「……何?」
その瞬間、影胤は自身の背中に刃のような視線が突き立てられたということを直感的に感じ取った。そして長きに亘る戦いによって己の身体に刻まれ培われてきた戦闘経験が、自分の今の状況が絶体絶命だと全力で警鐘を鳴らしていた。
影胤と同じく何かを感じ取ったらしい小比奈が、瞳の赤い残像を残し勢いよく振り返る。それとほぼ同時に、影胤も迫り来る脅威を認識しようとグルリと首を捻らせる。
迫り来るのは――壁。
“違う、卓だッ!”
自分が先程土足で踏み台にしたあの楕円卓が、音もなくひっくり返されている。のみならず、まるで壁のように自分たちへと襲い掛かってきている。重厚なそれに勢いよく押し潰されれば、小比奈はともかく影胤は骨くらいは折れるかもしれない。
完全に影胤と小比奈の隙を突いた、見事な不意討ちと言えるだろう。これには影胤も反応が僅かに遅れた。雑魚ばかりと侮っていたが、プロモーターにしろイニシエーターにしろ、少しはできる者も混ざっていたようだ。
しかし、所詮はそれだけのことである。
高々木材ごときに必要以上に反応してしまった影胤は、その一手に落胆にも近い感情を抱く反面、己の直感の鈍りに内心で嘆息する。この程度の攻撃、影胤の斥力フィールドからすれば全く脅威の対象にはなり得ない。彼の能力は対ガストレアを想定して設計されたものであり、対戦車ライフルすらも弾き飛ばすのだ。こんな攻撃に、一体何を自分は恐れていたのか。
「誰かは知らないが、無駄な真似――」
ピシリ、と。
卓の中央に亀裂が入る光景を、影胤は仮面の下から確かに見た。もはや目前にまで迫る卓――その陰から迫り来る圧倒的な不吉の気配。
間違いなどではなかった。自身が感じた絶体絶命への恐怖は、決して間違いなどではなかったのだ。不吉は身を潜め、息を殺し、ずっと影胤たちを襲う機会を待っていた。さながら獲物を狙う肉食獣のように。
反射的に影胤は叫んでいた。
「『イマジナリー・ギミック』ッッッ!!」
影胤の体内から発生した斥力が、卓を突き破って噴き出した黒い不吉を弾き飛ばさんと広がる。
刹那、影胤の燕尾服の僅か数寸前で、雷鳴もかくやという爆音が衝撃波とともに撒き散らされた。その余波は瞬く間に周囲の硝子片や塵を吹き飛ばし、空中で真っ二つに割られた卓の残骸を削り飛ばす。影胤の眼前に突き立てられたのは、記憶に新しい漆黒の大剣――伊熊将監のバスタードソードの切っ先だった。
だがその剣の使い手は、将監やそのイニシエーターとは似ても似つかない少女――影胤の対面に座りながら、こちらに気付いた様子もなかったイニシエーターの少女だ。ただの凡庸なイニシエーターだと判断し気にも留めていなかったが、影胤の仮面以上に仮面染みた無表情を晒す彼女が放つ殺気は尋常なものではない。事実、小比奈はその殺気に中てられて怯みを見せてしまっている。
「能ある鷹は爪を隠すということかッ」
仮面の奥で歯を食い縛りながら、影胤はさらに斥力フィールドの出力を上げる。しかし少女はそれを意にも介していないかのように、床の素材を踏み砕きながら尚もバスタードソードを押し込もうとしてくる。
影胤の斥力と少女の膂力。ガストレアの剛腕さえ弾く無敵の防御結界は、今まさに一人のイニシエーターによって拮抗させられていた。
恐らくは筋力特化型のイニシエーターだ。『呪われた子供たち』の中には、遺伝子のモデルとなった生物の特殊能力を持つ者がいる一方、このように何かの身体能力が特化して優れている者が少なからず存在する。小比奈などは多くの能力がバランスよく優れた万能型だが、その能力は接近戦に秀でていると言えるだろう。
そう冷静に眼前の“敵”を分析する一方、全身の血液が沸騰するかのような気迫を込めて影胤は雄叫びをあげていた。
「ぉぉぉォォォオオオオオオオオッッッ!!」
「………………ッッッ」
上がり続ける斥力と膂力。間に挟まれたバスタードソードが設計上の限界を超えて軋みをあげる。斥力の余波を受けた床が、握り締められた柄が、人外の力による相克に巻き込まれた大気が絶叫する。
だが、漆黒の矛と無色の盾――その勝敗に決着がつくことはなかった。
無敵の矛と盾がぶつかればどうなるのかという、“矛盾”という言葉の一つの結果。それは、それぞれの武装を持つ持ち主の限界だ。
「――あ?」
気が付けば影胤は浮遊感の中にいた。
たった今まで漆黒の大剣を携えた少女とギリギリの攻防を演じていたというのに、今の影胤は天空を仰ぎ見ている。空がとても近かった。手を伸ばせば届いてしまいそうだ。
「パパァ!」
愛娘である小比奈の絶叫で、影胤は我に返る。
そこは空中だった。小比奈の声を追えば、手元にいたはずの彼女と距離が開いてしまっている。そしてその姿も、一瞬で“上”へと消えていった。
そこに至って影胤は、己がどのような状況なのかを理解する。
“押し出されたのかッ”
斥力と膂力の戦いは、最後まで決着がつかなかった。
しかし無敵の盾の担い手である影胤が、その相克に踏ん張り切れず会議室から斥力フィールドごと押し出されてしまったのである。事実だけを見れば矛は盾を破ることはできなかった。しかし結果として盾はその持ち主を守り切れなかった。
これが矛盾の一つの結果。二つの武装としては盾が勝ち、担い手としては矛が勝った。少なくとも影胤には、この状況が己の勝利だとは口が裂けても言うことができない。
「だが、今回に限っては私の勝ちだ」
そう、この状況に限っては影胤の勝利だった。あの場の影胤の目的は現場からの逃走。多少のデモンストレーションも目的の内ではあったが、それは既に完了している。もはや影胤には、あの場で成さなければならないことなどなかったのだ。結果的に奇襲を受けてしまったが、こうして無事に建物から出てしまえば民警たちでは追って来れまい。
風に持っていかれそうになるシルクハットを押さえながら、影胤は再び斥力フィールドを展開する。高層からの落下は、地面に激突した人体を四散させるのに余りある運動エネルギーを生む。それを防ぐためのクッション代わりにするためだ。
小比奈をあの場に残してしまったのは失敗だったが、彼女ならばすぐにでもあそこから飛び降りてくるだろう。ほら、実際に会議室の窓からスカートをはためかせた影が飛び出してくる。
「さようなら、名も知らぬお嬢さん。次に会う時はぜひその名前を聞かせてもらおう」
「金峰柘榴です。またお会いしましたね」
落下する影胤の視界に飛び込んできたのは、空中に身を任せる己を追いかける“黒”。
大量のフリルを大樹の葉のように躍らせながら、一人の少女がバスタードソードを片手に庁舎の壁を“走って”いる。
「何だとッ!?」
壁走りという人間を超えた絶技を見せつけた少女――金峰柘榴に、影胤は思わず瞠目する。この執拗なまでの追跡と迸る殺気。影胤は確信した。彼女は間違いなく、今この場で影胤を『七星の遺産』を巡るレースから排除するつもりなのだ。
「私は嫌いな食べ物を先に食べる主義なのです。ですから早々に死んでください」
「生憎だが、私はまだ死ぬ気はない。これから先に訪れるであろう地獄を体験するまではね」
意味深な影胤の言葉を耳にしても表情をピクリともさせず、柘榴がバスタードソードを振り上げた。
恐らくは先程の一撃を再び行うつもりだ。会議室の攻防は影胤が踏ん張り切れないという想定外の結果によって終了した。しかし今度は違う。影胤は背に地面という地上最硬の壁が迫っている。ここで再び先程のような怪力を繰り出されれば、今度こそ影胤の斥力フィールドは柘榴と地面に挟まれて圧壊させられるかもしれない。
そして影胤は、空中という足場のない状況によって自由がきかない。もはや完全に柘榴の思惑通りの結果だろうが、それでも影胤は余裕を失わない。
なぜなら――
「小比奈、殺せ」
「はいパパ」
王手をかけたのは柘榴だけではないのだから。
影胤に追い縋る柘榴の背後から、二刀の悪魔が壁を蹴って迫っていた。
◆
少女のその行動に、蓮太郎を含め一同は完全に反応できなかった。恐らくは襲われた本人である影胤さえも。
気が付けば、蓮太郎たちの前に鎮座していた卓が跳ね上がっていた。音もなく、誰がやったのかさえ蓮太郎には定かではない。
「なッ」
一同が驚愕の声を漏らすその間すらなく、蓮太郎の目の前を黒い疾風が駆け抜けた。頬を撫でるその風圧に、蓮太郎は反射的に通り過ぎていった何かを目で追う。
そこにいたのは、豪奢なゴシックロリータに身を包んだ一人の少女だった。年齢は彼のイニシエーターである延珠とほぼ同じだろう。その顔はゾッとするほど整った造形をしており、可愛らしさよりも美しさが際立つ。
彼女が楕円卓をひっくり返したのだろうか。
「借ります」
少女の唇から奏でられた美声の内容を、蓮太郎は遅れて理解した。
その手に掴み取られているのは、先程自分に絡んできた伊熊将監のバスタードソード。彼女の傍らには手ぶらとなった将監の姿があった。いつの間にか将監の手から剣を奪い取った彼女は、津波のように影胤へと覆いかぶさる楕円卓へと目にも止まらぬ速さで突進していく。
楕円卓が返されたと蓮太郎が気付いてから1秒と待たず、少女は背を向けた影胤へと反撃を開始していた。
直後、間にあった木製の卓を粉砕しながら、影胤の斥力フィールドとバスタードソードが激突した。激突の余波は突風を起こし、少女の背を見送った蓮太郎を消し飛ばさんという勢いで吹き荒れる。
将監ですら歯が立たなかった斥力フィールドと少女による刺突。その鬩ぎ合いは、まさに拮抗していた。
影胤が何かを叫ぶが、それも斥力フィールドが軋む不快な音に掻き消される。まるで空間そのものが悲鳴をあげているようだった。人間を超えた二つの力の激突に、もはや民警たちは呆然とするばかりで一言すらも発することができない。
そしてその均衡は、蓮太郎の思いも寄らない形で崩れ去った。キッカケは非常に些細なこと。斥力フィールドに刃を突き立てていた柘榴が、遊ばせていた“左手”を柄に添えた――それだけだ。
果たして影胤は気付いていただろうか。斥力フィールドと拮抗していた柘榴の膂力が、“右手一本分”であったということに。
「パパァ!」
小比奈が悲鳴をあげる。
気が付けば影胤は建物の外に放り出されていた。外傷がないことから、恐らく斥力フィールドの出力によって逆に身体が後方へと弾き出されたのだろう。
“嘘だろ、民警たちが袋叩きにしても敵わなかったんだぞ……!?”
蓮太郎では想像もできない力技で、影胤はこの場から排除されてしまった。
そしてその力技を実現してしまったあの少女は、一体何者なのか。思わぬところに潜んでいた強力な戦力に、蓮太郎は味方であることへの安堵よりも前に戦慄してしまう。
間違いない。この会議室にいる中で影胤を倒し得るのはあの漆黒の少女か、あるいは――
傍らで同じく少女の背中へを見つめる木更へと視線を向けた蓮太郎は、次の瞬間「柘榴!」と叫ぶ少女の声が呼び水となって意識を戦闘に戻された。気が付けば、粉々に砕かれた窓から小比奈と呼ばれた影胤の娘が飛び出していくところだった。あの影胤と亘り合った少女の姿は既にない。
「まさかッ」
蓮太郎が窓へと駆け出すと同時に、二人の少女が走り出す。
一人は蓮太郎もよく見知った少女だった。蓮太郎も仕事で何度か会ったことのある、兄妹でペアを組んでいる珍しい民警ペアの片割れ、片桐弓月だ。先程少女の名前らしきものを叫んだのも彼女だろう。普段は生意気そうな顔を見せて蓮太郎を馬鹿にしてくる彼女が、今は柘榴と呼んだ少女の身を本気で案じている。蓮太郎も見たことのない顔だった。
もう一人の少女は知らない顔だ。大人しそうな雰囲気を纏う素朴な印象の少女だが、その不安そうな表情からは弓月に劣らず柘榴を心配していることがわかる。両手に握られた二挺のグロック17も小刻みに震えている。
窓辺へと駆け寄った三人は、落ちないように気を付けながらも身を乗り出して下を覗き込んだ。
まさにその瞬間、下では柘榴と小比奈による戦いが始まろうとしていた。その一部始終を、蓮太郎たちは目撃することとなる。
◆
小比奈に背後から強襲を仕掛けさせた影胤は、柘榴が向けていた殺気の対象が自分から小比奈へと移されたことを敏感に感じ取った。未だに視線は影胤のいる下方を向いてこそいるが、皮膚を裂くかと錯覚するような強烈な殺気が今では幾分か和らいでいる。
一方、その殺気に晒された小比奈は、むしろ壮絶な笑みを浮かべて二刀の小太刀を構えていた。先程は不意討ちのように殺気を浴びせられたことで怯んでしまった小比奈だが、元来の彼女の性は戦闘狂。眼前に強敵が現れたとなれば、彼女は喜ばずにいられない生物なのだ。
「コロスッ」
「………………」
喜色満面で迫る小比奈。
それに振り返ることもなく、柘榴はバスタードソードを庁舎の壁へと垂直に突き立てた。壁走りと落下エネルギーによって加速していた柘榴が、足場となっていた壁を斬り削りながら急減速する。
想像していたよりも早く間合いが詰まってしまった小比奈は、振りかぶった小太刀を振るう前に柘榴が懐に潜り込むことを許してしまった。ここに来て、初めて柘榴と小比奈の視線が交わる。
「アハッ」
「死んでください」
突き立ったバスタードソードを力尽くで引き抜いた柘榴が、空中で身体を一回転させながら渾身の斬撃を繰り出す。
それに対し、小比奈は柘榴と同じように片方の小太刀を壁に突き立てることによる急減速で躱した。無人となった空間を大剣が通過し、その先にあった壁を木端微塵に粉砕する。それはまるで爆薬を使用したかのような威力だった。間違っても人間が自身の力だけで起こしていい現象ではない。
だが、彼女たちは人間を超えた『呪われた子供たち』。この程度の攻撃は挨拶代わりだ。
「アハハッ、凄い凄い!」
巻き上がる粉塵を突破し、小比奈が柘榴と同じように壁面を駆ける。柘榴が斬撃の反動によって一瞬だけ空中を漂った間に、既に小比奈は柘榴の隣を並走していた。
もはやこの速度で落ち続ければ、地面に到達するのは5秒もあるまい。そんな極限の状況下であろうと、小比奈と柘榴という他と隔絶したイニシエーターからすれば八回は相手を殺すことができる。
足を止めることもなく、二人は視線を交わしながら一瞬で影胤を追い抜いた。その直後、壁面を蹴りながら二人は鋭角に軌道を変える。
「凄い! 楽しい!」
「………………」
激しく火花を散らしながら、二つの影が交錯した。かと思えば二人は再び軌道を変え、再び刃を交えようと激突する。二人の瞳から漏れた四つの赤い軌跡が、連なった菱型となって影胤の目には映った。
援護をしようかと自身の銃に影胤は手を伸ばそうとするが、娘のあまりにも楽しそうな顔に思わず手出しすることを躊躇う。それはあまりにも無粋な行為だからだ。もしも自分が娘の立場ならば、絶対に横槍を許さないだろう。
それに現実的な側面から見ても、あの速度で格闘戦を繰り広げる場に銃弾での援護はむしろ小比奈の邪魔になる。彼女の動きを制限してしまうだけだ。
そうこうしている間に、地面はもはや目前まで迫っていた。刃をぶつけ合いながらも正確にそれを見て取った二人は、並走した状態から壁に刃を突き立てることで再び急減速をかける。そしてその二人の間を、斥力フィールドで自身の周囲を覆った影胤が再び通り抜けていった。
いくら『呪われた子供たち』といえども、この高さをあれほどの速さで駆け降りれば足の骨を折ってしまうかもしれない。そうすれば回復までは相手に隙を晒すこととなる。そのための減速だったのだが、その考えはお互いに同じだったらしい。
しかしここで不利になるのは柘榴の方だ。地面に到着すれば、そこにいるのは孤立無援の彼女と健在の影胤と小比奈。いかに戦闘能力が高くとも、二人が相手では分が悪いだろう。
“地面に降りた瞬間、小比奈とともに彼女を討つ!”
彼女との戦いを楽しんでいる小比奈には少々申し訳ないが、ここは安全策を取らせてもらおう。地面のアスファルトに斥力フィールドが触れるその瞬間、影胤はホルスターに収められた二挺の愛銃に手を――その動きを柘榴の赤い瞳に捉えられた。
影胤の銃撃を察知した彼女は、急遽減速を中断。バスタードソードを引き抜くなり、なんと影胤へと進路を変えた。予想外の動きに小比奈は反応が遅れる。
再び狙いを変えてきたのだと知った影胤は、斥力フィールドを全力で強化する。当初の目的のように地面と挟み撃ちにされれば、どれほどの威力になるのか想像もできない。
「また私と勝負しようと言うのかね! いいだろう、受けて立つ!」
青白い燐光に包まれた影胤に、柘榴は無言で接近する。そして刃の間合いに入った瞬間、影胤は来たるべき衝撃に備え全身に力を込めた。
しかし――
「失礼します」
ここに来て、柘榴が影胤に差し向けたのは黒いロングブーツを纏った“脚”だった。
ゴッ、という衝撃音とともに柘榴は斥力フィールドに両脚で“着地”。そして自身へと反発する力場を足がかりに、慌てて小太刀を引き抜こうとしている小比奈の下へと跳び上がった。
「私を踏み台にしただとッ!?」
直後、影胤の斥力フィールドが地面へと叩き付けられた。朦々と粉塵が舞い上がり、影胤の着地地点にあった自動車が押し潰されて爆炎をあげる。
それを尻目に、柘榴は小太刀を引き抜いた瞬間の小比奈へとバスタードソードを振りかぶる。太陽の光を吸い込むバラニウムの黒が、小比奈の細く小さな身体を叩き切ろうと唸りを上げた。
「今度こそ死んでください」
横薙ぎに振るわれたバスタードソードを、小比奈は避け切れないと悟り咄嗟に二刀を交差させて受け止めようとした。しかし小比奈の二刀は鋭く断ち切ることが目的の小太刀。重量と硬さで文字通り叩き切るバスタードソードを受け止めれば、飴細工のように粉々となるのは明らかだ。
この瞬間、小比奈は確かに自分の死がすぐそこにまで迫っていることを感じ取っていた。
だが、必殺の間合いに小比奈を収めたはずの柘榴が、なぜかその直前で大きく斬撃の軌道を変えた。小比奈どころか庁舎の壁を掠めるように軌道修正されたバスタードソードは柘榴の手元で半回転し、幅広な刃の腹を見せて柘榴の背後に振り回される。
刃が打ち払ったのは、空気を穿ち飛来した複数の弾丸だった。爆発四散した燃え盛る車体の中から、黒と銀の二挺拳銃を携えた影胤が歩き出てくる。斥力フィールドによって押しやられたためか、彼の周囲にだけは車の破片の一つすらも転がっていない。小比奈の危機と見て、援護射撃を放ってきたのだ。
そしてその援護は見事に効果を発揮した。無事に落ちていった小比奈は膝を曲げながら落下の勢いを殺し、危なげなく着地する。一方、柘榴は放物線を描きながら二人から離れた場所へと着地した。
戦況は一転して、柘榴の不利な状況となっていた。
◆
「す、凄い……」
思わずといった様子で呟く傍らの少女に、蓮太郎は言葉にすることはなくとも完全に同意していた。
ビルの壁面という常識では考えられない環境で、あれほど高度な戦闘を繰り広げられたのだ。どんどんと遠ざかる戦場への援護ができない自分を歯痒く思う一方、その恐ろしいほどの戦闘能力を持つ二人の少女に蓮太郎は冷や汗を流していた。
二人とも尋常なイニシエーターではない。蓮太郎の相棒である延珠も優秀ではあるが、同じことをしろと言われても難しいだろう。
途中から二人の戦闘を眺めていた他の民警たちも、その目で追うのがやっとという凄まじい戦闘に息を呑んでいた。中には「マジかよ……」と自身の正気を疑うような言葉を呟く者さえいる。
「柘榴ちゃん、あんなに強かったんだ……」
「当然よ、心音! 何たってあいつは、あたしの最強で最高な親友なんだから!」
柘榴の戦いぶりに言葉も出ない一同を見て、身を案じていた表情から弓月の顔が一転する。誇らしげに胸を張った彼女は、どうだと言わんばかりに声を張り上げた。
その一方、無事だった社長クラスたちや一部の民警たちは、跳弾によって破損したモニター越しに、聖天子への糾弾をしている。
「天童閣下ッ、お答えください! あの男の言う『新人類創造計画』とは本当のことなのですか!」
「『七星の遺産』とは何なのです! どうかお答えください!」
もはや怒声とも言えるその詰問にも、菊之丞は揺らがずいつもの厳しい顔を保っていた。
その彼から帰ってきた言葉はただ一つ――「答える必要はない」だけだ。政府の秘密主義は今に始まったことではないが、蓮太郎としても流石にここまで事態が進めば説明もなしというのは納得がいかない。糾弾している者たちの怒りも尤もだろう。
『静粛にッ』
だが、それらを遮るように済んだ一声が会議室に響き渡った。
その声に、会議室の一同の視線がモニターへと集中する。
『皆さんも承知の通り、事態は尋常ならざる方向へと進展しつつあります。よって先程の内容に加え、皆さんに依頼を追加させていただきます。あの蛭子影胤と名乗る男よりも早く、ケースを回収してください』
聖天子の発言に、彼女らの秘密主義を非難していた木更が眦を上げる。その目は、これ以上の隠し事を許さないと雄弁に語っていた。
「聖天子様。ケースの中身が何なのか、いい加減にお答えいただけますよね?」
聖天子はとうとう観念したように、小さく息を吐く。その後ろで菊之丞が木更を射殺さんとばかりに睨んでいるが、もはやこれ以上の隠し立てはできないだろう。
『……ケースの中にあるものは、『七星の遺産』と呼ばれています。邪悪な意志を持つ者がそれを利用すれば、東京エリアに“大絶滅”さえ引き起こすことのできる封印指定物です』
静謐な会議室に聖天子の言葉が響き、“大絶滅”という恐ろしい単語に一同が言葉を失う。それはつまり東京エリアに住まう人類が絶滅し、都市機能が滅ぶことを意味している。東京エリアは結界の外に広がる未踏査領域と同じく、ガストレアの生きる地となるのだ。
それはまさしくエリア存亡の危機。想像すらしていなかった重い重責に、蓮太郎は足が震えた。木更でさえも、青い顔をして立ち竦んでいる。
言葉の出ない一同が恐怖に慄く中――
ドッ、と庁舎の下から再び轟音が吼えた。
◆
「いやはや、お見事。これほど素晴らしい戦いは久しぶりだった。胸が熱くなったよ」
自身の下へと後退した小比奈は、間合いが開いていることなど関係ないとばかりに油断なく二刀を構えている。影胤も口調こそ余裕だが、いつでも斥力フィールドを展開できるよう準備している。
「君のような強者がいるとわかっていれば相応の準備をしてきたのだがね。残念ながら今日は舞台が悪い。私としては、この戦いは次に持ち越したいというのが本音なのだが?」
「えー、パパァ。あいつ強いよ。斬ろうよ、ね?」
「愚かな娘よ、ここでは横槍が入ってしまうかもしれない。一旦退くべきだ」
「ぶー」
不満そうな小比奈を余所に、影胤は仮面の奥で目を細めた。
実際、影胤としてはあの場の全員が相手でも簡単に制圧できる自信はある。しかし雑魚に追い回される傍ら、目の前の柘榴のような手練れがつけ狙ってくることを警戒しているのだ。
ここで彼女と戦うのは得策ではない。戦いを楽しむ影胤の性分としても、合理的な戦術家という面としても、計画の成就のためにも、この場は何としてでも撤退しなければならなかった。
「…………不利なのは私、ですか」
手元を一瞥しながら、ポツリと柘榴が呟く。
そこにあったのは、度重なる柘榴の無茶な使用方法によってボロボロになったバスタードソードだった。刀身には細かな傷はもちろん、所々には刃毀れまで起こっている。影胤の放った銃弾も数発めり込んでおり、もはや柘榴が全力で振り回せるのもあと数回が限度だろう。
そう時間を待たず彼女には援軍が来るだろうが、それまで彼女は壊れかけの武器で影胤と小比奈の二人を相手取らなくてはならなくなる。
「その武器は先程の荒っぽいプロモーター君のものだろう? 慣れない他人の武器でここまで戦ったのは確かに見事だ。しかし君は、こうして我々が地に足を付ける前に私か小比奈のどちらかを殺すことが勝利のための条件だった。これは私による善意の提案だ。それとも、玉砕覚悟で我々とここで戦うかね?」
「………………」
ジッと影胤たちを見つめる柘榴は、黙考しているのか何も答えない。
しかしやがて結論を出したのか、バスタードソードを地面に突き立てる。
「すみません。少々ご無礼を働きます」
次の瞬間、柘榴はフリルが満載のスカートを一気に捲り上げた。スカートの下に隠された細い脚が露わになり、白い肌が露出する。あわや下着までも見えてしまいそうの部分まで布地が持ち上がっているというのに、柘榴はやはり表情を変えない。代わりに表情が驚きへと変わったのは、仮面の奥の影胤だった。スカートの下から現れたのは、柘榴の脚だけではなかったからだ。
そこに隠されていたのは、持ち手の短い漆黒の斧。フランキスカと呼ばれる種類の斧だ。恐らくはあれこそが柘榴の本来の武器なのだろう。
両脚にベルトで固定されていたそれを一本掴み取ると、柘榴はそれを振り上げ大きく上体を反らす。そしてソニックブームを巻き起こしながら、投擲された斧が影胤の頭部へと飛来した。
銃弾に匹敵する速度で投げ放たれたそれを、事前に警戒していた影胤は『イマジナリー・ギミック』で弾き飛ばす。轟音を撒き散らしながら軌道を変えたそれは、庁舎の壁へと破壊の力を暴走させた。
「……何の真似かね?」
唐突な柘榴の攻撃を、影胤は訝しげに咎める。
影胤は彼女を高く評価していた。己の状況を顧みれば、ここはお互いに戦っても利はないと彼女ならば理解できるはずだ。だというのに、彼女は他の民警たちのために自らの身を犠牲としてでも影胤を斃そうというのだろうか。
だが、それは影胤の杞憂だったらしい。弾かれた斧を視線で追った柘榴は、溜め息とともに殺気を収めた。
「なるほど、これでは今の装備では殺しきれませんね」
バスタードソードを引き抜いた柘榴は、再び無感情な赤い瞳を影胤たちへと向ける。しかしその瞳の奥底には、確かに鋭い殺意が押し込まれていた。
「次は二人とも殺してみせます」
その言葉を最後に、柘榴は二人への興味を失ったようだった。気だるげな気配を身に纏いながら、影胤たちに背を向ける。その背中は隙だらけだったが、ここで争っても影胤に利はない。とにかく今は時間が惜しい。
だが、小比奈はそれよりも優先することがあったようだ。
「待って」
小比奈の制止に、柘榴は面倒臭そうに振り返った。表情がないながらも、動作の一つ一つに不精さが滲み出ている。
「何か?」
「名前を教えて」
「嫌ですよ面倒臭い。そこのお父さんに聞けばいいではないですか」
一蹴する柘榴に、小比奈は小太刀を構えた。教えなければ殺すという意志表示だろう。
それを見た柘榴は、溜め息をつきながら口を開いた。
「金峰柘榴です」
「柘榴、ざくろ、ザクロ――憶えた。私はモデル・マンティス、蛭子小比奈。次は殺すから」
「寝惚けないでください。殺すのは私です」
それだけ言うと、今度こそ柘榴は去っていった。その背中を見送ることなく、影胤と小比奈もその場を去る。
影胤たちと柘榴の初めての遭遇は、こうして幕を閉じたのだった。
生首inプレゼントボックス「……あれ? 俺どうなったの?」