誰だよ、大学三年生になったら講義が減って暇になるとか言ってた奴……
“平和だ……”
柘榴の心境を表すのならばこれに尽きた。
時刻を見れば既におやつ時。普段ならば学校に行っている時間帯だというのに、柘榴は仕事をすることもなくイニシエーターの執務室でのんべんだらりと過ごしていた。
現在、柘榴は件の蜘蛛型ガストレアの目撃情報が上がるまで待機を命じられている。それはつまりガストレアが姿を現すまで柘榴は暇を持て余していることに他ならず、すぐに出動できるように準備さえしていれば柘榴には特にやることもない。これが大の大人ならば書類整理などの雑務があるのだろうが、柘榴はいかに戦闘能力があろうと十歳児。そのような雑務処理など期待されていない。
よって何もすることがない柘榴の手元には携帯ゲーム機があり、それの画面をタッチペンでテチテチと突いているだけで給料を貰えるのだった。至福の時間である。
そんな柘榴は、ちょうど同じく暇を持て余していたらしい心音を伴いゲームの対戦をして時間を潰していた。
彼女の相棒である英彦も社会人。当然ながらこの時間は仕事をしている。よって手持ち無沙汰となった心音が時間を持て余していることは決して珍しくない。その間に心音はイニシエーターの寮を掃除していたりするのだが、今日の柘榴のような暇なイニシエーターがいた場合はその相手を自主的に努めているのだった。
「そういえば柘榴ちゃん、お仕事はどう? 外に泊りがけで仕事してたんでしょ? 寮の皆が寂しがってたよ」
「ハッキリ言って成果はゼロですね。蛭子影胤と一度ぶつかりましたが結局逃げられましたし、その戦闘の被害額の関係で聖居に呼び出されたりしましたし」
「へぇー、聖居……聖居ッ!? それって聖天子様の!?」
画面に目を落としていた心音が視線を跳ね上げる。
無理もないだろう。一介のイニシエーターでは一生縁のない場所だ。そのような場所に被害額で呼び出されるなど、どう考えても穏やかな話ではない。
「だ、大丈夫だったの?」
「問題ありません。天童閣下はこちらに責任を押し付けるつもりだったようですが、聖天子様が執り成してくださいました。次はない、という旨のお言葉は戴きましたが」
「ひぇっ」
心音は思わず肩を縮こませる。聖天子も菊之丞も画面越しなどによって間接的にしか顔を見たことはないが、好んで菊之丞のあの巌のような厳めしい顔と対面したいとは心音は思えなかった。
「そちらはどうですか? 私が留守の間も息災でしたか?」
「一昨日はちょっと大変だったなぁ。英彦さんのデザイン案が社長さんに全ボツ食らってね。英彦さんが“万策尽きたァー!”って叫びながら泣いて床を転がり回って」
「私の知る“ちょっと”とはだいぶ意味が違いますね。もしも私が社長にそんなことをされたら蹴り殺しますよ、気持ち悪い」
「あはは、そんなこと言っちゃ駄目だよ~。英彦さんは少し頑張り過ぎちゃっただけなんだから、相棒の私が支えてあげないと。今の私にはそれくらいしか力になってあげられないもん」
「いえ、それでも流石にそれは気持ち悪いでしょう」
「そんなことないよ。英彦さんは私を戦いから遠ざけて、しかも私の衣食住の全てを養うためにそんなに苦しんでいるんだから。だから英彦さんが仕事をしている姿はかっこいいし、私はそれを助けてあげたいと思うの。柘榴ちゃんからしたら気持ち悪いかもしれないけど、私は英彦さんが相棒でとっても幸せだよ」
「………………なんかすみません」
柘榴の目には、微笑む心音の背後に光が差して見えた気がした。これが自分と同い年の少女だというのが信じられない。断末魔をあげる千崎を迷わず蹴り殺す光景まで思い浮かべていた柘榴とは器の大きさが違う。
英彦が心音を連れて父親の下から逃げた理由がわかった気がした。
“これは惚れた上に駆け落ち同然に実家から逃げても仕方ないわ。あと、気持ち悪いとか思ってごめんね英彦さん。アンタ立派な男だよ、ロリコンだけど”
これ以上この話題を続ければ己の心の汚さを自分で暴くことになると悟った柘榴。段々と心が痛くなってきたため、一旦話題を切り替える。
「寮の方はどうですか? 私も昨日は寮に戻りましたが、留守の間に何か変わったことなどは?」
「私は英彦さんの家に住んでるから詳しくはわからないけど、特に何もなかったと思うよ? あっ、そういえば第七研究室がそろそろ改良型を仕上げそうだって担当イニシエーターの子が言ってたかな」
「第七……ああ、MGの研究室ですね。あそこはまだ反応速度の向上を図っているのですか? あれ以上の速度を得ても使いこなせる人材がいないと思うのですが」
「MG? 何かの略語? ……って、あっ」
柘榴がタッチペンを滑らせる。
表面上は平然と会話をしながらも、ゲームの対戦は佳境を迎えていた。柘榴の放った一手が心音へと見事に嵌ってしまったのだ。そのことに遅ればせながら気付いた心音は、顔を青褪めさせながら「し、白い悪魔……!」と震える声で呟いた。
「MG――通称『マニピュレート・ギア』です。機械のアームみたいなものですね」
「わ、私はその研究室がどんな研究をしているのか知らないけど、そのMGってイニシエーターの武器なの? 名前だけだとどんな装備なのかわからな……あっ、また怯んだ!」
「ずっと私のターン……すみませんが、心音はまだ新人なので研究の細部までの情報開示は許可されていません。まぁ、一部の特殊な訓練を施された『呪われた子供たち』にしか使えない特殊兵装だと考えてくだされば。個人的にですが、あれはロマン装備の一種ですね。ドリルや
和やかな会話に反し、対戦は一方的な展開になりつつあった。柘榴が放った“白い悪魔”によって、心音の手札はほぼ打ち倒されていた。もはや本格的になす術がない。
「加速バシャのバトンで悪魔の素早さを上げるなんてッ。そんなの狡いよ!」
「これも立派な戦術です。剣舞を積んでメガガルに繋げなかったのはハンデですよ? ……話を戻しますが、その装備は普通のイニシエーターが使うのならばデチューンが必至な代物です。オマケに性能がピーキー過ぎて対人戦にしか使えないという話までありますし。加えてまともに使いこなすには数年は訓練しなければならないという使いにくさ。量産という概念に喧嘩を売っていますね。会社的に欲しいのはザク的な商品であってギャンではないのですが、この会社の人はその辺をあえて無視するから困ります」
「ニンフィアちゃん、君に決めた! ……千崎技研って民警専用の武器屋だよね? なのにガストレアと戦えない装備なんて作ってもいいの?」
「社長が面白がって許可なさったのですから、どうなろうと割とどうでも良いというのが本音です。実際、人間や『呪われた子供たち』を
「また怯んだッ!? 嘘でしょ、これで11連続だよ! チート使ってるんじゃないの!?」
「繰り返し申し上げますが、これは立派な戦術です。……まぁ、MGとかBMIみたいな
柘榴がポソリと小さく呟く。
だが、画面を食い入るように見つめる心音の耳には届かなかったらしい。それを特に気にした様子もなく、柘榴は画面にタッチペンを走らせた。
「何はともあれ、あの子はそろそろ研究室に缶詰になるわけですから外泊届を忘れないように言っておかなければいけませんね。はい、トドメです」
「結局何もできずにやられたッ!」
呆然と画面を眺める心音。一方的な殺戮に開いた口が塞がっておらず、魂の抜けたような表情で脱力していた。流石に害悪戦術は卑劣だったかもしれないと柘榴は反省する。後悔はしていないが。
それにしても、世間話に花を咲かせながら昼間にゲームをするとは何と素晴らしいことなのだろうか。行きたくもない学校を寝て過ごすのよりも遥かに充実している。普段は仕事を躱すためだと割り切っているが、やはり学校など『呪われた子供たち』である自分には不要だと柘榴は改めて実感していた。偶の休みだからこそそう感じるのかもしれないが。
“学校といえば……”
ふと柘榴は、昨日まで居候していた家の少女のことを思い出していた。他ならぬ延珠である。
結局、延珠はあの後一人で里見家へと帰っていった。柘榴は付いていって一緒に謝ってやろうかと聞いたのだが、その辺りのけじめはキッチリしたいという延珠の言葉に頷かされたのだ。その後のメールで「凄く怒られたけど赦してもらえた!」と言われた時には安堵したものだ。
だが、柘榴の心配事はまだ続いていた。今朝方届いた蓮太郎からのメールによれば、延珠は今日改めて学校に登校していったらしい。蓮太郎はそのことに最後まで反対していたらしいが、延珠が意地でも学校に行くと言って聞かなかったため渋々ながら了承したのだとか。
“大丈夫……じゃないよなぁ、絶対”
これも延珠の言うけじめとやらのためなのだろうか。
延珠も既に学校に戻ることはできないということはわかっているのだろう。だが、恐らくあのまま逃げることだけは延珠には許容できなかったのだ。
しかしそのようなことは学校側からすれば与り知らぬこと。恐らくは登校するなり学校中から袋叩きに遭っているに違いない。状況を聞くまでもなく、延珠が寄って集って暴言の雨に打たれている姿が柘榴の目には浮かんでいた。
“本当に不器用な生き方をする”
時間帯から察するに、そろそろ延珠は最後の授業を終えている頃だろう。これを最後に学校そのものに通うことをやめてしまうのか、あるいは他の学校を見つけて学生を続けるのかは柘榴も知らない。しかしどうなるにせよ、延珠や蓮太郎が必要以上に今回のことを気に病まないといいのだが。
何はともあれ、ゲームをしながら他人の状況を鑑みることができる程度には柘榴は平和を堪能していた。
予定ではこの後、柘榴は昼寝をして英気を養う予定だ。その後は適当に訓練で身体を動かし、軽く装備の点検をしてから夕方のアニメを観る。それから夕飯を食べ、また軽く訓練。そして就寝前に軽くポ◯モンの厳選作業をしながら深夜アニメに洒落込む。就寝は2時過ぎだろう。
一部の隙もない柘榴流のリア充生活だった。そしてその生活を、柘榴は今まさに謳歌している。これほどに幸せなことはない。そしてこの幸せな平和が終わらないことを、柘榴は心から願っていた。
――だがその平和は、砂上の楼閣のごとく脆く儚いものでしかなかった。
平時ならば眠っているはずの仕事用の携帯電話が、細かな振動と共に無機質な着信音を奏で始める。ゲームを軽快に操作していた柘榴の手がピタリと止まり、執務室から柘榴と心音の会話が消え去った。残るのは無情にも鳴り響く着信音と平和の残響であるゲームの軽快なBGMだけだ。
無言で視線を交錯させた柘榴と心音。完全に無色透明な“無”を瞳に宿す柘榴に対し心音は心から気の毒そうな視線を向けたが、やがてそれに耐えられなくなったのか気まずげに目を逸らした。
「…………ちょっと行ってきます」
「い、行ってらっしゃ~い。気を付けて~……」
携帯電話を耳に押し当てながら席を立つ柘榴に、心音は懐から取り出したハンカチをヒラヒラと振る。
部屋を足早に去っていく柘榴の瞳は、さながらテレビを付けた瞬間にサザエさんのEDが目に飛び込んできてしまった学生のように濁っていたという。心音にできたことは、そんな彼女の煤けた背中を温かく見守ることだけだった。
◆
“32区”――柘榴に飛び込んできたのは件のガストレアの確定的な所在だった。
千崎が入手した情報によると、つい先程蜘蛛型ガストレアと思われる巨大生物の目撃情報が警察に寄せられたらしい。その情報は即座に民警のもつ独自のネットワークに投下され、それに飛び付いた民警たちは一斉に32区へと殺到することとなった。
無論、柘榴も例外ではない。報せを受けた柘榴は千崎の命令を受けるまでもなく現場へと急行していた。その道すがら、法定速度を軽く無視して走行する社用車の中で戦衣装と武器を身に纏った柘榴は情報を整理する。
“空を飛ぶ……ねぇ”
そう、何と警察に届けられた情報によると件のガストレアは“飛行能力”を持つらしい。
その情報を聞いた柘榴が思い浮かべたのは、糸をタンポポの種子のようにして空中へと飛翔するバルーニングと呼ばれる蜘蛛の生態だった。日本では雪迎えという洒落た名前が付けられる程度には有名な生態である。いつだかNHKの番組で観た覚えがあった。
しかしいかに主としてオリジナルの生物よりも進化したガストレアとはいえ、巨大化したその身体で果たして風如きで空中へと舞い上がることができるのだろうかという当然の疑問に柘榴は首を傾げる。常識的に考えれば無理なのだろうが、現に空中を移動しているという目撃情報が出ているのだ。つくづくガストレアという生物は人間の築いてきた常識を容易く覆してくる。ガストレアという生物の能力には柘榴としても呆れるばかりだった。
――もしも蓮太郎や弓月などの柘榴を知る者がここにいれば確実にこう言うだろうが。「お前が言うな」と。
32区に到着した柘榴は作戦と呼べるほどの案を用意することもなく、社用車から雨でぬかるむ大地へと降り立つ。車外に出た瞬間に豪雨が柘榴を襲い、ただでさえ動きにくいゴシックロリータが重みを増すことでさらに拘束力を強めている。本当に不快な衣装だった。
雨の中、その姿を現した柘榴の姿は異様の一言だった。普段通りのフリルが満載のゴシックロリータを纏いながら、右手には身の丈を越える黒い半月斧が分厚い刃を鈍く輝かせている。そして左手に携えられているのは、これもまた柘榴の身長を越える巨大な六角形の黒く厚い防盾。袖口から覗く手は黒いガントレットによって覆い隠されており、柘榴が露出している肌は顔の周辺だけだ。
バラニウムとゴシックロリータによって漆黒の重装に包まれた柘榴は、まさに闇を纏っているかのようだった。
これこそが柘榴にとっての完全武装だ。今回の出動に当たり、柘榴が影胤と小比奈を確実に葬らんと用意した装備たちだ。もはやここまでの装備を持ち出した以上、仕事を別にして柘榴はプライドにかけて影胤と小比奈を打倒しなければならなかった。というよりも、これで斃せなかったら普通に自信をなくす。その本気を表すように柘榴の瞳は既に赤く染まっていた。
“空中が相手ということは遠距離戦……
“
何せ柘榴は、最悪件のガストレアを討伐しなくとも良いのだ。忘れてはいけないのが、柘榴にとってこの依頼の最終目的は“蛭子影胤の生け捕り、または死体の回収”だということである。万が一柘榴がガストレアを討伐できなくとも、それを目印に寄ってきた影胤を狩れば柘榴の仕事は晴れて終了だ。ガストレアは片手間に葬るか、あるいは他の民警に譲ってしまっても何ら問題ない。ケースの回収も欲を言えば達成したかったが、他の民警を押し退けてまですることでもなかった。
よって柘榴が今からクリアしなければならない最低条件は、影胤よりも先にガストレアを発見することだ。柘榴が影胤を見つけるより先に彼がケースを回収して32区から撤収してしまった、などという間抜けな事態だけは防がなければならなかった。
そしてあえて補足するのならば、柘榴がその気になれば本当に石を投げるだけでもガストレアを殺すことが容易であることもこの粗末な作戦の一助となっていた。
“とはいえ、どうやってガストレアを見つければ”
問題はそこだった。飛行能力の最も優れた点はその機動力にある。
32区は外周区に相当する地域であるため地上には廃墟や無造作に生える木々などが溢れ返っている。だが飛行能力によってそれらの障害物をほぼ気にすることなく移動できるということは、その分だけ移動範囲が
目撃情報があった場所は当然ながら柘榴も把握しているが、そこからどれほどガストレアが移動しているのかは想像もできない。雨が降っていることで視界も良くないため、木の上から探すことも難しいだろう。
“地道に足で探すしかないか”
そう柘榴は考え、とにかく足を動かさねばと森に成り果てた嘗ての街へと踏み込む。影胤やガストレアの僅かな痕跡すら逃すまいと神経を張り巡らせ、柘榴は慎重かつ迅速に探索を開始した。
だが、柘榴はそう時間をかけずに思わぬ収穫を得ることとなる。視界が木々と草に覆われた柘榴の下へと、幸運の兎が向こうから飛び込んできたのだ。
最初に捉えたのは音だった。草木を掻き分けて進む音と、それに混じる水溜りを蹴る音。柘榴は足を止めて視線をそちらへ送ると、偶然なのかそうでないのか音はまっすぐに柘榴のいる方へと向かってきているようだった。
さては影胤たちかと警戒した柘榴は反射的に半月斧と盾を構えたが、しかし姿を現したのは柘榴の良く知る人物だった。
「延珠さん?」
「ッ、柘榴か!」
木を避けるように飛び出してきたのは、雨で全身を濡らす延珠だった。服には所々に泥が付いており、余程急いでいたことが察せられる。どうやら彼女の方が柘榴よりも一足早くこの場に来ていたらしい。
だが、ここに来て柘榴は気付く。延珠がいるというのに蓮太郎の姿がどこにも見えないのだ。
「えん――」
「柘榴、助けて! ガストレアを斃したと思ったらあいつが来て、このままだと蓮太郎がッ、蓮太郎が死んじゃう!」
「……!」
泣き叫ぶような延珠の言葉は支離滅裂でまともに舌が回っていなかったが、柘榴は瞬時に大まかな事情を把握していた。
“ガストレアを斃した”と、延珠はそう言った。それは即ち、延珠たちは一度ケースを手にしたということになる。そして恐らくは影胤にそこを強襲され、状況の不利を悟った蓮太郎が延珠を逃がそうとその場に残ったのだろう。
この時、柘榴は悟った。もはや自分には、一刻の猶予すらも残されていないということを。
“ケースがもう蛭子影胤に奪われている!?”
柘榴の思考が加速する。彼女の思考の巡りは、蓮太郎の安否よりもケースが既に敵の手に渡っているかもしれないということを真っ先に警戒していた。
無論、柘榴にも蓮太郎への心配はある。しかし千崎技研のイニシエーターとして意識を切り替えていた柘榴の思考は、当たり前のように己の任務と蓮太郎の生命との優先度を刹那の間に決定した。
冷酷と誰もが思うだろう。しかし柘榴は二つの理由からこの優先度を判断している。
一つは、“ケースの中身が東京エリアの存亡に関わるものである”という情報だ。蓮太郎が死のうと所詮は命が一つ潰えるだけで済むが、ケースの行方は東京エリアの全人類を殺す。比較のしようがない。
そしてもう一つが、“蓮太郎が死にかけているだろうから”という理由だった。延珠の話を聞く限り、蓮太郎の生存は絶望的だ。ならば少しでも助かる確率を上げようと考えるのが普通の人間だが、柘榴は逆にこう思ってさえいた。
“助けても生き残るかわからない命を助けるなんて……不毛”
極めて冷酷ながら、そのようなことに意識を向けるくらいならばその余力を費やしてケースを奪還するべきである、と柘榴は考えたのだ。
断っておきたいのは、これは柘榴が極限状態で下した咄嗟の判断だったということである。ここまで極端な思考回路を普段から彼女が持ち合わせているわけではない。
しかし非常事態にこそ人はその本質を表す。この判断から柘榴についてわかることは、彼女はどうしようもなく“社畜”だったということだろう。つまるところ柘榴の社畜根性が、人間としての道徳よりも己の任務を遂行する義務感を躊躇なく彼女に選ばせていたということになるのだから。
「どっちですか?」
「えっ?」
「ですから、蛭子影胤がいるのはどの方向なのかと聞いているのです」
詰問するように柘榴の語尾が強くなる。
柘榴の心中を過ったのは不安と焦燥だった。ゆっくりしている時間はない。これ以上は僅かでも遅れれば、影胤を逃がしてしまうかもしれない。
普段とは様子の違う柘榴に思わず言葉を詰まらせた延珠だったが、やがて恐る恐るととある方向を指差した。その方向を視線に収めるや否や、柘榴は左手の盾を前方に突き出す。その行動の意味を量りかねた延珠が訝しげに柘榴を見やるが、もはや柘榴の目は延珠を映していなかった。
“
次の瞬間、柘榴の姿は延珠の視界から消えていた。それに遅れ、柘榴がいた地点が爆音をあげながら陥没する。
舞い上げられた泥と雨粒を頭から被ることとなった延珠を置き去りに、柘榴はその圧倒的な脚力による爆走を開始していた。面積の広い盾が空気抵抗を諸に受けるが、それらは膂力と脚力で無理やり抑え込む。一歩ごとに足場の地面が粉砕されていくその様は、まさに爆走という言葉が相応しい。
だが、そんな柘榴の行く手を遮る存在が現れる。言わずもがな32区に生息する草木たちだ。鬱蒼と生い茂る木々たちは異常成長によって通常の木々よりも遥かに太く重厚で、背の高い草々はただ立っているだけで視界を遮ってくる。まさにこれらは、通行人たちの進行を妨害する天然の障害物となっていた。
まず最初に立ちはだかったのは、大の大人が三人がかりで両手を広げようと抱えきれないであろう太さの大樹。意志を持つはずもない立ちはだかる障害物は、しかし言葉などなくともその存在そのものによって柘榴に道を逸れることを強要していた。
だが、“眼前に木があれば避けて通る”という世界の常識――その常識に律儀なまでに従ったばかりに大樹の命は潰えることとなる。
“邪魔ッ”
轟音に森が震えた。
それはまさに一瞬だった。漆黒の盾を携えた柘榴が地面を蹴って走り去るという、たったそれだけの行動。その跡に残されたのは爆散するような断面を残した何かの残骸だった。それを一瞥すらすることなく去っていく柘榴の背後に、大小様々な大きさの破片と吹き飛ばされた大樹の幹が骸を晒す。
何が起こったのか、もしも大樹に意識があったのならばそれを最期の瞬間まで理解できなかったに違いない。まさか自分が小さな少女によって力任せに
――今や柘榴の前進は森にとっての鏖殺と同義だった。
盾を前面に構えて爆走する柘榴によって罪のない草木が次々と撥ねられていく。木々は盾によって根元から弾き飛ばされ、草々は地面ごと踏み抉られた。植物たちの断末魔が森に断続的に谺し、理不尽な破壊の嵐が森を駆けていく。
柘榴がただ進むだけで森が死ぬ。草木が殺され、その死骸によって築かれた街道が森に敷かれていく。しかしそのようなことなどまるで意に介さない柘榴は、延珠が指差した方向へと愚直なまでにまっすぐ進んでいた。
“間に合え、間に合えっ、間に合えッ!”
心中に浮かぶのはそのことだけだった。その一念だけが柘榴の身体を突き動かす。もはや他のことなど柘榴の頭の中には残っていなかった。
そうして走ること数十秒。ついに柘榴の視界が開ける。
まず視界に飛び込んできたのは特徴的なワインレッドの燕尾服。次いでシルクハット、そしてその下に浮かび上がる白貌の仮面。左手には依頼にあったジュラルミンケースが握られている。森を薙ぎ倒しながら現れた柘榴へと驚いたように振り返った影胤を、血のように赤い双眸が捉えた。
「君は……!」
「ようやく見つけましたよ」
ぬかるむ地面を削り飛ばしながら制動をかけた柘榴は、数メートル以上をかけて慣性を殺した。
探し求めていた怨敵とようやく再開したことで、柘榴の目が刃のように鋭さを増す。
「……少し長居し過ぎたようだね。怖い子に見つかってしまった」
「パパっ、パパっ! 柘榴が来たよ! 斬っていいよね!?」
影胤が肩を竦める一方、その表情を喜色に染める者がいた。口の両端を吊り上げた小比奈が興奮を隠すこともなく二刀の小太刀を構える。その刀身は雨に打たれながらも血が滴り落ちており、たった今誰かの生き血を啜ったことを示していた。
「柘榴、蓮太郎はッ!」
その時、柘榴の切り開いた道から延珠が飛び出してきた。小比奈がさらに喜色を強めるのを尻目に、柘榴の隣に並んだ延珠は頻りに周囲へと視線を走らせる。しかし蓮太郎の姿は一向に見つからず、その瞳から零れてしまうのではないかというほどに不安が浮かんでいた。
「貴様ら、蓮太郎をどこにやった! 返答によってはただでは済まさんぞ!」
怒声をあげて敵意を剥き出しにする延珠に対し、影胤は右手の親指で背後を指し示した。しかしそこには蓮太郎の姿などなく、ただ豪雨によって増水した河川が荒れ狂っているだけだった。
延珠の顔面が蒼白になり、柘榴は僅かに眉を顰める。
「ま、まさか……」
「始末させてもらった。たった今ね」
無情にも影胤に告げられた蓮太郎の死。
延珠は赤い瞳を見開き、声もなく唇を震わせる。
「…………う、嘘だ……そんなのは嘘だ……!」
「本当だよ? あいつも馬鹿だよね、弱いゴミのくせに頑張っちゃってさぁ。うふふ……だからね、パパと私で綺麗に掃除してあげたの」
小比奈の口角が吊り上がり、まるで三日月のような弧を口元で描く。刀身に僅かに残った血は紛れもない殺人の痕跡だった。延珠は一撃たりとも小比奈からの斬撃を食らっていない。ならばあの血が誰のものかなどということは明白だ。
突き付けられた現実に、延珠は膝から崩れ落ちていた。瞳は不安から絶望に色を変え、完全に戦意を失ったのか瞳は元の色彩に戻っている。もはや延珠に戦う気力が残されていないことは明白だった。
「そんな……蓮太郎が、そんな……」
「……延珠?」
俯く延珠を見つめる小比奈の表情が陰る。彼女が抱いた感情は、途轍もないほどの失望だった。
プロモーターが殺されたことで、延珠が怒りに任せて襲い掛かってくることを小比奈は期待していたのだ。だというのに蓋を開けてみればこれだ。臨戦態勢で延珠の反応を待ち受けていただけに、肩透かしを食らったことで湧き上がる失望も相応のものだった。
しかし空腹が料理にとって極上のスパイスとなるように、その失望は小比奈に大きな喜びを齎す布石となる。
「延珠さん、危険です。戦う意思がないのならば下がっていてください」
崩れ落ちた延珠の前へと、
「あはっ、柘榴は何ともないんだね。良かったぁ。延珠にはガッカリさせられちゃったから、柘榴はちゃんと斬り合おう?」
「相変わらずですね、あなたは。こんな土砂降りの中でも平常運転なのは逆に羨ましいほどですよ」
四つの赤い瞳が交錯する。狂喜と冷徹という正反対の色を持ったそれらの瞳に共通しているのは、眼前の敵を殺し潰さんという溢れんばかりの殺意だった。
少女たちの放つ圧倒的な殺気に圧され、機械化兵士であり歴戦の戦士である影胤すらも迂闊に身動きを取れないでいた。柘榴は視線こそ影胤に向けていないものの、明らかに影胤を視界の内から捉えて離さなかった。娘共々、この場から逃がすつもりはないのだろう。
“困ったことになった。他の民警に合流されると面倒……などと言っている場合ではないな。最悪だ。色々な意味で彼女にだけは会いたくなかったのだが”
影胤が懸念するのは物理的な危険だけではない。小比奈の狂乱によって、脱出の期を失うことを恐れてもいた。
小比奈と柘榴が戦ってしまえば、恐らく己の愚かな娘は殺すか殺されるかに至るまで止まることはないだろうということを影胤は理解していた。貴重な戦力である娘を置き去りにするという選択肢をなるべく採りたくない影胤としては、自然と柘榴と応戦するという選択肢しか残されていない。
“里見くんを始末してしまったのは失策だったかもしれん。彼を人質にすれば、あるいは戦局を有利に勧められたかもしれなかったというのに”
己の選択を軽く後悔する影胤。しかし即座に邪念として頭から捨て去る。過ぎたことを気にするには、怪物が目の前に立ちはだかるこの状況は余裕がなさすぎた。
仮面の内を水が伝う。それは果たして雨なのか汗なのかは影胤にもわからない。深く帽子を被り直した影胤は左手のケースを改めて握り直すと、油断なく
三者から膨れ上がる殺気に森が怯え、柘榴の鏖殺によってざわめいていた生物たちが一斉に声を潜める。ここは既に戦場だった。
だからこそ、戦意を失った延珠の存在は場違いでしかなかった。萎えた手足では小比奈の一太刀すらも防げまい。
確かにプロモーターの死亡を聞けば衝撃を受けるのは当然だ。絶望に膝をつくのは、それほどの信頼が両者の間に存在していた証である。大切な相棒を失った悲しみは柘榴の想像を絶するものなのだろう。
だが柘榴は、いかに延珠と言えども戦意のない者を庇って共倒れすることは御免だった。
「延珠さん、いい加減に立ってください。ハッキリ言って邪魔です。戦うか退くか決めてください、今すぐに」
「………………」
重苦しい無言。未だに延珠は立ち上がろうとしない。
この延珠の煮え切らない行動に、柘榴は明確に怒りを感じていた。本当に邪魔だった。
こうして小比奈たちと睨み合っているだけでも危険だというのに、荷物を抱えたまま戦闘に突入すれば間違いなく動きを阻害されてしまう。柘榴はそのようなハンデを背負ってまで小比奈たちを斃せると思うほど楽天的ではない。
“……捨てるか”
柘榴の冷徹な部分が囁く――“逆に考えるんだ、『死んじゃってもいいさ』と考えるんだ”と。もはや小比奈の殺意は爆発する寸前だ。最も手っ取り早く安全な手段はこれだろう。もしかすると影胤や小比奈の意識を僅かにでも逸らす囮にすることもできるかもしれない、などという血も涙もない考えすら浮かんでくる。
だが、柘榴の良心はその選択を良しとしていなかった。この場で柘榴に残された最後の道徳観念が、流石にそれはどうかと行動を踏み止まらせていたのだ。
氷のような理性と僅かに残された良心の葛藤に苦心していた柘榴だったが、その一方で戦場の空気が張り詰めていくのを感じ取っていた。もう数秒の間もなく、痺れを切らした小比奈が襲い掛かってくる。
“もう時間がない。そして延珠さんは動かない。でも敵は殺る気満々。この状況で延珠さんの安全を確保しつつ、あの二人を始末するには……”
迫り来る戦闘の気配に、残った良心が理性によって強制的に掻き消されていく。
どこまでも冷徹に、機械的に、無機質に、無感情に、まるで本物の人形のように思考が書き換わっていく。これが柘榴の戦闘態勢だった。千崎技研のイニシエーターとして、あるいはそれ以前から柘榴が持つ独自の戦闘の精神だった。
狂喜に燃え上がる小比奈。冷徹に凍りついていく柘榴。
翼のように広げられた二刀の小太刀。前方に突き出される盾と後方に構えられる半月斧。
対照的な超人の少女たちの開戦を、機械化兵士は息を呑んで待ち構える。そして――
“――動くッ”
三者が同時に動き始める。
次の瞬間、影胤のサイケデリック・ゴスペルがフルオートで弾丸を吐き出していた。
小比奈が土砂降りのカーテンを引き裂き迫っていた。
そして柘榴は――
「……延珠さん、歯を食い縛ってください」
振り向き様、延珠の胸元を盛大に蹴り飛ばしていた。
予期せぬ一撃に少女の小さな身体は簡単に浮かび上がり、呼吸を寸断されたことで悲鳴もなく吹き飛ばされていく。適当に蹴り飛ばしたため延珠の胸骨を折ってしまったかもしれないが、その程度の怪我で小比奈たちから引き離せたのならば上出来だろう。
――柘榴が見送ったのはここまでだった。
来襲する嵐のような弾雨と二刀を携えた餓鬼。それらの脅威を前に、柘榴の思考が完全に戦闘へと切り替わったのだ。
延珠の安全を確保するために、序列元134位を相手に命懸けで先手を譲る――これが柘榴が弾き出した答えだった。柘榴にとっての最大の妥協だった。一歩間違えればいきなり命を落としかねない最悪手を、柘榴は延珠のために選んだのだ。
だが、柘榴は気付いていない。もしも背後にいたのが延珠でなく他の者だったのならば、彼女は容赦なく“見捨てる”という選択肢を選んでいただろうということに。
「コロスころす殺ォすッ!!」
雄叫びをあげる小比奈と亜音速で襲い来る銃弾を、柘榴は無言で睨む。
戦いが始まった。
次回は戦闘回だッ!
感想などお待ちしています。
更新ペースも話のペースも遅くてすみません。原作二巻からは少し話のペースを上げていきたいと思っています。更新ペースはちょっと無理かも……