時刻は午後九時を少し回ったところ、自分の部屋へと帰り着いてようやく一息入れられた。
アタシは恋人とふたり、遊園地でいわゆるデートというやつを満喫してきたところだった。自分が男性とふたりっきりでそんな場所に行くなんてことは、少し前までは正直夢にも思わなかった事だ。まさしく夢の国といったところだろうか。
その相手であり恋人でもある宇佐美優太が今、目の前で眼をしょぼつかせながら座っている。
それなりの遠出だという事もあるが、彼同様こっちも疲労は相当のものだ。まあ、それだけ楽しかったという事なのだろう。
(なんか可愛いな……)
今にも寝落ちしてしまいそうな優太を見てふと思う。それはアタシからしてみれば不思議な感情で。
長い期間、優太はただの思い人止まりであった。その間、彼をかっこいいだとか頼りになるだとか、好きな相手故にそんな風に思うことは幾度もあった。
しかし、今のように庇護欲に近い感情を抱いたのはつい最近、彼と交際が始まってからの事だ。状況一つでこんなにも物事の見え方が違うものかと、しみじみと痛感する。
ふたりの交際は順調だった。
漫画や小説であったのなら、そんなモノローグの入るところじゃないだろうか。
だが、残念ながら現実はそう上手くもいかないらしい。
いや、別に喧嘩をしただとか、大きな事件があったわけではない。何の問題もない。言うなれば、そのこと自体が問題なのだろうと思う。
付き合い始めたきっかけは向こうから、優太の方から告白をしてくれたからだった。
元々好意を寄せていたこちらとしては願っても無いことで。当然ながら断る理由なんかなく、ふたつ返事でOKをした。
それから約一ヶ月だ。
その間に全く進展がなかったわけじゃ無い。
まず、ふたりだけで出かけるようになった。今までだって何回かはその機会は在りはしたけれど、それらとは明らかに別物だ。何しろ恋人同士のデートだ。前日の準備から当日の心持ちまで何もかもが違う。
それから、手だって繋ぐようになった。
他人からみればなんだその程度なんて言われそうだが、アタシからしてみれば異性と手を繋ぐなんて割と大事件で。向こうも気を使ってくれているのか、人目の多い所ではせずに、帰り道なんかでふたりになった時にさり気なく手を握ってくれる。その気遣いがまた嬉しかった。
こんな感じで、どんなに他所様に牛歩と笑われようと少しは前進しているのだ。
じゃあ良いじゃないかと言われれば、確かにその通りだし、自分自身急いで関係を進めようなんて考えちゃいない。
でも実際問題、焦るのだ。アタシの意思とは裏腹に。
そして色々な可能性を頭に思い浮かべてしまう。
元々ボディタッチがそんなに得意ではないアタシに気を使っているんじゃないかとか。それ以前に、彼をその気にさせる魅力がアタシに欠けているんのではないかとか。何なら付き合ってみたはいいが、実は既に後悔しているのではないかとか。
考え出したらキリがないのだ。
そして参ったことに、比較的悪い想像ばかりが生まれてしまう。こればっかりは自分の性格を少々恨んだ。
「ふあぁ……寝落ちしそうだからそろそろ帰るわ」
寝惚け眼でそう言いいながら、優太は立ち上がる。そして部屋を出ようと扉に手を掛けた。
「優太っ!」
彼の後姿を見て、アタシはとっさに声をかけていた。自分の伝えたいことを頭の中でまとめる事すら出来ていないというのに。
だが、幸いにも今日は両親が祖父母の家に行って不在だ。今この家にいるのはアタシと優太のふたりだけ。
いくら落ち着いた場所や人目の少ない所は他にも在るといっても、今この瞬間以上に他人に聞かれる可能性の低いシチュエーションは存在しない。つまりは最大のチャンスなのだ、自分の悩みをぶちまけられる。
「ん?」
「その……ちょっといいか?」
振り向いた優太のまぶたはやはり重そうだった。だがこちらの何か言いたげな様子を察してくれたのだろう、何も言わずに元の場所に座り直した。何故か正座までして。
つられてアタシも彼に合わせて椅子から降り、正面に向かい合って正座した。
「……」
「……」
部屋を静寂が支配する。
分かっている。こちらから口火を切らねばならぬことは。そもそも自分が呼び留めたのだ。
だが、中々言葉が出てこない。言いたいけど言いづらい、そんな葛藤を時計の音が加速させる。
「……」
正面にいる恋人は何も言わない。良くも悪くもただ待っている。急かすわけでもない。不快感を露わにすることもない。ただじっと待ってくれている。
そんな彼を見てようやく決心がついた。
「あの、なんだ、その……優太はキスとかしたくならないのか?」
……何を言っているんだアタシは。
自分で自分の発言に絶望する。こんな聞き方しかできないのかと。
これではまるでキスしたいですと言っているようなものではないか。いや、ようなも何もほぼ言ってるに等しい。それに、本音を言えばアタシだってしたいと思っている。
だけどもう少しこう、言い方ってもんがあるのではないか。そう後悔しても時すでに遅し。
「……」
けれども、アタシの妙ちくりんな問いかけを聞いても優太はほとんど驚きを見せなかった。ほんの少し眉を上げ、目を見開いた程度で。
そして落ち着いた口調でこう言った。
「そりゃ、キスはしたいと思ってる。もっと言えばエロイこともしたいと思ってる」
「っ!?」
人間本当に驚いたときは声も出ないものなのだと初めて知る。言葉が喉につっかえて、危うく窒息しかけるところだった。
「じゃ、じゃあ、その……なっ……で」
伝えたいことをまるで上手く言語化することが出来ない。それでも優太はしどろもどろなアタシの言動を理解したようで、悔しいくらい冷静な様子で言った。
「唯が俺の事を好きかどうか分からないから」
「えっ?」
彼の発言の意図が分からなかった。だって、現にこうして付き合っているわけだし、こちらから冷たくした記憶ももちろんないから。
どう答えてよいか分からず、フリーズしてしまったアタシを見て優太はさらに続けた。
「唯はその、なんだ……好きだ、とかハッキリ言ってくれないから」
優太がこの場で初めて冷静さを欠いた瞬間だった。明らかな動揺、照れ。そんな彼の仕草を見て、逆にこちらが平静を取り戻すことが出来た。
そして、考える。必死に過去の自分の発言を思い起こす。このひと月、優太に告白されてから今に至るまで、彼と交わした会話を。
当然ながら全ては無理だ。だけど可能な限り思い出していく。ひとつひとつと思い出していくに連れ、体から血の気が引いていく。
言われてみれば確かにそうかもしれない。
告白された時はもちろん、その後も決して多くはないが彼は愛の言葉をくれた。だけどこちらはどうだったか。「うん」とか、「ありがとう」とかしか返せていないのではないだろうか。せいぜい「アタシも」なんて言った程度で。
優太だってそれなりに勇気が要ったはずなのだ。それが分からないほどアタシだって馬鹿じゃない。でも今のままでは理解していないのとまったく同じことなのだ。
「……」
覚悟を決める。本日二度目だ。
彼の目を真正面から見つめて視線を交錯させる。そしておもむろに口を開いた。
「好きだ……アタシは優太の事が好きだ」
恥ずかしさは間違いなくある。それでもきっちりと伝えなければならないから。本来、優太に告白された時に言わなければならなかった言葉。何の飾り気もない、そんなストレートな好意を彼に伝える。
「……」
アタシの想いに優太は微笑んだ。彼の心の中など分かろうはずもない。でもそれは喜びというより、安堵しているように見えた。
「俺も好きだよ、唯」
アタシとは違ってその場できっちり返信をくれた彼に、首を横に振って言葉を遮った。
「ううん。アタシの方が好きだ。優太が好きになってくれたよりもずっとずっと前から」
羞恥心などとうに消えていた。一度口にしてしまえば、後は何度好きだと言おうと同じことだから。実際、言ってしまうと不思議なほどに心が軽くなっている自分が居た。
しばし無言で見つめあってから、自然とふたりは笑い合った。何も可笑しなことなど無いはずなのに。
共に心の内に抱えていたものを吐き出せたことで、ふたりの関係が一歩前へと進んだ、そんな気がした。多分、優太の方も同じように感じてくれている、そう確信することが出来た。
それは関係性だけに留まらず、物理的にもお互い一歩分ぐらい体を前に乗り出した。そしてどちらからともなく、互いの唇を重ね合わせたのだった。