真っ白な空間に、自分はいた。
重量から解放された世界。
まるで夢のような。
いや。これは夢なのだ。
確証はないが、なんとなくヴァンにはそれが判った。
「少年」
ふと、何者かに呼びかけられた。低い声だった。
「誰だ?」
振り向くと、背の高い戦闘装束の青年が立っていた。線の細い端正な面持ちに、切れ長の茶色の瞳。そして正面からは気がつかないが、焦茶色の髪を後ろでまとめている。その見た目はまさに、東方系という言葉が確りくる。
ふと、気がついた。
――腰に携えた鍔のない赤鞘の刀剣の存在に。
ヴァンは彼が誰であるかを、おおよそ察した。
「あなたが、羅音(らいん)か?」
「ああ、そうだ」
羅音は、自分の隣まで来てからゆっくりと腰を下ろした。
「彼女に伝えなければいけなかったことを、伝えに来た」
その声は優しげでありながら意志の強さがあり、聞いているとどこか落ち着くものがあった。
「何を?」
ヴァンが内容を訊く。羅音は、静かに口を開く。
「それは――
短い会話の後、ヴァンは無言で頷いた。羅音はそれを見て安堵したように、笑みを浮かべる。
「どうか、あの娘を護ってやって欲しい」
さあ、目覚めるんだ。
――長き沈黙を破り、彼は目を覚ました。
眼と首だけを動かし辺りを見回す。すると、視界にぼんやりとした黄色い小さな電灯が一つだけ映った。それは頼りなく、この場所を薄暗く照らしている。
今は――夜か。
視界は悪いが、しばらくすると目が慣れた。カーテンの間から差し込む月光、そして電灯を頼りに室内の形状、起伏を把握していく。どうやらここは病院の大部屋らしい。自分の寝ているベッド以外にも、いくつか同じものが並んでいる。しかしながら、ここにいるのは自分だけ。完全に貸しきり状態であった。
記憶を整理しつつ、ヴァンは半身を起こして近場を見回した。少し離れたベッドの隣に、自分の身につけていた鎧と、ポーチなどが並べられている。アーマーの革部分は、先の戦闘によってひどく破損していた。金属部分も同じく凹みや亀裂がある。
どうやら自分の思っていた以上に、激しい戦闘を繰り広げていたらしい。
傷ついた鎧の隣には、愛用の青の剣が置かれている。ヴァンはブルークラウンを見据えつつ、記憶を遡った。
自分は遺跡に乗り込み、そこで裏で糸を引いていた黒服の男と対峙した。そして最深部にて、自分と相手――同じ青の剣を携えた者同士で打ち合った。
しかし結果は呆気なく、自分の敗北で終わった。しかも無様な惨敗。抉られた腹の傷は、幸い内蔵までは達していなかったようだが、それでも生きているのが不思議なほどの重症だったが、不思議と傷は塞がっていて治癒も進んでいる。縫合の後をなぞりつつ、ヴァンはある事を思い出した。目的の品――ブルーススケイルについてである。
結果として鎧は、手に入れていたはず。しかし頭がまだうまく働かない。ヴァンはしばらく、力を抜いてうなだれた。やがて思考力が戻って来るのを確認してから、深呼吸して一息つく。
あれから…いったい何日たったのだろう。ふとそんなことを思った矢先、視界に人影が映る。今まで気がつかなかった。
「ルナ…?」
紡ぐ言葉は、まだぎこちなかった。
いや違う。幻は消え去り、真実を暴き出す。
彼女ではない。傍らには別の黒髪の少女が居た。少女は眠っており、スースーと気持ちの良さそうな寝息を立てていた。彼女を起こさぬよう、ヴァンはベッドから起き上がろうとしたが、同時に彼女を起こしてしまった。
「目を、覚ましましたか?」
「ああ。起こしてしまったか、すまない」
「いえ。無事に目覚めて安心しています」
少女の目覚めは良いようで、数度目をこすってからすぐにはっきりとした口調で喋った。
「君は確か…アイリだったな」
「はい。あの村から同行してきた者です」
あの村とは、砂漠地帯のオアシスに存在した小さな村だ。外界からの情報屋物資を一切拒絶し、独自のルールによって形成された場所。アイリは自分たちと手を組み、そこから抜け出してきたのだった。
「そうだ。ルナはどうした?」
ヴァンは自分やアイリのことよりも、まず彼女のことが気にかかった。先刻彼女に纏わる人物から、大事なことを告げられていたからだ。
「そのことについては…まず食事を摂りましょう。食べながら話します。彼女も私も、あなたが食事を取れないことを第一に心配していましたから。ほら、非常食ですけど用意しておきました」
畳み掛けるように、アイリは喋った。そして言葉通り、携帯食をヴァンの口元へ向けて……
「ま、まて、あまり腹は減ってない」
「嘘ですよ。だってもう三日も何も口にしてないんですから」
アイリは棒状の干し肉のような物を、彼の口に押し込もうとしてくる。
「い、今までで三日くらい、食わなかったこともある!」
「でもお腹は空くでしょう?」
可愛らしく、それでいていじらしい表情を浮かべるアイリ。ヴァンは必死に抵抗する。彼のとって食べることに関してではなく、誰かに食べさせてもらうことのほうが問題だった。
「平気…だっ!」
そう言った瞬間、彼の腹は抗議の声を上げた。
「体は正直ですねっ、ほら」
ヴァンはとうとう、彼女に口を塞がれてしまった。
とりあえず……
まずは水を飲ませてくれと、彼は心中で呟いた。
「そうか…そんなことが」
ヴァンは、食事を摂りながらアイリの話に耳を傾けていた。彼女は落ち着いてここ数日のことと、ルナとの会話、彼女の動向を話した。
「ところでアイリ」
やがて食事を済ませると同時、ヴァンは訝しげな顔をした。
「鎧は、奪われてはいないか?」
まず、心配事だったことを聞く。苦労して手に入れた代物だ。あれがないと戦いは始まらない。
見たところ、室内にはないようだが。
「大丈夫です。私とルナさんで見張っていましたから」
アイリは元気よく答えた。どうやら、心配はないようだ。しかし見張っていた、か。ヴァンは続ける。
「それで、どこに隠してあるんだ?」
「私の目が常に届く場所です」
ヴァンは、視線を巡らせてある場所――あるものを見つけた。
「そうか。なら安心だ」
ヴァンは表情を緩めて、気軽な声で言った。
「そういえばさっき、妙な夢を見たんだ。ルナの師匠さんに会ったんだが、なんだか彼女を心配している様子だった」
「そうなんですか…」
アイリはそれを聞くとすぐ、浮かない表情になった。
「なんだか嫌な予感がするんだ。アイリ、知っていることを全部話して欲しい」
「実は…口止めされていて…」
「言うんだ。今すぐ」
ヴァンは彼女を見つめ続けた。
「…図書館へ向かいました。会わなきゃならない人がいると…」
「いつごろだ?」
「先程…30分ほど前です」
アイリは直ぐに根負けして、彼に真実を打ち明けた。
「まだそれほど経ってないか…」
ベッドから起き上がったヴァンは、覚束無い足取りのまま病室の端に向かった。棚や花瓶が陳列する中に、不自然に居座っていた物体。それにはフードが被されていた。
そして彼は、おもむろにそれから布を剥ぎ取った。
「もう少し、上手に隠しておいたらどうだ?」
顕になったブルースケイルを背にして、ヴァンは悪い顔で笑った。アイリは口をパクパク細かく開閉させながら、「やってしまった」という顔をする。
「装備する気ですか!?」
「ああ。じゃないと動けそうもない」
この鎧は龍の血から身を守る他に、使用者に確かな力を与えてくれる。一度装備して、ヴァンはそれを実感していた。
しかし、その力には対価が伴う。
「ダメです!それを着ていたせいで、貴方は今のような状態になったんですよ!彼女は、あなたが無茶をしないために口止めまでして…」
彼女の言うとおり、この鎧は使用者の精神力……いや、もっと本質的な何かを蝕む。ヴァンが昏睡状態にあったのも、実際のところ怪我のせいだけではなかった。
言葉で例えるなら”魂をこの世から遠ざける”のだ、この鎧は。
「構わないさ」
ヴァンは、落ち着いた声で言った。
アイリはそれを聞いて戸惑った。細い手を胸の前にやり数歩後退りをして、不安そうな顔を浮かべる。
「どうして?わからない。私には…」
彼女が気を遣ってくれたというのに。と言わんばかりに、アイリの言葉には困惑の感情が含まれていた。
「君も友を持てば、解るだろうさ」
ヴァンはそれだけを言って、鎧の留め具を外した。そして迷わずに装着する。元の使用者がそうだったのか。やや小さめに作られているが、それでもやはり自分の体とはサイズが合っていないようだった。今後運用するためには、どうやら調整が必要だろうと思った。
ヴァンは関節部と干渉の少ない胴鎧と、篭手だけを装備した。それ以外は、今までのものを装備する。
鎧と篭手はどちらも、装着後身体の形状にぴったりと吸着した。最初に装着したときは意識のなかったので、この感覚は今回が初めてだ。実に気分が悪いが、不思議とすぐに慣れた。その後はなんだか、心地よくさえも感じる。これが、この鎧が自分と同調している証なのだろうか。
――彼女を護る。
ヴァンは固い意志をその胸に誓い、ブルークラウンを携える。
「必ず戻る。準備していてくれ」
彼はそう言って、足早に部屋を去った。アイリは、その後ろ姿を引き止めることはできなかった。
ヴァンは人気の消えた夜の街路を全力疾走する。まるで獣のごとく。間に合ってくれと、無事でいてくれと。
彼はただそれを思って駆け抜けた。
◇
彼女の脚は、ひどく震えていた。憶測を突きつけられただけであるというのに、どうして自分はこんなにも動揺してしまっているのか。それは多分自分にも、あの日の真実に確信がないからだ。
「代居人は生まれる時に、誰かに成り代わると言っただろう。つまり君は、その時に一人を犠牲にしている」
「ルナ・ルークとは、誰のことだろうね?」
穏やかな口調とは裏腹に、リュースの紅い瞳は彼女を睨みつけているようだった。ルナは怯えたような表情のまま、激しく首を横に振った。
「イヤだぁ!!」
そして、絶叫した。
「記憶の見えない部分から目を逸らすな…!よく思い出すといい!お前は人殺しだ!私と同じく、誰かを食って生きている怪物だ!」
「やめて――!」
頭を抱えて、ルナはその場にへたり込む。
「認めろ…お前が殺した彼女の最期は、どうだった?」
たったそれだけのささやきが、彼女の記憶の裏側を掘り起こした。ルナは瞳を見開き、口を震わせた。
「わ、私は…」
普段は絶対に届かないその場所へ、目の前の悪魔は忍び込んだ。彼女を内面から弱らせて、その強い意志を破壊し、彼女の精神を蹂躙した。
名前など、知るわけもなかった。
悲鳴と鮮血の部屋の中で、私はひとりの少女に歩み寄った。
少女の虚ろな瞳は、白く光る”人型の何か”を映していた。
「あれが白き…人?」
闇に染まった記憶の一ページは、今暴かれた。
「君は認められなかっただけだ。何としても人でありたかった気持ちが、君自身を封印していた」
リュースは崩れ落ちた彼女に優しげな声をかけた。そして凶悪な笑みを浮かべる。
「私なら君を理解できる。我々は我々らしく、生きるべきだ。どうかな、考え直してくれないだろうか」
リュースはルナに接近して――手を差し伸べた。これまで見せたことのなかった行動だった。
「嫌だ…」
そう、ルナはうつむいたまま呟いた。リュースはそれに面食らった様子で、差し伸べた手をすぐに戻し苦笑を浮かべた。
「強情な女は嫌いだよ」
そしてさり気無く、腰の鞘に手を掛ける。
「代居人にも当然寿命がある。しかし、ドラゴンと同じく悠久の時を生きるために何度も転生ができるらしい。個体面で優秀な君を、今ここで試してみるのも悪くない」
リュースは剣を引き抜いた。そしてその切っ先を一度、ルナのうなじへ向けてから、頭上に振りかざす。
「…まずは、君を半殺しにする」
彼女は素早く刀を抜き、その一撃を受け止める。リュースを睨んだ紅い瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「嫌だ…!!」
ルナは月夜に吠えた。それからブルークラウンを弾き返し、リュースと距離をとった。
「ここで死んだら、死んでしまったら…あの子の命を奪ってまで生きながらえた意味がない…!」
赤い月は、いつの間にか白銀に変わっていた。
「私は、生きる。どんなことがあっても必ず。もう二度と、命を投げ捨てたりはしない」
赤鞘から刀を引き抜く。曇りのない白い刀身が、月光を反射させて煌めいた。
そしてルナは、羅音の形見刀――紅月を静かに構えた。
「そうか。それまでして抵抗したいか。なら、ここで決着をつけよう」
リュースは不敵に笑い、構えを取った。それから刹那、二人はお互いを目掛けて走り出す。ステンドグラスの、鮮やか光が落ちた踊り場で二人は剣を交えた。甲高い、剣の打ち合う音が何度もそこで木霊する。ルナの全力の連撃は、凄まじいものだった。もともと筋力には優れていない彼女だったが、体重移動をうまく活用して、変化に富み、それでいて勢いのある攻撃を何度も繰り出した。対するリュースも、人間離れした運動能力でそれをさばき、反撃を加えている。しかし依然としてお互いに致命傷はない。
お互いに同時に蹴りを繰り出して、二人は派手に吹き飛び床を転がった。
「君は人を手にかけることを、恐れているな」
リュースは挑発するように言った。
「…どうかしらね?」
ルナは負けまいと笑みを浮かべる。しかし彼女の脳裏には小さくも、確かに焦りが生じていた。
スピードと攻撃性では、こちらに有利がある。しかし持久戦となれば別だ。相手の体力から推測して、打ち負ける。
ペースを乱されたルナは、リュースの攻撃の全てを捌けずにいた。剣撃はなんとか受け止めはしているものの、その間に放ってくる格闘攻撃は見きれずにいた。剣術においては、向こうのほうが上手だった。それに加え、ほぼ互角の格闘術。疲労で落ちたこちらの攻撃スピード――つまり威力。
押されるのも無理なかった。拳が何度か横腹に入り、彼女は痛みと苦しみに呻き声を上げる。胃液が逆流し、何度も咳き込んだ。
だが――負けるものか!神速で踏み込み、相手の懐に刃を突き出す。しかしその攻撃を待っていたと言わんばかりに、リュースはブルークラウンを攻撃に合わせて交え、その冠部分で紅月の刃を捉え、無効化した。ルナはうろたえて、一瞬その場で動きを止めてしまった。
無防備な腹に拳を、そして蹴りを食らった。刃が固定されていたため、ルナは攻撃の勢いを殺せなかった。吹き飛ぶこともなく、彼女はその場に倒れ伏した。紅月は手元を離れ、床に転がる。
鈍い痛みが、次第に強く腹部に広がる。
これはいけないと、彼女は悟った。しかし遅かった。回避行動を取る力は、もう残っていなかった。黒い影が頭上に迫る。
「終わりだ」
刹那。
闇の中から、青い獣が飛び出した。