れる。その存在を探るように、次いでキリトは両手でペタペタとそれに触れた。

 見えない壁である。通路を塞ぐように、それは張り巡らされていた。

 

「そんな……」

 

 見えない壁に頭を押し付けるようにして、キリトは項垂れた。

 懸念はしていた。回廊結晶を無効化された時点で、奇襲が悟られていることは分かっていたからだ。ハチと茅場晶彦の一騎打ちに誰も介入出来ないよう、さらに何らかの仕掛けを施してある可能性は考えていた。

 だが、これはあまりにも無慈悲だ。

 

「ふざ……けるなっ……!」

 

 キリトの胸に、沸々と湧いてきたのは怒りだった。

 自分たちは打倒ヒースクリフの作戦が発足してからこの数ヶ月間……いや、このデスゲームが始まった2年前から、ずっとこの世界のルールに従って戦ってきたのだ。奇襲が卑怯だ何だと言われようが、全ては茅場晶彦が強いたシステムに反しない範囲でのことだ。奴が決めたルールの上で、必死に頭を絞ってここに辿り着いたのだ。

 それを、こんな後出しジャンケンのような手段で阻むのか。こんな薄っぺらい1枚の壁で、俺たちを否定するのか。

 

 ――諦めて堪るか。

 

 キリトは強く拳を握り、見えない壁に打ち付けた。衝撃から一瞬遅れて、《Immortal Object》のシステムテキストが浮かび上がる。しかしそれに構わず、キリトは何度も何度も己の拳を打ち付けた。

 

「開けッ! 開けよッ!! 俺は、ここで止まる訳にはいかないんだッ!!!」

 

 薄暗い迷宮の中、キリトの声が響く。やがて一際大きく振りかぶって叩き付けられたキリトの拳が、目には見えないシステムの壁を大きく揺らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限槍のスキル連鎖は、酷く神経を使う。

 相手の動きや状況に合わせて適したソードスキルを選びながら、僅かな再入力時間にスキルを発動し続けなければならないのだ。頭で考えていたのでは間に合わない。体に染みついた感覚と勘だけが頼りだった。

 集中力を切らせば、そこでゲームオーバーである。故に、出来ることならこちらが消耗する前にさっさと押し切りたいところだが、万全の茅場を相手にして一気に勝負を決めることが出来るような瞬発力を、俺は持ち合わせていない。攻め続け、茅場が集中力を乱して隙を晒す瞬間を待たなければいけないのだ。

 

 つまり、勝負は持久戦となる。

 茅場の防御が崩れるまで攻め続けることが出来れば、俺の勝ち。俺が消耗しきるまで耐えることが出来れば、茅場の勝ちである。

 分の悪い賭けだということは理解していた。常にソードスキルを使って攻め続けなければならない俺に対し、茅場はその場で盾を構えて耐え続ければいいだけなのだ。どちらの消耗が早いかなど、考えるまでもない。

 

 あれから、どれだけの技を繰り出しただろう。どれだけ茅場の盾に阻まれただろう。数えるのも億劫になるだけの攻防が繰り返されたが、しかし俺の槍は未だ茅場を捉えることは出来ないでいた。奴は俺の攻撃を時には受け、時には回避し、油断ならない瞳で常に反撃の機会を窺っていた。

 もはや、時間の感覚はない。朦朧とする意識をなんとか繋ぎとめながら、スキルを繋ぎ続ける。しかし不思議と気分は悪くなかった。死力を尽くした戦いに、相手も全力で応えてくれる。これほど得難い体験も中々ないだろう。

 多分、俺は自然と笑っていたと思う。対する茅場も、かつてないほどに生き生きとして見える。命を懸けた決闘という状況下で、俺たち2人の間には妙な一体感が存在した。

 

 俺は元々、茅場に対して特別な感情は持っていなかった。

 SAOに囚われた人間ならば、その首謀者である茅場に恨みを抱いてもおかしくないはずだ。だが俺にはそれがない。このデスゲームで親しい人間が犠牲になっていればまた違っただろうが、運のよいことにこの世界で俺は多くのことに恵まれていた。

 

 この世界で手に入れたものもある。いや、この世界でしか手に入らなかったものがある。

 だから俺は現実世界に帰還することを切望する反面、この仮想世界を去ることへの名残惜しさも感じていた。その思いが茅場に向ける刃を鈍らせることなどないが、どうしようもない物悲しさが胸に去来するのは事実だった。

 

 だから俺は、茅場晶彦を恨んでいない。

 例え――ここで死ぬことになったとしても。

 

 歯車が狂ってゆくのを、感じていた。

 突き、踏み込み、かち上げ、振り払い、跳躍し、また突きを放つ。ひとつひとつの動作が、俺の意識する動きからほんの少しずつずれてゆく。コンマ一秒にも満たない、動作の遅れ。しかしどれだけ必死になっても、決して取り戻すことは出来ない遅れだった。

 わかっている。限界が、訪れたのだ。蓄積された遅れが、システム的に致命的なズレになるのに、もうそれほどかからないだろう。俺は必死になって遅れを取り戻そうと技を繋げ続けながらも、頭の何処かでは冷静に状況を分析していた。

 目の合った茅場が、心なしか物悲しげな表情を浮かべた。奴も、この戦いに終わりが近づいていることを感じ取ったのだろう。

 

「ハチ君。君に、最大限の敬意と感謝を」

 

 そう口にした茅場の息は乱れていた。俺も少しは、この男を追い詰めることが出来たのだろうか。

 小さく払った槍を引き戻し、突きを放とうとした。しかし、もやは意識に体がついて来ていない。致命的な遅れ。そうして、破綻は訪れた。

 スキル連鎖ミス。システムにそう判断された瞬間、体が硬直する。

 

「そして――」

 

 視線だけで、茅場を見上げた。高く掲げられた茅場の剣に、力強い光が灯ったのが見てとれた。

 

「さらばだ」

 

 諦念と共に、瞼を閉じる。せめて見苦しくならぬよう、悔しさと恐怖心を腹の底に閉じ込めた。そして小さく「ごめん」と、誰にともない謝罪を呟く。

 しかし、死を覚悟した俺に、その必殺の一太刀が振るわれることはなかった。

 

「なにっ!?」

 

 刹那、茅場の動揺した声が響く。同時に、温かい衝撃が俺を包み込んだ。ふわりとした甘い香りが鼻先に漂う。

 驚いて目を見開いた。乱れ舞う、栗色の髪。アスナだ。アスナが、俺を茅場から庇うようにして抱きしめている。

 

 何故。どうやって。考える間もなく、茅場の構えた剣が振り下ろされる。致命の威力が込められたその一撃は、被さる様にして俺を抱きしめるアスナの背中を、深く深く切り裂いた。

 動かない体で、俺はただ呆然とその光景を眺めていた。眺めていることしか出来なかった。

 

 アスナとともに、地面に倒れ込む。やがてスキル連鎖ミスによる硬直が解けた瞬間、俺は弾け起きてアスナを抱き起した。

 目に映るのは、俺の腕の中で力なく横たわるアスナと、急激にその数値を減らしてゆく彼女のHPバー。《(ゲームオーバー)》という言葉が、俺の頭に過った。

 

「アスナッ……! な、なんでっ……」

 

 あるはずのないことが起きた。あってはならないことが起きた。俺は目の前の状況に頭が追いつかず、咄嗟に口をついて出たのはそんな台詞だった。

 腕の中のアスナが、身じろぎする。薄く開かれた2つの瞳が、真っ直ぐに俺を見つめた。薄紅色の唇が弱々しく言葉を紡ぐ。

 

「好き」

「は……?」

「好きなの、ハチ君のことが……」

 

 アスナの言葉が、理解出来なかった。しかし彼女は優しげな微笑みを浮かべ、なおも続ける。

 

「だから……」

 

 アスナが、弱々しく手を伸ばす。白く細い指先は、俺の頬を優しくなぞり――

 

「死なないで」

 

 砕けて、消えた。

 

 

 

 

 

 なんだ、これは。

 ひらひらと舞う、青い残滓を呆然と見つめていた。左手から取り落とした槍が、カラカラと音をたてた。

 

 槍。そうだ。俺は、戦っていたはずだ。俺の命を懸けて、茅場と戦っていたはずだ。

 だが、何のために。

 

 俺は一体、何のために戦っていたのだ。

 

「かぁやぁばあぁぁあぁーッ!!!」

「ぬぅッ!?」

 

 唐突に響いた誰かの怒声。

 呆然と見上げた、その視線の先。

 俺がこの場で最後に見たものは、白と黒の二刀が、茅場の胸を貫く瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気付けば、崩れゆく巨大な城を空から眺めていた。

 浮遊城アインクラッド。この2年間、俺たちが命懸けでひた駆けて来た城である。

 その城が、この仮想世界の終焉を示すように崩壊してゆく。黄昏の空の中、未だ見たことのないこの世界の大地へと瓦礫を撒き散らし、消えてゆく。

 

 ゲームは、クリアされた。キリトの手によって。

 どんな手段を以ってか、キリトはあの場に駆けつけたのだ。そして完全に油断していた茅場を、背中からその二刀で貫いた。

 紆余曲折を経たものの、結局俺たちの作戦は成功したということである――1人のプレイヤーの犠牲の上に。

 

「ごめんっ……ハチ、アスナ……!! ごめんっ……!!」

 

 傍らにはキリトが立っていた。滂沱と流れる涙と共に、謝罪の言葉を繰り返し呟いている。

 

「俺が……俺が、あと少し早く着いてれば……アスナは……」

 

 彼女が茅場の凶刃に倒れる瞬間を、目にしてしまったのだろう。キリトは、自分を責めていた。

 だが、それは違う。茅場はあの場にキリトが来れないように、システム的障壁を張ったと言っていた。つまりキリトは、茅場の仕掛けた絶対的とも言える障害を打ち破って駆けつけたのだ。

 そんなことが、キリト以外の誰に出来るだろう。こいつは常人には出来ないことをやってのけ、茅場を倒したのだ。それがもっと早ければなどと、これ以上を求めるようなことが出来るはずもない。

 

「違う。お前のせいじゃない」

「でも……!!」

「俺だ」

 

 何故か、涙は流れなかった。ただ、頭の中で1つの疑問がぐるぐると回っていた。

 何故、俺は生きているのだろう、と。

 

「俺が、死ぬべきだった」

 

 口に出してしまえば、その考えはもう止まらなかった。

 そうだ、俺が死ぬべきだった。むしろ何故、俺は生きているのだ。アスナが死んだというのに、何故俺が生きているのだ。

 

「ハチ……。それは……それは違う……! それは、違う……!!」

 

 キリトは悲痛な表情をさらに歪めて、俺の言葉を否定した。

 しかし、何が違うというのだ。

 茅場との戦い。おそらく俺があと10秒でも長く耐えることが出来ていれば、キリトは間に合っただろう。耐えられなかったのは、俺のミスだ。

 俺のミスで、俺が死ぬ。自業自得。因果応報。それだけの話だったのだ。それだけの話だったのに。

 何故、アスナが死ななければならなかったのだ。

 

 ――好き

 ――好きなの、ハチ君のことが……

 ――だから……

 

「――ッ!!」

 

 込み上げた嘔吐感を、俺は必死になって堪えた。

 

 ありえない。

 認められるわけがない。

 それを認めてしまえば、俺はきっと、耐えられない。

 

 だって、アスナは、もう――

 

「アスナ君は生きているよ」

 

 不意に背後から響いた、聞き覚えのある声。その内容に、俺は目を見開いて弾かれたように振り返った。

 立っていたのは、白衣を着た痩せぎすの男。その男の怜悧な瞳が、しかし心なしか柔和さを伴って俺たちを見つめていた。

 

「か……やば……?」

「最後に少し君たちと話がしてみたくてね。SAOの終了シークエンスが完了するまでの僅かな時間だが、付き合ってくれないか?」

 

 茅場は飄々とした態度で、そんな提案を口にする。しかし俺たちにとって今はそれどころではなく、掴みかかるようにして茅場に詰め寄った。

 

「アスナッ……アスナは、生きているのか!?」

「ああ。ただ、彼女を今ここに呼ぶと、私との対話どころではなくなりそうだからね。悪いが、感動の再会は現実世界に帰った時に取っておいてくれ給え」

 

 迫る俺とキリトを回避し、茅場はいつの間にかまた俺たちの背後に立っていた。空振りを食らった俺たちはその場に膝をついたまま、茅場の言葉に大きく安堵の息をついた。

 アスナが、生きている。その事実を知った途端、全身から力が抜けていった。

 茅場の言葉を疑いはしなかった。この期に及んで、俺たちを謀るようなことはしないだろうという、妙な信頼があった。

 気が抜けてしまったからか、俺は急激な疲労を覚えてその場に座り込んだ。対して、隣のキリトはハッと何かに気付いたようにして顔を上げ、立ち上がる。

 

「じゃあまさか、今まで死んでいったやつらも……?」

「いや、死者は蘇らないさ。現実世界でも、この世界でも、それは同じことだ。アスナ君のことは……そうだな。魔王を倒した勇者たちに訪れたたった1度の奇跡とでも思ってくれ。存外、私も物語というものはハッピーエンドが好きなものでね。このゲームを1つの物語として考えるなら、主役は間違いなく君たちだっただろう」

 

 アスナが生きていると告げた口で、そのまま茅場は数千人の命を奪った事実を、なんでもないことのように言ってのける。そのアンバランスな人間性に、やはりこいつは俺の理解の及ばぬ存在なのだということを再確認した。

 

「最後の戦いは、驚きの連続だったよ。そして、私の完敗だ。まさか、あの場にキリト君が現れるとはね。自分が作り上げたゲームだと言うのに、まるで知らない世界に迷い込んでしまったかのような気分になったよ。君たちのお蔭で、私は最後にフルダイブ型ゲームの新たな可能性を発見できたようだ」

 

 些末な話題はもう終わりとばかりに、茅場は話を変えた。

 俺もこれ以上先ほどの話を掘り返すつもりはなかったが、しかし素直にこいつの話に付き合ってやる気にもなれなかった。戦いの疲労感とアスナが生きていたという安堵感で、頭が全く働かない。というか、一刻も早く寝たい。その気持ちを表すように、俺は大きくため息をついて首を横に振った。

 

「……正直、疲れてるからそういう話は後にして欲しいんだけど」

「ははは。まあそうつれないことを言わないでくれよ」

 

 ヒースクリフという仮面を脱ぎ捨てたからか、茅場の印象はかなり変わって見えた。笑っている様子だけを見ると、気の良さそうなおっちゃんである。それを眺めていると、どうにも妙な気分になって毒気が抜かれてしまった。

 しかし隣に立つキリトはそうではなかったようで、険しい顔を茅場に向けていた。

 

「なあ、茅場。あんたはどうしてこんなことをしたんだ?」

「ふむ。こんなこと、とは?」

「SAOを、脱出不能のデスゲームに仕立て上げたことだ。築き上げた地位も名誉も全部捨てて、何千人もの人間を犠牲にして、あんたはこの世界で一体何を手に入れたんだ」

 

 問いかけるキリトには、怒りの感情は伺えなかった。純粋な疑問ということだろうか。キリトも俺と同様、茅場に対する個人的な恨みは持っていないのかもしれない。根拠はなかったが、俺は何となくそう思った。

 問われた茅場は少しだけ考える様子を見せたが、やがて特にもったいぶることもなく語り出す。

 

「地位も名誉も、私にとって大した問題ではなかったのさ。私が焦がれていたのは、この世界。あの城の中で生きることだった」

 

 茅場は崩れゆくアインクラッドへ顔を向け、目を細める。崩壊する城を通して、どこか遠い記憶に想いを馳せているようだった。

 

「子供は次から次へと様々な夢想をするものだろう。空に浮かぶ鉄の城の空想に私が取りつかれたのは、いつの頃だったか……。きっと多くの人間は、大人になる過程でそういったものを忘れてゆくのだろうね。しかし私の中から、その情景はいつまで経っても去ることはなかった。むしろ年を経るごとに更にリアルに、大きく広がっていった。この地上から飛び立って、あの城へ行きたい……長い間、それが私の唯一の欲求だった」

 

 茅場が、薄く笑みを浮かべる。

 

「私はね、まだ信じているのだよ。どこか別の世界には、本当にあの城が存在するのだと」

「……そうか。ああ、そうだといいな」

 

 頷いたのは、キリトだった。そして顔には出さなかったものの、俺の中にも通じる思いはあった。

 決して、茅場のやったことを肯定するわけじゃない。だがこの2年という長い時間をアインクラッドで過ごしてきた俺たちには、茅場の言葉を一笑に付すことは出来なかった。

 きっと茅場にも、この世界でしか得られない何かがあったのだ。それに焦がれ続け、全てを投げ出してここに辿り着いたのだ。

 多少なりともその気持ちが理解出来てしまう俺たちに、茅場のことを非難することは出来なかった。俺に出来るのは、精々揶揄の言葉を返すことくらいである。

 

「……しかし随分とまあ、ロマンチストなんだな」

「はは。君にそう言われるとはな」

「いや、何だよその言い草……。自分で言うのも何だけど、割と現実見据えてる方だろ俺」

「現実見据えてる奴は専業主夫なんて志望しないと思うぞ」

 

 俺の言葉にツッコミを入れたのはキリトである。おい、お前は俺の味方じゃないのかよ。

 まあお互い、軽口が叩けるまで精神状態が回復したと言うことだろう。それでも俺は未だに極度の疲労からは回復していなかったが、全てが丸く収まったという達成感と安堵感からか、気分は少し高揚していた。

 

「いやお前、世知辛い現代社会を正しく見据えてるからこその選択だろそれは」

「ハチが見てるのは物事のネガティブな面ばっかりだろ。あえて言うならそこは悲観主義者だな」

 

 俺は言葉に詰まって、キリトから目を逸らした。うん。正論過ぎて反論出来ない。

 茅場は薄い笑みを顔に貼り付けたまま、俺たちのやり取りを眺めていた。軽口の応酬が収まるのを待って、再び口を開く。

 

「突き詰めたリアリストこそ、その実、誰よりもロマンチストなものさ」

 

 言葉の意図が理解出来ず、俺たちは2人揃って首を傾げた。茅場はそれを予期していたのか、間を置かず、さらに説明するように言葉を重ねる。

 

「誰もが皆、本当に求めるものを手に出来るわけではない。いや、むしろそんな恵まれた人間はほとんど居ないと言っていいだろう。代用品を見つけて妥協し、それが本物だと自分を騙すことこそが、多くの場合において賢い選択であり、現実的なのさ……。私が、この世界を作り上げたようにね。本物を求め続けると言う行為は、時に空虚なものだ」

 

 茅場その言葉には、どこか自嘲のような響きが混じっていた。

 自分を騙すことこそ、現実的な選択。その理屈はよくわかる。本当に自分が求めるものを追い続け、それを手に出来る人間など世の中にほんのひと握りだろう。

 どれだけの努力を重ねても、本当に欲しいもの、その本物が手に入るとは限らない。故に、例え手にしたものが偽物であったとしても、それを本物だと自分に言い聞かせて満足した方が現実的なのだ。現実逃避が最も現実的な生き方だというのは、皮肉な話である。

 

「……じゃあ、あんたが手に入れたものは、偽物だったっていうのか?」

 

 眉をひそめてキリトが聞くと、茅場は困ったように肩を竦めて応じた。

 

「さあ、どうだろうね。もう自分でもよく分からないよ。だが、あの最後の戦い。ハチ君、君と命を懸けて戦ったあの時間だけは、きっと私にとって……。いや、語っても詮無いことか。これは余人に理解できる感情ではないだろう」

 

 茅場は力なく首を横に振って、その話を打ち切ってしまった。崩壊するアインクラッドを見つめていた視線をこちらに向け、話を変える。

 

「君たちには感謝しているよ。君たちのお蔭で、この世界は一層真に迫ったものになったことは間違いない。それに、最後に面白いものも見れたしね」

 

 最後の一言は、キリトと、ここには居ないアスナに向けられたものだろう。2人はゲームの世界の中にあって、そのシステムに縛られない行動をしてみせた。チートツールやバグなどという安っぽいものではない。俺でさえ柄にもなく、人の意志の力のようなものを感じたのだ。ゲームの制作者である茅場にとっては、その衝撃も大きかっただろう。

 

「君たちがこの世界で手に入れたものが、本物であることを願っているよ。では、私はそろそろ行くとしよう」

 

 言って、茅場は白衣を翻して歩き出した。遠くに見える夕日に向かって、ゆっくりと歩を進める。

 

「ああ、そうだ。ひとつ言い忘れていたな」

 

 立ち止まり、振り返る。夕日を背にした茅場の表情は、よく見えなかった。

 

「ハチ君、キリト君。ゲームクリアおめでとう」

 

 俺たちが言葉を返す間もなく、茅場は白い光となって消えて行った。

 しばらく、俺たちは黙ってその場に立ち尽くした。やがて大きなため息をついて、うんざりしながら俺は口を開く。

 

「最後まで気障な奴だったな」

「ああ。あんなにかっこつけられると、なんだか勝った気がしないよ」

「だな。けどまあ、生き残ったもん勝ちだろ」

 

 おそらく茅場は、この後自殺を図るだろう。命を懸けた戦いで敗れたのである。茅場ならば、命惜しさに約束を覆したりはしないはずだ。アスナを助けたことについては、茅場自身が「たった1度の奇跡」だと口にしていた。2度目の奇跡は訪れない。

 

 心の中で、茅場に別れを告げた。

 敵ではあったが、嫌いな相手ではなかった。

 

「うおっ。もうログアウトまで時間なさそうだな」

 

 驚いたように声を上げたのはキリトだった。足元から、少しずつ光に包まれている。

 

「あー……。色々話したいことあるけどさ、まあ、また現実世界(あっち)で会った時でいいよな」

「だな。くっそ疲れた……。リアルに戻ったら、多分ソッコーで寝落ちするわ……」

「ははっ。ハチらしいな」

 

 大の字に寝転んで、キリトを見上げた。キリトは呆れたように笑いながら、俺の横に腰を下ろす。その距離感は、なんだか妙にしっくりときた。

 アインクラッドで戦い続けた2年間。隣にはいつもこいつがいた。俺が拒絶しようとも、気付けば隣に居てくれた。強引に手を取って、相棒だと言ってくれた。俺が、それにどれだけ救われたことか。

 最後に何か特別な言葉を送るべきだろうかと少し考えて、やめた。ここで俺たちの関係が終わる訳じゃない。きっとまた、いつでも会えるだろう。

 

「じゃ、またな。キリト」

「おう。またな。ハチ」

 

 どちらからともなく、拳を突き合わせた。硬い手ごたえと共に、熱が行きかう。顔は見えなかったが、きっと互いに笑っていただろう。

 不意に、体から吹き出す光の粒の勢いが増した。次の瞬間、俺の意識は光の渦の中に飲み込まれていった。

 

 

 3000人以上もの死者を出したデスゲーム《Sword Art Online》

 ゲーム開始から2年以上もの時間が経った2024年11月26日。

 閉じ込められた多くのプレイヤーたちの尽力によって、この日、ようやくゲームはクリアされたのだった。


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