つめたい雨
――私という存在を、受け容れてくれた人がいた。
冷たい雨が私の体を打つ。振り注ぐ秋の雫は、赦なく私の体温を奪っていく。
濡れた服が体に貼りついていた。私は裸体を隠そうともせず、その全てをあわらにしたまま、亡者のごとくおぼつかない足取りで暗い街を歩いていた。
民衆は私の姿を気にもとめない。いや、違った。好奇の眼差しは常に痛いほど突き刺さって、しかし誰ひとりとして、声をかけてくるものはない。見て見ぬふりをしていることは、分かっている。
私はひたひたと素足のままで、冷え切った街道を歩いていた。
どこへ?
どこまで?
目的も持たず、私はこの現実から逃避していた。
石造りの橋の真ん中に着くと、私は橋の縁から下を覗き込んだ。黒い濁流が、激しい音を立ててこちらを見つめていた。まるで私を呼んでいるかのようだ。
落ちたら間違いなく命はないだろう。橋の縁に手をかけ、よじ登る。そして僅かな、数十センチの幅に私は立った。とたん、今までは微塵も感じなかった恐怖が、震えとなって襲ってきた。
直前まで失ってもいいと思っていた命が、今は少しだけ惜しいと思えていた。
私の中で、生と死が拮抗している。しかしそれは長く続かなかった。
私の中で、死が勝った。
「さよならっ」
涙を流して、私は身を投げる。まるで時が止まったかのように、その瞬間は長く感じられた。降り続く雨の、その粒が今ははっきりと見える。
そして私は落ちていく――はずだった。
唐突に伸ばされた手に、腕を掴まれた。
力強い手のひらは、私を軽々と引きあげた。
白い世界で、彼女は目を覚ました。どうやら、昔の夢を見ていたらしい。それがなんだったのかは、今は思い出せないが。
未だぼんやりとしたままの視界の隅。そこには青い髪の少年が居た。なるほど。夢から覚めて、この状況を理解するのには時間はかからない。
顔を上げたルナ・ルークは、眼前の少年を見つめた。
「おはよう。まだ目覚めないのね」
病室のベッドに横たわるヴァンに、彼女は優しげな視線を送る。かけた言葉の、それに対しての返事はない。彼はただ、安らかな寝息を立てて眠っている。締め切った窓の外から、微かに雨音が聞こえてくる。
ここ数日、空はずっと機嫌が悪い。しかしこれもまた砂漠地帯にとっては、命を紡ぐ貴重な雨なのである。
雨は嫌いじゃない。
確か、あの人と出会ったのもこんな雨の日だった。ルナは外を見つめながら束の間、想い出に浸っていた。
「失礼します」
ノックとともに声が聞こえた。それから直ぐ病室に、今度は別の少女が顔を覗かせる。可愛らしい顔立ちをした、年頃は14、5歳の少女。褐色の肌に黒髪、大きなグリーンの瞳には希望が満ちている。
彼女の名はアイリ。鎧が守られていた遺跡の、その周辺の村に居た少女だった。以前ヴァンと会話を交わしたこともある。体はしっとりと濡れていて、髪からは雫が滴り落ちていた。言うまでもなく外出していたのだ。彼女は働くために必要な名義を登録するために、中央ギルドへ趣いていたのだった。
「ありがとうございます」
ルナからタオルを手渡された彼女は、病室の備え付けの椅子――丁度ルナの反対側に当たる場所に腰掛けた。
「あの時はありがとうね。おかげでここまで戻ってこられたわ」
ルナは優しげな声で言った。それに対して、アイリは困ったような、はにかんだ笑みを浮かべる。
「いえ。むしろお礼を言わなくちゃいけないのはこちらです。無理を言って同行させてもらったのですから…」
鎧の入手後、彼らは彼女に同行を求められた。街への帰還をサポートするという交換条件で、彼らは動向を許すことにした。その選択は正しく、最短でここへ戻ってくることができた。
彼女いわく、ここをひっそりと抜け出したものは数多いらしい。文明が発達する中、自分たちだけが孤立している。そんな立場に耐え切れない若者が、情報を集めて失踪することは珍しくないと。彼女もまた、ここを訪れる者に色々と訪ねていたらしい。
アイリの手を借りつつ、彼らは岩壁の街へと退避した。
そして到着してから数日が過ぎた。
「お礼を言うなら、彼にね」
「はい」
砂漠地帯に行く前に、彼女はたった一人で彼らを見送りに来た。別れ際、何か言いたげな彼女に対しヴァンは、君が望むなら来るといいと言った。それがきっかけで、彼女は切り出すことができたという。ルナは驚きを隠せなかったが、結局はヴァンの意向で事は進み、今に至る。
元々身寄りもない彼女に居場所は無い。加えて外部との接触を絶ち、見えるものしか見ないあの場所は、少女にはなにより退屈だった。
そんな毎日の中で時折やってくる旅人達が、彼女の憧れだった。
彼らに影響されて、思いは募っていく。そして――時は来た。同年代の龍血の旅人と、その連れの奇怪な少女。彼女にとって彼らは、まさしく自らの殻を破る存在だった。ヴァンはそれを見抜いていたのかもしれない。似たもの同士として、情をかけたのかもしれない。
「でも、自分の状態も考えて欲しいわね」
ルナは呆れながら言った。
「でもよかったの?ひとりで生きていくってかなり大変なものよ。私自身、旅をしてわかったけど…それにお金も無いとなると…辛いよ?」
「何とかしてみせます。覚悟のうえです」
そう断言するアイリの瞳は、強い意志を宿していた。
「そう。でも、協力できることがあればさせてね」
「ありがとうございます。私も、できることがあればお手伝いしますよ」
二人は笑を交わした。
「それにしても……目覚めませんね」
ヴァンは密林を抜けたあと一時的に意識を取り戻し、それをなんとか気力で保っていた。しかし、彼は街に到着した途端に倒れてしまった。まるで力尽きるかのように。
以後ずっとこの状態である。
あの騎士が言っていたことが本当ならば、目覚めるまで時間がかかる。傷の手当は一通り終えているため問題はないが、こうしている間は当然食事を取れない。そのことが、なによりルナは心配だった。
日に日に彼は確実にやつれていっている。このまま行けば間違いなく衰弱死してしまうだろう。
「アイリ、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「は、はい」
唐突なルナの頼みに、アイリはやや緊張した面持ちを浮かべる。本人は意識していないが、ルナの声が凛としていたのも原因だった。
「私の代わりに、彼を看ていて欲しいの」
「今、ですか?」
「ええ。頼める?」
真剣な表情のルナを見て、アイリは深く頷いた。役に立てるならば、喜んで引き受ける。それが彼女の恩返しだ。
「任せてください。鎧も、しっかり守ります」
「ありがとう」
程なくして、彼女は病室を出ていった。どれだけ真剣な面持ちをしていたかなど、本人はいざ知らないまま。
「ルナさん…大丈夫かな」
残されたアイリは、窓の外を心配そうな顔で見つめていた。
冷たい雨が滴る。彼女は雑貨屋で傘を調達した後、ある場所を目指した。雨の影響か、前ほどに人気は感じられない。どこか湿っぽい、しんみりとした石畳を彼女は歩いた。
岩壁の街。
まさか引き返してくる事になるとは、彼女は思ってもいなかった。リュースという男の動向が気になるが、ここならば治安も安定しているのである程度安心できる。傷を癒す場として選んだのは得策だ。
鎧は入手した。彼が、そして自分が黒鉄と戦う前提条件は整ったのだ。あとは自分自身の力を上手くコントロールし、龍を探知すればいい。
しかし彼女はどうしても調べておきたいことがあった。それを解決しなければ、気が散って龍を見つけることができない。
それほどに好奇心をくすぐる事が、彼女の脳裏から離れない。
ルナはあの日を思い出す。鎧を手にした時の事を。彼を傷つけ、踏みにじり、嘲笑した、黒いロングコートの男の姿を。
気にせずに居ろという方が無理だった。
まるで鏡写。
――あの外見は、私と同じだったのだから。
思いを募らせるうち、彼女は目的地へと到着していた。
「ごめんください」
ルナはノックの後そう言い、黒い重い扉を開いた。雨に濡れた足元で、室内に一歩踏み出す。水滴が、彼女の立つ床を濡らしていく。相変わらず暗い店内には、以前とはどこか違った空気が漂っている。
彼女は再び、あの情報屋を訪ねていた。
「どうしたの、随分と怪我しているみたいだけど」
「お前か」
情報屋は、面倒そうに言った。
「やられた。あの男に」
店主――情報屋は、至る所に包帯を巻きつけていた。よく見れば店内も様々な箇所が破損しており、争った形跡が見て取れる。
ルナは目を細めながら店主を見、口を開く。
「あの男って…」
「リュース・グレゴリス」
自らが調べるべく男の名前を、店主は口にする。おまけに、フルネームだった。さすが専門家というべきである。
「招かざる客だったってことね」
「いいや?客どころの騒ぎじゃないさ。あれはもはや襲撃に近い」
店主は冗談交じりに言う。
「訊かれた内容は?」
「お前に関しての情報だ」
「私の?」
ルナは眉をひそめた。
「元々は俺の興味本位、他言無用な個人事だった。しかし、追い詰められて一部喋ってしまった」
「なにより、命が大事ですものね…」
ルナは言葉ではそう述べるものの、冷たい眼差しを送る。
「俺にもお前のことを喋ってしまった負い目がある。今件ついての情報量は発生しない」
「当たり前ね」
「手厳しい女だな、お前は」
店主は肩をすくめた。
「直接会ったなら少しはわかると思うけど、あの男はなにか目論んでいなかった?」
「いいや?良くは分からん。聞かれたのはただ、お前のことだけだ。そして奴はお前のことも探している様子だった」
「探している?私を?」
「ああ、満月の日に中央図書館にて待つ。とのことだ。詳しくは知らん」
話を聞き終え、ルナは考え込んでいるようだった。そして、しばし沈黙が続いたあと、
「――まさかとは思うけど、あなた金で買収されていない?」
沈黙を破った彼女の言葉には、あからさまな疑心が詰まっていた。
「バカを言うな。これでも善悪の基準はつけている。お前が善、あいつが悪だということもな」
即答したあたり、本心なのだろう。しかし善とは言い過ぎでは。とルナは眉をひそめた。
「それにしても、お前がここを訪ねてくることを前提にして、奴は俺を生かしたつもりか。狡猾な男よ」
つじつまが良すぎる。男は詮索するような事はないといったが、ルナは内心なにかの工作があるのではないかと今も疑っていた。
「…彼が危ないわ」
目を伏せて、ルナは言った。
「あの龍血か?」
店主の言い方に、ルナは不快な顔を浮かべる。
「あいつはどうしているんだ」
「あの男と打ち合って大怪我をしたの。怪我自体は病院で治療できたけど…まだ目覚めない」
それを聞いて、しばらく店主は俯いていた。
「…そうだったか。それに関しては案ずるな。奴のことは直ぐに保安部へ通報した。もう奴は指名手配犯だ。まあ、以前から人殺しをしていたようだから、捕まれば即処刑だろう。裏のギルド部隊も粛清に動き出したらしい。とにかく、あいつはもう終わりだな」
「本当にそうかしらね」
あの男なら、それさえも出し抜く可能性が多いにある。
「少なくとも簡単に動けはしない…窮屈な思いをしているだろう。ここは自由な街だが、意外とガードが堅い。特に大きな施設、病院には入れまい」
「そう。でも、そうなるとますます私も動きにくくなるわね」
彼女はため息をついた。男女の差はあるものの、特徴、容姿はルナのそれと似ているからだ。
「問題はない。俺がきちんとした説明をしたからな」
「一個人の説明なんて通るものなの?」
「見くびるな。これでも俺は元裏ギルドの諜報員だった」
意外な新事実に、ルナは目を丸くしていた。確かにあの男と戦って生き延びている時点で、この店主も只者ではないのかもしれない。
「で、行くのか?奴のもとへ」
「…考えてみるわ」
「残念だがあまり時間はないぞ。満月は――明日だ」
店主はそう告げた後、ルナは無言で会釈し足早に店を後にした。
一刻も早く、雨音を聞きたかった。心に芽生えたざわめきを、かき消してくれる音が欲しかった。
気が付けば、傘も差さずに雨に当たっていた。
雨の日は嫌いじゃない。
しかし今は、このつらなる音を懐かしむ暇はない。
動悸が治まらなかった。不安が脳裏をよぎり続けた。
――そして何よりも強く、彼女の心には期待が溢れていた。
◇
人気の消えた夜の街を、一人歩く人影がある。夜空に浮かぶ赤い満月は、不気味に鈍く輝く。
怪しい光に照らされた黒衣の男は、闇夜で不敵に微笑んだ。
彼女は来てくれるだろうか。いや、きっと来てくれるだろう。
我々は似た者同士なのだから。