やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第38話 屋台にて

 夜も更け、同室の男どもが寝静まった頃。夕食前にひと眠りしたせいか妙に眼が冴えてしまった俺は1人部屋を抜け出していた。

 旅館の長い廊下には人の気配はなく、物音ひとつしない。システム的にドア越しに音が漏れることはないので気を遣う必要もないのだが、それでも深夜に大きな物音を立てるのはなんとなく憚られて気配を殺しながら歩いた。カンストしている隠蔽(ハイディング)スキルと相まって、今の俺なら誰にも存在を気付かれないまである。あれ、それって平常運転じゃね?

 

 不意に肌寒さを感じ、コートの裾に顔を埋めた。もうロビーの近くだ。外の空気が吹き込んできたのだろう。

 俺はこれから街に出て、昼間チェックしておいたとある麺類を出す屋台へと行くつもりである。昼間は女子たちに付き合って他の店に入ってしまったので手が出せなかったのだ。

 

 今さら言うまでもないことだが、このゲーム内での食べ物は現実のものとは似て非なるものが多い。料理の見た目は現実にあるものと全く同じなのに、食べてみると味は全然違うなんてことは珍しくない。ゲーム攻略が進むにつれて食べ物もまともなものが増えてきているのだが、それでも現代日本の豊かな食文化に慣れてしまったプレイヤーたちを満足させられるほどのものは中々見つからないというのが現状だった。

 

 そんな中で相対的に見れば俺の食事情は恵まれている方だろう。風林火山には料理専門のプレイヤーがいるし、稀にご相伴にあずかるアスナの手料理だって絶品だ。だがそんな俺でもずっと前から求めてやまない食べ物がある。そう、ラーメンである。

 

 以前第50層で食べた《アルゲードそば》は見た目だけはラーメンっぽかったが、ラーメン好きからすると食えたものではなかった。むしろ中途半端にラーメンっぽいものを食べてしまったせいでそれから無性にラーメンが食いたくなってしまったのだった。

 

 この街で見かけた屋台も看板にラーメンとは表記されていなかったが、漂う雰囲気はラーメン屋台そのものだった。今度こそアタリであって欲しい。ていうかもう完全にラーメンの口になってしまっているので、これで全く違うものだったらもう立ち直れない。

 

「あれ、ハチ君?」

 

 外に出たところで、暗がりから声が掛かった。突然のことにドキリとしながらそちらに視線をやると、目が合ったのは玄関脇のベンチに座るアスナだった。

 七宝柄の温泉浴衣に紺の羽織を上に重ね、髪は大雑把に纏めて右に流している。妙に隙のあるその姿に今度は違う意味でドキリとしつつ、俺は平静を装って口を開いた。

 

「こんな時間に何してんの、お前」

「なんだか寝付けなくって。ハチ君こそどうしたの?」

「いや、小腹が空いたから飯でも食いに行こうかと」

「こんな時間に?」

「太る訳でもないし、別にいいだろ」

 

 既に日付も変わって時刻もそろそろ1時近くになる。こんな時間にラーメンを食べるなど現実世界なら自殺行為だが、仮想世界なら特に問題ない。まあ元から太りやすい体質というわけでもないので、現実世界でもそれほど気を遣っていないのだが。

 俺の言葉にアスナは少し納得のいかない表情を浮かべていたが、反論するつもりもないのかやがて「それもそうね」と言って頷いた。それきり場に沈黙が降りる。

 

 最近アスナがあまり眠れていないという話は、フィリアやシリカからそれとなく聞いていた。ほぼ間違いなく《不吉な日》の一件によるストレスが原因の不眠だろう。

 俺はそれを知っていたのだ。知っていて、何もしてこなかった。

 だが、既に多くの人間から慰めの言葉を掛けて貰ったであろうアスナに対し、これ以上俺から何を言うことが出来るというのか。

 

 ――今アスナの力になれるのは、本当の意味で今まで一緒に戦ってきた仲間だけだと思う。

 

 昼間のフィリアの言葉が頭を過った。しかしその理屈で言うなら、その役目はヒースクリフやキリトでもいいはずだ。むしろ俺よりもよっぽど適任である。

 確かにアスナには今、誰かの支えが必要なのかもしれない。だが、それは俺である必要性があるのか。俺が動く必然性があるのか。

 考えるのはそんなことばかり。常に外へと理由を求めなければ何ひとつ自分から動くことの出来ない、まるで木偶の坊だ。誰かに頼まれたから。依頼だから。適任だから。そんな理由(いいわけ)ばかりの自分が嫌になる。

 

 沈黙の中、月明かりに照らされたアスナの瞳が小さく揺れた。その瞬間を盗み見てしまった俺には彼女の姿が酷く儚いものに感じられて、息が詰まる。

 《不吉な日》黒鉄宮。泣き崩れるアスナの姿を思い出してしまい、俺の中に様々な感情が駆け巡った。

 

 誰かに与えられた理由じゃない。俺自身の気持ちは、いったいどこにあるのだろう。

 俺は……俺はアスナに――。

 

「……あー。ちょっと昼に見つけたラーメン屋台っぽいところ行くつもりなんだけど……お前もどうだ?」

 

 頭の中、考えは纏まらないままだったが、いつの間にかそう口に出していた。

 しかしすぐに羞恥と後悔が押し寄せてくる。顔が熱い。何を口走っているんだ、俺は……。

 アスナはたっぷり数秒間ポカンとした表情で固まり、再び静寂が場を支配する。完全にやらかした。いっそ殺してくれ……。沈黙に耐えきれず俺がそう思い始めた頃、アスナは吹き出すようにして半ば呆れ顔の笑みを浮かべた。

 

「普通、こんな時間に女の子をラーメンに誘う?」

「……普通やら当たり前やらが理解出来るなら長いことぼっちやってねえっつの。別に、嫌なら来なくていい」

「もう、嫌だなんて言ってないでしょ。行くわ」

 

 悪態を吐くように言葉を返した俺に、アスナはたしなめる様にそう言った。それは思いのほか悪くない反応に見えて、少し気が楽になる。

 言葉とともにベンチから腰を上げたアスナがこちらに歩み寄る。その表情は心なしか先ほどよりも軽くなったようだった。

 よかった。まあ、ラーメンは皆好きだよな。表ではパンケーキが好きですとか言ってるスイーツ()な女子も、裏では案外なりたけでギタギタにニンニクをぶち込んでいたりするのだ。

 

「でもこの時間にまだやってるの? もう1時近いけど」

「そこは確認済みだ。深夜2時まで営業だって看板に書いてあった」

 

 昼間屋台の前を通った時に、営業時間だけはしっかりチェックしておいた。ちなみに開店時間は15時。どうせNPCの経営なんだから全部24時間営業でいいだろと思うのだが、案外アインクラッドの中ではそう言った店は少ない。店舗によっては定休日もあったりするくらいだ。お前らもっと働けよ。あれ、なんかブーメラン飛んできた。

 

 そんなことを考えながら、俺は改めて目の前のアスナを見下ろす。温泉浴衣の襟元からチラ見えする鎖骨がエロい――じゃなくて、さすがにこのまま街に出るのは不味いだろう。

 

「けどお前、その格好じゃ寒いだろ。ここで待ってるから着替えて来いよ」

「あ、そうね。それじゃあちょっと待ってて」

 

 ゲーム内では着替えもシステムウインドウで装備を変えるだけだが、その際一瞬チラッとインナーが見えたり見えなかったりするので、女プレイヤーが人前で着替えることはあまりない。

 そうして一旦宿へと戻るアスナの背中を黙って見送る。ややあって、俺は白い息をゆっくりと吐きながら、何とはなしに夜の空へと目をやった。

 

 別に、俺がアスナの悩みを聞いて解決してやろうなどと、そんな高尚なことを考えているわけではない。ただ、美味いものでも食べて、少しでも彼女の気が晴れればいい。そんな浅ましい思いつきだ。

 アスナにはたくさんの借りがある。気落ちする彼女に一杯のラーメンを奢るくらいのことは、きっと俺にも許されるだろう。

 いまだ未練がましくそんな言い訳を考えながら、俺は寒空の下でアスナを待った。

 

 

 その後、すぐによそ行きの恰好に着替えて戻ってきたアスナとともに夜の街へと繰り出す。

 通りには暖かい光を灯す丸い提灯が並び、街並みを淡く照らしていた。そんな明かりひとつで昼間とは風情ががらりと変わり、まるで別の街へ来てしまったような気分だ。まだ外を出歩くNPCの姿も多く、居酒屋のような店舗が並ぶ通りには賑やかな空気が漂っていた。

 目的の屋台は俺たちが泊まっている旅館からそう遠くない。未だNPCで賑わう大通りから脇道に一歩入った路地。雪かきの名残なのだろう、道の端に積み上げられた雪の塊と肩を並べるように、その古ぼけた屋台はひっそりと佇んでいた。

 

 暖簾を潜り、木組みの長椅子にアスナと肩を並べて座る。うん。妙に油ぎったテーブルがB級感満載で良い感じだ。お品書きは木板に黒々と筆で大きく書かれた《(おとこ)そば》のみである。

 2人分の注文を告げると、店主である壮年の男は黙って調理を始めた。渋い。頑固な仕事人を絵に描いたようなNPCだ。頭に巻いた白いタオルと黒Tシャツが決まってるぜ。彼ならきっと俺の期待に応えられるラーメンを作ってくれるはずだ。というかこれだけ雰囲気を出しておいて、なんちゃってラーメンを出されたら訴訟も辞さない。

 

 待つこと5分。不愛想な店主が俺たちの前に湯気が立ち上る2つの椀を差し出した。澄んだスープに、薄黄色の縮れ面。トッピングはシンプルにネギのみ。そこにあったのはまごうことなきラーメンの姿だった。

 テーブル中央に置かれた箸を手に取り、もう待ちきれないとばかりに麺を啜る。その瞬間、俺は全身に電撃が走ったような衝撃を覚えた。

 数秒硬直し、次いで弾かれたように再び麺を啜る。スープまで一通り味わい尽くしたところで、俺は天を仰いで息を吐いた。

 

「あー、やばい。美味い。泣きそう。もう俺ここのうちの子になるわ……」

「そ、そんなに?」

 

 アスナが若干引いた様子でこちらを見ていた。いや、仕方ないだろ。むしろこの程度の反応で済んでいる俺を褒めてもいいくらいだ。ここが某料理漫画の世界だったら俺は今頃視聴者サービスのために服が弾け飛んで全裸で悶えていたことだろう。いや、誰得だよ。

 

「でも確かに美味しいわね。ちゃんとしたラーメンって感じ」

「そうだろうそうだろう」

「なんでハチ君が自慢げなのよ」

 

 俺が育てた、とばかりに頷く俺に対しアスナは胡乱げな眼差しを向けていた。

 そんな会話をしながらお互いラーメンを食べ進める。実際には何の変哲もないラーメンなのだが、久しぶり過ぎて最高に美味く感じる。俺はすぐに出されたラーメンを平らげ、替え玉を注文した。それを横から見ていたアスナが再び呆れた表情を浮かべる。

 

「まだ食べるの?」

「次いつ食いに来れるかわかんないからな。ゲーム内でラーメンに近い食い物なんて《アルゲードそば》しかなかったし。あれは食えたもんじゃなかった」

「ああ、あの醤油なし醤油ラーメンみたいな奴ね……」

「俺はあれを断じてラーメンだとは認めん」

「そんなこと言いながら、あなたよくキリト君と食べに行ってたじゃない」

「いやあれは一時的措置というか、苦肉の策というか。喫煙者がニコレット噛むみたいなもんだ」

「ラーメンってそんなに依存性の高いものだったっけ……」

 

 話しているうちに麺が茹で上がったようで、店主が替え玉を皿にのせてテーブルに置いた。すかさずそれをスープの入っている椀にぶち込み、再び麺を啜る。ゲーム内なら替え玉をしてもスープが薄くならないので、たれは必要ない。

 しばらく無心で麺を啜っていた俺だったが、ふと隣からの視線を感じてその手を止める。アスナは1杯目のラーメンを完食して満足したようで、セルフサービスのお冷を飲みながらじっとこっちを観察するように眺めていた。

 

「……そんなに好きなら、今度作ってあげようか?」

「え、なに? お前ラーメン作れんの?」

「材料さえあれば似たようなものは作れると思う。この間《料理》スキルカンストしたし」

「マジか。じゃあそん時はヤサイニンニクアブラカラメで頼む」

「何それ? 呪文?」

 

 アスナが可愛く小首を傾げる。リアルじゃいいとこのお嬢様らしいし、油ギトギトのラーメンなんて食べたことないんだろう。そんな彼女に詳しく説明してやると、そんなものは食べ物じゃないとばかりに顔を顰めた。いや、美味いんだってこれが。

 ここのノーマルなラーメンも美味かったが、やっぱり1番好きなのは油ギトギトのこってりラーメンだ。なりたけのギタギタなんて食うとあれ1杯で寿命が1年くらい縮みそうな気もするけど、好きなものはやめられない。

 

 そうこうしているうちに替え玉も平らげ、ようやく一息つく。本物のラーメン屋台だったら食べ終えたらすぐに席を立つべきなのだろうが、他に客もいないし気を遣う必要もないだろう。店主も屋台奥に置かれた丸椅子に座り込み、腕を組んで眠るように沈黙している。これ余裕で食い逃げできそうだな。いや、オレンジカーソルになるからやらないけど。

 テーブル端に置かれた透明なコップを手に取り、お冷を注いで口を付ける。今さらながら気付いたが、この屋台の中にいるとかなり暖かい。外はかなり寒いし嬉しい仕様だ。お冷はキンキンに冷えていたが、気にならなかった。

 

 ラーメンの味の余韻に浸りながら、静かな時間が過ぎる。明日は他の奴らも誘ってやるか。けどこの屋台キャパ少ないし、あんまり情報が広まって行列ができるようになってもいやだな……。いや、そもそもこの街に来れるレベル帯のプレイヤーはそんなに多くないだろうし、気にすることもないか。

 そんな暢気なことを考えている俺の横。しばらく1人俯いていたアスナが、ぼそりと溢すように呟いた。

 

「……ごめんね」

「あ?」

 

 急な謝罪の意図が読めず、俺は思わず呆けた声を上げた。アスナは困ったような力ない笑みを浮かべて、こちらを見る。

 

「私に気を遣ってくれたんでしょ? こういうの、ハチ君から誘ってくれることなんて滅多にないもんね」

 

 言って、小さく息をついた。俺はそれを否定しようと思ったが、咄嗟に言葉は出てこなかった。

 

「この街に来たのだって、多分そうだよね。私、色んな人に気を遣わせちゃってる。みんなの気持ちはすごく嬉しいけど……きっと、このままじゃ駄目」

 

 アスナの視線はテーブルの一点を見つめたまま微動だにしない。なんとなく、俺は場の空気が冷えてゆくような錯覚に陥った。息を継ぐような数秒の沈黙の後、アスナは再び口を開く。

 

「あの襲撃があった日、きっとゴドフリーたちだけなら逃げられたはずなの。でも、そうしなかった。……私がいたから」

 

 話すアスナの横顔は、さながら懺悔する罪人のようだった。

 《不吉な日》黒鉄宮で笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちの襲撃が行われた際、防衛部隊に所属する何人かのプレイヤーたちは不意打ちによる麻痺を回避し、応戦したと聞いている。アスナが言っているのはそのことだろう。

 ゴドフリーとは、俺も最前線で顔を合わせることが多かった。そしてあの日、彼が倒れる瞬間をよく覚えている。黒鉄宮に駆け付けた俺の目の前で、ゴドフリーは笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちに殺されたのだ。今際(いまわ)(きわ)に、アスナを頼むと俺に言い残して。

 

 正直、ゴドフリーのことはあまり好きではなかった。暑苦しく、脳筋で、デリカシーもなく、話しているだけで疲れてくるような相手。これに関してはアスナもよく愚痴を溢していた。

 だが、共に最前線に立つプレイヤーとして、心のどこかではゴドフリーを認めていたように思う。ずっと同じギルドで活動してきたアスナも、きっとそうだろう。

 無駄に正義感の強い男だった。そんな奴がアスナを見捨てて逃げることなど出来るはずもない。そしてゴドフリーは仲間とともに最期の時まで雄々しく戦ったのだ。

 そうして故人に思いを馳せる俺を、続くアスナの言葉が現実に引き戻す。

 

「それに、私がもっとしっかりしてれば、クラディールの裏切りに気付けたかもしれない。不意打ちに気付いて、もっと誰かを助けられたかもしれない」

「お前……」

「ううん。別に、全部自分のせいだって言うつもりじゃないの。ただ、そう出来た可能性もあったんだろうなって思うだけ」

 

 こいつはまた気負う必要のないことまで1人で抱え込んでいるのではないか、と俺は不安になって口を挟もうとしたが、それを遮るようにしてアスナは否定の言葉を口した。しかしその言葉とは裏腹に、アスナの表情には割り切れない感情が滲み出ているように思えた。

 それはそうだろう。理屈だけで割り切れるような問題ではない。ましてや事件からそれほど時間も経っていないのだ。

 

 いわゆるサバイバーズ・ギルト。生き残ってしまったことに対する罪悪感。

 きっとアスナの心の奥底にあるものはそれだろう。

 

 俺にも似たような思いはある。俺がもう少し早く黒鉄宮にたどり着けていれば、ゴドフリーたちを助けられたかもしれないのだ。しかし、目の前で仲間たちを無残に殺されたアスナの無念は、俺とは比べ物にならないだろう。

 それでもアスナは割り切れない感情を飲み下し、自分のなすべきことをなすために、今立ち上がろうとしている。

 

「あの日から気持ちの整理が出来ないまま、ずっと流されてきちゃったけど……。ここで立ち止まってちゃ駄目だわ。あの日死んでいった人たちのためにも、私が頑張らなくっちゃ。みんなに甘えるのは、この旅行で最後にする」

 

 そう言ったアスナの表情にはもう陰りはなかった。前を向いた瞳にも、力強い意志が灯っているように見える。

 今そこにあるのは、かつてのアスナの姿。美しくも雄々しい才気あふれる少女、血盟騎士団副団長、閃光アスナの姿だった。

 

 やはり俺の助力なんぞ必要なかったのだろう。アスナは1人でも立ち上がった。あとは無難な言葉を返して、彼女の希望通り送り出してやればいい。それですべて解決だ。アスナは前にもましてゲーム攻略に邁進し、多くの人々を救うだろう。

 頭ではそう考えていた。だが、俺の口から零れ出た言葉は彼女の決意に水を差すものだった。

 

「……別に、いいんじゃないの。甘えても、立ち止まっても」

「え?」

 

 アスナがこちらを振り返る気配がしたが、俺は顔を合わせることが出来ずに俯き、手に持ったコップをじっと見つめた。

 俺が口を出すようなことではないというのは分かっている。独りよがりな余計なお世話、無能な働き者そのものだ。銃殺されても文句は言えない。

 だがそれでも……俺は嫌だと思ってしまったのだ。死者のためにと言いながら、身を切るようにゲーム攻略へと邁進してしまうであろうアスナを想像し、嫌だと思ってしまったのだ。

 

「少なくとも俺は……あの時、俺がお前を助けようとしたのは……お前にゲーム攻略をして欲しかったからじゃない」

 

 途切れ途切れに、しかしはっきりと言い切った。夜の静寂の中、その言葉は思いのほか強く響いた気がして、次第に気恥ずかしさが増してくる。だが、今さら吐いた唾を呑むようなことをするつもりはなかった。

 言葉に偽りはない。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たち相手に槍を振るった時、打算的な考えなどは微塵も頭になかった。ただ彼女を死なせたくなかった。それだけだ。そして、それはきっと俺だけではない。

 

「あいつらはどうだったんだ。お前を助けようとした奴らは、お前が役立たずだったら見捨てちまうような奴らだったのか」

 

 言いながら、意地の悪い質問だと思った。だが、その答えが否であるということを俺は確信していた。ゴドフリーたちとは直接会話をした経験こそ少ないが、傍から見ているだけでもその人となりを推し量ることは出来る。

 沈黙の中、隣でアスナが首を横に振ったのが気配で分かった。不意に、冷たい風が屋台を揺らす。なんとなく、俺はその風が止むのを待ってから再び話し始めた。

 

「……なら、死んだ奴らのために、なんて言い方はやめろ。俺だったら……誰かの生き方を縛るような死に方は、したくない。それが近しい人間だったらなおさら」

 

 死というものが身近に存在するSAOの世界では、間々あることだった。故人の遺志を継いでと言えば聞こえはいいが、それはある種の呪いのようなものだ。生者の人生を縛り、時に破滅へと導いてしまうこともある。俺は長いSAOでの暮らしの中で時にそれを目の当たりにし、ああはなりたくないと思ったものだった。

 

 例えばキリトは、俺が命を落とせばきっと悲しんでくれるだろう。そしてその状況によっては俺の死に責任を感じ、俺が成し遂げられなかったゲームクリアという目標に向かってその身を捧げるように攻略に勤しむようになるかもしれない。だが、仮に俺がどんな死に方をしたとしても、俺自身はそんなことは望んじゃいないのだ。

 生き残ってしまったからには、そいつは自分の人生を生きていくべきだ。そうでなければ、生き残った意味がない。

 

「このゲームを攻略することだけが、お前の価値じゃない。お前は、お前が好きなようにしていいんだ。それは何も悪いことじゃないし、誰もお前を責めない」

 

 言って、目を瞑った。途端、耳の痛くなるような静寂が場を支配する。時折、屋台を揺らす風の音だけが耳に届いた。

 

「……悪い。先帰ってるわ」

 

 やがて沈黙に耐えられなくなった俺は、アスナの反応を伺うこともなく席を立った。手早くシステムウインドウを弄って2人分の会計を済ませ、その場を後にする。しかし屋台を出て数歩歩いたところで、強い力で右手を掴まれた。

 

「待って」

 

 薄暗い路地に、アスナの言葉が響く。屋台の外は相変わらず肌を刺すような厳しい寒さだったが、握られた右手だけは熱いほどの温もりを感じていた。

 俺は躊躇いながらも、振り返ってアスナを見やった。屋台の明かりを背にした彼女の表情は良く見えない。ただ、少し乱れた髪の間から、2つの大きな瞳がこちらを覗いていることだけがわかった。

 呼び止めた彼女自身もまだ頭の整理が出来ていないのか、すぐに言葉を口にすることはなかった。流れていく沈黙の中、しかし掴んだ右手だけは離さない。俺はしばらく呆けるように立ち尽くしていたが、やがて緩やかな風が頬を撫ぜて行き、それを追うようにようやくアスナも言葉を紡ぐ。

 

「……このゲームを攻略したいっていうのは、他の誰でもない、私自身の意志だよ。だから今の話を聞いても、私のすることは変わらないと思う」

「……そうか」

「でもね」

 

 握られた右手に、いっそう力がこもる。暗がりの中、相変わらずアスナの表情は窺い知ることは出来なかったが、その瞬間、何故か俺には彼女が柔らかく微笑んだように思えた。

 

「ありがとう。ハチ君の言葉、嬉しかった。それだけで、私は頑張れるから」

 

 夜の街に、少女の言葉が凛と響いた。同時に俺の右手を包んでいた温もりも離れて行ってしまったが、触れられていた場所は未だに熱を持っているように火照って感じた。その温もりを逃がしてしまうのは何故か惜しく思えて、俺は右手を握ったままコートのポケットに突っ込む。

 

 アスナは、きっともう大丈夫だ。

 夜の闇の中、佇むアスナをぼんやりと見つめながら、漠然とそう思った。根拠はない。ただそう言い切れるだけの確信めいた思いが俺の中にあった。

 張り詰めていた感情が弛緩し、大きく息を吐く。冷気と混じり合って白く染まった俺の吐息は、再び吹いた緩やかな風に流されてすぐに消えて行った。


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